一人で考えていると、頭の中には「まだ言えない」ようなことばかりが渦巻き、うまく出力に繋げられない。
何かへの反応なら、「ここまで言い表せば十分である」というラインが見える。対象と程度が明らかになる。そうではなく自分の中から出そうとしている場合には、対象があやふやな上どこまで言うべきかも自明ではない。
何かをきっかけとして、その後たくさんのことを自分の中から取り出せることはある。思いがけない規模になることは少なくない。そういう時に「自分の中から取り出している」という感覚が強いと、小さくともきっかけが確かにあったことを忘れてしまうことがある。いつでもそのくらい自分の中から取り出してこれるような気になる。
しかしいざ何か考えようとしても、なんにも出てこなかったりする。あまりにも出てこないので唖然として途方に暮れてしまう。きっかけさえあれば無尽蔵かのように出てくるのだとしても、きっかけがなければそのように何もできないかもしれない。
自分の中から思考を――マジシャンが口から旗を出すように――取り出すために、自分はどんなものをきっかけとして欲するのか。それを考えておく必要がある。
自分と似ている人は助けになりやすいが、目に入るのが自分と似た人の話ばかりだと、既にわかっていることをこねくり回すだけの堂々巡りになるおそれもある。
逆に自分と遠すぎるとか「ねじれの位置」にあるとかだと化学反応が起きにくい。そういう存在を導火線にしようという試みは、自分が特別元気な時に気合を入れて挑んだ方が良い。
要はほどほどの距離の多様性が必要だろう。思考の相性が良く(つまり言っていることがすんなりわかり)、かつ自分では思いつかないような話をしてくれる存在。そういう人や場、読み物を見つけておいて日常的に巡ることが自分を停滞させないためのひとつの要になる。
そしてそれらへの反応として相応しい言葉を綴ろうという無意識の調整が、ひとつの記事としてちょうどよく形になったものを自分に生み出させてくれるだろうと思う。