Noratetsu Lab

動じないために。

2022年11月

2022/11/30

お仏壇ライフハック~祖母編~

 前回お仏壇ライフハックは「お仏壇ライフハック」と称して、毎朝拝む時の心持ちを活用してその日を有意義に過ごす方法を書いた。
 またしても仏壇に関するライフハック(?)の話をしようと思うのだが、今回は私ではなく祖母のライフハック(仮)である。


 このことはすっかり忘れていた――というかライフハックだとは全く思っていなかった――のだが、今日うちあわせCast第百十七回を拝聴して思い出した。

 最後の最後あたりでTak.さんのお母様のお話があった。大事な書類を、大事ゆえにしまい込んで行方をわからなくしてしまう。大事なものを大事でないものと一緒くたに置いておくのは抵抗があって、「わかりやすさ」を基準にして一箇所にまとめることができない。そういった感じのお話だったかと思う。
 私の祖母も基本的にはそういう価値観だった。祖母の場合は価値観どうこう以前に片付けがあまりにも苦手過ぎて、結局大事なものも今すぐ捨てても良いようなものもごちゃごちゃに混ざっていたのだが、しかし意識的にものを仕分けるとなれば、やはり大事なものは大事にするという気持ちが働いて変なところに置き場所を移してしまうということが起こっていた。周りが「ここにある」と思っていたのが、ちょっとしたらもう全然違うところに移動しているのである。
 本人としてはより相応しいところに移そうとしているわけだが、その基準が下の世代とは根本的に違っているので周りには理解し難いし、本人もその都度相対的に場所を選んでしまって基準が曖昧なので自分で思い出せないということになる。齢を重ねるにつれ、移したこと自体覚えていられないということにもなった。

 一方で、手紙類は割と一箇所にまとまっていた。どこかと言えば、そう、仏壇である。
 インボックスの概念などあるはずもないし「一箇所にまとめるとわかりやすい」なんてことは考えもしなかったと思うが、ただ「大事なものはとりあえず仏壇に置く」という習慣によって、仏壇の周りは「祖母的に大事らしい、且つ他に置き場所を見出していないもの」で溢れていた。結果として、手紙類の七割くらいはそこにまとまっているということになった。本人なりに置き場所をうっかり思いついてしまったものは果てなき放浪の旅に出発してしまうため、100%全部がまとまっていたわけではないが、全てばらばらよりかは大分マシである。
 大事なものを大事でないものと一緒に混ぜてしまうことへの抵抗を減らすというのは、ほとんど無理なことだろうと思う。そもそも全く抵抗が無いことが「良いこと」かどうかも正直わからない。そこに抵抗を感じないことには物の管理に於いてメリットがあるが、抵抗をなくすべき、とは言い難い。
 祖母のライフハック(仮)を踏まえると、「大事っぽいものはとりあえずここに置く」と本人が納得できる置き場所があれば、ある程度は物の紛失・散逸を防げるのだろうと思う。大事っぽいものを置くわけだから、適当な箱とかではなく、十分に大事っぽい場所である必要がある。その点たまたま仏壇というのはうってつけだったわけである。
 置き場所の性質としても割に都合が良かった。なにしろオープンであり、「しまい込む」が発生しない(仏壇の抽斗を活用し始めるとやや怪しくなってくるが、それでも「仏壇のどこか」さえ貫かれれば探すのはそう難しくはないだろう)。取捨選択も無しにごちゃごちゃと置きすぎて家族からすれば「仏壇は物置きじゃない!」と不評だったわけだが、しかし今考えるにそれ以上の適切な(現実的で実行可能な)やり方はなかったと思う。

 重要なのは本人が「大事なものを置くに相応しい」と納得できることだろうし、私の祖母の場合は祖母自身の中に「とりあえず仏さんのところに置くべし」という気持ちがあったから成り立っていたことではあるだろう。既に長い歳月を生きてきた人に、別途新たに場所をセッティングさせるのは容易でないような気はする。
 あと思うのは、比較的若いうちは合理性で決めていられるわけだが、自分も年を取るとそういう風には判断できなくなってくるかもしれないということだ。「より適切な場所」を考えるのが難しくなる日が来ても混乱しないように、「大事なものはこの入れ物」みたいな反射は予め意識的に構築しておいたほうがいいのかもしれない。
 

2022/11/28

お仏壇ライフハック

 仏様に怒られそうなタイトルである。


 我が家には仏壇がある。仏壇があるので毎朝線香をあげて拝んでいる。
 仏像とご先祖様の位牌が祀ってあるわけだが、祀られている故人にはそれほど親密な間柄だった親族はいないので、毎朝手を合わせることはほぼ欠かしていないものの、お祈りの内容は非常に漠然としていた。ぼんやりと、今いる家族と自分が健康であることに感謝し、ご先祖様が見守ってくれているかもしれないということを多少思いながら、自分たちが今日も一日元気でいられることを祈っている。仏様は金色にぴかぴかしているので、見上げるとなんとなくありがたい気持ちになってくる。

 ところで、今度は別の宗教の話になるけれども。神社に参拝するという時、「~~でありますように」と願い事をしようとしがちだが、本来はありがとうございますと感謝をしに行くものだというのを以前聞いた。
 まあ考えてみるに、願掛けに行ってさんざんああしてくれこうしてくれと祈っておきながら、うまくいってしまえば後はすっかり忘れて参拝しないとなると、なんとなく罰が当たりそうである。神様に怒られるというより、そういう態度で生きているとそのうち反感を買う事態を招くような感じがする。

 その話を聞いたのは相当に前のことだが、最近に至るまで、仏壇に手を合わせるにあたっては変わらずぼんやりお祈りが続いていた。頭の中で「神社に関する話」の箱に入ってしまっていて、家の仏様とその話が直ちに結びつかなかったからだ。いや、そもそも仏壇に向かって「願い事」はしないし、漠然としてはいたが感謝の祈りではあったので、その点でも「願い事をしがちだが本当は…」という展開の話は全然思い出さなかった。
 で、ある時ふと神社の話を思い出して、(いくらかの連想ゲームが脳内で進んだ末、)「拝む時は具体的な感謝もしよう」ということを思った。こういう良いことがあったとかこの仕事が上手くいったとかあの話がまとまったとか、そんな感じのことである。もっとしょうもない(?)感じのことでもよくて、例えば「ブログに記事を投稿できました」も含む。

 そうした時、逆向きの発想が生まれて、「次の日の朝に具体的に感謝するために、今日やることを宣言しよう」と考えるようになった。仏壇の前の座布団に正座して、何を宣言するのかをマッチを擦る前に考え、良しとなったら火をつけて線香をあげて手を合わせ、「昨日は~~でした。ありがとうございます。今日は~~をします。」と心の中で呟く(なお実際はそんなにフォーマット固定の言い回しではない)
 この習慣が生まれてから、自分の心持ちに結構変化があった。
 私は、「現状をより良くする」ということを目的にして何かの目標を立てたり自分と約束したりする、というのが基本的に下手くそなのだが、なぜ下手くそかというと、相手が自分自身だからである。自分が立てた目標を貫くモチベーションはさっぱり生まれない。自分との約束は守る方が稀な感すらある。というか、ちゃんと思い描いた通りにやれても、全然充実感を覚えないから達成したことを忘れている。
 ところが、仏様に「こうします」と宣言すると、それは声に出したわけでもないのだが、なんだか「仏様にそう言っておいてさぼるわけには…」という気持ちになって実現しようとする。そして次の朝に報告のお祈りをし、言った通りにできていればいいし、思うようにできていなくとも、ほんの少しでも何かが進んでいればその分をありがたく思うことにして感謝する。すると「おお、感謝できたぞ」と思う。なお仏様に命令されているのではないのだから、できなかった分を申し訳なく思ったりはしない。できた分を感謝するだけである。
 時々「感謝日記」というのを聞くが、それがきっととても良い習慣であるのはわかっていても、全く続いたことがない。三日坊主にすらなれたことがない。多分感謝する先が曖昧過ぎたのだと思う。あと「日記として書く」というのが少しハードルを上げていた。仏様への感謝は仏壇の前で心に思い描くだけである。尤もらしいものを残さなくてはと思う必要もないので、しょぼいことでも感謝できる(そもそも感謝日記が尤もらしい必要は全くないのだが、私個人の問題として、日記に「書く」となると無意識に及第点を上げてしまうのである)。あと単純に、日記を書くには意思が必要だが、仏壇で拝むのは毎朝決まっていることなので「やり忘れる」ということがほぼない。

 ここまでの言い方でご推察かとは思うが、私は全然信仰心は篤くない。どうでもいいとは思っていないものの、如何にも日本人的なご都合主義的テキトー信心がいくらかあるだけで、熱心に帰依しているわけではない。しかし「ありがたいもの」という象徴を目の前に置き、それに小さい約束をしていくことは、自分自身が信用ならないタイプの人間からすると「気持ちをうまく回していきやすい」というような効果を感じる。
 正直なところ、次の日に感謝の報告をしやすいように宣言のハードルを下げようとする、という気持ちはないではないのだが、まあそれはそれで別にずるいわけでもないかなと思っている。できることしかできないし、やらなきゃいけないことはどうにかやるのだし、ハードルが低くても「これをしよう」「昨日はこれができました」を繰り返していけることの方が大事だと思う。
 究極的には「今日も生きよう」「昨日も生き抜きました」が一番重要なのだから、約束の難度にこだわる必要はないだろう。

 そういえば、「ありがとうございます」「ありがたく思います」とは唱えるが、「仏様のおかげです」とは唱えない。そういう表現はしないとか決め込んでいるわけではないが、何かのおかげとかではなく、万物の働きの結果のもの(そのうち自分が感謝しうるもの)に感謝しているのであり、私にとって金ぴかの仏様は、あくまでそれを聞いてくれる存在なのだ。(都合良く使ってゴメンナサイ!)
 

2022/11/27

自分を知るということ自体の意味を考える

先日の投稿自分のことを知っている自分になりたいに関してお二方に投稿いただきました。ありがとうございます!


「やりたいことリスト」から「自分を知る」ということに発展したわけですが、「自分を知る」ということにも色々な観点があるなと思いました。
私の中では「自分を知る」というのは、中島みゆきの「宙船」にあるような、自分に責任を持ってくれない人に自分という船のオールを任せてしまわないための、つまり自分の人生を他ならぬ自分で舵取りするための、自分に対する責務として捉えていました。なのでその文脈以外にはあまり想像が及ばなかったところがあります。これもまた、もしかすると世代的な前提があるのかもしれません。

翻って、富山さんがお書きになっているように、そもそも自分の持つ何らかの属性というのが自分の中に自然発生しているものかどうかというのは重要なご指摘と思います。

そもそも人は、好きなものや嫌いなものでさえも、真に自分のなかから生まれてきているのかも疑問です。いろいろな要件をもとに相対的にそれを選んだだけではないかと考えておりました。
その意味で、具体的に列挙できるかどうかにこだわってもしょうがないとは感じます。多分知るべきはこの「いろいろな要件」と、そうやって相対的に選ぶ基準の方だろうと思います。好きなもの嫌いなものそのものは自然発生ではないにしても、何らかの自分固有の基準があるから何かは相対的に選ばれるのだろうと思います。
定食屋に行って何かを注文しようとする、その時にどれも大好きとは思わなくとも、「なんとなく今日はこれにしよう」と思って、それに自分で納得できるかどうか。多分本当に「自分を知らない」となると、いつも値段の安さなどで決めることになります。安さで決めるのが悪いというのではないですが、安く済ませる必要もないのに他に基準がないからとりあえず安いやつ、みたいなことになると、なんとなく人生の彩度が下がるような気がしないではありません。

自分を知らないと言えるのは美徳であると思うのです
私は「空のように、大地の様にただそこにいるだけのものになりたい」と思います。と、こころを述べてみます。
これは「無為自然」的な境地かな、と解釈致しました(間違っていたらご指摘くださればと思います)
「ただそこにいるだけのものになりたい」という心持ちはわかるような気が致します。私は「自分を知る」ことは必要不可欠と感じていますが(自分自身に対して苦しみのない人は、無意識に自分のことを知っていると思っています)、それは「自分自身に執着する」ということとはちょっと違うものとして捉えています。むしろ、「ただそこにいるだけ」になるために、それを妨げるものを知る必要があるかもしれないという気がしています。何を脱がなくてはならないのかを知らずには脱げない、というイメージです。
例えば富山さんは、ご自身が「空のように、大地の様にただそこにいるだけのものになりたい」と願っていることをご存知ですが、それは自己に対する極めて重要な理解だと思います。

倉下さんのご投稿で少し笑ってしまったところがあります。

たとえば、私はうるさくしゃべる人間を苦手としていますが、もしかしたらチョーきれいな人だったら違った反応を返すかもしれません(十分ありえる)。そういう意味で、自分には未知なる領域があると感じているのです。
これは私にも覚えがあります。顔で許したという話ではないですが(笑)、全く別の観点で人間的に好きになった人が、それまで私が苦手としていた要素を色々と持っていて、諸々考えを改めることになりました。つまり偏見を矯正したと言えますが、どちらかというと、自分の「苦手」の解像度が上がったという方が感覚的には正しい気がします。一緒くたにしていた要素を解体したり、単体の属性ではなく複合的な要因だったようだと整理したり、という感じです。あるいは、苦手要素がどれだけあってもこの要素さえあれば全て受け入れられるという、謂わば自分の美意識の核を知ったということでもあると思います。それは自分の人生を明るくするために大切なことと思っています。

たぶん、「自分のことを知りたい」という気持ちは、一つには自分を把握し、完全に理解したい、というある種の支配欲求の側面もあるでしょうし、もう一つには私のような常に未知なる存在としてその対象を観察者として眺めたい、という側面もあるでしょう。
倉下さんはここで二つの側面を挙げておられ、確かにと思いました。いずれも自分を「対象」として見る見方かなと思います。
私はここに、「自分の人生の前提を理解する」という、土台的なイメージを加えたいと思います。ここに並べるものとしてどう表現するのが適切かはわからないのですが、好奇心や支配欲求以前の、「自分」という存在をスタートするのに必要なラインというのがあると思うわけです。「自分を見失う」ということを防ぐためのものと言ったらいいかもしれません。
どれほど自分を知ろうが「一切迷わない、一切見失わない」ということはあり得ないにしても、何がなんだか全くわからないという事態だけは回避したいものと思います。インターネットを見ても種々のフィクション作品を見ても、昨今はこういう観点で心理について語られることが大変増えたような気がしています。

「自分を知る」ということは、自分が自分であるからには必要なことであり、また自分を知ること自体が愉快なことであり(ただし時に痛みが伴います)、とはいえ全てを明らかにしなければと躍起になり過ぎてもあまり良いことのないようなものと思いました。
己に囚われないでいることは、己を知らずに済ませていることと同じというわけではないように思います。知らなくて良いことは知らなくても良い、知る必要があることは知る必要がある。当たり前に思えることですが、何を知らなくて良いのか、何を知る必要があるのか、それすらも自分を知らないとわからないという難しさもあります。

一つの起きている現象として「自分」というものを観察参与すること。そういう自分社会学は、素朴な知の営みですが、少なくとも最後まで飽きることがないという意味ではたいへん魅力的な活動です。
私もそう思います。そしてひたすら自分を観察しているということが、なぜか赤の他人にとって面白かったりするので、やればやるほど他の人も楽しませる可能性のある活動とも思っています。
 

2022/11/26

自己の未熟さを描写するということ

 自分にこういう至らなさがある、ということを描写して表明することの是非について。


 きっかけはこちらのツイート。

 きっかけではあるが、言葉の意図は存じ上げないし、今から書くのはただ「正当化」「承認」の二つの言葉から勝手に連想したものである。

 正当化と承認がそれぞれ何かと考えると、「自分の言動が(本当は道理にかなっていないのに)道理にかなっているのだと見なすこと」「自分の存在をよしとして認め許されること」だろうか。ここではそれを求める行為を考えようと思うので、それぞれ「正しさを認められようとすること」と「存在を受け入れられようとすること」と言い換えようと思う。

 さて、「~ようとすること」二つを成すためにすることは何か。直接会うならお酒を飲みながら意見交換、ということになるかもしれないし、インターネットなら何かしらの文章を発信することになるだろうかと思う。
 いずれにしても、能動的に「求める」ということをするならば、自分はこういう状況でこういうことを思っているのだ、ということを相手に伝えることになるのではないかと思う。特にインターネットでは、物理的に存在が目の前にないので、自分という存在がどうであるかは自分で伝えるしかない。(敢えて「求める」ということをしないのならば、日頃の言動で周りは各々勝手に人となりを判断するであろう。)

 この時、自分の環境が苦難に満ちていて、自分を苦しめる理不尽な存在がいる、自分はそれと戦っているのだ、というような話をするのならば話は割と簡単に思える。素朴に頑張ってほしいと思う人は多いだろうし、承認も得られるだろう。ひとりじゃないのだというメッセージを送ろうという人はたくさんいるはずだ。
 ただここで、反対側の意見を聞いたら全然話が違っていたとかいうことになると厄介なことになる。戦っていると言っていた相手は全然理不尽などではなく、むしろ発信者が曲解して暴れていただけだったのだとなれば、それは「正当化」でしかなかったのだと見なされるだろう。
 いずれにしろ、ここでジャッジされているのは「事実関係」であろう。事実がどうであるかを元にして、「理不尽と戦っているAさん」という存在を承認するのか、「勝手に人を理不尽扱いするAさん」の自己正当化を非難するのか、ということになる。
 Aさん自身は「正しさを認められること」と「存在を認められること」のどちらを求めていたのだろうか。「(結果として)正当化になっている(と周りは感じる)」とは言えるが、周りには心情を判断する術はないのかもしれない。

 ところで、私自身を含めて自分語りをしたがる人間というのは、自分という事実および自分が感じている真実を描写しようと試みる。私にはこういうことが起き、私というのはこういう人間なのである、ということを語り続けるわけである。
 もし自分という人間に欠点があれば――無いわけがないのだが――それも含めて「私はこうなんです」と語るだろう。この欠点というのが、他人にとって迷惑な要素である時、話はなんだかややこしいことになってくる気がする。
 早い話が、「わかってるなら直せよ」「開き直ってんじゃねえ」と言われるのがオチである。「自分はこうなんです」と描写すると、なぜそのままでいるのかを責められることになるのである。つまり、描写したというだけで、「これでいいと思っている」などとは言わずとも、そういう自分を良しとしていると見なされる可能性がある。描写しようがしまいが自分というのはここに存在している通りの人間なわけだが、「わざわざ描写する」ということが、単に描写する以上の意味合いを持ってしまうような気がするのである。
 現実的には黙っているのが正解なのだろう。でも誰も自身の欠点を表現しなければ、何かの欠点を持つことがその人を孤独に至らしめるおそれはある。個人的には、自分自身のままならなさと戦ってのたうち回っている人を見ると少し安心する。私自身がのたうち回っているからである。

 そういえば、少し脱線するが、自分と同世代を見ると私自身を含めてどうにも露悪癖が多いような気がしている。常にこの年頃というのはそういうものなのか、あるいは、今のこの世代が、これまでもこれからもそうなのか、それはわからない。いや、もしかしたら全く気のせいかもしれないし、そうに違いないとはちょっと言えないのだが、体感としてはそんな感じがする。
 自分が如何に駄目かを表現するのは割と当たり前に行われており、それも別に共感や同情を誘っているとかではなく(そういう人はそういう人で世代を問わず常にいるが)、ただ表現するために表現している。健康診断結果の悪さ自慢と似たようなものだろうか、と少し考えたが、なんとなくそれとは違うと感じる。違いの言語化はまだできていない。
 あとは言葉づかいが全体的に自虐風である。内容的に本当に自虐的なことを言えば嫌われるというのは共通認識になっているからか、自虐や卑下でコミュニケーションを取ろうとするのはそれほど多くはない気がするが、自分のことを表現する時に単語選択が自嘲的になる傾向はそこそこ強いように感じている。私自身自嘲的な表現を割に多用しており、それが自嘲的な演出であるということが他の世代に通じなくて面食らうことが何度かあった。それは私の想像が及ばず気が利いていなかったのだと思う。
 そういえば中島敦の『山月記』を同世代のTwitter民はみんな大好きという感じだが、これは他の世代も同じなのだろうか?(もちろん、そもそもTwitter民というのが母集団として偏っている、ということは大いにある。)
 また、私が若かりし頃は「嫌われ役」というものがまだ結構流行っていたように思う。ダークヒーロー的なものはいつでも人気だろうとは思うが、私の思春期頃は何が震源地なのか「敢えて嫌われて部を引き締める」という在り方を度々耳にした。
 なお私の部活ではそういうポジションがもう係として予め存在していた。引退する先輩から次の担当が任命されて、誰しもやりたくはないが任命された以上は「仕事」として働き、部員がだらしなくなってくるとズバッと言う。主将がその役目をやってしまうと負担が大きすぎるということから明示的に係にしたという経緯だったかと思うが、みんな「そういう係になっちゃったもんな」という認識で見ていたので、別にその立ち位置の人そのものが嫌われるということもなかった。「規律係」とかではなく「苦言係」的なコンセプトにしたことも含めて、それはうまいシステムだったと思う。
 今でもそういう「嫌われ役」的な概念はあるのだろうか。普通に暮らしている中ではとんと聞かなくなった。そういう上司がいる会社はちらほらあるかもしれないが、下の世代ではもうすっかり廃れただろうか。
 そんな感じで、あくまで私の主観に過ぎないことではあるが、どうも「敢えて自分を腐して語る」ということが多い世代なのではないかと思っている。冗談交じりにしろある程度本気にしろ、そして強気にしろ弱気にしろ、自分を駄目な存在、不快な存在と仮定して話をスタートする、みたいなことがやや目立つ。おそらく多くの場合、実際に誰かにそういう存在だと突きつけられる前から、社会の基準に照らして自分の位置づけをそうしてしまうのである。「社会不適合者」とかはもう枕詞のようである。
 そういうスタンスを取らない人からするとこの態度は奇妙なのではないかと想像するが、一体どのように映っているのだろう。

 閑話休題。「正しさを認められようとすること」と「存在を受け入れられようとすること」の話に戻るが、もうひとつ難しいパターンがある。
 自分の信念に従って何かしたとして、それが他の誰かの迷惑になったとする。この時、自分の信念はこうだと説明したら、おそらく「正当化」だと見なされるだろう。そんなことは求められていないからだ。謝罪の弁にそういうことを混ぜるせいで炎上するパターンは枚挙に遑がないが、「自己を描写する」というのは相当な悪手ということになるようだ。「だから私は正しい」とかいう開き直りはしていなくとも、自分の話をした時点でアウトである。
 それが正当化のように聞こえるということは同意するのだが、その自分の感覚も含めて、少し不思議なことではある。やったことは「自分を描写する」ということに過ぎないのに、そこに当たり前に「それは正当化だ」という価値判断が加わる。つまり「自分を描写する」ということ自体が一切認められていない。
 「AだからBをした」という説明は、「AだからBをした」という理屈を示すことによって、「これには理由がある」という主張になってしまうのだろう。そもそも何かしらの理由があるのは当たり前であって説明しようがしまいが事実は変わらないが、それを説明した瞬間に「だから仕方ないことだろう」と言っているかのように受け取られがちである。実際そう思っているかもしれないし、別にそう思ってはいないかもしれない。しかし聞き手には、正当化の意思があるかどうかは全くもって関係ないものとして解釈される。
 親しい友達や良好な関係の家族なら別だが、赤の他人には、そんなことはどうでもいいのだ。

 そう、友達や家族は別で、赤の他人だから酌量の余地がない。
 知り合いや会社の関係者というような距離感の時、話をしていて「こいつ自分の行いを正当化しているな」と感じる場合があろうかと思う。しかし親しい友人が如何にも駄目っぽいことを言っていた時、同じように感じるだろうか。多分そうはならないと思う。内心に相手に対する敵意がある時、相手の「自分を描写する」という行為を許し難くなる。そしてそれを許さない時に、「それは正当化だ」と判定するのではないか。
 インターネット上の知り合いというのはその点距離感が極めて微妙である。親しくなることも稀にあるが、「同じものが好き」という程度の付き合いだと何かのきっかけでたちまち関係が悪化することがある。嫌なところを知らないうちは会心の友かとばかりに飽かずやり取りしているのに、ちょっと「えっ」と思うと一気に「なんだあいつ」レベルにまで評価が下がる。そしてほとんどの場合、評価が回復することはない。友達同士の仲違いとはまるで質が違う距離感である。つまり基本的に、相手の弁を「正当化」と見なすパターンの間柄にあるように感じる。またそうやって一瞬で評価が変わるということは、相手の存在そのものを承認していたわけではないのだろう。「正当化」の三文字は、相手を承認していないしるしとして自分の中に生まれるのかもしれない。
 インターネットが人間関係上重要な場となっている時、この距離感の微妙さはかなりネックになると感じる。一方的に誰かに承認を期待しても、相手には全くそんな気はないこともある。実は裏では名指しでボロクソに批判している場合もあろう。現実の「知り合い」「友人グループ(仮)」もその危険性は同じだが、インターネットは文字のやり取りゆえ「自分を描写する」ということが多く発生するし、「あいつ自分を正しいと思っているぞ」という、人間性の評価がガクッと下がる機会が生まれやすいように思う。

 結局は「それでも存在を受け入れてくれる人」を地道に見つけるほかはないのだろう、というつまらない結論に至ってしまうが、「このくらい駄目な自分」を開示するタイミングがどうあるべきかというのは難しい。駄目な自分を隠していいところだけ見せても、実際駄目ならそのうちバレる。後から「なんだ、そういうやつだったのか」となったら承認は取り消しになるかもしれない。そうなると最初から開示していたほうがまだマシに思えるが、そうするとそもそも「なんか面倒くさそう」と距離を置かれるかもしれない…。

 尻切れトンボの感はあるが、なんだか急激に生きるのが面倒くさくなってきたところで、この記事は終わりにしようと思う。
 

2022/11/20

自分のことを知っている自分になりたい

 こちらの投稿までのお二方のやり取りに関連して、やりたいことリストについて。


 倉下さんとBeckさんはそれぞれ異なる層の問題意識を持っていらっしゃるようにお見受けしました。このシチュエーションなら自虐的な気分になるであろう、とする価値観が世の中に存在し、その価値観に囚われる人に寄り添い柵を跳ね除けようとする気概と、その価値観をつい当たり前かのように書いてしまうことでそれが流布することに加担してしまわないかという懸念がある。そう勝手に解釈しましたが、どちらも尤もと思いながらお二方の投稿を拝読しました。

 さて、最初の倉下さんのご提案からは少しずれますが、「やりたいこと」を挙げていくという行為について自分の経験を書いてみようと思います。過去に遡って自分語りすることになりますがご容赦ください。

 私は今でこそ「自分の思うところを言語化する」ということに並々ならぬ熱意をもって注力していますが、成人するくらいまでは全くもってそれができていませんでした。自分以外の何かのことはわかったように生意気に語っていた一方で、自分のことは何もわからなかったのです。
 どのくらい何もわからなかったかというと、ある機会に「好きな食べ物は何か」と問われて固まってしまうくらいには何もわかっていませんでした。ごく他愛のない質問でもってコミュニケーションを図ってくれたその相手にちょっと申し訳なくなりましたが、それ以上に、そんなこともわからない自分と直面して激しく動揺したことを覚えています。
 もちろん、好きな食べ物は何か、などという「なんてことのない」問いの存在をそこで初めて知ったわけではありません。幾度もそういう問いかけを自分にする機会はあったにもかかわらず、それらを巧みにスルーして二十年だかの歳月を過ごしてしまったのです。そしてたまたま、一対一での会話という無視する術のない状況に置かれてその問いと向き合うことになり、目を背けていたことに気がついたわけです。

 そこで気がついたことは、「好きな食べ物がわからない」ということではありません。「私は自分のことが何もわからない」ということです。「食べ物すら」わからないのです。気づいてしまうとそれはとてつもない衝撃でした。そしてもちろん、「やりたいこと」もわかりません。
 二十歳の自分にとって、その時点で「やりたいこと」がわからないのはかなり致命的なことに思えました。ぼんやりしていて自分の将来が見えなかったので、そのことが自分を苦しめているということには薄々気がついていましたが、自分の実態を直視するといよいよ絶望的な気分に支配されました。
 「やりたいこと」だけがわからないのならまだいいのです。まあ何やりたいかはわからないけど自分はこれができてこれが嫌いだから進めるのはこういう道かなー、と考えていけばいいからです。でも私は「何も」わからなかったので、私という存在をそこからスタートさせなければなりませんでした。

 そうしていろいろな領域について自分の好悪や関心、価値観、特性を明らかにしようと試みる日々が始まりました。
 これがものすごく大変でした。己について考えることが苦痛というわけではありませんが、考えても出てこないので、自分が自分をわからないという現実と直面させられ続けるのです。単に自分の思いをキャッチできていないのか、それとも自分はそもそも空っぽなのか、その判断もつきません。
 ただ、それまで何かを見た時には「良いなあ」とか「これ好きかも」とか感じていたはずだ、ということを頼りに、「単にキャッチできていない説」を信じてずうっと自分を眺め続けました。今もまだ続いています。これまでの感じだと、Beckさんが仰るように「単純に思い出せないだけ」だなと私も思います。
(ついでに自分の個性の領域の話をしてしまいますが、この「キャッチできなさ」というのは、今にして思えば「無い」どころかむしろ一度にいろいろ感じ取り過ぎてしまっていたせいのような気がしています。刺激が多いのでいちいちキャッチしていられないのです。「おっ」と思っても、次の「おっ」がすぐに発生するので、「おっ」と思うこと自体が自分の中では日常的になり過ぎていたのかもしれません。)

 話を戻しますが、こうやって自分のことを自分に問うて答えを見つけるのは容易なことではありません。費やす意識の絶対量というものが必要な気がしています。意識を向けた状態で時間を着々と過ごしていくということです。
 私は二十年ほどさぼっていたので、毎日少しずつ健全に意識を向けていた人たちとは大きな差がついています。他の人が「今日はこれにしよう」と簡単に決められることを、私は簡単には決められません。今は大分マシにはなりましたが、若い時期に後れを取った分が縮まることはないでしょう。

 本題の「やりたいことリスト」の話に移ります。
 「やりたいことリスト」というものを見た時、後れを取ったタイプの人は「そうか、そういうリストを作るといいのか」とそこで初めて思うかもしれない一方で、自分に関心を強く持てていた人はそんなリストの存在を知る前から自分なりにリストアップしていたのではないかと思います。
 そしてそういう人も、短時間にリストに書き出したというよりは、ずっと地道に更新し続けていて(それは頭の中で行われたことかもしれません)、ただ意識を向け始めるのが早かったから若いうちに既に充実したリストが出来上がっているのでは、と思うのです。自己(あるいは社会の中に生きる自己像)に興味を持って長い時間を費やしたかどうかです。

 やりたいことが少ないのはつまらない人間か? という問いを立ててしまうと、私としては「やりたいことの種類やそれに対する思いによりますよね」という結論に至らざるを得ませんが、「自分のことを知っている自分」と「自分のことを知らないでいる自分」とで比較するなら、「知らないでいる自分」の人生は「知っている自分」よりつまらなそうに思えます。
 私自身の話をすれば、自分のことがわからなかった時の自分の日々はとてもつまらなかったと思います。無理して面白いかのように自分に言い聞かせて生きていましたが、それはどう見ても面白い人生ではないでしょう。今面白がっているようなことのほとんどを、当時の自分はよくわからなかったのです。

 倉下さんとBeckさんの文脈からは離れますが、「やりたいことリスト」について私が思うことは、「思いつかなくて悩む自分」や「無理してひねり出している自分」よりは「確信をもってこれが一覧だと言える自分」の方が、自分という人間が取りうる状態の中で、より面白い状態にあるのではないか、ということです。
 そしてそういう状態に至るためには、単に「やりたいこと」に留まらず、自分全体に対して意識を向けた状態で相応の時間を経過させることが必要だとも思っています。仕事で自分に課せられた役割がシビアだとそれも大変になってしまうでしょう。

 自分自身の思いをキャッチできるのはアンテナを張ってからだと思います。アンテナを張り、そしてそこにそれがかかってくるまで、どれだけの時間を要するかはわかりません。
 でもまあ、死ぬまでにひとつでも多くわかれたらいいな、というくらいで良いのではないかと思っています。いくつ書き出せているかより、「自分は何にテンションが上がるんだろう?」「自分は何をやれたら良い人生だと感じるだろう?」と考えて何かが引っかかるのを待ち構えられているかどうかの方が大事だなと感じます。

2022/11/18

2022/11/18 ―― Twitterからの垂直移動/紙と筆ペン

 MastodonのインスタンスはFedibirdというところにしているが、今日はTwitterからの大量流入で調子が悪いようだ。こんな時はブログをちゃちゃっと書いていくことにしよう。


 Twitterのような場所があるからブログというのが「よりちゃんとした文章」という位置づけになってしまうのであって、この機会にブログももう少し軽く考えていこうと思っている。
 そういう位置づけというのは自分が勝手に決め込んでいるだけで、誰にも「ブログとは……」などと諭されたことはないのである。


 Twitterの雲行きの怪しさからユーザーはあちこちに移動し始めているようだが、最も多く選択されているのがMastodonだろうか。私も5年半ぶりだかでアカウントを作ってちょこちょこトゥートしている。
 使用感としてはまあほとんど同じようなもので、字数制限に140字と500字という違いはあるが、日本語の言葉の密度で500字というのは結構な規模になるし、長くてもせいぜい200字くらいで呟いている。基本的には140字を超えたら内容が複雑になり始めていると考えてその辺で切ることにしている。(とか語るほどたくさん発信しているわけではないが。現在120トゥートくらいだ。)

 要はサービスの名前が変わっただけで自分がやっていることはほとんど変わらない、ということだ。まあまだMastodonでは他のアカウントをほとんどフォローしていないし、大量に移動しているとは言っても周囲の人々がそっくり移ったわけではなく(というかほとんど移っていないだろう)、「読む」体験の方はだいぶ違ったものになってはいる。それもそのうちTwitterと変わらなくなるのかもしれない。
 こんな感じでTwitterからMastodonというのはほとんど水平的な移動だろうと思う。同じものを求めて移動する先としてMastodonが選ばれている。InstagramやFacebookは毛色が違いすぎるのだろうし、その他のものは明らかに方向性が違うか知名度が乏しいかで、候補としてはあまり上がってこない。
 大事なのは単に人がたくさんいるかどうかではない。Twitterでの体験が他に代えがたいことから、できるならまた同じものを得たい、という気持ちが働いている。まあTwitterそのものにもTwitterで起こる諸々にも文句は無限に湧いてくるが、それでもTwitterは唯一無二なのである。

 しかし、Twitterが登場してからもう結構な年月が経つ。私達はTwitterに適応し、Twitterは私達に適応し、進化なのか退化なのか分からない変化を双方が経てきた。なんというか、そろそろ考え直しても良いのでは、という気分になってきている。
 水平移動ではなく、前にしろ後ろにしろ、どちらかに垂直移動した方がいいのかもしれない。前に何があるのかはよくわからないが、サービス側もユーザー側も手探りの中でやっていくような、ある種の謙虚さを持った場に環境をリセットしたい気持ちはある。
 あるいは敢えて後退するのもありだろう。典型がブログだろうが、バズることが繋がりを生むのではなく、個人間の共鳴から「一緒にやりましょう」という出会いが発生するような、そういう牧歌的な世界に行きたい思いもある。
 いずれの道にしろ、惰性で漫然と続けるという態度からはいい加減抜け出る必要があるのかもしれない。


 自分でデジタルノートツールを作ることが既に習慣になっているが、その一方で最近は紙に手で書いて考え事をすることが増えた。
 その契機となったのは、ある時ふと「自分にとってしっくりする紙面のサイズは何か」と思ったことだ。前々から使いやすいとかなんか嫌とか感じてはいたが、きっちり明らかにしたことはなかったので、自分と対話してみたのである。
 そうしたところ、明らかにこれとこれだ、というのがわかった。十年前とかに整理しておけばよかったものを、なんとなく曖昧にしていたために今更はっきりしたのだが、自分の馴染むサイズに納得するとなんだかすごくそのサイズの紙面に手で何かを書きたくなった。

 紙に書く上ではもうひとつ好みが左右する要素がある。筆記具の具合である。
 私はメモ書きにはペンを使わずずっと鉛筆(2BかB)なのだが、鉛筆の「感じ」は良いものの、色が銀色気味なことと材質上どうしても筆跡が光ってしまうのが気になっていた。より黒く、よりマットにするには、何Bかの柔らかい芯である必要があるが、そうすると字を書くのにはいまいちな感じがしてくる。
 はっきり書けるようにとボールペンなどを使うと、強弱のつかなさが個人的にはなんだか微妙で、更に言うと本当に一瞬だけ必要なメモ書きにインクを消費してしまうのはなんとなーく気が進まない。それならば気に入ったペンをここぞという時にだけ使って普段はそうでもないものを、などと思うと、そうでもないものの気に入らなさがストレスになる。貧乏性なのに変に神経質のようだ。

 長らくそのもやもやと共に生きてきたが、つい最近解決案として辿り着いたのが、筆ペンを普段遣いする、ということだ。使っているのはぺんてる筆(天然毛ではないものの穂先はほぼ筆そのもの)の中字と極細。筆だから強弱は当然つくし、墨(あるいは墨風の染料インク)だから色は黒くて光を反射しない。
 しかしそう軽々しく書きまくっているとあっという間にカートリッジを消費してしまうので、私はカートリッジのインクを使わずに普通に筆を使うように墨汁に先を浸して書いている。そんなにはっきりと濃い必要がないならちょっと水を混ぜて薄めたりしており、まあ墨汁のボトル一本使い切るのは相当かかるだろう。メモ書きには使っていなかったものの時々そうやって筆ペンに墨汁をつけて書くということをしていたが、それでも中学だったか高校だったかで買った「ぼくてき」をまだ使っているくらいである。

 例えば「Scrapbox風のツールを作るには」とかいうことを、普通に横書きで、鉛筆を持つような普通の持ち方で、ほぼ普通の速度で筆ペンで書いていく。一応下手の横好きでそれなりに使ってきたから書けているというのもあるだろう。図とかも筆ペンで書く。ぺんてる筆でスケッチする人はたくさんいるし、これで絵を描いても全然おかしくはない。
 鉛筆やボールペンで適当に書いた自分の字に「おっ」と思う可能性は皆無だが、筆ペンだと偶に「あっ今の払い良いぞ!」みたいなことがある。自在にコントロールできるほど上手くないからこそ「おおっ」が発生するのだろうと思うし、美しくは書けないなりに楽しい要素はある。

 パソコンに向かってプログラミングをしながら、傍らには紙と墨汁と筆がある。私にとって自分らしさとはそういうところにあるのだろうと思う。
 

2022/11/14

2022/11/14 ―― 日付をタイトルにする試み/やり方を真似したくなるということ

 日付をタイトルにしているが、今日という日は特別な日になりました――的な話ではなく、単に、今日考えたことを無題で書き連ねてみようという試みである。(後日追記:さすがに中身がわからなすぎるのでサブタイトルを添えることにした。)

Mastodonでの今日のトゥートをベースに文章化)

 Twitterにツイートしようかと思ったがなんとなく気乗りせずにMastodonに書き込むということをした。自分の感覚として、Twitterだと本当に誰の需要も満たしそうにないものはツイートしづらい。今更ながら。
 おそらく過去にツイ廃期間が長くあったせいで、Twitterというのは自分の中で「居る」場所として捉えるものになっており、「ツイートする」イコール「自分がいる(=オンラインである)」という意味合いがあるように感じてしまっている。その感覚が自分の中でものすごく邪魔になっている。
 外界に対して閉ざしたいとか自分に都合の良いものだけ見たいとかいうつもりはないのだが、しかし自分が意識を向けられる範囲は量的に言ってごく僅かであるという認識があり、それを拡張することを求められるとしんどくなってくる。つまり、オンラインなら(今そこにいるなら)対応できるだろうとか、フォローしているなら見ているんだろうとか、そういう。誰かに何か言われたわけでもないが、そう要求したりされたりする様子を目撃したことはあるわけで、開き直りきれないでいる。
 これはしかし、ツイ廃でなければ(=絶えずツイートするとかいうことをしなければ)回避できることであり、「読者の存在を利用した言語化」の魔力に依存しなければいいだけのことではある。Twitterだと捗るからつい居座って書いてしまうのだというようなことはどこかしらで何度か書いたが、そうやって「自分の中身が言葉になっていく気持ちよさ」を欲して言語化をTwitterでやるから葛藤が生じる。要するに欲である。

 自分で自分を制御できていない感じというのはそれだけではない。TwitterにしろMastodonにしろ、言語化した内容そのものを世に放ちたいということもさることながら、空虚な自分を少しでも世界に根付かせたいという願望があってやってしまっており、その願望に対する自己嫌悪によって「つい呟いてしまう」と「つい呟いてしまうことを反省する(良くないことだと考える)」を無限に反復横跳びしている。それはきっと良くない。
 発信者としての側面だけ見ればそういう人間こそTwitterがぴったり、ということになるが、Twitterは単に発信の場ではない。受信の場でもある。自分の中でそのバランスが崩れていることがいつも気になっている。別に他の人がみんなバランスを取ってやっているわけではないにしても。昔から、常々「自分はTwitterには向いていない」と思いながら、しかしずるずると続けている。
 要するに、「気にしい」な性格でいながら一方的に喋っていられる場が必要で、それを求めてSNSを彷徨っても駄目なんだろう。そう考えると、つまるところ自分には「ブログしかない」のだと思う。じゃあ大人しくブログで書いてればいいじゃないかという話だが……点、点、点。

 Twitterとブログは何が違うか。どちらも人が読むことを前提にして文を書いていくという点では同じだ。しかし思考のタイムラインを作っていくことと記事を書くことは根本的に違う営為のようにも思う。なぜなら前者は自己の内面の描写、後者は他に向けた表現だからだ。
 そう思ったところで気づいたが、(例えばScrapboxの使い方としては失敗談として目にしがちな)「日付をタイトルにしたページ」というのはブログにこそ必要なのかもしれない。(そう思って、今この記事が作られている。)


 Tak.さんの[アウトライナーライフ(noteの有料マガジン)](アウトライナーライフ|Tak. (Word Piece)|note https://note.com/takwordpiece/m/md373ba7a0d43)の記事を読んでいると(あるいはTak.さんの著作を拝読していると)、なんだか「シンプルにこれを真似たら結局全部うまくいくのでは?」という気分になってくる。読んでいてとても楽しい。実例があるとメソッドが実際的であることを感じるし、事実、Tak.さんはそうして日々をスムーズに送っていらっしゃるのだから、机上の空論ではないことは絶対確かなことである。想定は細やかで、スーパーマンがスーパーなところでしれっと補っているというようなところもない。
 一方自分自身の問題として、誰かの方法を「そのまま真似したい(そうしたら万事がうまくいきそう)」と感じる時というのは、自分固有の癖を忘れている時でもあるという実感がある。もし自分自身のことを仔細に思い出せているならば、そのまま乗り換えるのではなく、それを取り入れた自分仕様の何かを具体的に考えるはずである。
 そもそもTak.さんが「自分のやり方をそのままやってみてほしい、全部うまくいくから!」とお考えになっているはずもなく、むしろおそらくは全く逆で、人のやり方をそのままコピーしてしまわずに自分自身との対話でやり方を考えていく、その工程自体の例を示してくださっているのだと思う。なれば、こうしたら良さそうという気持ちを持ちながら、どうして「良さそう」なのか、どうしたらその「良さそう」を自分が殺さずに済むのかを、じっくり考える必要がある。
 やり方を見せてくれる人々は、それぞれが自分の中にある成分に基づいて最適化したものを披露してくれている。詳しく聞けば聞くほど「隙がない」かのような気持ちになってくる。ただ、そこにはその人を構成する成分しか含まれていない(それしか含みようがない)。そこに書かれていないこと――多くは故意に「伏せた」のではない――を考えなくてはならないだろうし、そのためにはやはり、自分の成分は何なのかを自分に問うて明らかにしなければならないだろう。


 ところで、このようにごちゃごちゃ詰めたような発信というのは前にScrapboxでも試したが、その時はまあ、さっぱり続かなかった。読み手の存在を考え、読み手にとっての無益さを意識しすぎたのだと思う。実際に無益で、変に自分の印象を和らげようとしたところもあったのか、他ならぬ自分自身にとってすら無益なものになっていた。何か自分にとって必要を感じたからやったはずだが、自分でそこから外れてしまったようだ。
 

2022/11/02

アウトライナー×つぶやき×平面配置②~ツール紹介編~

 メモを雑に書いたままゾンビ化させないために、「つぶやくように書けて、アウトライナーのように操作できて、平面配置で表示されて、自然にもう一人の自分と対話できるツール」を作ろうという話のツール紹介編。ここに至る経緯は前回の記事をご参照のこと。


 前回の最後にも貼ったが、まずメイン画面のスクリーンショットはこちら。

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 なお撮影用に余計な情報が写らないようにしたため実際の画面とはレイアウトが若干違っている(実際よりちょっと窮屈な画面になっている)
 コンセプトとしては「アウトライナー×Twitter×面」ということになるが、書き込んで操作する部分はアウトライナーである。なので名付けるとしたら○○アウトライナーということになるだろう。
 そして左右にちらっと映っているのが他のビューで、普段はこんな感じで中途半端に端っこが見えている状態で控えており、マウスオーバーするとアウトライナー部分に重なるようにスライドインするようになっている。それぞれのスクリーンショットはこんな感じ。
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 動かしている様子は動画にしてTwitterに投稿したので、ご興味のある方はそちらもどうぞ。

 機能ごとに詳細を書いておこうと思う。(例によってツールもコードも公開していないが、考え方や所感が誰かの何かの役に立つかもと思って書いている。)

アウトライナー

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 アウトライナー部分は、フォーカス以外の一通りのアウトライン操作ができるようになっている。ほぼ普通のアウトライナーである。
 違っているのは、各ノードに個別のアイコンを設定できることと、編集時に文字数カウントが表示できることだ。

 アイコンはCtrl+←/→で簡単にくるくる変更できるのだが、挙動の仕組みとしては、全てのノードが何らかの種別を持ち、その種別に対応するアイコンが自動的に表示されているということを意味する。(HTML的にどうなっているかというと、li要素にカスタム属性を設定し(data-typeとした)、その値が「topic」とか「date」とか「A」とかいうふうに変更されていくということだ。)
 前回書いたように、アウトラインに行を追加した時にはデフォルトで「二つに分けた自分の一方」を示すアイコンが表示されるようにしてある。サンプルでは「自分A」ということにして赤丸の「A」のアイコンにしてある(実際は全然違うアイコンを使っているし、自分A自分Bという呼び方でもない)
 こうすると、とりあえず自分Aとして考えたことを書くことになり、自分A以外に他の自分がいるはずであること、自分の中でも偏った視点でしかないかもしれないこと、をなんとなく意識する。(前回詳しく書いたが、そうなるように私自身が既に訓練されていたところがある。以下、「こういうことが起きる」として書いてあるのはあくまで私の中でのことである。)
 自分A以外に人がいるのに、自分Aにしかわからない独りよがりな書き方をすると他の存在が関われなくなるので、恰も他の誰かが見ているかのようにきちんと書こうという気持ちが働く。別にきちんとさせないで自分Bをいきなり登場させてもいいのだが、そうすると対話の体を成していないという気持ち悪さに私が耐えられなくなるのである。
 自分Aが書いたものに自分Bという別の視点をぶつけてみた時、それでも納得できるのか、ツッコミどころを見つけて「いやそれはおかしいでしょ」と自分で批判することになるのか、それはその時次第だが、とりあえず自分で穴を探すというチェックが働く。自分同士である以上どうしたって完璧なチェック機能にはならないが、それでも結構な頻度で「いや、ちょっと待てよ」が発生するし、「じゃあこういうのはどうか」と新たなアイデアを閃くことも多い。必然的に、思考はどんどん拡張していく。
 自分Aと自分Bというのはどう分けているのかというと、前回の繰り返しになるが、「合理的っぽい自分」と「本音っぽい自分」という二つの軸をイメージしたものになっている。なので自分Bから話がスタートすることもある。どちらも「っぽい」であって、そんなにはっきり分かれているわけではなく、よく考えるとこれ逆だったのではということもある。どっちがどうというより、二つの軸で考えるということが肝心である。

 字数カウントも大事な要素になっている。見た目としてはこういうことになる。

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 意義は前回書いたので繰り返さないが、結構馬鹿にならない影響がある。必ず100字以上140字以下で書くぞ、というようなルールを設けているわけではないし、実際その字数に至っているのはせいぜい半分くらいではないかと思うが、目安があることで常に「まだ不完全だからもうちょっと考えられるなら考えよう」という意識を持つようになっている。
 また、字数カウントによる目安というのはきちんと文章化して書いていなければ意味を成さないので、ここでも「人が読める文章」を書こうというインセンティブが働いている。

 なお、各ノードはそれぞれ作成日時と編集日時が記録されており、そのことによって次に紹介するタイムライン機能が実現されている。

タイムライン

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 右側からスライドインしてくるタイムライン画面は、見た目に明らかな通りTwitterのタイムラインを参考にしたものである。
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 ここで直接編集はできないが、ダブルクリックすればアウトライナーの当該ノードがフォーカス状態になってすぐ編集に取り掛かれるので、編集と閲覧の行き来は簡単である。
 タイムライン機能を考えた最初の動機は、ツリー構造とは別に「考えた順」に並べたいという気持ちが前々からあったことだ。アウトライナーは内容を基準としてツリー状に形を成していて、いつでもどこにでも書き加えられて書き加えるほど成長していくのは良いのだが、その場所から離れてしまうと「さっき考えたあれ」に戻るのがまあまあ面倒である。データの構造としては内容が基準になっていて良いのだが、それはそれとして「最近追加または編集したノード」が時系列順に並んでほしい。そういうことから、アウトライナーのノードに日時を記録し、それを元に時系列に並べたビューを作ればいいという構想が浮かんだ。そこにTwitter風にしたら面白そうというアイデアが加わってこういう形になった。
 さて今まで自分が書いたメモをずらっと並べるということは幾度となく試みたのだが、どうにもしっくりきていないところがあり、その原因は何かしばらくわからなかったのだが、多分「絵がない」ということだったのだと思う。ツイート履歴ならずっと見ていられるのだが、それはおそらく本文の隣にアイコンがあるからである。自分自身の(あるいは特定のアカウントの)ツイートを追う限り、ただ同じアイコンがひたすら並んでいるのだからアイコンに情報は何ひとつ含まれていないのだが、しかしアイコンを取り払ってしまえばいいかというとそれはそうではない。ただただ文字が並んでいるのを見ていると、内容がどうであるかには関係なく正直うんざりしてくる。私の中ではそれは文が読みやすいか否か以前の問題なのだろうと思う。
 また、今は親ノードのIDに対して@を付けてメンションを飛ばしている風の見た目にしているが、最初はそうしていなかった。メンション風にする前、タイムライン上の各書き込みはそれぞれ別の話題に対しての書き込みなのに、宛先を明示していないと続けて読もうとしてしまい、頭が混乱していた。そのことに気がついたのでこの形にしてみたのだが、そうすると、見ただけでどこ宛てかはわからなくとも、宛先を表示していれば「どこかの何かに宛てている」ということが前提となるので、文脈の混在が気にならなくなった。それは普段、Twitterのタイムラインで当たり前にやっている脳の処理であろう。

マップ

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 左側の平面配置は、アウトライナー部分のアウトラインについて、日付ノードを除いたものをCSSでいい感じに整えたものだ。アウトライナーでの表示と見比べるとこんな感じ。
画像

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 各階層について、兄弟ノードは横方向、子ノードは縦方向に並んでいる。各ノードのサイズは文字数と横方向の個数に応じて適当に伸縮する。階層が深くなると背景色が濃くなる(なんとなくそうしている)

 私が作ったものを他の人が今ぱっと見てわかりやすく思うかは微妙なところだと思うが、私にとっては自分で作ったアウトラインが変形しているので(つまり書いてある内容は既に一度頭に入っている)、ひと目で全体の構造がわかるというありがたみを感じている。平面上にみっちり敷き詰められた状態で、更に各項目について文字数が多すぎるものはスクロールするようにしているので(項目のブロックが縦長にならないようになっている)、画面にはかなりの情報量が入る。
 また、topicのノードについて背景色を変えているように、data-type属性の値(≒アイコンの種類)によってCSSを変えて見やすくすることもできる。例えば結論用のアイコンを作って背景色を赤系統にする、ということをしている。
 なお、これも各項目をダブルクリックすればアウトライナーのノードがフォーカスされるのですぐ編集に取り掛かることができる。

簡易検索

 現状、AND、OR、NOT検索はできないが、特定のキーワードを含むノードをピックアップすることはできるようにしてある。
 検索を実行すると、アウトライナー画面は該当するノードの背景色が黄色くハイライトされ、タイムライン画面は該当ノードだけ表示されるようにフィルタリングされる。タイムラインは他に期間指定とdata-type属性(≒アイコン)でフィルターできる。
 あと全データから「#」を付けた文字列を取得してオートコンプリートを設定しているので(検索欄をクリックしたり↓を押したりすれば候補が出る)、Twitterのようにハッシュタグを使うこともできる。
 必要が生じれば、AND、OR、NOT検索をはじめもっと細かい高度な検索も実装するかもしれないが、今のところは別にいいかなという感じでいる。

 細かいところまで色々書いたが、重要なのはCtrl+←/→という簡単な操作でノードの属性を変えられるようにしたことと、アウトライン構造を維持したままアウトライナー的でないビューを実現したことだ。自分Aと自分Bその他の切り替えに何クリックも必要だったら続かないだろうし、せっかくメモが捗っても書けば書くほどビューに難を感じてしまったらしょうがない。
 今までアウトライナー系のツールは色々と作っており、どれもその時点では自分の中で革新的だったのだが、今回が一番会心の出来という感じがする。データ構造や必要な操作としてはシンプルで、自力でやらなければならない処理はほとんどなく、それでいて今まで抱えていたもやもやを一度に晴らせるものになった気がしている。

 ちなみにこのツールの保存形式はOPMLなので、Dynalistなど他のアウトライナーにそのままインポートできる(ただしdata-type属性は消失する)
 

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