Noratetsu Lab

動じないために。

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トンネルChannel

倉下忠憲さんが開設なさったSubstackの参加型ニュースレター。
リンク:トンネルChannel | 倉下忠憲@rashita2 | Substack
購読(※無料)するとメールアドレスに投稿が送られてくる。上記リンクからも全記事読むことができる。

https://tunnellingchannel.substack.com/about

インターネットで行われる新しい「対話」の試みです。
レター発行者と購読者という構図だけではなく、複数のレター発行者で行われる対話。それも、ツイートのように140字の断片ではなく、ある程度のまとまりをもった文章を介して行われる対話。そういうものが生まれたとしたら、どんな変化が生じるのかを確かめてみたいと思います。
なので、購読者になっていただけるのも嬉しいですが、ぜひ発行者に名乗りを挙げてください。特に、気負う必要はありませんので。

のらてつの咀嚼・まとめ:Noratetsu Lab: トンネルChannel
のらてつの投稿分:のらてつ @Foam_Crab | Substack

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2025/02/23

写真とスクリーンショットはなんぼあってもいい

tksさんと倉下さんのこちらの投稿を読んでいてひとつ思ったのが、「写真とスクリーンショットはなんぼあってもいいですからね」ということです。


普段写真をたくさん撮る人というのは少なくないと思います。しかしそのような人でも、「ありとあらゆるもの」を撮っているかというと、おそらくそうでもないでしょう。風景や植物、食べたものなど「心が動いたもの」については、写真に撮っておこう!という気持ちが生まれてうきうきとシャッターを押すものですが、淡々と記録するための写真は前もってこのタイミングで撮ると決めておかないとなかなか撮らないように思います。

何事も無目的に機械的にやると後でノイズになり、もちろん写真やスクリーンショットも例外ではありません。誰かと会ったり旅行に行ったりイベントに参加したりするたびに写真を大量に撮るけれど…というケースはよく耳にします。実際の光景を自分の目でまともに見ないで終わったという反省が生まれることもあるでしょう。
ですが、「記録」のための写真やスクリーンショットを「多すぎて雑然として困る」というほど残すことはまずない気がします。撮っておけばよかったと思うことはあっても、こんなに撮るんじゃなかったと思ったことは今のところありません。
撮り過ぎよりも「何の記録か」がわからなくなることが問題で、それは数の多さによるものではないでしょう。「撮影する」という動作が完了した時点で用が済んだ気になって放置しがちですが、写真が記録として成り立つための手入れはどうしても必要です。

基本はやはり文字情報として日記や日誌に残し、プラスアルファとして写真やスクリーンショットを撮っておくというのがよいでしょう。写真を撮ったからいいや、という判断は後から困る可能性があります。
しかし写真もスクリーンショットも極めて簡単に撮れる時代になっているのですから、全てをどうにか言語化して文字で記録しようと頑張らなくてもいいわけです。そういう時代になってから既にかなりの年月が経っており、画像での記録がとっくに当たり前になっている人は普通にいると思いますが、私は今のところそこまで記録としての撮影が日常のものにはなっていません。「あ、撮っておけば楽か」とたまたま思い至ったら撮る、という状態です。
なので、記録のジレンマを乗り越えるためにしろ、嬉しさを増やすためにしろ、ツールの様子の変遷を歴史化するためにしろ、その前提として写真やスクリーンショットを頻繁に撮ることを習慣にしたいなと思いました。

2025/01/20

苦手要素への対処自体をプロジェクト化しない/ライフ・アウトラインの拡張

先日の問いかけに早速お答えいただきありがとうございます。重要な気づきを得られたと思います。
苦手なことはどこに整理したらいい?
このこと、つまり自分のネガティブ要素(≒欠点)とその対応の検討場所について二つのことを考えました。

2025/01/11

苦手なことはどこに整理したらいい?

(※トンネルChannelに投稿したものです)

他の人はどうやっているんだろう、と気になることが生まれたため、皆さんに尋ねてみたくて投稿します。


自分とはどういう人間であるかということを考えるために、今現在はTak.さん提唱のライフ・アウトラインを活用しています。自分が何を欲していて、どういう日々を送ることに努めるのがよいかということを考える上でたいへん役立っています。それまでにあちこちにメモして考えていたようなことをうまく集約するシステムを得たという感じです。
一方で、自分自身について考えるために必要な記述であるにもかかわらず、どうもその中に馴染んでいかない要素があります。それは自分が苦手なこと、嫌いなこと、避けたいこと、といったネガティブな自己分析です。
それに立ち向かうにしろ、回避を選択するにしろ、「こういう要素があるからこうしよう」ということは考えなくてはいけないわけですが、それは自分の欲望を考えることとは別の視点のような気がして、自分の中から湧いてくる種のものと一緒には扱いにくく感じています。
現状、そういう分析は色々なところに散らばった状態になっています。一応「結局何を心がけるのか」は手帳に書いていますが、答えが出るまでの検討が置かれるべきところが曖昧なのが気になっているわけです。ネガティブなことなので、専用の場を作る気にはなれないでいます。

ライフ・アウトラインやそれに類する方法を取っているかどうかとは関係なく、他の人が「自分にはこういうネガティブ要素があって、それにこう対処することにした」という要素を具体的にどういう場所にどう整理しているのかが気になりました。
投稿またはコメントで皆さんのやり方を教えてもらえたら嬉しいです。

2024/12/26

目次必要性の傾向を考える

情報整理のいろいろ - by 倉下忠憲@rashita2 - トンネルChannel
言及いただきありがとうございます。私の元記事の当該部分は少し自分の言いたいことに引き寄せすぎた書き方をしていてあまり適切ではなかった気がします。

2024/12/16

手帳についての自分語りおよび来年の手帳・ノートのこと

手帳と私

「手帳とともにある生活」に漠然と憧れがあります。いや、憧れというより、そのようでなければ生活というものは完成しない、というような気持ちがあります。


それゆえ手帳を使うということをずっと試み続けていますが、「試み続けている」という状態から前進できている感じはしません。パートナーのような存在になっていかないのです。そもそもの話、自分が手帳に何を求めているのかが曖昧です。言うなれば、人を愛するイメージも人と暮らすイメージもないのに漠然と結婚した~いと言っているかの如き体たらくです。
かつて手帳が担ってきた役割というのは、その多くがパソコンやスマートフォンの中にあるアプリケーションに移っていきました。スケジュールもメモも連絡先も地図も、今となっては紙で扱う必要はあまりありません。デジタルだと電気とインターネットの状況、デバイスの健康状態に左右されるという理由で「念の為」紙にも情報を用意しておくということはありますが、デジタルでやれるならデジタルでやるという方が多くなっています。
「手帳とともにある生活」に近づけるために、これまで手帳の役割を増やすことを考えていましたが、それはつまり、既にデジタルでやっているものをわざわざ紙の手帳に戻すということになります。手帳がなくても回っている生活に、手帳を使いたいがために変更を加えるということです。このように言い表すと土台無理なこと(あるいは余計なこと)をやろうとしている感が滲み出てきます。

ところで、現時点で手帳を全くまともに使えていないのかというと、実はそんなこともなく、バイブルサイズの6穴システム手帳に自前のA6紙をセットしたものをずっと使っています。むしろほぼ毎日開いています。
しかしながら、それでも「手帳とともにある生活」を送っている感覚はありません。このシステム手帳の役割は「参照」に限られていて、サッと確認できなくてはならない各種の情報や、あるいはWindowsのショートカットキーや正規表現の書き方など画面の外にあると嬉しい情報といったものを入れています。ほぼ毎日開いてはいますが、新たに書き込むことは稀です。つまり、対話がないのです。
やはり「ともにある」「パートナーである」という感覚のためには対話が必要でしょう。実際にはあくまで壁打ちの壁であって対話相手は自分自身であるにしても、過去の自分を保存し未来の自分に向けてそれを放ってくれることで対話を成り立たせる、その役目を担ってくれるかどうかが「パートナー」と言えるか否かを決めているように思います。
ここで、二つの選択肢が私の中に生まれました。ひとつは、手帳にパートナーとしての役割を担ってもらうこと。それは私がずっと手帳に対する憧れとして抱いてきた道です。もうひとつは、パートナー感に飢えることをやめ、「参照」のために使うと割り切ること。イメージとしては最強の「生き字引」になってもらうことです。
いやそもそも生きてないしそれはただの字引だろう、というツッコミが入るに違いありませんが、手帳を最強の字引にするには私が育てなければなりません。現時点の私の手帳はまだまだ頼りないものです。その意味で手帳には生きもの的側面があり、やはり単に字引というよりは「生き字引」のイメージがより相応しく思えます。
そして、私は後者を選択することにしました。対話相手は既に別のアプリケーションが務めてくれています。なんとなく、無機質なデジタルツールをパートナーとは思いにくいところがありますが、幸い最近は特定のアプリケーションへの愛が深まっています。今ならそれらをパートナーと表現して構わないと思え、そうであれば無理して手帳をパートナーにしなくてもいいだろうと。同時に、「生き字引」として傍に控えていてくれるイメージを持つことで「手帳とともにある生活」として納得がいくのではないかと思うに至りました。

来年の手帳・ノート

ということで本題です。来年は以下のような編成でいこうと思っています。

  • アナログ
    • バイブルサイズ6穴システム手帳
    • A5サイズ綴じノート(無地)
    • B5サイズWリングノート
  • デジタル
    • Capacities
    • SoulLinkMap
    • Dynalist
    • Googleカレンダー

ノートとしては基本的にA5サイズのノートを使っていますが、これはどうにもデジタルでは表現しがたいことを手で書く(描く)ためのもので、使用頻度はそれほど高くありません。今のところタブレットを使っていないため紙のままになっているのであり、ゆくゆくは消滅する役目かもしれません。
他に雑学的なものをメモする雑記帳として、ページ数の多いB5ノートを用意しています。以前は小さめのノートを使っていたことがありましたが、この用途では紙面が小さいことには何もメリットがないと気がついたのでB5サイズになりました。デジタルツールのどれかに書くことにしようとしていたこともあったものの、検索するよりパラパラ見られた方が良く、デジタルである必要が全くないのでデジタルツールから引き上げました。
デジタルツールについては、スケジュールはやはりGoogleカレンダーに頼ることとして、それ以外の個人的なメモおよびノート要素はCapacitiesSoulLinkMap、Dynalistの三つのアプリケーションに担ってもらうことにします。この形態はつい最近確立しましたが、三本柱として私の中で非常に納得感があります。(ツールの話は個人サイト内で諸々書いています。)
三つの役割を書き表すとこのようになります。

  • Capacities
    • 日々の拠点にする(デイリーノート)
    • タスクおよびプロジェクトを管理する
    • 「あれ」と指せる類の情報を保管する
  • SoulLinkMap
    • 文章で説明するほかないもの(考え、アイデア、概念等)を収集・編集する
  • Dynalist
    • 文章を書く
    • URLを保存する

例えば読書メモ、Web記事のメモ、自分が思いついたことのメモ、といったものは全てSoulLinkMapに取ります。所謂「勉強」もSoulLinkMap上でやっていこうかと思っています。
このような感じです。未だ嘗てなくスッキリとした気分でいるので、少なくとも手帳・ノートに関しては気持ちよく新年を迎えることができそうです。

2023/09/15

どうやって文章を書いているのか

今月のお題、「どうやって文章を書いているのか」について私も改めて書いてみたいと思います。


文章を書くという工程を以下の三段階に分解して考えてみます。

  1. 対象の決定
  2. 本文の構築
  3. 推敲と投稿

対象の決定

何を書くかということはいつどうやって決めるのか。
私の場合、最初の一歩は大きく分けて二通り、「人の投稿を見る」と「ふと思って呟こうとする」のどちらかです。
誰かがSNSかブログに何かを書いているのを読んで、それに対して自分の反応を書こうと思うというのがひとつのパターンです。その場合、書く対象というのは他の誰かが生み出してくれているということになります。連想によって少しジャンプすることはありますが、大まかな方向性は見かけた話題によって決定づけられます。例えばこの記事は提示されたお題によって決まったものということになります。
自分で対象を生み出すこともあります。ふと頭に浮かんだことを、大抵はTwitterその他に投稿しようとして言葉にして、それが文章の元になるパターンです。厳密には他の人の何かに影響を受けているかもしれませんが、そういう自覚が薄いか、直接的な関係性を感じないほど飛躍しているかすれば、自分の感覚としては自分がふと思ったことということになります。
Twitterに実際に投稿したのを後から文章にすることもありますし、投稿せずに取っておいて文章化することもあります。かなり前に呟いたことをサルベージするということもあり得ます。

なお、何かがふと浮かぶ頻度というのはムラがあります。いくらでも湧いてくるような時期もあれば、探したって見つからないという時期もあります。
その差が何によって生じているのかは正直よくわからないので、自分をアクティブにする手立てみたいなものは残念ながら書くことができません。強いて言えば楽しい気分でいることだろうかと思っています。

本文の構築

本文の種類には、私の中ではこれまた大きく分けて二つのものがあります。先日書きましたが脱「運頼み」の道のり、「自分の言語化のための文章」と「人への伝達のための文章」です。なお自分のために書いたことが結果的に人に伝えるべきことになったという場合、それらは分かち難いものになりますが、その場合は書く過程としては前者にカテゴライズされます。
どう違うかと言えば、書き表すことが次の書き表すものを生むか、書き表すべきことをピックアップして整理しておいて書き表すか、ということになるでしょう。
これは個人差が大きく出そうなところだと想像しますが、自分が自分を知るという点に於いて有効な言語化というのは、私の場合文の形になっているものです。単語やフレーズを並べていくのではなく、きちんと句点が付くような文を綴っていく形です。そうやって書いた文は、次の言語化を生みます。それが繋がってひとまとまりの文章になっていきます。
一方で、既に知っているものを並べることで人に伝達するものを作る場合には、文の形にしておかなくても構想を練ることができます。キーワードを並べて構成するということが可能です。アウトライナーが活躍するケースです。ただしこのパターンの場合も、実際に文章化していくと、書いていく中で自分が自分を知る瞬間というのがあちこちに発生するので、必ずしも事前の想定通りの構成にはなりません。それは倉下さんやTak.さんが繰り返し書いたり述べたりしておられることでもあります。

全体の流れとしてはこのどちらかということになりますが、どちらの場合にしても文章化が常にすいすい進んでいくわけではありません。次が浮かばずに手が止まるということが当然あります。
この場合、次を捻り出そうと頑張りがちですが、しかし実のところ、「次に繋がらない道に一歩進んでしまった」ということがかなり多いです。なまじ文を作れてしまったのでもったいないのですが、それはあってはいけない文だったということがあるのです。そういう時はその文を削除します。
と言ってもバックスペースでばっさり消すというのではなく、没の欄に移動する(没とわかるようにする)という処理をします。今使っているツール(TextManagerと名付けた自作ツール)では、プログラミングのようにコメントアウトできるようにしていて、「// 」を頭に付けて「そこにあるけど(本文としては)ない」という状態にします。本文をコピーした時にコメントアウト部分は自動的に取り除かれるようになっています。

推敲と投稿

ここまでは基本的に、書くために使っている何かしらのツール上でやります。
一通り書き終えたら投稿先のエディタにコピペします。そのまま投稿ボタンを押せるつもりで文章をペーストしますが、実際にはそのエディタ上であちこち推敲することになります。
最初から最後まで何度か読み返し、リズムが悪いところや意味の通りにくいところを修正していきます。投稿先のレイアウトでプレビューするとそれまで気づかなかったことが見えてきたりします。
この段階で内容が大きく変わったということは今のところありませんが、表現は結構変わることがあります。

推敲は念入りにやる場合もありますし、簡単に済ませてしまうこともあります。
ざっとやるだけで終えてしまったものは後から読んだ時に読みにくいことがよくあります。なのでやはり入念にやるのが理想ですが、当然手間がかかることなので、実際どの程度労力を割くかは内容次第です。絶対に伝えたいようなことなら読みにくさがなくなるまで自分なりに頑張り、そこまででもない時は他のことに時間を費やすことを優先してさっと済ませています。
同じ時間推敲したとしても、推敲の出来自体もまたムラがあります。推敲力が下がっているタイミングだと、何度読んでもわかりにくさを自分では認識できなかったりします。日を置いて読み返して「何言ってるんだこいつは」と自分で思うことになります。
また、初稿を書いた時点の自分の状態がいまいちだと、推敲に苦労するような変な文章を自分で生み出してしまっていて、頑張ってもうまく推敲が進まないということにもなります。
推敲力の上下をコントロールすることは多分無理なので、無難な対処法は「必ず日を置く」ということだと思います。が、それより投稿したい気持ちが勝っていれば投稿してしまいます。

大した文章を書いているわけでもありませんが、自分の書き物について整理するならばこんな感じになります。

2023/09/09

脱「運頼み」の道のり

こちらを読みました。


自分の文章の書き方の話は後で何か書こうかと思いますが、その前にコウさんのお話についてちょっと考えたことを書いてみたいと思います。
共感するところが色々ありました。

おまおれ

僕は割と文章を書くのは苦にしないほうだが、すらすら書けるときとまったく書き進められないときのムラがありすぎるのがとてもつらい。
これは私もそうです。月単位で手が止まることもしょっちゅうでした。
書けなさを主観で測るとすれば、継続的に書いている人でも結構そういうことは多いのではないかと想像します。しかし書き進められなかったものは世に出ないので(そして世に出た時点で書き進み終えているので)、人の文章を読んでいるとみんなすらすら書けているような気がしてくるというのは一つの罠だなと思ったりします。
例えば月に一本しか書かない人がいたとして、読み手の方は「この人は仕事が忙しいのだろうからそういう頻度でしか時間が取れないのだろう」というふうに考えると思います。その限られた時間でさっと書いて投稿しているのだろうと。でも本当はたっぷり時間を取った上で「どうして自分はこれしか書けないんだ」と苦悩しているかもしれないなと思いました。

たとえば、今書いているこの文章を書き始めようとしたとき、僕の頭の中にあったのは、まぁ一回自分の文章の書き方を考えてみるか、ということだけだ。
つまり書き始めてから、何を書くか考えながら書いている。だから、このあとこの文章がどう展開するのか、どういうオチがつくのか、自分自身でわかっていないのである。
私は大体いつもそうです! なので私も基本的にはアウトラインを必要としません。後から「この話もするんだった」という後悔がなるべく生じないように「触れておきたいこと」をアウトライナー上に並べることはありますが、それで文章を構成しているかというと、特にしていません。
Dynalistで文章を書くことはあります。しかし、それはもっぱらアウトラインのためではなく、文の子項目にその文の補足情報をぶら下げたりするためです。前にDynalistの話をどこかに書いた時に、アウトラインを組み立てるならこう書く、というようなことを確か書いたことがあるのですが、そうする時はそういう形式でやるようにしたということで、実際に個々の記事でアウトラインを組むことはあんまりありません(その時点ではアウトラインを作って書くことを基本にするつもりでしたが、早々に諦めました)。長期連載を試みるなど大きなフレームが必要となる時にアウトライナーとしての力を発揮することはあるのですが、それは私の書く活動の中ではごく限られた機会です。
また、トンネルChannelやブログに投稿した時に見出しを付けることが時々あるものの、それは一通り書いてから「ここで話変わってるし見出しにしておこう」と思って区切っているもので、事前にはそういう構造は決まっていません。

そして、いま3時の休憩にまた続きを書こうとしてるのだけど、もう手が動かない。昼休みにすらすら書いていた僕が何を考え、どう書き連ねようとしていたのか、もうわからないからだ。
一度に書き切らない場合は、未来の私は過去の私が既に書いた部分を読んで新たに思いついたことを書いています。過去の私が書きたかったことを思い出すこともありますが、そうでないことの方が多い気がします。
どうしても書きたいことがあればメモしておいて未来の私に託しますが、そういう熱意に燃えているわけではない記事は、単に「記事の体を成すまで足す」ということで文章の形になっているに過ぎません。

コウさんがお書きになった内容だけ見たところではこのように私と同じだなと感じるわけですが、一昨日のうちあわせCastでTak.さんが仰っていたように、だからといって本当に同じかはわかりません。「そうは言うけど結構書いてるじゃないか!」という声が聞こえてきそうな気もします。
なので、私が勝手に似ていると思った自分の性質について書いてみることしかできませんが、それでも無意味ではないと思ってまず書いてみたいと思います。(無意味ではないだろう、というのは尻込みする自分に対してよく使うおまじないです。)

ずっとムラに苦しんでいた

私もずっとムラに苦しんでいて、比較的継続して書けるようになったのは「のらてつ」という名前を用意してからのことなのですが、つまりここ二、三年くらいの話です。具体的には、(自分の話になりすぎてすみませんが、)ブログで「ブログの書き方ド下手問題」というシリーズを書き始めてからです。
それ以前のことは誰も知らないわけなので、恰も昔から「このくらいなら書ける人間」であったかのようになってしまうかもしれませんが、実態は全然違います。

コウさんと(多分)同じように、私も「文章を書くのは苦にしないほう」です。書く流れに乗れる何かがあれば、乗っていれば書けるタイプです。
問題は「書く流れに乗れる何か」との出会いが運頼みだったことです。人が読むことが前提の投稿記事を作って公開するとなると、公開するに十分な記事を作れる確率というのが大変に低くなってしまって、そのことにずっと苦しんでいました。続けられなくて潰したブログがいくつもあります。今更新しているブログはかつてからすると奇跡的な継続具合です。

変わったことは今思いつく限り二点あります。ひとつは「まだ解決していない自分の問題について書き始めることを自分に許したこと」です。もうひとつは「自分のためと人のためを分離して考えるようにしたこと」です。

まだ解決していない自分の問題について書き始めた

私の転機というのは、Tak.さんと倉下さんに認知いただくきっかけになった「アウトライナーの使い方ド下手問題」という記事群もそうですが、書き始める時点で全然解決していない自分の問題について書きながら考えることを自分に許したことにありました。
それさえ許せば、私は問題だらけの人間なので、なんだかんだ書けることが絶えません。普通は例えばエリアを三分割した方眼ノートに現状と分析と解決策を整理して自己解決して済ませるものなのでしょうが、その過程を恥ずかしげもなく文章にして公開しています。自分の解像度を上げて問題を発見すれば記事が増えるので、自分に下手なことがあるということに喜んでいる節すらあります。
解決していない時点で書き始めてしまうので、書いた結果解決するかどうかは全然わかりません。ちょっと考えたくらいですんなり解決されても、じゃあこれまでのウン年の悩みはなんだったんじゃいという話なので、解決を試みはしますが解決が記事のゴールというわけではありません。今思いつくのはこれくらいだ、というのを言葉にできたらそれでいいと思っています。
人に見せられるような文章を書こうと思いながら書いているうちになんとなく良いアイデア・良い解釈を思いついて解決してしまった、ということはあるので、それは書くということがなせる業だと思っています。一応「現状の描写」だけではなく「解決を試みる」ということを念じてやっているので、思いのほか脳みそが頑張ってくれるのかもしれません。

自分のためと人のためを分離した

とはいえ、自分の問題だけをテーマにし続けられるわけではありません。他にも「書けそうなこと」はあるわけです。何かを見れば何かを思うので、それについて書けそうな感じがしてきます。できれば書きたいと思います。
そうなるとまた運頼みになってきてしまうのですが、それでは困るので、「書ける」「書けない」の境界はどこにあるのかというのを考えました。そして、ひとつの線を見つけました。それが「自分のため」と「人のため」のラインです。

これは事前にアウトラインを組めるかどうかとも関わるのですが、「自分のため」と「人のため」では「書く」という行為が持つ意味がおそらく全く異なります。
「自分のため」に書くという時は、大体「言語化されるべきものが言語化されていないこと」に自分の苦しみがあって、それを解消するために言語化を試みる、という動機になると思います。自分は何を感じているのかを解き明かしていかなければならないということです。
何かを理解するための文章もそうです。材料を集めて、そこから何が言えるのかを必死に言語化していく過程で、やっと自分自身がそれを解る、そのためにやるわけです。そこに何があるのかが事前にはわからないので、前もってアウトラインを作ることはできないでしょう。
箇条書きで言語化していくならアウトラインの見た目にはなりますし、それを操作すれば実際にアウトラインになるでしょうが、文章の形で吐き出した方がスムーズな人間にはその過程は要らなくなってしまいます。

一方、「人のため」の文章はそうではありません。「人のため」に書くという時は、他の人が知っていたら良いであろうことを既に自分は知っていて、それを伝達しようとして書きます。伝わるように逆算して文章を構成するのでアウトラインを作れるということになります。
「本を書く」ということも基本的には既に自分の中にある「伝えたいこと」を形にするためにやることのはずなので、構成するということが可能であり、必要なのだと思います。

となると、もしも「アウトラインを作ってそれに沿って書く」ということを「書く」ということの理想形とするならば(もしもの話です)、それはつまり「人に伝えるための文章を書く人間」になる必要があるような気がします。伝道師になるということです。
でも、アート的な、「自分の中にあるものを取り出して形にする」ことを「書く」ことの目的だとするならば、それはアウトラインの出る幕ではないかもと思います。文章を整える作業場としてアウトライナーの機能は十分役立つと思いますが、アウトラインを作るという工程はそもそも存在しないかもしれません。
こういう区別をするようになって、「文章を書く」と「アウトラインを作る」の結びつきは私の中で密接なものではなくなりました。
事前にアウトラインを作るという工程がほとんど関わらない領域というのがあって、しかも自分はそれをやりたい人間で、そうなるとアウトラインがどうこうとは全然別のもので自分を牽引する必要が生まれるように思います。例えば、どんな脱線をしてもひとつの記事としてまとめられるはずだと信じてフリーライティングをしてみる、というように。何かを自分の中から取り出すことにもエンジンが必要だからです。

こんなことを考えました。
ちなみにこの記事もアウトラインは作っていません。なので話のゴールは事前には全然わかっていません。書いてみたらこうなった次第です。
コウさんの記事を読まなければ明快に整理されてはいなかったことなので、ご投稿に感謝しています。

2023/08/19

迷わない、手を引いてもらえる、足を引っ張られない

興味深い投稿が続いてとても楽しいです。使っていて自由を感じるツールだ、と言った場合に関連する要素というのは複雑に絡み合っているなと思いました。


ちなみに私が今最も自由を感じるツールは、自分で作った日記兼ひとりチャット兼ひとりWikiなツールです。自分に必要な機能というのが、シンプルなアプリケーションが提供してくれるものよりも複雑で、且つ既存の「色々できるアプリケーション」でできることとは一致しないからです。個人的には、(褒めておいてなんですが、)世にあるシンプルなアプリケーションはあまり相性がよくありません。(そうでなければわざわざ自分でツールを作ろうなんて思わないのですよね。)
今使っているツールになぜ自由を感じるかと言えば、過去の記述は自動で視界から除かれ、見たい情報を見たい形で見ることができ、情報と情報の繋がりを自分の求めるように作れるようにしているからです。あとはフォントとか色とか余白といった見た目の問題もあります。

さて本題です。
そこかしこで議論されていることだとは思いますが、自分の認識の整理を兼ねて考えていることを書いてみようと思います。
ツールを自由に使えるという時に必要なことは、大きく分けて以下の三つの要素を満たしているものと考えています。(私はこう思いますが、全然それだけではないかもしれません。)

  1. 操作に迷わない(UIの問題)
  2. 自分に必要なものがある(機能・情報・心地よさ)
  3. 自分に不要なものがない(機能・情報・違和感)

私の投稿解釈の余地がない且つ無限の解釈があり得るでは、WorkFlowyとScrapboxの間に共通しそうなこととして、主に三つ目の「不要なものがない」のうち「不要な機能がない」ということに着目しました。加えてこの二つのアプリケーションの設計思想から複数人で共同で使うことに焦点を当て、「操作に迷わない」点にも少し触れました。
続く倉下さんの投稿(自由に使うというアフォーダンスは可能か)では、個人にとっての話からツール側の視点に移り、アフォーダンスに焦点が当てられました。「操作に迷わない」ということと、「自分に必要なものがある」に含まれる「自分に必要な(自分を導く)情報がある」という要素の話だなと私は解釈しました。
そしてtksさんの投稿(自由に使うためには「定期的なリセット」と「見えなくすること」が大事かもしれない)と倉下さんの投稿(見えなさと随意操作)で、「不要なものがない」のうち「不要な情報がない」ことについて語られたと思います。tksさんの投稿にあった「『自分で』操作しなければいけないところが窮屈さに繋がっている」という感覚には深く共感します。私も同じタイプです。(ついでに言うと「初対面はいいけど…」というのも同じです(!)
いずれの要素でも、核にあるのはやっぱり「見えるか見えないか」です。見えてほしいものが見えて、見えてほしくないものは見えない、というのがツールの使用感を滑らかにするわけですね。

操作に迷わない

優れたUI、そうでないUIというのは、大体誰にとっても同じように感じられるものと思います。良いUIは大抵みんなにとって良いUIでしょう。洗練されたアフォーダンスで、各要素の意味するところが限りなく自明に思えるようなUIが好ましいです。「自分以外の人間によって作られたもの」ならばほぼそうです。
他方、自分が自分のために作ったものなら必ずしもそうではありません。自分の中に迷いが生まれないのなら、UIとしては多少変でも構わないわけです。
誰にとってもわかりやすい美しいUIと、自分にしかわからないけど自分は不自由しないUI、そのいずれかが「自由」には必要なのではないかと思いますが、前者に頼るだけでなく偶には後者について考えてみると色々面白い発見があると感じています。

また、この「操作に迷わない」というのは必ずしも「使い方に迷わない」ということを意味しているわけではないというのも肝心かなと思います。ノートとペンがある時、「ノートにペンで何かを書く」という動作に迷うことはありませんが、「ノートをどう使うか」は全然自明ではありません。同様に、操作に迷うところのない洗練されたアプリケーションだからといって、それをすぐさま自由に使えるわけではないでしょう。汎用性が高ければ尚の事です。
では、アプリケーションに出会ってすぐに水を得た魚のようにすいすい使えている人がいるのはどうしてか。それは前々から水を欲していた魚だからだろうと思います。つまり、自分の中にまず「これをなんとかしたい」という切実で具体的な要求があり、それをツールに当てはめてぴたりと嵌ったと感じた場合に「これはいいぞ!」と感動する。必然的に、要求の解像度が高いほど、ツールとの相性は厳密なものになっていくと思います。

自分に必要なものがある

機能、情報、あるいは使った時の心地よさの面で、自分に必要なものがある(もしくは見えている)、というのは言うまでもなく重要なことと思います。自分がやりたい操作をやれる、自分が見たい情報を見れる、自分の感性に合った見た目をしている、それらが揃った時にツールに対して強い愛着を持つのではないでしょうか。自分をプラスの方向に引っ張ってくれるツールだという感覚です。
これは多分当たり前のことなのですが、しかしその一方で、自分と相性の良いツールを見つけるには自分に何が必要なのか知っていなければならないということでもあり、それは結構一筋縄ではいかない難題のように思えます。
自由に使うというアフォーダンスは可能かで語られていたのは、自由に使うということをツール側が導けるかということだったと思いますが、これはつまり、自分のことがまだ十分にわかっていないユーザーに、ツール側が可能性を提示することで、「あ、こういうことをやってみたいかも」と気づかせるということなのではないかと思いました。欲求の自覚に向けて牽引してくれるということです。
それがひとつのツールで可能かは倉下さんが仰るように未知数です。「自由」という状態自体が人それぞれ千差万別な気がするからです。

「色々なツールを試す」というのはよくあることと思いますが、これは自分が考えていなかった発想にリーチする上で非常に役立ちます。そのツールを継続使用することにはならなくとも、自分をどこかに導く情報をツールが備えていることがしばしばあるからです。ツールの設計者が意図しないものであることも多いでしょう。
何かのツールをうまく使えている人には、数多のツールを渡り歩いてようやくここに辿り着いた、というような表現をする人がとても多い印象があります。それは「自分に合うツールというのはなかなかない」という事実とともに、「これだ!」と感動できるほどその人は自分の要望の解像度を上げてきたということも示しているように思います。
ツールが規定しているもの以外の使い方をしようとするという「自由」の背景には、切迫した自分の要望のほか、他の道具を使うことや他の人のあり方を知ることで思いついた使い方を転用したい、という気持ちがあるのではないかと思っています。

自分に不要なものがない

逆に、自分をマイナスの方向に引っ張らないということも重要と思います。見えてしまったら無視できない(無視できる人もいますが、無視できない人は無視できない)ので、如何に上手に不可視化するかが鍵になるでしょう。
tksさんが書いていらっしゃったような「過去」の影響力というのを私も強く感じています。「過去」つまり「今より前」のことというのは、視界に入ると「今」を「それ以前の延長」にしようとする力をもたらすような感じがするのです。手動でアーカイブ送りにするとなるとその作業をする時点で視界に入れざるを得ないので、影響を受けやすい質だとそれだけで気分が引きずられてしまいます。
なので、過保護な親のごとく、自分が朝起きた時にはその日の自分にとって過去のものをすっかり取り除けておいてくれると気が楽になります。実際の親にはそう甘やかされない方がいいですが、ツールには手厚く先手を打ってもらってもいいだろうと。
ただ、どの程度「見えない」のが良いのかというのは情報の内容次第なところもあります。強制的な不可視化と意志的な不可視化についての話がありましたが、一口に「見えない方が良い」と言っても、「『今』からすっかり切り離したい」なのか「今はちょっとコンパクトになっていてほしい」なのかは感覚としては結構違うと思います。視界の中に存在していて良いのか良くないのかが違っています。tksさんが敢えて二つに分けてお考えになっていたのもそういうことかなと思いました。この二種類の区別をつけるには、強制的な処理と自分の意思での手動の処理の二通りがどうしても必要だと感じます。全自動で全てを片付けられてしまってもそれはそれで困るのです。

あと「自分に不要なものがない」という点では、「見た目に違和感がない」というのも大事だと思います。なので、自分でスタイルを変更できるようになっていれば、機能としては全く変わらなくとも「自由」な感覚はずっと豊かになると思っています。
自分がどの程度「不要なもの」を無視できるタイプか、というのはわかっておいた方が良さそうだという感じがしてきました。「自分に必要なものがある」と「自分に不要なものがない」を天秤にかけた時に、どちらを優先すべきかがそこで変わってくると思うからです。

それぞれが何に「必要」を感じて何を「不要」と思うのか、というのは見聞きしていてとても楽しいポイントと思います。共感できることもあればできないこともあるでしょうが、自分との合致性がどうであれ知った分だけ面白くなる気がしています。

(話の流れを俯瞰したかったので自分の理解を整理しましたが、話をまとめて畳んでしまおう的な意図は全然ありません)

2023/08/13

解釈の余地がない且つ無限の解釈があり得る

 WorkFlowyとScrapboxの共通性がどこにあるかという話が話題にのぼっていたので、ちょっと考えてみました。


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 といっても私はWorkFlowyユーザーではないので(試してみてやめたというのではなく、Dynalistから入ってこれがいいとなりました)、具体的に素晴らしさを語ることはできませんが、WorkFlowyの見た目や他の人の体験談から感じたところを書いてみたいと思います。

「ある」というストレス

 何かが「ある」ということは、なかなか無視できないものと思います。誰かがそこにいる、何かがそこにある、何かの音がしている、何かの匂いがする、個々人で程度の差はあれど常日頃そういったものから影響を受けているはずです。
 ツールでも同じです。自分に合う機能が「ある」ということ、自分に合わない機能が「ある」ということに、やはり影響を受けるものと感じます。
 自分に合わない機能がそこに存在しているというのは、そんなことが些末に思えるほどそのツールを気に入っているか、何かが「ある」ということから元々影響を受けにくい体質か、そのいずれかでない限り、いくらかはネガティブな影響を受ける気がしています。早い話が「邪魔」だとか「余計」に感じるのです。物理的に場所を取っているわけではないとしてもです。視界に入るというのはそのくらいの力があるのでしょう。

 自分の要求の何かに沿った機能があるという場合にも、それが常に良いこととは限らないかもしれません。いくら自分の需要に沿っていると言っても、本当に100%沿っているわけではないかもしれませんし、自分の需要自体が形を変える可能性もあります。そうなると、高いレベルでマッチしているツールに、マッチしきっていない部分に目を瞑って自分が合わせようとしてしまうこともあり得ると感じます。
 それが無意識化で行われている時、うっすらストレスが溜まり始め、ある時ふと「なんかもっとシンプルなツールないかな」という気持ちとなって現れるような気がします(これは推測です)

 ここで肝心なのは、「合うものがある」にしろ「合わないものがある」にしろ、その影響を「受ける」ことになるということです。否応なしに受けてしまうのです。
 でも逆に「ない」ことに対しては、自分が能動的に考えを巡らせることができるのではないかと感じます。WorkFlowyもScrapboxも「ない」機能があるわけですが、そのことについて私たちは自分で意識的にどうするかを判断することになるでしょう。
 もし余計なものが何もないとすれば、ユーザーはいつも能動的でいられるということなのかもしれません。

解釈の余地がない且つ無限の解釈があり得る

 シンプルシンプルと言いますが、シンプルというのは要するに何なのか。それを考えると、「解釈の余地がない、且つ無限の解釈があり得る」ということだと私は思います。
 WorkFlowyやScrapboxは、パッと見た時に自由過ぎて戸惑うということはあるかもしれません。自分で道を見いださなくてはならない戸惑いです。「例えばどう使うのが効果的なんだろう」とヒントを得たくなる心境です。しかしそれは「正しい使い方は何だろう」という疑問とは異なるものと思います。つまり、「このツールをどう解釈しなければならないのか」という正解探しからは無縁なのではないかと思います。
 もちろん、正解探しの生活に順応しすぎて何にでも正解を探そうとしてしまうというユーザー側の個人的な(あるいは社会的な)問題はあり得ますが、それはツールの設計のせいではないわけです。

 他方、ある目的のための機能が付与されているツールでは、その機能があるということに対して、「目的として設定されていることを正しく解釈する」という必要が生じます。無視してしまってもいいのですが、何らかの目的があることをわかっていながらそれに一切興味を向けないというのは誰にでもできることではないことと思います。わかった上で敢えて違う目的に使うということはしばしばあるでしょうが、それはまずわかるという段階を踏んでのことになります。
 複数の機能が搭載されているとなれば、それらを併せて使った時に達成されるものが何なのかを解釈しようとするでしょうし、その上でそれに沿うか敢えて無視するかを判断することになります。私たちが普段から特別意識せずにやっていることですが、そのことがなんとなく煩わしさを生じているということはあると思います。

 Goさんの記事の中で、

アウトラインを個人ひとりが操作するだけでは不十分で、複数の人が自由に操作できる機能を重視している訳です。

 とありました。Scrapboxも共同編集で本領を発揮するツールでしょう。これができるためには、誰が使ってもツールに対する解釈に差が生じない必要があると思います(ただし自由だということ自体をわかるために慣れが多少要るとは思います)
 少し専門的なツールを採用して教育によってそのツールに対する解釈を統一するというのはよくあるケースかと思いますが、そういう強引さを解消できるのがWorkFlowyやScrapboxのようなツールなのかもと思っています。

 同時にWorkFlowyやScrapboxには無限の解釈があり得ます。いずれのツールも、その設計からユーザーが導き出せるものが個々人で違うと感じます。それはツールが予め定めた読みではありません。きっとここが肝なのだ、と各々が判断して、「じゃあこう使おう」と決めることができるのです。
 そして面白いことに、自分以外の人が導き出した解釈を見ると大抵「なるほど確かに」と納得できます。ちょっと立ち位置を変えて見るとそういう姿が浮かび上がってくる、ということが容易に想像できるのです。
 それは「紙の使い方」が無限なのと同じことだと思います。その無限さを邪魔するものがなければ、ある基本的な仕組みが持つ可能性というのは無限にあるものなのでしょう。WorkFlowyもScrapboxも紙よりは限定的かもしれませんが(紙にはないデジタルならではの自由さを加えてもです)、それでも無限と思えるような解釈の可能性を感じます。
 デジタルツールで追求しうる「基本」はおそらくいくつかの方向性があり得て、それら全てを包括した万事の基本となるツールというのは追究され続けながらもまだ実現されていないと思いますが、WorkFlowyとScrapboxはそれぞれひとつの方向の「基本」を実現しているのだと私は感じています。
 具体的に「基本」とは如何なるものなのかというのはまた別に考える必要があると思いますが、ツールの設計そのものについての見識が私は十分でないので踏み込まないことにします。

 ふわっとした話になってしまいましたが、自分が感じていたことをちょっと頑張って言葉にしてみました。

デジタルツール界のイーブイ?

 余談ですが、WorkFlowyやScrapboxのようなツールはポケモンで喩えると「いつでもイーブイに戻れるイーブイ」という感じがします。進化するもよし、しないもよし。
 イーブイが愛されるのと同じように、WorkFlowyやScrapboxはその可能性の広さと何びとも拒まない愛嬌を愛されるのかもしれません。
 

2023/08/06

チェックボックス依存症だった私

こちらの投稿に関連しての考え事です。

こちらを読んでぼーっと考えている時にふと思い至りましたが、そういえば少し前まで「チェックボックスを用意して、チェックしていく」ということに妙に囚われていたような気がします。


一日のことを頭の中で考えてみた時に、チェックボックスが並んでいるようでなければと思っていたところがありますし、一日の終りにはそれらにチェックを入れられなければと思っていたように思います。チェックボックスを並べられることが「まともに生きている」ことの証明であり、チェックを入れられることが「真剣に生きた」ことの証明のような感じがしていたのです。当時からそのように言語化できていたわけではありませんが、今思うとそんな感じです。
仕事ではないことにまで点検項目を用意して、それに「よし」「よし」「よーし」とやっていかないと自分の一日に納得できないという心境です。そして、「よし」「よし」「よーし」とはいかないので、いつも納得できていませんでした。しかし納得しようがしまいが日々は過ぎていき、納得できない日々が延々と続いても私は今日も生きています。

(正確な文脈をわかっておらず)「get it done」と聞いて私はGTDをパッと連想しました。GTDという概念を認識したのは結構後のことで、Evernoteを知ったよりも後なくらいなのですが(ビジネス書の類を読むのは好きな方なのに、全然接触しなかったのです)、そんな私でもGet Things Done的な感覚はいつの間にやら刻み込まれていたようです。
多分私の場合は、バレットジャーナルの影響が大きかったのだと思います。バレットジャーナルという手法が私にそういう価値観を植え付けようとしてきたわけではないのですが、単純にあの「バレット」感に憧れを覚えて、イケてる感じの手帳像を思い描いた時に、そういう生活が手帳に綴られていくのがきっと良いのだろうと思ったところはあると思います。
あるいは「タスク管理ツールが流行っている」という状況もその傾向を後押ししたでしょう。チェックマークをモチーフにしたアイコンのアプリがたくさん並んでいたりするわけです。チェックを見ると何かをチェックしたくなります(私だけかもしれません)
まあおそらく、倉下さんがご指摘になっている「get it done」というパラダイムの力で、どこを向いてもそういう気分を惹起させられる世界になっているのだと思います。

そういう仕事術的なものに関心を持つ前の若かりし頃、精神的によろしくない状態が続いていたのですが、今思い返してみると、チェックボックスを使うことがなくとも「その日必要なことはやったはず」と頭の中で思えていれば、一応その日の自分の生活に対して不満を抱くことはありませんでした。自分のメンタルのよろしくなさはそこじゃないところに起因していたからです。
しかし、精神的に不調であったせいでやるべきことができなくなってきた時に、私は仕事能力のなさを解決する術を探すことに道を見出してしまいました。仕事術の本や雑誌を色々読んで、色々なことを知りました。それらは私に希望を与えてくれましたし、何より楽しかったのですが、気づかぬ間にちょっとした洗脳を自分に施してしまったような気もします。
私が本当に悩んでいたのは仕事ができるかできないかというレイヤーではなかったのですが、苦悩の結果パフォーマンスが落ち仕事能力が下がったことによって、自尊心が直接的に傷つき、それを癒やすために仕事術に縋り、表面上の仕事能力を上げることで安心しようとしていたと思います。その象徴がチェックボックスです。

もちろんちゃんと生きていくために、やるべきことをリストアップしてそれを遂行していくというのは当たり前に必要ですが、自分は駄目じゃないと思いたいがためにリストを膨らませてもしょうがないのであって、目的の曖昧な「やり終えた」の数稼ぎは自分の人生に何も貢献しないように思います。
人生および生活(仕事のプロジェクトも含む)は有機的で流動的で、その「状態」を可視化するのが難しいので、成果を人に具体的に報告できるようにしたいのもあって自分のアクションがわかりやすくなるような形式を認識の形として採用したくなる気がします。特に、脳内の主語が「わたし」になっているとそうです。しかし世の中の素敵なことは、主語を己以外の何かにして全力を注ぐ中に生まれているのではないか。
私は子育ての経験がないので想像になりますが、もし子どもが生まれて必死に育児に励まなければならなくなったとしたら、今日子どもに対して何をしたかのリストを自分が作りたがるとは思えません。自分が何をやったかより、今日子どもが無事に生きられたかが重要で、それが達成されればそれで良いからです。主語は「わが子」です。忙しすぎて大事なことを忘れる可能性があるからという切実さによってリストは正しく活躍すると思いますが、それはもう自分の精神の傷に当てる絆創膏ではないはずです。

自分語りが長くなりました。

何かをやり終えたとしても、それが望ましい結果につながっていないということはぜんぜんあるわけです。
要は、結果が伴わないにもかかわらず「やり終えたがる」ということの原因を、自分の中に探してみたということになると思います。

日頃あまりにも「スッキリする」ということを求めすぎているとも感じます。ちょっと大げさに言えば「日々スッキリしていかなければならない」みたいな空気を感じます。もっと「ぬるっと生きていく」ことがうまくなっていきたいと個人的には思います。

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