Noratetsu Lab

動じないために。

2024年3月

2024/04/01

今月の振り返り(2024年3月)

 月ごと振り返り記事3月分。昨日記事を投稿したので日を改めることにしてまた翌月頭になってしまった。


 既に月が改まっているが今回も3月を指して「今月」と書くことにする。

投稿(13件)

  1. 豆エッセイのある濃いタイムライン
  2. Obsidian再び
  3. がらくた箱と知の箱
  4. 自分の「知」に必要な三つの箱
  5. 今年新規導入・再導入したもの
  6. 思考の描写ログ
  7. 三つの箱(領域)の整理
  8. ScrapboxとObsidianの個人的使い分け(2024年版)
  9. がらくた箱と宝石箱
  10. 「文脈エディタ」としてのアウトライナー
  11. メモとノートと書き物と文脈
  12. 土であって種ではない
  13. 結局考え事はどこでしているか

 今月は先月末に得た気づきを元にずっと情報の扱いについて考えていた。シェア的な要素のない自分のための記事が多かったなと思う。

プログラミング進捗

  • 自作テ○リスの移植作業ほか
  • 久々にScrapboxのUserScriptいじり
  • Obsidianプラグイン開発に挑戦

 今月は過去に作った自分用のツールやミニゲームのサイト移植作業を少し進めていた。まだ公開していない(辿れるようにリンクを貼っていない)が、とりあえずどういう手順でやればいいかは確認できた。
 新たなツールは作っていないしあまり挑戦的なことはやらなかったが、ひとつ新しくやってみたのがObsidianプラグイン開発だ。Chrome拡張機能開発やVSCode拡張機能開発をちょっとやったことがあるのでそんなに戸惑わずにやれた。と言ってもまだごく簡単なことしかやっていないので「できるようになった」とは言えないが、まあひとつひとつ調べていけば作れるな、という感触はある。

その他

  • 情報整理についての理解が進んだ
  • 精神面の不調

 今月ずっと記事を書いていたが、どの情報をどのツールで扱えば自分は納得できるのかということをだいぶ掴めてきたという気がする。
 それは良かったが、今月はあまりメンタルがよろしくなかった。メンタルがよろしくないと「茶の間」の更新が難しいようだ。書くネタが思いつかない。素朴なものに焦点を合わせられなくなってくる。あと何かを人にシェアしたいという気持ちがさっぱり湧かなかった。
 強いショックによるものではないので物事が手につかないということはなく、淡々と書き物をするとか作業するとかは支障を感じなかった。逆に、読者受けみたいなことをあまり考えなかったのでシンプルに「後で自分が読みたいもの」を書けたと思う。書くにあたって全く「頑張る」ということをしなかったが、多分今月の記事はこの先何回も読み直すと思う。
 先月も調子が悪かったがなんとなく今月はそれとは違う感じがした。先月は集中できなくて消去法として本を読んでいたが、今月は集中できないわけではなくただテンションが底辺だった。むしろ集中はできてしまうせいで逆にライフ・アウトライン(のDO-DAYS)が疎かになったりした。
 もしかしたら単に寒さのせいだったのかもしれないし、暖かくなってきたから気分もちょっと上向くかもしれない。あとは何か気分が良くなった時はそれをすかさず書き留めるようにしよう。
 

2024/04/01

エイプリルフール

昔はそれなりに面白がっていたけど最近はそのエネルギーがない。
自分が人に嘘を仕掛けるとかは全然しないけど(紛らわしい振る舞いはするのもされるのも好きじゃない)、各企業とかゲームとかがエイプリルフール企画をやっているのを前は結構楽しんでいた。
でも最近は一瞬で一日終わってしまうというか、既に色々と詰まっている日常にエイプリルフールという非日常が入るスペースはない。別にネガティブな気持ちはないのに「イベント」的空気に圧倒されて疲れてしまう。
多分この疲労感は、エイプリルフールだということを当日かせいぜい前日に認識するという後手に回っている感が引き起こしていると思う。一週間前とかから意識していればちょっと違うんだろう。(でもそこまで楽しみにする気持ちはないなあ。)

2024/03/31

結局考え事はどこでしているか

 ここまで色々ツールの使い方について考えてきた。今回は「考え事」に焦点を当ててみることにする。

2024/03/31

ディスカバー・ビートルズⅡ最終回

「ディスカバー・ビートルズⅡ」が今日最終回を迎えた。
ディスカバー・ビートルズⅡ - NHK
来週から聴けないのは寂しいなあ。とても楽しかった。
特に印象的だったのは和田唱さんによるレコードのマトリックス解説。いやあ、これにこだわり始めたら果てしないな…笑 でも自分の耳でもわかるほどマトリックスによって違いがあったのでこだわるのも尤も。
ビートルズの曲はそれなりに聞いていたけど(親がファンなので)、知識としてはほとんどないに等しかったので色々と興味深い話を聴いてかなり解像度が上がった。元々の素養がないせいでお話を十分に吸収できなかったのがもったいなかったなと思う。
素晴らしい番組をありがとうございました。Ⅰの再放送とかしてほしいな。

過去の投稿

2024/03/30

土であって種ではない

 これまた年単位で前のものですが、こちらを聞き返しました。

 話の趣旨に沿っていたり沿っていなかったりな感想的メモを残しておこうと思う。


 この中で、ざっくり要約すると「アトミックなノートを増やしていくことは、文脈の産物である『コンテンツ』を育てることとは直接は関係していない」というようなことが語られていた。アトミックなノートを集めればそれがそのまま意味のある文章になるわけではない。

 このことは自分の体感としても全くもってその通りだなと思う。
 アトミックなノートを直接文章にしようとすると迷走する可能性があるが(自分なりのメッセージがないからだろう)、しかしそのまま文章にできないからといってそういうノートを作ることをしないでいると文章も生み出せない。最近私が考えていた区切りで言うと「知の箱」に入るべきもので、これは自分の土台を作るものだ。最終的に豊かな表現をするためには、それができるような豊かな人間になる必要があり、それを支えてくれるものだろう。
 アトミックなノートとして書かれるものはおそらく論理的なものが多いし、「後で使えるようにする」という意識が働くものでもあるので、「豊か」という形容詞とは結びつきにくいかもしれないが、つまるところより広くより深く物事を考えられる人間になるために作るものであろうし、やはりそれは「豊か」になることを目指しているものと言っていいと思う。五藤隆介さんも『アトミック・シンキング』にてその目的を「考える能力を拡張すること」とお書きになっている。
 で、これはつまり「土壌」なのだと思う。あくまで「土」であり、じつは「種」ではないのだ。「種」だと思って膨らませようとしても、「芽」が出るのではなくて「良い土」になっていくのであり、表現としての文章にはなっていかない。考え事は進むのになぜか文章に繋がらないということが時々あるのだが、それはこういうことなのだと思う。
 良い土になっても「種」がなければ一向に芽は出ない。「種」というのは自分なりの文脈であり、自分の価値観に基づいて自分や他者をどこかに連れて行くための根源である。良い土に種を蒔けば、それは芽を出し大きく育つ可能性が高くなる。
 「土」と「種」という比喩には目新しいものはないだろうが、「アトミックなノートはあくまで土である」という認識を持ったことで、それがなぜコンテンツづくりと混同されてはならないかが自分の中で明確になった。非文脈的というのは、要は自分の価値観を軸にしないということだ。自分が何を理解したいのか、何を伝達したいのか、ということを踏まえて有機的にノートを作ると、それは自分が持つ文脈に沿ったものになり、アトミックにはなっていかないだろう。

 ただし、アトミックなノート(=非文脈的ノート)は「土」だが、「土」は必ず非文脈的というわけではないと思う。ある概念を文脈から解放しておくことはその概念を生かすことを楽にするとは思うが、文脈と結びついたまま扱うことの方が自然な人間にとっては、むしろ文脈と切り離すことに無理して労力を費やすより、文脈とセットにしたまま保存しておいて「使う時に切り離す」方が良いのかもしれない。例えば「要するに」と言いたい人間かそうじゃないかという違いは事実あって、その性質的な違いが存在するのなら情報の扱い方もその間で違っているのではないかと感じる。
 アウトライナーに何かを書いていく時、「これはつまりこういうことだ」と思ったら、多くの場合「これ」を示す項目の子項目に「つまりこういうこと」の内容を書くことになるだろう。その部分だけ取り出してカード化すればアトミックなノートになると思うが、取り出してカードにした方が嬉しいかというのは人によるかもしれないと思っている。せっかくカード化しても、その内容を思い出そうとした時にはその文脈(例えば読書メモなど)の記述を探した方が遥かに速いということもあり得る。
 というか、見た目にアトミックっぽいカード的なノートを作らなくても、頭の中で文脈とともにアトミックな理解が保存されている場合もあるだろう。アトミックに書くのが難しいと感じていても、何かを咀嚼した上で自分の言葉で何かを語ることに不自由していないのならば、それは実際は文脈から切り離して考えることに苦労するタイプではないようにも思う。つまり、「文脈A→文脈無し→文脈B」の工程を経るのは難しいが「文脈A→文脈B」の変換に苦労はないということだ。アトミックなノーティングは苦手でもアトミックなシンキングはむしろ無意識レベルで当たり前にやっている可能性もある。
 今ふと思ったが、もしかするとAnkiを活かせる人とそうでもない人との差もそういうところにあるかもしれない(実際そうかは全然わからない)。ちなみに私はAnkiに挫折している。

 そういえば、うちあわせCastのこの回でTak.さんが「カードに書いていくと一枚で完結できずスレッドになってしまう」という旨のお話をしていて、これは自分にとってはツイートについて抱えていた悩みと同じだなと思った(考え事をTwitterでやった後にその一連のつぶやきをどうするかに迷う)。このことについてはまた別に考えようと思う。
 

2024/03/26

メモとノートと書き物と文脈

 結構前のものですがうちあわせCastを聞いていて考えたこと。


 メモ術・ノート術・執筆術の三つがあるよね、というお話をされていた。そのお話でのメインテーマからはちょっと外れるが、メモ・ノート・執筆の三つの場はツールを混在させると混乱するポイントだろうと思ったので、それらの境界がどこにあってツールは何を選択すべきなのか自分なりに考えてみようと思う。うちあわせCastその他で語られていることと多分同じことを自分の表現で言っているだけになるだろう。

メモ、ノート、書き物と文脈

 さて、メモ・ノート・執筆のままだとちょっと話が曖昧になるというか、例えば執筆のためには当然メモもノートも作るわけなので、まず「メモが生まれる時」「ノートを作る時」「書き物をする時」という観点で考えてみる。これらはいずれも自分の頭の中で起きた知的反応を文字にして書き残すということをしている状態だが、その知的反応にまつわる文脈の状態は全て違っている。(「書き物」はつまり人が読む文章のことだが、単に文章と書くとニュアンスが曖昧になる気がしたため書き物とした。)

  • メモが生まれる時:文脈はその瞬間の環境にある
  • ノートを作る時:文脈は既に記述されているか、ほぼ自明のこととして自分の中にある
  • 書き物をする時:文脈は自分の中にメッセージとして存在している

 生まれたメモがすぐ死んでしまうのは文脈が「その瞬間の頭の中」にしかないからであろう。その瞬間に自分がどういう状況にあり、何を考えていたのか、きちんと書き留めておかなければ後から確かめる術がない。
 ノートを作る場合は、ノートを作ろうとしている時点で文脈が既にはっきりしている。そしてノートを作っている途中で起こる知的反応は既に記述されているものとの繋がりがおおよそ明らかであり、ある程度の言語化を心がければそれがすっかり死んでしまうことはない。前回書いたように「文脈エディタ」としてのアウトライナー、アウトライナーを使ってアウトラインとして書き残しておけば鮮度はかなり保存される。ただし、その時点で自明だと思っている文脈も時が経てば次第にその力が弱まっていく可能性が大いにあるので、あまりにも記述を横着してしまうとやはりそのうち死んでしまう。単語だけで済ませないことはどの形態でも必要な心がけだろう。
 書き物をする時は当然ながら文脈が既に存在している。文脈がないならばそもそも書き物をしようということにならない。書き物とは文脈を人が読める形に整えていく仕事であり、新たに文字にしたものはその前に書いたことと当たり前に関連している。

 何が言いたいかというと、自分の頭の中に何かが生まれた時に、それについての文脈を明らかにするために新たに費やす必要のある労力が違っているということだ。既に文脈が書かれていれば文脈を明らかにするコストはあまりかからない。何の脈絡もない思いつきはどこにも文脈が書かれていないせいで文脈の明示には大きなコストがかかる。
 可能ならば、メモが生まれた時にそれが繋がるべき文脈が既に言葉になって存在していてほしい。それができるならそれはもうメモではなくノートだろう、と言われそうだが、その通りで、つまりメモがスムーズにノートになってほしい。(これは「最終的にノートになってほしいメモ」に限っての話で、すぐに用が済むようなものは別だ。)
 逆に言えば、何か思いついたものが既存の文脈とどのように繋がっているかが、それが「メモ」「ノート」「書き物」のいずれであるかを決めているようにも思う。

  • メモの一文:言語化された文脈と十分に接続していない
  • ノート内の一文:自分が理解可能な形で言語化された文脈と十分に接続している
  • 書き物内の一文:他者が理解可能な形で言語化された文脈と十分に接続している

 言語化という言葉はあまり好きでないが、こだわって意味が不明瞭になっても困るので、「読んで理解できる文にしてある」という意味で「言語化された」と書いている。また「十分に接続している」とは、その一文の意味を時間が経っても解凍可能な程度にその文脈に支えられていることを意味している。
 同じ一文を書いたとしても、単独でインボックスに入っていればメモだし、ノートの中に位置づけられていればノートの要素だし、他者ないしは未来の自分が読むための文章に組み込まれれば書き物の要素になる。
 もうちょっと言い換えてみよう。

  • メモ=各文が文脈を形成するとは限らず、かつ既に言語化された文脈と十分に接続していない
  • ノート=各文が自分に理解可能な形で文脈を形成し、互いに十分に接続している
  • 書き物=各文が他者に理解可能な形で文脈を形成し、互いに十分に接続している

 執筆には、書き物そのもの(=本文)と、取材や構想などのノート、そして書き物に関わるアイデアなどのメモとが必要になる。文脈がない状態から自分がわかる状態に変え、そして他者がわかる状態に変えていくことになるだろう。

メモを死なせないために

 メモを長い間生かすためには、その一文が既に言語化されている文脈と十分に接続することが重要ということになる。つまり小さいノートに変身させるということだ。なお速やかに消費する種のメモはいちいちその労を払う必要はない。
 例えば「メモとノートと書き物は分けて考える」という閃きが生まれたとして、そのままでは「なんで?」というのがわからない。そのうち何がしたかったのか忘れてしまうだろう。そしてメモは死んでしまう。でも、仮に「デジタルノートツールを適切に使い分けたい」という言語化された文脈と接続すれば、なぜごっちゃにしちゃまずいのかがわかる。縦しんばその時点にあった「どう分けるべきか」のイメージを忘れたとしても、そのメモはHPを半分くらい保った状態で生き残るように思われる。
 辛いのは、メモが生まれた時にその文脈を全く言葉にしたことがなかったパターンだ。しかし、なぜ文脈が言葉になっていないのだろうか。自分の生活とは全く関係ない思いつきが急に降ってきたというのなら仕方がない。実際にそれまでその文脈が自分の中に存在していなかったのだから先んじて言葉にしているはずもない。しかしそうでなければ、文脈自体は既にあるにもかかわらず、それが言葉になっていないということになる。
 といって、今自分はどんな文脈の中にいるのか、と問うてもなかなか言葉は出てこないだろう。ここで有効なのがフリーライティングではないかと思う。で、フリーライティングした後に自分のいる文脈を整理しておく。そしてメモが生まれた時に自分の文脈のどれと関わっているのかを照らし、関連があれば結びつける。タグにすると管理が大変なので(というか管理しようとし始めてしまうので)コピペで構わないだろう。別に全く同じフレーズを貼る必要もない。肝心なのは個々のメモの文脈をなるべく簡単に保存することであって、その文脈にまつわるメモを一度に取り出しやすくすることではない。
 そうは言っても文脈を網羅することなど土台無理な話であり、また文脈というのは「前提」だけではないから、これでメモのゾンビ化が万事解決ということにはならない。ならないが、とにかくメモが生まれた時点でその文脈を言葉にしようとするのが辛いわけなので、ある程度予め文脈の言語化を心がけることは多少その苦しみを和らげてくれるのではないかと思う。

ツールを考える

 さて、結局どんなツールを使うべきかという問題が残っている。
 アウトライナーは文脈保存のツールだと書いたように、実際ノートと書き物(の準備段階)はアウトライナーが良さそうに思える。ただし全てをアウトライナーでやるワンアウトライン形式より、テーマごとのファイル内でアウトライン操作ができるような形が良いかもしれない。そしてファイル間はリンクで繋げられるネットワーク型にすると後々活かしやすいだろう。具体的にはScrapbox、Obsidian、Notion、Logseqあたりが候補になるか。異なるテーマ間には通底する文脈がないことが多いからノート全体の管理をアウトライナーでやる必然性はないと感じる(アウトライナーでやってもいいけれども)
 メモはなかなか難しいところだ。頭に浮かんだ時点ですぐ書き留められることが最優先だから、メモの入口としてはとにかく素早くスムーズに書き込めるツールが必須だが、それをそのままにしていてはメモが死んでしまうので、書き込んだ後のことも考えなくてはならない。場所を移すなら移しやすいものを使うのが良いし、場所を移さないなら分類ができて編集がしやすいものが良い。あるいは書いたものは基本的にそのままにしてレビューの機会を作って植え替えするのもありだ。
 行動を伴うもののメモがアイデアメモによって埋もれるとよろしくないのでそれらは分けて考えた方がよいだろう。そしてアイデアメモは間違いなく溜まる一方なので、無限の増殖を覚悟する必要がある。「すぐ書き込める」「行動のメモとアイデアメモを分けられる」「アイデアが無限に溜まってもいい」を満たすシステムはどんなものになるか。メモを小さいノートにするまでの流れを整理したい。
 パターンを考えてみよう。

①内容を簡単にコピーできるものに書き込み、無限に蓄積可能なツールにこまめに移す
②分類可能かつ無限に蓄積可能なツールに書き込み続ける
③無限に蓄積可能なツールに書き込み、別の無限に蓄積可能なツールに植え替える

 ①は、例えばアウトライナーにまず書いてScrapboxに移すという形態があり得るだろう。インボックスやデイリーのページを入口として、文脈が失われないうちにアイデア類はカード式っぽいツールに移動する格好だ。機械的にコピペしても駄目で、移動する際に文脈を補完するのが重要だ。
 ②はイメージとしてはごくシンプルな形式なのだが、適切なデジタルツールは思い浮かばない。Evernoteの超簡易版みたいなのがあると良い気がする。私が過去に触った中ではCliptoというクリップボード監視ツールが一番イメージに近いかも知れない。理想を言えば、編集可能、タグ付け可能、インクリメンタルサーチ可能なTwitter風メモ帳みたいなのが良い気もするが、そういうコンセプトで過去に作ったツールがいまいちうまくいっていないので、おそらく納得できるUIの条件はシビアである。あと自作ツールだと現状「すぐ書き込める」を満たさない(スマホに対応していない)というのがネックになっている。なおアナログならPoIC[1]がこのタイプだろう。
 ③は外山滋比古が『思考の整理学』で書いていたメモ、ノート、メタ・ノート[2]のようなタイプだ。育ちそうなものはそのまま育てないで別の場所に移動する。デジタルツールでは植え替えをする必要に迫られないが、デジタルでも敢えて植え替えする方が結果的にメモの生存率は上がるかも知れない。急がば回れというやつだ。
 これらのどのパターンを選ぶかでずっと迷走している感がある。どれを選んでも、その後別のパターンが魅力的に見えてくるのである。どれについてもそれがベストだと言っている人がいるのだから、優劣を比較して結論を出すことは多分できない。結局頭で考えないで感覚的に気に入ったものを選ぶということになると思う。そう思いつつ、まだ悩んでいるところである。


  1. メインページ | Pile of Index Cards ↩︎

  2. メモ、ノート、メタ・ノート - ノートのノート ↩︎

2024/03/25

総合的に楽しくない

昨日楽しさが生む虚しさで「楽しんでいるが虚しい」ということを書いた。
で、全体の雰囲気として最近の自分の気分は楽しいのかと言うと、正直言って楽しくない。あははっと笑ってはいるがハッピーではない感じ。

続きを読む(ネガティブ注意) まず書くのが楽しくない。今月は割と色々書いているけど、なんだか急速に嫌になってきた。ちょっと前から嫌になっている。止まったら負けな気がして半ばやけくそで書いている。何かを偽っているわけではないので書けばそれなりに自分に役立つ文章が生まれる。楽しくなくても書き続けられる人間になることは私にとって重要なことだ。でも温かい気持ちはないので人との交流的な要素を含む投稿はしばらくやめておこうと思う(例えばトンネルChannel)。 プログラミングはやることがなくなったのでここのところやっていない。必要があってObsidianのプラグインはちょっといじったけど、それだけ。自作ツールについてわくわく考えることはなくなってしまった。そういうことをするエネルギーが足りていないと感じる。こだわるのが面倒くさい。 あと最近思うのは、お菓子を食べてもあまり嬉しくないということ。味は正しく感じていると思うけど、どうも幸福感がない。 表層で軽くケラケラ笑って、深層では心が動いていないこの感じ、もしかすると鬱の気配が忍び寄っているのかもしれない。
2024/03/24

「文脈エディタ」としてのアウトライナー

 メモ術・ノート術・執筆術について考えていた。その中で、アウトライナーに別の名前を付けるとしたら「文脈エディタ」だな、という結論に至った。


 アウトライナーという言葉が好きでないので自分が納得できる名づけをずっと考えていた。当初はアウトライナーの見た目と基本機能に注目していたけれど、なかなか言い表すのは難しかった。(どう名づけても不十分か、あるいは意味が広くなり過ぎて別種のものまで含んでしまう。)
 しばらく考えていたがどうもうまいネーミングが浮かばなかったので、この件については仕方なく保留にしていた。

 以下、この文章中で「アウトライン」という言葉を用いる場合、基本的にプロセス型アウトライナー(WorkflowyやDynalistなど)で扱うような入れ子型の箇条書きを指すことにする。

 ここのところメモ術・ノート術・執筆術の境界や関連性について思考を巡らせていて、詳しくはまた別途書くつもりだけれど、とりあえず「文脈」というものにフォーカスして考えていた。
 そしてふと気付いたことがある。単発のメモはやがて鮮度を失い死んでいってしまう一方で、何かのアウトラインの中に存在している一行は、多くがそれ単体では意味が不十分であるにもかかわらず、かなりの月日が経っても「どういうつもりで書いたんだったっけ」ということにはならずに生きたままだということだ。
 なぜ生きているのかと言えば、そのメモの上位項目や下位項目、兄弟項目がそのメモにまつわる文脈を保存しているからにほかならない。アウトラインとして成り立っているものに含まれている文の意味を時間が経っても思い出せるのは、感覚としては「当たり前」ですらある。
 肝心なのは、一本の文章にしなくても文脈を保存しておけるということだ。しかも、他人が作ったアウトラインでもかなりの部分について文脈を理解できる。これは実は相当にすごいことだと思っている。文章にしていないのに、個々の文の配置と構造で文脈が他人にも伝わるのである。
 ただし、だからといって文章にしなくていいということではない。アウトラインは文脈の保存はできるが人に伝えるものとしての「思い」はそこに乗りにくい。事実が保存されているだけで演出がないからである。読み手の中に何をどのように響かせるかはレトリックにかかっていて、おそらく完全にリニアな表現(文章、映像ほか)でないとその力は十分に発揮できない。

 話を戻そう。他人が作ったものであってさえ読み取ることが可能なほどアウトラインは文脈保存力に優れている。
 逆に、アウトラインというのは文脈保存以外の何をやっているのだろうかと考えてみると、どうも思いつかない。アウトライナーは自由なので非文脈的に項目を作ることは可能だが、それは大抵アウトライナーではない方が良い類の使い方だろうと思う。例えばデータベースを作るとか、調べたことをひたすら列挙するとか、そういうことも可能ではあるがアウトライナーがベストとは思われない。文脈が交わらないものをまとめて管理するならネットワークやテーブルなどの方が相応しいように思う。
 文章は文脈を用いて伝えるべきことを伝える試みであり、もちろんアウトラインが力を発揮する。とはいえ文章は文脈だけで出来ているのではないのでアウトラインをいくら充実させてもそれがそのまま文章になるわけではないし、レトリックで読者の道を作ることが可能な程度以上に文脈が複雑化すると、むしろ密に絡まりあった精緻な文脈が文章化の邪魔になる。文脈の肥大に注意しつつ、適当なところで「実際に書く」フェーズに移行するのがよいのだろう。(戻って練り直すのは当然ありとして。)
 文章のアウトライン以外にアウトライナーでよく作られるものにリストがある。ではこちらはどうかというと、例えば買い物リストのようなものは特定の文脈に沿った列挙であると言えるだろう。同じような見た目で、何か分類するためのリストアップも可能だが、アウトライナーが有効なのは自分が如何なる分類を必要としているかを探すまでの間で、分類による管理をする段階に進んだらそれは何かしらデータベース型のものを採用した方が良いと感じる。文脈によるリストと分類によるリストはこの点で違っている。(逆に文脈依存のリストを分類依存のリストと混同してデータベース的なもので扱おうとした場合も失敗に終わりがちに思う。)
 最近取り組んでいるライフ・アウトラインは人生と日々の文脈を明らかにするものだ。今日やる何かはどういう文脈に位置するものなのかを整理していく。
 そもそもその文脈とやらがアウトラインという言葉の指し示している意味だろう、ということなのかもしれないし、至極当たり前のことしか語れていないのかもしれないけれど、少なくとも私個人は「アウトライナー」という言葉から「文脈を扱うツール」というイメージは思い起こさないので、「これは文脈エディタである」と言い換えてアウトライナーと向き合うことが自分の迷走を防いでくれるのではないかと思っている。

追記:自分のオリジナルな発想だという意図は全くなく自分なりに考えた結果文脈が肝なんだなと思ったというだけの記事です。

追記2:アウトライナーがなぜ文脈エディタたりうるのかを倉下忠憲さんが詳しく解説してくださいました。ありがとうございます。

 

2024/03/24

楽しさが生む虚しさ

最近とても楽しめるものができて、あははっと笑って過ごしているけれど、同時に虚しさに襲われるようになった。いや元々虚しいので虚しさに襲われること自体は今始まったことではないけれど、今感じている虚しさの大きさにちょっと慄いている。
「あははっ」→「すん…」の高低差が広がったからかとも思ったけれど、なんかちょっと違う気がして、これはなんなのか考えていた。

続きを読む で、思ったのが、多分その「楽しめる」というのが「お客さん」としてのものだからだろうということだ。誰かの話に笑う、誰かが作ったものにハマる、それは間違いなく楽しいし、そういうものはないよりあった方が良いと思う。ただ自分の楽しみの形が「何かを受け取って、気分が良くなった」ということしかない場合には、気分が良い割に自分の人生は一歩も進んでないことに目を向けてしまった時、底知れない恐ろしさに襲われる。 この感触を味わった時、「とにかく金を払う」という選択が生まれる理由を少し解ったような気がした。虚無が忍び寄る隙間を生まないように思考の全てをそれに向け、それを支えることを「自分は前に進んでいる」という証と感じて貢ぎまくる。時間が経過すればその対象は何かしら変化するわけで、それを追いかけることで時間経過と一緒に自分も前に進んでいるはずだと考える。 推しや趣味にたくさん金を使っている人がみんなこうということではない。ただ、この虚しさをどうにかするにはどうしたらいいかを考えた時に、そういう選択肢の可能性に思い至ったのを考えると、これは自分の中では現実味のあるルートだ。自分自身がそのようにする気はないにしても。

自分を楽しませているその人、そのモノの作り手と違って、自分はなんとつまらない存在だろうか、なんていうこともふと思う。これは結局解決することのない「何者」問題であり、自分をつまらないと思おうと思えば自分の実態とは関係なくつまらないと思い続けられてしまうわけで、どこまでも不毛な自己否定だ。どうせ人気者になっても億万長者になっても「本当の自分はつまらない存在なんだよな」と思うに決まっている。実際、どう見ても個性的な著名人がそういうことを言って悩んでいたりする。
でもやっぱり思ってしまう。自分はなんとつまらない存在だろうか。
まあ、最近自己肯定感が上がるイベントが全然ないから余計にそう思うのだろうと思う。あとは単に、死にものぐるいになってなくて頭が暇ということだ。

2024/03/20

ガラスの城(2024年)

年始の松本清張原作ドラマ化、『ガラスの城』の方も見た。
テレビ朝日開局65周年記念 松本清張 二夜連続ドラマプレミアム 第二夜 『ガラスの城』|テレビ朝日
なかなか面白かった。というか、『顔』と比べてこっちは「これはギャグなのか?」と思う感じでなんだか可笑しかった。実際、最後の1/4くらいを除いてギャグだったと思う。

続きを読む 波留の演技に笑ってしまった。社員旅行の次の日にオシャレした姿で出てきた時は吹き出した。最後まで見ると「笑っちゃいけないところだったかも」と思ったけど。 ずっと「一見イケてる会社にありがちなこと」みたいな風刺的表現に笑いながら見ていたけど、最後に的場郁子(波瑠)が三上田鶴子(木村佳乃)にどういう感情を抱いていたかが語られると不覚にも涙してしまった。『顔』でもそうだったけど、なんというかこう、二次元で心情描写の解釈についてかなり鍛えられた状態で見ているので、「他の人にはちっぽけなことでもこれはこの人にはきっと人生が変わるほど大事なことだっただろうな」みたいなことに思いを馳せてしまう。そういう癖がついている。 三上の語りでは部長の不倫相手候補になっていた二人が、実は二次元オタクで社員旅行の夜には三次元男と会ってなんかいなかった、という展開にすごいウケてしまったんだけど、その二人を始め登場人物ほとんど全員が表面的な印象と本当の内面が違っているというのがちょっと考えさせられた。別に全然珍しい描写ではないけど、「そりゃそうだよなあ」という気持ちがなぜだかしみじみと湧いた。後半でその女性社員二人が郁子に本音を吐露しているところと、最後に郁子の元に駆け寄るところが良かった。(良かったけど、最後なんで社員たちがあの場所に来たんだ?) それはそうと「非公開のSNSダイアリー」というのがちょっとよくわかんなかったんだけど、「手記」というのが現代では無理があるという判断だろうか。あんまりリアルタイム感は重要じゃなかった気がするし、普通に日記か何かで良かったと思うんだけど…。 細かいところをつつき始めればキリがないけど、見ていて面白かったので特に不満はない。ソムリエみたいにドラマ見てるわけじゃないしね。

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