Noratetsu Lab

動じないために。

過去のノートをばっさり処分した

 先月から紙のメモ・ノート類を整理して、大部分についてスキャンするか写真を撮るかした後に処分した。


 Blueskyでは繰り返し触れているのでご覧頂いている方にはまたその話かいと思われるかもしれないが、ばらばら呟いても意味をなさないので何をどうしてどうなったのか一度まとめておこうと思う。

整理の動機

 手元にあったのは十数年前からのノートだ。それ以前にもノートは存在するはずだが、敢えて捨てた記憶もないもののどこかに行ってしまって見当たらない。まあ自分なりに考えるとか自分を見つめるとかいうことに目覚めたのがその頃からのはずなので、それ以前のノートはあってもしょうがないだろう。
 幅80cm超の棚にみっちり2段分のメモまたはノートがあった。このメモとかノートとかいうのは、自分の個人的な考え事、読書メモ、ライフログで、それ以外のものは含んでいない(別の場所に分けている)。これらは少し前に一箇所にまとめたもので、基本的にはここにあるもので全部と言えるようにはなっていた。ただしきっちり時系列に並んでいるわけでもないし、そのままでは任意の記述にアクセスするというのがほぼ不可能だった。以前にも書いたが規格があまりにもばらばらで、順番に開いてめくればいいということにすらなっていない紙のノートについての自分語り。一時的でない、残しておくことが前提の記述を書いたものでも、サイズはA7からA4まで各段階で存在している。
 整理しなければとは前から思っていた。その理由は二つあって、まず今書いたように規格に統一性がなさすぎるせいで自分で活用が難しいこと。もうひとつが、残っていてほしいと自分で思えない記述が多過ぎることだ。
 嫌な記述の存在感というのは到底無視できるものではなく、あるノートに不快な(不快な出来事や心境を思い起こさせるような)記述が紛れ込んでいれば、そのノート自体を開きたくなくなってしまう。なのでそのような記述が混じっている場合には解体して膿の部分を除去してしまった方がいい。

不快な記述

 今ならそもそも不快な記述を紛れさせるようなことはしないが、昔のノートというのはそういうものが数々混ざっている。書いた当時は後からそれほど嫌なものになると思っていない場合もしばしばある。現状を変えようとしてむしろ前向きに書いている場合もあるのだ。しかしその状態自体が後になってみると気持ち悪いということが多々あって、ある種黒歴史化したということだが、自分の迷走を微笑ましく見られなければただただ不愉快である。昔は抑うつ傾向が強かったし他人のものさしによって自己否定的に考えるのが当たり前のものとして生きていたので、今になってみれば総じて気持ち悪いことになっている。
 未来の自分にとって必要なメモは、未来にも生きるメモである。例えばひらめきや普遍的な気づき、あるいは事実としての日誌だ。自己コントロール感を失っている場合、「思い」の類は大方邪魔で、混ざっていて嬉しいことはまずないかつて一冊にまとめようとしたノートを反省する。いかなる心理状態でも日誌の中に行動の「意図」の記録はあった方がいいが、空回りしている「気持ち」は別になくていい。
 スキャンしてページごとに画像ファイルにしてしまえば、必要な部分だけを取り出して扱うことができる。不快感によって巻き添えを食って封をされていたノートに日が当たることもあるかもしれない。

自己コントロールの欠如とノート

※この項はノートの使い方の話というより単に病んだ精神の話になるので、ご興味がなければ次の見出しへどうぞ。

 過去の自分の記述を見ると様々な問題が見えてくる。自己不在と自己否定が随所に顔を覗かせている。
 読書ノートにすらそれは現れている。今読んだら到底評価できないような本のメモがいくつも混じっているのである。自罰性・他罰性を伴う内容に納得してしまい、人間はもっとこうあるべきだ、自他をこのように律するべきだ、的な思想に影響を受けている。もちろん当時はそれが自罰性や他罰性を示しているとは気づいてもいない。社会の闇を払い、自分自身を含む悩める人々を結果的に救う道をひとつ提示してくれていると思っている。このように大袈裟に書くとカルト的な印象が見えてくるわけだが、本気でそういったものを信じ込めば実際に過激なカルトに嵌まっていくことになるだろう。
 幸いにも私はひとところに留まらず反対の価値観の本も読んでいたし、より妥当な結論を選択することができた。とはいえ自罰性・他罰性を含むものをすぐさま否定的に見られたわけではなく、今考えれば対極にあるものも対極にあると理解できていたわけでもないし、自分の解釈を変えるという点でほぼ同じ種類の話とすら思っていたのだが、なんとなくこっちの方が現実的だし信じられるといって選んでいくうちに自分の認識は随分変わったようである。

 当時の自分は仕事の困難さに苦しんでいたので、仕事術の類にも強い関心があった。名著を網羅したとまでは全然言えないが、元々読書嫌いな自分としては驚異的なレベルで読んでいったし、当時読んだ本が時折紹介されているのを見て「あ、これって結構有名なやつだったんだ」と思うことがしばしばある。ちなみにプレジデントという雑誌も好きだった。
 そのような本では、いろんな悩みに寄り添うべくいろんな提案がなされている。それが本の数だけある。俺様的著者というのもいないではないだろうが、基本的には読者を助けるために数多のヒントを惜しげもなく共有してくれているということであり、自分に染めようなんては思っていないはずである。しかし自己不在に陥っている私はその中から自分に必要なものを必要な分だけ受け取るということができず、いちいち著者の話に染まっていた。その結果、著者のアイデアはそのまま真似してみたし、ノートにはいろいろな人の用語が溢れた。
 自分らしくない語彙が氾濫しているノートは今見ると「かぶれている」感じが前面に出ていて、読み返すと辟易してしまう。今なら自分の世界(当サイトでは便宜上のらてつワールドと表現している)に取り込むにあたってはまず自分の言葉に翻訳する。他の人が読む場では共有可能なように本来の言葉で表現するが、自分の中では違う言葉で認識していることがよくある。もし翻訳できないならばその語が指し示しているもの(例えばメソッド)を理解できていないということであり、その状態で真似てみたところで有効に働くはずはない。

 道具の使い方もおかしいところが多々ある。多すぎておかしさ全てに言及してはいられないが、ひとつ挙げられるのが付箋の使い方だ。付箋というものがなんだか非常に素敵なものに思われて、過去の私は付箋をうまく使いたいと強く思っていた。付箋を買うとなんでかどんどん減っていって、今となっては「結構買ったはずなのにどこに消えてしまったのだろう」という気持ちなのだが、過去のノートを開いてみると答えがおおよそ分かる。
 ノートに後から何かを追記したい時や、短い文言をアイテム的に使いたい時にいちいち付箋を使っていたりする。今なら「いや他の色のペン使えばいいやん?」「いや線引いて区切ればいいやん?」などと思うのだが、そういうタイミングで無意味に付箋を消費しているのである。そんな調子では付箋の有効な使い方というのが掴めるはずもないのだが、まあ当時は楽しんでやっていたので、自分の心を和やかにする遊びとして意味はあった。
 何も書き込んでいない付箋もあちこちに貼られていたので、それらは全て回収した。まあまあの数になり、今現在の使い方ならそれらを全部使うには相当かかるだろう。

 昔のノートにはこのような痛々しさが刻み込まれていてとても見ていられないのだが、しかしその状態から徐々に抜け出していけたのもノートによるものだろうと思う。他者の基準に引き摺られている中でも自分固有の価値判断というのは現れるものだし、それを少しずつでも拾って書き留めていったことは自己を取り戻す大きな力になったはずだ。
 デジタルツールも含めノートに書くことを通じて、より純粋に己を表しているであろうものを抽出するということを十数年にわたって繰り返し、今や「自分のことがわからない」と感じることはまずない。ここに辿り着けると思ってやっていたわけではないし、そもそもどこかを目指して書いていたのでもないが、およそ4000ページの紙と数百MB分の文字列は自分をかつてとは違った場所に連れてきてくれたのだと思う。

根本的な変化

 棚にずらりと並んだ紙の束に対し、内容がなんであれ自分はこのくらい書いてきた、という自負めいたものもないではなかった。しかしかなりの量を処分して棚が隙間だらけになってみると、寂しさとともに解放感も覚えた。自分の足首を掴んでいた過去の己の亡霊が棚から出ていったような感じがする。これからはもっと素敵なものを詰めていこう、という朗らかな気分になった。
 そのような心境になった今、どんな情報をどこにどう書くかを考えてみると、先月までは全く思いつかなかった、しかし思いついてみるとなんでそれを思いつかなかったのかわからないようなやり方を次々と思いつくようになった。それは変わったやり方とか何か特殊なフォーマットとかそういうことではなく、単に「この情報はこの粒度でこう活用するべきものだから、それに合うのはこの形である」という、情報と形式のマッチングの問題である。
 過去に「これはこうしたらいいんじゃないか!?」とひらめいたのとは感覚が根本的に違っていて、今思いつくのは「この条件だから、こうあるべきである」という確信的な結論だ。変な工夫は要らない。十分に一般的な形式の中から、適切なものを選んでいるだけである。
 そうして次々と決着がついているのだが、逆に言うと、今までの試みの大部分が適切ではなかった。クイズ番組なんかを見ていると「二択を全て外す人」というのが時々いるが、そのような調子で、わざとやっているのかと言いたくなるほど全てを間違っているという感がある。なぜか正解だけは選ばない。マークシートの解答欄がずれたときのように全部がずれている。

 急に確信を持てるようになったのにはいろいろな要因があるのだろう。前提としてありとあらゆる失敗をしてきたというのはもちろんある。正解ではないものを片っ端から除去していけば正解がわかる可能性は当然高まっていく。一気に過去の記述を振り返ったことで傾向を俯瞰的に眺めることができたというのもあるだろうし、試みから時間が経っているのでひとつひとつを客観的に見られるようになったということもあるだろう。失敗が失敗であったと今結論づいたということだ。
 あとは、昔は他の人の何かを参考にしていればそれが失敗だったと言う気になれなかったというのもあった。結局事実として失敗だったのだが、しかしそれは「当時の私が、当時の理解で真似てみたところ、失敗した」というだけのことで、その失敗を認めたとしても何も「他の人の工夫」自体を失敗と断じることにはならない。わざわざ批判を添えて突き放す必要もないし、うまく取り込めなかった自分を責める必要もない。
 淡々と、それぞれの情報はどのような性質を持ち、これまでの試行はどのような意味を持つかを考えればいいのである。
 過去のノートには嫌なものが混ざっているということが分かっていたから、これまで過去の試行に意識を向けることが十分にできていなかった。えいやと整理に取り組んだことで、何にも生かされずに時が止まったままだったノートからメッセージを受け取ることができるようになったのかもしれない。

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