Noratetsu Lab

動じないために。

2025年1月

2025/01/29

ライフ・アウトライン日記: あり得る未来を考える領域の追加

 前回、ライフ・アウトラインの要素を増やした話を書いた。

 実は更にもうひとつの領域を作っているので、今回はそのことについて。


 前回増やしたのは、自分のライフの選択肢を制限する要素を並べて考えていく領域で、その結果ライフ・アウトラインは以下のようになった。

  • 日々=DO-DAYS(日々のDO)
  • 地図=DO-ALL(すべてのDO)
  • 内政=LIFE-BE(自分)
  • 外交=LIFE-AS(関係)
  • 計略=LIFE-IS(事実)

 「LIFE-○○」の三つは自分の欲望と現にある事実に基づいてDOに対する意思決定をするために必要な領域ということになる。自分にはこういう思いがある、そしてこういう事実がある、よってDOはこのように選択していこう、という流れがここに生まれている。

 ここに加えるものとして新たに考えたのが、「こんな道もあるかも」を考える領域である。
 絶対叶えたいと思うレベルのものもあり得るし、自分にはこういう可能性もあるのかもとふんわり思う描く程度のものもあり得る。ビジョンとか夢とか言うと、そういったものの中から決めたひとつ、あるいは複数のものをちゃんと統合したひとかたまりにフォーカスしなくてはいけない感じがするが、そのように固める手前の段階がほしいわけである。未来についてのフリーライティングの場とも言える。
 例えば今会社員の人が「カフェをやりたい」とか思っていたら、この領域に「自分のカフェを開店するのはどうか」といったふうに書き、その中で自由に空想したり現実に必要なことを調べて整理したりしていく、というイメージだ。
 思い描くものは「LIFE-BE」や「LIFE-AS」と深く関わるけれども、その中に組み込むというのは自分の中で馴染まなかったので別にしている。理由としては、「LIFE-BE」と「LIFE-AS」の両方に跨るものであるということ、そして思い描いたことは今あるDOと全然結びつかないことが普通ということがある。自分の欲望を元にして思い描くものではあるが、思い描いただけで採用しない道は当たり前にあり、それらは自分のライフの選択を左右しない。
 この領域にも名前を付けておこう。「LIFE-MAY」あたりでどうだろうか。そう思いながらCopilotさんと色々やり取りを重ねた結果、Copilotさんもそれを提案してきたので悪くないかもしれない。二文字で統一するなら「LIFE-IF」でも良さそうだが、「LIFE-MAY」の方が意味的に的確な感じがする。
 恒例の三國志風命名を考えると、「戦略」の二文字を思いついた。相変わらず物々しいが、「取り得る選択肢について実現可能な道を大局的に検討する」的なイメージとして採用した。(毎回強調しているけれども、政治あるいはビジネス的な意味合いはなく、あくまで「子どもの頃遊んだゲーム」の延長にある言葉選びである。)
 整理すると以下のようになる。

  • 日々=DO-DAYS(日々のDO)
  • 地図=DO-ALL(すべてのDO)
  • 内政=LIFE-BE(自分)
  • 外交=LIFE-AS(関係)
  • 計略=LIFE-IS(事実)
  • 戦略=LIFE-MAY(空想)

 全体の流れとしては、「LIFE-BE」「LIFE-AS」で明らかにした自分の欲望と、「LIFE-IS」で整理した現実を踏まえ、今発生している/やろうと考えているDOを選択し、並行して「LIFE-MAY」で自分にあり得る道を見出しその歩き方を検討する、ということになる。「LIFE-MAY」に書かれることは結局死ぬまで自分のライフと実際には関わらないこともあり得るが、「この道に足を踏み入れてみよう」となった時点で「LIFE-BE」「LIFE-AS」にフィードバックされ具体的なDOが発生することになる(はず)

 さて、ここまでの改造でライフ・アウトラインには「DO-○○」が二つと「LIFE-○○」が四つあることになった。こうなると誰しもがこう思うだろう、「多い!!」と。ひとまとまりですんなり認識できるのは四つ程度だろうし、ごちゃつきを解消するためにどう考えても「DO」と「LIFE」で分けたくなる。
 本来そこを分けずに一体で扱うというのがライフ・アウトラインのコンセプトなのでズバッと分けて別のものにしてはならないと理解しているが、「やること」と「その選択基準となるもの」の二つの領域でちょっと括っておきたい。そしてそれでもそれらが一体であることを認識するために、その両方を含む上位項目を設けるのがよいだろう。
 その話についてはそのうちまた改めて書くことにする。

2025/01/23

Capacitiesで日本語での全文検索が機能するようになりました(多分)

 直近のCapacitiesのアップデートで全文検索機能の改良が行われ、おそらくですが日本語での全文検索の問題が解消しました。なお私の環境ではアップデートの案内が昨日アプリ上に表示されました。


 Capacities公式サイトのWhat's new?ページには今月のリリースの記事が公開されています。

 この中で、「Better full-text search experience」という見出しで以下のように書かれています。

We transitioned the search engine used for the command palette, extended search, and search queries to a more powerful one. This should improve matching and ranking of your search results.
 技術的なことは詳しくないのでわかりませんが、おそらくこの変更により結果として日本語の検索も有効になったということではないかと思われます。積極的に日本語その他(logographic languages)に対応しようとしたものではないような気がしますが、何にせよ思いのほか早く解決されたのはありがたいことです。

 検索結果が本当に完全に反映されているかというのは確かめるのが難しいので、絶対漏れがないと断言はできません。
 しかしながら、私はアップデートの度に特定のワードで検索を試みて「拾えてなさ」を確認しており、それが今回明確に改善したので、多分直ったのではないかと思っています。
 ただ、検索してみると「本当にヒットしているのか?」と思われるかもしれません。というのは、全文検索の結果がそもそも20件しか表示されないからです。検索ワードを含むページが20件以上あれば何らかの基準でそのうちの20件が表示され、20件に満たない場合は検索ワードの一部を含んだページが追加で表示されるようです。それ以上の件数を表示する方法があるのかどうか、パッと見たところではわかりませんでした。
 検索の際はいくつかのフィルターの手段があります。多くのページで使用しているワードで検索する場合には、それらの仕組みを駆使するなどして絞り込むことが必要になるでしょう。

 検索のシステム自体にはまだ改良の余地がありそうです。しかし、日本語であるという理由でのハンデは解決したように思うので、日本人には勧めにくいという状況からはおそらく脱することができました。
 残る問題はAndroidアプリで日本語での編集が実質的に不可能である点です。こちらの方は欧米目線の改良で副次的に直る見込みは薄く、そう簡単には解決しないような気がしています。スマートフォンでも使いたいという人にはまだCapacitiesを勧められない状態が続きますが、しかし全文検索の改良を機に日本人ユーザーが明確に増えれば、もしかしたら状況は変わるかもしれません(全然わかりません)

2025/01/21

ライフ・アウトライン日記: 動かない事実を扱う領域の追加

 昨日トンネルChannelへの投稿としてライフ・アウトラインの話を書いたけれど苦手要素への対処自体をプロジェクト化しない/ライフ・アウトラインの拡張、自分の欠点を扱うにはという文脈の中での言及になったので、改めてライフ・アウトラインの話として綴っておきたいと思う。


 ちなみに、前回のライフ・アウトライン日記でライフ・アウトラインの場をDynalistからCapacitiesに移したという話をしたのだがライフ・アウトライン日記: Capacitiesにお引越し、少し前に「LIFE-BE」「LIFE-AS」の部分をDynalistに戻した。
 そしてライフ・アウトラインの各要素について私は以下のように呼び替えている。

  • 日々=DO-DAYS(日々のDO)
  • 地図=DO-ALL(すべてのDO)
  • 内政=LIFE-BE(自分)
  • 外交=LIFE-AS(関係)

 「内政」「外交」の語はゲームの三國志から拝借したもので政治的ニュアンスはないRPG的ライフ・アウトライン

 さて、ライフ・アウトラインの肝は、自分の人生・生活を考える核となるはずの己の欲望を、自分に問うて時間をかけて掘り出して整理していくところにあると思う。具体的な思いとして現れるものを書き出して見つめることで「これはつまりこういう思いなのだ」と気づき、一段階抽象化して括っていくということを繰り返して自分の核に迫っていく。基本的にボトムアップの流れになっていて(そうなることを心がけていて)、そこに自分の意思でトップダウンの視点を挟むことでシェイクが起こる。不定型で流動的な「思い」を扱う手法である。
 一方で、そもそも固定的な要素というのも自分の人生・生活には存在する。家族のこと、健康のこと、性格のこと、住まいのこと等々、自分の思いによって変動する可能性が低いものだ。それらは自分の人生・生活の選択肢の範囲を決めるものでもあり、当然考慮に入れて生きなければならないが、これをどういうものとして位置づけて考えるかが自分の中でこれまで曖昧だった。
 もちろんそれらは「LIFE-BE」「LIFE-AS」の要素と密接なものなので、そちらを考える中での要素として溶け込むものだという捉え方が自然なのかもしれない。

 ところで冒頭で触れたように、このごろ「自分の欠点への対処」の検討場所について考えていたのだが、ネガティブな要素ゆえにライフ・アウトラインの中にうまく填まらないと感じていた。自分がどのような傾向を持っているかを見つめ、そのことに対して自分の意思で何をしていくのか、ということは生きていく上で考えなくてはならないが、それは一体どこに位置づけられるべきなのか。
 で、そもそも「自分の欠点」とはどういう種類のものかというのを考えた時、それが何らかのアプローチで根治可能なら「~~を直す」というプロジェクトにもなり得るが、そのようには解決などしないから欠点としてあり続けるのであって、要は「それ自体は不変のもの」だということに気がついた。自分の人生・生活の中に障害物として存在し続ける。つまり、それがあることによって、自分が進める道がいくらか限られることになる(リカバリー可能だとしても、局所的には制限される)
 そのような、不変不動の障害物として自分の欠点というものを捉えた時に、その他の種類の障害物もあるよねと気づいた。それが上段で触れた固定的な要素である。
 欠点の話に焦点を当てる前はそれらは「LIFE-BE」「LIFE-AS」の中に含まれていたが、なんとなく居心地悪いようなところはあった。シェイクによって形が変わることがないからだろう。液体の中に固体の塊が混ざっているような状態だ。それでも混ぜたままでどうにかなっていたが、自分の欠点のことを考えた時にそこに混ぜたくないという気持ちが強まり、ライフ・アウトラインからはみ出てしまった。よって新たな場所を外に用意した方がいいとなり、元々うっすら場違い感のあったものを「固定的な要素である」という括りでまとめることを思いついたわけである。前の投稿では「動かない事実」と表現した。
 この領域は、シェイクによって形を変えていくことが肝である「LIFE-BE」「LIFE-AS」とは違って、基本的にトップダウン思考の場になる。動かない事実はあちこちに点在するものであって、点在したままだと結局自分は何が可能で何が不可能なのか見えてこないから一ヶ所で扱おうとしているが、集めて考えたとしてもそれらは収束していくものではない。だからライフ・アウトラインのコアのコンセプトからは外れた領域ということになると思う。

 ライフ・アウトラインに要素を増やすにあたって、この領域に名前が必要だ。一応「LIFE-BE」「LIFE-AS」のきょうだい的なものだから、「LIFE-○○」で揃えてみたい。そう考えた時に、既に決まっているものだというニュアンスで「LIFE-IS」としてみることにした。英語的に的確かはわからないし、あくまで仮の命名だ。
 そもそも、最初に示したように私自身はライフ・アウトラインの各アウトラインの名前を自分に馴染む語彙で言い換えている。「LIFE-IS」なる命名は外向けの「言ってみればこういう感じ」を示すためのものであって、実際に自分が使う上では他の名前を付けている。
 「LIFE-○○」については子どもの頃に遊んでいた光栄の三國志シリーズから着想を得た名前に言い換えているので、三國志的世界観で何かないかなと考えた。動かない事実、つまり自分の思いだけで形を変えることのない要素に対する対処を前もって考える場だから、「策を講じる」感がある。三國志で策を講じることを指す単語といえば「計略」だろう。よしこれで行こう。
 なんとなく悪いニュアンスを含む言葉なのは了解しているが、日本国語大辞典では「はかりごと。計画。工夫。」とか「よいように処置すること。管理すること。」という意味が示されている。そうなると割に妥当な気がしてくる。
 そんな感じで、ライフ・アウトラインはこのようになった。

  • 日々=DO-DAYS(日々のDO)
  • 地図=DO-ALL(すべてのDO)
  • 内政=LIFE-BE(自分)
  • 外交=LIFE-AS(関係)
  • 計略=LIFE-IS(事実)

 が、実はライフ・アウトラインの改造はこれだけではなく、もっと根本的な構造改革をしていたりするのだが、また別の機会に書こうと思う。

2025/01/20

苦手要素への対処自体をプロジェクト化しない/ライフ・アウトラインの拡張

先日の問いかけに早速お答えいただきありがとうございます。重要な気づきを得られたと思います。
苦手なことはどこに整理したらいい?
このこと、つまり自分のネガティブ要素(≒欠点)とその対応の検討場所について二つのことを考えました。

2025/01/17

タイプライターとワープロの思い出

 こちらを拝聴した。


 その中でタイプライターやワープロといった書くための専用機の話があった。(なお『思考のエンジン』については私はまだ冒頭をちょっと読んだところで止まってしまっている。)
 同年代の中ではもしかしたら珍しいかもしれないが、私はタイプライターもワープロも触ったことがある。タイプライターは母親が持っていて、ワープロは電子レンジみたいなサイズのごついものを父親が持っていた。小さい頃だったのでそれで何か文章を綴るということをしたわけではないけれども、どういうものかくらいは一応理解している。
 特に何が言いたいということもないけれど、この機会に記憶を辿ってみようかと思う。

 タイプライターの愉快なところは、ボタンを押すとガチャンと文字の判子が捺されて即座に印字されるところだ。アナログだが機械的で、もはや道具としてそれを使う必要性を失った今の時代からすると、シンプルに「面白い」感じがする。
 今はアナログイコール手書き、デジタルイコール印刷(もしくはデータのまま)、というふうな住み分けになっているから、電気を使わずに「ボタンを押すと、印字される」という機構とは縁遠くなっている。
 日本語が打てないことを考えるとタイプライターは後のワープロやパソコンほど手書きの代替になったわけではないのだろうし、母語のタイプライターがない人間にとっては単純に「手書きとワープロの間」と言えるものではないが、もしも自由自在に日本語が打てるタイプライターがあったとしたら、「間」のものとして働いて情報管理における紙の扱いはかなり違ったものになるのだろうなと思う。今でもただ綺麗な統一された字体で表現したいという理由だけで印刷をしたくなることは普通にあり、それを叶えてくれる簡単な道具があったらアナログのテクニックはもっと豊かに育っただろう。
 タイプライターについて母親が繰り返し話していたのが、「打つのが速すぎるとキーのアームが噛んじゃうんだよ」ということだ。それを防ぐために今パソコンのキーボードでもお馴染みのQWERTY配列が生まれたという説があるが、打鍵速度に気を使わなくてはならないというのは今のキーボード入力とはだいぶ異なった感覚だなと思う。打鍵速度が指を動かせる速さの限界まで高められるということもデジタルの利点なのだ。
 タイプライターに初めて触った時、私はピアノのようだなと思った。無個性に並んだボタンを押すと、「文字を打つ」という範囲内でそれぞれ違った結果が現れる。ピアノの鍵盤が「ひとつの音を出す」という範囲内でそれぞれ違った結果を生じるのと同じように感じたのだ。今パソコンのキーボードに対してそういうある種詩的な感慨というのは全然抱かないのだが、それは「操作」という動詞に寄り過ぎているからかもしれない。パソコンのキーボードはパソコンの処理を操作するためのものだが、タイプライターのキーやピアノの鍵盤には何かを「操作する」ためのものという印象は持たない。あくまで「書く」「弾く」ためのものである。

 父親が持っていたワープロは、今見たらまた違う印象になるのかもしれないが、幼少の私からするととにかくでっかい塊という感じだった。前面のカバーが手前に開くようになっており、その内側の部分がキーボードになっている。
 今なら大抵キーボードが本体側で開く蓋の方がディスプレイであり、まあどっちを動かすかの違いに過ぎないが、手前に倒したカバーがそのままキーボードになるというのは今考えてもちょっと面白く感じる。箱に画面がついている、というのはブラウン管テレビと似たような見た目だし、その時は画面というのは本体と一体という印象が強かったなと思う。その後登場した薄型ディスプレイには「画面って薄くなるの!?」という驚きがあったのを覚えている。
 ワープロの黒い画面の右側にはフロッピーディスクの挿入口が二つついていたと思う。そしてその隣にはフロッピーディスクを数枚収納するための空間があった。「置き場」があるというのは小型化が徹底される今となってはあり得ない工夫かもしれない。でも便利だったと思う。
 ワープロは印刷機を兼ねていたから、上面に紙を差し込んで横のツマミをくるくる回してセットして、インクリボンなるもので文書を印刷できた。当時はリボンというのはアクセサリーや包装に使う平たい紐のイメージしかなかったから、ワープロという無機質な機械とリボンという華やかな装飾品が言葉として結びつかずに混乱したことを覚えている。
 父親がそのワープロを使って具体的にどのような仕事をしていたのかは全然わからないのだが、私が触っても良かったフロッピーディスクの中には父親の書きかけの物語が三つほど入っていた。いや、書きかけともちょっと言い難いようなごく短い冒頭部分だけだったのだが、父親が物語を書くことを試みていたということはそれで私は知ったわけである。内容も文体も子ども向けという感じだったから私のために書こうとしていたのかもしれないけれど、完成させる時間か気力かその両方かが足りないままに私は育ってしまった。もしかしたらそれらについて何らかのやり取りを父親としたかもしれないが、とりあえず覚えていない。
 それらが結局どういう話になるはずだったのかはわからないが、当時の私はお話を作るということをまるっきりの無から有を生み出すことのように感じていたから、書き出しだけでも創造したことには素朴にすごいなと思っていた。
 ちなみに私は後に言うアスキーアートのようなものを描いて遊んでいた。幼すぎて文章は書けなかったから、記号でお絵描きしていたのだ。その分だけどんどん巧みに……ということは特になく、いつまでもいくつかの決まった記号を並べるだけだった気がするが、楽しんで遊んでいたということは覚えている。

 そういえば、当時のワープロは黒い画面に白い文字だったから、今で言うダークモードが当たり前だった。私にとってはそれは如何にもデジタルな、しかも初期のデジタルという印象が強い。ドラゴンクエストのコマンドも黒い背景に白文字だ。子どもの頃に見たデジタルっぽいものの印象と「黒い背景に白の文字」ということが私の中で強く結びついている。ワープロでは文字列の選択部分が白背景に黒文字になっていたが、その状態はあまり綺麗には見えなかった。
 今私はなんでも極力ライトモードに設定しているのだが、かつて家にやってきたWindowsの画面で白い背景に黒い文字が美しく映ったことに感動したのをずっと引きずっているのかもしれない。

2025/01/13

甘いもの食べたい欲がなくなった

食べようと思って手元に持ってきた個包装のお菓子を一週間以上放置している。食欲はあるけどお菓子を食べたいという気持ちが急激に減退して手が伸びない。なんでだか。
昔逆に絶えず食べてた時があり、その時は完全に鬱だったので、食べる気にならない分には別に大丈夫かなとは思う。自分の中では食べたい方が多分危険。でもそれにしても急な変化だ。

2025/01/12

DoMA式とCapacities

 以前、倉下忠憲さんがDoMA式というWorkflowy運用術を提案なさっていた。

 DoMAとは「Depend On My Attention.」の略であり、使う人の注意の構造に合わせて情報を扱うことがこのメソッドの核になっている。


 DoMA式は以下の三つのポイントによって成り立っている。

  • ワンデイリスト
  • 注意オブジェクトモデル
  • フラットスタイル(ヒエラルキーレス)

 私はDoMA式についての一連の記事を拝読した時にリアルタイムでいたく感銘を受けたのだが、今Capacitiesを使いながらこのことを思い返した時、まさにDoMA的に運用しているのだということに気がついた。

 Capacitiesはデイリーノート機能を提供しており、毎日そのデイリーの欄を拠点としている。つまりワンデイリストである。
 私は「やること」についてはProjectオブジェクトとしてページを作っている。Capacitiesでのプロジェクトの扱いを考えるで詳しく書いたけれども、これは所謂「プロジェクト」とはちょっと違った粒度だと思う。私が一塊として扱いたいと思ったそのまとまりであって、自分のイメージする「あれ」の感覚である。それは倉下さんが書かれているのと同様に、基本的に階層を作らない[1]
 「注意オブジェクトモデル」は「プロジェクト」や「やること」より広い概念を指していると思う。他のあらゆる「自分が注意を向けているもの」が含まれるが、そういうものを扱うのがCapacitiesなので、Projectオブジェクト以外にも色々なものがある。ただし「もやもや考えていること」はオブジェクトとしては扱いにくいので、Workflowyのノードほどの柔軟性はないかもしれない。一応「~について考える」とすればProjectオブジェクトとして違和感はなくなる。
 Capacitiesは階層管理にはなっていないので、必然的にフラットスタイルになる。オブジェクトタイプとそのコレクションは階層構造のような見た目をしてはいるが、それは単にフィルターで絞り込んでいるだけであって、オブジェクト自体は階層を持たずに存在している。
 よって、今注意を向けているオブジェクトのページをピン留めしたりどこかのページにリンクを並べたりすれば、それはフラットスタイルの注意オブジェクトモデルということになる。また、ページにリンクを並べる形式を取るならば、Capacitiesのページの粒度とは合わないような注意対象もそこに一緒に書き込むことで扱うことができる。

 倉下さんのDoMA式はWorkflowyを使う上での具体的な手法なので、そもそも形の違っているCapacitiesとイコールで結ばれるわけではないけれども、DoMA式の肝になっている部分はCapacitiesと相性が良いということは言えると思う。DoMA式とCapacitiesのリンクというのは昨日得た閃きだが、今思うに私がCapacitiesを使い始めた時に得た感動はDoMA式を見た時の感動と同じ種類のものという感じがする。
 プロセス型アウトライナーでは自分の中で「オブジェクト感」が足りずにDoMA式を十分に実践できなかった。Capacitiesと出合って、ようやく「あの感じを自分もちゃんとやれるようになった」という思いでいる。


  1. 倉下式WorkFlowy運用術 その2:注意オブジェクトモデル | R-style ↩︎

2025/01/11

苦手なことはどこに整理したらいい?

(※トンネルChannelに投稿したものです)

他の人はどうやっているんだろう、と気になることが生まれたため、皆さんに尋ねてみたくて投稿します。


自分とはどういう人間であるかということを考えるために、今現在はTak.さん提唱のライフ・アウトラインを活用しています。自分が何を欲していて、どういう日々を送ることに努めるのがよいかということを考える上でたいへん役立っています。それまでにあちこちにメモして考えていたようなことをうまく集約するシステムを得たという感じです。
一方で、自分自身について考えるために必要な記述であるにもかかわらず、どうもその中に馴染んでいかない要素があります。それは自分が苦手なこと、嫌いなこと、避けたいこと、といったネガティブな自己分析です。
それに立ち向かうにしろ、回避を選択するにしろ、「こういう要素があるからこうしよう」ということは考えなくてはいけないわけですが、それは自分の欲望を考えることとは別の視点のような気がして、自分の中から湧いてくる種のものと一緒には扱いにくく感じています。
現状、そういう分析は色々なところに散らばった状態になっています。一応「結局何を心がけるのか」は手帳に書いていますが、答えが出るまでの検討が置かれるべきところが曖昧なのが気になっているわけです。ネガティブなことなので、専用の場を作る気にはなれないでいます。

ライフ・アウトラインやそれに類する方法を取っているかどうかとは関係なく、他の人が「自分にはこういうネガティブ要素があって、それにこう対処することにした」という要素を具体的にどういう場所にどう整理しているのかが気になりました。
投稿またはコメントで皆さんのやり方を教えてもらえたら嬉しいです。

2025/01/11

Dynalistのサーバーダウン

Dynalistが14時前から21時半頃までサーバーがダウンして使用できなくなった。
Dynalistへの依存度がやや高いのでたいへんに困った。ツイート検索すると反応の数はそんなには多くないようだったので重用している人はそれほどいないのかもしれないけど、仕事で使っている人はいるだろうし、致命的な影響を受けたということもあったのではないだろうか。午後丸ごとは長すぎる。
何かしらのサービスでサーバーダウンに遭遇する度に思うことだけど、クラウド上にデータを保存しWebアプリで作業するということのリスクを考えざるを得ない。世界中で災害も絶えず起きているし、どこかの段階で物理的に寸断されて使えなくなる可能性だってある。
ローカルにデータがあり、クラウドに同期しつつ、作業をオフラインで行えることはかなり重要なことだなと思う。サービス提供者に頑張ってもらうことにはどうしても限界があるし、自分のデータは自分の管理下にあるというのは大事だ。

2025/01/07

忘却に伴う恐怖/私が欲しい第二の脳

 「記憶は薄れてしまう」ということを私はかなり恐ろしく思っている。


 それは「全てのものを全て覚えておきたい」ということとはちょっと違っている。自分が例えば砂粒の集合のようにできていたとして、自分でも気づかぬ間にさらさらと砂粒が流れ出し、いつの間にか自分の一部が欠けている――そういうことに恐怖を感じているのだ。

 その感覚には少なくとも二つのことが関係している。
 まず「忘却への備えが下手」ということがある。恐れている割に、この半生のかなりの部分でうまく記録をつけられなかった。若い頃はそもそも記録をつけていなかったし、大人になってからは飽きとか際限のない「よりよい形式探し」によって記録が分散して、結局振り返りができないということになっていた。
 今起きたこと、今感じたことを、今大切にする。その習慣がなかなか身につかなかった。見たり聞いたり、そしてそれに何かを感じたりしただけで恒久的に自分の一部になった気がして、それをちょっと立ち止まって愛でるということをしないで次に行ってしまうから、気づいた時にはせっかく自分の一部になったものが失われているということになる。
 あるいは、記録をつけ始めても、将来振り返りやすい形式みたいなことを小賢しく考えてしまって、結局今今それを大切にするための記録にはなっていないということが続いていた。だから平気で形式を二転三転させ、「より劣った形式」でつけた記録は蔑ろにしてしまう。
 そうなると、記録をつけてはいても結局自分の頭頼みになり、忘却が恐ろしいという状態を全然解決できない。

 忘却への備えの問題の他にもうひとつ、「何かを感じたということが自分にとってものすごく重要である」ということがある。
 何かを感じて、それによって自分が出来ていると思っているから、後から忘却に気づいた時に巨大な喪失感に襲われることになる。「感じ直す」ことはもうできないわけだから、二度と取り戻せないのは確実であり、その取り返しのつかなさに絶望的な気分になるのである。
 で、その「感じた」というのは言葉にするのが難しい。記録の時点で正確に書き表すことは到底できないことが明らかだ。あまりにも大変な感じがしてしまうので記録を諦めてしまうということが子どもの頃に起きていたのだが、そうして何も残さないと綺麗さっぱり丸ごとなくなってしまうおそれがある。100%再現できる記録はできなくとも、1%でも書いておけばそこまでの喪失にはならなかったはずだが、そういうことは若い頃にはわからなかった。
 なにしろ、「何かを感じる」ということはひっきりなしに起こるのだ。ひとつひとつはそこまで特別なものには感じない。立ち止まって格闘している暇があったら次の「感じる」に移った方がいい。そもそも上述したように「感じたものはちゃんと自分に刻まれる」と思い込んでいた。そうやってパックマンのごとく動き回って「感じる」を続け、そうしてそれらがさらさらと呆気なく零れ落ちていることに後から気づいて困ったことになっているのである。

 もちろん、忘却によって失われたものがあるとしても、過去に発生した「感じる」は確実に今に繋がっている。具体的に何を感じたのかは忘れても、何かを感じるということを重要なものに位置づけ続けてきたということは確かに自分を形作っていて、だから今こうして「自分が感じたこと」を仔細に書き表すことで文章をつくることができている。
 とはいえ、やはり忘れるに任せていては不安だし、自分の一部が失われていくのはあまりにももったいない。
 今世の中には忘却に備えるためのツールやメソッドというのがたくさんある。「第二の脳」というフレーズもしばしば聞く。その場合の「脳」にどういう「脳らしさ」を期待するかというのは自明ではないと思うけれども、今私が欲しているのは「忘却によって自分が欠けていくことを防ぐもの」なので、忘却する自分の脳をサポートして一緒に記憶してくれるものとしての「第二の脳」を考えたいと思う。
 情報を無限に入れられて、そしてそれが勝手に消えないというツールはたくさん生まれている。紙のノートも、捨てたり焼失したりしない限りはずっと残しておけるものだし、日記をつけるのがうまい人はもうそれで私が抱えているような問題はほとんど解決していると思う。
 昨今は言うまでもなくデジタルノートツールの隆盛が目立つ。紙のノートは「記録」に特化しているが、デジタルツールだと「ある括りによってまとめて取り出す」というようなことが可能になる。より「脳」的であると言える。何かを思い出す時、脳は関連したものを一緒にイメージすることができるわけで、それとある程度似たことを再現してくれることになる。もちろんキーワードによって捜索するということ自体、紙のノートにはない「脳」っぽさがある。

 一口にデジタルノートツールと言っても、情報をどう保管しそれぞれにどういうフックを付けるかというのはそれぞれ異なっている。どれかの場所に必ず属すフォルダ(あるいはツリー)形式、キーワードを好きなだけくっつけて串刺し検索を可能にするタグ形式、情報と情報をリンクで繋ぐネットワーク形式、平面上の位置に意味を持たせる付箋・マインドマップ・カンバン系の形式。他にもあるかもしれないし、ひとつのツールがそれらの形式を複数カバーしていることも多い。
 これらの形式というのは、後から情報にアクセスする時の辿りやすさを左右する。
 種別が明らかで混在の可能性がないものならば、フォルダ形式が直感的かつ「必ず辿り着ける」ものだろう。どこかには属しているわけだから、フォルダを開けていけばどこかでは見つかるはずである。一発で見つけられないとしても入っている候補のフォルダというのはある程度絞られるのだし、フォルダの粒度が大きすぎない限りは力技でどうにかできるという利点がある。この形式は「脳」らしくはない。いや、脳内でも情報をカテゴライズして認識している部分はあるので全く違うわけではないが、少なくとも脳内では「必ずここらへんに入っているから、探せば出てくる」ということにはならない。
 何かに属しているとは限らない形、つまりネットワーク型ツールの多くは、情報の在り方がより実際の脳に近いように思える。キーワードが含まれさえすれば絶対取り出せるという意味では脳より強力だが、情報が大量になってくるとキーワードがわからなくなった時に取り出せる可能性がかなり薄くなる。タグ機能があるとしても、タグ付けが必須でない場合には自分の几帳面さにかかっていて、「ここさえ探せばいい」という安心感はやや得にくい。探すとなればフォルダ形式と違って捜索範囲が全体になってしまい、虱潰しに探すことは現実的でなくなる。脳のようにすっかり失われるということはないが、実質的に辿り着きにくくなるので忘却と似たことが起こる。実際の脳と似たライフサイクルになるわけで、それはとても自然な感じがすると同時に、脳と同じ欠点を一部引き継いでしまうということでもある。
 こう書くとフォルダ形式の方が良いと言いたいのか、と思われそうだが、もしそうなら今ネットワーク形式がこんなに流行ってはいない。今話しているのはあくまで「忘却によって自分が欠けていく」という事態を防げるかどうかの観点で、日々の情報の取り扱いでのフォルダ形式の欠点とネットワーク形式の利点はよく指摘されている通りである。

 さて抽象的に「情報」と言っているけれども、そもそもどんな情報を忘れたくないという話だったか。それは「何かを感じたということ」だ。それは自分の記憶が薄れて失われたらもう二度と取り戻せず、そして私にとってはそれが失われることが自分自身の一部を失うことと同じように思われるので、なんとか失わないようにしたいのだという話を前半でした。
 そういう情報は、「まあなくなったらなくなったでいいや」式の管理とは相性が悪いであろうということがわかった。ガラクタ箱のように、何が入っているか忘れてしまっても箱を開けて漁れば「こんなのあったなあ」と言って全てを確認できる、そういう保管方法が良い。しかしモノではなく情報を扱い始めると、ガラクタ箱に溜めていたのとは比べ物にならない規模の内容量になってしまって、情報同士が埋もれさせあって振り返りが難しいということになりかねない。大きい箱ひとつではなく、何かしらの基準で分別した箱をいくつも用意した方がいい。そのような用途なら、フォルダ形式またはツリー形式のイメージの方がネットワーク形式より合っている。
 自分以外のことはわからないので想像だが、多分「何かを感じたということ」を普通そんなには重要視しないのだと思う。今日明日の仕事には全然関係しないのだから当たり前のことだろう。「情報管理」の四文字で思い描く対象にそういうものは普通含まれない気がする。日記の話ではよく出てくる話であっても、それについて「情報」という言い方はしない。
 しかしながら、私はそういったものを「自分の人生上に生じたもの」としてある種「モノ」的に扱いたいという思いがあり、そうなると情報管理の手法を使って記録・保管したい。そういう発想で情報管理を考えると、それはタスク管理とも個人情報管理とも知識管理ともアイデア管理とも違った領域の話になるような気がする。
 ここ数ヶ月ずっとCapacitiesの話をしているが、私の中にある「オブジェクト感」というのは、こういった前提があってのものだ(ということにここまで書いてきて気がついた)。この感覚にぴたりと填まるツールがそれ以前になかった。Capacitiesと出合ったことで、Capacitiesになぜ納得できるのか、他のツールのどこが引っ掛かっていたのかを考えられるようになった。
 自分の脳だけでは情報を扱いきれないというのは現代人共通の悩みで、それに対処するために「第二の脳」となってくれるツールを皆欲している。しかしその理想の形というのは各々でおそらく驚くほどバラバラなのだと思う。TPO次第でその時必要な形が違ってくるということもあるだろう。私自身Capacitiesで全てをカバーしているわけではない。
 だから、「第二の脳」として相応しいツールは何か、というより、「私が欲しい第二の脳」とはどういう形をしているのか、ということを真剣に考えることが情報管理に於いては重要だろうと思う。

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