自分自身のままならなさに焦点を当てた話。
自分観察記と境界が曖昧だが自分の要素に対して「対処」を考えるか否かで分けているつもり。
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忘却に伴う恐怖/私が欲しい第二の脳
「記憶は薄れてしまう」ということを私はかなり恐ろしく思っている。
それは「全てのものを全て覚えておきたい」ということとはちょっと違っている。自分が例えば砂粒の集合のようにできていたとして、自分でも気づかぬ間にさらさらと砂粒が流れ出し、いつの間にか自分の一部が欠けている――そういうことに恐怖を感じているのだ。
その感覚には少なくとも二つのことが関係している。
まず「忘却への備えが下手」ということがある。恐れている割に、この半生のかなりの部分でうまく記録をつけられなかった。若い頃はそもそも記録をつけていなかったし、大人になってからは飽きとか際限のない「よりよい形式探し」によって記録が分散して、結局振り返りができないということになっていた。
今起きたこと、今感じたことを、今大切にする。その習慣がなかなか身につかなかった。見たり聞いたり、そしてそれに何かを感じたりしただけで恒久的に自分の一部になった気がして、それをちょっと立ち止まって愛でるということをしないで次に行ってしまうから、気づいた時にはせっかく自分の一部になったものが失われているということになる。
あるいは、記録をつけ始めても、将来振り返りやすい形式みたいなことを小賢しく考えてしまって、結局今今それを大切にするための記録にはなっていないということが続いていた。だから平気で形式を二転三転させ、「より劣った形式」でつけた記録は蔑ろにしてしまう。
そうなると、記録をつけてはいても結局自分の頭頼みになり、忘却が恐ろしいという状態を全然解決できない。
忘却への備えの問題の他にもうひとつ、「何かを感じたということが自分にとってものすごく重要である」ということがある。
何かを感じて、それによって自分が出来ていると思っているから、後から忘却に気づいた時に巨大な喪失感に襲われることになる。「感じ直す」ことはもうできないわけだから、二度と取り戻せないのは確実であり、その取り返しのつかなさに絶望的な気分になるのである。
で、その「感じた」というのは言葉にするのが難しい。記録の時点で正確に書き表すことは到底できないことが明らかだ。あまりにも大変な感じがしてしまうので記録を諦めてしまうということが子どもの頃に起きていたのだが、そうして何も残さないと綺麗さっぱり丸ごとなくなってしまうおそれがある。100%再現できる記録はできなくとも、1%でも書いておけばそこまでの喪失にはならなかったはずだが、そういうことは若い頃にはわからなかった。
なにしろ、「何かを感じる」ということはひっきりなしに起こるのだ。ひとつひとつはそこまで特別なものには感じない。立ち止まって格闘している暇があったら次の「感じる」に移った方がいい。そもそも上述したように「感じたものはちゃんと自分に刻まれる」と思い込んでいた。そうやってパックマンのごとく動き回って「感じる」を続け、そうしてそれらがさらさらと呆気なく零れ落ちていることに後から気づいて困ったことになっているのである。
もちろん、忘却によって失われたものがあるとしても、過去に発生した「感じる」は確実に今に繋がっている。具体的に何を感じたのかは忘れても、何かを感じるということを重要なものに位置づけ続けてきたということは確かに自分を形作っていて、だから今こうして「自分が感じたこと」を仔細に書き表すことで文章をつくることができている。
とはいえ、やはり忘れるに任せていては不安だし、自分の一部が失われていくのはあまりにももったいない。
今世の中には忘却に備えるためのツールやメソッドというのがたくさんある。「第二の脳」というフレーズもしばしば聞く。その場合の「脳」にどういう「脳らしさ」を期待するかというのは自明ではないと思うけれども、今私が欲しているのは「忘却によって自分が欠けていくことを防ぐもの」なので、忘却する自分の脳をサポートして一緒に記憶してくれるものとしての「第二の脳」を考えたいと思う。
情報を無限に入れられて、そしてそれが勝手に消えないというツールはたくさん生まれている。紙のノートも、捨てたり焼失したりしない限りはずっと残しておけるものだし、日記をつけるのがうまい人はもうそれで私が抱えているような問題はほとんど解決していると思う。
昨今は言うまでもなくデジタルノートツールの隆盛が目立つ。紙のノートは「記録」に特化しているが、デジタルツールだと「ある括りによってまとめて取り出す」というようなことが可能になる。より「脳」的であると言える。何かを思い出す時、脳は関連したものを一緒にイメージすることができるわけで、それとある程度似たことを再現してくれることになる。もちろんキーワードによって捜索するということ自体、紙のノートにはない「脳」っぽさがある。
一口にデジタルノートツールと言っても、情報をどう保管しそれぞれにどういうフックを付けるかというのはそれぞれ異なっている。どれかの場所に必ず属すフォルダ(あるいはツリー)形式、キーワードを好きなだけくっつけて串刺し検索を可能にするタグ形式、情報と情報をリンクで繋ぐネットワーク形式、平面上の位置に意味を持たせる付箋・マインドマップ・カンバン系の形式。他にもあるかもしれないし、ひとつのツールがそれらの形式を複数カバーしていることも多い。
これらの形式というのは、後から情報にアクセスする時の辿りやすさを左右する。
種別が明らかで混在の可能性がないものならば、フォルダ形式が直感的かつ「必ず辿り着ける」ものだろう。どこかには属しているわけだから、フォルダを開けていけばどこかでは見つかるはずである。一発で見つけられないとしても入っている候補のフォルダというのはある程度絞られるのだし、フォルダの粒度が大きすぎない限りは力技でどうにかできるという利点がある。この形式は「脳」らしくはない。いや、脳内でも情報をカテゴライズして認識している部分はあるので全く違うわけではないが、少なくとも脳内では「必ずここらへんに入っているから、探せば出てくる」ということにはならない。
何かに属しているとは限らない形、つまりネットワーク型ツールの多くは、情報の在り方がより実際の脳に近いように思える。キーワードが含まれさえすれば絶対取り出せるという意味では脳より強力だが、情報が大量になってくるとキーワードがわからなくなった時に取り出せる可能性がかなり薄くなる。タグ機能があるとしても、タグ付けが必須でない場合には自分の几帳面さにかかっていて、「ここさえ探せばいい」という安心感はやや得にくい。探すとなればフォルダ形式と違って捜索範囲が全体になってしまい、虱潰しに探すことは現実的でなくなる。脳のようにすっかり失われるということはないが、実質的に辿り着きにくくなるので忘却と似たことが起こる。実際の脳と似たライフサイクルになるわけで、それはとても自然な感じがすると同時に、脳と同じ欠点を一部引き継いでしまうということでもある。
こう書くとフォルダ形式の方が良いと言いたいのか、と思われそうだが、もしそうなら今ネットワーク形式がこんなに流行ってはいない。今話しているのはあくまで「忘却によって自分が欠けていく」という事態を防げるかどうかの観点で、日々の情報の取り扱いでのフォルダ形式の欠点とネットワーク形式の利点はよく指摘されている通りである。
さて抽象的に「情報」と言っているけれども、そもそもどんな情報を忘れたくないという話だったか。それは「何かを感じたということ」だ。それは自分の記憶が薄れて失われたらもう二度と取り戻せず、そして私にとってはそれが失われることが自分自身の一部を失うことと同じように思われるので、なんとか失わないようにしたいのだという話を前半でした。
そういう情報は、「まあなくなったらなくなったでいいや」式の管理とは相性が悪いであろうということがわかった。ガラクタ箱のように、何が入っているか忘れてしまっても箱を開けて漁れば「こんなのあったなあ」と言って全てを確認できる、そういう保管方法が良い。しかしモノではなく情報を扱い始めると、ガラクタ箱に溜めていたのとは比べ物にならない規模の内容量になってしまって、情報同士が埋もれさせあって振り返りが難しいということになりかねない。大きい箱ひとつではなく、何かしらの基準で分別した箱をいくつも用意した方がいい。そのような用途なら、フォルダ形式またはツリー形式のイメージの方がネットワーク形式より合っている。
自分以外のことはわからないので想像だが、多分「何かを感じたということ」を普通そんなには重要視しないのだと思う。今日明日の仕事には全然関係しないのだから当たり前のことだろう。「情報管理」の四文字で思い描く対象にそういうものは普通含まれない気がする。日記の話ではよく出てくる話であっても、それについて「情報」という言い方はしない。
しかしながら、私はそういったものを「自分の人生上に生じたもの」としてある種「モノ」的に扱いたいという思いがあり、そうなると情報管理の手法を使って記録・保管したい。そういう発想で情報管理を考えると、それはタスク管理とも個人情報管理とも知識管理ともアイデア管理とも違った領域の話になるような気がする。
ここ数ヶ月ずっとCapacitiesの話をしているが、私の中にある「オブジェクト感」というのは、こういった前提があってのものだ(ということにここまで書いてきて気がついた)。この感覚にぴたりと填まるツールがそれ以前になかった。Capacitiesと出合ったことで、Capacitiesになぜ納得できるのか、他のツールのどこが引っ掛かっていたのかを考えられるようになった。
自分の脳だけでは情報を扱いきれないというのは現代人共通の悩みで、それに対処するために「第二の脳」となってくれるツールを皆欲している。しかしその理想の形というのは各々でおそらく驚くほどバラバラなのだと思う。TPO次第でその時必要な形が違ってくるということもあるだろう。私自身Capacitiesで全てをカバーしているわけではない。
だから、「第二の脳」として相応しいツールは何か、というより、「私が欲しい第二の脳」とはどういう形をしているのか、ということを真剣に考えることが情報管理に於いては重要だろうと思う。
飽きたら別のことをやる、を高速回転させて生きる
私は極度に飽き性だということを何度か書いている(はず)。
全く変化のない単純作業はやっていられないし[1]、同じツールを使い続けられないし、同じ本を何十頁も続けて読めない。基本的に「こつこつやる」ということが苦手で、色々なものをちょっとずつやってじわじわステップアップしている人を本当に尊敬している。
と、長らく思っていたが、ふと気がついた。飽き性だから一つのことを続けていられず、すぐ他のことを始めてしまう――それは結局、色々なことをちょっとずつやっていることになるのではないか?
結果として継続しているということ
こつこつやるというのは「ちょっとずつやる、を継続する」ということだと思うので「継続する」が難しい自分にはかなりつらい。いや、正確には「継続しようとする」だ。「継続しようとする」ということは考えただけで「無理!」という気分になる。[2]
しかし、結果として継続していることなら実際はいくらでもある。例えばブログもこうやって書き続けている。でも毎日○字書こうとか○日に一本投稿しようとか言い出すともう駄目である。某投稿サイトの「○日連続投稿おめでとう」みたいな表示は心底余計に感じる。
極度の飽き性の人間はたぶん一日当たりの作業量を事前に意識してはならない。それは作業量の多寡とは関係ない話で、「毎日たったこれだけ」みたいな計算は慰めになるどころかむしろ邪魔なのである。
実際何をどの程度やれるのか
毎日これらをこれだけやれば○日後にはこんな量に、という見積もりは挫折の入り口なので避けるとして、しかし完全に無計画に生きていると結局何も進まないということになりかねない。
作業量の目標を設定するのが難しいとなれば、できることは何か。それは実際に毎日どれだけの労力を使うことができて、それをなるべく多く使った時に何がどの程度できるのかを把握することだろう。つまり、なるべく多くの時間で何でもいいから何かをやる、そうした場合に自分のパフォーマンスはどのくらいになりうるのかということだ。
そうすると、とりあえずその見積もり以上の作業量は実現できないことがわかる。逆に、飽きてあれこれ別なことに手を付けたとしても、それをトータルすればそのくらいの作業量にはなるはずであることもわかる。飽きて他のものに移るということをすると、それぞれ目標に定めた量に到達しないでやめてしまうことになる場合が多いので、結局どれも何にも進んでいないという感覚になるのだが、実際にはゼロではない。集中力を欠いて実質何もできていないという時間で埋まらない限り、前には進んでいるはずなのである。
実質何もできていない時間
飽き性にとって恐ろしいのはこの「実質何もできていない」時間の発生だ。無理に目標を達成しようとすると最後の方はこういう感じになってくる。あとちょっとだからと思って頑張るが、効率は大きく落ちるし、やり終えた後は気力が尽きていて他のものには移れない。よって目標を達成することより、「実質何もできていない」時間をゼロにすることを目指した方が良いだろう。
そして「実質何もできていない」時間がほとんどなかったなら、何をどういうふうにやっていたにしろ、その日自分にできるベストは尽くせたということだ。なるべくベストを尽くして日々を過ごして、それでも結果が思わしくないなら、それ以上「足す」ことはできないことがわかっているわけなので、内容の適切な配分を考えることになる。
配分をぬるっとコントロールする
で、ここで「じゃあ何曜日は何を何分やって……」とやりだすと駄目なのは最初に書いた通りである。もっとぬるっとした対処が必要になる。何かをやっていて飽きて他のものに移るという時に、頻度を増やしたいものに移りやすくなるように整えておくのだ。例えば作業に必要なページをさっと開きやすくするとか。
「これをやれ」感が出てくると嫌になってくるので、「これもあるよ」くらいのメッセージがあるとよい。掃除をしたいなら掃除用具を出して見えるところに置いておく。やろうかなとなってから準備するとその間に飽きるおそれがあるので、やろうかなの瞬間にすぐ着手できるようにする。準備作業自体は何にも集中できないようなタイミングに思いついた分だけやる。頭を使わなくていいからである。
飽きていいから立ち止まらない
とにかく立ち止まらないこと、飽きによってエネルギーを失わないことが重要だろう。やることの候補をぐるぐると巡り続けること。後回しにしてはならないものを後回しにしない工夫はもちろん必要だが、基本的に「気が向く」ということに素直に従って他のものに移ることを自分に許す。移った先でも飽きるのだからどうせまた戻ってくるのである。
頑張りすぎると「今日はもうこれについてはおしまい!」という気分になってしまうのだが、それが今日取り組むべき量として十分な量に達していないと当然負債が溜まってくる。しかし頑張りすぎなければ一日に何周かしてそのことに取り組める可能性がある。つまり一度に80%なら二周目にはいかないが33%なら三周できるかもしれないのである。
ひとつひとつ順番に着実に片付けていくという美徳に馬鹿正直に囚われない。ぐるぐると高速巡回して、完了に至ったものを順番に並べていけば、実情を知らない人間からすると恰もそれらをひとつひとつ片付けたように見えるだろうし、実情はどうでもいいのだ。
こういうふうに書くと、既に自分の性質とうまく付き合えているかのようだが、全然そんなことはない。ただうまくいっている時というのは確かにあるので、その時にどうなっているかを言い表してみようと思って書いたのがこれで、どちらかというと「こうしたらいいってことなんじゃないの」と自分に提案するための記事である。実際、最近はちょっとうまくいっているなと感じてはいる。
「使っていない」と書くと使うようになる
ずっと前から恒例のことなのだが、何かのツールについて「使っていない」と書くと間もなく使い始め、「使っている」と書くと使わなくなっていく。
なのでつい先日書いた ノートツール環境スナップショット(2023/09) の状況から既に変わりつつある。
具体的には、Dynalistをあまり使っていないと書いたのでDynalistが復活し、逆にNotionとOneNoteは開く頻度がやや低下している。(他のアプリケーションは状態を維持。)
Notionでやろうとしていたことの一部がDynalistに移動し、OneNoteでやろうとしていたことはTextManager(自作ツール)に移りつつある。
天の邪鬼?
自分はどうしても自分の決めたことと逆を行きたいらしい――というのはおそらく間違った解釈である。私はなんて天の邪鬼なんだ!とか思っていないで、何が起きているのかを淡々と見つめることにする。
自分の脳は別に「逆」をやりたいわけではないと思う。じゃあ何なのかと言うと、たぶん、単に新たな道を見出そうとしているだけなのだ。
「道を見出していない」と思うと、「いや、実は道はあるんじゃないか」と考え始める。逆に「道を見出した」と思うと、安心してそれを「済んだこと」にしてしまい、別のことを考え始めてしまうのである。
血流
自分が何に対してどの程度活発に思考を巡らすかというのを、私は日頃「血流」でたとえて考えている。放っておくと血流は滞っていくが、「使えていない」とか「考えたことがない」といった自覚を持つとそこに血が巡りだす。
すると、ついさっきまで何も思いついていなかったのに、急にアイデアが浮かんだりする。新しいアイデアというのはとても良いものに思えるので、じゃあ試してみようとなる。そうしてあっちにふらふら、こっちにふらふらということになっていく。
血流は常に全体に全力で巡らせられるわけではないので、どこかが活性化すればどこかが停滞する。新しい領域あるいは滞っていた領域にどわーっと流れ込む時、その直前まで血流が豊かだったところの流量が減じてしまう場合がある。血流を滞らせてはならないと感じている箇所は減らないが、瞬間的にわーっと活発になったようなところは引く時もあっという間である。
振り回される度合いの変化
この性質は困ったものだし、ずっと振り回され続けているのだが、しかし現在の状況については冒頭で丸括弧内に補足した「他のアプリケーションは状態を維持」の部分が重要だ。昔はメインで使っているツールごとあっちこっちにふらふらしていたから本当にその後が大変になったが、今は不動の領域があるので混乱は少なく済んでいる。
ツールのことも自分のことも全然わからなかった若かりし頃は、誰かが何か言ったり自分が何かに気づいたりする度にわーっと右に揺れ左に揺れを繰り返した。まあ多分、仕方のないことだったのだと思う。
今不動だと思っているものがいつふらっと揺れるかはわからないが、前よりは「揺れた後」のことを考えるようになったので、その意味でも安定はしてきているとは思う。
色々と悟ることによって、振れ幅が大勢に影響のない範囲に収まり、ただ新たな道の模索を楽しむ趣味として落ち着いていけばいいと思う。
フラッシュバックする黒歴史の扉を閉じる
今回の記事は日記です。
黒歴史のフラッシュバックにいつも悩まされています。
太宰治の『人間失格』の一節、「恥の多い生涯を送って来ました。」を自分史の冒頭に付したい人は数多いと思いますが、例に漏れず私もそうです。
「とりあえずブログに」の定着を試みる
常々、Twitter(あるいはMastodon)に考えを放流してしまってそのままになっていることが気になっている。
(※何かを論じている記事ではなく日記です。)
少し前には「日付をタイトルにした記事にすればいいかも」というアイデアを練ったり(2022/11/14 ―― 日付をタイトルにする試み/やり方を真似したくなるということ)、昨日も投稿先のコントロールについて考えたりした(アウトプットのコントロールド下手問題)。
言語化のデフォルトがTwitterモードになってしまっているから駄目なのだ、というのはいい加減わかってきたのだが、具体的な行動についても考えなくてはならない。
早い話が、「真っ先に開くのがスマホのTwitterクライアント」というスタイルが良くない。Twitterを開いてしまうとその時点で言語化のモードがTwitterモードに切り替わってしまう。
なおPCからはそれほどTwitterを利用しないが、PCの前でスマホを操作して投稿しているということがしばしばあるので、現状「PCを開きさえすれば然るべきところに書き込める」ということにはなっていない。
選択肢としては二つあるだろう。より望ましいスマホアプリへの動線を作るということと、PCを開いている時にはPCで書き込みたいと当たり前に思うような動線を作るということだ。
スマホから書き込む時に私の中で前提になるのは、書き込んだものがPCからスマホ上と同様かそれ以上の細かさで確認・操作できることだ。つまりクラウドを通じてブラウザかデスクトップアプリでデータを扱えるか、クラウドストレージ経由でローカルファイルを共有できるか。Twitterは前者を満たしている。
Google Playストアを見ると面白いメモアプリは様々あるのだが、クラウド保存機能がないとPCからデータにアクセスできないので条件に合わない。クラウドを利用できても、PCからのログインがすぐ切れるものは煩わしくなってしまう。スマホのアプリが多機能過ぎるなどして挙動が重いとそれも駄目だ。求めているものは単純なことなのだが、案外希望を満たしてくれるものがない。
普段使っているDynalistはどうかというと、Androidアプリは一時期重くて使い物にならなくなっていた(なので、「Quick Dynalist」というアプリでDynalistのインボックスにメモを送信するという形で利用している)。しかしさっき久々に開いたら大丈夫そうかという感じがしたので、短文の編集場所として復権するかもしれない。あとは、最近Scrapboxをスマホから編集するのがやりやすくなったので、これも候補のひとつではある。Obsidianのアプリなんかも悪くはない。
ただ、いずれもなんとなくもう一歩という感があり、面倒になって易きに流れるとTwitterに負けてしまいそうだ。すぐ読んでもらえる誘惑などもあるが、「簡単に書けて、PCでもアクセスできる」という観点でTwitterが勝ってしまう。ノートアプリはやれることが多すぎるせいだろう。
うーん、と唸ってしまうのだが、唸っている間にCordovaあたりを覚えて適当なものを自分で作ったほうが話が早いかもしれない……。
とりあえずスマホについてはまずDynalistとScrapboxをよりアクティブにすることを考えるとして、PCの環境を検討することにしよう。
ブログ記事を書くためのツールというのはもう作って用意してあって、そのツールに不満があるわけではないのだが、いつも「よし書くぞ」という気合が入った時に使っているからか、「ぱっと開いてさっと書く」という感じではない。整理用のアウトライナーと本文用のテキストエディタを並べた形のツールなのだが、そうやってちゃんと準備して書けるように設計してあることによって、逆にラフに取り掛かることが心理的にやりづらくなっている。
なんだか変な自縄自縛だなと思うが、この類の自縄自縛感というのは「ハマれば駆動に繋がる力が、今は噛み合っていない」という時に発生する感じがあり、如何なる場合も自縄自縛感が一切発生しないツールやメソッドが常に良いのかというと、それはそれで微妙なところでもある。環境の力を借りないとうまく動けないタイプは、同じ環境の力が時として負に働くこともあるということで、今どの環境にいるべきかを上手く選択することを考える必要がある気がしている。
で、「いきなり本文書きたい時もあるよな」ということを考えていてふと思ったのだが、それならブログの記事作成画面をいつも開いておいたらいいのではないか。
常に記事作成画面に書いている人々からすると「何を言っているんだ?」と思われそうだが、私はいつも別のエディタで書いたのをコピーして記事作成画面に貼り付け、プレビューして手直しするなどして投稿するという形を取っていて、直にそこで書くという習慣がない。つまりブログというのは「書いたものを投稿しにいく」場所で、「そこで書く」ものとして認識していなかった。同じ「投稿」という行為でも、Twitterは当たり前に「そこで書く」をやっているのに、ブログではそうなっていない(最初の最初は直に書いていたはずだが)。
予め他の書きやすい場所で書いておいて持ってくる、というのは基本的には良いやり方だと思うものの、「直に書くという発想がない」まで行ってしまうとそれは「より良いやり方」の選択の結果ではなく、単に惰性でやっていたに過ぎない。直接書けるなら直接書いたほうが早いのだから、あくまで「これこれこういう理由で直接は書きづらいから、別のツールで書いてくる」という判断によって他のツールが選択されるものだろう。
こう考えてみると、もしかすると「何度か上手くいったやり方がいつの間にか前提化してしまう」というところに弱点があるのかもしれない。環境の影響を大きく受けるにもかかわらず、(あるいはそれゆえに、)特定の環境に無意識に拘泥してしまっている。いや、拘泥というか、他の環境の存在を忘れると言ったほうが正確かもしれない。
そのことについてはまた改めて考えるとして、とりあえず今思いつく範囲で動線の修正を試みることにする。
アウトプットのコントロールド下手問題
自分は表現のコントロールが下手だと感じている。表現の技術がどうというより、表現の場所や頻度、タイミングの選択に常に不満がある。どうにかしたいので、少し考えていくことにする。
ここでの「表現」を定義すると、「自分の思考に発生したものを形にして出力すること」を指している。文字でないものも含むが、今のところ専ら文章での表現を選択しているので、基本的に「文をいつどこに書くか」という話になる。
他の人たちは自分がどこかに何かを書き込む・投稿するということに納得しているように見えるのだが(多分、そう見えるだけなのだろうとは思う)、私はどうも納得できていない。ブログにもSNSにもごちゃごちゃ書いている割に、そうやって書いて投稿しているということ自体に不本意感を覚えている。
大雑把に言うと、「これ言わなくても良かったな」と思うことが多い。書きたかったから書いた、ということが前提にあるわけだが、後からものさしを当て直した時に、「書く必要があるものではなかった」という評価が下される。
しかし、「書く必要があるものかどうか」で判断してしまうなら、最初からそんなものなどない、ということにもなってしまう。ブログやSNSに「書く必要があるもの」なんてない。強いて言えば、Twitterを告知の場所と位置づけたなら、ブログの投稿なんかをしたらTwitterにポストする必要があるな、とは言えるが、表現行為という面では「必要」では測ることができないだろう。しかし反省をするとなると「必要なかった」が出てくる。じゃあどこまでなら良しとなるのかは曖昧である。多分、無意識下で他の尺度で測った結果納得できていないから、身も蓋もない「必要なかった」という結論に至るのだろうと思う。
TPO的な観点で「適切でないかもしれない」と感じることもある。しかも、個別の投稿の是非に留まらず、「そもそもTwitterでこういう話をするのはどうなのか」みたいな規模でそう感じる。じゃあTwitterではどういう話をすべきなのかはこれまた曖昧だ。他の人々と照らしてみても、各々好き勝手にやっているわけで、あらゆるやり方が「あり得る」ことになる。
適切かどうかは「場所」「公開の度合い」「頻度」「タイミング」といったものの如何で判断しようとするわけだが、それらを適切に選択しようというところまでは考えても、どう選択するのが正解か(自分が納得できるか)ははっきりしないので、考えたところで不満は抱いたままになる。
曖昧さの一因として、自分が「一般人」であるということがある。芸能人でも作家でもないし、他の何らかの職業を看板にしているわけでもない。むしろ明らかにしないことを貫くつもりでいるので、純然たる「個」「私」である。何も代表しないし、何も背景に持たない。となると、その分基準にできるものもないということになる。自由過ぎて、引くべきラインが「人として」というところまで広くなる。それは本当に最低限のラインだが、それ以上は客観的な根拠なしに決めなくてはならない。
多分、「どういうアカウントにするのか」ということをデザインする視点が必要なのだろう。
もうひとつ原因を挙げると、結局のところ何を求めて投稿するのか、が常に曖昧だという問題もある。
頭に浮かんだものを表現して投稿するという時、その結果がどこに着地してほしいかというのはその都度結構違っている。
- 言語化できればいい
- 自分以外の誰かの視界に入ればいい
- 誰かが反応してくれればいい(「いいね」を含む)
- 誰かに共感してもらえればいい
- なるべくちゃんと理解してもらいたい(誤解は避けたい)
例えばTwitterはその点色々都合がよく、「言語化しやすい」「人の視界に入りやすい」「反応を得やすい」というメリットがある。共感や理解を得ようとするなら言葉を工夫しつついくつもツイートを重ねる必要が生じるが、何しろ読まれやすいし返信もしやすいことから、他の媒体より楽なのは確かだ。
共感を得るには友人や家族などに話したほうが確実だが、前提を相手と共有できていない内容だとその説明からスタートしなければならず、それを省略して「誰かがわかればいい」というふうにしてしまえるTwitterは非常に簡単な感じがある。
つまり自分の希望を広くカバーし得るのがTwitterなので、「とりあえず」「なんとなく」Twitterに投稿する、みたいなことになる。ただ、Twitterは広くカバーし得る代わりに得られるものは薄いので、Twitterによって自分を満たすというのは難しい。それに、自分が得たいものがその都度違っているなんてことは、基本的に読み手にとっては知ったことではないわけで、自分は楽だが読み手は必ずしも楽ではないというところがある。結局はかなりの部分「空気を読む」ということに支えられている。そうなるといずれ疲れてくると思う。自分は投稿者であると同時に読み手であり、自分が他に要求した分は自分も他に対して満たそうとせざるを得ない(意識的にも無意識的にも)。
どこに着地したいのかに応じて表現スタイルを変えていくべきだろうと思うが、いつも「どうしたいのか」という自分の気持ちを自分に問うより先に思考の言語化が完了してしまうので、言語化できてしまった以上はつい投稿しやすいところに投稿してしまうという流れになっている。Twitterサイズで言語化した時、そこでツイートしなかったなら後で形を整えて記事化しなくてはならないが、それが面倒くさいと思うとそこでツイートしてしまう。「投稿先としてTwitterが相応しいからツイートした」のではなく、「それ以上手間をかけるのが億劫だからツイートした」になるわけである。そうなると後から不本意に思えてきて当然だろう。
あるいは、不安が高まっているような心境の時は少しでも早く他者の反応を見たい(もしくは誰かに自分の状態を知らせたい)ということもある。表現として最善手かどうかよりも、読まれやすさ、反応の得やすさで判断してしまう。それが必ず駄目だということではないが、メンタルの状態が変わった時点で「あの投稿は自分で納得できるものではなかった」ということになる場合がある。
たとえ「言うべきでないことを言った」という直接的な後悔はなかったとしても(それがある時ももちろんある)、「こういう形でない方が良かった」と感じる可能性が生じる。困ったことに、投稿している間は理屈でやっているつもりでいて、自分が感情的に慰められることを求めている自覚はない場合が多々ある。そうなると、読んでくれる誰かにとって必要な情報以上のものをぐだぐだ書き連ねることになって、「無意味に長文を書いてしまった……」などと反省することになる。
面倒臭さ由来にしろ不安由来にしろ、言語化をスタートした時点で着地点が曖昧過ぎることが不本意なアウトプットを生じているように思う。着地点によって言語化の種類は変わってしまうし、一度言語化したものを別の種類に改めることは思いの外大変である。というか、ものすごく面倒くさく感じられる。
つまり、思考を流し始める入口を適切に選択することが非常に重要なのだろう。私の場合「Twitterに流しやすいサイズ感」で言語化するのがデフォルトになってしまっており、そうしてしまってから記事に直そうとかアトミックに整理し直そうとかいうことをやっている。面倒臭いので、大抵はそのままツイートしてしまうか、ツイートの下書きとしてごちゃごちゃ堆積することになる。
となると、最初の一歩の時点でさっと選択できるテンプレートの数を増やすことが必要な感じがする(テンプレートというのは比喩で、「表現形態のイメージ」みたいな意味である)。そのテンプレートと投稿場所、頻度、タイミング等は必然的に結びつくだろうし、傾向がはっきりすれば「どういうアカウントにするのか」が明らかになる気もする。
今までは、表現して投稿するという行為を制御するにあたっては「ぐっと堪えて」的な精神論を思い浮かべていたが(そしてそれはなんにも役に立ってこなかった)、予め何を用意しておくべきなのかを考えることでもうちょっと現実的に自分を律することが可能になるかもしれない。
飽き性だから凝ったツールを作る
この記事はこちらの記事へのレスポンスです。
ブログ記事にご感想をくださりありがとうございます。はじめの方では身に余る賛辞をいただき、大変恐縮しております。
自分なら違うデザインにする、とお書きになっている二点についてお返事を書こうと思い、コメントではなく記事の形で書くことにしました。
Goさんと私の感覚の分岐点になっているであろう点として挙げてくださっているのが、次の二点でした。(勝手に換言して書きますがお許しいただきたく)
- 凝っていて複雑ゆえに飽き性だと続かないかも
- ログは重視してないから要らないかも
実のところ、「私もそう思う!」という気持ちです。というか、私もそうなので、これまで使ってきた全てのツールが続いていなかったりします。似た複雑性のツールは数多ありますが、それらはその複雑性ゆえ継続は悉く挫折しました。なぜなら、ツールの複雑性がそのまま私にとって複雑だからです。
ところで、「違う考え」を提示していただいたことに対する返答の形なので、変に緊張を呼びそうだなと心配していますが、全然反論や弁明などではなく、Goさんのご意見を元に私自身の解像度を上げることを試みようと思っています。お返事と書きましたが、ほとんどただ自分語りをすることになりそうです。
突然ですが、私は極度の飽き性です。だいたい三週間または三ヶ月サイクルで「形式」に対して飽きてしまい、種々のデータがばらばらの形式であっちこっちにあります。
飽きる理由は多分いくつかあって、「理想の格好良さに沿うべく無理している」ということもありますし「傾けられるエネルギーに波がある」ということもあり、そもそも「ただ飽きて続けられない」ということもあります。経験上、「ただ飽きる」のは「自分以外の人間が作った事物」に対してより高確率で発生します。というか必ず発生しています。偏屈過ぎて、自分以外の存在の感性に合わせ続けていられないのです。
あとは、「より良いものを思いついてしまった」ということも大きな原因になります。そうなると現行のやり方は全く気に入らなくなってしまうからです。「モノ」には愛着もわきますが、私の場合「やり方」には全然そういう愛着・執着を抱くことができないのです。
あまりにも飽きっぽくて生活にある種の支障が出ているので、自分の「飽き」について随分詳しくなってしまいました。すぐ飽きる自分に悩まされているのが嫌で、「じゃあどうしたら飽きないんだよ」と問い続けている状態です。
飽き性である自分に対してできることを考えた時、「飽きないようにする」と「飽きても良いようにする」の二通りのアプローチがあるでしょう。
「飽きないようにする」にはどうしたらいいか? 具体的な方策は人それぞれの性質次第ですが、私の場合は上述したような理由があるので、
- 格好良くするための無理をしないようにする
- 熱意の多寡に影響されないようにする
- (人が作ったものは確定で飽きるので)自分で作る
の三点が対策になります。
一つ目を言い換えると、「無理をしないと格好良くならない仕組みは駄目」ということでもあります。これは特に汎用的なツールを使う時に発生します。紙のノートでもそうです。私は情報のレイアウトを超が付くほど重要視していますが、自分が望む見た目を作らんとして、記入するたび認知資源を使う必要があるのがまずいのです。なので、JavaScriptの力で自動で整えてもらうことにしました。
二つ目の達成には、やる気に満ち満ちている時でなくても維持できるような簡単さであることが必要です。私の記事を読んでくださった方は、多分ツールの見た目が複雑そうなのでここがネックになるとお感じになったのではないかと思いますが、むしろここを確実に解消するためのあの複雑さ(仮)なのでした。
あんまり具体的に書くとさすがに冗長なので割愛しますが、例えば「作成画面を開いてから必要項目をチェック」だと面倒くさくて絶対飽きるので「この項目をチェックした状態で作成画面を開く」というボタンを設置する、というようなことをしています。普通のタスク管理ツールは「作成画面を開いてから情報を編集」にならざるを得ないと思いますが、それだと私の場合100%飽きることを知っています。
なので、裏で動いている処理の複雑さや見た目の「なんか選択肢と記入欄が多い」という印象とは裏腹に、「私の動線」からすると逆にシンプルになっています。これは私が作って私が使っているからのことであり、それぞれがそれぞれの設計をしないと意味がないところだと思います。
ここまでは「飽きないようにする」ための対処法ですが、「飽きても良いようにする」ことも必要になります。自分以外の人が作ったツールには必ず飽きますが、じゃあ自分が作ったツールには飽きないかというとそうとは限りません。最初の方で書きましたが、「より良いものを思いついてしまった」が発生したらもうおしまいです。そしてそれはしばしば発生します。(思いつくこと自体は喜ばしいことです。)
何かのシステムでやっていて飽きた時に困るのは、そこまでの形式で作ったデータが他のツールにそのまま持ち越せないことです。しょうがないので新たに始めることになり、まあ結局はそんなに生活に支障はないのですが、気持ちとしてはかなりの不満を抱える羽目になっています。ツールを替えてしまえばそれまでのデータは参照しづらくなり、バックアップデータを残したとしても、それらはもはや「記録」ではなく「残骸」になっています。
やりようは技術次第で色々あるかと思いますが、私の場合は、JavaScriptで処理をしているのでJSONファイルが救世主になりました。今後も自分でツールを作ることが前提になってしまいますが(それは私の中では先述した通りもう前提なのですが)、見た目や編集の方法に飽きるとしても、必要なデータの種類はあまり変わらないことから、JSONファイルを使い回せばツールを替えてもデータを持ち越すことが可能です。
実際、(タスク管理ではないツールですが、)データはそのままにツールの設計を大きく変えて作り変えたものがあります。新旧ツールの間に一応互換性があるということです。やがて改良の末に旧ツールには戻せない形になることはありますが、大事なのは旧→新の移行なので、逆向きの可否は重要ではありません。(それも旧ツールを弄ればどうにでもなります。)
長くなりましたが、「飽き」についてはこのくらいで、次はログの話です。
一応ずっと何かしらの形でログを取っています。飽き性ゆえにログの形式はバラバラです。というか、どこにいつのログがあるのかももはや定かではありません。どこかにはあるはずですが、取り出してくるのは容易ではない状態です。とても不本意です。
そもそもログが必要かというと、正直なところ、情報としてはあんまり必要性は感じていません。よく自分の傾向を振り返るために記録を見返すというような話を聞きますが、私はそういうことはほとんどしません。あまりにもフォーマットというものに飽きるので飽きる周期はどのくらいかを知るために見返したことはありますが、多分、それだけです。そしてタスクの実行記録に至っては、全く役に立った記憶はありません。記録を活用していないのです。
でも、私はこれからもログを取ります。データがどこにいったのかさえもはや判らないにもかかわらず、これまでログを取っていたことは私には大きな意味があります。
以前、私は精神の健康を損なってほとんど何もできなくなったことがありました。虚無感、無力感、無能感に襲われてまあ大変だったのですが、それ以来、頭の中を「私は何もできていない」という認識が埋め尽くすようになりました。今もそうです。多分一生残る後遺症だと思っています。(回復する人もいると思いますが、私には恐らく死ぬまで残ります。)
仕事をする、何かを書く、というようなことをすれば、もちろん私がした何かが世界や誰かの中には残るのですが、それを自分自身が認識していられないと「私は何もできていない」ということが私の中では真実になってしまうので、「私はこの日これをした」という証明書を自分に発行するために毎日ログを残すのです。私の脳は私自身がしたポジティブなことを忘れたがっているようで、一目で把握できる形で書き留めないと容易く「なかったこと」になってしまいます。そのくせネガティブなことは絶対忘れてくれない残念な脳です。
証明書を発行してしまえばあとは安心してその証明書は放置です。ちゃんと生きている感を実感したい時だけ眺めています。
盛大な自分語りになってしまいました。個人的なこと過ぎて自分のブログにすら書く機会を見出だせていなかったことですが、えいやと書いてみました。
もしかすると他の人の目には私が如何にもシステマティックなものが好きそうに映っているのではという可能性を感じなくもないのですが、実情としては、多分全然そうじゃないのだと思います。システマティックに生きなくて済むシステムを作ろうとしているような気もしています。
Evernoteさん、雑に使ってごめんなさい
久々にEvernoteにログインしてみた。いつからいつまで使っていたのか確認するためだ。
アカウントは愚かにも二つ作っており、もはや使い分けを試みた理由も覚えていない有り様だ。十中八九、先に作っていたほうのごちゃつきに耐えられなくなって仕切り直したとかだろう。
アカウントを複数使い分けているんですよと語っていた誰かの話を口実にして、うまくいかなさの理由を突き詰めることから逃れて「とりあえず」やり直したのだ、きっと。
実態
ノートをエクスポート・インポートで移動させたりしたので、二つのアカウントの使い始め時期のズレがどの程度だったかはよくわからないが、とりあえずEvernoteは2011年5月末あたりから使っていたらしい。
2010年には使っていたような気持ちでいたが、確かに2011年に入ってからプレミアムが1年分無料みたいな話を見たんだったような気がする。その少し前から存在は知っていたはずだが、実際に始めたのは2011年の半ばだったようだ。
そしていつまで使っていたかというと、アカウントAは2015年7月、アカウントBは2018年2月までだ。しかしこれは外部サービスから自動でEvernoteに送っていたノートの日付である。自分の手で作ったらしいページはといえば、アカウントAは2013年5月、アカウントBは2016年9月が最後と思われる。
ノート数はアカウントAがおよそ28000、アカウントBが12000で、合わせてちょうど40000件くらいあるらしい。その内訳はもはや全くわからない。大事なノートはおそらく1000件もない。いや、今となっては大事なノートなど1件もないのかもしれない。久しくEvernoteを開かないでいたのだから。
ちらちら見返してみたところ、なんだか嫌なニュースの記事がたくさんある。世間の現実に目を向けなくてはと勇んでいたに違いない。その割にはその後それをどうともしなかったし、多分本当は大して興味がなかったのだろう。
スクロールしてもスクロールしても、そこにあるのは本当は大して興味のない内容のノートだ。稀におっと思うものもあるが、全て自分で集めたもののはずなのに、その中で今価値を感じるノートは川で砂金を見つけるくらいに希少である。
自分で作ったノートは別だが、「とりあえず」と言って反射でクリップした記事、メールマガジンやキーワードなどから自動で取得した記事などは、集めた甲斐がさっぱりない。そもそも「集めた」と言っちゃいけない気もする。掃除機のようにしてそこらへんのをただ吸っただけだ。
根無し草
Evernoteの使い方を振り返ると、自分の混乱がまざまざと思い出される。
情報管理というものをまともに考え始めたほとんど最初の頃に使い始めたのがEvernoteであったから、何をどう考えて使えば良いのか全くわかっていなかった。
何でも突っ込んでおけるんですよと誰かが言ったから、何でもかんでも突っ込んだ。音楽ファイルとかも入れておくとバックアップになって安心ですよと誰かが言ったから、月間容量を気にしながら音楽ファイルを突っ込んだ。サービスの連携が充実しているから何でも送っておけるんですよと誰かが言ったから、それはすごいと何でも送った。
それぞれ語り手は別だったわけで、幾人もの「誰か」は、いずれも私のようには使っていなかったのではないかと思う。私はひとりで勝手に混沌を生み出していた。
情報を収納すると、待ち構えているのは「整理」である。何もわかっていなかった私は、例によって誰かが言ったことをその都度試した。
ノートブックのタイトルは連番で綺麗に並べるんですよと誰かが言ったらそうしたし、いやノートブックは使わないでタグだけでやってますよと誰かが言ったらそうした。そういうことを思いつくことに憧れがあったから、自分で何かを思いついたらそれもまた試した。
あっちにふらふらこっちにふらふらとして、ついにやり方が定まることはなかった。「私はこれでいく」という形が結局できなかったのだ。
学び
Evernoteが教えてくれたことがある。
ひとつは、「情報を得る」ということについて私は何も知らなかったということだ。「知らないよりは知っていた方が良いのかも」「覚えれば役に立ちそう」「私の関心にマッチしている」「絶対に必要な知識だ」、これらはいずれも「あ、」と思って自分の目に留まるが、それを全部同じように突っ込んで良いのかどうか。
大抵のことが「知らないよりは知っていた方が良い」ことだ。するとつまり大抵のことが網にかかってしまう。それを全部集めていたら、自分のEvernoteが地球か宇宙かになってしまう。自分でピックアップしている意味がない。少なくとも、自分のEvernoteというのが「個人的な関心に沿ったコレクション」なのか「自分の視界に入ったもので作り直した宇宙」なのか、意識した方が良いに違いない。
もうひとつ、Evernoteは大事なことを教えてくれた。それは「私」について、やはり私は何も知らなかったということだ。
何でもかんでも突っ込んで思いつきで区分けを変えたのは、自分がどうしたいのかさっぱりわからなかったからだ。信念も美意識もないから(自分で気付いていないから)、取捨選択が何もできなかった。そしてどうなってほしいのかもわからずに、Evernoteがどうにかしてくれることを期待していた。
恰も「パソコン使えば何でも作れるんでしょ?」「東大生なら何でもわかるんでしょ?」と、「よくわからないけどすごいらしいもの」によくわからないまま謎の期待を寄せる人のように、「Evernoteに情報を入れれば何でも整理できるんでしょ?」と思っていたように思う。
Evernoteを書斎にしたいのか台所にしたいのか倉庫にしたいのかもわからずに、一体どんな整理ができるというのだろう。
「今」とEvernote
そんなわけで、今Evernoteに対して思うことは「雑に使ってごめんなさい」ということだ。Evernote自体に根本的な難しさというものがある気はするが、それにしたって、自分はEvernoteの可能性をあまりにも活かせなかった。
そして「Evernoteの後」に生まれた波に揉まれて、今日(こんにち)に至っている。Evernoteを使い始めた時には全く考えもしなかった方法で、今私は自分に合った情報管理の道を見出そうとしている。
Evernoteを過去に使っていた人、今も使っている人にとって、Evernoteとの戦いあるいは良き付き合いというものがどんな形だったのか、Evernoteがこの世に生まれてから十分な年月が経った今だからこそきちんと聴いてみたいところである。
富山孝裕さんがEvernoteに触れていたので、私もまずはEvernoteについて振り返ってみよう、と思ってひとつ目の記事を書いてみた。
ブログ日誌:大事なのは内圧を弱めないこと
前回の記事以降、ブログを書く以外のことに意識が向いていて少し間が空いてしまった。
他のこととは、CSSを書いたりJavaScriptの勉強を始めたりGitで古いファイルの分岐の混乱を解消したりDynalistやScrapboxに情報を整理したりといったことで、それはそれで日々進歩があって気分は充実しているのだが、とはいえ「投稿する」ということをしないでいると私としては人生の蓄積を感じられない。やはり人に読んでもらうに足る文章を生産する努力を継続することが自分にとって必須なのだろう。
テンポ良く続いていた投稿が途絶えたのには、他にも考えられる理由がいくつかある。
ひとつは、テンポ良くいきすぎていて息苦しくなったということがあり得る。ガンガン書いている時、なんとなく自分の重心が高いところにあるような感触がある。呼吸も胸の高い位置で浅くなっているかのようである。自分の思念を他人が読める形に文章化するというのは、腹に溜まっていたものを口から吐いていくようなイメージがある。下から上へ、時に心地よい深呼吸のように、時に苦痛を伴う吐逆のように、体内の諸器官をくねらせてどうにか吐き出していく。上手くいっていたとしても、やがて上半身が疲れて休みたくなる。やりすぎる前に時折自分を落ち着かせていれば少しは長持ちするであろうと想像するが、落ち着いていないからこそガンガン書けるということもあり、そのバランスを取るのは難しい。そしていよいよ疲れた時に一気に脱力してしまうのである。
他には、「渾身の」とまでは言わないにしても、自分の中でスッキリするような文章を書けてしまうと内圧が弱まって次の文章を書きにくくなるということがある。今回は典型的にそのパターンだったが、前回の記事(思った通りに書くということ)でそれまで自分が言語化しないまま抱えていた考えをスッキリ言語化してしまったために自分の中の圧力がゼロになってしまったような感覚がある。これは他に書くことがあるかどうかとは関係なく起こることのように思われる。もし「思った通りに書くということ」に直接関連して更に書くべきものがあったならば続けられたであろうと思うが、それ以外の種類のネタをどれだけ抱えていても、ひとつのテーマについて決着がついてしまった時の圧力の低下は抑えがたく感じる。例えば小説を書く場合も、ひとつの世界観について書き終えてしまうとなかなか次に移れない。文章にしていくための断片は山程あるのに、それを繋いでいく作業のための気力がないのである。
少し前まではネタそのものがなくて困っていたのだが、ブログの書き方ド下手問題を通して「ネタがない!」という悩みはなくなり、価値の如何はともかくとしてとりあえず書こうと思いさえすれば書けるネタがそれなりにある。それらのネタはどうすれば私なりの文章になるのかも解った。その段階に来てみて、「ネタはあるし書き方も知っているが書けない」という悩みに今直面している。
原因が疲労であれ内圧の低下であれ、ギアを5速に入れてビュンビュン走っている時は一瞬で書けてしまうような文量も、一度停止して1速から入れ直さなければならないとなると果てしないかのような時間をかける羽目になる。せめて2速くらいまでの減速に留めて、停まりきらないで気力を維持・回復していきたいところだ。
これらの状態の根本原因としては、「今」に注力しすぎて次に移る準備ができていないということが言えそうである。今書いているものに意識を100%割いてしまうために、それが完了したときに次のことをすっかり一から考え直さなければならなくなる。予め十分に材料を用意していたとしても、それを組み立てる力が枯渇していれば文章にはならない。気力の用意がないのである。
とはいえ、今書いているものに対して30%とか50%の意識を割くだけで良い文章ができるとも思えない。良し悪し以前に完成させること自体が難しいようにも思う。限りなく100%の意識でもって取り組む必要がある。いくらでも同時に進められる器用な人も世の中にはいるかもしれないが、とりあえず私はそうではない。
自己のコントロールとしてとても難しいことを試みることになるが、理想としては90%くらいで今今のものに取り組み、残りの10%で次の準備をしておくことだろうと思う。毎日注力するものを変えるのも手だが、そうするにしても次の日の90%のために今日の10%を割いて用意しておく必要を感じる。
おそらく急には難しい。自分を信用できていないために、自分の90%がその日のワークとして十分だと感じられない。気持ちとしては120%や200%やりたいなどと思ってしまっているのである。ゆえに100%でも妥協しているかのような気分なのだ。実際には定義上100%より大きい値は存在しないので100%で最大なのだが、往生際の悪いことに自分の100%が自分にとってまだ不十分で不満なものになっている。そうやって無理をした結果0%の期間が生じているのは本末顛倒甚だしいが、長い目で見て勘定するには毎日の我慢に少し勇気が要る。その勇気を得るためには、今まさにしているように、現実を淡々と描写していくことがその一助となるような気はしている。
100%とか90%とかいうのはイメージの話だが、具体的には何をするべきだろうか。
ずっと何かを書き続けている人生でありたいとすれば、常に「アクティブな途中段階」を抱えている必要があるだろう。いくつかを並行してやっていてもそれが同時に完成してしまうと内圧は急速に弱まってしまうだろうし、一方で単に材料の揃った書きかけを溜めておけば良いのではなく、それらは自分にとって熱意を維持できるホットなテーマでなくてはならない。
つまり、
- 進行度が異なる題材を複数持っておくこと
- それらに対して熱意を維持しておくこと
の少なくとも二点が必要であろう。
進行度とは、大雑把に言って「断片を思いついた」「材料を集めているところ」「アウトラインを作った」「文章化に着手している」「書き終わった」といった段階のことを指している。
「断片を思いつく」ということは、半ば自動的に、黙っていても手に負えないくらいに発生することなので敢えて意識することはないが、そこにベクトルを持たせて関連する材料を集めたり作ったりすることには自分の意志が必要である。構想してアウトラインを作るのには更に積極的な検討が要請される(Tak.氏の『書くためのアウトライン・プロセッシング: アウトライナーで発想を文章にする技術』が大変参考になる)。文章化の工程は言わずもがなのことだ。
「進行度」と書いたが、題材によって材料集めと構想と文章化の各段階の難易度は変わるだろうし、実質の進行度は割合で管理できるものではない。材料集めが終わったということが進行度五割を意味していることもあれば、進行度一割でしかない場合もある。構想が終わった状態を進行度八割と思っていたら実際には三割程度に過ぎなかったのだ、と文章化に苦闘し始めてやっと判ることもある。
よって、何割のものを何個用意しよう、というような意識を持つのはあまり得策ではないように思われる。各段階それぞれに何個かある状態を維持しておくというくらいの気持ちでいた方が良いだろう。
ところで、書くということに於いて大事なのは書いていない時間である。ということを常々自分への戒めとして唱えているのだが、なかなか難しい。文章を書くことを含め「表現」というのは、工程のどの段階にあっても「着想を得る」という偶然に依存するところがあるため、常時着想を得られる土壌を用意しておかなくてはならない。潜在意識の力を借りるのである。予め「ブログを書くにはどうしたらいいだろうか」と自分に問うていればこそ、パンを齧りながらはたと「必ず結論を示そうとするのが間違っているのだ」と思い至ることにもなる。
潜在意識が仕事をしてくれるためには、前もって自分の脳に「このことについて考えておいてほしいんですよ」と頼む必要がある。そして自分の脳がうきうきと「承知つかまつった!」と応えてくれるのは、そのテーマに対して熱意がある時だけだと感じている。
熱意というのは既に生じている熱意によって生まれるところが大きく、熱意があるから熱意が増し、熱意がないから熱意が湧かないということになる。一度鎮火してしまうと再燃させるのは容易でない。自分という人間の根幹に直接関わっているようなテーマであればしばらく放置していても熱意を取り戻すことが可能かもしれないが、大半は発想を膨らませていくことそのものを求めて書くのであり、その場合は意識を少しでも向け続けていないとあっという間に熱を失ってしまう。
また、意識を向けると言っても「今途中のものリスト」をただ眺めればよいというものではない。存在を確認するだけで熱意を思い出すのは、存在を確認すると同時に僅かでも想像を膨らませているからではないかと思う。無意識に想像を膨らますことができるものはそれで良いだろうし、そうならないものはちょっと立ち止まって意識的に想像する必要があるだろう。
最初の話に戻るが、日々の気力の90%を「今」に費やし、10%を「次」のために充てたい。今回は100%を「今」に使ってしまわないという趣旨なので「今」に費やす90%の中身については置いておいて、確保した10%によってどう「次」を準備するかが肝心である。
今集中して取り組んでいる文章の他に、三つか四つくらいはすぐ着手できるネタとして備えておきたい。まだ記事にできそうなものがなければ、ただ思いついただけのメモやツイートなどを見返して想像を膨らませることを試み、書けそうなネタを用意する。
既に見込みのあるネタが三つ四つあるなら、それらのページを巡回し、なるべく一行でも書き足して育てておきたいところだ。材料が集まっているならアウトラインを考え、アウトラインが大体整っているなら本文の断片を拵える。
それらの準備というのは、別なことに注力している中で片手間にやっていることでもあり、いよいよ本腰を入れて着手した時には全部ばっさり没になる可能性がある(実際そうなることがしばしばある)。ならば無駄なのかというときっとそんなことはなく、芯を捉えていないものをばっさり没にできるほどそのテーマに対してアクティブな状態を維持することにそれらの努力は貢献しているはずである。