Noratetsu Lab内で、年末に一年間の総集編として投稿している記事群。
投稿した(ほぼ)全記事から、それぞれ一部分を抜き出して列挙している。
抜き出した部分は記事の要約になっているとは限らず、「Noratetsu Lab」とはどんなブログなのか、のらてつとはどういうことを考える人物なのか、が現れているであろう部分を選択している。
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よくわかるNoratetsu House(2024年版)~後編~
総集編の続きです。
42: Notionはこう使うことにした① 期間が限られたものを扱う
Notionは何度か付き合いを試みて失敗に終わってということを繰り返してきた。その失敗のほとんどが、「継続できない」ことにある。このまま続けられたらきっと素敵になるだろうと思いつつ、継続できないのだ。 その時点の生活に、「Notionの手入れをする」という時間を加えることができない。
Notionについて「何に使うか」を考えると、何でも素敵な気がしてきてしまう。実際自分が継続できさえすれば素敵な世界にしていってくれるのがNotionというオシャレな万能ツールのすごいところであって、 Notionの可能性に思いを馳せる限り自己不在の幻想が無限に広がっていく。
43: Notionはこう使うことにした② 公開状態を利用する
最後が今回の話の鍵で、人の目によく映るように整えたいという欲求だ。自分を良く見せたいという欲かもしれないし、少しでも見る側が楽しくなるように、そして負担がないようにという親切心かもしれないし、 とにかく他者の存在を意識することで「整えずにいられない」気持ちを抱くこと。
やはり他人の目というのは強力なもので、自分しか見ないなら「どうせ自分しか見ないし」という怠惰に流れがちな人も、誰かが見る可能性があると思えばもうちょっとちゃんとしようと思って頑張る気になることは少なくない。手を付けさえすれば「あっちももうちょっと」「ついでにこっちも」と言ってちょこちょこ手を加えたくなるものだったりする。
もうひとつポイントがあって――もしかしたらこちらの方が重要かもしれないが――一度公開してかつ実際に見に来る人がいる場合、基本的にはそのページを継続せざるを得ない。Notion以外の別の媒体に移るという選択はしにくくなるだろう。訪問者をむやみに振り回すわけにはいかないからだ。
44: Notionはこう使うことにした③ アイコンを使いこなさない
そのようにしてページごとに最強のアイコンを選ぶみたいなことをやっていたわけだが、その割に、実用上は思ったほど嬉しい感じではないことにやがて気がついた。選ぶのは楽しいのだが、そうやって選んだアイコンが並んでいる状態が本当に役に立っているかというと、どうも疑問符が付きまとう。なんでだろうと考えてみると、答えは単純だ。カラフル過ぎるのである。 いちいち情報量が多く、そして統一感がない。見ていてちょっと疲れてくる。 そのような選び方をしてしまっていた。
日常的に使うものについては、自分の「楽しい」が時にストレスを発生させるということにも注意を払う必要がある。
45: Capacitiesを使い始めた
これを見て、私は「そうなんだよな!」と膝を打ちました。思いつきや学びを書く所謂ノートと、本の情報や人の情報、議事録等々は、自分の中では明確に種類が違っています。 ひとつのツールで管理したいものではありますが、できれば分けて扱うことが可能であってほしいと思います。 且つ、ビューやプロパティがそれぞれに合わせて違っていると自然です。(中略)単にタグ付けで区別しただけでは私の中では不十分で、相応しい見た目をしていることでやっと納得に至った感があります。
47: Capacitiesを使い始めて一ヶ月/分類方法の使い分け
もし十年前とかに登場していたらきっとEvernote同様に機能の目新しさに振り回されていたが、色々と経て具体的に「私はこういうツールがほしいのだ」と思い描いている状態で出会ったから、必要なことを必要な分だけやり、無意味なことはしないということを自然と判断できている。いいことを思いついたと思っても、でもそれは実用的ではないんじゃないかと判定する嗅覚がだいぶ育っている。
Objectは色々と作っている。しかし作る前に必ず作るべきかどうかを書いて検討している。(中略)昔だったらとりあえずObjectを作ってみてしっくり来なかったら解体しよう、という順番でやっていたと思うが、 未熟なうちは「これは有効じゃない」という結論を下すのが難しく、ずるずると無意味に延命させて情報のごちゃつきを招いてしまう。 とはいえ実際に作ってみる前に検討できるのはそういう失敗の積み重ねがあってのことかもしれない。
自分に何も用意がない状態でこのアプリケーションを使い始めてしまうと、一体どれで何をすればいいんだと迷ってしまうかもしれない。その意味でCapacitiesは「初心者向き」とは言えない。 痒いところに手が届くのが嬉しいツールなので、逆に他のツールを渡り歩きながら痒さに苦しんでいるようじゃないとピンと来ない可能性がある。
48: ライフ・アウトライン日記: Capacitiesにお引越し
一方で、別に何月何日に書いたかなんてどうでもいいような内容もあって、それがブログ的な形で並ぶのはなんだか見るのも書くのも変な感じがする。古のホームページの方がその点では自然にコンテンツが作られていたように思う。
扱う情報をクリアにすると書きましたが、そのニュアンスを伝えるためにはそもそもCapacitiesで何をしたいのかを明らかにすることが必要かもしれません。 私がしたいことを一言で言えば、自分の人生に直接関わっていることの把握と管理です。私がすること、したこと、見たこと、知ったこと、好きなこと。あるいは、私とは如何なる人間であるかを掘り下げること。 情報の種類を自由に定義できるCapacitiesは、その目的に非常にマッチしています。
重要なのは、Capacitiesがあることで他のツールの使い方も明確になることです。Capacitiesで混ざってほしくないものは、Capacities以外でも混ざってほしくなかったものです。しかしこれまでは境界が自分でわからなかったのでごちゃごちゃと突っ込んでは「なんか違うんだよなあ」と思い続けてきました。 Capacitiesを使うことは、自分が無意識に仕分けているもののルールを知る助けになると思っています。
53: Capacitiesのマイオブジェクト② 自分と関係するモノ系
つまるところ、 「家」「生活」の雰囲気をそのまま再現する オブジェクトタイプになっています。モノの種類によってオブジェクトを作ってしまうとすれば、「知ったもの」「欲しいもの」など「まだ自分の生活と関わってはいないもの」を含めてしまう可能性がありますが、そういうものが混ざると自分の生活の様子を反映しないものになっていくので、ここではそういったものは混ざらないようにしています。
Capacitiesを使うようになって強く意識し始めたのが「 自分と直接関わっているか、そうではないか 」ということです。そのステータスは変化する可能性があるわけですが、オブジェクトタイプを後から変えられることによって、関わる前はItemオブジェクト、関わりができたら専用オブジェクト、というふうに簡単に切り替えることができます。
オブジェクトタイプを定義できるというのはとても素晴らしいシステムですが、全ての情報について然るべきオブジェクトタイプが定義されていなければならないと考え始めると途端に息苦しくなり、実用が難しくなってしまいます。
55: Capacitiesのマイオブジェクト④ Yearly Note
Yearly Noteオブジェクトで達成したいことは、「つまるところ、この期間はどういう雰囲気だったか」がひと目でわかるということです。(中略)ただ全部並んで表示されればいいというわけではなく、俯瞰の高度を上げるに従って記述がおおまかなものになっていかないと、全貌を把握するためにいちいち認知資源を大量消費してしまいます。 「参照しに行く手間が減る」ということと「俯瞰できる」ということは別物と考えています。
「Home」というページの問題点のひとつが、ホームとして適切な状態であるように更新し続けなくてはならないことでした。いや、もちろん本当の意味で「そうしなければならない」わけではありませんが、 アクティブなページとして意味をなすにはメンテナンスが必要 なわけです。で、要らなくなったものをえいやっと除去していければいいのですが、なんとなくそうしがたいことがしばしばあります。ページ自体を消してしまうわけではないにもかかわらず、そのページへのリンクをなんとなく取り除けないのです。「たまには見そう」みたいな曖昧な理由で残してしまったりします。そうして雑然とした感じが続きました。全く合理的ではありません。
56: Capacitiesのマイオブジェクト⑤ Webクリップ
最初はWebクリップというものを「きちんとオリジナルを保存しておくもの」と見なしていたので、個々の記事がオブジェクトであることに何も疑問を抱いていませんでした。(中略)しかし、検索をかけた時にそのページが検索結果に並ぶと、大きな違和感を覚えました。その記事のタイトルは私にとって「あれ」と指さしたい形のものではないからです。
複数のWebクリップをひとつのページの中に貼るということをすればそのページはどんどん膨張していきます。それでも、ページを分ける必然性が自分の中にないならそれでいいわけです。困ったり気持ち悪く感じたりしたら分ければよい話です。 自分の主観で「もはやひとつの塊とは言えない」となるまではまとめて扱うのがオブジェクトベースだと言えるのかもしれません。
57: Capacitiesのマイオブジェクト⑥ セルフマネジメント系
沢山のオブジェクトタイプが並んでいると圧倒されるような気持ちになるかもしれませんが、本人としてはこれらは「分類した」のではなく 「自分の中でそもそも分かれている」ものをそのままそれぞれ扱っているだけ のことで、複雑なことはありません。
今回書いたMapオブジェクトやDoingオブジェクトのようなものは、他の人が用意してくれるのを待っていてもおそらく一生叶えてもらえないだろうと思います。そういうものを定義したいと感じる人にとって、Capacitiesは強力な助けになるでしょう。
58: Capacitiesとマインドマップの両輪でいくことにした
このことについては「解決」はしていない(しようがない)が、このもやもやはエネルギーにもなり得る。あらゆる思考や思いつきは、発生時点で何とも結びつけられそうになかったとしても、完全に単独で存在しているということは多分ありえない。それが生まれた経緯や動機というものがあるはずで、自分の中にどういう思いがあることでそこに至ったのかを考える余地がある。それが見つかればその下に思考や思いつきをくっつけることができる。
客観的な分類ではなく自分の思いを突き詰める方向で上位ノードを考えていけばだんだんと集約される方向に向かうだろう。もちろん全てを一点に繋げる必要はなく、自分の中で分けて考えた方がいいものは違うマップにするなどして分けて考えれば良い。 いずれにしろ、位置づけに納得したいという気持ちを燃料にして整理を進めるというのは位置づけなくていいツールでは生まれない流れであり、それを積極的に利用するのはひとつの手だ。
59: Capacitiesのマイオブジェクト定点観測(2024/12)
この二つのことを合わせて考えた時に、「 Capacitiesが辞書になるのではなく、Capacitiesの中で辞書的なページを扱えばよいのではないか 」と思い至ったわけです。Node.jsの辞書、○○語の辞書、○○県の辞書、○○史の辞書、といったページがあり、それをまとめるオブジェクトタイプがあればスッキリします。
自分の生活に直結する情報を扱うオブジェクトタイプは後々のことも考えてきちんと設計する必要がありますが、知識の類は今現在楽しいと思えるのが一番で、今後も変わっていく可能性が大いにあります。
私がCapacitiesで作っているのは情報のデータベースではなく自分の興味に沿ったスクラップブックのようなものなので、 「どういうスクラップブックにしたら楽しいか」が唯一大事なこと です。
60: SoulLinkMapとの出合い
あまりにも応用可能性が広いのでチュートリアルのファイルを触ってもそれだけでは一体何をどうすればいいのかよくわからなかったりするのだが、私の中にあった「こういう見た目でこういう構造のツールがあったらいいのに!」という要求にほぼそのまま応えてくれるアプリケーションであることに気がついてからは、それまで辺りを覆っていた霧がすっかり晴れたような感じで自由に使えている。
私個人の感覚で言うと、Capacitiesに向かないものイコールSoulLinkMapに向いているもの、という感じで、時代を超えて相互に凹凸がカチッと嵌まるものに思えて一人で感動している。「あれ」と指させるもの(=オブジェクト)はCapacities、どうにか言葉で表現するしかないもの(≒サブジェクト?)はSoulLinkMapで扱えばいい。
T5: 手帳についての自分語りおよび来年の手帳・ノートのこと
それゆえ手帳を使うということをずっと試み続けていますが、「試み続けている」という状態から前進できている感じはしません。パートナーのような存在になっていかないのです。そもそもの話、自分が手帳に何を求めているのかが曖昧です。言うなれば、 人を愛するイメージも人と暮らすイメージもないのに漠然と結婚した~いと言っているかの如き体たらくです。
ここで、二つの選択肢が私の中に生まれました。ひとつは、手帳にパートナーとしての役割を担ってもらうこと。それは私がずっと手帳に対する憧れとして抱いてきた道です。もうひとつは、パートナー感に飢えることをやめ、「参照」のために使うと割り切ること。 イメージとしては最強の「生き字引」になってもらうことです。 いやそもそも生きてないしそれはただの字引だろう、というツッコミが入るに違いありませんが、手帳を最強の字引にするには私が育てなければなりません。現時点の私の手帳はまだまだ頼りないものです。その意味で手帳には生きもの的側面があり、やはり単に字引というよりは「生き字引」のイメージがより相応しく思えます。
61: 虫眼鏡を当てさえすればよい
要は、 新しいことを書こうなんて思っていないところにも、真剣に書きさえすれば新しいことは生まれるのだ。 むしろ、新しくないし大した意味もないようなところに何らかの新しい意味が生まれ出ることの方が楽しいし、素朴な感動がある。
となれば、何かしら書きたいとなった時に考えるべきは、「何を書こうか」「何を言おうか」ではなく、「何に虫眼鏡を当てようか」ということになる。 何に虫眼鏡を当てても何かはある。何かを見出すまで倍率を上げ続ければ良いのである。
62: B6バインダーを自作する(案)
あまり立派なのは勿体ないし加工も難しいのでやめておくとして、百均に売っているようなややペラっとしたバインダーならカットしようと思えばできる。というか、 かなり前の話だが『「超」整理法』に感化されて「超」整理手帳の真似事をしようとして、Z式バインダーを切って使っていたことがある。 (中略)その試み自体はまあお遊びのようなもので実用的というわけではなかったが、面白いことをやってみた感はあった。
一方で 「あわよくば記事にしてしまおう」というある種の下心があると「気が向く」のでちょっと労力を割いて調べ物を進められる。 結果として、メモはノートになり、「へえ~」の感動はより深いものになり、自分の心はアウトラインの規模とともに豊かになっていく。
この「自分にとって意味があればいい」と「増やせるなら増やしたい」の掛け合わせによって、今まで宙ぶらりんになっていた「へえ~」にフローが生まれ、最終的に公開するにせよしないにせよ、記述を豊かにする動線ができるようになった。メモに根拠のある居場所ができたことにはかなりのスッキリ感がある。
64: ObsidianをWebクリップ用ツールにすることにした
あと個人的には、Evernoteのデータというのがひとつの大きなデータベースとして存在していたのも「不純物の混在」を強く感じさせる要因になっていたなと思う。ローカルファイルならひとつひとつのページをもっと自由に「個別のファイル」として認識できて、邪魔になったらとりあえずアプリケーションが自動で認識しない場所に取り分けておく、みたいな操作をできればスッキリできた。それは「バックアップを取っておいて削除する」とは感覚的に異なる操作なのだ。
クリップしただけでは役に立たない、というのは本当にそうだと思う。なので情報を役立てるためには自分の手と頭を使って情報を適切に加工する必要がある。それはそれとして、とりあえず自分の手元に持ってきて安心を得るというのも私の中で重要なことなので、それが簡単かつ綺麗にやれるObsidianのWebクリッパーの登場はたいへんありがたい。
66: 目次と索引とオブジェクト
ネットワーク型の情報管理が流行る中、階層構造での管理は欠点が目立ってどこに行っても批判されているような状態ですが、しかし完全に階層構造をなくすことに私は不安感がありました。それはつまり、「目次がない」あるいは「地図がない」という心許なさだったのでしょう。
そういうことを考える時に、まずどこにどう書いて考えるのか、それもはっきりしない。というのは、 考えようとしている領域を指し示す呼称がないからだ。 もちろん、単に考える場を作るという意味ではどのツールでもいいから「私は結局どういうシステムを働かせて動いているのだろうか」という項目なりページなりを作ってその中に書けばいいのだが、名前がないと考えた結果を取り扱いづらいし多分継続的に考え続けられない。
ということで、自分が考えようとしていることを「ノートの流れ」、つまり「 ノートフロー(note flow) 」と表現することにした。ChatGPTに「これこれこういうことを指してノートフローと言い表そうと思うがどうか」ということを尋ねたら「英語的にも自然だし良いと思うよ!」という旨が返ってきたのでこれでよしとする。
T6: 目次必要性の傾向を考える
そう考えると、用途別ということに加えて例えば「掴みたさ」の強度を基準に強・中・弱くらいに分けてそれぞれ適当なツールをピックアップしてみるというような試みもありかもしれません。傾向で語ることはツールの正確な理解には必ずしも貢献しませんが、しかし無意味なことでもないと思っています。
68: 『ライフハックの道具箱2024』にてCapacities紹介記事を書きました
書くにあたっていつもの数倍神経を使いはしましたが、短い記事を一本提出するだけなので、そんなにきっちりしなくてもできたことではあります。しかし 敢えて雑にやる意味もない ので、意識的に情報をきちんと整理しながらやりました。元々几帳面な質ではなく油断するとすぐ雑然とするので「どうせなら綺麗にやっていこう」と意識しています。
Capacitiesはその「どうせなら綺麗に」という気持ちを惹起してくれるので、ズボラ人間でも恰も几帳面な人かのように情報を整えられます(個人の感想かつ当社比の話です)。
69: 下半期の振り返り
以上です!
ところで、去年まではこの「よくわかる~」のまとめは全て手作業で作っていました。記事とエディタを往復してコピペを繰り返すわけです。しかし今年はDynalist上で各記事のピックアップしたい行に色をつけておき、プログラムでまとめて機械的に出力してちょちょっと整えるだけで済むようになりました。記事データを全てDynalistで管理することによって可能になった処理です。
デジタルデータは自分で自由に加工できてこそ、と思います。
よくわかるNoratetsu House(2024年版)~前編~
今年も一年間に投稿した記事から一部分をピックアップして振り返っていきたいと思います。どんなサイトかがわかるようにということを目的とした総集編です。
去年までは投稿場所がBloggerでブログ名は「Noratetsu Lab」でしたが、今年は自分で作ったこの場に拠点を移したので今回は「よくわかるNoratetsu House」です。
一部分のピックアップでは文脈が削ぎ落とされるので、フックになるように一部を太字にするなどしておきました。複数の部分を引用しているものがありますが、引用と引用の間には必ずしも繋がりはありません。
まずは上半期。
1: 2024年
読み手にとってありがたみがあれば万々歳だが、それ以前に、 少なくとも未来の自分にとって「当時の考えや思いを言葉にしておいてよかった」と感じられるような文章でなくてはしょうがない。 過去の自分に「ありがとう!」と言えるように、その時々なりの誠実さでもって文章を書くことを心がける。
SNSのタイムラインは常に不意打ちである。 自分の場に流し入れるのは、不意を打たれても影響がないものに限ったほうが精神的には安全だろう。
2: 世間観察メモはナンバリングしながら書き溜めることにした
例えば読書ノートの取り方に思いを巡らせてみたりすると、一念発起して専用ノートを用意してびしっといい感じに書き込んでいきたくなるのですが、そう思った時は「血迷うな!」と自分を止めます。
と言っても、特別なことはなんにもありません。自分が作ってしまうルールやフォーマットからの解放がこのノート術(仮)の肝心なところです。
あとは、チラシの裏に書いて捨ててもいいような、計算などの一時的なメモを書く場にもなっています。そういうメモは案外残っていると嬉しいんです。役に立つという意味ではなく、気分的に。
これまで書いてきた通り、見開きを基本の単位としながらも左右で別の内容を書いていることがしばしばあります。 二間続きの和室みたいなもので、間の襖を開けたり閉めたりしているような感覚です。
几帳面に手元のファイルをまずきちんと更新して、投稿サービスではコピペするだけ、という手順を守っているならまだいいのだが、面倒になって投稿サービス上だけ更新して最終稿がそのサービスだけにあるとなると、いかにも「ちゃんと管理できていない」という感じがする。
また「内政」「外交」は政治的な言葉だが政治のニュアンスを含めたいという意図は全然ない。自分の個人的なこと(=内)と他者との関わり(=外)について考えていくとなった時に、 かつて光栄の三國志シリーズにハマっていた私は「内と外と言えば内政と外交だな!」と思って、政治的どころかむしろ「身近な言葉」として採用した。 私の中では子どもの頃にやったゲーム用語なのである。
同じ発想で、 Tak.さんのアウトライン・プロセッシング論に度々出てくる「未使用」はドラクエ流に「ふくろ」と書くことにした。キャラ一覧の一番下にあって、各キャラが現在装備・所持していないものが全部入っている宇宙的容量の謎の容れ物である。 「てんくうのつるぎ」も「うまのふん」も一緒に入っているような雑多な感じは、ともすると規範意識に影響されがちなアウトライン使いを柔軟にしてくれるかもしれない。
ところでいずれの言葉も、それに伴うイメージのうち余計な部分はしれっと無視して、またその言葉では補いきれないイメージもしれっと補完して考えている。(中略)この無視と補完は、人それぞれの歴史が反映されるものだと思うので、ただ人の語彙を真似してもうまくいかないのだ。
T2: 理想のタスク管理ツール
入力欄の設計は難問です。メタデータが複雑になると入力欄も複雑になってしまいます。 チェックボックスにしろリスト選択にしろ、ひとつひとつは簡単に選択できてもそれがいくつもあると嫌になってしまうでしょう。
タスク管理アプリが続いたためしがありませんが、それも入力欄の見た目の問題が少なからずあったように思います。しかしタイトルしか入力できないのではそれもそれで困るのです。わがままな話です。
具合が悪くなるたび、心身ともに健康な日を無駄にすることがどれほどの損かを思うのだが、しかし元気になるとその切実さを忘れてしまうから困ったものだ。(忘れないように今ここにわざわざ書いている。)
私の個人的な性質として、 ガイドにできるものが多いと(例えば方眼罫)、それを活かそうとしすぎてしまう ということがあるので、あくまで無地のノートにこだわっています。
区切って書くと各マスにゆとりが生まれるので、ページあたりの記述量は減ることが多いです。逆に、区切ることで隣との隙間なくみっちり書き込んでも気になりにくい面もあるので、むしろ増やすことも可能ではあります。マスというものの解釈次第でノートの雰囲気は変わるでしょう。 罫線のない無地であることで、マスの中の密度は全く自由に決められます。 大きい字で何文字かだけ書いたマスの隣が極小の文字で埋め尽くされていても問題は何もありません。
考えてみると、巻物のように全部広げて見られるならともかく、 ノートはどう頑張っても見開き単位でしか見られないわけですから、続きの内容がすぐ次に書いてあろうが離れて書いてあろうが割とどうでもいいことですよね。
子どもの頃に「じゆうちょう」を使っていた時、インデックスを作ろうとしたり「相応しいページ」を考えたりした人はあまりいないと思います。 自分で自分の自由を奪わないように、「こうしたら良さそう」という一見ポジティブなアイデアにも慎重になることが肝要です。
インデックス作りに囚われないために重要な大前提がひとつあります。それは「 インデックスとにらめっこして内容を思い出すよりパラパラめくった方が早い 」ということです。ノートがよっぽど大量でなければ、インデックスはなくてもどうにかなるでしょう。
上の方で書いたように私はある程度ノートを書き進んでからインデックスを作りますが、その理由は規範性への囚われ回避に加え、 ちょうどいいタイミングで振り返りの機会を設けるため です。
そもそも「従え」というのが通用するのは「従うことが正解だから」という建前があるからですよね。 与えられるものは正解であることが保証されている、という構図に慣れすぎているように思います。 もちろんそんなものは幻想なのですが、既に正解であるはずのものに自分が手を加える余地などないという体験が続くと、それがそもそもどういうもので成り立っているものなのかを考えること自体がなくなってしまう気がしています。
しかも、自分が余計なことをしなければ完璧であったものを勝手に自己判断で動いたせいで台無しになる、というようなことを恐れていれば試すこともできません。「台無し」のイメージの程度が問題で、 実際にはせいぜい「ちょっといまいちになる」程度のマイナスしかないようなことにも、まるですっかりゼロになるかのように恐怖しているようなことがあり得ます。
馴れ馴れしい言い方になりますが(すみません)、Tak.語とのらてつ語は傾向としてちょっと遠い位置にあるので、翻訳しないと自分の世界の概念に繋げられないわけです(逆にTak.さんから見てものらてつ語は翻訳の必要が生じると思います)。 つまり私の言い換えというのは「Tak.さんのメソッドを忠実になぞるために、忠実に翻訳する作業」ということになります。
良くも悪くも言葉があるとそれに引っ張られてしまいます。連想ゲームは意図せず進行してしまうものです。なので、対象がどんなものであり、それが自分の感覚・知覚においてどう表現されるべきか、じっと観察する必要があるでしょう。どちらかと言うと、 「名前をつける」のではなく「名前が見出される」 感覚になろうかと思います。
そういうわけで、意味内容を示すことを目指すタイプの「名づけ」をそれ以外の名づけと区別する形で言い換えてみようと思います。(中略)そこで行われることは、自分が知っている語彙の中で、その情報(または情報の集合)が持つ意味合いと共通点が多いものを探し出すこと、あるいはその特徴を他と区別しながら指し示せるものを探し出すことです。(中略)この試みを何と呼ぶか。 自分がその言葉によって特定の領域を想起できる状態を目指しているのだから、「象徴探し」なんかがいいかもしれません。
重要なのは、そのように元々あった要素を、Tak.さん式のフレームに収めて扱うようになったということだ。 適当な段ボール箱に突っ込んでいたものをちゃんとした棚に並べるようになったみたいな感覚だ。
取り組む際に「とりあえずは忠実にやってみよう」という意識を持てることは大事なことだ。 自分で考え出したものはあまりに有効性の保証が乏しいので、「とりあえず続けてみよう」と決めるのはなかなか難しい。 実際は「なんでもいいからそのまま続ける」ということこそが重要で「どうやるか」は割と二の次だったりするのだが、より良い方法を探さずにいられない欲張りな人間にはそれが呆れるほど困難だ。
なぜTak.さんのライフ・アウトラインはこうなっているのか、ということをよくよく考えることが、 自分の中に生まれる「良いこと」面した規範性を撃退する ひとつの有効な手立てとなっている。
16: Noratetsu Lab Dict.の改修作業をします
逆に、項目を縛るものがないということは「動かせてしまう」ということでもある。すべての項目を全く自由にしておきたいかというと、必ずしもそうではない。 「これは親項目なのである!」と思いたい時は、むしろゴテゴテと修飾して「重く」した方が納得感があったりする。 修飾が複雑になると別のストレスが生まれるのであまり変なことはしない方がいいが、敢えてどっしりさせるというのはひとつの選択肢だ。
何十行にもわたる考え事をした時などは、それを開いたままにしておくわけにはいかないので親項目を閉じてしまうことになる。すると、親項目を工夫しないと中身の存在感が消え去ってしまい、 「すごく考えた」という雰囲気がそこから失われる。 視覚的に邪魔だから閉じるのだが、そこにあった空気まで霧散するとちょっと困ることがある。
18: 一人で考えていると記事ができない
何かへの反応なら、「ここまで言い表せば十分である」というラインが見える。対象と程度が明らかになる。 そうではなく自分の中から出そうとしている場合には、対象があやふやな上どこまで言うべきかも自明ではない。
要はほどほどの距離の多様性が必要だろう。思考の相性が良く(つまり言っていることがすんなりわかり)、かつ自分では思いつかないような話をしてくれる存在。そういう人や場、読み物を見つけておいて日常的に巡ることが自分を停滞させないためのひとつの要になる。
19: 『すべてはノートからはじまる』の技法に自分なりの表現を当てはめてみた
この本では著者から「技法」としてポイントを示してもらっているわけだが、そのポイントに合わせて「目的+動詞」の形で要約したら非常に理解がクリアになったので、普段の読書でも勝手に「技法」として表現していったら良いだろうと思った。ちゃんと「技法01」「技法02」という風にナンバリングすることがミソだ。
20: サイトの引っ越しをしました
(自分自身が情報ツールを使う理由は)一言で言うと「がらくた箱」ということになるでしょう。格好をつけて書くと「心が動いたものログ」です。「がらくた箱」は私的なコレクションではありますがコレクター精神によるものではありません。スクラップブックと重なる部分は多いでしょうが、スクラップブックのようなテーマ性もありません。(中略)それをやる理由にはもちろん「好きなものを集めておくと嬉しいから」ということがあります。しかしそれ以上に、 心が動いたものを自分で頑張って捕まえないと自分が何に心を動かす人間なのか自分でわからなくなるという不安があった 、というのが大きな理由です。
21: 今月の振り返り(2024年2月)
また今月は本(主にKindle)を読む時間を多く取れた。「本を読むぞー!」というポジティブな気分だったからではない。心身ともに不調が目立ち能動的なことが難しい日がしばしばあり、暇つぶし的なこともできないがただボーッとしているのも嫌だという時に、本を読むほかない、となって読んでいた。
本を読むということの優先順位が下がりがちな身としては今月の傾向は地味に大きな変化に感じられた。 何しろ消去法で残ったのが読書だったわけだから、読書に際して気合が要らなかったのだ。
22: 豆エッセイのある濃いタイムライン
それはさておき、Podcastの語りに要約的な一文を与えるということをしばらくやっていて思うのは、「他の人の言葉はなんだかんだ要約しやすい」ということだ。 単に容易であるというよりは、「決着がつきやすい」と言った方が良いだろう。
それもそのはず、 自分の発想はあくまで「イメージ」で、一方人の言葉というのは「この人はこう言ったという事実」である。 ファンタジー小説と議事録くらい違う。
できれば「イメージ」状態と「事実」状態を両方保持したい。となると、もしかすると「イメージを一般化する」ということにこだわりすぎていたところに問題があるのかもしれない。(中略)やるべきは「変換」ではなく、「そこに含まれている構造の発見」だろうと思う。イメージを言葉にしたものはそのまま置いておき、そこから構造を見出す。当然、それは骨格に過ぎないので、イメージ全体の要約にはならない。恐竜の骨を見ても色や羽毛の有無はわからないのと同じようなものだ。それはそれでよいのである。
場所をはっきり分けるかどうかは置いておくにしても、居場所として納得できるように運用するとすれば、イメージはイメージで文章外の何かに依存せずにひとかたまりの文章として完結させることと、 雑多さによって印象を薄め合わないこと が必要に思える。つまり、「豆エッセイ」を作ること、そしてそれによって構成された「濃いタイムライン」を作ること。これにはイメージの場を永久に編集可能なままにしておかないという意味もある。
23: Obsidian再び
時には余白が狭いということも重要だ。なんでもかんでもゆったりオシャレっぽくすると自分の泥臭さとマッチしなくなる。あとシンプルに視界に入る情報量が減って困る。
24: がらくた箱と知の箱
ひとつ踏まえておかなければならないのが、「知の箱」と「仕事場」は違うということだ。「知の箱」にはこれという目的はない。こういう人間になりたいという目標はあるにしても、明確なゴールというのはない。一方で「仕事場」はプロジェクトの完遂がゴールだ。関係する資料は大量でも、今必要な情報だけがアクティブで、済んだものは眠ってもらって構わない。マニュアルや報告書は要るとしても教科書的な体系化は必要ないだろう。たくさんの情報を扱うということは共通していても「知の箱」と「仕事場」には性格的に違いがあり、「仕事場」として最適化されたツールやその使い方が「知の箱」に最適とは限らない。
25: 自分の「知」に必要な三つの箱
ただしそれ(=私に知的好奇心がないこと)は、何かを知ることに喜びがないという意味ではないし、何かを見てもそこから知的刺激を受け取らないという意味でもない。単に「もっと深く知ろう、もっとたくさん知ろう」という欲がないということで、何かを知ること自体にはそれなりの感動を抱く。 喩えるなら、ケーキを食べれば喜びを感じるしケーキを味わうつもりもあるが、積極的にケーキを食べたいと思うわけではない、というようなものだ。
豆エッセイというのは基本的に「思いついてしまったもの」でできている。 「思いついてしまう」というのは結構難しい性質を持っていると思っていて、自分の中から生まれてくるのだから一見能動的で積極性があるもののようだが、実際は自分の脳が自分の意識の都合にはお構いなしに勝手にやっていることだ。 自分の意識としてはむしろ受動的な情報のように思える。受動的なもの向けの設計をしないとうまくいかない。
T4: 今年新規導入・再導入したもの
(ライフ・アウトラインは)生活・人生の舵取りに関わる情報を包括的に扱う手法で、私としては何か初めてのことをやっているというよりは、今まで秩序なくとっ散らかった状態でやっていたことを「Tak.さんが設計した棚」に収めてやるようになったという感じです。その意味ではファイリングの技法を学んだような感覚でもあります。
当時は自分に関わる情報をあまりにごっちゃに扱っていました。一緒くたに扱えることが良いことだと思っていたからです。 ですが自分の性質を考えるに、明らかに関連の薄いものは別の箱に入っていた方が良いようです。
26: 思考の描写ログ
エッセイと表現しているが結局何をしていることなのかというと、「頭の中のイメージを人が読めるレベルの言葉にする」ということで、これを端的に言うなら私の中では「表現」または「描写」が合う。「表現」と言ってしまうと世間に発表できるレベルまで整えるイメージがあるので、「描写」にしておこうか。描写した結果として書かれたものを指すなら「描写」というより「随想」なのだが、動詞としては「描写する」が合っている。「ログ」と合わせて「描写ログ」。まあ悪くない。頭の中のことであるということを強調して「思考の描写ログ」としたらどうか。
27: 三つの箱(領域)の整理
28: ScrapboxとObsidianの個人的使い分け(2024年版)
ページがひとつひとつ存在していることが常に良いかというと、必ずしもそうとは言えない。というのは、例えば今現在私が「がらくた箱」として使っているScrapboxプロジェクトには4000ページほど存在しているが、これが全て個別のファイルとしてローカルに出力されたらちょっと耐えられない。ファイルが何千もあるということ自体圧倒される感じがして嫌だし、実体を持った形で並んでしまうとページの無秩序さが気になってくる。適当に使うことが難しくなるのだ。
逆に、内容によってはScrapboxではちょっと困るのだが、その要因はこの「視界に入る機会」にある。あるページが存在していても、そのページに至る導線がその後全く作られなければ、そのページに行き着くことはない。(中略)「必要が生じた時に見つかればいい」型の情報ではないものを扱うとするならば、それでは少し不便になる。
29: がらくた箱と宝石箱
子どもの頃のがらくた箱というのは、その時点で自分の目に輝いて見えたものを収集したもので、まだ関心の幅も大したことがないから必然的に純度が高く範囲が狭いものになる。例えば「情報」はその箱にはほとんど入らない。しかし大人になっていくと、むしろ情報に対して関心を持つ方が多くなるし、関心を抱く領域も広範になって、己の心の赴くままに集めていると量的に収拾がつかなくなる。
そしてふと気付いたことがある。単発のメモはやがて鮮度を失い死んでいってしまう一方で、 何かのアウトラインの中に存在している一行は、多くがそれ単体では意味が不十分であるにもかかわらず、かなりの月日が経っても「どういうつもりで書いたんだったっけ」ということにはならずに生きたままだということだ。
ただし、だからといって文章にしなくていいということではない。アウトラインは文脈の保存はできるが人に伝えるものとしての「思い」はそこに乗りにくい。事実が保存されているだけで演出がないからである。読み手の中に何をどのように響かせるかはレトリックにかかっていて、おそらく完全にリニアな表現(文章、映像ほか)でないとその力は十分に発揮できない。
31: メモとノートと書き物と文脈
メモを長い間生かすためには、その一文が既に言語化されている文脈と十分に接続することが重要ということになる。 つまり小さいノートに変身させるということだ。
例えば「メモとノートと書き物は分けて考える」という閃きが生まれたとして、そのままでは「なんで?」というのがわからない。そのうち何がしたかったのか忘れてしまうだろう。そしてメモは死んでしまう。でも、仮に「デジタルノートツールを適切に使い分けたい」という言語化された文脈と接続すれば、なぜごっちゃにしちゃまずいのかがわかる。縦しんばその時点にあった「どう分けるべきか」のイメージを忘れたとしても、そのメモはHPを半分くらい保った状態で生き残るように思われる。
32: 土であって種ではない
で、これ(=アトミックなノート)はつまり「土壌」なのだと思う。 あくまで「土」であり、じつは「種」ではないのだ。 「種」だと思って膨らませようとしても、「芽」が出るのではなくて「良い土」になっていくのであり、表現としての文章にはなっていかない。考え事は進むのになぜか文章に繋がらないということが時々あるのだが、それはこういうことなのだと思う。良い土になっても「種」がなければ一向に芽は出ない。 「種」というのは自分なりの文脈であり、自分の価値観に基づいて自分や他者をどこかに連れて行くための根源である。 良い土に種を蒔けば、それは芽を出し大きく育つ可能性が高くなる。
33: 結局考え事はどこでしているか
豆エッセイはTwitterをやり始めて爆発的に増えた。(中略)「つぶやき」に留まらないサイズの何かをTwitterで言い始めた時には、それはもう豆エッセイなのである。何か人に伝えたいこと、つまり文脈があり、それを人が読める程度の言葉にしている。それらは大体自分にとって重要な内容で、ツイートを書くというまさにその行為によって形を成したものであることが多く、なるべくきちんと保存しておきたい。しかしそれがなかなか難しかった。
34: 今月の振り返り(2024年3月)
メンタルがよろしくないと「茶の間」の更新が難しいようだ。書くネタが思いつかない。素朴なものに焦点を合わせられなくなってくる。あと何かを人にシェアしたいという気持ちがさっぱり湧かなかった。
35: ノードの本文を判定して任意のスタイルを設定する(Dynalist)
36: 古いノート・メモを年ごとに角2封筒に突っ込んだらスッキリした
前はサイズごとに扱っていたので時系列がよくわからなくなっていたのだが、 やはりメモ・ノートの整理の大前提として時系列に並んでいる必要があると思う。 自分のテーマとしてはっきりしているものはテーマごとでいいが、それにしてもそのテーマ内ではやはり原則として時系列で整理されているべきだろう。
例えば「ノートの使い方に関する自分の思索の変遷」みたいなことを辿るとすれば、それ用のノートを作っていたのでない限りは、年単位でごちゃごちゃと入っている中から漁って確認することになり、如何にも効率が悪い。が、 年単位でごちゃごちゃと入っている中を漁るということは、実のところ事前に想像するよりは簡単に済む作業でもある。 それ以上の効率は必要なのかどうか。
様々な形式で書いたものが封筒というひとつの入れ物にまとめて収納されている状態は、私にとっては思いのほか気分が良かった。 こんなにもめちゃくちゃにノートを書いてきたのにそれが全部ひとまとめになっている、ということになぜだか感動を覚えた。 きちんとバインダーに綴じたりノートに紙片を貼ったりして集約するよりむしろ「ひとまとめになっている」感があるのだが、多分そうやって変形したりせずに元の形のままであることを許容しているからだろうと思う。
37: 角2封筒で物理的に粒度を調節する
重要なのは、取り回しが楽な範囲で管理することだろう。パンパンに詰め込んだ場合、重くて取り出しにくい上に中身も出しづらい。そしてゆとりがないと内容物の確認のためにはいちいちすっかり出してしまわなくてはならない。それはひとまとめの粒度が大き過ぎる。封筒をケチってはいけない。
自分で封筒を手に取った時にちょうどよいと感じる粒度が、情報の管理上もちょうどよい粒度なのではないかと思う。 物質的な感触を基準にして決めるというのはアナログならではのことだ。
最近は「知識がなくても簡単にサイトが作れる」みたいなサービスがたくさんありますが、みんながそういうものに頼ってしまうと、サービス提供者が想定する範囲のものしか世に生まれないということになるでしょう。
39: カードとは何かを考えてみる
で、カードであることの何が嬉しいかというと、情報をオブジェクトとして扱えること、そしてそのオブジェクトに任意の文脈を持たせられることだろうと思う。
カードを使うこととネットワーク型の情報管理をすることは別に全然イコールではない ということも大事なポイントかもしれない。これはデジタル世代ゆえに発生する混乱に思える。
40: 「知」のノートの種類
41: 上半期の振り返り/浦島太郎再び
もう半分はまた明日。
よくわかるNoratetsu Lab(2023年版)10月~12月
総集編の続きです。これで終わり。
70:「机の上」引き出し
明示的に「机の上という共通項」で括った場所を作ることで、互いに全然関係がないようなものも普通に同居させていいことにする。これが「適当な箱にとりあえず入れる」に留まると雑然とした感じが拭えないままなのだが、「机の上」コーナーにすると気分として納得しやすい。
71:知見ノートを作る/タグ機能と仲良くなった②(Dynalist)
存在感が大きいことは変わっていないが、書きだす取っ掛かりがもうわからない。最初にもやもやとあったイメージはどこかに飛んでいき、その時点で残したメモを見て今想像できる世界というのは最初のイメージよりずっと小さい。今書こうとするとそのメモに依存しすぎてしまう。当時は全体の中の部分でしかなかったメモが、時が経った今では残されているものの全体になってしまっている。
73:デジタルツールは自分の記述にデータ感をもたらしてしまう
デジタルデータであるということ、フォントが整ってしまっていること、デジタルツールに頁や冊子のイメージが乏しいこと、あるいはそもそも重複を嫌う文化に触れてしまっていること、何がどう影響しての結果かはわかりませんが(人それぞれかもしれません)、それらの一つ以上の要素によって「一手毎にデータとして正しく整っていく」ことを目指す気持ちが知らぬ間に膨張し、私たちから自由を奪っているように思います。
仮に重複が気になったとして、「でも書く」か「だから書かない」かは大きな分かれ道になるでしょう。「気にしなくて良い」と言われてすんなり「じゃあ気にしない」と切り替えることは難しくとも、「でも書く」を選択することはできます。前に書いた! 気持ち悪い! 私の脳は貧困! と思ってしまいながら、でも書く。
極度の飽き性の人間はたぶん一日当たりの作業量を事前に意識してはならない。それは作業量の多寡とは関係ない話で、「毎日たったこれだけ」みたいな計算は慰めになるどころかむしろ邪魔なのである。
ひとつひとつ順番に着実に片付けていくという美徳に馬鹿正直に囚われない。ぐるぐると高速巡回して、完了に至ったものを順番に並べていけば、実情を知らない人間からすると恰もそれらをひとつひとつ片付けたように見えるだろうし、実情はどうでもいいのだ。
すいすい書ける人というのは、思いつくネタ自体多いかもしれないが、すいすいとは書けない人が諦めているようなネタを使って書けるというのもあるんじゃないかと思っている。
背伸びが合うか合わないか、ネタを厳選すべきかそうでないかは各々見極める必要があるだろう。自分にホームランしか許さないとして、それが自分自身にとってプラスに働くのかどうか。
T15:2023年10月時点のメモ環境
77:個人サイトを作りました
ブログを書いていてすごく気になるのが、続きとして書いた記事に前の記事へのリンクを貼っても前の記事からはそれが分からないこと、そして単語やフレーズを対象とした記述(つまり事典風の記述)を書きにくいことです。
肝心なのは、「自分から滲み出させる」ということに真剣であるかどうかだ。滲み出た結果がどういうものになるかはわからないけれど、前提として「滲み出させる」ことに真剣でなければ面白くはならない。取り繕わないこと。他人のことの前に自分自身を見つめること。自分の感じたことを言い表すために労を惜しまないこと。
ブログを開設して、あるいは投稿サービスにアカウントを取得して何かを書こうとする時、自分の関心や強みの最前線を表現しようとしてしまいがちだと思う。なぜなら、埋もれないため、書き続けるためには、少なくとも自分の中での最前線を走り続けないといけないような気がするからだ。
この先、「それでもブログを書く」という奇人変人がどんどん凝縮されていき、ブログというのは異様な迫力に満ちた謎空間になっていくのかもしれない。そうなったら面白いなと思う。
(自分が感じたことを書いて発表することは)世界と接続するものとしての公開であり、それは「発信」とか「アウトプット」とかではなく、世界にある小さな舞台に立って「私はこういうものを持っているんですけど」と「発表」する。それによって、私ははじめて世界に姿を現すのだ。
自分の生活に納得して自信を持っているように見える人というのは、やっていること自体が何かすごいとか立派だとかいうのではなく、そういう自問自答の蓄積で「私としてはこれが最善」と言い切れるようになっているということだろう。私たちが実際に憧れているのは、目に見えている部分の洗練された格好良さより、それを結果として導き出している、生活や人生というものに対するそういう堂々とした態度の方ではないかと思う。
82:デジタル手帳会議
手帳というのは日々の生活を記録したり管理したりするものなので、手帳の在り方を問うということは、同時に自分の生活そのものを問うことでもある。手帳会議というのは自分の生活を設計する時間と言えるだろう。
(ツールを)自分で自由に作れるとなれば、ぼくのかんがえたさいきょうの情報ツールを作ってしまいたくなる。頑張って考えて頑張ってコードを書いて、すごいものが爆誕したような気持ちになる。しかし最強に思われたそのツールは、どうにも上手く働かない。プログラミングが下手だからか。欠けている要素が何かあるのか。いや、全てを兼ねようということ自体が自分に合っていないのだ。
84:サイトの作り方①ホスティングサービスを使って公開してみる
85:サイトの作り方②APIを利用してみる
87:サイトの作り方③Dynalist APIを理解する
86:ブログの書き方ド下手問題⑫~経緯を説明しようとし過ぎている~
未来の自分に向けて書くならば省略できることは省略するものを、内容はそのままに不特定多数の他者を想定し始めると「自分とはどういう人物であるか」「どういう前提で話をしているか」の説明が必要になってしまう。そうすると未来の自分には全く意味を成さない自己紹介が文章中に増えていく。自己紹介するからにはそれは誤解されては困るので、十分な説明に努めようとしてしまう。
88:ブログの書き方ド下手問題⑬~知らせたいことと言いたいことは分離する~
自分の「表現」の前提に何か情報が必要なら、それを伝えるための「共有」の文が要る。その文が複雑化して読み手の負担が増えていくと、よっぽど面白い話でなければ「表現」の部分が霞んでしまう。抽象的な領域の話は、前提の共有がどうしても複雑になるので紀行文的に書くのは難しい。
自分に対する自分の忍耐が報われる瞬間を作るひとつの手立てとして、新規作成ボタンをなくして検索を強制することが私には有効だったということだ。
90:2023/12/17――AmazonからScrapboxにクリップするブックマークレットを改良した
91:デジタルなノートを作った
92:2023年の振り返り
T16:今年の情報整理・書き物振り返り
また、このサイト内に設置している「茶の間」というコーナーの存在が私の中で重要です。つまるところこれもブログで、且つどうでもいい感じのことを書いていくだけの場なのですが、こういうことをやるのにちょうどいい場というのが今までなくて不完全燃焼感があったので、どうでもいい感じのことを生き生き書ける場を作れて元気になりました。
以上です!
一年分の投稿を読み直すのは非常に大変でしたが、こういう機会を設けないとただ書きっぱなしになるので、年末年始や年度替わりのようなタイミングで見直すのは大事です。今年は余計自分の文章を読むのが辛かったので(悪文が多かったため)、来年末は楽しく読み返せるように良い文章を書いていきたいと思います。
さて、今年のブログ更新はこれが最後です。今年も一年ありがとうございました。
あなたにとって、私にとって、そして全ての人にとって、来年が今年よりも平和で苦しみのない年になりますように。皆様良いお年を。
よくわかるNoratetsu Lab(2023年版)9月~10月
総集編の続きです。
9月10月は多いので、10月の前半部分まで。
46:書き手のための小見出し
最初は「ずらずら長くなると読み手が大変だから」と思ってある種の親切心で文章を区切っていこうと考えたのだが、細かく見出しを入れるようになってみると、読み手がどうこう以前に自分が助かる感じがすることに気がついた。
何が助かるかというと、話が変わっていく時の「つなぎ」に余計な力を使わなくてよくなるということだ。
見出しを挟むと、そこで話の向きが変わるのは明らかである。変化が何もないところに見出しは置かれない。次の話の対象を見出しにすれば話の向きが大体伝わるし、結論を見出しにすれば次のまとまりのゴールまで伝えられる。話の流れのコントロールは非常に簡単になる。
単に勘違いや無知でかいた恥というのも多々あります。まあでも、「うわ~~~っ、恥ずかしい~~~~」と言っていられる程度の恥なら可愛いものです。自分が制御不能になったような黒歴史は、恥ずかしいというより恐怖の方が遥かに大きいのです。自分がいつ自爆ボタンを押すかわからないわけです。そのボタンは突然手のひらの中に現れ、気づいた時には押してしまっているのですから。
各テーマに対して、①何を理想だと思っているのか、②現在の心境はどうなのか、③理想と現実の乖離の原因は何か、④思いついたアイデアは何か、といったことを考えて書いている。そういう欄を作っているとかではなく、そういうものが含まれるように少し意識しながらフリーライティングした。
T13:脱「運頼み」の道のり
私の転機というのは、(中略)書き始める時点で全然解決していない自分の問題について書きながら考えることを自分に許したことにありました。
それさえ許せば、私は問題だらけの人間なので、なんだかんだ書けることが絶えません。
レゴブロックのようにカチカチ組み合わせる感じにはなりにくく、ドッと流れてしまうそのエネルギーの通る道を適切に設計するというのが、このタイプの人間が書く間に意識しなければならないことです。そして「流し直す」のが難しいというのも傾向としてあると思います。流し切るように書くタイプと言ってもいいのかもしれません。
49:作るためのツール作りから使うためのツール作りへ①目的の変化
最初のうちは、何かを思いついた時というのは具体的なコードを最初から最後まで細かく想像できるわけではないので、「本当にできるのか」というのはやってみないとわからない。実際、想像できなかった問題にぶち当たることもあるし、最終的に実現に至っても当初の予想とは結構違うコードになっていることもあった。その一連の「ある程度は予想できるけど実態については未知の領域」を探検する試みは、本当に楽しいし、次々思いついてしまうのでやめられない。
50:作るためのツール作りから使うためのツール作りへ②感覚の変化
自分の好きなようにデザインしたツールをあれこれ作っていく中で気づいたが、プロセス型にしろプロダクト型にしろ、アウトライナーというものが一番の大枠にあるツールではなく、色々な機能の中にアウトライナーの発想が包含されているような形式の方が自分に合っているのだと思う。つまり「○○型アウトライナー」よりも「××の中のアウトライナー的機能」という考え方だ。
51:作るためのツール作りから使うためのツール作りへ③力量の変化
正直ただ機能を作るだけなら割と簡単で、垢抜けないコードで良いなら基本的な処理をどうにか組み合わせれば結構色々なものを作ることができる。しかしアプリケーションに於いて重要なのは「起きてはならないことが起きないようにする」ということで、これが大変なのである。
T14:どうやって文章を書いているのか
この場合(=文章を書く手が止まった時)、次を捻り出そうと頑張りがちですが、しかし実のところ、「次に繋がらない道に一歩進んでしまった」ということがかなり多いです。なまじ文を作れてしまったのでもったいないのですが、それはあってはいけない文だったということがあるのです。
同じ時間推敲したとしても、推敲の出来自体もまたムラがあります。推敲力が下がっているタイミングだと、何度読んでもわかりにくさを自分では認識できなかったりします。日を置いて読み返して「何言ってるんだこいつは」と自分で思うことになります。
(システム手帳とは)その後も野良猫との交流のような付かず離れずの状態が続いた。十歳にもならないくらいからずっと持っているにもかかわらず、一向に仲良くなっていかない。しかしいつもすぐ手に取れるところに置いていて、何かに使えないだろうかと思い続けていた。
引用集や読書メモまとめなども綴じるつもりだ。ぎゅうぎゅうになってきたら如何にコンパクトにするかを考えるだろうし、省スペース化のために何回もまとめ直してエッセンスが凝縮されていったら面白いと思う。
何らかの工夫をしなければ昔の記事を読んでもらえることはまずないだろうし、「前に書いたので読んでください」と言ってもあまり面白みがないので、なるべく新たな価値を生みながら過去の文章を引っ張り出したい。活用可能なフレーズを作るというのはその点ちょうど良いのではないか。
56:流れで書けない時
(自分はどう感じるのかということは)問うてみればわかるが、問うてみないとわからない。問うたらわかるということが、問うてみないとわからない。つまり主観がしっかりしているということ自体が、それを発揮する瞬間に至らないとわからないのである。そして必然的に、主観が曖昧だということも問うてみないとわからない。
自分が何に対してどの程度活発に思考を巡らすかというのを、私は日頃「血流」でたとえて考えている。放っておくと血流は滞っていくが、「使えていない」とか「考えたことがない」といった自覚を持つとそこに血が巡りだす。
60:Denoを使い始めた
理解しなくても支障がないものだとしても、それがあると「理解できそう」という希望が生まれない、みたいなことというのがある。Node.jsのデザインは私にとって希望を生まれにくくする暗幕のようなものだったので、Denoの採用は大変に高い効果があった。
61:ファイルというモノから解放されて漸くデジタルがデジタルになった
結局問題は実際にごちゃごちゃしているかどうかではないのだ。ごちゃごちゃに対処するためには労力が必要だという予測こそが自分を苦しめる。
過去に作成したローカルファイルのごちゃつきはずーっと気になっていたことで、自分の認知資源をちびちび削り続けていた。しかしもう気にする必要のないことになった。
自分にはこれらをいつでもどうにでもできるという余裕が生まれ、何の葛藤もなく堂々と後回しにできる。むしろ、今やってしまうよりもっとスキルを得てからの方が良い結果になる可能性が高いわけで、なるべく後にやった方が良いとさえ感じている。これは非常に気楽である。
自己満足は自己満足として本気で徹底しなくては、読み手にとっても面白くなりませんよね。
見かける使い方というのが色々ある中で、全く見かけていないものを思いつくのは結構大変なことだ。自分が学習した「○○らしいやり方」にどうしても縛られてしまう。例えばアウトライナーは「アウトライナー」という名前でもう雁字搦めに縛られている人が結構多いと思う。例えばタグ機能は、他のツールとも共通する「タグらしさ」から離れがたい。
64:ファイル・フォルダ機能と仲良くなった(Dynalist)
アウトライナーでやりたかったことはいつでも「自分の意識を占めているものを可視化したい」ということだった。それだけではないが、それがいつも核にあった。「思い出し直す」ということが大きなロスに思えて、それがなくなるようにしたかった。
ノート欄にあれこれ書くと「重くなる」感じがすると書いたが、この場合はむしろ重くなって良いのである。私はここで色々考え事をしているぞ、というのがノート欄の存在によって未来の自分にも伝わるのだ。
思えば、Dynalistに限らず「タグ」というものとはなかなか仲良くなれなかった。常に先回りして「こういう分類があった方がいいんだろう」と頭で考えてやるから、手間ばかりかかって結局いまひとつ功を奏さない。後からタグを付け直すというのが非常に大変なのでタグを付けるなら最初からうまい具合に付けておきたい、という事情があるため、これはある程度やむを得ない話ではある。しかしついぞ「こういうタグが欲しかった」と思う瞬間が来ないので、いつまで経っても自分に必要なタグが結局なんなのかよくわからなかったりする。
これでめでたくDynalistと自作のツールが直線で結ばれた。ライフログがただただDynalistに溜まっていくだけになることはなくなり、記録しやすいものに記録し、管理しやすいもので管理する、という理想的な在り方に近づいた。これはかなり大きな変革である。
68:Chrome拡張機能を自分で作って活用する(Dynalist)
次が最後です。
よくわかるNoratetsu Lab(2023年版)4月~8月
総集編の続きです。
前記事で書くのを忘れていましたが、この総集編シリーズは各記事の中で「どういうブログかがわかりそうな部分」乃至「読み返していて自分がおっと思った部分」をピックアップするもので、各記事の内容の中心部分とは限りません。
28:NTA-DIY:2ヶ月目①~アウトライナーを自作してみる~
29:短文投稿サービスを彷徨う
Twitterに慣れることによって、「人に聞かせる」という行為に伴う自分の態度が曖昧になった。適当に喋っていても誰かは興味を持ってくれるということが自分を怠惰にしたと感じるし、「よそ行き」のものは「よそ行き」らしくした方がいい。「つぶやき」とか「ツイート」とか言うが、実際には本当の意味で「呟き」として読んではもらえないものだし、それ以上の何かとして読まれることをある程度想定して投稿しているところもある。ならばそれなりの意識を持った方が良いだろう。
自分が何かを発信し、それを相手が受信して発信に変え、それを自分が受信してまた発信に変える。これは会話とは少し違う。互いに相手めがけてボールを投げあっているのではなく、それぞれが全方位に電波を出したのを勝手にキャッチしているということである。情報の海のただ中にいるからこそ「会話」ではなく「全方位に電波」になる。会話は会話で必要なことだが、それはTwitterじゃなくてもいい。
30:ひとり掲示板で自由に呟く
この掲示板にせっせと一人で書き込んでいく。読む人もいるかもしれないと思いつつ、自分自身が必要とすることを書く。誰かに読まれてもいいように最低限文章を整えておこうという気持ちを動力にして、未来の自分が助かるようにきちんと言葉にしておくということだ。
「板があって、スレッドがあって、1000レスで終わりにするか場を改める」というのが「話題の管理」としてかなり合理的だなと今更ながら感じたのである。
T07:22日
しかし、「負けた気がする」という個人的な気持ちを払拭したいがために辛うじて1ミリくらい挑戦要素を含んだ文章をこのように勝手に書いていたところ、何もなさそうな砂場に磁石を転がしたら砂鉄がもさもさくっついたといった風に、ちょっとしたテーマが集まってきました。
33:拾い直しの旅
この二年くらいの間は、それ以前に自分にまとわりついていたものを振り払って少しずつ前に進むというようなことをずっとしてきた。脱皮していたようなものだ。
無自覚に縛られていたものを脱ぎ捨てて生まれ変われたようなところもある一方で、しかし今思えば別に手放さなくてもいいものを置き去りにしていたようである。新たな領域、空白の領域を求めすぎて、過去に一度でも触れて手放したものたちをまた拾い直すということはあまりなかった。
その拾い直しの作業をしていたのだと思う。
書けていない時というのは大体「書いていない」。書くネタを意識的に探したりしているとかえってこの状態になりやすい。何をどう書こうかと考えるばかりで、実際に着手しないのである。箇条書きで要素は並べてみるかもしれないが、他人に読ませられるような形の文章を書かない。
35:NTA-DIY:2ヶ月目②~付箋ツールを自作してみる-前編-~
きっちり整列させられるのはデジタルのとても良いところですが、逆に自由に配置したいということもあります。きちんと並んでいてほしいものはきちんと並んでいてほしいわけですが、きちんと並んでいる必要のないものがきちんと並んでしまうのはあまり嬉しくなかったりするのです。
(初学者は)疑問の持ち方とそれを表現する言い回しが千差万別なので、序盤のつまずきなのにもかかわらず先輩に尋ねて解決するのは大変に難しいものです。
36:NTA-DIY:2ヶ月目③~付箋ツールを自作してみる-後編-~
しかし、自分用なら世の中にあるような洗練されたUIでなくともよいのです。実行したいことが実行できる形であればよいのであって、それがどれだけ妙な姿をしていても何も問題はありません。つまり、「素敵なUIを作るセンス」はなくてもどうにかなります。
書き残すにあたって、普通はそういう時こそ日記の出番かと思いますが、日記を「後から読み返して楽しいくらいの記述」程度にしっかりしたレベルで継続するのが私には困難なので、自分以外の読み手の存在を借りる必要があります。人が読むと思うとちゃんと書かなければなりませんし、またそう思えさえすればするすると言葉が生まれていくのです。
そして「じゃあこんなこともできるのかな?」と何か思いつけば、もうそこに「これまでこの世に存在しなかったツール」が誕生するのです。それを作れる人は無限にいますが、誰も作らなかったからこの世に存在していなかったツールを、他ならぬ自分の手で作り出したことになります。別にそれは世界初のひらめきというわけではないでしょうが(それはそう)、少なくとも自分の視界を作っている世界の中では見当たらなかったものを自分で作り出せたなら、それは結構嬉しいことで、そして結構すごいことです。
T08:良い書きっぷりを目指す
「良い文章を目指す」としてしまうとどこかに正解があるかのようで迷走の元になりかねませんが、「良い書きっぷり」とすると私の感覚としては適度に主観的に思えます。
T09:上半期の振り返り
いずれにしても、たまたま出会った記述にその都度こだわって格闘しすぎるよりは、切り口の異なる記述をあれこれ見た方が早いと個人的には思います。書き手は各々全力を尽くしていたとしても、自分と相性がマッチしなければ読解は難しくなりますし、そもそも内容が絶対正しいとも限らないのです。
数学で言えば、平方根、指数対数、三角関数、微積分、行列などの単元に入った時の感覚でしょうか。もちろんわかる人はすんなりわかるのですが、そのステップアップに失敗して数学で挫折したという人も多いでしょう。既に自分の中にある理解の組み合わせが通用せず、正面からの格闘を求められているような感覚です。
たまたま自分で同じ形のものを作って初めて「あれってこれじゃん」と気づいて理解が一気に進んだというのは、他のことでもいくつかあります。メソッドの説明を読んだだけではよくわからなかったのが、後からまさにその挙動を欲するタイミングができた時に、自分でわざわざ複雑なコードを作ってから「もっと簡単にならないのか?」と思って「あのメソッドってこれじゃん!」と気づいたりします。
T10:チェックボックス依存症だった私
一日のことを頭の中で考えてみた時に、チェックボックスが並んでいるようでなければと思っていたところがありますし、一日の終りにはそれらにチェックを入れられなければと思っていたように思います。チェックボックスを並べられることが「まともに生きている」ことの証明であり、チェックを入れられることが「真剣に生きた」ことの証明のような感じがしていたのです。
私が本当に悩んでいたのは仕事ができるかできないかというレイヤーではなかったのですが、苦悩の結果パフォーマンスが落ち仕事能力が下がったことによって、自尊心が直接的に傷つき、それを癒やすために仕事術に縋り、表面上の仕事能力を上げることで安心しようとしていたと思います。その象徴がチェックボックスです。
日頃あまりにも「スッキリする」ということを求めすぎているとも感じます。ちょっと大げさに言えば「日々スッキリしていかなければならない」みたいな空気を感じます。もっと「ぬるっと生きていく」ことがうまくなっていきたいと個人的には思います。
よく受験生が写真を撮るように教科書を内容を記憶してしまうという話があるが、「何ページのこの位置にこの記述がある」という情報の威力は記述を把握する上で馬鹿にならない。自分の手で作ったノートにはそれが発揮される。デジタルツールでは表示が固定されないし追記でレイアウトが変わったりするので、位置の情報は使いにくい場合が多々ある。
また、この「表示が変化する」ということが、「自分が作ったノート」への愛着を減らしていると感じる面もある。作り上げている感がちょっと足りないのである。情報が溜まっていけば「これだけ溜めたぞ!」という量的な満足は生まれるのだが、「作った」という感覚がいまいち感じられない(私だけかもしれない)。
41:ブログの書き方ド下手問題⑩~人のブログにコンボを決めたいのに~
テンションは上がったのにいまいち何も生み出せない時というのは、その対象を十分に自分に引き寄せられていないということなのだろう。漠然と「いい」「すごい」「面白い」と思うに留まり、それが如何に鮮やかな感動であっても、「自分語り」に接続できない以上は言葉になっていかない。
ここで言いたいのは、「これはこういうことなんだ」という感動だけでは、その感動の大きさの割に必ずしも表現には結びつかない、という悩みがあることである。人の文章についての咀嚼・解釈に個性はそんなに現れない。読解は筆者が意図する意味合いに迫る試みであって、そこに自分の創造性がやたらと反映されていてもおかしい。やはり咀嚼の次の一歩が必要である。筆者のフィールドの探索の後に自己のフィールドへと帰り、自分のフィールドで何かを芽吹かせることでやっと表現に至るように思う。
T11:解釈の余地がない且つ無限の解釈があり得る - トンネルChannel
シンプルシンプルと言いますが、シンプルというのは要するに何なのか。それを考えると、「解釈の余地がない、且つ無限の解釈があり得る」ということだと私は思います。
ノリノリで投稿している記事と同じテンションで書いているつもりでいるのに投稿に躊躇う時がある。それは多分、「○○な人のため」という意識が欠けている時なのだと思う。じゃあどんな意識でやっているのかと言えば、「自分(の文章)が面白いかどうか」である。自分の存在意義に意識が向いている。
何かのツールをうまく使えている人には、数多のツールを渡り歩いてようやくここに辿り着いた、というような表現をする人がとても多い印象があります。それは「自分に合うツールというのはなかなかない」という事実とともに、「これだ!」と感動できるほどその人は自分の要望の解像度を上げてきたということも示しているように思います。
43:書いている時だけ天才の自分が書いた後のポンコツの自分を救う
何かを書こうとしているその一瞬だけ自分は過去にないほど天才的になり、その天才性は書かれた文章によって保存されている。自分自身は瞬く間にポンコツになっていくけれども、文章さえ書けていれば、その時一瞬だけあった己の聡明さに後から頼ることができる。
せっかくアナログの道具なのに、検索でヒットしないと出てこないデジタルツールみたいなことになっていたわけである。気分的にもよろしくなかった。自分の履歴であるところのノートが分散していると、自分自身も分散しているかのようだからだ。
正直なところ、ノウハウを知らない方が大人しく「後から見やすいノート」を作れたと思う。
インプットを変えてみて思ったのは、関心はあってもワクワクしないならしんどい、ということだ。「知っておかなければまずそう」だから頑張って追いかけているが、全然ワクワクはしていない、ということがよくある。他の人が話題にしているからついていかないといけない、それだけの理由で知ろうとしていたのであって、本当は別に好きでもない。そういうものも頑張ってインプットしていかないといけないが、自分のインプットがそれで埋め尽くされるとしんどくなってくる。
自分は何が好きかというのは案外簡単に忘れてしまう。その都度抽象化して自分の傾向を整理する努力をしないと、ハマっているものもやがて視界から外れた時点でなかったことのようになってしまう場合もある。
書けない時に「書き方」とか「ネタ」に意識を向けても、そもそも自分の体に書く準備ができていなければ言葉が出てこない。無理やり引きずり出しているようで、頑張った割に表現できたことは乏しいということにもなってしまう。もっと広く、生活自体を点検した方がいい場合もあるのだと思う。
まだ続きます。
よくわかるNoratetsu Lab(2023年版)1月~3月
今年も一年間に投稿した記事から一部分をピックアップして振り返っていきたいと思います。どんなブログかがわかるようにということを目的とした総集編です。
過去の分はこちら。
今年は100本以上書いているので複数回に分けて紹介します。特にピックアップしたいところがない記事についてはリンクだけ貼っておきます。
(Noratetsu Lab Dict.を)作っていてとても楽しかったのですが、自分を基準としたリキッドな描写と事物を基準としたソリッドな描写の両面があることで、表現として補完しあって完成形に近づいた感じが喜ばしいのかもしれません。
04:2023/01/08 ―― アイコンと生まれる表現/ドット絵を描くツール
ということで、「ふざけた顔」で「丁寧なことを言う」というのが自分の中にどうも抵抗を生じていて、結果として「ふざけた顔で雑なことを言う(もしくは雑になりそうだから黙る)」というのが自然になってきてしまった。それは良くない! 私がやりたかったのは「面白く在る」ことであって、「雑に在る」ことではない。雑というのは必然的に攻撃性の高まりも伴ってしまう。
キャラクターからゲームのユニットへ。それらは何が違うのか? 大袈裟に表現すれば、「叙情」から「叙事」への変化みたいなものがあるのではないかと感じている。叙情的表現が相応しい見た目か、それとも叙事的表現が相応しい見た目か。自分自身がその境界上にいるようなところがあり、恐らく見た目でどちらに流れるかが大きく左右される。
T01:リストの形の写真を撮る
「現在」は、言うなれば「事実」と「想像」の汽水域であり、それらを繋げる場であるとともに(なにしろ何かしらの行動を取れる――つまり何かを「事実化」できる――のは「現在」だけと言えるでしょう)、そうやって繋げてしまうがために、切り分けるのには「どう見ても終わっていること」「どう見ても先の話」というような客観的な明らかさを求めがちなのかもしれません。
T02:「新年の目標」
そんな状態なので、(私の場合)新年の目標というのは常に「今年こそは」と思って掲げることになります。既に失敗したものを、今年こそは実らせようと思って、ケツを叩くために自分に表明するのです。「できない」という結果がもう出ているのに、新年のやる気の勢いでどうにかしようとしてしまう。
もちろん自分の苦手要素と格闘することも必要でしょうが、それはなにも「新年の目標」でやらなくてもいいようなことなのかもしれません。「新年の目標」というのはもちろん「一年の目標」です。つまり期間が決まっているものです。しかも一年というのはあっという間です。そう考えると、苦手の克服を成し遂げることを期待するにはあまりに期間が短い気がしてきます。
つまり「作ろうと思えば何でも作れるはず」という前提の元にデジタルノートツールと向き合ってきた結果、かえって紙というものの普遍性と唯一無二性を感じることになったわけである。
雑に書かれたものは見た目に安定感がない。完成されているという感じもないし、どうにかしたほうがいいんじゃないかという気持ちを湧かせる。書かれた内容が何らかの意味で揺るぎないものだとしても、筆跡が雑だと「もうちょっとどうにかしたほうが」という感が漂う。単に綺麗に清書するなりPCかスマホに打ち込むなりして済むこともあるが、内容自体を考え直すこともある。内容が割合しっかりしていてもそうなるのであって、内容自体が中途半端なら尚更「どうにかしたほうが」感は強まる。
言い換えると、「整ったと錯覚する」ということを防いでいるわけである。美しく記述してしまうと、もうこれでいいのかもしれないという感じがしてしまうところがある。びしっと書けてしまったことには手を入れにくい。
06:焦がれたもの探し
つまり「まだ見つけられていない自己」に焦がれているのかもしれない。というか、まだ見つけられていないところに「好きになれるかもしれない自己」がいると感じているのかもしれない。
私は自分の外にある何かに強い関心を抱き続けるのがとても苦手だ。弱い関心をどうにかほそぼそと維持するか、強い関心を一瞬持つか、そのどちらかになりやすい。そして一瞬ならものすごく強く惹かれたというものであっても、波が過ぎ去るとそういうことがあったことすら思い出せなくなるので、私はいつも自分が空っぽのように感じている。
07:用語集に索引を作りました
10:NTA-DIY:まえがき
直近一年間はプログラミングをずっとしていた、ということをブログでも何度か書きました。一口にプログラミングと言ってもできることには無限の広がりがあるわけですが、その中で私が何をしていたかというと、簡単に言えば「デジタルノートツール(=Note-taking application)のDIY」だったのだと思います。
11:NTA-DIY:前日譚①~カスタマイズできる人ずるい!~
そこまでの自分の人生では誰も教えてくれなかったのに、わかる人は中高生の頃からもうわかっていて、専門用語だけで構成された文章を読んでどんどんわかっていく。自分は今調べようにもさっぱり話がわからない。その事実に直面して、「気づいた時には既に手遅れだった」という気分になりました。この世にはプログラミングがすんなりできるタイプの人間と頑張ってもできないタイプの人間がいて、自分はできないタイプの人間なのだ、と感じていたのです。
本当にコンプレックスだったのは無能さではなく「願望のなさ」「アイデアの思いつかなさ」だったのではないかと思います。プログラミングができるかどうかというより、「色々思いついて次々新しいことをやっている」という精神的な豊かさに憧れていたのでしょう。自分を引っ張る力と言っても良いと思います。その精神的な豊かさの才能が生まれ持ったもののように思えたので「ずるい」と感じたのです。
12:NTA-DIY:1ヶ月目①~どうせならTypeScriptを覚えればいいんじゃね~
プログラミング言語を学ぶ時に最初に困るのが、「書くはいいけど、書いたものはどうしたらいいの?」ということではないかと思います。実行環境なるものがわからないのです。既に何か言語を習得していれば他の言語を勉強する時にも「実行環境はこれなわけね、了解了解」と思えるでしょうが、最初の一歩では実行環境という言葉の意味自体よくわからないので、何をどう調べたら良いのかもわからないわけです。
完全なる独学ゆえに発生した回り道ですが、「正規の道」ではないところを探検してもいいのが独学の面白さとも思います。RPGをやっていて「次はここへ行きなさい」にすんなり従わず他に行けそうなところを探さずにはいられない身には、結果的に非効率であったとしてもそういう迷走の自由を感じられたほうが楽しいのです。
T03:書き物環境の変遷語り
(書き物用のツールは)複数作りましたが、共通して搭載したのが「上半分にアウトライナー、下半分にテキストエリア」のレイアウトでした。ひとつの記事管理データにアウトラインデータと本文データが合わせて入っていて上下に展開される、みたいなイメージです。
上下が反対のこともありましたが、ともかくアウトラインと本文が並んで常時表示されていることが私にとって重要なのだろうということに気がつきました。単に上下にあるのではなく、それぞれエリアがあって別々にスクロールできる形です。
T04:タスク管理の変遷語り
理想のツールを求めてプログラミングに精を出してきましたが、それとともにむしろ紙と筆記具を使う頻度は増しています。適切なデジタル化を図る過程で無理なデジタル化から解放され、適材適所になってきているのだと思います。
私が考える、初学者に於いて最も重要なことは、「おお、できたぞ」という感動です。うまくやれているかとか、よりモダンかとか、無駄がないかとか、そんなことは二の次三の次です。動けばいいのです。もちろん職業プログラマーになるなら別ですが、そういう志のある人はこんな記事は読んでいないでしょう。とにかく動けばいいのです。動かしているうちに勝手にうまくなりますしモダンにもなっていきますし無駄は減っていきます(最短ではないにしても)。とにかく動けばいいのです。そして「動く」ことに感動するのです。
14:NTA-DIY:前日譚②~JavaScriptを書けると何が嬉しいの?~
私にとって幸い突破口になったのが、「HTMLを使ってブックマークを管理したい」という思いでした。詳しいことは別途書きますが、HTMLに自分好みの見た目でリンク集を作りたいと考えた時に、「ベタ打ちはつらいからCSVの中身を表示できたら嬉しい」と思いました。多分それはJavaScriptの出番ってことだろうと想像し、なんとか望みのものを作った時に、「じゃあこれができるんじゃないか、あれができるんじゃないか」と思い巡らすことができるようになったのです。
ツールづくりに入ってからも、便利な組み込みメソッドが既にあることに気付かず、同じ挙動のものを自分で関数にしていたというのがいくつかあります。一言で言うとアホですが、本人は「やはりこれは一般的に多用される処理なのだ!」と思ってむしろテンションが上がりました。学習効率としては非効率なのかもしれませんが、気持ちの面では独学でマイペースにやっているがゆえのボーナスと感じました。それに、気分の良さがブーストになるのだとすれば、非効率イコール遠回りとも限りません。
16:NTA-DIY:1ヶ月目④~for文を解らないまま使う~
理想はその都度理解して適切なものを選択することです。ですがプログラミングが得意なわけでもなく現実はそうスムーズにはいかないので、回り道万歳と思ってやるのが良いと思っています。楽しんでいさえすれば、いずれ「そもそもこれってどういう意味なんだろう」と気になってくるように思います。
最初の頃、分厚い解説本を読み込むとかいうことはしないでずっと手を動かしていました。ちゃんとした解説本はそこそこわかるようになってから読んだのですが、「もっと早く読んでおけば」と思ったかというと、正直全然そうは思いませんでした。
18:NTA-DIY:1ヶ月目⑥~実作:簡単なブックマークレット~
何より、UIに沿って手動で行うアナログな入力に縛られずに「プログラムで動かす」という経験をすることは、少し大袈裟に言えば世界の色が変わるような体験です。それ以上のことを実際にするかどうかは別として、「やろうと思えば色々できそう」と感じることは心を豊かにすると感じています。
投稿も交流も昔とは比べ物にならないほど簡便になった反面、「つくっているということ」「つくる人がいるということ」に対してはありがたみを感じにくくなっているように思えます。すごいものを目にしやすくなり「おお、すごい」と感動する頻度は増した気がするのに、そのすごい人にその先も関心を持ち続けることというのは割合的に少なくなりました。出会いが多すぎるからでしょう。もはや飢えていないのです。その分だけ、私は情けなくも怠惰になってしまいました。
20:NTA-DIY:1ヶ月目⑦~DOMとAmazonブックマークレット~
21:NTA-DIY:1ヶ月目⑧~ScrapboxのUserScriptを作ってみる~
ScrapboxのUserScriptは私がJavaScriptを習得したいと思った動機のひとつです。是非とも作りたい何かがあったわけではありませんが、コーディングできる人が自由にカスタマイズして便利にしている一方、そのコードをすっかり公開までしてくれているのに自分はそれを参考にすることもできないのが少し悔しかったのです。
22:NTA-DIY:1ヶ月目⑨~ブックマーク管理ツールを作ってみる~
23:NTA-DIY:前日譚③~Excelの拡張としてのデジタルDIY~
そしてデータベース的であってほしいところをデータベース的にする試みを重ねる中で、データベース的である必要のないものはそうでない形でよい、という素朴な納得を得ることにもなりました。「Excelみたいにピシッとした」という状態への憧れを解体し、無意味に自分を駆り立てて不満を生み出す根源を撃退したのだと言えるかもしれません。
24:NTA-DIY:1ヶ月目⑩~初めてのノートテイキングアプリDIY~
25:NTA-DIY:余談①~ScrapboxとGitの貢献~
知識が乏しく経験が浅い時点で書いたメモは、その時の感覚で「こう書けばわかるはず」と思っているのですが、もっと先に進んでから戻ってくると何のことを言っているのかびっくりするほどわかりません。書き方自体が下手だったのも大きいと思いますが、能力不足で的確な表現ができないことによって、結局コードを細かく見ないと何がなんだかわからない記録になってしまいました。その時点ですごく頑張って記録をつけても、言葉にする労力があまり活きない可能性があるのです。
その意味で、うまく記録を作る力がなくとも、「そのもの」を残しておけるGitというのは本当に素晴らしい仕組みです。見たままを撮れる写真ですら写真の撮り方の上手い下手が後々問題になりますが、Gitのコミットログはどこからでも見れる3Dモデルを全ての段階で残しておけるようなものです。
26:【こういう】Scrapboxのページタイトルはスレタイ風に隅付き括弧を使うことにした【形式】
この形式の良いところは、なんといっても情報量が増えることだ。一文に領域が三つでき、それぞれメインとサブ①、サブ②であることが明らかである。且つ、隅付き括弧同士は繋がっている可能性があるが、真ん中の内容部分とは少し断絶があるという独特のニュアンスを持っている。そしてメインが何であるかは明確でありながら、両脇も強調している感があるのが面白い。
T05:Dynalistでブログを書く
大きなシリーズものや、あるいは本の執筆もきっとそうですが、必要な情報・内容を大きな括りから小さな括りへと階層になるように構成した時に、最小単位の「記事」が何層目になるのか事前にはわかりません。そういった場合に、フォーマットを予め決めておかなければならない形式や、層の数が限られるような形式はやりにくいと感じます。あるいは何層目かによって見た目が決まってしまうものも困ります。層を無限に作ることができ、どの層も同じ見た目をしているプロセス型アウトライナーは、その点で非常に自由です。
雑誌の手帳特集が楽しかったのは、写真で実物を見れたことにあります。手順の説明もあればよりありがたくはありますが、正直あってもなくてもいいくらいでした。その例について「わかる」かどうかより、誰かがその人なりに工夫して生きているということを「垣間見た」だけで嬉しいからです。
(VBScriptを)齧ったと言っても、一噛みで歯のほうが折れたという感じでプログラミングの勉強の履歴としてはカウントしていません。
続きます。
よくわかるNoratetsu Lab(2022年版)~後編~
今年の総集編の後編。前編はこちら(よくわかるNoratetsu Lab(2022年版)~前編~)。
大人になっても「少年の心」を持っていたい、ということがしばしば言われますが、それは性格的な純粋さを保つのもさることながら、自分という人間のエネルギーを失わないという意味で大事なのかもしれません。「少年の心」とはつまり「個性」の発露なのだと思います。
21:ブログの書き方ド下手問題⑨~一度にあれこれ語り過ぎる件~
読んだ後に「要するに、」と言って三行くらいで簡単にまとめられてしまうような冗長な文章は長い甲斐はないが、物事をわかった気にならずにきちんと考えるためには、必然的に粒度の大きい、つまり複雑なことを複雑なことだと示してくれているひとまとまりの文章を読む必要もあるだろうと思う。文章は要約されるためにあるのでもない。要約の暴力を跳ね除ける「濃い」文章と格闘することは絶対的に必要だと個人的には思っている。
分類の越境に対する不快感が取り除かれているならば、些細な関連性でもリンクになっていた方が良い。前までは適切なツールがないせいで分類したい情報を分離することができなかったため、その感覚を持てなかったのだが、自分でツールを設計することが可能になったことによりそれらを全部追い出した状態に行き着き、やっとScrapboxに合ったマインドになった気がしている。
23:AutoHotkeyを使い始めた/noteを一年半ぶりに書いた
どういう頻度で書くべきか、どういう長さで書くべきか、どういう内容を書くべきか、どういう文体で書くべきか、そういったことをぐるぐる考えていた。考えて悩んだだけで何も実行できていないのだが、とにかく「こうではいけない」という自己認識で苦しんでいた。
24:デジタルツールでの情報カード性および文脈との結びつきの在り方
これまで、文を部分的に取り出す時には「文脈を記録しなければ」という気持ちが強くあった。そのために文脈を要約するにはどうしたらいいかと考え、それがうまくできないことをもどかしく思っていた。それもそのはず、文脈というのはそもそも要約できないものであろう。要約するために「言い換え」をしてしまうと、かえって元のイメージに戻りにくくなることもある。
25:のらてつの茶の間とは
Scrapboxがあるのにわざわざ別のものを自作した理由のひとつとして、ついさっき書いたように「タグ」と「リンク」の機能がそれぞれ欲しいということがある。タグは「こういう領域の話」、リンクは「これについての話」というふうに使い分けている。私の中では、どうもこの二つに混ざってもらっちゃ困るようなのである。
翻って読み手の身になって考えた時、「読む」という体験として楽しいものというのは、「役に立つもの」より誰かの「どうだ!」だと感じています。「情報を得る」という作業の中では「役に立つもの」を欲することにはなりますが、別にそれは楽しいものというわけではないような気がします。TwitterやInstagramなどが面白いのも、やはり「どうだ!」に感心したり驚き呆れたりできるからだと感じています。
私はこの八ヶ月間ずっと楽しくJavaScriptのコードを書いていました。説明を読んでもちんぷんかんぷんなことはたくさんあって、「説明がわからない自分」に多少もやもやすることはありましたが、でもまあ、その記述がわからなくても、できるようになったことがたくさんある喜びと比べればそんなのは些末なことです。理解が及ばないがゆえにへんてこな自作関数山盛りでごちゃごちゃやっているダサさ極まるコードでも、自分でアウトライナーを作れたことの方が私にとっては重要です。
ちなみに、PCやスマホ内で自分自身が扱う種類のファイルを入れたフォルダの名前にも長らく納得がいっていなかったのだが、「_」にすることで決着した。半角のアンダーバー1文字である。どう名前を付けても変にレトロニム的になって気持ちが悪く、何の意味も示さない且つ名前順で先頭に来る名前が良いと思って「これでいいじゃん」となった。
ただしあまりに自明な場合を除いて、何のためにやるのかを1行でいいから言葉にして書いておいた方が、迷走を回避できるし動機づけの強化にもなるのは確かである。欄があれば書きたくなるので、メモ欄とは区別してわざわざ目的欄を設置し、なるべく書くようにと自分を仕向けている。
T08:飽き性だから凝ったツールを作る
仕事をする、何かを書く、というようなことをすれば、もちろん私がした何かが世界や誰かの中には残るのですが、それを自分自身が認識していられないと「私は何もできていない」ということが私の中では真実になってしまうので、「私はこの日これをした」という証明書を自分に発行するために毎日ログを残すのです。私の脳は私自身がしたポジティブなことを忘れたがっているようで、一目で把握できる形で書き留めないと容易く「なかったこと」になってしまいます。そのくせネガティブなことは絶対忘れてくれない残念な脳です。
29:エッセイ集団という夢想
そこで考える。もし、「ここに属している人なら面白いぞ」という保証を持たせられる、「個人の総合的な表現」集団があったとしたらどうか。
デジタルツールに関しては、前提として「アナログツールではなくデジタルツールを使う」という判断をまずしていることになる(そもそもデジタルの方が当たり前という人は別だが、アナログに軸がある人間からするとデジタルは意識的に選択されたものであろう)。そうすると、「せっかくデジタルのツールなんだし」という意識が働く。その意識は必要なものでもあるのだが、しかし油断すると「デジタルであることを最大限活かさねば」という意識に知らず支配されていたりする。
文章の場合もやはり、それを読む前と読んだ後で読み手に変化があるかどうかにかかっていると思う。話が動くかどうかも大事だが、読み手をどこかに運べるかどうかが重要なのである。本当は何が書いてあったのか分からなくとも、読み手が自分の中に変化を感じれば「何が言いたいのか分からない」という感想にはあまり至らないように思う。
予定について「組む」と言うように、アウトラインでも「組む」ことを考えていたから(私にとっては)駄目で、いわゆるキュー(queue)としてイメージした方がいいのかもしれない。つまりアウトライン(輪郭)を浮かび上がらせることは考えない。なおキューと言っても一番上から消化しなければならないものではないとする。とりあえず並んでいるだけである。
もしTwitterの画面を開いていたならばそこに文章化できたメモでも、他の「メモのための場」に書き留めようとするとそれがなぜか全然そうはならない。如何にも「メモっぽく」メモを取ってしまうのである。
より短く簡潔に書き留めた方が勝ちかのように、ササッと書いて済ませようとしてしまう。つまり「敢えて読み物にしないようにしている」という状態になっている。本当はちゃんと文章化した方がいいとわかっているのに、「メモなんだし」という意識がそれを邪魔している。一秒でも早く「メモを取る」という行為を終わらせたいという気持ちになっている。元の作業に戻りたいという意識がなくとも(つまり暇でも)、メモ書きは可及的速やかに終わらせたい。
軽快に勢いに乗って書いている状態が如何なるものかを考えてみると、私の感覚では「ほとんど全ての文が新たな意味を持っている」という状態だと感じます。その文章を通じて示したい結論に向かって進んでいるかはあまり関係ありません。新たに生み出す文が、そこまでに書いた文には無い意味を持っているかどうかです。
まず前提として、私は頭の中に「規範意識と合理性に沿った判断をしたい自分」と「自分の性質に正直に従ってカオスに生きたい自分」のふたつが存在しているということを強く感じている。別に人格が分かれているという話ではないのだが、判断基準が二つあるとか、片方の判断がそれと矛盾したもう一方の要素によって台無しにされるとか、そういうことを常に感じるということだ。かつては規範意識と合理性の側が勝ってしまいがちで、自分の本質を抑えつけて「真っ当」っぽい選択をしようとして、その結果精神を壊してしまうことにもなった。
タイムライン機能を考えた最初の動機は、ツリー構造とは別に「考えた順」に並べたいという気持ちが前々からあったことだ。アウトライナーは内容を基準としてツリー状に形を成していて、いつでもどこにでも書き加えられて書き加えるほど成長していくのは良いのだが、その場所から離れてしまうと「さっき考えたあれ」に戻るのがまあまあ面倒である。データの構造としては内容が基準になっていて良いのだが、それはそれとして「最近追加または編集したノード」が時系列順に並んでほしい。
36:2022/11/14 ―― 日付をタイトルにする試み/やり方を真似したくなるということ
やり方を見せてくれる人々は、それぞれが自分の中にある成分に基づいて最適化したものを披露してくれている。詳しく聞けば聞くほど「隙がない」かのような気持ちになってくる。ただ、そこにはその人を構成する成分しか含まれていない(それしか含みようがない)。そこに書かれていないこと――多くは故意に「伏せた」のではない――を考えなくてはならないだろうし、そのためにはやはり、自分の成分は何なのかを自分に問うて明らかにしなければならないだろう。
37:2022/11/18 ―― Twitterからの垂直移動/紙と筆ペン
私達はTwitterに適応し、Twitterは私達に適応し、進化なのか退化なのか分からない変化を双方が経てきた。なんというか、そろそろ考え直しても良いのでは、という気分になってきている。
水平移動ではなく、前にしろ後ろにしろ、どちらかに垂直移動した方がいいのかもしれない。前に何があるのかはよくわからないが、サービス側もユーザー側も手探りの中でやっていくような、ある種の謙虚さを持った場に環境をリセットしたい気持ちはある。
自分自身の思いをキャッチできるのはアンテナを張ってからだと思います。アンテナを張り、そしてそこにそれがかかってくるまで、どれだけの時間を要するかはわかりません。
でもまあ、死ぬまでにひとつでも多くわかれたらいいな、というくらいで良いのではないかと思っています。いくつ書き出せているかより、「自分は何にテンションが上がるんだろう?」「自分は何をやれたら良い人生だと感じるだろう?」と考えて何かが引っかかるのを待ち構えられているかどうかの方が大事だなと感じます。
知り合いや会社の関係者というような距離感の時、話をしていて「こいつ自分の行いを正当化しているな」と感じる場合があろうかと思う。しかし親しい友人が如何にも駄目っぽいことを言っていた時、同じように感じるだろうか。多分そうはならないと思う。内心に相手に対する敵意がある時、相手の「自分を描写する」という行為を許し難くなる。そしてそれを許さない時に、「それは正当化だ」と判定するのではないか。
己に囚われないでいることは、己を知らずに済ませていることと同じというわけではないように思います。知らなくて良いことは知らなくても良い、知る必要があることは知る必要がある。当たり前に思えることですが、何を知らなくて良いのか、何を知る必要があるのか、それすらも自分を知らないとわからないという難しさもあります。
39:お仏壇ライフハック
私は、「現状をより良くする」ということを目的にして何かの目標を立てたり自分と約束したりする、というのが基本的に下手くそなのだが、なぜ下手くそかというと、相手が自分自身だからである。自分が立てた目標を貫くモチベーションはさっぱり生まれない。自分との約束は守る方が稀な感すらある。というか、ちゃんと思い描いた通りにやれても、全然充実感を覚えないから達成したことを忘れている。
インボックスの概念などあるはずもないし「一箇所にまとめるとわかりやすい」なんてことは考えもしなかったと思うが、ただ「大事なものはとりあえず仏壇に置く」という習慣によって、仏壇の周りは「祖母的に大事らしい、且つ他に置き場所を見出していないもの」で溢れていた。
文章を書くとか物を考えるとかいう時、必ずしもすっきり交通整理することこそがそれに貢献するわけではないと感じている。交通整理して書いたり考えたりしたものというのは読んでいて「交通整理されたものだな」という感想を抱くわけだが、書かれるもの、思考されるものというのは整理されたところにだけ生まれるのでもない。
42:2022/12/11 ―― 「アウトライン」問題/TypeScriptを使い始めた
形式と目的が同じ語で語られてしまうと、形式に常に目的が伴っているかのように感じる。でも、アウトライン形式で何かを書いた時、それは必ず目的的なアウトラインなのかは疑問である。少なくとも、積極的にアウトラインを作る時と、アウトラインと言えなくもないくらいの記述をする時とのグラデーションがある。そのグラデーション全てをカバーできるのが所謂アウトライナーの強みだと思う。しかしアウトライナーと言ってしまうと積極的で目的的なアウトラインに持っていくことをイメージしてしまうところがあるのが、私の中では引っかかるポイントになっている。
こういうのは、「仕組みを理解する」ということはもちろん大事だが、とにかくたくさんやって慣れることが一番だなと思う。
大雑把に言うと、「これ言わなくても良かったな」と思うことが多い。書きたかったから書いた、ということが前提にあるわけだが、後からものさしを当て直した時に、「書く必要があるものではなかった」という評価が下される。
しかし、「書く必要があるものかどうか」で判断してしまうなら、最初からそんなものなどない、ということにもなってしまう。ブログやSNSに「書く必要があるもの」なんてない。
こう考えてみると、もしかすると「何度か上手くいったやり方がいつの間にか前提化してしまう」というところに弱点があるのかもしれない。環境の影響を大きく受けるにもかかわらず、(あるいはそれゆえに、)特定の環境に無意識に拘泥してしまっている。いや、拘泥というか、他の環境の存在を忘れると言ったほうが正確かもしれない。
46:「報いの時」感想
他のあらゆることより、「頑張ればこのキャラが手に入る」「頑張ればコレクションが欠けない」ということの快や安心感が上回っていると――いや、「手に入らない」「欠ける」ということが、他の何かをやらないでいることより大きい損失に感じられると――それをやめてしまう勇気は持てなくなる。
自分の内側に自分の感性に基づいて自分なりの世界を作るということ。ゲームを成り立たせている要素の総合的な摂取は、自分にとってその工程の手がかりになった。
今年はブログ記事を48本、トンネルChannelに11本、その他noteにAutoHotkey関連で9本書きました。週1本も書いていなかったような気持ちでしたが、均せば一応週1本ちょっとくらいになったようです。
よくわかるNoratetsu Lab(2022年版)~前編~
去年と同様に、一年の総集編として今年このブログに書いた全ての記事からそれぞれ一部分をピックアップしました。ちょっと多いので前後編に分けています。
なお2021年版はこちら→よくわかるNoratetsu Lab(2021年版)
番号の前にTがついているのはトンネルChannelに投稿したもの。
01:Scrapbox日誌:「整理したい病」には「放置」が効いた
複数の情報を扱う時、何かしらの観点で括れそうな気がすると括りたくなる。
物事と物事の間に共通点や相違点を見出すことは理解の基本であって、見出した瞬間には脳内に快感物質が出ている気もする。括れるところで括り、分けられるところで分けるのは気持ちが良いのである。
02:アウトライナー日誌:バレットを「┠」にしたらバレット感に邪魔されなくなった
アウトライナーを使いたいと思うということは、まず前提として「複数の独立した項目を同時に扱いたい」という要求があるだろう。項目同士が関係するかもしれないししないかもしれないが、とりあえず自分の視界から外れてしまうと忘却の危険があって困るので、つまり脳の機能上の制約を理由としてそれらを限られた範囲に同居させる必要がある。アウトライナーを使っている間、アウトライナーは私の視界そのものである。
03:Twitter日誌:同じ流れを繰り返してパブロフの犬になる
Twitterでツイートするということには「人に読んでもらう」という意識が伴い、話の流れに欠けがあると気になるため、その意識が「この後何か言うんだったような」という違和感となって手を伸ばし結びつきを作ってくれるように感じている。
04:ブログの書き方ド下手問題⑧~文章にするの面倒くさい問題~
つまり、メモするにあたって「これ」を名詞ではなく状態の変化として書き留めておくと後から文章にしやすくなるのではないか。しばしばブログ記事のタイトルに「○○したら△△になった」という形の表現が見られるが、それは要点としてとてもよくできていて、ただ読者を惹きつける手法としてだけではなく、後日文章を書く自分を惹きつける言い回しとしてメモに使うと有効に思える。変化を引き起こした事物そのものではなく自分自身の体験・体感にフォーカスしたメモを作るのである。
実際にできるようになったことの多さよりも、「できない気がする」と感じていた領域が無闇に果てしなかったのがある程度狭められたことが、自分の中では大きな意義に感じられる。
ゆえに、「線のアウトライナー」と「面のアウトライナー」の二つが必要なのではないか、と思うのである。万人に必要かはわからないが、とりあえず私には必要だったように思う。そしてマンダラートというアウトライナーとは一応別物として存在しているメソッドの形態が、アウトライン表示の追加やドラッグアンドドロップ操作の実装などにより、結果として「面のアウトライナー」と呼べそうなものになった。
07:座標のない平面
やはり「座標」の概念の有無は良くも悪くも大きな影響力を持っており、一口に「面」のツールと言っても「座標」の概念がどう扱われるかで情報の認識は随分変わる。前述のように「座標」があるツールは既に存在しており、少し前に自分でも付箋ツールを作った。それでもまだ手が届いていなかった領域が、「座標の影響力が限りなく小さい平面」だったのだろうと思う。
08:ツール製作日誌:三ヶ月で劇的ビフォーアフター①‡‡‡自作ツール紹介編
(付箋ツールは)「この情報をどのくらい視界に留めておきたいか」というようなことをコントロールできるのが良い。ページやカードで内容が分かれてしまうものだと、その点であまりうまくいかなかったのである。
09: ツール製作日誌:三ヶ月で劇的ビフォーアフター②‡‡‡生き方改革編
誰かがやってくれるのを待つしかなかった生活から、頑張れば自力でなんとかできる生活へとデジタルライフが転換したのである。何が何だかさっぱり分からなかった世界で主体性を手に入れたことは、精神的に劇的な変革をもたらしたと感じている。ますますデジタル化が進む中でも自分の生活をコントロールしていられるかもしれないという希望がある。
前の段落で、「プロジェクト」の語が伴う要素として「ある目的がある」「目的は達成される類のものである」「具体的な業務が計画・構成されている」という三点を整理した。(これは絶対的なものではなく、あくまで私の中のイメージの言語化である。)
事の規模の大小を無視すれば、これはあらゆる「タスク」が伴っている要素でもある。何かをやる必要があるという時、それは何か目的があるからであり、やればその目的の一部あるいは全てが達成されるもので、「やる」ということはつまり具体的な業務を実行することを意味している。「タスク」が特に「具体的な業務」の部分を指すならば、「タスク」と、そこにくっついている前提とを合わせたものが、「プロジェクト(という語の語感が引き連れている要素)」ということになる。
そういう変に神経質な人間なのに、プログラミングを全くわからなかった状態では「与えられたツールの使い方の工夫」という形でしか努力できず、したがって常に「なんか違う」という不満に悩まされていた。しかしプログラミング(JavaScript)を覚えたことでダイレクトに「自分のためのツール」を作れるようになり、初めてサイズの合った服を着れるようになったような気持ちでいる。作るのは大変だが、それでしか自分を助けられないとなれば頑張れる。
大分類・小分類・件名と三段階の分類がある。ただし、これらは「混ざると気持ち悪いものを混ぜない」「頭を使わずに探し出せるようにする」という為に設定するものであって、図書分類のように内容の種類によって分けるとかいうことではない。
前者はそもそも「ツリー」にしたいのであって「アウトライン」ではないかもしれない。しかし「ツリーを作れるツール」として身近で簡便なのが現状アウトライナーなので、ツールを選ぶ際にはアウトライナーが第一の候補になる。ただ、ツリー構造を作るのは簡単だが、それを維持・成長させることにアウトライナーが向いているとは限らない。枝葉の先ひとつひとつを自力で見回ってケアすることになってしまうからだ。
14:タイムライン型・カード型・デスクトップ型①~タイムライン型とカード型を使い分ける~
思索の根幹について文章を用いて使い回しのできる単位でまとめたものを豆論文(梅棹忠夫による)とかアトミックなノートと言ったりするが、そういうものの「小さな塊」の感じと、日々の出来事や自分の気持ちなどを「これ」と指し示せる形でまとめた時の「小さな塊」の感じを、どうも混同してしまっていた。両方とも「小さな塊」であることには違いないが、後からそれらの記述にアクセスする時、前者は「繰り返し使うもの」として取り出し、後者は「事実を確認するもの」として取り出す。そこには、粒度がある程度小さいということくらいしか共通点はなく、それらを交ぜてしまうのはビー玉と大豆を同じ袋に入れておくようなものに思える。
15:タイムライン型・カード型・デスクトップ型②~デスクトップ型~
目的に向かうためには、一度にできることはひとつである点で時間の流れというリニアな縛りへの対処を考えなくてはならない。一方で、何をしなければならないかを考えるには、同時に存在する物事や概念を俯瞰する必要もある。これを「縦の視点」と「横の視点」などとするとなんとなくビジネス感が漂うが、とはいえその二つが目的を達成するにあたり必ず要求されるものと思う。
一方でデジタルツールはどうか。Logseqに限らず、「表紙」にあたる部分はほとんどない。アプリケーションの起動時にはロゴが表示され、それがツールとしての表紙であろうが、そこには紙の表紙が担えた機能を一切付与させられない。デジタルツールはどれもリーガルパッドのように「いきなり紙面」のような形である。と言ってもいちいち表紙にあたるページをめくらされるのも煩わしいので、「いきなり紙面」であることが悪いというのではなく、デジタルツールの良いところでもある。ただ、「手前」にあたる場所がない、ということは、メタな記述をする場所として自然なスペースがないということでもある。
Evernoteが教えてくれたことがある。
ひとつは、「情報を得る」ということについて私は何も知らなかったということだ。「知らないよりは知っていた方が良いのかも」「覚えれば役に立ちそう」「私の関心にマッチしている」「絶対に必要な知識だ」、これらはいずれも「あ、」と思って自分の目に留まるが、それを全部同じように突っ込んで良いのかどうか。
大抵のことが「知らないよりは知っていた方が良い」ことだ。するとつまり大抵のことが網にかかってしまう。それを全部集めていたら、自分のEvernoteが地球か宇宙かになってしまう。自分でピックアップしている意味がない。少なくとも、自分のEvernoteというのが「個人的な関心に沿ったコレクション」なのか「自分の視界に入ったもので作り直した宇宙」なのか、意識した方が良いに違いない。
T02:インボックスを飛ばしたほうが良いわけではない、ということ
「多分必要」「多分価値がある」というような、弱々しい判断らしきものをしているがゆえに、多少は意識を向けたかのようなつもりになっていたわけですが、実際には何も考えていないに等しかったように思います。情報を見た時点で何かを「思った」かもしれませんが――いや、「感じた」に過ぎないかもしれません――少なくとも、「考えた」わけではありません。
アイデアというのはその人の自尊心などと固く結びついていて、切り離すことは感情的に難しいと思うし、切り離そうとするべきでもないだろう。企業で行うブレストは個人ではなく企業(ないし企業内のチーム)が主体だから成り立っているのであって、「知的生産を試みている者同士」で同じようにできるわけではないように思う。よって、「私たち語り」をするのであれば、知的生産の産物を発表し合う形でしかうまくいかないのではないだろうか。Twitterでならぽんぽん出てくるのも、それは「何月何日何時何分に私がこの言葉でこう述べた」という証拠が残るからであろう。
T03:Evernoteの用途と「Evernote体験」の質
Evernoteの有用性というのは、一番には「保存しておいたものをさっと取り出せる」というところに感じるものなのではないかと思う。そうできるシステムをEvernoteが備えているということと、そしてEvernoteを使う中でその良さを実際に体感するということで、ユーザーがその有用性を実感する。「さっと取り出せた」という体験をしなければ、Evernoteのシステムのすごさを頭で理解はしていても、それを実感できていないので、「ここがEvernoteの素晴らしいところだ」と惚れ込むこともなく不完全燃焼に終わるのかもしれない。
18:五十年残る文章を書く
つまり必要なのは、「渾身の文章」を捻り出そうとすることだ。内容のスケールは別に大きくないとしても(今日の朝ご飯の話でも良いのである)、「まあ大体言いたいこと言えてるし及第点だよね」みたいな軽さでちゃらっと書くのではなく、一文でもいいから地球に刻み込もうと思って書くということ。この文章を読むことでしか手に入らない何かがあるということ。「わかりやすい」「面白い」に留まらず、どこか独特な印象を残すということ。全ての人に満遍なく届かせようというのではなく、目の合った幾人かを掴んで離さないということ。
また、もしかすると個別のプログラミング言語の話や成果物の紹介よりも、「ツールというのはこれがああなってこうなってそうなるものということだ」的な、メカニズムの把握の仕方の方が「最初の一歩」の後押しとしては大事なのかもしれません。学校でプログラミング教育を受けていない私たちには、その部分にボコッと穴が空いている気がします。
19:ツール製作日誌:カード式アウトライナー③カードっていうかルーズリーフだった編
背景説明編にて自分で「Evernoteの本文部分がアウトライナーになっているようなものかもしれない」と書いたのだが、まさしくそうで、これはカテゴリとしてはEvernoteと同種のものだった。カードではなくノート(大学ノートやリングノートの意味での「ノート」)の流れである。私が「カードボックス」としてイメージした構造は、実際にはルーズリーフのバインダーだった。
アウトライナー部分がアウトライン構造から解放された状態というのが、このツールを作る前の時点では私の中でちょっと革命的だったし、「ばらせるもの」というイメージに基づいて「カード風」と捉えていた。実は「カード風」より「ルーズリーフのリフィル風」なのだというのは使ってみて初めてわかった。
そうなると、「自分を活かせそうなこと」ほどできなくなるおそれがあります。もしそうして大したことがなかったら耐えられないからです。その結果、わざわざ苦手な仕事をしたりして「そもそも活きるはずがないことだから失敗しても仕方ない」という保険を無意識にかけてしまったりもします。置かれた場所で咲きなさいという言葉がありますが(それもそれで尤もとは思いますが)、わざわざ咲きにくいところに自分を置いてしまう悲劇があります。「活かそうとしない」方が「活かしてみたけど大したことなかった」より一層損失は大きいと思うのですが、可能性が決定的に閉ざされる苦しみよりかは精神的にマシに思えてしまうことがあり得ます。
20:ツール製作日誌:プログラミングの勉強を開始して半年の振り返り
ツールのデータベースとしてローカルファイルを使えるということは、そのファイルがオンラインストレージ(Dropboxなど)にあればどの端末からもいつでも参照できるということである。(中略)つまり他のちゃんとしたツールとの間に橋が渡されたということであり、このことは自作ツールの可能性を大きく広げるものだと思う。
続きは後編(よくわかるNoratetsu Lab(2022年版)~後編~)へ。
よくわかるNoratetsu Lab(2021年版)
一年の総集編として、今年このブログに書いた全ての記事からそれぞれ一部分をピックアップしてみた。
記事の内容の核になっているとは限らないが、このブログがどういうブログかが大体わかると良いなと思ってコアな部分を選んだつもりでいる。
01:Restart
少しでもまともに見せたい――今の自分はきっとまともの域に達していないから――と背伸びをすることは、自分自身を否定し侮辱することに他ならない。我が子を人に紹介するときにわざわざ「豚児」だの「愚息」だのと言えば、その度にかすかな復讐心が子の胸中に居場所を得るだろう。己への侮蔑も、己からの復讐として返ってくることになる。
02:情報整理と執筆作業は「有機度」が異なるせいでひとつのツールに同居させられない
情報の整理とは、有機的に存在しているものを一度分解して無機的なパーツにバラし、再び別な手続きで有機的に組み直すことのように思う。人と人との間で情報を伝達するには必ず有機的な形でなければならないが、有機的に組んでいる箇所は服薬ゼリーのようなもので、飲み込んだら本体から外されていくことになる。脳に届くのは無機的な本体の部分である。
どうして私はアウトライナーとともに情報管理の「系」を作り上げていくことができなかったのか?
04:アウトライナーの使い方ド下手問題①~「きちんとしている感」との格闘~
そしてこの「どこにも位置づけられない思いつきの集合」が比較的短い時間で解体されていくのならよいのだが、ある程度はどこかへ巣立っていかせられても全てに就職先を斡旋できるわけではないし、もしデイリーやウィークリーで区切るということをしないならばむしろ膨張していくばかりである。「位置づけられないという場所に位置づけられた情報」が、どこかに位置づけられたいというメッセージを放ちながら、ほとんど無秩序にごちゃっとまとめられたままになる。いつか使えるかもしれない原石の山、と大きく構える心は残念ながら持てずにいる。
05:アウトライナーの使い方ド下手問題②~アウトライナーは「今」のものである~
作家の構想が箇条書きのまま本になることはないように、人に情報を伝達するには必ず「肉付け」をしなくてはならない。たとえ、読者が作った読書メモが結果的に作家のアウトラインとほとんど似通った形になるとしても、作家と読者の間には周到に肉付けされた文章が必要である。肉付けとはつまり文脈である。もう一歩突っ込めば、文脈とは「他の解釈の可能性」を断って読み手に一本の道を確実に歩かせるものと言えるように思う。
06:アウトライナーの使い方ド下手問題③~「自分」はもはや「宇宙」である~
ここで今日のテーマを確認するが、私が感じている問題は「情報の種類が雑多で量が多い」ことである。「量が多い」はともかくとして、どうして「種類が雑多」になってしまうのか。端的に言って、アウトライナーに書き込む対象の範囲が広すぎるのだ。日記や日誌を兼ねてしまうなら、広く「自分」のことを書いている状態と言えるだろう。「自分」を対象にするというのは、もはや「宇宙」を対象にするも同然である。
07:アウトライナーの使い方ド下手問題④~オールインワンという幻想~
アウトライナーは身体で言えば手指のようなもので、その存在は極めて重要だが、身体全体ではない。足で踏ん張らなければならないものを手指に支えさせたら当然に無理が来る。手指はいつも自由に動かせるようにしておく必要がある。
08:アウトライナーの使い方ド下手問題⑤~事前アウトラインと事後アウトライン~
文章を書いていると、自分でもよくわからないままにエンジンがグオオオッとピストン運動して文章が文章を生むという状態になることがある。それも割とよくある。文章を書くという行為をすればどこかしらには必ずその瞬間が訪れる気すらする。そうなったとき、その過程を逐一「構想メモ」であるアウトライナーに書き込むだろうか? 几帳面な人は書き込んでいくかもしれないが、私は全く書き込まない。よってアウトラインを大幅に無視して且つその結果がアウトラインに反映されないままになる事態が度々発生する。それは別に悪いこととは思っていないし、アウトラインのおかげでそういう脱線をどれだけしても本筋に戻ってくることが可能になる、ということにこそ執筆に於けるアウトラインの価値を感じている。
アウトライナーはとても自由なツールだ。順番を入れ替える、そして階層を作る、というのは人間の思考の基本であると思うし、原則としてその二つの操作だけを行うものであることが、アウトライナーを使う人間の性質を露見させているように思う。果たして「完璧な使い方」というものが存在するのか私にはわからないが、アウトライナーを使っていてどうにもうまくいかない部分には、その人の思考の流れを妨げる癖が潜んでいる気がする。
10:アウトライナー日誌:「設計図」または「説明図」という意識を持ってみた
なお、ここで削ぎ落としてはならないのは自分の「気持ち」である。最近は思索をまとめるにもまず「気持ち」「前提」「経緯」といった欄を作るようにしているが、私自身のベクトルの記録というのはいつも忘れられがちだった。
11:Obsidian日誌:フォルダ分けにDoMA式の「フラットスタイル」を採用する
常に自分の注意に合わせてフォルダを作ってしまいながら、結局それが整理上の混乱の元になるか、それともそれこそが整理に成功する要となるかという正反対の結果があり得るのである。DoMA式に対して感じるひとつの大きな意義は、自分の注意に基づく塊を作るということを、「分類が面倒くさい」という怠惰の結果ではなく「そういうシステムである」と考える発想の転換をもたらしてくれたことである。大袈裟なようだが、私にとってそれは確実にコペルニクス的転回であった。
12:Obsidian日誌:構造ノートとはなんぞや①~構造作りは自動化できない~
ところが、個々人が多種多様な情報を千差万別の目的意識によって収集して整理するとなれば、構造の種類も多様になって当然のような気がしてくる。一度うまくいった構造が次も使える保証はない。個人の好みや思いが反映される以上は、ビジネス文書や学術論文のような画一的な形式にはなり得ないと言ってもいいだろう。うまくいったものをヒントにはできても、それをそのまま使い回せると無警戒に信じるべきではない。
13:Obsidian日誌:構造ノートとはなんぞや②~文脈には前提・操作・根拠が必要である~
並べられたものを見て、頭の中にはほとんど反射的に何かしらの文脈が生まれる。しかしそれをきちんと書き表さなければ、その文脈が情報として意味を持てないのだ。そこに見出した意味を活用するには、情報の列挙を見る度にいちいち同じ連想をしなければならないことになる。それは不確実で非効率である。
14:Obsidian日誌:構造ノートとはなんぞや~まとめ~
そしてその実践のためには「対象を通して自己を綿密に怠りなく観察すること」が必要となり、そうやって構造ノートを作っていくことはつまり「自分として生きること」そのものではないか、ということである。
15:発想を文脈から解放するには①~実はみんないつもやっている~
ブログを書く上での地味な悩みとして、「導入をどうするか」というものがあり、ぬるっと入っていくうまい書き出しが思いつかなくてしばしばエンジンがかからず仕舞いになる。一ヶ月半ほどの空白ができた理由のひとつでもあるのだが、しばらく考えて今しがた出した結論は、「導入などない」である。
すなわち、使うためには、使えるフレーズでなければならない。当たり前のことを言っているようだが、私はそのことに長らく思い至らなかった。うまく言い表せたような気分で満足してしまって、それを用いるということを考えていなかったのである。
たまたま最初から活用可能なフレーズを思いつくこともあるし、そうなったならばラッキーだが、多くの場合は「状態を言い表してはいるが活用しにくいフレーズ」を核として取り出してしまう。それをそのままにしていては、いい感じのことを言えたはずなのに風化したという悲劇が待っているかもしれない。本当に風化させたくない大事な閃きならば、自由に使えるように形を整えておくべきなのである。
分岐以前と以後は、分かれてはいるがそこに断絶があるわけではない。遡れば繋がっている。今文章をひとつ書くにあたって分岐してしまったかもしれないが、そういう縛りがなければもやもやと一緒に漂っていたような思考なのである。その思考は今文章を書くためだけにあるのではなく、もっと根源的な「解明したいこと」のためにあるわけで、関係する全てがなるべくアクセスの良い近い場所にあってほしいものなのだ。
19:Git日誌:テキストファイルをホワイトボードのように使う
実際問題、分岐させて残すこと自体が愚かなのではなく、むしろ適切な方法でやらなくてはならないものとも言えるが、凡人には「適切な方法」が一向に培われないのが致命的である。既に要らなくなっているファイルに対して「要らない」と評価する仕組みが自分の中に確立されないので、よくわからないゴミファイルが「もしかしたら要るのかも…?」という儚い可能性によって残されたままになる。ついぞロードしなかったセーブデータのように、当時の文脈を完全に失って、ただセーブした瞬間の「念の為」が亡霊として彷徨っているのだ。
何かを書こうとするとき、何らかの意味で書く場所に制限があるということに大きな意味がある。制限がないことは自由かもしれないが、それは自分の脳を自在に働かせることに貢献するとは限らない。脳の中の芋づるを引き出してこなければならないなら、それを引き出す鈎が用意されていたほうがよいこともある。いきなり大海に放り出されるよりも、泳ぐ目安のある小さな川や市民プールに足を運んだ方が楽しく泳げることもあるだろう。
21:知的生産を「自分の想像を大事にしようとすること」と言い換える
私たちは数多の賢人の後に、あるいは同時に生きているのであり、天才でも何でもない身では「自分にしか言えないこと」などほとんどありはしない。自分の想像は誰かが検証しており、大抵は自分の知らないところでそこにいる人々の間での常識になっている。何を書いても内容に真に新しさが含まれることはほぼあり得ない。しかし、何かを書こうとしたとき、そこには自分の人生に於いて今初めて生じた想像があるはずである。何かを思ったから、自分の頭の中にあるものをわざわざ残そうとしているのだ。もう少しはっきりさせると、実際に残したいと自覚している想像と、それを自分の頭に呼び出した想像とがあるのである。たとえ他の人にとってわかりきったことでも、自分の人生でそれが生まれたことには自分固有の経緯がある。それは全く別の事とも繋がっていく可能性があり、その経緯こそが自分の個性だと私は思っている。
22:アウトライナー日誌:アウトライナーとは何型のメモなのか
アウトライナーというツールを使って項目を編集し操作していくことを「要するに細かいメモを作って動かしているのだ」と言ってしまって良いかどうかはまだ判断しかねるところだが、そういうツールであると言えるとするならば、「○○型メモ」という名称を捻り出すことによってアウトライナーなるもののわからなさが多少軽減されるのではないかという淡い期待を私はこっそり抱いている。
誰かが開発したツールを利用することにすっかり慣れてしまった今となってはとてつもなく原始的な工夫をしているような気がするが、私にとってはこれでいいし、これがいいのだと思った。
24:ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~
表現をしたいという願望はありながら、私には世に訴えたいことがない。何かを見れば批判的な態度になることはままあるが、批判のための表現をしたいとは思わない。他者の批判には礼を尽くした取材が必要で、大変な労力のかかるその仕事をやり遂げてでも自分の思う正義を表明しなければ、という使命感は私にはないのである。あらゆることに私より相応しい論者が存在し、実際に世界中であらゆる意見表明が生まれている。その中のどれを選んで賛同するか考えるだけで精一杯だ。
25:ブログの書き方ド下手問題②~自己の言語化を意味あるものにするには~
エネルギーは形を作らなくてはならない。かめはめ波でも気円斬でも気功砲でも魔貫光殺砲でもビッグバンアタックでも、エネルギーを自分が放出できる形に整えるから放つことができるのである。そしてその形は人それぞれ違っている。観察力があれば他人の形のコピーもできてしまうかもしれないが、それが自分にとって最強の技になることはあまりないだろう。
どうしたいのかということは自分の内側に最初からあるのだが、それを自分で捕まえることは驚くほど難しい。外れていけば違和感として心が訴えてくるが、この道を行きたいのだと明確に知らせてくれるわけではない。ひたすら自分の内面を描写して納得がいくまで検証するほかないのである。
もし何かを物理的あるいはシステム的に構築することだけが創造ならば、構築するものそのもの、それを説明するもの、それを進める先として胸に刻むもの、というふうに整理されるかもしれないが、「執筆」のように物理的な構築無しに思考を人に伝えることを創造の本体とするとなると、全ての段階、全ての種類の発想が創造の種となり得てしまう。ネタの位置づけと扱いは複雑で流動的になり、書くにあたって実際にどう使うかが決まる瞬間まで整理がつかない。ネタをどう育てていけるかがわからないのである。ある程度整理できたとしてもそこからどこまでどう膨らむかわからないのに、整理すらできないとなるとひとつひとつがまるで宇宙か何かのように途方も無い存在になってしまう。
28:ブログの書き方ド下手問題⑤~結論が出ないことを恐れない~
ブログを書くというとき、核にはそうやって「エネルギーを形にして放出したい」という願望があるのだが、自己を見つめてみるとそれとは別に「せっかく思いついたからなるべく面白い形にして発表したいなー」というライトな欲求もある。
人の思想に幾度も染まり直したことは私に多くの学びをもたらし、それは今の私を作る大切な蓄積になった。そこに、十年前に置き去りにした私の素朴な思いと望みを重ねて、今こそ自分らしいコンピューターライフを送ろうと思うのである。
30:Office日誌:フォントと背景で「自分の場」感を演出する
自分にとって気分の良い背景は何かということは私自身長らくわかっていなかったし、だんだんとツールが嫌になってくる要因として背景に納得できていないことがあるというのもごく最近気がついたのだが、気分が良くなる見た目を見つけて設定してからは「ここは私の場である」という意識を持てるようになった。
31:ブログの書き方ド下手問題⑥~試行風景を実例にしようとしない~
人に読んでもらうために書くのだから価値のある情報を出すのはある意味当たり前のことではあるのだが、ここで問題なのは、私がこうせねばと思っていた「価値」と、実際に文章に生まれる「価値」が違っているということである。文章が持つ価値というのは、「ここにこういう価値がありますよ」という語りではない。読み手の中の何かを動かしたということが価値になるはずである。「これに何の意味があるのかわからないけどなんか楽しそう」という感想を生むのも価値なのである。
32:ブログの書き方ド下手問題⑦~考えが整ったのに記事にしにくいものたち~
文章を書く時というのは、書きながら書き手自身に発見がないととてもやっていられない。自分としては既にわかりきっていることを、ただ人に読めるように翻訳するだけの作業というのは大変に苦痛なのである。書くということ自体が謎を解く探検の旅であるからこそ、私たちは何千字や何万字とかいう量の文字を拵えることができるのだと思う。
書くことがむしろ自分に何かをチャージするような形でないと、ブログというものを書く甲斐はないように思う。
34:Notion日誌:自己不在の不安が私を「データベース」に憧れさせた
今となってはそんな希望は幻でしかないことは当たり前にわかるのだが、当時はデータベースが放つ全能感に強く惹きつけられ、一方でデータベースの仕組みを今ひとつ掴めない文系思考人間の自分に無能感を募らせていた。私の中でデータベースという概念はコンプレックスとともにあった。コンプレックスによって惹かれ、惹かれることでコンプレックスが強化されていった。
35:デジタル日記の試み①~Scrapboxに日記用プロジェクトを作ってみる~
結局のところ紙にしてもパソコンにしても、何でもいいからどれかひとつの形式を決めてそこに淡々と書き続ければいいだけの話であるにもかかわらず、私の気質に問題があるのかそれがなんとしてもできないのである。大学ノートに書き始めていつの間にか何十冊に、みたいな話を聞くたびに私もそうでありたかったと溜息をついてしまう。
36:デジタル日記の試み②~Notionに日誌用データベースを作ってみる~
私の理想としては日記は巻物のようであってほしく、時系列順にずーっと続いた形で表示されてほしいのだ。実物の巻物は後から加筆するのが難しいのでアナログ巻物を日記とするわけにはいかないが、頭の中にあるイメージとしては巻物に見立てられることを前提としている。
37:デジタル日記の試み③~Wordで日記らしい日記を書いてみる~
必ず書くと決めることによって生み出される成果ももちろんあると思うが、私の場合はそういう自分ルールは己を雁字搦めにするデメリットがメリットを遥かに上回ってしまうので、「とにかく書く」より「とにかく書きにくくしない」ということを重視することにした。
38:デジタル日記の試み④~Dynalistに日記と日誌のファイルを作る~
(アウトライナーは)むしろ好きな粒度で「巻く」ことのできる柔軟なデジタル巻物と言えるかもしれない。アウトライナーの折り畳みはパタッと折り込むあるいはグシャッと潰す(collapse)イメージを持っていたが、模造紙にそうするようにくるくる巻いたり広げたりするイメージを当てはめることも可能だろう。
気をつけていることというのは、ずばり「思った通りに書く」ということだ。「なあんだ、月並みな」と思われそうなので念を押すが、厳密に「思った通りに書く」ということである。「思いつくままに書く」のではなく、「思った通りに書く」のである。「思い通りに書く」「自由自在に書く」「言葉巧みに書く」のでもない。真剣に、努力して「思った通りに書く」。
自分の思念を他人が読める形に文章化するというのは、腹に溜まっていたものを口から吐いていくようなイメージがある。下から上へ、時に心地よい深呼吸のように、時に苦痛を伴う吐逆のように、体内の諸器官をくねらせてどうにか吐き出していく。上手くいっていたとしても、やがて上半身が疲れて休みたくなる。
演出を加えずに正直に書くほど、進展した時にはそれが実際にどういう状態だったのか忘れてしまうように思う。書くにあたって拵えた「設定」は覚えている一方で、その時頭の中にあった光景は記憶に留めていられない。盛った嘘は覚えていても純粋な主観はあっという間に移ろってしまう。
今年はあとひとつ振り返りの記事を書いて一年を終えようと思う。