Noratetsu Lab

動じないために。

2020年4月

2020/04/15

「わかる人だけわかってほしい」という幻想は叶うか

共感というのは怪物のようなものだと思う。


「共感されたい」という気持ちの奥には、「理解してほしい」と「気に留めてもらいたい」の少なくとも二種類の感情がある。この二つは似ているようで大きく異なる気がする。
「共感した」という感想の奥には、「自分との共通点を見出した」と「自分でも同調できると判断した」の少なくとも二種類の基準がある。この二つは似ているようで大きく異なる気がする。
これらは明確に区別されることなく、「共感」の二文字に内包されて辺り一面を覆っている。
同じことを言っていても、言い方次第で受け手の反応が大きく変わることはままある。言い方がどうであれ「わかる」と思ってくれる人もいれば、少しでも肌に合わない言い方をされると「自分には関係ない」と自動的に判定する人もいる。また、実際にはわかってはいないのに、「自分にもわかる」と思いたいがために無理にでも「わかる」をでっち上げることもあるだろう。
それらはつまり、「わかりたい」と「わかるものを摂取したい」と「わかると言いたい」の違いだろうと思う。

共感には誤解がつきものである。
「広く共感される」というのは「広く誤解される」ということとセットのようだ。共感と誤解をイコールで結ぶのは誤りだが、抱き合わせであることには違いない。
わかると言いたい人が、「わかる」を無理やりでっち上げるとき、本当はわかっていないのならもちろんそこには誤解がある。
一方で、わかるものを摂取したい人が、「わからない」と思ったとき、かなりの確率で「わからない」ということを正当化しようとする。それは半ば本能的な防御反応であって、積極的に鍛錬を重ねないことには避けられないことでもあり、その反射的な正当化によって当然誤解が発生する。
どちらの方向にしろ、わかっていないものについて何かを語れば必ずそこに誤解が生まれることになる。広く共感されたというとき、わかりきっていないのに語る人が爆発的に増えることになり、結果として誤解も同じペースで増えてしまう。

冒頭で、「共感されたい」という気持ちの奥にある「理解されたい」と「気に留めてもらいたい」は似て非なるものと書いたけれど、「理解されたい」と「誤解されたくない」もまた等しいものではない。
(誤解が生じると実害が及ぶものを除いて、)「誤解されたくない」とは、誤解されることが自分の尊厳を削るような気がしているときに強い嫌悪感として現れるように思う。
実際、誤解に否定が伴っていれば尊厳を傷つけるものになりうるし、否定が集団になって襲い掛かってくるとそのダメージは計り知れない。それはもはや否定が目的になっているならず者の無差別攻撃であって、その問題は共感というテーマからは離れるのでここではこれ以上言及しないけれど、とりあえず誤解がリスクであることには違いない。嫌悪感を覚えること自体は自然なことだろうと思う。

一方で、「絶対に傷つけられたくない」というようなガチガチの防御態勢を取ってしまっていると、「誤解されたくない」という気持ちが非現実的に膨らみすぎる。自分が何かを言うたび、誰かに何かを言われるたび、一触即発になってしまう。
誤解には攻撃性が伴うこともあるけれど、必ず攻撃的であるわけではない。それなのに、誤解を不本意だと思う気持ちが強すぎると「ただの誤解」に対して強烈な拒否反応を起こすことになる。コミュニケーションというのは地道に誤解を修正し合うことによって成り立つものであって、誤解を一切許さない姿勢でいたら誰とも解り合うことなどできないだろうと思う。

厄介なのは、「誤解されたくない」という気持ちは「理解されていない」という体感から生じるであろうことだ。自分というものを間違って解釈されるストレスを(多くの場合親によって幼少の頃から)抱え続けていると、新たな誤解に対して「いい加減にしてくれ!」と吠え立てるかのように不寛容な反応を示してしまうように思う。新たに発生した誤解は自分の人生上大した意味などないかもしれないのに、積年の恨みとばかりに怒りを爆発させがちである。
そういう状態に陥っているとき、大抵自分自身は他人を正しく理解していないし、人に対して「理解されていない」という体感を与えているかもしれない。
しかも困ったことに、基本的に理解というのは「ただの誤解」を修正し合うことで進んでいくから、その機会を作らないことには「理解されていない」という体感から脱することはできないというジレンマがある。
ガンガゼのように鋭い棘で覆われた人間に理解を示す人というのは、だいたい同じ心境を体験して克服した先輩か、理解したふりで人心掌握を図る悪い人たちで、残念ながら後者がそこかしこにうようよしている。棘を出したまま救われる可能性はあまりにも低い(とはいえ皆無ではないようだ)

このような誤解アレルギーのない、シンプルに「理解してほしい」と思っている人にとって、誤解されることは深刻なダメージにはならないかもしれないが、気分を害する邪魔なものではあるだろう。
否定されるのはもちろん不愉快だし、誤った理解で共感を示されたときにもなんとも言えない「そうじゃないんだよなあ……」という気分が発生する。
一番くらい苦しいのは、共感したという顔で誤った解釈をばらまき、あたかも元の書き手がおかしなことを言ったかのように印象操作されることだろう。故意にやられるのは当然迷惑だし、印象操作をするつもりなどなく無邪気にやられるのも非常に困る。例えば断捨離はその最たるもので、断捨離を最初に勧めた人たちの願いはどこまで伝わっているのだろうと首を傾げてしまうことがよくある。

無邪気な誤解も悪意のある誤解も、「共感」を渇望する人々の間でもこもこと膨れ上がる。文章ならば、それを読める人の数に応じて指数関数的に増えていくような印象がある。
読める人が増えるとはつまり、わかりやすい(≒わかった気になりやすい)言葉選びと構成をしていること、そしてより多くの人の目に触れる状態にあること、を満たしているということだろう。
言説というものにSNSや友人からのシェアによって偶発的に触れるのが前提になっている現代では、わかった気になりやすい文章であることがそのまま読まれる機会の多さに直結している。新聞や雑誌などはそれぞれのコンセプトに照らして文章の中身によって選出してくれるけれど、そういう媒体を積極的に活用する気のない人々に対しては影響力が限定的のように思う。
そういった言説を自分から求めてはいないのに、目に入ってくるから読んで、人の目につく形で反応する。自分から求めたものではないから読んだものに有り難みを感じることも少なく、「読んでやった」と言わんばかりのこともある。今たくさんのライターが挑戦しているような、わかりやすさのパワーによってそういう人々にまで思想を浸透させようという試みは、国民全体の意識をより望ましい方向に変える力を持つかもしれないし、それと引き換えに文章の地位を貶めるかもしれない(或いはそうはならないかもしれない)。この環境の中でどう生きていったらいいのか、自分の中ではっきりした答えは出ていない。

「共感」に飢えている人々に囲まれた中では、「わかる人にだけわかってほしい」という単純な望みが驚くほど難題になってしまうように思う。(これは別に現代に限ったことではない。)
わかる人にわかってもらうためには、わかる人の目に留まらないことには始まらないのだけれど、より多くの仲間に自分の主張を届けるには話題性の力を借りなくてはならない。そうすると当然、わからない人の目にも留まってしまう。強い関心がなければスルーしてくれれば良いのだが、都合よく見逃してもらえるとは限らない。
わかった気になれない程度に面倒くさい言い回しをすれば誤解の発生率も下がると思われるけれど、そうなると必然的に拡散しない。拡散しなければ、まだ見ぬ仲間の元にも届かない。
届けたい人に届けるには、届けたくない人にも届けざるを得ないのだ。届けたくなかった人を経由して、やっと届けたい人に届くということも大いにありうる。
noteのように投稿が一箇所に集まれば、話題性がなくともタグによって見つけてもらえるかもしれないし、運営が取り上げてくれることもあるかもしれない。しかしながらそれも投稿数が増大すると望みが薄くなっていく。
結局は、サロンを形成して同志の間で思想をぐるぐる回していくのが一番平和的で合理的なのかもしれない。そうできるような仕組みが整ってきているように思う。
ただ、そういう場で行われることは「わかり合う」ことであり、自分の言葉を放流するような感覚ではないかもしれない。そもそも、放流するという手段で相性の合う相手に自分の言葉を届けようというのが現実離れした願いのようにも思えてくる。ガラスの瓶に手紙を入れて海に流すくらいにファンタジーだと思えなくもない。

「わかる人にだけわかってほしい」、つまり、より「わかる人」の割合を増す形で文章を届けるには。それはやっぱり、本を出すしかないのではないか。
投稿サイトと本の立ち位置の違いは、つまるところその点にあるのかもしれない。
そうなると、「わかる人にだけわかってほしい」という人が目指すべきは本を出すことのような気がする。一見すると、「わかる人だけ」どころか自分の手に負えない広い世界に放出してしまうことのように思えるけれど、結果的にその文章を読む人の内訳を見れば、「わかる人」の割合が多くなるような感じがする。
とはいえ、本は書いただけでは読まれないし、広める過程で結局は誤解との戦いは免れないのだろう。それでも実際に読むに至った人というのは、比較的自分と相性が良い人が多くなるのではないかと思う。

どうやっても文章を外に放つ以上は「共感したい」「共感できない」の魔の手から逃れることはできないし、自分を理解してくれる人以外を拒絶することはできない。していいことでもない。
いつも「わかる人にだけわかってもらえたらなあ」というふわふわした願いを抱いて生きているけれど、「わかる人にわかってほしい」と願うからには、最終的に何をどうやれば実現に近づくか、考えてみなければと思っている。
 

2020/04/14

タイトルという無理難題

タイトルをつけるのは難しい。


noteやブログの記事、または小説を書いたときには毎回そう思う。
「こんな感じのことを言いたい」と思って書き始めて、論理や物語が展開して、だいたいいい感じのところで丸く収まった、その全体に何かを名付けようとしたとき、一体どういう言葉をタイトルとすればその文章全体が映えるのか容易にはわからない。
ウィットに富んだ表現をしたい気もするけれど、そういうことをするには本文自体に遊び心がない。しかし不親切な論文のように抽象化一般化された言葉の羅列は面白くない。テクニックに頼るとタイトルだけ浮いてしまう。
結局は素朴に自分の感想をタイトルにするのが身の丈に合っているような気がしてくるけれど、普通すぎても存在感に欠ける。とはいえ変に気取っても存在感が増すわけでもなく、自分のセンスに確信が持てないならまずは素直でいるのが一番なようには思う。

もっと困るのが、実のところ自分の考え事を整理するときだ。
人に見せるためではなく自分のためにタイトルをつけなければならないときにとても悩む。というか、人に読ませるものでないからこそ、メッセージ性に頼れずタイトルがつけられない。
考え事は、一連のことをノートの1頁に書くかもしれないし、1つのテキストファイルに書くかもしれないし、EvernoteやScrapboxの1ページに書くかもしれない。どの形態にしろ、後から「あれについての記述を探したい」となったときに手早く探し出せるように適切な名前をつける必要があるだろうし、名前をつけることがシステム的に必須であることも多い。

こちらの記事で、Twitterはタイトルをつけなくていいから呟ける、ということに言及されている。その通りだと思う。その解放の力を感じているから、私もTwitterを思考を蓄積するツールとして日常的に活用している。
そして、後から有用な気づきを含むツイートをまとめたときに、そのひとまとまりにタイトルをつけることに苦労する。
タイトルをつけないでいるとまとめたことの意味が半減する気がするので、何かしらはそれっぽいフレーズを打ち込むのだけれど、それが「これだ!」という気持ちよさを生んだことはほとんどない。皆無と言ってもいいかもしれない。

考え事にぴたりとしたタイトルをつけられないのは当然と言えば当然で、まず結論が出ていない。結論が出ていないものについては、「〜〜について」とか、良くて「〜〜か?」という仮説をタイトルにするしかないような気がしている。
そして考えというのは一本の線ではなく四方に蔓を伸ばして面や空間的に構成されるものだから、一文では到底言い表せないスケールのものを抱えてしまうものである。
もしタイトルを「全体の要約」あるいは「核になる部分」として捉えるならば、要約されるべき全体が未完成であったり核がまだ見出されていなかったりする圧倒的多数の考え事に、適切なタイトルなどつかなくなってしまう。

ここで立ち止まって考えると、結局必要なのは、「何を対象に、どんな蔓を伸ばしたか」なのかもしれない。つまりキーワードの列挙をすればよいのではないか、ということ。
例えばこの一連の文章につけるべきタイトルは「タイトル/note/思索」という形かもしれない。このタイトルから結論を感じ取ることはできないけれど、そもそもビシッとした結論は出ていないし、キーワードの組み合わせから「確か前にこんなこと考えたなあ」くらいは思い出せる可能性が高いから、思索の方向性をタイトルで示そうとする必要が元より無いのかもしれない。
別の機会に小説のタイトルにフォーカスした思索をしたら「タイトル/小説」とつければいいし、ついでに「タイトル/note/思索」の存在を思い出したりサジェスト機能などで発掘できるかもしれない。
もし仮説をタイトルにしてしまったなら、その後別の仮説が浮かんだ際には、同じ対象についての思索であっても別の場所にメモすることになってしまいがちだ。それはあまり賢いやり方ではないような気がする。
それに、例えば「noteや思索につけるタイトルについて」という一文と「タイトル/note/思索」というキーワードの列挙を見比べてみると、前者の方が助詞などの働きによって論理としての情報が多くて正確であるにもかかわらず、なんとなく野暮ったく、後者の方がスタイリッシュな気がする(そう思うのは私だけかもしれないが)
変に「うまいことまとめよう」などと考えず、登場したキーワードを並べていくのが結局は賢いのかもしれない。
第一、「うまいことまとめよう」などというのは学校の現代文の授業でやたら要約をやらされたことに端を発している気がしなくもない。「そうするもの」という常識のようなものに支配されている自覚がある。自分の脳にとって必要なことはなんなのか、を突き詰めて考えなくてはと思う。
 

2020/04/13

Scrapboxのページは三種類――タグ・キーワード・個別記事

情報管理にはScrapboxを使っています。


Scrapboxがどんなサービスかというのは、以下に紹介するnoteと漫画のほか素晴らしい記事がいくつもあるので初耳という方はそちらをご参照いただくことにして、ここではScrapboxに少し触れた人を読者に想定して私なりの考え方について書き留めたいと思います。

今回書きたいのは、ページの種類をどう理解するか、という話です。

まずScrapboxはツールの種類としてはwikiで、更に「タグ」と「ページ」を区別しません。「タグ的な見た目をしたもの」と「個別の記事的な見た目をしたもの」が同じものとして扱われます(言葉で説明すると難解ですが、使ってみればすぐに意味するところがわかると思います)
つまり、同じ場所に、同じようなサイズ感で、「タグとして用いたいもの」と「個別記事として扱いたいもの」が同居することになります。これはものすごい長所であると同時に、なんともいえない混沌を生み出すことになります。
例えば以下のようなページがあったとします。(ここではハッシュタグを便宜上「♯」と表記しています。)

◯◯乳業パリチョコアイスバナナ味  
  
[2020/04/13]の3時のおやつ  
[チョコ]がパリッとしていて美味しかった。  
[食感]がポイントかもしれない。  
  
♯◯◯乳業 ♯アイス ♯バナナ味  

このとき、「◯◯乳業パリチョコアイスバナナ味」というタイトルの記事があり、その中に「2020/04/13」「チョコ」「食感」へのリンクと、「◯◯乳業」「アイス」「バナナ味」というタグがついている、という状態です。
(リンクとタグ、と書き分けましたが、[]で囲むか♯をつけるかという見た目をその都度選択できるというだけで、機能的には同じことを意味しています。つまり、「[チョコ]」と「♯チョコ」は全く同じ働きをします。ただし、気分的にはその二つの見た目には違いを感じるので敢えて書き分けています。)
そしてそれぞれのワードに対して他のページからもリンクが貼られているとすると、記事本文の下部に関連するページがずらりと並びます。
更に、それぞれのワードについて本文を書いていると、それぞれがページとして形を持ち、トップページにも並ぶことになります。

それぞれに本文をつけてしまった場合、トップページには「◯◯乳業パリチョコアイスバナナ味」「2020/04/13」「アイス」などというタイトルの記事がカードのように並びます。
他に「プロジェクトAの進捗」とか「外山滋比古『思考の整理学』」とか「万物は流転する」とかいうページもあるかもしれません。
つまり、混沌が尋常でないレベルになってしまうのです。

混沌であることが必ずしも悪いというわけでもなく、自分の脳もそのようにカオスであることを踏まえれば、別に気にすることはないのかもしれません。
ただ、個人的にはちょっと気になりすぎて耐えられなかったので、なんとかしたくなりました。
混沌と自由はイコールではなく、私の場合は混沌であることが自由を妨げるので、自由に動ける程度の秩序を作ることが必要だと感じたからです。
ちなみに、個人用に関してはプロジェクトを分けるということはしていません。というか、最初は分けたのですがしばらく運用している間に不都合を感じてやめました。(プロジェクトについてはここでは割愛します。)

適度な秩序を実現するにあたっては、「分類を作る」「階層を作る」「識別のための視覚情報を作る」の三種類の要素をScrapboxの利点を損なわない形で達成することを目指しました。
分類や階層にこだわることはともするとScrapboxの思想と反するものになりかねませんが、自分の思考の動きと一致した概念で紐付けすることや、層のレベルが異なる複数の階層に紐付けすることが自然と実現できる点はScrapboxならではのことだと思います。
この分類や階層というのは、「私は、このページをそういうものとして使う」と決めただけであり、システム上の制約は存在しないというのがポイントです。

具体的なやり方は別の機会に譲って、その前段階としてそもそもScrapboxにおける「ページ」をどう捉えるか、ということを整理していきたいと思います。
私は①個別記事②タグ③キーワードの3種類で認識しています。

①個別記事

言い換えると「意味のある情報」ということです。まずはこれがないと始まりません。
20字だけかもしれませんし10000字あるかもしれませんが、何かしらの文脈によって切り取られたりまとめられたりした情報がまず必要です。(それがなければ管理する必要もないので、情報を管理したい人は必ず管理されるべき情報をいくつも抱えているはずです。)
日記かもしれないし、ソースコードかもしれないし、持ち物のリストかもしれないし、会った人のプロフィールかもしれないし、ありとあらゆる「自分にとって意味のある情報」を指します。
そしてそれらは、自分にとってちょうどいい区切りで切り分けられて個別のページとなります。この切り分ける基準にもまた工夫が必要になってきますが、それはまた別の機会に。

②タグ

各記事には、「だいたいどんなジャンルのことか」がわかるようにタグをつけたほうが良いでしょう。
例えば日付をタグとすれば、その日付に関連したページを全て捕まえることができます。日付単位で俯瞰したいことがある場合には有効です。逆に、その必要が無い人には不要であり、場合によってはノイズになります。
このタグは自分にとって必要なものであって、機械的につけてもあまり意味はありません。「どんなタグがついていればこの記事を見つけ出せるか?」「どんな記事が一緒に出てきてほしいか?」を基準にして、自分の脳にとって有効なワードを選ぶ必要があります。最初はとりあえず有効そうなものを色々つけて、自問自答しながら徐々に最適化していくと良いでしょう。
私の場合、この「タグ」にちょっとした階層を作ります。
さっき示した例をもう一度ご覧ください。

◯◯乳業パリチョコアイスバナナ味  
  
[2020/04/13]の3時のおやつ  
[チョコ]がパリッとしていて美味しかった。  
[食感]がポイントかもしれない。  
  
♯◯◯乳業 ♯アイス ♯バナナ味  

このページには「2020/04/13」「チョコ」「食感」「○○乳業」「アイス」「バナナ味」というリンク及びタグがついています。なので、それらのワードからこの記事を引っ張り出すことができます。
しかしここで、「甘いもののメモを見たいなあ」という、より抽象的な需要が自分の中に生じたとします。全ての甘いもの関連ページに「♯甘いもの」と打ち込んでいくのもひとつの手ですが、なんとなく現実的でない気配が漂っています。
既につけてあるリンクとタグを見ると、これがついていればほぼ確実に甘いものだろうと判断できるワードがあります。「チョコ」と「アイス」です。この例では、自分の中での基準としてチョコ菓子ではなくアイスだという判定がされているという意味で「♯アイス」をタグにしていますが、チョコ菓子に「♯チョコ」というタグをつけるに違いないので、まとめて捕まえます。
この場合、次のようなページをとりあえず作ります。

甘いもの  
  
- ♯チョコ  
  
・♯アイス  

すると、このページの下部に、それぞれのリンク・タグをつけている記事が関連ページとして並びます。
また、適切な分類タグが浮かばないけどとりあえず甘いものだ、という記事には「♯甘いもの」というタグをつけておきます。「甘いもの」というカテゴリの中の「未分類」みたいな感覚です。
「アイス」というタグをつけたページも「甘いもの」というひとつ上位のタグをつけたページも、タグの階層は違いますが「甘いもの」というページの下部に並ぶので一度に捕捉することができます。
先に「層のレベルが異なる複数の階層に紐付けする」と書きましたが、それはおおよそこういう意味合いです。
なお、タグとして扱うものにはあまり本文をつけない方が良いように思います。上位のタグに下位のタグのリストを作るほかは、いたずらにページを増やして快適さを減らすことのないように空ページのままにしています。(本文を一度書いたものを空ページにするにはそのページをDeleteすると空になります。)

③キーワード

情報の紐付けに用いるのは、ジャンルだけではありません。
この概念に関連したものが一緒に出てくれると嬉しい〜!みたいな需要に応えるのが謂わば「キーワード」です。
wikiでは人名や用語などにリンクが貼られ、どんどんジャンプしていけるようになっています。Scrapboxでは、リンクでジャンプできるだけでなく、下部に関連ページとして並ぶのが素晴らしい点です。
先ほどのパリチョコアイスの例では、「食感」というワードをリンクにしてあります。「食感」というカテゴリで記事を探したくなることは多分ないのでタグとして機能することはありませんが(もし食感が研究テーマとかになればいつでもタグ化できます)、「食感」というワードがなんとなく気になるぞと思ってリンクにしておくと、これ以降別の機会に「食感」の話が登場したときに、関連ページを見て「そういえば、パリチョコアイスも食感がキモだと思ったのだった」という情報を再入手することができます。
その機会は他の食べ物のレビューかもしれませんし、『食感と恋』とかいう本を読んだときかもしれません(※架空です)。全然違う種類の機会によって、ひとつのお菓子で得た感想が生きることになるかもしれないのです。

キーワードは必ずしも短い単語とは限りません。自分が「このフレーズがひとかたまりだッ!」と思ったらそれがキーワードです。あちこちで感じるひとつの感想みたいなものもキーワードと言えるかもしれません。
例えば「春眠暁を覚えず」と度々感じてあちこちで書いているとかいう場合はそれが自分にとってのキーワードです。「春」とか「暁」とかいう単語で細切れにする必要はありません。
また、このキーワードに関してもあまり本文は添えないほうが良いかと思います。定義が必要なときなどは書いてもいいと思いますが、個別の記事として有用にならないときは無理してページ化しなくて良いでしょう。
例えば、「春眠暁を覚えず」は孟浩然の「春暁」の中の一文ですが、「春眠暁を覚えず」というタイトルのページに「孟浩然の『春暁』より」と記すよりは、「孟浩然『春暁』」というページを作ってそこに「春眠暁を覚えず」と書いてリンクにした方が情報として価値が高まるかもしれません。
そのあたりの情報の扱いは個々人の脳の働き方次第ですが、何を親ページとするかみたいなことには意識を向けたほうがScrapboxの最適化は早まる気がしています。

以上、ページというものへの私の解釈として①個別記事②タグ③キーワードの3つを挙げました。
しかしながら、これらはScrapboxを使う人間の認識の問題であり、Scrapboxというツールはこれらを区別せずに取り扱います。全てはページであり、あらゆるページが3つの形態のいずれにもなりえます。
また、タグとキーワードはなるべく空ページが良いと感じてはいますが、一方でいつでも本文を添えられるということが大きな利点でもあります。
タグの項で紹介したように「下位タグのリスト」をさっと作ることもできますし、キーワードに関してはその言葉の意味するところを書き添えることもできます。

ページの役目を意識しながら、自由に形態を行き来できるというフットワークの軽さを活かして、直感的に操作できるのがScrapboxの理想だと思っています。

2020/04/08

嘘の「いい話」は見抜くよりおいしく食べたい

この世は嘘で満ちている。
とかいう言葉をどこかしらで何度も目にしたり耳にしたりした記憶がある。知ったからといって特に何も意味を成さない言葉だけれど、この事実(的な何か)に怯えて生きてきたのもまた事実だ。
まだ十歳になったばかりの頃、小学校のクラスメートの人間関係に衝撃を受けたことがある。


二人組になれと言われたら当然のように組になるような二人だったのに、それぞれと話すと「あいつ嫌いなんだよね」と言うのだ。えっ、わざわざ一緒にいるじゃん。わざわざ、自分の意思で、互いを選んでるじゃん。その当時そういう言葉が思い浮かんだわけではないけれど、今言語化すればそのような意味わからなさに支配されたのは確かである。ツンデレとか悪友とかいうものではなくて、どう聞いても本当に嫌っている口振りだった。
もちろん、その後大人になっていくにしたがってそういう不可解な関係は周囲に増えたし、やがて「よくあるもの」と認識するようになった。
それでも、まだ十歳だった私は「すきだから仲良くする」「すきじゃないから近寄らない」の二つの選択肢しか持っていなかったし、「すきじゃないけど仲良いふりをする」という道を選ぶ意味がわからなかった。しかも、話せばすぐに「あいつ嫌いなんだよね」を引き出せてしまうような軽率さなら、当然既に互いに「本当は自分はあいつに嫌われている」と知っていただろう。そう知ったからますます屈折したのかもしれない。どこの集団にもリークする人間は存在していて、リーク先が先生なら「チクったやつ」が嗤われて終わるかもしれないけれど、当事者同士にリークする種類の人々は自分の立場を守りながら確実に人間関係を壊していく。アサシンのようだと思うけれど、誰に雇われたわけでもないのにそんなことをする動機は未だに理解が難しい。
昼間の教育現場に潜む暗殺者のことは置いておくとして、そうやって自分の思いと裏腹のことをして自ら不快感を増しているタイプの人間の存在を目の当たりにしたとき、私の中で世界に対する安心感がかなり派手に破砕されたことを覚えている。そのときに生じた他人に対する不信感は今でも私を脅かしている。

私の親はお世辞が嫌いだ。
嫌いになるだけの経験をしたようなのだが、私はお世辞でダメージを受けたようなことはない。親がしきりにアンチお世辞を表明したので漠然と「お世辞には気をつけなきゃいけない」と思うようになったし、そのおかげでお世辞に調子に乗って後で傷つくこともなかったのかもしれない。
でも、お世辞を言う人とお世辞を言わない人の区別の仕方は長らくわからないままだったし、結果としてその間に言われたほとんど全ての褒め言葉を聞き流した。私自身に嫌な経験はなかったので「どうせお世辞だろ」みたいなひねくれ方をしたわけではなかったけれど、褒め言葉というのを受け止めるのは危ないことだと思っていたからキャッチしなかったのだ。
先生は生徒をコントロールするために煽てるし、友達は友達に嫌われないために機嫌を取るし、学校の外では尚更おべんちゃらばかりである。そうでない人もいたはずだけれど、「お世辞かもしれない」という想定は素直な人たちの賛辞の価値も損ねることになった。
真に受けて喜んで後になって傷つくのと、褒められても嬉しく感じられないまま低空飛行で生きるのと、どちらがマシだったのか私にはわからない。嘘をつかない人とだけ付き合って素直に褒められて喜ぶのが最適解だろうけど、その環境を得るのは容易でない。

私は誰かとお近づきになりたがる人のことを苦手に感じている。
人を尊敬して憧れたからといってその人と接点を持つ必要はないような気がするのだが、好ましく思う存在と双方向に関心を抱きあって同化したいと感じるのはたぶん世の中では「普通」の範疇に入るのだろう。宗教でも信仰対象との一体化はしばしば試みられることだ。相手のことを自分の完全上位互換だと感じれば確かに同化してアップグレードしたくなるかもしれないし、全てとは言わずともほんの一部でもいいからその力の恩恵にあずかりたくなるのも不思議ではないのかもしれない。
でも謎の魔法も謎の科学技術もない現実では、祈りは無意味ではないにせよ、何かの力を手に入れるには自分が努力するしかないし、ましてや誰かに認識されただけで自分のステータスが上がるはずもない。私はそう思うけれど、しかしながらそう思わない人は世の中にたくさんいて、今日もせっせと相手に言葉の貢物を捧げて振り向いてもらおうと頑張っている。
死ぬまで一途に貢いでいられるならいいけれど、一度振り向いてもらえた相手には貢物をやめてしまう人が結構いる。絶対振り向いてくれないと悟ると関心を失う人もいる。その人たちがきらびやかな包装で贈り続けていた言葉の貢物の数々、その中身はいったい何だったのだろう。

この世は嘘で満ちている。それは誰もが知っている常識なのだろうし、そうなんだろうなと私も思っている。

私にも友達と呼べる人間がいくらかはいて、その人たちに何らかの裏切りをされたことは今のところない。嘘を言われたこともないと思う。そう思うだけで真実がどうかは知らない。私もその人たちに嘘を言ったことはないつもりだし、コントロールしてやろうと思ったこともない。
でも、そんな友人たちに褒められても心底嬉しくなったことはない。そうかな、ありがとう、と少女漫画にでも出てきそうな軽い微笑みで返しただけで、自信をもらうことはなかった。
嘘は言ってないけれど、真実を全部話したわけでもない。素直に話しているような顔をして、「陰で否定されたらショックなこと」は全部伏せていた。肯定されることを期待していないから、肯定してもらえる機会を作らなかった。友人たちもそうかもしれない。類は友を呼ぶと言うし、同じ程度に伏せている同士で仲良くしている可能性もある。
とはいえ信条について語り合うくらいには親しいし、個人的にはそれができれば人間関係として十分だから、物足りなさを感じたことはない。そもそも、そんな繊細なことは、人を信用していようがいまいが他人に言う必要などないのかもしれない。
それでも、もし嘘があってもダメージを受けないように工夫して生きているのは事実であり、嘘などつかれたことのない相手に対して「嘘をつかれても」と想定すること自体が不誠実なことのような気はしている。でも、この世は嘘で満ちているんだよなあ。

SNSやブログや匿名掲示板などで、人々の言葉は溢れかえっている。都合の悪いことを隠して都合の良いことだけを発信している人はたくさんいる。都合が良いどころか、最初から存在しない事実を語っている人もあちこちに蠢いている。それらを逐一判別するのは相当に困難である。判別できたとしても、そこにコストを費やす意味があるかは怪しい。
今一番頭を悩ませているのは、本当そうな見た目のきれいな嘘に対して、嘘と知らずに感嘆したときのことだ。その現象はそこかしこで見られて、嘘と見破った人が、そういう嘘に簡単に惑わされる人々を嘲笑っている場面も目にする。嘘を発信した張本人は尚の事だろう。あるいは、誰かから聞かされた嘘を嘘とは知らずにシェアしてしまって、思いがけずめちゃくちゃに叩かれて途方に暮れた人もいるだろう。
完全な嘘っぱちでなくとも「盛る」ことはいくらでもあって、むしろ盛っていないものを探す方が難しいかもしれない。人の目に留めてもらうには多少演出をしなければいけないかもしれないし、うまい盛り方は人を楽しませる力でもある。嘘じゃない範囲で盛るのが良識的だとは思うけれど、ウケてしまえば誘惑に負けてちょっとずつ踏み越えていくことになるのは想像に難くない。本来真面目だったはずの人でも、忍び寄ってきた魔の手に足首を掴まれて引きずり込まれることはよくある。

そんな嘘で満ちた世界なわけだけれど、その中を「どうせ」と言ってアイロニックに生きたくもない。何かに感嘆できたらその気分に浸りたい。こんなに感嘆したということを表現したい。

そもそも、創作とわかってさえいれば悩むこともないのだ。創作として素晴らしければ、(それが剽窃でない限り)騙されて幻滅ということにはならない。完全な創作物の中身が現実世界の基準で「嘘」になることはないのだ。創作物に対して存在する真偽は「自力で書いたかどうか」である。
それでも、「現実なのにこんなことがあったなんてすごい!」という評価基準を設けてしまうがために、世の体験談を勝手に信じて勝手に騙されたり、嘘を疑って感動する機会を手放したりすることになる。
ふと思ったけれど、どうして「現実なのにこんなことがあったなんてすごい」のだろう。いや、現実にはぶっちゃけありとあらゆるものがあるじゃんね。事実は小説よりも奇なり、という言葉はほとんど誰もが知っているだろう。事実だと証明されているものだけでも、気が遠くなるほど多種多様に非現実的な出来事が存在している。それなら今更何が起きても不思議ではないし、「現実なのに」ということにどれほどの意味があるのだろう。
もし、今目の前で語られた「いい話」がその人の嘘だとしても、似たようなことがこの世に存在しないとは限らない。というか、そこらへんの普通の人が思いつく程度のことはどこかにはあるような気がする。「その人の身に、本当に起こった」ということを前提として捉えるから変なことになるのであって、「そういうこともこの世界のどこかにはあるのかもね!」とだけ思えば何も不都合はない。
むしろ、「小説よりも奇なる事実」と同じくらいファンタジックなストーリーを思いつけたことの方が素敵なことかもしれない。その人が思いついたからには、きっとどこかに本当にある。そう思えば逆に楽しくなってくるし、誰のことも疑う必要はなくなる。(但し利害関係がない人に限る。)

どう頑張ったって、この世界で起きた全てのことを把握することはできないし、自分の身に起きたこと以外は「そうかもしれない」としか言いようがない。それ以上の確からしさを求めることに意味があるのか、もはや疑わしい。そこに意味が生じてしまうのは、ただ単に、自分が「現実なのに」ということを勝手に重要視しているからである。現実かどうかを基準に態度を変えるから、「騙された」ということになる。
そして、現実であることを重要視する大多数の人間からすると、嘘のエピソードがバズってそれを本当だと信じて感動する人がわらわら涌いてくるのは許しがたいことだろう。私自身その現象は気分が良くない。「本当だとしたら」という期待がなければバズらなかったであろうことを思うと、なんとなく「ズルい」と感じる。実際ズルいと言っていいことと思う。それで金が動くのなら尚更で、『一杯のかけそば』は許されるはずもない。

一方で、嘘だろうがなんだろうが、そのエピソードに何かしら心を動かしたのは紛れもない事実である。それだけはとりあえず確かなことで、嘘である余地がない。つまり、もし世界のどこかに本当にそのエピソード(に近い種類の何か)があればそれでいいわけだ。嘘つきが何かしらの得をするのは不愉快だし許すべきでもないと思うけれど、それとは別の問題として、「感動が無に帰した」という虚無感はそれで解決するのだ。
本当にあったら素敵だと思って感動したことが、それが嘘だったと判明したときに、「やっぱりそんなのないんじゃないか!」というちょっとした絶望感を勝手に抱くから怒りになる。嘘だとわかったときに証明されるのは、そのエピソードひとつが架空だったということだけで、「そういう美しいエピソードなんて現実には存在しない」などということではない。嘘のような本当の話というのはこの世にいくらでもある。嘘つきが思いつけるようなことは、おそらく本当に世の中に存在している。もう、それでいいんじゃないか。

(ただし、虚偽のエピソードの中でも「こんな酷い目に遭った」系の嘘の存在は要注意だ。その類の話は嘘だったときに困ったことになる人が必ずいる。「実際どこかにはあるんだろう」と安易に判断するのは偏見の元である。とはいえ無闇に疑うのも良くないし、要するに真偽が判明するまでアクションを起こさない方がいいだろうと思う。とりあえず、真実がどうであったとしても誰も不当に権利を侵害されないような言動を選択することを心掛けている。)

平然と嘘の関係を構築しているクラスメート、嘘の褒め言葉を許さない親、嘘の尊敬で言葉を貢ぐ人々、他にも嘘や嘘への嫌悪は多様な形で周りにあった。そういった存在によって、人の言葉の本当らしさを信じることは難しくなった。友情も感心も尊敬も、一枚皮を剥けばそこにあったのは嫌悪と嘲笑と自己顕示、という現実が確かにある。誰もがみんな嘘をついているかもしれないし、それなのに素直に信じて感動していたら笑われるかもしれない。そうやって笑われることは結構怖かったし、それゆえに「確かである」ということを強迫的に求めていたこともあった。この文章に感動した、と言ったときに、誰かの嘘によって台無しになるのが恐ろしかった。

ところが、その考えはだいぶ変化した。
人の言葉を再び信じられるようになる日はもう来ないのだろうし、来なくていい。この世に嘘が満ちているのは本当のことだ。そうわかっていて自ら無防備になる必要もないと思う。
人の言葉は信じられないが、しかし人間全部を疑う必要もない。急によく耳にする聞こえの良い結論みたいなものを持ち出してきて心苦しいのだが、一言で言うとそういうことだ。目の前の人間はもしかしたら嘘つきかもしれないが(なるべく本当だと信じたいし嘘だと判明するまでは本当だと思っておくことにしているが)、仮に目の前のその人が嘘をついたとしても、その人がつけるような嘘の内容は、どこかには本当にあると信じていい気がしているのだ。
もちろん、途中にも書き添えたけれど、利害関係がある場合は別である。嘘を信じたことによって自分が損をする羽目になるようなのは許してはいけない。自分の身を守ることが第一だ。被害の捏造も、人の権利の侵害に繋がるものであって、それを信じると誰かを傷つける可能性があるから判断には細心の注意を払う必要がある。
ここで言いたいのはそういうものではなくて、例えばSNSや匿名掲示板や投稿サイトなどで見かける綺麗なエピソードを信じるかどうかの話だ。嘘だったときに発生する諸々を考えると拡散に加担するのはやめておいたほうが賢明だと思うが、たまたま目に入ったものを自分の中でどう取り扱うかという判断はそんなに神経質にならなくていいのではないかと思うのだ。
嘘かもしれないし、嘘じゃないかもしれない。
盛ってるかもしれないし、盛ってなんかいないかもしれない。
いずれにせよ、こんな感じのことはどこかにはありそうな気がする。その可能性を思い描けただけで十分だ。
本当のことを盛らずに話している人からすると、そういう想定をされることがもう不本意かもしれないけれど、この世の中ではすっかり信じるのはあまりにも難しいのである。誰も信じてくれないのは私もきっと耐えられないが、一人二人信じてくれたらそれで御の字だと思っている。みんなに信じてもらう必要は恐らくないし、そもそも無理である。

嘘かもしれないものにいちいち感嘆したら馬鹿だと嗤われることもあるだろう。でも、その個別事例の真偽はどうであれ、どこかにあるかもしれない人の心の美しさに思いを馳せるのは自由だ。嘘みたいに美しい本当の話を、既に数えるのが難しいほど知っているし、「そんな綺麗な話はありえない」というペシミズムに今更浸る気はない。残念ながら近くには見当たらない可能性はあるが、どこかにはあると信じるのはおかしいことではない。
つまり、「君の言葉を100%信じることはしないが、君の言葉から得た自分の想像の実在性を信じている」という選択肢があってもいいだろうということだ。自分の中で現実と想像の境界ははっきりさせる必要があるが(重要)、嘘かもしれないものが自分の想像の解像度を上げてくれて、より本当らしいと感じることはありうる。
その選択を自分に許すことによって、感動を表現することに対して随分自由になれる気がしている。そしてその表現は、必然的に小説めいたものになっていくに違いない。「もしこうだったら」と「かもしれない」と「だったらいいな」のミルフィーユはほとんど創作活動であって、創作物として新たな価値を生んでいくであろう。誰かがつまらない自己顕示欲でついた嘘だって、自分の糧にしてしまえばこっちの勝ちだ。人の嘘をばらまくことに加担するのは好ましくないし可能な限り回避すべきだと思うが、自分の想像に転化してしまえばそれはもう自分にとっての真実になる。元ネタよりも自分のIFのほうが価値あるものになるかもしれない。もちろん、目にしたのが本当の話だったらもっといい。
もっともこういう考えは、普段小説を読んだり書いたりして人間の善性を思い描くことを人生の糧にしているからこそのことかもしれない。相容れない人もたくさんいるだろう。それはそれで構わないし、どうであれ人の人生の邪魔をしなければそれでいいと思う。

綺麗な話を信じたい気持ちがあって、それなのに裏切られてしょぼんとしたことのある人がちょっとでも元気になってくれたらいい、と願ってこの話を終えることにする。
 

2020/04/07

「こころのそっくりさん」を探す

noteを始めた当初は、一人でも多くの人の役に立つ何かを発信しようと考えて、「自分だからわかること」を書こうとしていた。
それも大事なことだとは今でも思うけれど、自分はそれを原動力に動き続けられるタイプではない、と後れて気がついた。
もっと言うと、「人の役に立つ」ということを本当に望んでいたわけでもなかった。
人の役に立っているっぽい人はキラキラしていて眩しいけれど、それは私にとって目標ではなくて漠然とした憧れに過ぎず、自分にできる自然な努力の延長にある姿ではない。


本当に自分が望んでいるのはなんだろう? と考えると、たぶん、自分とよく似た人間を見つけること、そして自分の言葉をそういう人たちの気に留めてもらえることだと思う。
私と近い感性を持った人が、私の言葉を引用して何かを語ってくれたら、それが一番心躍る瞬間だろうと思っている。
その人たちと個人的な繋がりを持ってコミュニケーションをしたいかというと、そういうことが嫌だと思うような偏屈な性格ではないものの、それが至高の喜びとなるかというとそうでもない。

**誰かが私と話すことによってセレンディピティを得て飛躍してくれたら嬉しいし、私も誰かとの対話によってそうなれたら幸せだ。**ただ、誰かとの「繋がってる感」にはあんまり関心がない。互いに好きなタイミングで「おい、何か発想を得たいから、刺激になりそうな面白い話をしてくれよ」と言い合えるような関係は持ちたいと思う。というか、自分の人間関係がすべて最終的にそういう形に落ち着いていったらいいだろうなと思っている。

とりあえずネット上の関係としては、自分が何かを書いて、それが自分と似た誰かを刺激すること、自分が自分と似た誰かの文章から刺激を得ること、相互にそれが起きていることを互いに意識してるっぽい状態、が多分一番心地良い。
話しかけて会話をするよりも、それぞれの文章の中で引用し合って持論を広げていったほうが双方にとって建設的で気分がいい場合もあると思うし、私はそういうタイプの人間のようだ。それも広い意味では「交流」の範疇に入ると考えているけれど、今まで経験してきた「交流」はだいたい会話というものが想定されていて、それはもちろん悪くないんだけれど、なんとなく私個人は不自由を感じてきた。
会話という格好になるとあれこれ余計な気を回して自由に発言できなくなる性格であることが大きいかもしれない。直接会って話すことが、会わないで文章をやり取りしている時より自由であったためしがない。
会話したいときに会話できる関係でありながらも、メインはそれぞれの思索を深め広げていくことにあって、それが相互に幸せなことであるのが理想、と感じている。

だから、自分と似た人の目に留めてもらえるように、自分の自然な言葉、自然な考えを素直に書いていきたいと思う。
そして、私の文章に対して「あ、自分と似てる」と感じた人が私の文章を引用して何かを語ってくれたらと願っている。それは私の考えを世に広めてほしいとかいうことではなくて、同じ波長の存在同士で何かを感じ合えたら幸せだと思うからだ。表現の全てで波長が一致するわけではなくとも、一部でも「似てる」と感じられることはきっととても貴重で素敵なことだと思っている。波長が似てるっぽい人々の間でゆるく存在を認識し合ってる状態を作っていきたい。

今はまだ自分の中のごく一部しか表現できていないし、世の表現者のごく一部のことしか存在を知ることができていない。
自分と似た人に気づいてもらえるようにせっせと書いて、自分と似た人を見つけられるようにせっせと読んで日々を過ごしていこう。
 

2020/04/06

貧乏性の私はEvernoteの活用に失敗し、やがてScrapboxに出合った

もう随分前のことになるけれど、私にはEvernoteを使っていた時期があり、一応毎日何かしらのことをEvernoteでやりながら、結局フェードアウトしてたくさんのものが死蔵されたまま眠っている。


そうなった要因はいくつかあって、まず思いつくのは「自分は情報をどう活用したいのか」ということが不鮮明だったこと。ツールで出来ること、が自分が思いつく活用法よりも機能的に豊かだと、それらをなんとかして使いたくなってしまい、余計なことをしだしてやがて飽きてうまく回らなくなる。それはツールを渡り歩く度に発生することで、自分の学習能力の乏しさに毎度頭を抱えてしまう。

ただ、Evernoteに関して言うならば、それが最大の要因ではなかったのだと後から気がついた。
何が一番の問題だったか。それは「月間アップロード容量」である。その制限に阻まれて自由にファイルを取り扱えなかった――のではなく、制限があるということそのものが私にとって障害になってしまったのだ。容量はいくらでも同じことになったに違いない。月間60MBでも、5MBしかなかったとしても、あるいは10GBあったとしても。「〜までできます」ということが貧乏性の私の判断力を著しく損ねてしまったのである。容量に余裕があるかどうかはほとんど関係がない。
貧乏性の人間が例えば「月間60MBまでアップロードできます」と言われたら、当然のように制限ギリギリまでアップロードしようとする。不要不急の音楽ファイルとか画像ファイルとかを詰め込む。まるで、遠く離れた大学に通う我が子に実家の親御さんが送るダンボール箱のように、隙間なく目一杯何かを詰めるのだ。それこそが有効活用で賢いやり方だと思ってEvernoteを物置のように使うことになってしまう。子どもに送るダンボール箱はみっちり詰まっていた方がいいかもしれないけれど、情報管理ツールに見境なくファイルを詰め込むのは賢明とは言えない。

もし、「探せば見つかるし整理は不要」と割り切れるのならあれこれ入れてしまっても大して支障はないのだけど、半端に神経質で「存在するからには整理したい」みたいなことを考えだす人間は、とりあえず収納するということがそのまま管理コストになってしまうのだ。
あくまで私の場合はという話だけれど、もし月間アップロード容量がなければ余計なファイルを「念の為」「せっかくだし」などと言ってアップロードすることはなかったし、60MBも使わなかったかもしれない。私が本来Evernoteでやりたかったことはテキストと少しのPDFの管理であって、そのために必要なのはたった数十MBだ。もしプレミアム会員になっていたら、金を払ったからにはとますます大変な混沌を生み出していたに違いなく、Evernoteの運営には悪いけれども踏みとどまってよかった。
もちろん、仕事や趣味の内容によってはガンガン大容量のファイルを扱わなければならないだろうし、ユーザー全員がそんな調子でEvernoteを使ったらパンクするだろうから月間アップロード容量の制限という仕組み自体が悪いとも思わないし、Evernoteでの失敗の原因は100%私の貧乏性にある。
(個人的には、月間◯GBとか◯ファイルの制限よりも合計◯GBの形の方が余計な効率を考えずに済むのでありがたいことには違いない。効率の計算はとにかく思考のコストがかかるのである。)

その貧乏性を常に意識できていたら良かったのだけれど、精神的に余裕がない(≒鬱っぽい)間はそういうことは思い至らなくて、ファイルの管理をうまくできない自分の無能を責めて苛立ってばかりいた。
そりゃ、そもそもそのツールで管理する必要もなく管理したいとも思っていなかったファイルが居座っていたら、邪魔だし煩わしいしうまい活用法だって見つかるわけもない。そこにそのファイルはあってほしくなかったのだ。
自分はこのツールをどう使いたいか、このツールとともにどんな生活をしたいか、というイメージを強く持ち、「詰めれるだけ詰め込む」という貧乏性に負けることがなければ、月間アップロード容量60MBのうちたった4MBしか使っていなくとも、「損した」という気持ちになんてならなかっただろう。
(とはいえ、Evernoteを使っていた当時は、デスクトップ版のフリーズの多さとAndroid版の機能の少なさで使用感に不便を感じていたので、このことがなくとも使い続けたかはわからない。)

そしてEvernoteをやめてしまってから何年もの間をおいて出合ったのがScrapboxだ。ちなみにその間の年月でも数々の失敗を繰り返し放浪し続けていた。
Evernoteとは根本的に違っていることが多々あるので単純に比較できるものではないけれど、私の場合は「あっ、Evernoteでやりたかったのはこういうことだったんだよ!」と思ったので自然と馴染んだ。
ページ数や残り容量の制限がないことも私に合っていたし、ファイルのアップロードができないことは今のところむしろプラスに働いている。
そしてそこそこの月日を経てScrapboxをだいたい思い通りに使えるようになった今、Evernoteのことを振り返り、そうか、私の弱点はそこにあったのか、と気がついたことが色々とある。今回フォーカスしたのは貧乏性のことだけれど、Evernoteの活用を邪魔した己の習性はそれだけではなかったし、整理がついたことから書いていこうかと思っている。
Scrapboxの良さや、自由であるがゆえの格闘の記録はまた別の機会に書くとして、今回はEvernoteのサービス形態が私に及ぼした思いがけない影響とそこから学んだ反省について書きました。
 

2020/04/05

誰かにとっての「今更」は誰かにとっての「今」だ、という今更のこと

人間が何かを体得していくには過程が存在し、最初の一歩を踏み出したばかりの人もいれば、もう何百歩何千歩何万歩と歩いている人もいる。
そして全ての段階で何かしらの感動・気づき・悩みなどが生まれていて、それをその都度発信したとしたら、必ず誰かは同じステージにいて内容に共感することだろう。
このことはとても当たり前のことと思うのだが、その一方で、そういう全ての段階に於いてそれぞれ行われるアウトプットを許容するのは思いのほか大変なことのようにこの頃感じている。


自分が既に先を歩いているときに生じる、「その程度のことを書いてどうするのか」「それは正確な理解じゃない」などという雑念を捨てるのが難しいのだ。相手が学生ならそんなことは思わないけれど、社会人と思しき人が書いたことだと無闇に判定を厳しくしてしまうことがある。
そして同時に、自分が何かを書き留めたいと思っても、もっとすごい人に怒られたり見下されたりするかもしれない、なんていう要らぬ不安(つまり自分が生み出した幻影)に苛まれて、自分の感じたことはあくまで自分の中だけのものとして半径15センチの世界に留まってしまう。

こんなひねくれたことは考えたこともない、あるいは、気持ちはわからんでもないがそういう感情に負けることはない、という人はとても素晴らしいし、全ての人がそういう泰然とした姿勢で生きていけたらいいと心から思っているのだけれど、悲しくも人生の早い段階で他罰的な考え方に汚染されたことがあるとなかなかそこから脱することができない。
その愚かさをもう自覚しているので、悪しき感情に襲われたら反射的に撃退してその感情に染まらないように自分の心を守って生きているけれど、悪しき感情がちらりとでも生まれてくる事自体が不本意だし、精神的に参ることがあると撃退する力がなくなって敗北することもある。そんなときはアウトプットしない、というのを最後の砦として、どうにか人の活動の邪魔にならないようにしている。

未熟な段階の「こうすればいいとわかった!」系の記事が世に出たときにおかしな悪感情に襲われるのは、それが自分以外の誰かの中で何かしらの影響力を持ってしまうのが嫌だからだと思うのだが、それは大抵余計な心配なのだ。(もちろん誤った情報はあってはならないし、所謂デマの類はここで想定している中には含めない)
その程度のことは自分だってわかってたと思うのなら、それはその時に自分も書いていればよかった話で、誰かの目を気にして黙っていた自分が愚かだっただけのこと。
同じような内容は既に溢れているし後から書いた人が何かしらいい思いをするのはずるいと感じるのなら、それは自分も一切いい思いをする資格がないということであって(自分にできることはほとんど全て誰かが既にやっていることのはずだから)、そんな不条理なことはないと気がつかなければならない。
これを鵜呑みにする人がいたら困ると心配するのなら、別に大抵の人は丸ごと鵜呑みになんかしないし、鵜呑みにしたところでそれが間違っていれば壁にぶち当たるのだからそれぞれ自分の責任で認識を改めていくし、いずれにしたって余計なお世話なのだと知る必要があるだろう。

感動や気づきや悩みは、ちょうど同じ段階にいないと鮮やかに共感することができないし、他の誰も自分が共感できることを書いてくれなければ、自分ひとりがちっぽけなことに感動したり今更なことにやっと気づいたりしょうもない悩みを抱えていたりするのではないかと不安になってしまうだろうと思う。
自分にとっての「今更」は、誰かにとっての「今」であって、全ての段階について誰かが「今」のものとして発信してくれることが、きっと皆の人生を豊かで安心なものにしてくれる。
なので、自分も自分にとっての「今」を書き残していかなければと思うし、それが誰かの「今更」であっても、また、誰かの「今」と重複していたとしても、気にすることはないのだと思う。自分の中だけで完結してもいいけれど、人の素朴な文章に気持ちが明るくなることはよくあるので、どうせなら外に出したほうが、ひょっとするとどこかに良いことが生まれるかもしれない。

2020/04/04

です・ます調は距離が近過ぎるのかもしれない

noteを含めどこかに何かしらを書くに当たって考えることのひとつが、「です・ます調」がいいのか、「だ・である調」がいいのか、というものです。


私は今のところ大方「です・ます調」で書いているのですが、世のnoteを読んでいて、スッと染み込んでくるのは「だ・である調」の方だ、ということを今更ながら実感しました。それは何故なのでしょう。

「です・ます調」がなんとなくオブラートで包んだようなものであるのに対して、「だ・である調」はストレートにぶつけてくる強さがあるからだ、と一瞬は思ったのですが(過去に誰かがそう言ったのを思い出したのですが)、どこか納得しきれないところがあり、私は少し立ち止まりました。
私が親近感を感じるのはどちらなのか、と考えてみると、むしろ「です・ます調」で書かれた文章の方なのです。親近感というか、「話者の距離が近い感じ」がします。世界のどこかにいる遠い人ではなく、自分が聴きに行った講演会の演壇に立っている人、くらいの距離。意思を持つ存在としての生々しさを感じるのは「だ・である調」である一方で、生身の人間であると意識するのは「です・ます調」です。
それは、自分の足でしっかと立っている力強さと、人と繋がりながら生きている社会性とが、それぞれ別種の「生」の力を示しているからかもしれません。心の存在感と、顔の存在感、と言えばいいでしょうか。
例えば、Twitterでは力強い表現が多く見られますが、メイクやスキンケアについて「〜しろ!」「〜するんだ!」といった形で語っているのを見ると、それは文字通り「顔」の話なのですが、どちらかというとそういうふうにサバサバと割り切って生きる心のありようの方に惹かれてしまいます。ところが、畏まったところのない砕けた表現でありながら、身近な感じがするかというとそれは然程ではありません。「(自分と近くはない)どこかの誰か」という距離感です。その発信者が会社の同僚の中の誰かかもしれないなどとは、たぶん思わないでしょう。
一方で、「です・ます調」は"丁寧な言葉遣い"と言われるように、読み手に気を遣い、時には寄り添うような雰囲気を伴います。気を遣っている対象は不特定多数ですが、読み手はそれぞれ書き手が自分に近づいてきてくれていると感じるように思います。反面、その書き手の本心や信念がストレートに届くことは、「だ・である調」と比べればずっと少ないでしょう(無いわけではありません)。話者の人格に左右されないような、事実の伝達に向いている語り方とも言えます。

そもそもの話、「です・ます調」は「だ・である調」を柔らかくしたものではなく、話し言葉と書き言葉という枠組みの差異があります(学問的に考えるとツッコミどころがあるかもしれませんが、とりあえず体感で言えばそうだろうと思います)
敬体の「です・ます調」に対して「だ・である調」は常体ですが、実際にそのように誰かに話すことはほとんどありません。書く以外で用いるのは演説のときだけです。先に講演会を比喩として出しましたが、演説と講演は違いますよね。社会とはこうである、こうあるべきなのである、などと論じるのと、あなたにこんなことを知ってもらいたいのですと語りかけるのとではコミュニケーションの形として大きく異なっています。
そこで考えてみるのです。

私は誰かに"語りかけたい"のだろうか?
いや、私はこう思ったと"言いたい"のだ。

自分の言いたいことにパワーを持たせたいというふうにはそれほど思わないので、なんとなく柔らかくしようとして「です・ます調」を選択しがちでしたが、「です・ます調」はただ語調を和らげてくれるに留まらず、"語りかける"という属性を文章にもたらしてしまうのです。
それによって、「誰に言っているんだろう」という疑問を引き起こすことになります。読者がそう感じることもあるかもしれませんし、何より書いている自分自身がうっすらそのような違和感を覚えることになるのです。意味もなく読者に近寄ろうとしてしまっている、という感覚です。ただ"言いたい"のにしては、人との距離が近過ぎるのです。
「だ・である調」ならば絶対に柔らかくならないのか、というと、そんなことはありません。敬体に頼らずとも温かみのある文章をお書きになっている方は世の中にたくさんいます。言葉に柔らかさを持たせたいのなら、語の選択を工夫することによってそれを実現する努力をせねばなるまい、と思った次第です。
そして何より、自分が読んでいて「ああ、いいなあ」と思うのは、常体で、且つ慎重に書かれた、信念や人生の滲み出る文章なので、自分もそのような形を目指したいという気持ちになりました。

ということで、この「誰に言ってるんだ」感の溢れる文章はこれで終わりにしたいと思います。
「です・ます調」のご利用は計画的に。

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