「わかる人だけわかってほしい」という幻想は叶うか
共感というのは怪物のようなものだと思う。
動じないために。
この世は嘘で満ちている。
とかいう言葉をどこかしらで何度も目にしたり耳にしたりした記憶がある。知ったからといって特に何も意味を成さない言葉だけれど、この事実(的な何か)に怯えて生きてきたのもまた事実だ。
まだ十歳になったばかりの頃、小学校のクラスメートの人間関係に衝撃を受けたことがある。
noteを始めた当初は、一人でも多くの人の役に立つ何かを発信しようと考えて、「自分だからわかること」を書こうとしていた。
それも大事なことだとは今でも思うけれど、自分はそれを原動力に動き続けられるタイプではない、と後れて気がついた。
もっと言うと、「人の役に立つ」ということを本当に望んでいたわけでもなかった。
人の役に立っているっぽい人はキラキラしていて眩しいけれど、それは私にとって目標ではなくて漠然とした憧れに過ぎず、自分にできる自然な努力の延長にある姿ではない。
もう随分前のことになるけれど、私にはEvernoteを使っていた時期があり、一応毎日何かしらのことをEvernoteでやりながら、結局フェードアウトしてたくさんのものが死蔵されたまま眠っている。
人間が何かを体得していくには過程が存在し、最初の一歩を踏み出したばかりの人もいれば、もう何百歩何千歩何万歩と歩いている人もいる。
そして全ての段階で何かしらの感動・気づき・悩みなどが生まれていて、それをその都度発信したとしたら、必ず誰かは同じステージにいて内容に共感することだろう。
このことはとても当たり前のことと思うのだが、その一方で、そういう全ての段階に於いてそれぞれ行われるアウトプットを許容するのは思いのほか大変なことのようにこの頃感じている。
noteを含めどこかに何かしらを書くに当たって考えることのひとつが、「です・ます調」がいいのか、「だ・である調」がいいのか、というものです。