Noratetsu Lab

動じないために。

2022年1月

2022/01/28

Twitter日誌:同じ流れを繰り返してパブロフの犬になる

 シリーズにするほど継続して書くことはない気がするが、とりあえず「このツールの使用について」という意味でTwitter日誌と題しておく。
 最近ツイートをすることによる効果を実感したことがあったので書き留めておく。いわゆるライフハックである。


 

 突然だが、世の中には理不尽な出来事や無神経な言動が溢れており、それらを見聞きしたり実際に体験したりすると非常に気分が悪くなる。そして世の中に溢れているので遭遇する機会が大変多い。自分に全く関係のないことならばなるべく見ないようにして回避するという手もあるが、残念ながら自分自身に直接降り掛かったり自分の好きな対象が災難に見舞われたりすることはしばしばあるので、どうしても避けられないことである。解釈の力で影響を抑えるにも限度がある。
 そんな時どうしたら良いかとずっと考えていたが、去年思い至ったひとつの解決策が「仔パンダの動画を見る」ということだ。上野動物園のシャオシャオとレイレイの動画は毎週配信されているしアドベンチャーワールドの楓浜の方はなんと毎日更新されている。パンダって本当かわいい。動きに合理性が全然感じられないのが良い。規範意識や良識で頭がいっぱいの時には脳味噌をだいぶ柔らかくしてくれる感じがする。(関連:自分の機嫌は仔パンダ動画で取る - Noratetsu's Room(のらてつ研究所)
 とはいえ、出くわした理不尽で生じたネガティブな影響というのが、「心が深く傷ついた」といったふうに自分自身に直接関わるダメージだと、さすがにただかわいい動画を見ただけでは癒えないかもしれない。しかし、自分の良識に合わないものを目撃して湧いた「何だこいつは!」というような怒りならば、パンダを眺めることによってある程度抑えられる実感がある。

 さて、世の中の理不尽の話も仔パンダの話も本題ではないので脇に置くとして、ここで問題になるのは「気分が悪くなったら仔パンダ動画を見る」という流れをすんなり実践できないことである。気分が悪くなった時というのは、憤怒や悲嘆に支配されて全然冷静ではないので、仔パンダのことなんか思い出せないのだ。
 自分の脳波を常にモニタリングして負の感情が湧いた時に何かを知らせてくれる仕組みみたいなものがあれば苦労はないが、そういうものはまだ普通に使える技術ではないので、「気分の悪さ」自体をトリガーにはできない。まあそもそもの話、脳波をトリガーにして機械的に「仔パンダ動画を見ましょう」と知らせてこられたとしたら、それを素直に受け入れられる自信はない。
 それならば、自分の気分とは関係なく定期的に知らせてくれたら良いだろうか。それで良いかもしれないし、それだと壁に貼った宣言の類が風景と化すのと同様に意識を向ける気をなくすかもしれない。個々の性質に依るところが大きいだろうと思うので一概にこうとは言えないが、とりあえず私は風景化するタイプなので、定期的に知らせる方法はあまり向いていないように思われる。
 知らせの存在感が薄くなるということの他に、知らせから受ける印象の問題もある。気分が良い時も仔パンダ動画を見れば一層癒やされるのだし、いつでも視聴するにやぶさかではないのだが、一方「仔パンダ動画を見ましょう」という提案は気分が悪くない時にはされたくない。仔パンダ動画自体は自分の気分と関係がないが、「仔パンダ動画を見ましょう」の提案は「もし気分が悪いのなら」が前提にある。その前提自体がネガティブなオーラを纏っているので、タイムリーでない提案は余計である。単なる条件分岐としては片付けがたい(一度二度なら良いのだが、繰り返されるとストレスになる)

 トリガーが気分である以上自動的に知らせてもらう手段はなく、また定期的に提案してくるのもいまひとつとなると、結局自分の力で自然と思い出せるようになるのが良いのではないか、という結論に至った。学習を十分な回数繰り返せばいずれはそうなると思うが、定着するまでの間はどうしたら良いだろうか。
 頭で考えてみてもこれだという方法を見出だせなかったのだが、やがてTwitterがそれに役立つということに気がついた。
 習慣の定着を目論んだわけではなかったが、まず「気分が悪い」という旨をツイートし、その後に「仔パンダ動画を見よう」とか「仔パンダ動画を見れば良いんだった」とかいったことをツイートするというのを偶々数回繰り返した。そうすると、この時点ではまだ「気分が悪い」から「仔パンダ動画を見る」は直通ではないのだが、「『気分が悪い』とツイートする」と「『仔パンダ動画を見る』とツイートする」の間には回路ができたらしい。「気分が悪い」という内容をツイートした時点で、何かその後につぶやくことがあったような気がしてくる。そして「そうだ、仔パンダ動画の話だ」と思い出し、「仔パンダ動画を見よう」とツイートする。仔パンダ動画のことが思い出されたわけなので、そうだそうだと見に行く。
 そうなると、そのうち「気分が悪い」とツイートしようとした時点で「このツイートの後は『仔パンダ動画を見よう』だな」ということを無意識にイメージするようになるだろう。必然的に、ツイートの中身である「仔パンダ動画を見る」が「『気分が悪い』とツイートする」と結びついていく。そもそも「気分が悪い」という状態と「『気分が悪い』とツイートする」が結びついているからツイートしようとするわけだが、いずれツイートの過程をショートカットして「気分が悪い」と「仔パンダ動画を見る」が直結するかもしれない。(現時点でかなり近づいている実感があるが、まだ直結はできていない。)
 まとめるとつまり、

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という四つの工程があり、本当は①と④が直通であってほしいのだが、①と④はそのままでは遠すぎるので結びつきにくいというのが課題である。ここで①と②、③と④の間は最初から強く結びついているものとする。この時、②と③の間を繋げればひとつの流れとして繋げることができ、この場合は「ツイートする」という共通項が結びつきに必然性を持たせる要素になる。そして②と③が自分の脳内で当然の流れになれば、この回路を繰り返すことで①から④までの工程が少しずつショートカットされ、いずれ①と④が直結するであろうということである。
 結びつけたいものの間にある工程は②と③の役目を果たすものであれば何でも良いのだが、②と③の間が繋がるにはそれなりの強さが必要に思われる。その強さを持ち得る選択肢のひとつとしてTwitterがあるということに今回気がついたわけである。Twitterでツイートするということには「人に読んでもらう」という意識が伴い、話の流れに欠けがあると気になるため、その意識が「この後何か言うんだったような」という違和感となって手を伸ばし結びつきを作ってくれるように感じている。

(余談だが、ストレス対策としては、ストレスを感じた時に実行すると気持ちを回復できることをまとめると便利である(「コーピング」で検索推奨)。自分自身のことなのに、自分の気分を良くするものがなんなのか自分では思い出しにくい。余裕がある時に予め自分に訊いておくのがいざ困った時に対処できるためのポイントなのだろう。私は今のところ仔パンダ動画一択という感じで、昔作ったコーピングリストを参照することはほとんどないが、もっとストレスが増えたら話は変わってくるかもしれない。)
 

2022/01/21

アウトライナー日誌:バレットを「┠」にしたらバレット感に邪魔されなくなった

 タイトルで全てを言ってしまっているのでこれで終わりでも良いかなと思っているところだが、さすがにもうちょっと何かは言えるのではないかと思うので少し考えてみることにする。


 

 具体的にどういうことかと言うと、私のブラウザ上でのアウトライナーの表示をブラウザの拡張機能を使ったCSSの上書きによってちょっと変えて、「・」を「┠」に変えてみたという話である。
 実物を貼ると、これが……

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 こうじゃ。
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 元のスタイルを久々に見たら記憶以上に変えてしまっており自分でちょっと仰け反ったが、とりあえずこんな感じに書き換えている。リンクとか見出しとか変更要素は様々あるが、今注目してもらいたいのはバレットである。
 バレットがある――つまり箇条書きであることを強調したスタイルというのは、箇条書きが適している感じではないものを書き込む時に枷になる場合があるということを以前にも書いたアウトライナーの使い方ド下手問題①~「きちんとしている感」との格闘~

 よって、アウトライナーに何かを書くならば箇条書きの形で書くことになるのだが、ツールの形式が箇条書きだと、「箇条書きにする」という意識が自分の中で強く働く実感がある。
 つまり、「その要素を、そこに置く」という意識が生まれるのである。
 こう感じるかどうかは人それぞれだと思うが、私は感じるので、「これはここに置くのだ!!!」という思いが生じようのない情報を書き込むことを躊躇ってしまう。バレットは私を邪魔するためにあるのではないのに、私がバレットの纏うオーラに近寄れないがゆえに勝手に萎縮してしまうのだ。
 一方で、じゃあすっかり非表示にしてしまえばいいかというとそうでもない。バレットをなくしてしまうと、今度は前後の行と地続きになり過ぎる。全体が一体のものであるかのような気がして、全然無関係のものを並べてしまうと非常にカオスに感じる。テキストエディタにベタ打ちしてみると納得してもらえるのではないかと思うが、行頭にバレットがない状態でそれぞれ異なる文脈の文言を行間空けずに並べてしまうと非常に読みにくい。並んでいるのに全然関係がない、ということに自分の脳がついていけていない感じがある。
 例えばこんな感じ(例示のためにScrapboxに書いた全く適当なものである)

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 書いてすぐはいいが、後から見直すとなるとかなり辛い。そこにバレットをつけると……
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 なんということでしょう、それぞれを別のものとして認識できるではありませんか。行と行の間の空間は何も変わっていないのに、明らかに行の間で分断されていると感じる(少なくとも私はそう)。それでも、二つの行の間に実際関係があるならば、それらを関係があるものとして認識することも普通にできる。この場合では二行目と三行目に関係がある。
 アウトライナーを使いたいと思うということは、まず前提として「複数の独立した項目を同時に扱いたい」という要求があるだろう。項目同士が関係するかもしれないししないかもしれないが、とりあえず自分の視界から外れてしまうと忘却の危険があって困るので、つまり脳の機能上の制約を理由としてそれらを限られた範囲に同居させる必要がある。アウトライナーを使っている間、アウトライナーは私の視界そのものである。
 もちろん項目間の関係を見出すためという積極的な理由もあり得るし、アウトライナーは非常に自由なツールなので様々な理由で情報を扱うことになるだろうが、とりあえずは「項目」という概念がそこにあり、「項目」として捉えるということは何かしらの意味で「他の情報から独立している」という状態にあると言えるだろう。よって基本的には「隣の記述とは直接関係ないかもしれない」ということを感じる余地がある見た目になっていてほしい。つまり何らかの記号が冒頭にあってほしい(行間に線を引いたりすることも項目を分ける見た目としてあり得る選択だが、ここではそこまで分断されてほしいわけではない)

 ということで色々考えて私の中で決着したのが「┠」なのである。罫線の記号はディレクトリ構造を表現する時に当たり前に使われるので、見た目としては別に真新しいものではない。階層構造の中にある項目を示す記号としては普通の選択のように思える。
 見返しに戻ってもらうのも手間だと思うので上で貼ったスクリーンショットをもう一度貼っておこう。

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 色をかなり薄めにしていることもあるが、「・」よりだいぶ存在感が薄れる。しかし「┠」の枝分かれしている見た目によって、各行は独立した別の行に思える。前後の行との文脈のズレに混乱するということは今のところない。
 更に「┠」は縦の線が目立っていて、Dynalist内で項目のレベルを可視化している縦ラインとほとんど一体化して見えるので、空行が続いても気にならない。「├」ではなく「┠」を使っているのはそれを目的に縦の線を強めたいからである。いや、控えめとはいえ右向きに出っ張りがあるので、その先に何もないままになっていると気になる人もいるかもしれないが、私は気にせずに済んでいる。テキストエディタに何かを書く時に適当に空行をダダダダッと作るように、アウトライナー上でも適当な空行を作れるようになった。
 なお、子項目を畳んでいるときは「▶」にしている。「┠」と「▶」の間には必然的な対応関係は何もないが、畳んでいることが判って自分が見た目に納得できる形が自分の中では「▶」かなと思ったのでそうしている。視認性の点から記号の見た目の密度が違っていて欲しいので、黒の面積が多いことは前提条件として選んだ。
 だからみんなもそうしましょうという話をしたいのではないが、「アウトライナーを使いにくい」と感じているとして、その理由がもし「バレットの存在感が強すぎる」ということにあるのだとしたら、それはアウトライナーそのものの機能との相性の悪さではないわけなので、バレットを変えてしまえばそれだけで万事解決となる可能性もある。そしてブラウザで動くサービスなら、開発者にバレットの選択肢を増やすことを求めなくとも自分で見た目を変えることができる。店で買ってきた既製のノートや手帳に手を加えて自分好みの表紙や紙面にアレンジするように、自分が見ているブラウザに手を加えて自分専用の画面にしてしまえばよい。
 今すぐにそれを実行するスキルがないとしても、そういう選択肢があり得るのだということが頭にあればデジタルツールに対する考え方が少し柔軟になるのではないかと思う。ツールそのものを自作するなんてことは到底できなくとも、単に見た目の問題ならば誰かがいつか自分に合う形を作ってくれるのを辛抱強く待っている必要はないのである。
(一応ヒントはScrapboxに書いておきましたので必要を感じる方はご参照ください。)
 

2022/01/09

Scrapbox日誌:「整理したい病」には「放置」が効いた

 複数の情報を扱う時、何かしらの観点で括れそうな気がすると括りたくなる。
 物事と物事の間に共通点や相違点を見出すことは理解の基本であって、見出した瞬間には脳内に快感物質が出ている気もする。括れるところで括り、分けられるところで分けるのは気持ちが良いのである。
 それは同時に、括れるはずなのに括れていない、分けられるはずなのに分けられていない、という認識が自分を不満にさせる可能性も示している。


 

 自分がその不満に気分を支配されている状態を「整理したい病」と私は呼んでいるが、これに罹患していると毎日をもやもやとした気持ちで過ごすことになってしまうのでとても困っている。整理できていないことが気になって気になって、「あれ何とかしたいよなあ」とずっと考え続けてしまう。大抵のことは何とかしたからといって「スッキリした」という以上のものは得られないのだが、そのスッキリを味わいたいがために「きちんと整理されているべき」という客観的っぽい尺度を持ち出してきて自らもやもやとして生きることになる。勿論スッキリしようとすることは悪いことではないし、スッキリする瞬間を目指してウキウキとしていられるならそれは人生を豊かにするひとつの要素だとも思うが、しかしそれに「支配」されてはならないのである。
 「整理したい病」が根っからのものか環境・心境に依存する一時的なものかは人それぞれな気がしているが、私は自分のそれを長らく根っからの持病だと思っていた。身の回りの物や情報に片がついていないことにずっともやもやとして生きてきた。それを解決するには自分が望む形で整理を完了してスッキリさせるしかないのだろうと信じてきたのである。
 ところが、どうやらそうではなかったようだ。いや、どうあっても「整理したい病」の症状を発症しないタイプの人もたくさんいるであろうから、「発症し得る性質を生来持っている」という意味で最初から罹患しているのではあるかもしれないが、ただ生きている間じゅうその症状に悩まされるものというわけではなかったらしい。経験上、一言で言うと「行きたい場所がわからない」という心境の時、つまり「暇」な時に病に支配されるということが言えそうである。「暇」というのは毎日時間に追われているかどうかとは別の話で、自分の人生に於いて今この瞬間にどれだけの必然性を感じられるかという意味である。忙しくても必然性が感じられなければそれは自分の心にとってはぼんやり生きているのとあまり変わりがない。(ぼんやり生きるのが悪や愚だと言いたいのではない。)

 心境の如何については今は置いておくとして、私自身の「整理したい病」の発症と寛解が具体的にどこにどう現れたかをまとめておこうと思う。
 デジタルツールに関して言うと、最も症状が激しく手に負えない状態にあったのがEvernoteを使っていた時だ。十年から八年ほど前のことである。Evernoteが悪いのではなく、私の心がぼんやりしていたタイミングでたまたまEvernoteと出会ってしまっただけのことだが、「あらゆるものを入れられる」且つ「整理の方法に制限がある(工夫が必要である)」ということが「整理したい病」の症状を著しく増悪させたようには思う。
 最初に述べたようにこれは「括れるところで括りたい」「分けられるところで分けたい」という欲求なのであって、「探しやすいように」などという理由は自分の欲求を正当化する口実に過ぎない。よって、「検索で探せば良いんですよ」という対案は「整理したい病」を鎮めてくれることはない。本当に探しやすさを求めて「分類したほうがいいのかな」と思ってやっている人には効くだろうが、欲求で整理の罠に嵌っている人間には恐らく大した意味をなさない助言なのである。
 検索で探せば良いという在り方は、それ以前の情報の扱い方と異なり馴染むのに苦労するということも相まって、なかなか自分に取り込むことができなかった。ノートブックやタグを手がかりにした目視によって探してそれでも見つからなかった時にやっと検索に頼った。そうして見つかる度に「最初から検索かけてれば早かったな」とは思うのだが、じゃあ今度から検索に頼ることにしようとはならない。なぜなら情報群をうまいこと括りうまいこと分けることに欲求の源があるからである。「インターネットで調べ物をする時は検索エンジンで検索をかけているじゃないか」と言われても、それは自分に整理の権限がない領域であり他に方法がないから仕方なく検索しているだけのことであって、たとえ検索という行為が日常的であっても、自分の支配下にある情報に対してそれでいいと割り切る理由にはならない。そこですんなり割り切れるのがどう考えても健康的ではあるのだが、「整理したい病」に既に罹患しているのでそれでは解決しないのである。
 Evernoteのノートブックやタグの工夫については例が世の中にたくさんある。それらを眺めては「頭に記号や数字をつけて自分好みの順番に並べよう」とか「こうもり問題が生じるノートブックではなくタグで分類しよう」とか「いや用途がはっきり分かれるものはノートブックできっちり分けておこう」とか色々考えてあれこれ実践していたわけだが、最適解に落ち着くことはついぞなかった。情報源となっている人々がそれぞれ自分なりの方法論で納得しているらしいことを羨ましく思いながら、どの人のやり方もそのまま馴染まずに終わった(その人たちが本当にそのやり方に納得して落ち着いていたかはわからない)。肝心の情報の活用より情報の整理に多大な労力と時間を割いていたし、今当時の自分を振り返るともはや滑稽である。いかにも「暇」という感じがする。
 やがて、情報整理以外に新たな趣味を持ったことで「整理したい病」の症状は若干緩和し、Evernoteへの諸々の不満も重なってEvernoteとの格闘はフェードアウトした。Evernoteに保存された情報はそのままの形で今に至るまで残っている。その後アクセスした回数は指で数えられるくらいしかないし、あれほどたくさんの情報を突っ込んで整理に躍起になっていたのに、実体はそんなものなのである。別に中身がゴミというのではなく、思い出としての価値はあるし見返してみれば懐かしさに心温まりもするが、整理に労力を費やさねばならないほど情報として重要なものを扱っていたわけではないのだ。

 Evernoteとの戦いが終わっても「整理したい病」が完治したわけではなかった。趣味によって「暇」な度合いは僅かに軽減されていたが、その後はツールを転々としたりDropboxに置いたファイルのディレクトリ構造をごちゃごちゃ捏ねたりという形で症状が現れていた。もやもやした気持ちがなくなることはなく、そのうちにScrapboxに行き着いた。
 Scrapboxでもまた「整理したい病」の症状に苦しむことになった。とはいえ、Scrapboxのコンセプトからして「きっちり整理する」というのが最適解でないことは最初から解っていたし、自分の個性としての整理したさとどう折り合いをつけるかがテーマになっていった。つまり、「整理」からどこまで離れていってなお安心感を維持できるかを探る試みが始まったということである。私の人生は「整理したい病」とともにあったが、「整理したい」と思うことをいい加減やめてしまいたかったのだ。
 一方で整理の方法が判らないのが不安の一因になるので、Scrapboxに於いても整理が成立するにはどういう方法があり得るかを考えることにはそれなりの時間を使った。多少実践したが、大体は途中で飽きてやめることになった。Scrapboxの場合、大雑把に言ってしまうとタグというのは「リンクをタグと見なす」というだけのものなので、そう見なさなくなれば単にリンクに戻る。他のツールのようにサイドバーにタグの一覧が並ぶわけでもなく、タグだという解釈をやめるだけでその方法はそこで終わりになるのである。ツール全体の構造を左右しているわけではないから、整理に失敗したものが残っていても、新たにページを作ったり他の方法を始めたりすることに支障はない。
 色々なタイプのページを作り色々な方法で整理を試み、プロジェクトも増やしたり統合したりして、やがてメインのプロジェクトのページ数が2000ほどになった。もやもやし続けていたが、もやもやしたままそれだけのページ数をScrapboxというひとつのツールに作ったのである。Evernoteのページ数はそれどころではなかったが、Evernoteの場合はwebクリップやファイルの保管のためのページが相当数あってのことだから、多くが自分で書いたり構成したりした情報で2000ページになったことは自分としては驚くべきことだった。数多の場所に分散せずにひとつのツールの中にあるということがポイントである。

 しかしもやもやした気持ちも相当に膨らんでいた。2000ページの内訳をおおよそわかってしまっているので、あの類の情報はこうした方がとかこっちはこう括った方がとかあれこれ考えてしまうのである。リンクしてほしい情報間にリンクがないこともわかっているから、全部見返して適切なリンクを付けて回りたいとも思った。いずれも作業の量として現実的でないから実際にローラー作戦に出る愚はおかさなかったが、気になる気持ちはいつまでも消えなかった。
 その気持ちに疲れてきて、また他のツールへと旅立ちうろうろと彷徨うことになった。半年ほど他所で悪戦苦闘し(その苦闘についても色々書けそうではあるが、ここでは省略する)、しかし結局Scrapboxに戻ってきた。戻ってきたきっかけは何だったのかはっきりしたことは忘れてしまったが、今思い返すに恐らく「のらてつ」としての活動のために公開プロジェクトを使うことにしたから「非公開の情報の拠点もScrapboxの方がやりやすい」と考えたのではなかったかと思う。他に理由があったかもしれないがパッと思い出せない。
 そうして2000ページのプロジェクトに戻ってくると、半年間他の場所で戦っていたことによって、Scrapboxの中身がほとんどわからなくなっていた。半年の間ただぼーっとしていたなら中身を覚えていただろうと思うのだが、他のことに意識を割いていたのでScrapboxの方は脳内のリンクが細くなったような状態で記憶が不鮮明になったらしい。思い出そうとすれば「こういうページがあったはずだ」と思い至るが、自分の頭の中を埋め尽くすような感じではない。
 すると、雑然とした一覧画面を前にして、意外にも「まあいいか」と思った。Scrapboxの情報は整理されていないままなのでまた整理したくてたまらなくなるだろうと思っていたのだが、どうやら整理されるべきものが曖昧になってしまったので、整理したい欲も発症しようがなくなったようである。

 これは最近のことなので、もはや昔のものになってしまったEvernoteのことはこの時すっかり忘れていたのだが、考えてみるにEvernoteの方も同様である。情報はまともに整理されていないし、過去の自分の変な工夫が邪魔になってノートブックもタグも今となっては全く当てにならない始末だが、「まあいいか」という感じである。今更整理するのは現実的に無理だし、もうどんなものが入っているかわからない。そう、「わからない」から整理する気にならないのである。
 検索エンジンでインターネット上の情報を探す時も、何が世の中に存在しているのかをわからない状態である。整理しようがないし、整理されていないことが気になることもない(例えばWikipediaの内容などは何かしらの基準で整理されていてほしいが、インターネットそのものは整理されていなくても構わない)。それは全体像がわからないからだ。括るにも分けるにも、基準が必要になるわけで、基準は全体像となるものを認識しているから生まれるものと思える。何を全体像にするかはその時々で、自分が全体と見なしたものが真に全体である必要はないが、自分なりにこれが全体だと決められないことには整理ができない。ひとつの情報と情報の間をその都度つなぐことはできても、「こう括ることにしよう」「こう分けることにしよう」と決めることは難しいのだ。
 自分の手で作ったり集めたりした情報は自分である程度覚えているので、何かのツールを普通に使い続けていればずっとおおよその全体像を把握していることになる。何が入っているのかわからないということにはなりにくい。そうすると整理の基準を考えることができてしまうことになる。解決策のひとつとして、思索や収集を加速させたりランダムにしたりすることによって「もはやわからない」ということになる可能性を上げることはできるかもしれない。ただ誰でもそうなれるわけでもないし、いつでもそうあれるわけでもなさそうである。私の場合は、十分な量を蓄えた状態で十分な時間離れたことにより、偶然にも「もはやわからない」という状況に至った。
 また、Scrapboxにはそれ自体に他のツールのようなタグやノートブック的なシステムがないことによって、わからなさを気にせずにまた同じ場所で再開できているのも重要なことである。例えばEvernoteはそうではないので、Evernoteに拠点を戻すことは難しい。ツールの機能の如何とは別の問題として、自分が構築したものに手を加える必要が生じるのがネックになる。それが実のところ非常に大変なことなので、もし戻るなら新たにアカウントを作ることになってしまう気がする。

 そういうわけで、Scrapboxに詰め込みに詰め込んで一度放置したことが、結果的にScrapboxのコンセプトに沿った現実的な運用を自分に馴染ませることに貢献した。これは自分にとっては全く予想しなかった展開で、今は「おお、Scrapboxを気楽に使えているぞ」という感動を日々感じている。何が自分の枷を外してくれるかというのはわからないものである。
 なお、途中で「『整理したい病』の発症と寛解」と表現したが、これはあくまで寛解であろうと感じている。整理に労力を費やす以上に大事なことがはっきりしていれば惑わずに済むだろうが、それが曖昧で少しでも「暇」になると、上述したように全体像を意識し次第に整理したくなってしまうであろうし、その性質が消えることはないように思う。自分を蝕んでいるので「整理したい病」と表現したが、整理する基準を見出して整理しようとすること自体は別に滅すべき悪しき性質ではないだろうし、それがプラスにだけ働くように自分で手綱を握り、暴走を防いでいけたらそれでいいだろうと思っている。
 今回書いた「もはやわからない」は対症療法だが、そもそも「暇」にならないことも重要な点である(話が大きくなるのでここでは触れないでおく)
 

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