梅棹忠夫の言う「豆論文」を作るということを自分なりに試みるようになってからだいぶ経つ。うまくいったりいかなかったりが続いているが、具体的に何がどうなっているのかについて少し手がかりが見えたので言葉にしていこうと思う。
カードにしやすいのは他人の言葉
最近、集中的にうちあわせCastを聴いていて「ちゃんとメモしとこう」と思うことが多いので、LISTENを活用しつつ書き抜きとタイトル付けをしている。
LISTENが登場する前はとてもじゃないけれどPodcast内の会話をそのまま書き留めるということはしていられなかったので、せいぜい「大雑把な感想を残す」という程度で終わりになってしまっていることが多かったが、LISTENのおかげで聴いたことを随分活かしやすくなった。
なんとなく専用の場が欲しくなってScrapboxにプロジェクトを作り、間もなくObsidianに引っ越した。Scrapboxの公開プロジェクトでやったらちょっと面白いだろうかとも思ったものの、タイトル付けの工夫は自分でするとしても内容自体は完全に人のアイデアなので、どうかと思ってやめにした。
それはさておき、Podcastの語りに要約的な一文を与えるということをしばらくやっていて思うのは、「他の人の言葉はなんだかんだ要約しやすい」ということだ。単に容易であるというよりは、「決着がつきやすい」と言った方が良いだろう。
また、本などの引用以上にPodcastの語りの方が要約しやすいという感触もある。というのは、書かれたものの場合はそこで実際に使われている単語をなるべく活かそうとしてしまうことがあるのに対し、トークの場合は「言いたいこと」を別の単語で言い表してもいいかなという気になり多少大胆に言い換えられるからだ。結果として自分の言葉で表現することになり、活かしやすく忘れにくいタイトルを付けることができる。
翻って自分の発想について。きっかけが何かあるにしても、一応100%自分の言葉でできているひとかたまりなのだが、それを要約するのはなんだか非常に難しい。その上、頑張って要約した甲斐がないことが結構多い。後から「あれ」を取り出したいと思っても、イメージの方が印象に強く残っていてタイトルが結びつかないことが少なくないのだ。名づけとしての強度が低く、「こういうタイトルを付けたはず」ということをなかなか覚えていられない。
対処法として「思い出そうとした時に使いそうなキーワード」を全部盛り込むということはもちろん有効だが、そういう努力をかなり積極的にしなければならないところに、他人の言葉の要約とはちょっと違った性質を感じている。
やるべきはイメージをアトミックに変換すること?
それもそのはず、自分の発想はあくまで「イメージ」で、一方人の言葉というのは「この人はこう言ったという事実」である。ファンタジー小説と議事録くらい違う。
逆に言うと、自分の中では「イメージ」に過ぎないものもどうにか言葉にして放てば、それを見聞きした他者は「この人はこう言った」という事実として処理できることになる。これは結構不思議なことで、自分は言ったことを覚えていないのに他の人ははっきり覚えているというのも、この質の変化に依るところが大きいように思う。
ともあれ自分の発想を「イメージ」のままにしていては要約があまり意味をなさない。となるとどうにかして「事実」的な性格の言葉に直しておきたい。「思っていること」の要約は困難だが「言ったこと」は要約が可能になる。そして考えの核を取り出せればアトミックな記述になる。
ただここで気にかかるのは、言葉にするということが「捨てる」ことでもあるということだ。曖昧なままだと扱えないからと曖昧でなくしてしまったら、イメージが持ち得た可能性が狭まることは必至だ。
できれば「イメージ」状態と「事実」状態を両方保持したい。となると、もしかすると「イメージを一般化する」ということにこだわりすぎていたところに問題があるのかもしれない。
例えばTwitterなんかでひとかたまりの何かを喋ったとする。人が読めるような文章にはしてあるが、一連のイメージを指していることが多く、大抵そのままアトミックな記述にはならない。ならないが、自分としては大事なことを言っているつもりでいるので、どうにか使い回せるようにならないかと考える。とりあえずScrapboxとかにコピペして、それを一般化しようとする。
このような時、単に一般化が難しいだけではなく、イメージを削り落とそうとしているところにある種の不快感を覚える。一対一で変換しようとして、せっかく言葉にしたものの一部を「要らないもの」扱いしているからだ。
変換ではなく見出す
無論これは考え方が誤っている。「一対一で変換しようとして」のあたりがとても間違っている。イメージを言葉にしたものは、読むものとして問題ないレベルになっている時点でひとつの完成形だろう。それを途中段階としてアトミックな記述をゴールにしようとするからおかしいことになる。
やるべきは「変換」ではなく、「そこに含まれている構造の発見」だろうと思う。イメージを言葉にしたものはそのまま置いておき、そこから構造を見出す。当然、それは骨格に過ぎないので、イメージ全体の要約にはならない。恐竜の骨を見ても色や羽毛の有無はわからないのと同じようなものだ。それはそれでよいのである。
もし誰かが書いた本を読んでいるとすれば、そこに構造を見出したら余白やノートに「こういうことかも」みたいな感じでメモを書いておくだろう。それは当然ながらその文を変換したわけではない。そして本は逃げないので、元の文については安心してそのまま置いている。しかしTwitterに自分が書いたものを対象とする時、その文は無秩序で膨大な流れの中からつまみ上げただけの不安定な状態にある。本のような安心して放っておける居場所を与えることができていないために、心情的にそのまま置いておくことができず「活用できる形」を作ろうと焦ってしまう。そのようなことが私の中で起きている。(他の人にも起きるかどうかは知らない。)
ふと思いついたことのようなものも同じで、イメージとしての置き場がしっかりしていないと、居場所を固定するために「活用できる形」に変換しようとしてしまうところがある。「活用できる形」の居場所なら作ってあるからだ。
多分ここは分業にした方が良い。イメージを言葉にして保存する工程と、そこから骨格を見出す工程をはっきり分ける。イメージはイメージできちんと居場所を作っておくべきなのだろう。
「豆エッセイ」と「濃いタイムライン」を作る
イメージを文章にしたものに居場所を作る、というのは少し変な話でもある。文章にしているということはどこかに書き込んであるということで、そこが居場所なのではないか。Twitterに書いたならTwitterに居場所があると言っていいように思える。日記に書いたなら日記が居場所だ。
それで納得できるようにTwitterや日記といったものを運用しているならもちろんそれでいい。我が思考ここにありと思えるならば何も問題ない。しかし私はそう思いにくいから迷走しているのだが、その理由は「雑多過ぎる」ことにある。書いているものが互いに埋没させあっていて、自分の脳内と混沌度合いがあまり変わらない。
また、そういうタイムライン的な場所への記述はその時点にある文脈をあてにしすぎていることが多い。その状態でフォロワーに話が通じそうならそれで文章化は完了してしまうし、日記として用を成すならそれ以上詰めない。そうなると時間が経ってからイメージを解凍するのが大変になるので、それなりに読める言葉にしていてさえまだ混沌の中にある。
場所をはっきり分けるかどうかは置いておくにしても、居場所として納得できるように運用するとすれば、イメージはイメージで文章外の何かに依存せずにひとかたまりの文章として完結させることと、雑多さによって印象を薄め合わないことが必要に思える。
つまり、「豆エッセイ」を作ること、そしてそれによって構成された「濃いタイムライン」を作ること。これにはイメージの場を永久に編集可能なままにしておかないという意味もある。うちあわせCastで出てくる「時限式」の話とも近いが、「その時点でそのことについて自分にできる言語化」でその都度締めること。
思いついたことに居場所を作るにあたり、一般化を目指すことで居場所を得るのではなく、豆エッセイ化によって居場所を得る道を設け、「自分が言ったこと」として固定する。そしてそこに何らかの構造を見出すことができればそこにアトミックなノートが生まれ、豆論文にも繋がる。何も構造がなければ豆エッセイにもならないだろうから何かしら含まれているような気はするが、しかし絶対対応する一般的記述ができるはずだと思って悩み過ぎないことだ。
アトミックな記述と豆論文と豆エッセイ
梅棹忠夫の『知的生産の技術』にしても外山滋比古の『思考の整理学』にしても、私はそれらから誤った印象を受け取ってしまっていたかもしれない。思いついたことについて豆論文にしてストックすることへの憧れが大きかったせいで、何でもかんでもゴールを豆論文に設定していたようなところがある。その上、「アトミック」であるのが理想と思い過ぎていた。豆論文は「部分」ではあるが必ずしも論理の最小単位ではないだろう。何しろ「論文」なのである。
豆論文を作ること、あるいは可能な限りアトミックにすることは、知的負担が極めて大きい。そもそも論理が終着点になるような形をしていない思いつきというのが当たり前にある。小さい粒度で蓄積するにしても、イメージをイメージのままうまく保存することも普通に必要なことだった。
ちなみに豆エッセイと豆論文はタイトルの性質も違ってくる。豆論文は論理が分かるタイトルでなければ用をなさないが、豆エッセイは文芸の領域なので「名前」的なタイトルでいいし、タイトルを付けなくても別に構わない。Twitterで140字エッセイを綴っている作家はたくさんいて、それらひとつひとつには名前がないことが多い。
でもどちらかというと豆エッセイには名前を付けられた方が良いと思う。というのは、名前を付けるにあたりそれが自分流の豆エッセイとして形になったことを自分で確認できるからである。逆に形になるまで名前を付けないということが、「名前を付けられるところまで頑張って言葉にする」というエネルギーを生むかも知れない。とはいえあまりこだわらないことが大事だろう。
次は具体的に何を使ってどうやるのかを考えることにする。