mdファイルを用いたデジタルノートアプリケーション。
Obsidian - Sharpen your thinking
ローカルのmdファイルを使うところが特徴的。スマートフォンアプリもある。
開発者はDynalistを作った人たち。
愛用者たちの手により数多のコミュニティプラグインが作られ、機能は無限の広がりを見せている。
動じないために。
mdファイルを用いたデジタルノートアプリケーション。
Obsidian - Sharpen your thinking
ローカルのmdファイルを使うところが特徴的。スマートフォンアプリもある。
開発者はDynalistを作った人たち。
愛用者たちの手により数多のコミュニティプラグインが作られ、機能は無限の広がりを見せている。
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年単位で昔にしばらく使っていたものの、なんでかプチフリーズが多発して使っていられなくなってやめてしまったObsidianを、また主力として採用することを検討し始めた。
今までずっと使っていなかったわけではなく、限られた用途では使っていた。しかしそれは単に「mdファイルを扱うなら他を使うよりはObsidianだろう」という程度の位置づけだった。
プラグインをあれこれ見て、自分に実際に必要な機能を備えていそうなものをインストールした。前から入れていたものも含めて現在インストールしてあるのは以下の26個。
数えてみたら思いのほか多い。これでも「面白そうなものを片っ端から入れた」というわけではないし、インストールしたものの自分の用途に合わないとか相性が悪かったものは除いてある。
そしてCSSもあちこち弄った。まず自分の好みとして背景色はほぼ真っ白であってほしいので白くして、フォントサイズを下げて各所の余白を適度に詰めた。現状の見た目はこんな感じ。
先月、ObsidianがWebクリッパーのブラウザ拡張機能を公開して話題になっている。
とても簡単で便利! かつてEvernoteにガンガンクリップしていたのと同じ感覚で使えそうだ。
そのEvernote時代は、なんでもかんでもクリップしたことでごちゃごちゃしてきて、自分でやっておきながらそれがストレスを生み出していた。
どうしてごちゃごちゃしているように感じたか。それはWebクリップのように自分の手や頭を通さず機械的に作られたデータが、自分の作ったデータに対して多くなりすぎたから。いや、数のバランス以前に同じ場所にあること自体がごちゃごちゃ感を引き起こしていたかもしれない。
検索すると色々引っ掛かってしまうということが、「それこそが便利」だったかもしれない一方で、自分の中の情報の住み分けと感覚的に合っていなくてうっすらストレスになっていた。
あと個人的には、Evernoteのデータというのがひとつの大きなデータベースとして存在していたのも「不純物の混在」を強く感じさせる要因になっていたなと思う。ローカルファイルならひとつひとつのページをもっと自由に「個別のファイル」として認識できて、邪魔になったらとりあえずアプリケーションが自動で認識しない場所に取り分けておく、みたいな操作をできればスッキリできた。それは「バックアップを取っておいて削除する」とは感覚的に異なる操作なのだ。
巷では「大量にクリップしたけどそれらをさっぱり活用できていない、だから無駄だった」という話はしばしば聞くし、それは私もそうだった。ただ個人的にはそもそも「活用」のためではなく「安心」のためにクリップしていたので、そのことは事実ではあっても、Evernoteへのクリップが嫌になる理由ではなかった。
こんな感じで「なんでもかんでもクリップ」が後々のストレスに繋がっていたわけだが、しかし現実問題としてWeb上の情報というのはいつ消えるかわからないので、取っておきたいものを取っておく手段がないと不安だ。
なのでWebクリップがいい感じにできるツールというのをずっと探し歩いていて、時にはWebページをそのまま「名前をつけて保存」で保存することもあった。しかしいずれも機能面でEvernoteのような納得感はなく、ずっとこの形で保存していこうとは思えなかった。
今Evernoteが無料で軽快なら100%Webクリップ専用のツールとして使うところだが、現在はそのような安いサービスではなくなったのでEvernoteには戻れない。最新の機能をフル活用するならともかく、ただ「Webクリップしたいから」で高い料金を払うのはさすがに現実的ではない。
そんな中で登場したのがObsidianのWebクリッパーだ。感覚としてはEvernoteを使っていた時と似た感じがする。レイアウトが保存されないわけなので取得できるのは文字情報だけになるが(画像もURLを取得してくれるがリンク切れになる可能性がある)、基本的にはそれで間に合う。見た目ごと保存したい時は別途スクリーンショットを撮る。
Obsidianならローカルファイルなのでその後の取り回しが自由だ。そしてこのWebクリッパーはVaultを指定できるため、Webクリップ専用のVaultを用意してそれに溜めていくことができる。他のものと混ざらないので大量にクリップしても自分の空間が侵食されることはない。
Obsidianは前に使っていたが、この頃は他のアプリケーションに拠点が移って出番がなかった。しかしCSSやプラグインを自分で書いたりして色々と格闘してきたこともあり、愛着はあるので何か用途はないかなと思っていた。
そしてちょうど空席だったWebクリップ用ツールという役割をObsidianが担えるようになった。Webクリップどうするか問題とObsidian何かに使えないか問題が同時に解決した。
Evernoteでの失敗を受けて「無闇矢鱈とクリップしても情報のゴミが溜まるだけ」という結論が出されているのを見かけたことはあるが、私はむしろ気楽に適当に「ちょっととっとこ」くらいでクリップしていこうと思う。そもそも役立てるためにクリップするのではないので、見返すこともないかもしれないが、別にそれでいい。何かしら興味が湧いたということのログになればいいのだ。
クリップしただけでは役に立たない、というのは本当にそうだと思う。なので情報を役立てるためには自分の手と頭を使って情報を適切に加工する必要がある。それはそれとして、とりあえず自分の手元に持ってきて安心を得るというのも私の中で重要なことなので、それが簡単かつ綺麗にやれるObsidianのWebクリッパーの登場はたいへんありがたい。
他の年の記事があるわけではないが、「今思っているだけに過ぎない」という意味で「2024年版」としておく。過去に断片的に書いた見解とは大きく違っている可能性がある。
現在、ScrapboxとObsidianにはそれぞれ以下の役割を持たせている。(「がらくた箱」「知の箱」については三つの箱(領域)の整理参照)
個人で使う場合、どちらも大雑把に言えば似たようなツールだ。ページ間リンクに優れているネットワーク型のデジタルノートツールと言えるだろう。なので使い分けに客観的な必然性はない。どちらでもやろうと思えば同じことができるからだ。
有志が作ったプラグインの多彩さから言って「できること」の幅はObsidianの方がずっと広いようには思えるが、それにしたって、自分でスクリプトを書けるならScrapboxのUserScriptでもかなりのことができる。決定的な差があるとは言えない。
大きく異なることを挙げるならば、ページがひとつひとつファイルとして存在するかどうかの違いがある。Scrapboxはページそれぞれをファイルとして扱うことはない。エクスポートする際も全部まとめてひとつのjsonファイルに入った状態で出力される。Obsidianは個別にmdファイルとしてローカルに存在している。Scrapboxの中身を分類することは仕組みとしてほぼ不可能だが、Obsidianが扱うmdファイルはフォルダを分けて分類することが容易である。また、ただのmdファイルであることにより他のアプリケーションを併用することも可能だ。
ページがひとつひとつ存在していることが常に良いかというと、必ずしもそうとは言えない。というのは、例えば今現在私が「がらくた箱」として使っているScrapboxプロジェクトには4000ページほど存在しているが、これが全て個別のファイルとしてローカルに出力されたらちょっと耐えられない。ファイルが何千もあるということ自体圧倒される感じがして嫌だし、実体を持った形で並んでしまうとページの無秩序さが気になってくる。適当に使うことが難しくなるのだ。
その点Scrapboxはページの数が増えればほとんどのページが視界から消えていくので、見えていないものの無秩序さは(一覧しないということに慣れてしまえば)無視できる。無価値なページが存在していても、その存在が視界に入る機会自体がほぼないので気にならない。
逆に、内容によってはScrapboxではちょっと困るのだが、その要因はこの「視界に入る機会」にある。あるページが存在していても、そのページに至る導線がその後全く作られなければ、そのページに行き着くことはない。そういうページは別に見えなくなっても構わないのだ、と思える領域ならそれで全く困らないが、そういう「必要が生じた時に見つかればいい」型の情報ではないものを扱うとするならば、それでは少し不便になる。
例えばその典型が「常識として知っておいた方がいいこと」みたいな情報だ。自分の関心と強く結びついている情報なら「そういえばあれがどこかにあったよな」という感じで探しに行く機会が発生するが、個人的には別に興味はないという場合には思い出すことが難しい。つまり自分がどういう人間かと関わりなく覚えなければならないもの、時折見返して思い出しておかなければならないものの扱いが難しい。こういう時、Ankiを活用する人も多いだろう。それはひとつの有効なアイデアだと思う。
もちろん、Scrapboxでもきちんとリンクやタグを整理して網羅的に辿れるように整えていけば問題はない。なので「Scrapboxではできないこと」の話をしているわけではない。ただ、そのような几帳面さを維持するのは私には不可能なので、ページが個々に存在し、フォルダを開けばそれらが整列した状態で確認できるObsidianの方が、自分の感性や生活、仕事と直接的に関わりのない情報を扱うのは楽だろうと思う。(そういう情報を扱う必要があるのか?というのは個々人のスタンスによりけり。ない人はない。ある人はある。)
現時点での私の中での使い分け。
「賢くなる」と情報ツールの位置関係で、「がらくた箱」と「賢くなる」ための情報ツールについて書いた。
何度も考えたような気はするのだが、なんとなく曖昧になってきていたので今この違いに気づきを感じている。
※2024/03/16 最終的にできた構造はこちら→三つの箱(領域)の整理
情報を置くのはScrapboxかObsidianかDynalistか自作ツールか…ということをずっと考えている。情報の性質に着目した場合にScrapboxとObsidianを大雑把にまとめてネットワーク型とみなしていたけれど、自分の中でその間の線引きが少しはっきりしたかもしれない。
現在情報ツールについて「がらくた箱」的運用はうまくいっている反面、「賢くなる」ための用途(「知の箱」と呼ぶことにしよう)ではあまりうまくいっていない。なお「知の箱」に入るものは、知識、知恵、引用、自分の仮説など「知」っぽいもの全般を想定している。おおよそ「知っておいた方がいいこと」「考えておいた方がいいこと」で、他方「がらくた箱」に入るのは概ね「好きなもの」「面白いと思うもの」「へ~と思ったもの」であるという点で区別される。
実用のための調べ物をした時に、何らかの情報ツールにメモを取るが、結局のところ紙のノートや手帳に書いたものしか自分の中で有効になっていない感じがある。例えばプログラミングについても時々紙に書く。紙では一応回っているのだから「自分は紙派なのだ」と解釈することにしてもまあいいのだが、「自分が紙派だからデジタルでうまくいっていない」というのが真実かというとそれは甚だ怪しい。実際そうであったとしても、それならそれで根拠を明快に説明できるところまで詰めておきたい。
情報ツールが「知の箱」として成り立つために必要な要素はなんだろうか。考えつくものを挙げてみよう。
紙でやると「情報と情報を繋げられること」が若干弱いのと、量が増えるとどこに何があるかわからなくなってくるのが難点だ。でも昔の人は紙が当たり前だったのだし不可能というわけではない。記述方法はデジタルよりずっと自由なのであり、紙でやるのだと割り切るのも別に非現実的選択というわけではない気がする。
逆に「がらくた箱」として欲している要素も整理してみる。「がらくた箱」はアナログとデジタルそれぞれにあるが、ここで考えるのはデジタルについて。
色々あるかと思ったが、「がらくた箱」についてはこれだけで良い感じがする。取り出しやすさを増やすためにリンクがあるとより良いとは思うものの、「知の箱」の内容とは違ってリンクによって情報の価値が増すわけでもないので(繋がったらちょっと嬉しい、という程度)、まあリンクはなくても構わないだろう。どちらかというとリンクよりタグの方が便利かもしれない。Evernoteはその点うってつけだった。
今「がらくた箱」として使っているのはScrapboxだ。今日時点で4023ページある。がらくたじゃないものも入っているが、がらくた箱に入れてしまったことで実質がらくたになっている。内容物の全貌はもうわからない。全部チェックしようと思えばできるがそうすることにあまり意味はない。
Scrapboxを「知の箱」として使おうと試みたこともあるものの、なんとなくうまくいっていない。ツールの機能としては十分なはずだが使い方には工夫が要るかもしれない。特に体系的な整理をどうするかだ。コンセプトを考えても体系的整理はあまり向いていないだろう。(でもできないということはない。)
ひとつ踏まえておかなければならないのが、「知の箱」と「仕事場」は違うということだ。「知の箱」にはこれという目的はない。こういう人間になりたいという目標はあるにしても、明確なゴールというのはない。一方で「仕事場」はプロジェクトの完遂がゴールだ。関係する資料は大量でも、今必要な情報だけがアクティブで、済んだものは眠ってもらって構わない。マニュアルや報告書は要るとしても教科書的な体系化は必要ないだろう。たくさんの情報を扱うということは共通していても「知の箱」と「仕事場」には性格的に違いがあり、「仕事場」として最適化されたツールやその使い方が「知の箱」に最適とは限らない。
ちなみにアウトライナーを「知の箱」として使うことも過去に一瞬考えたことがある。しかし、アウトラインに知識や知恵、思考を書いていくとなると、見かけが体系的になり過ぎて使いづらい。全部フラットに並べるとやたら縦に長くなり、それを防ぐために細かく階層を作ると複雑化し過ぎる。「こうもり問題」も発生する。無限に増殖し続けるものを管理するには向いていない。
アウトライナーは、ゴールがあることか、蓄積にはあまり意味がないことで使うのが良いだろう。例えばデイリーアウトラインは過去の記述が溜まってはいくが、基本的に過ぎたものを活用することはない。稀に確認の必要が生じても、それは「蓄積した知識の活用」とは性質が異なる。今日のためのアウトラインは今日が過ぎれば一応用済みだ。
前にObsidianを使っていた時、Obsidianの無限の可能性に感嘆しつつも「別にこれでなくてもいいかも」という気持ちも少しあったのだが、それは当時「がらくた箱」を欲していたことが原因だったのだろう。「がらくた箱が欲しい」という自覚は全然なかったのでどこで何がどう食い違っているのかその時はよくわからなかった。しかし考えてみるに、現在Scrapboxに4000ページあるわけだが、ローカルに4000の無秩序なmdファイルが生成されたらちょっと困る。多分、そんなことにならないようにセーブして使うことになるだろう。「がらくた」を扱うのは難しくなることが推測される。
逆に当時Scrapboxに於いては「がらくた箱」の中身を整理しようとしていた。「がらくた箱」は整理ができないものだから「がらくた箱」なのであり、それをピシッと整理しようというのは無謀な試みだ。要は博物館にしたかったわけだが、それは背伸びし過ぎというもので、がらくた箱はあくまでがらくた箱である。
そこから何年か経ち、Scrapboxの個人プロジェクトは「がらくた箱」として落ち着き、今「知の箱」を別に欲している。そうなった時に、やはりObsidianがそれに向いているのではないか、というのが今現在の気持ちだ。
各項目がそれぞれmdファイルとして存在するということは、昨今のスタンダードな情報ツールと比べて全貌を把握しやすいと言えるだろう。普通にエクスプローラでフォルダを開けば何があるかわかるのだし、フォルダ分けも自由である。自由であることが混乱を招く要因にもなるのでフォルダ分けは慎重に行う方が良いが、とはいえ配置換えはごく簡単である(同じ名前のファイルが複数あると面倒かもしれないが)。
また、「これだけ勉強したぞ」というのが量的にわかるのが嬉しい。がらくた箱と違って、正直やらなくていいならやらない領域のものなので、嬉しくなる工夫は可能な限り凝らしたほうが良いのだ。アナログなら見りゃ分かるようなことが、デジタルだと必ずしもそうではないので、アナログだったら得られた快について積極的に意識を向けておきたい。
ちなみに、「知の箱」として完璧なツールを自分で作ろうと目論んだこともある。構想としてはまあ悪くないとしても、挙動の不安定さやUIのいま一歩イケてない感じ、際限のない改良欲といったことで実用は難しかった。今作るとすれば、やはり結局のところmdファイル管理にするような気がする。それならばObsidianを使えばいい。どうしても足りないと思う機能があっても、自分で頑張ってプラグインを作れば済むかもしれないし。
自作ツールのデータは大抵JSONで保存しているが、そうするとそのツールからしか中身をうまく確認できない。なのでそのツールを開いている時だけ認識できればいい用途ならいいが、「知の箱」に入れておきたいようなもの、すなわち生きている間ずっと関連しているようなものにはあまり向いていない。それがツール作りを続けてきての実感だ。マルチデバイスのアプリケーションを作れるなら話はちょっと違ってくるが、そこまでの技術力はまだ自分にはない。
とりあえずObsidianの活用を復活させてみて、それでも今ひとつ捗らないなら、その時こそ「自分は紙派なのだ」と結論づけて割り切ることにしようと思う。
ここのところずっと使っていなかったObsidianを久々に使うことにした。
前に整えたCSSは今と趣味が合わなくなってしまったのでデフォルト状態で始めることにしたのだが、そのままだとなんとなく「気楽に書けない」感じがした。
なんでだろうとしばらく考えていてひとつ気がついたのは、左右の余白が大き過ぎると「読むもの」という感覚になってしまうということだ。普段使っているテキストエディタなどは当然上下左右に大きな余白はない。
あとは見出しの文字サイズ。メモとしては見出しというのはアウトラインを示すに過ぎず、視覚的にそんなに「見出しです!!!!!」みたいな主張はしてこなくていい。異なるレベルの見出しの文字サイズが近すぎると階層が分からなくなるというのはあるので、大きさの差を縮める代わりに色で区別することにする。
そういったことを反映したスタイルを整えてみた。
これまで2回に分けて書いてきた、「構造ノート」とはなんであるか、という話をまとめたい。
まず経緯を整理しておく。
そして①~構造作りは自動化できない~(Obsidian日誌:構造ノートとはなんぞや①~構造作りは自動化できない~)では以下のことを書いた。
次に②~文脈には前提・操作・根拠が必要である~(Obsidian日誌:構造ノートとはなんぞや②~文脈には前提・操作・根拠が必要である~)では以下のことを書いた。
以上のことを振り返り、「構造化」と「文脈の付与」のふたつの観点を統合しながら「構造ノート」とは何かを考え直してみよう。
まず定義としては、「何らかの前提に基づいて複数のノートを集め、操作を加えて適切に配置し、その操作の意図を明示することによって文脈を保存したもの」と言い換えられそうである。前提の第一のものとして、当初の表現に用いた「自分の問題意識」がある。
そしてその実践のためには「対象を通して自己を綿密に怠りなく観察すること」が必要となり、そうやって構造ノートを作っていくことはつまり「自分として生きること」そのものではないか、ということである。
毎度新たに構造を考え直すのは非効率に感じられることから、一度うまくいった構造は次回以降も流用したくなるかもしれないが、そのまま使いまわそうとすれば「構造に当てはめるために情報の文脈を作る」という主客転倒が起こりかねない。ゆえに如何に大変であっても、フォーマットはヒント程度に留めてあくまで自己の観察によってその都度構造を構築していく必要がある。
そのように自己を言語化することは認知資源を大きく消費するものであり、到底すべてに対してそれを実践することはできない。そこで、私はこれに取り組むのだという意識を持って対象を選択する必要がある。その選択と実践が「自分として生きること」であるように思う。
つまり構造ノートというものは、情報の理解に貢献するに留まらず、自己を観察し、自分として生きる場として重要な意味を持つのである。
構造ノートについてはひとまず以上です。
今回考えたいのは、「文脈を与える」という表現で言い表したかった意味合いについてである。
これは「構造化」から自分なりに更に一歩踏み込んだ表現であって、現時点でも「つまるところ文脈なんだよな」と思うのだが、「つまるところ」と言いたくなるときには大方抽象的過ぎるものである。イメージするには良いのだが、具体的に何をするのかは「つまるところ」だけでははっきりしない。
「文脈」という言葉にあくまで「文章」のイメージが強いようであれば「コンテクスト」と読み替えてもらえればいいが、要は「脈絡」「筋道」「前後関係」「背景」「論理的・意味的関係」といったことである。接続詞と接続助詞で繋がっていくその繋がりとも言えるだろう。単語だけ、フレーズだけ、単独の文だけでは表現できない意味合いということだ。
文脈を「与える」と言いたくなったからには、そこには「放っておくと文脈は生まれない」という前提がある。「放っておく」とはつまり、情報を集めない、またはただ列挙するという状態に留まっていることを意味している。並べただけでは文脈は生まれないのである。
いや、もっと正確に表現しよう。並べられたものを見て、頭の中にはほとんど反射的に何かしらの文脈が生まれる。しかしそれをきちんと書き表さなければ、その文脈が情報として意味を持てないのだ。そこに見出した意味を活用するには、情報の列挙を見る度にいちいち同じ連想をしなければならないことになる。それは不確実で非効率である。
文脈というのは、構成要素を見れば毎度必ず同じように捉えられるものではない。条件や他の構成要素が増減すれば変わってしまうし、情報の並び順だけでも認識は変化する。生じたその時に姿を留める処理をしなければ、移ろって失われてゆく。ここにこういう文脈が確かにあった、ということを保存するのが「構造ノート」だと私は認識している。
よって、構造ノートは「ページリンクの列挙」だけではその役目を十分に果たせない。構造とはリストではない。(リストは構造の一部ではある。)
さて、「文脈を与える」ためには具体的にどうしたらいいのか。前回は「構造化」を考えるにあたって「言語化して明示する」を繰り返したが、まさにその作業はなんであるかということを考えなくてはならない。
このことについては数多の言説があるし、客観的に見れば敢えてここで私が考える必要があることではないかもしれないが、私には私の言葉が必要なので、私なりに考えて書いていくことにする。
前回同様、自分が実際に行う行動を整理してみよう。
例えば、「構造ノートとはなんぞや」というテーマには「noteにはこう書いた」「構造化に失敗しがちで困っている」などの前提があり、テーマについて生じたアイデア・情報群に対して「構造化と文脈の付与の二つに分別しよう」「経緯→手順の可視化→現状→検証→結論の順で並べよう」といった操作を加えていく。そしてそれらについて「言葉が表している範囲が違う気がするから」「この順で考えるのが自然だから」というふうに根拠を言葉にする。自明な気がするとしてもきちんと言葉を思い浮かべることが肝腎だが、明らかに「見ればわかる」ものは書き留めるまでしなくともよいだろう。
そうしていくと、紙面または画面上に並んでいる情報の構造がどういう流れに於いてどういう理由によって形成されたかがわかる形になる。わかる形になるとは、未来の自分が読んでも文脈を再現できるということである。
文脈は「何を感じたか」「何を思ったか」の世界であり、それを認識の都度、逐一言葉にするのは容易でない。もちろん全ての情報に対して文脈を捉えて書き残すことは到底できない。しかし他ならぬ私が、他ならぬ私のために情報を集めて用いるのならば、それは容易でなくとも取り組まなくてはならないことであろう。それこそが他ならぬ私として生きることそのものであるとも感じている。
そして「これについてはきちんと取り組まねばならない」という意識を持つためのものとして、構造ノートという場が私のObsidianに存在しているのである。
タイトルに「Obsidian日誌」と示している通り、これは私個人の模索を記録したシリーズとして書くものである。
以前noteに書いた記事にて、Zettelkastenでノートを作る際には「Index or Structure notes」という役割のページが生み出され、私は(jMatsuzakiさんに倣って)それを「構造ノート」と呼んでいますという話をした。
この記事の中で当時の私は、構造ノートの意義を「自分の問題意識に基づいて複数のノートを構造化し、文脈を与えるために存在しています。」と書き、また「シールを集めるための台紙のようなものです。」と喩えている。
これを書いたときはそれで明瞭に定義できているかのような気分になっていたのだが、それから一ヶ月と少し経ち、なんとなく肝心なことを言えていないような気分がじわじわと滲み出てきた。
まず「構造化」という三文字であっさり片付けてしまっている部分だが、そこには具体的な行動がひとつ以上存在しているはずである。
自分で集めてきた或いは生み出した情報を構造化すると言った場合、私が実際に行う行動はおそらく以下の通りである。
単純化すると、「探す」「仕分ける」「言い表す」の三種の行動を何周かしていることになる。うまく構造化できていると感じるときはこの一連が無意識に行われているのである。
しかし、この工程は今自分を振り返って「こうしているということなのだな」と思って書き出したものであり、つまり昨日まで全体をはっきり把握してはいなかった。自覚がないということにより、「前は構造化できた」という成功体験がありながら、「でも今回はうまくいかないなあ」と理由もわからずもやもやと悩んで時間を空費する事態が生じる。
私が特に陥りがちなのは、「構造化しよう」という意志に引っ張られて、形式的に整えようとするパターンである。一度うまくいった構造を分析して次もそれでやればうまくいきそうに感じるからだ。
ところが、個々人が多種多様な情報を千差万別の目的意識によって収集して整理するとなれば、構造の種類も多様になって当然のような気がしてくる。一度うまくいった構造が次も使える保証はない。個人の好みや思いが反映される以上は、ビジネス文書や学術論文のような画一的な形式にはなり得ないと言ってもいいだろう。うまくいったものをヒントにはできても、それをそのまま使い回せると無警戒に信じるべきではない。
自分の関心によって構造の形は変わっているにもかかわらず、そのことがしばしば忘れられてしまうのはなぜか。
それは、その構造がどうしてそこで成立したのかを自分ではっきり認識できていなかったからだろう。上記の工程でしつこく繰り返している、「言語化して明示する」の部分が欠けているのである。**「今回の場合はこう感じたからこうなったのだ」という脳の動きを把握して記しておかなければ、その事例の特殊性が認識されない。**そうなると、それらしく抽象化して考えることによって使い回せそうな枠組みをでっち上げ、なんとかして他の情報にも同じフレームを当てはめられないかと格闘し始めたりすることにもなる。実に不毛な苦闘である。
構造化するにあたって考えるべきことのパターンを先んじて用意することはできても、構造そのものはその都度考えていかなければならないし、それはその対象を腑に落ちるまで理解することと同義であって、自動化は不可能なのである。
したがって構造ノートの作成とは、「構造化」のボタンをポチッと押せば一瞬でできるような簡単なものではなく、言い換えるならば「対象を通して自己を綿密に怠りなく観察すること」と表現できるかもしれない。
次回は「文脈を与える」ということについて考えることにする。
普段、日記や考え事にはObsidianというMarkdown管理ツールを使っている。
Obsidianとは何かということについては、簡潔に言い表すのが難しいので以前noteに書いた記事をお読みいただけると幸いである。この記事の最後に素晴らしい解説記事の数々へのリンクも貼ってあるのでご活用いただきたく。
さて、毎日Obsidianを使ってあれこれメモして考えて熟成させてということをしているのだが、ObsidianはPC用のデスクトップアプリであり、Obsidianの優れた検索・リンク機能はスマートフォンでは使えない。似た環境を用意できるものとしてiPhoneでは「1Writer」というアプリが良いらしいという話は聞くが、当方はAndroidを使っているのでそのアプリには頼れない。ゆえに、スマホからファイルを開きたくなったときにどういう格好であったらよいだろうかということを前から考えていた。
唸っているうちにはたと思い出したのが、「DoMA式」である。
DoMA式とは、倉下忠憲さんがブログ「R-style」にて編み出していらっしゃったWorkFlowy運用術のことである。ネーミングについては倉下式WorkFlowy運用術 その5: DOMA式 – R-styleにてお書きになっているのでそちらを参照のこと。
私はリアルタイム(2020年6月)でその連載を読んでいて甚く刺激を受けたのだが、当時は如何せん自己が混乱しておりうまく取り込むことができないでいた(混乱のさまは「アウトライナーの使い方ド下手問題(アウトライナーの使い方ド下手問題~まとめ~)」にて)。
DoMA式の基本となる要素は以下の三つである。
それぞれの意味するところについては是非倉下さんの各記事をお読みいただきたい。
なお、DoMA式は主にアウトライナー上で項目を動かし自分の注意に合わせて情報の形を変えていくことがキモであり、今回私がしたいことはDoMA式の思想からインスピレーションを受けてのものではあるが、DoMA式をそのまま採用したものではないことをご了承いただきたい。
Obsidianのフォルダを管理するにあたり私が思いついたのは、DoMA式の三要素のうち「注意オブジェクトモデル」に基づいて作ったフォルダを「フラットスタイル」で並べるというやり方である。つまり、分類によってではなく自分の関心を基準としてファイルをまとめたフォルダを、階層化せずにルートフォルダ直下に並べるということだ。
「フラットスタイル」を用いるのが良い理由は二つある。
ひとつは、取り出したいファイルを最短距離で開くことができるということだ。「あれを見たい!」と思った時にさっと取り出せるのが理想である。分類のために階層が何層にも作られていると、あそこにあるとクリアにわかっていても辿り着くために絶対的に手間がかかる。もちろん「お気に入り」の設定など種々の努力でショートカットはできるが、Obsidianに限って言えば、そもそも分類のための階層をフォルダによって作っておく必要がないため、フォルダ構成自体を単純にすることを考えても差し支えない。
もうひとつは、今自分が注意を向けたいものが一目で判るということである。これについては必ずしもフォルダ構成によって達成する必要があるわけではないが、「Obsidian上で今何がホットか」を示したいという場合にはObsidianのフォルダ構成でそれを可視化するとシンプルにわかりやすい。
また、Obsidianのフォルダだからこそ「フラットスタイル」を採用できるという理由もある。
上でちらりと触れたが、Obsidianはタグ管理と検索、サジェストが強力である。タグはネストさせることができるので、フォルダの分類で試みるような階層管理もタグによって実現できるし、更にタグは複数つけることができるので階層管理をしながら同時に「こうもり問題」も解決される。よって、普段ファイルエクスプローラを使う理由は全くと言って良いほど無い。
つまり、階層管理をすっかりタグに任せてしまうことで、フォルダの構成についてはスマホからのアクセスの利便性にだけ集中できるのである。
では、具体的にどうしているのか。以下が普段使っているVault(Obsidianのフォルダ)の状態である。
実のところ、過去の何かしらのフォルダ管理に於いて、そういう形で「今使うもの」を直下に置くということをしなかったわけではない。むしろ、いつも"そうなってしまっていた"。しかしそれは常に不本意だった。なぜなら、既に作り上げた分類に今使っているファイル群を収めていくのが面倒であるがために適当に仮の場所を作ってやっている感覚だったからだ。そのフォルダの粒度は、既存のフォルダ構成のどの部分とも合っていないのだ。
システムとしてフラットスタイルが成立するのは、全体が「注意オブジェクトモデル」つまり「客観的分類ではなく自分の主観に基づいた塊の作り方」に沿っているからだろうと感じている。「客観的分類からのはみ出し」としてとりあえず一時フォルダを作るのではなく、今向けている注意の塊はその前もその後もその塊のままあって良いのであって(もちろん適宜解体しても良い)、その塊のまま自分の注意のランクに応じて移動できる必要があるのだ。
常に自分の注意に合わせてフォルダを作ってしまいながら、結局それが整理上の混乱の元になるか、それともそれこそが整理に成功する要となるかという正反対の結果があり得るのである。DoMA式に対して感じるひとつの大きな意義は、自分の注意に基づく塊を作るということを、「分類が面倒くさい」という怠惰の結果ではなく「そういうシステムである」と考える発想の転換をもたらしてくれたことである。大袈裟なようだが、私にとってそれは確実にコペルニクス的転回であった。
ということで、今回はObsidianのフォルダ構成に「フラットスタイル」そしてその前提として「注意オブジェクトモデル」の考え方を採用してみたという話をした。
これについては今後「やっぱり違うやり方が良い」と思う可能性はあまりないような気がしている。
前回、Obsidianにノートを作るときは三種類(+一種類)に分類していますというお話をしました。
0. 日誌ノート(とりあえず書く場)
今回は、これらを実際どのような形態で分類して活用しているかを記していきたいと思います。
まず原則として、分類はタグによって行い、フォルダ分けは明確に必要を感じた時のみ実行することにしています。(理由は最後に書きます。)
Obsidianの「デイリーノート」の機能で作られるページのことです。デイリーノート専用のフォルダを設定することができるので、今のところ月ごとに日誌ノート用フォルダを作って管理しています。
日誌ノートに限っては専用のタグは作っていません。前々回の記事に書いたように年月日タグ(YYYY/MM/DD)だけを設定しています。
構造ノートは、自分の問題意識に基づいて複数のノートを構造化し、文脈を与えるためのノートと説明しました。
前回の繰り返しになりますが、例えば「情報管理の基地としてObsidianを活用するには」というような「○○するには」の形で表されるものです。主語は自分自身だけでなく、例えば「世界の人々が寛容になるためには」といったものも含まれます。
構造ノートの分類に使用しているタグは以下の通りです。
#01構造/構築済
#01構造/構築中
構造ノートについては、「文脈が出来上がっている」「まだ模索中」の二つの状態で分けています。自分の考えの方向性がほぼ明確になれば「構築済」タグをつけることになります。つまりその問題意識について「持論が生まれた」ということを表します。
ただしそれは「完成」を意味しているわけではなく、その後も手は加え続けます。ひとまず「構築済」のタグをつけられる形になることを目指して「構築中」のノートに繰り返しアクセスし、自分の考えを固めていくことになります。
結論ノートは、「結論を出すことを目指すもののノート」であり、或る仮説やアイデアに対して、それが正しいのかを検証したり、どんな手法があるかを考えたり、実現するための道のりを検討したりする場です。
結論ノートの分類に使用しているタグは以下の通りです。
#02結論/自分がすること
#02結論/世界の在り方
結論というものは、最終的には「私は~するのがよい」「世の中は~であるのがよい」の二つの方向性に集約されると考えています。つまり、「私がすること」と、「私は関われない領域で、他の誰かにしてほしいこと」の二つです。そのどちらかの結論が出ることを目指して考えるものが結論ノートということになります。(事実の分析の類は次の覚書ノートに含めています。)
自分以外の人に関わることでも、自分がアクションを起こすものならば「私がすること」です。例えば「○○はAさんに依頼する」というノートがあったとすれば、〇〇をやるのはAさんですが、Aさんに対してアクションを起こすのは私です。「世界の在り方」タグがつくのは、タグの名前通りもっと一般的で抽象的な思索のノートです。
例えば、「ツールのノウハウはnoteに投稿する」というノートには「自分がすること」タグが設定されます。ノートの中身は、他の場との比較検討や具体的な工程の模索などです。
一方、「××を守る法が整備されるべきである」というノートには「世界の在り方」タグが設定されます。ノートの中身は、現状の分析と自分の思い、理想や展望などが書き連ねられることになります。
「世界の在り方」タグがついたノートは、こうなってほしいという願いがありながら現時点で自分が具体的にアクションを起こすことはできないものですが、自分の立場や環境が変わったときにアクションに繋げられる可能性があります。時々タグを見返して、自分が具体的な行動を起こす機会を常に探せるように潜在意識を刺激することが、このタグの存在理由です。
覚書ノートは、「○○するには」とか「△△したい」といったベクトルを持たない情報全般です。
覚書ノートの分類に使用しているタグは主に以下の通りです。
#03覚書/Log
#03覚書/Record
#03覚書/Reference
#03覚書/Maxim
#03覚書/Impression
「Log」は単発の記録全般です。読んだWeb記事のURLのリストからその日見た夢の記録まで様々です(適宜下位タグを作ります)。日誌ノートの覚書欄(【Obsidian】デイリーノートの作成と活用参照)に数行書いて済む場合はわざわざ別にページを作りはしませんが、内容にボリュームがある時は日誌ノートから切り出すような形でページを作成し、このタグをつけます。
「Record」は議事録・定点観測・レビューの類です。進行している事物について、その時点の様子を記録したものというイメージです。
「Reference」はよそから仕入れた情報の類です。下位に「Book」「テレビ・ラジオ」「Web記事」などのタグを作っています。
「Maxim」は格言・名言の類です。論語や名言集の一文から、著名人の言葉、小説や漫画の台詞、RTで見かけたツイートなど、自分に響いた言葉を何でも集めます。自分で生み出した格言も含まれます(下位に「Mine」タグをつけます)。
「Impression」は結論のない感想の類です。なんとなくこう感じたとか、自分はこういう癖がある気がするとか、それ以上具体的に行動や思索に繋がるわけではないけれど書き留めておきたいこと全般にこのタグをつけています。
今のところはこの五種類に振り分けて整理がついています。
フォルダではなくタグを使って管理するのにはいくつか理由があります。
まずObsidianのタグは階層を作れるということです(途中で実装された機能のようですが、素晴らしいアップデートだと思います)。
親タグを選択すれば子タグも全部抽出できるのが非常に便利です。ワンクリックでできるというのがポイントです。
次に、ページを複数の分類に所属させることができる点です。今のところおおよそMECEではありますが、内容によっては構造と結論と覚書が必ずしも絶対きっぱり分類できるわけではないことがあります。
更に、途中で性質が変化していくこともあります。結論ノートとして作り始めたけれど、問題意識の規模が大きくなってきてリンクが増え、構造ノートとして整理し直したり。一度結論を出したけれど、前提条件の変化などで結論が根本的に大きく変わってしまったために、「条件が変わる前のログ」として覚書の「Record」に入れることにしたり。その間の曖昧な状態のものは両方のタグをつけて様子を見たり。
また、一緒に表示されてほしいという理由でノート自体の性質とは異なるカテゴリのタグをつけることもできます。
そして何より、操作が素早く出来ることです。「#」の後に文字を打てばサジェストが表示され、「#01」と打っただけで「#01構造」「#01構造/構築済」「#01構造/構築中」が候補に並びますし、「#m」と打っただけで「#03覚書/Maxim」をすぐ選択できます。これは非常に効率的で、またそれ以上に楽しいです。分類が「しなければならないもの」ではなく「やると楽しいもの」になるのです。
タグペインに並んだ状態はこうなります。
「自分は何を疑問に思っているのか」に沿って構造ノートを用意し、個別の問題について「自分は何が正解だと思うのか」を考えて結論ノートを作る、という流れを明確にし、そしてそれ以外の情報を「問題意識とは直接関係のない領域」としてまとめること。これが、私にとって頭の中での区分けと一致した自然な捉え方なのだろうと思います。
他の人にも馴染むのか、それとも全く馴染まないのか。それは私にはわかりませんが、とりあえず私はすっきりしたので共有してみました。誰かの参考になれば幸いです。