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文章を書かずにいられない人間の話

日々何かを書き表して暮らすことを前提とした話。

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「文章を書かずにいられない人間の話」タグの記事一覧

2025/01/02

自分に定着させるために記事にする

 本にしろ投稿にしろ、誰かが書いたものを読むと「面白い!」と感じることがある。その気持ちはとても鮮やかな感じがするので、こんなにも感動するなら自分の心に刻まれたに違いないと思う。ところがどっこい、一週間もすればその煌めきは嘘のように消え失せ、何かに感動したはずだが何だったか思い出せないなんてことになる。


 もちろん自分の世界が変わるほどの凄まじい衝撃を受けたなら別だ。問題はそこまでいかない程度の「面白い!」で、それでもそう感じた時には自分の考え方が変わったはずだと錯覚する。実際には何もしなければあっさり忘れ去る。なので何かしら手を打つ必要がある。
 
 このような場合、自分の言葉で言い換える、ということが重要だとされる。それはそうだと思う。自分にとって自然な言葉で表現することが、それを自分の世界に存在するものとして取り込むためにまず必要な手続きである。
 ただしその手続きは自分の世界に入れるためのことであって、そうやって入れたものが定着するかはまた別の話に思える。そこに感動があったことは、言葉の変換だけでは必ずしも保存されない。感動を思い起こせるものならそれで済むが、そうではなかった場合には時が経つにつれ印象は薄れていく。
 自分の世界に元々あったものとの結びつきの強さにもよるだろう。そうなると初めてやって来たものほど――その瞬間の感動は鮮やかであるにもかかわらず――その後はいつの間にか存在感を失ってぼんやりしていたりする。定着させるためにはもう一歩何かをした方が良い気がする。
 
 言い換えにプラスアルファで何かをする必要があるとすると、やはり何が前提でどの部分を面白く思ったのかという、感動そのものの情報化だろう。
 その時点ではその対象を見ればまた同じように感動すると思ってしまうのだが、案外そんなことはなく、頭の中で何が活発になっているかによって感動は大きく左右されてしまう。同じ本を時間を置いて読むと毎度新たな発見と感動がある、というのはよく言われることだ。
 日記を書く習慣がある人は日記に書くのと同じようにすればいいし、SNSに感想付きでシェアする習慣があるならそれでも良いだろう。個人的にはそういう手段だとサボってしまうので感動の情報化自体にもう少しうまみがあった方がいい。
 いずれにしても未来の自分が読めるもの、イコール自分以外の人間が読んでわかるものにしないと後から困る。となると、もう記事にしてしまって自分のサイトで公開するのが良い。当然手間はかかる。しかしどうせ手間をかけなければ定着しない。一方で手間をかけすぎるのも現実的ではない。肝心なのは「忘れ去らない」ことで、記事の完成度にこだわるのは目的を逸脱している。その点、自分のサイトなら記事として中途半端でもまあ構わない。むしろ頑張りすぎずに書く訓練としてちょうどいいかもしれない。
 
 記事を書いたからといって、それだけで感動が永久に鮮やかなままというわけではない。しかし「その時点の自分」を感動の対象とともに保存することによって、読み返す度に感動を追体験できる可能性が高まる。「その時点の自分」の保存が重要である。
 自分自身が変化してしまうと、一度感動を覚えたものでも同じ感動を蘇らせることはできない場合がある。当時何が刺さったのか、不思議なほど思い出せなかったりする。だから自分自身のスナップショットが必要で、それは文章で書き表すことによって残すしかない。全ての瞬間のスナップショットを残すことは無理でも(そもそもそんな必要はない)、「面白い!」の瞬間くらいは残しておいた方がきっといい。 

2024/12/17

虫眼鏡を当てさえすればよい

 最近ちょっと書くことに調子づいてきたので、次は何書こうかなと少しうきうきした気持ちで考えた。


 しかし「何を書くか」というふうに考えるとあまり思い浮かばない。「何を…何…何というと何もないな…」みたいなことになる。次々書けている時は「何を書くか」ということは考えていない。他の人はわからないが、私はそう。
 自分に「何を書くか」と問うてしまうと、答えとしては「書くに相応しいこと」の中から捻り出さざるを得なくなってしまう感じがある。「適当な何か」という答えは出せない。そう答えられるように柔軟性を訓練しておかない限り。
 しかしながらそもそもの話、書くに相応しいとはつまり「新しい何かを含む存在価値のある文章」というようなことになってしまうが、普通に考えてそんなに新しいことは言えない。もちろん次々新しさを提示できる人というのは存在するが、それでもいつかは枯渇するパターンが多いし、そうでなくともそんなごく限られた天才の在り方は参考にならない。
 新しいことは、言おうと思って言い続けることはまず不可能だ。
 それでも、多くの作家やブロガーはなんだかんだずっと書き続けていて、常に何かしら新しいことが含まれているように思える。新しいと言っても別に「この世界に初めて誕生した前代未聞で唯一無二の考え」である必要はなく、書き手にとって、そして読み手の多くにとって「今まで考えたことなかったかも!」となれば十分だ。これまでこの世に生まれ死んでいった人間の数というのは一体何桁になるのか見当もつかないが、それだけの人間が存在してきたわけだから、生き方考え方に関する大抵のことはどこかで誰かが言っている。完全に新しいものは新しい事実が生まれる学問領域にしかないだろう。
 多くの書き手は「新しいことを言うぞ」と気負って書いているようには思われない。もっと淡白に、なんか書いてたら面白くもなった、という雰囲気のものが大半だ。変に「新しいだろう」と言わんばかりに書くと、それが別に新しいものではなかったり、時を経て新しくなくなったりした時に魅力が消え失せてしまう。
 要は、新しいことを書こうなんて思っていないところにも、真剣に書きさえすれば新しいことは生まれるのだ。むしろ、新しくないし大した意味もないようなところに何らかの新しい意味が生まれ出ることの方が楽しいし、素朴な感動がある。
 NHKの「チコちゃんに叱られる!」を見ていて痛感するが、普段私たちは本当にボーっと生きているし、いちいち物事を気に留めてはいない。真面目で誠実な人でもほとんどのことはスルーしている。そもそもこのことは人間性とはあまり関係がない。そして、別にボーっと生きていちゃいけないということもない。この番組では「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叱られるが、何も本気で「そうであってはならない」と突きつけてきているわけではない。単純に、あらゆる事物には経緯と意味があるのに私たちはそれにあまり目を向けていないよね、というメッセージを発しているだけだ。番組の調査結果の正誤もそのメッセージの前では比較的どうでもいいことである(もちろん間違ったことを流してもらっちゃ大迷惑なのだけれども)
 何が言いたいかというと、どんなことにも虫眼鏡を当てるだけで多くの人にとっては新しいことが現れるということだ。書き手によって虫眼鏡の倍率は違っており、いつも1.1倍にしか拡大しないようではあまり意味を成さないが、10倍に拡大するなら何かはそこに見えてくるはずである。世界にとって新しいことではなくとも大抵の人が見たことのない景色なら、趣味の書き物としては十分だろう。
 となれば、何かしら書きたいとなった時に考えるべきは、「何を書こうか」「何を言おうか」ではなく、「何に虫眼鏡を当てようか」ということになる。何に虫眼鏡を当てても何かはある。何かを見出すまで倍率を上げ続ければ良いのである。
 

2023/11/21

書くことは自分を世界に出現させること

 こちらの記事を読みました。


 いろいろ驚きや共感するところがあって面白かったです。
 

書くのが好きだから書く、しかない

僕は中学生のころ学級日誌に思ったことを書き綴るのが好きだった。
 この一文でもう面白い。自分の人生にはなかった選択肢だからだろう。
 自分を振り返ると、昔はあまり書くことが好きじゃなかったなと思う。文章を書いていた記憶があまりない。ちゃんと日記とか書いていたらどんなに良かったかと今は大変に後悔している。
 ただゲームのプレイログ(その時々のデータとか計画とか)はたくさん書きつけていたので、「紙に何かを書く」だけなら人よりやっていた方かもしれない。
 
けっきょく自らそれを払拭することはできないまま時代は移ろい、ブログで収益を得ることも、Googleに気に入ってもらって多くの人に読んでもらうことも以前より格段に難しくなった。そもそも動画を楽しむ人が増えて、日常的にブログを読む人が減ってしまったという感覚がある。強制的に「書くのが好きだから書く」しかなくなったわけだ。
 「書くのが好きだから書く」しかなくなった、というのはその通りですね。もはやブログには悪魔の誘惑はない、という感じがする。強いて言えば承認欲求が満たされる機会を得られるというところはあるけれども、他の手段より効率が悪いし、本当に承認欲求を満たしたいのなら別のことをしようとするだろう。
 この先、「それでもブログを書く」という奇人変人がどんどん凝縮されていき、ブログというのは異様な迫力に満ちた謎空間になっていくのかもしれない。そうなったら面白いなと思う。今のところ、noteはまだ読者に媚びる余地があるから平均して変人度が全然足りない。変人にとって住みよい環境ではないと思う。
 

書くことは自分を世界に出現させること

必要に迫られなくても僕は文章を書きたい人なんだろうし、たぶんそれが僕にとっての存在証明のようなもので、大げさに言えば書くことをやめたら僕はこの世界から消えてしまうような感覚に陥るのかもしれない。たしかのらてつ(@Foam_Crab)さんが似たようなことを言っていた気がするんだけど、どんな文脈だったのか、それがいつ、どこでの発言だったのかはっきりとは思い出せない。
 言及いただきありがとうございます! 確かにそんなことを言った気がする。そう思いつつすぐには思い出せなかった。
 これかなというのを二つ見つけた。
ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~
世に訴えたいことがない割に世に向けて表現をしたいとはどういうことなのか。抽象的に言うならば「エネルギーが内に向かって生まれているから」ということになるが、つまり自分の内面を描写したいのである。自分の内面を認識することに自分の思考の多くを割いてしまう癖があるために、そこに形になる成果が生まれないと割に合わない。自分のことをそっちのけで他にエネルギーを費やす才能は私にはなく、エネルギーを自己の内面に振り分けてしまうことが避けられない以上はそこに価値を生み出せないと困る。
 これか、
https://twitter.com/Foam_Crab/status/1700491237864939725
自分が感じたことを書いて発表するというのが、自分を世界に出現させることそのものと感じていて、自分の心のためにやるしかないから駄目って言われたらしんじゃう、という感覚
 これだろうか。後者のツイートの方な気がする。
 このツイートについてはすっかり忘れていたけれど、いつどこで言ったかなと考えながら皿を洗っていてふと思い出した。具体的な文言は全然思い出せなかったので、この時コウさんとやり取りが発生したはずだという記憶から「from:Foam_Crab to:koh_izuremo」で検索して探し出した。
 
 ちょっと大袈裟な表現をする文化に身を置いていたのでそれを引きずった言い回しになってしまったけれど、でもまあ、正直に言い表すならやっぱりそんな感じだなと思う。書かなくても生き物としての私は死ぬまで生き続けるけど、でも書かずにいられない私は、書かなければ生きながら死んでいるも同然だと感じる。この世に存在していなくてもいいよねという。そこにしか自分の輝きみたいなものを自分で見いだせない。
 そういえば「発表」という言葉をこの時使っていた。まあやっぱり、そうなんですよね。世界と接続するものとしての公開であり、それは「発信」とか「アウトプット」とかではなく、世界にある小さな舞台に立って「私はこういうものを持っているんですけど」と「発表」する。それによって、私ははじめて世界に姿を現すのだ。(私にとって日常生活の方は擬態であり、隠蔽である。)

2023/11/19

なんてことないことを書くということ

 今月はのんびり進行。


 先月までは爆速で色々書いていたけれど、今月はいくつかの理由によりメインのブログの更新はしないでいる。

  • 先日公開したサイト(Noratetsu House)の改良や過去記事の移転作業をやっている。
  • Evernoteや古いTwitterアカウントのデータなど昔の情報を整理する作業をしている。(エクスポートしたり処理のためのコードを書いたり)
  • 非常に不安になる出来事があってリズムが崩された。
     多分三番目が最も影響しており、変なことがあると創造性というのはすぐ潰えてしまう。端的に言って理不尽な存在に意味わからん要求をされて疲弊した。倫理観に自分と一致するところを感じない相手は本当に恐ろしい。
     
     そんな中でも更新を続けていたものもある。サイト内コンテンツの「茶の間」である。
  • Noratetsu House: 茶の間
     毎日1~2本の短文を追加している。それ以上のペースで書いているのでどんどん溜まっている。
     書いている内容はなんてことないというか、ごく個人的な思い出話のようなものだ。今のところ音楽の話が多い。特別音楽が好きというわけでもないが、これまで語る場所もなかったので、書いていて面白い。ここまでの人生で様々な曲から様々なことを感じていたはずだが、それを言葉にはしてこなかった。だから改めて言葉にしてみるということが面白く感じられる。(ポジティブな話ばかりではないけれども)
     読む方が楽しいかどうかはわからない。別にそんなに楽しくなくてもいいと思って書いている。何かに役立ててもらうための文ではなく、ただ自分の呼吸の結果として吐き出されているだけの文だからだ。
     
     手本としているものはある。Tak.さんのブログだ。
  • Word Piece >>by Tak.:SSブログ(旧)
  • Word Piece(現)
     昔の方の一番最初の記事から読んでいって、まだ全部は読めていないけれど、とても刺激を受けている。面白いと思う。
     その面白さというのは、あっと言わせるオチがあるとか、胸を深く抉るとか、そういう騒々しいものではなくて、言ってみればちょんちょんと心をつついてくるような形のものだ。「ぼくはこう思うんだけど」と言ってちょんちょんつついてくる。あんまりつつかれたことのないところをつついてくるのでウッと身体を捩ってしまったりする。あるいはクスッと笑ってしまったりする。そういう感じ。
     じゃあそういう面白さを目指そう、とか思っても、それはTak.さん固有の人生経験と類まれな感性から滲み出るから面白いのであって、目指してできるものじゃあないと思う。だから「ああいう面白さを真似したい」とは考えない。
     肝心なのは、「自分から滲み出させる」ということに真剣であるかどうかだ。滲み出た結果がどういうものになるかはわからないけれど、前提として「滲み出させる」ことに真剣でなければ面白くはならない。取り繕わないこと。他人のことの前に自分自身を見つめること。自分の感じたことを言い表すために労を惜しまないこと。
     
     ブログを開設して、あるいは投稿サービスにアカウントを取得して何かを書こうとする時、自分の関心や強みの最前線を表現しようとしてしまいがちだと思う。なぜなら、埋もれないため、書き続けるためには、少なくとも自分の中での最前線を走り続けないといけないような気がするからだ。自分の中で最前線でないなら世界にとっても最前線でないのだし、そこに価値を見出してもらうのは難しい。それはそれで、ひとつの真実だと思う。
     でも、そもそもみんなが最前線でいたいと思っているわけではない。新しい情報として価値があるのは確かに最前線かもしれないけれど、私たちはあらゆる最前線に関心を持っているわけではない。新しくなくても面白いものは面白い。太古の昔からあるものでも、自分の視界に入ってこなければ自分にとってはなかったのと同じだし、それどころか同じものを何度見ても面白かったりする。
     変わらないし新しくもない、だけどみんなが知っているわけでも気づいているわけでもないもの。あるいは、みんなが同じように思うわけではないゆえに、自分と同じように思う人がいることを知るだけで喜びになるもの、そういったものを人間は表現し続けなくてはならないと思う。そういうものはAIに書いてもらってもしょうがないのだ。
     
     手始めに、自分の人生に関わってきた何かについて自分が感じたことをそのまま書いてみようと思って、今「茶の間」にそのような文章を増やしていっているところだ。
     前のバージョンの「茶の間」には「ブログやSNSには書きづらいこと」を書こうとしていたが、それがどういう意味で「書きづらい」のかが重要で、「大っぴらに書くとリスクがあること」はやっぱりやめた方がいいし、それより「書いてもまあいいんだけど情報として無意味すぎる気がすること」にスポットライトを当てようと思ったら随分書きやすくなった。そういうのでいいと思う。
2023/10/29

際限なく書けることを自分に示したい

 最近すいすいと文章が書けている感じがする。
 波に乗って二ヶ月ちょっとくらいはノンストップで書いているのだが、今までにない自由さと手応えを感じている。


 
 楽に書けるようになった理由や「楽に書けている」という状態の詳細は少し前に書いた。

  • なぜか文章を書くのが楽になった
     一言でまとめると、昔好きだったものに触れ直してワクワクする心を少し取り戻したことにより、すーっと息を吐くように自然に文章化が進むようになった、という話だ。
     大体こういう話を書く時は、「しがない辺境ブログのくせにな~に言っちゃってんだか」みたいな声が自分の内からガンガン響いてくるのだが、「継続的な読者が一人でもいればいいのだ!」と決め込んで構わず書くことにしている。何事も、たとえ見せかけでも堂々としているものの方が面白いはずだ。
     

連続投稿で力尽きた経験

 さて言い訳はこの辺にして、今回も開き直っていきましょう。
 二日に一本くらいのペースで、時に数日連続で投稿しているが、全然無理している感じではない。毎日書かなきゃと思っているわけでもなく、書けるものを書こうとした結果このペースになっている[1]。この先もこの調子で続けていきたいと思っているわけでもない。書く気分じゃなければ休めばいいと思う。ただ、多くても一日一本しか書けないと考えた時に、どんどん書いていかないと私の頭の中身は表現しきれないと少し恐ろしくなってせっせと書いている部分はある。
 以前にも二週間くらいなら毎日投稿みたいなことをしたことがある。時間的に余裕があった時期のことだ。頑張ったが、二週間できたなら一ヶ月でも続けられるし一年でも続けられる、なんてことにはならなかった。心底書きたいことを書いていたわけでもないから一本書くのにもいちいち苦労し、二週間で自分の気力を使い果たして、次に書けるようになるまでには二週間どころでなく時間を必要とした。
 ネタというのは無限ではないし、ネタが生まれる土壌がなければただただストックを使い果たして終わりなのである。書き続けられるかどうかというのは、文章術がどうこうより書く題材(自分が実際に書ける題材)を切らさないでいられるかの問題であろう。
 

140字書けるなら2000字書ける

 ネタを切らさないということを考えると、「大量に溜めてある」か「常に湧き出てくる」か、そのどちらかに注目するものと思う。まず「ある」状態が必要なわけだから、「既にある」か「今生まれたからある」かいずれかが必要になることは自明だろう。
 もちろんそのどちらかがないとどうにもならないのだが、もうひとつ重要なのが、ネタを諦めてしまうかどうかだと思う。大量にネタらしきものがあったとしても、書けそうになければそれは無いのと同じである。諸々の条件が整うことによって蘇る時が来る可能性はあるけれども、その時が来ない可能性も当然ある。
 で、すいすい書ける人というのは、思いつくネタ自体多いかもしれないが、すいすいとは書けない人が諦めているようなネタを使って書けるというのもあるんじゃないかと思っている。
 自分比で考えると、前ならせいぜいSNSにポストして終わりにしていたような話を、今は記事にしてしまえるだろうと感じている。140字書けるなら2000字書けるだろう、という調子である。むしろ140字書けるくらい何かしらの思いがある話ならちゃんと書かないと駄目だという心境になっている。今はというのは、具体的には今年の八月からである。
 
 140字から2000字にするという時、増えた1860字は「水増し」なのだろうか? いや、そんなことはない。140字で何か言えた時、十分に言えているような気がしても意味の伝達としては決して十分ではない。哲学者の名言を見ても一般人にはそれだけでは何を言っているのかわからないのと同じように、文脈を共有していなければどういう意図で何を言っているのかは伝わらない。たまたま同じ文脈を知っている人が「そうだそうだ」と言ってくれるかもしれないが、それはどう考えても多数派ではない。別な文脈に乗せて納得したつもりで「そうだそうだ」と言っているかもしれない。
 よって、人に伝えたいなら得心に導くように文脈をすり合わせる過程が必要になる。それが増えた1860字分であり、そのくらいは増えてしまうものであろう。人に伝えたいと思っていない、ただ「言いたい」だけならば140字で終わってしまい、それがブログに投稿できるサイズになるとは判断できず、ただSNSの大海の中に消えていく。
 

打てる球があったら打ってみる

 話は変わるが、使うネタを厳しく選別しているような時、それでもちゃんと書こうと思うものは相当気合が入ったものになる。それを書いて発表しても自分は侮られないだろう、と信じられるものであったりする。隙のないものを目指したり、自分のオリジナリティの演出に尽力したりして、すごく頑張ることになる。
 別にそれがおかしいことなわけではないし、素直に等身大のものを書くのがいつでも正解というのでもない。背伸びが枷になる人はやめた方がいいというだけのことで、背伸びこそ傑作を生むのに必要な姿勢だということも普通にあると思う。権威や伝統はその種の努力で今に至るまで守られている。
 で、背伸びが合うか合わないか、ネタを厳選すべきかそうでないかは各々見極める必要があるだろう。自分にホームランしか許さないとして、それが自分自身にとってプラスに働くのかどうか。
 私自身はと言えば、そんなに「書くならホームランに」と思っていたつもりはなかったのだけれども、それは「他人からホームランと見なされる」ことを目指してはいなかったというだけで、自分の中で「過去最高」を目指していた節があった。前に進みたいという気持ちが強すぎたのだろう。そうなると、一年前なら書けたものが今年は書けないといったことが生じうる。
 しかも、「この程度のはもう書いてちゃいけない」という判断は自分の勝手なもので、その内容が実際に他の人にとってつまらないかどうかとはまるっきり関係がない。他の人を豊かにできたかもしれないものを捨ててしまう可能性があるのだ。
 成長し続けられたらいいと思いながらも、成長を自分や他人に証明しようと躍起にならないこと。打てる球があったらとりあえず打ってみる。ホームランにならなくて良いという意味で「ヒットを打とう」と言いたいが、ゴロやファウルでもいいと思う。それがブログであろう。
 

正直な話

 正直に言うならば、私はとにかく書き続けられる人間になりたいと思っていて、長年「そうなれるはずだが何かに足を引っ張られている」と感じていた。つまり書く能力自体がないのではないと信じていた。その感覚は正しかったと自分に示したいという気持ちがある。
 ただ書くなら誰でもできる、無価値なものを書いてたってしょうがないだろう、という話はそれもまあ真実だろうと思う。なので、自分が書くものが「この世に生まれてよかったもの」となることを目指す意志はある。
 ただまあそれはそれとして、私にとっては城を築いていくことが第一なので、私はこういうものですと言ってブログを見せた時に「よくわからんけどなんかすごい感じがする」というふうになるように、とにかく建設工事をバリバリ進めていきたい。そして進めたい時には当たり前に進められるという自信を得たかったのであり、それを今得つつあるところである。


  1. 当然のことではあるが、記事を書くことに時間を積極的に振り分けているということは他の「やらなくても大丈夫なこと」はやらないでいるということだ。どれほどやる気があっても残念ながら時間が増えるわけではない。 ↩︎

2023/09/09

脱「運頼み」の道のり

こちらを読みました。


自分の文章の書き方の話は後で何か書こうかと思いますが、その前にコウさんのお話についてちょっと考えたことを書いてみたいと思います。
共感するところが色々ありました。
 

おまおれ

僕は割と文章を書くのは苦にしないほうだが、すらすら書けるときとまったく書き進められないときのムラがありすぎるのがとてもつらい。
これは私もそうです。月単位で手が止まることもしょっちゅうでした。
書けなさを主観で測るとすれば、継続的に書いている人でも結構そういうことは多いのではないかと想像します。しかし書き進められなかったものは世に出ないので(そして世に出た時点で書き進み終えているので)、人の文章を読んでいるとみんなすらすら書けているような気がしてくるというのは一つの罠だなと思ったりします。
例えば月に一本しか書かない人がいたとして、読み手の方は「この人は仕事が忙しいのだろうからそういう頻度でしか時間が取れないのだろう」というふうに考えると思います。その限られた時間でさっと書いて投稿しているのだろうと。でも本当はたっぷり時間を取った上で「どうして自分はこれしか書けないんだ」と苦悩しているかもしれないなと思いました。
 
たとえば、今書いているこの文章を書き始めようとしたとき、僕の頭の中にあったのは、まぁ一回自分の文章の書き方を考えてみるか、ということだけだ。
つまり書き始めてから、何を書くか考えながら書いている。だから、このあとこの文章がどう展開するのか、どういうオチがつくのか、自分自身でわかっていないのである。
私は大体いつもそうです! なので私も基本的にはアウトラインを必要としません。後から「この話もするんだった」という後悔がなるべく生じないように「触れておきたいこと」をアウトライナー上に並べることはありますが、それで文章を構成しているかというと、特にしていません。
Dynalistで文章を書くことはあります。しかし、それはもっぱらアウトラインのためではなく、文の子項目にその文の補足情報をぶら下げたりするためです。前にDynalistの話をどこかに書いた時に、アウトラインを組み立てるならこう書く、というようなことを確か書いたことがあるのですが、そうする時はそういう形式でやるようにしたということで、実際に個々の記事でアウトラインを組むことはあんまりありません(その時点ではアウトラインを作って書くことを基本にするつもりでしたが、早々に諦めました)。長期連載を試みるなど大きなフレームが必要となる時にアウトライナーとしての力を発揮することはあるのですが、それは私の書く活動の中ではごく限られた機会です。
また、トンネルChannelやブログに投稿した時に見出しを付けることが時々あるものの、それは一通り書いてから「ここで話変わってるし見出しにしておこう」と思って区切っているもので、事前にはそういう構造は決まっていません。
 
そして、いま3時の休憩にまた続きを書こうとしてるのだけど、もう手が動かない。昼休みにすらすら書いていた僕が何を考え、どう書き連ねようとしていたのか、もうわからないからだ。
一度に書き切らない場合は、未来の私は過去の私が既に書いた部分を読んで新たに思いついたことを書いています。過去の私が書きたかったことを思い出すこともありますが、そうでないことの方が多い気がします。
どうしても書きたいことがあればメモしておいて未来の私に託しますが、そういう熱意に燃えているわけではない記事は、単に「記事の体を成すまで足す」ということで文章の形になっているに過ぎません。
 
コウさんがお書きになった内容だけ見たところではこのように私と同じだなと感じるわけですが、一昨日のうちあわせCastでTak.さんが仰っていたように、だからといって本当に同じかはわかりません。「そうは言うけど結構書いてるじゃないか!」という声が聞こえてきそうな気もします。
なので、私が勝手に似ていると思った自分の性質について書いてみることしかできませんが、それでも無意味ではないと思ってまず書いてみたいと思います。(無意味ではないだろう、というのは尻込みする自分に対してよく使うおまじないです。)
 

ずっとムラに苦しんでいた

私もずっとムラに苦しんでいて、比較的継続して書けるようになったのは「のらてつ」という名前を用意してからのことなのですが、つまりここ二、三年くらいの話です。具体的には、(自分の話になりすぎてすみませんが、)ブログで「ブログの書き方ド下手問題」というシリーズを書き始めてからです。
それ以前のことは誰も知らないわけなので、恰も昔から「このくらいなら書ける人間」であったかのようになってしまうかもしれませんが、実態は全然違います。
 
コウさんと(多分)同じように、私も「文章を書くのは苦にしないほう」です。書く流れに乗れる何かがあれば、乗っていれば書けるタイプです。
問題は「書く流れに乗れる何か」との出会いが運頼みだったことです。人が読むことが前提の投稿記事を作って公開するとなると、公開するに十分な記事を作れる確率というのが大変に低くなってしまって、そのことにずっと苦しんでいました。続けられなくて潰したブログがいくつもあります。今更新しているブログはかつてからすると奇跡的な継続具合です。
 
変わったことは今思いつく限り二点あります。ひとつは「まだ解決していない自分の問題について書き始めることを自分に許したこと」です。もうひとつは「自分のためと人のためを分離して考えるようにしたこと」です。
 

まだ解決していない自分の問題について書き始めた

私の転機というのは、Tak.さんと倉下さんに認知いただくきっかけになった「アウトライナーの使い方ド下手問題」という記事群もそうですが、書き始める時点で全然解決していない自分の問題について書きながら考えることを自分に許したことにありました。
それさえ許せば、私は問題だらけの人間なので、なんだかんだ書けることが絶えません。普通は例えばエリアを三分割した方眼ノートに現状と分析と解決策を整理して自己解決して済ませるものなのでしょうが、その過程を恥ずかしげもなく文章にして公開しています。自分の解像度を上げて問題を発見すれば記事が増えるので、自分に下手なことがあるということに喜んでいる節すらあります。
解決していない時点で書き始めてしまうので、書いた結果解決するかどうかは全然わかりません。ちょっと考えたくらいですんなり解決されても、じゃあこれまでのウン年の悩みはなんだったんじゃいという話なので、解決を試みはしますが解決が記事のゴールというわけではありません。今思いつくのはこれくらいだ、というのを言葉にできたらそれでいいと思っています。
人に見せられるような文章を書こうと思いながら書いているうちになんとなく良いアイデア・良い解釈を思いついて解決してしまった、ということはあるので、それは書くということがなせる業だと思っています。一応「現状の描写」だけではなく「解決を試みる」ということを念じてやっているので、思いのほか脳みそが頑張ってくれるのかもしれません。
 

自分のためと人のためを分離した

とはいえ、自分の問題だけをテーマにし続けられるわけではありません。他にも「書けそうなこと」はあるわけです。何かを見れば何かを思うので、それについて書けそうな感じがしてきます。できれば書きたいと思います。
そうなるとまた運頼みになってきてしまうのですが、それでは困るので、「書ける」「書けない」の境界はどこにあるのかというのを考えました。そして、ひとつの線を見つけました。それが「自分のため」と「人のため」のラインです。
 
これは事前にアウトラインを組めるかどうかとも関わるのですが、「自分のため」と「人のため」では「書く」という行為が持つ意味がおそらく全く異なります。
「自分のため」に書くという時は、大体「言語化されるべきものが言語化されていないこと」に自分の苦しみがあって、それを解消するために言語化を試みる、という動機になると思います。自分は何を感じているのかを解き明かしていかなければならないということです。
何かを理解するための文章もそうです。材料を集めて、そこから何が言えるのかを必死に言語化していく過程で、やっと自分自身がそれを解る、そのためにやるわけです。そこに何があるのかが事前にはわからないので、前もってアウトラインを作ることはできないでしょう。
箇条書きで言語化していくならアウトラインの見た目にはなりますし、それを操作すれば実際にアウトラインになるでしょうが、文章の形で吐き出した方がスムーズな人間にはその過程は要らなくなってしまいます。
 
一方、「人のため」の文章はそうではありません。「人のため」に書くという時は、他の人が知っていたら良いであろうことを既に自分は知っていて、それを伝達しようとして書きます。伝わるように逆算して文章を構成するのでアウトラインを作れるということになります。
「本を書く」ということも基本的には既に自分の中にある「伝えたいこと」を形にするためにやることのはずなので、構成するということが可能であり、必要なのだと思います。
 
となると、もしも「アウトラインを作ってそれに沿って書く」ということを「書く」ということの理想形とするならば(もしもの話です)、それはつまり「人に伝えるための文章を書く人間」になる必要があるような気がします。伝道師になるということです。
でも、アート的な、「自分の中にあるものを取り出して形にする」ことを「書く」ことの目的だとするならば、それはアウトラインの出る幕ではないかもと思います。文章を整える作業場としてアウトライナーの機能は十分役立つと思いますが、アウトラインを作るという工程はそもそも存在しないかもしれません。
こういう区別をするようになって、「文章を書く」と「アウトラインを作る」の結びつきは私の中で密接なものではなくなりました。
事前にアウトラインを作るという工程がほとんど関わらない領域というのがあって、しかも自分はそれをやりたい人間で、そうなるとアウトラインがどうこうとは全然別のもので自分を牽引する必要が生まれるように思います。例えば、どんな脱線をしてもひとつの記事としてまとめられるはずだと信じてフリーライティングをしてみる、というように。何かを自分の中から取り出すことにもエンジンが必要だからです。
 
こんなことを考えました。
ちなみにこの記事もアウトラインは作っていません。なので話のゴールは事前には全然わかっていません。書いてみたらこうなった次第です。
コウさんの記事を読まなければ明快に整理されてはいなかったことなので、ご投稿に感謝しています。

2023/08/30

なぜか文章を書くのが楽になった

 この頃、ブログ用の文章を書くのが楽になったなと感じている。
 文体や内容の質が変わったわけではないと思うが、なんとなくすらすらと言葉が出てくる。事前にアウトラインを整理することもなく、大体いきなり書いて、自分としては「これでいい」と思える文章になっている。


 

酷暑は書き物の敵

 そう言う割にそんなにいっぱい書いているわけじゃないじゃん、という話だが(毎日書いている人だってたくさんいるのだ)、今夏に関しては尋常でない暑さが影響しているので、暑さで落ちたパフォーマンスの分を差し引けば自分としては相当すらすら書けている方である。酷暑に悩まされていなければ週三本くらい書いていたと思う。
 個人的に、文章を書くというのはとても暑苦しい行為だと感じる。話を組み上げるということは集中しなければできないことだからだと思うが、じっとしていることになるから身体的に風通しが良くない。暑すぎる日にはやりたくない。同様にプログラミングもやりたくない。読書もちょっと厳しい。
 実際の室温の高低より、「今日は暑い日だ」という認識の有無が影響しているような気がする。あるいは、今現在の温度ではなく、そこまでの間に浴びた熱の量が関係している。つまり夜に何か書こうとした時に、たとえその時点で部屋が暑くなくとも、日中に炎天下に身を置いていたならもうやっていられないという感じである。単純に肉体的に疲れていて無理という感もある。
 そんなわけで、前回書いたように最近はノートの整理などをしていた紙のノートについての自分語り
 

活力が枯渇していた

 話を戻して、なぜ書くのが楽になったのかを考えてみる。
 GWあたりから最新事情や知的生産に関連するインプットおよびアウトプットをしばらく断っていた、ということを少し前に書いた拾い直しの旅
 充電期間を設けたいと思っていたわけではなかったけれども、その時点でなんとなく書くのが大変になっていたというのはあり、アウトプットをやめてしまうことにはあまり躊躇いがなかった。どんどん書いていきたいという気分ではなかったなと思う。何かが枯渇しているような感じがしていた。
 拾い直しの旅の間、いま関心があると思っていた領域のインプットをやめてしまって、かつて関心があった領域を見て回った。毎日欠かさずチェックするみたいな熱意はもう薄れてしまっているが、それでも過去に楽しんでいたものなので今見ても楽しいと思えた。
 
 インプットを変えてみて思ったのは、関心はあってもワクワクしないならしんどい、ということだ。「知っておかなければまずそう」だから頑張って追いかけているが、全然ワクワクはしていない、ということがよくある。他の人が話題にしているからついていかないといけない、それだけの理由で知ろうとしていたのであって、本当は別に好きでもない。そういうものも頑張ってインプットしていかないといけないが、自分のインプットがそれで埋め尽くされるとしんどくなってくる。
 たとえば生成AIの話なんかは、湧いてくる情報の量がべらぼうに多いので、諦めに諦めたとしてもかなりの量になってしまう。まず意味がわかるようになるためにある程度頑張らないといけない。その努力は必要だとは思うが、それで自分の関心が支配されるとエネルギーは出ていく一方だろう。私はプログラマーではないので、世界を変えるような新技術であろうが然程ワクワクはしないのである。
 

ワクワクするものをちゃんと見る

 年々新しい領域にワクワクするのが難しくなっている。本当なら新しい情報を待ち構えていてわーいやったーと心躍らせるような生活をしたいのだが、なんだかそういうノリになれるような感じではない。衰えているのか、情報の収集方法がまずいのかはなんとも言えないし、案外単純に後者の要素、つまり仕組み的な問題の方が大きいのかもしれない。毎週同じ時間帯にやっている音楽番組を見ていれば事足りた時代は実に楽だった。
 そんなわけで、残念ながら新しい領域ではないが、かつてワクワクしていたものを見て回る懐古の旅に出たことで、気分的には随分変わったような感じがする。見てきたものそのものが文章に生きるわけではない。しかし、自分は如何なる人間であったかというのを少し思い出したような気がする。
 自分は何が好きかというのは案外簡単に忘れてしまう。その都度抽象化して自分の傾向を整理する努力をしないと、ハマっているものもやがて視界から外れた時点でなかったことのようになってしまう場合もある。
 時間が経つことで整理が可能になることもあるだろうし、後から「思い出しに行く」というのは大切なことかもしれないと思う。今ワクワクできているなら要らないが、なんか風景がモノクロだなという感じがしてきたら思い出の箱を開けてみると何か変わるかもしれない。
 なんであれ、いつも何かにワクワクしていなければ、少なくとも表現をするというのは難しくなってくるものだと思う。
 

どう楽になったのか

 文章を書くのが楽になったというのはどういうことか、というのも言葉にしておこうと思う。一般的に「文章を書くのが楽とはこういう状態」というのを言いたいのではなく、私個人のビフォーアフターの話である。
 よく聞く言い回しで表現すると、「肩の力が抜けた」ということになるのだと思う。肩の力が抜けるってなんやねんという気持ちも無きにしもあらずだが、今の感覚を表現するならば、なんというか、深呼吸をしてふーっと息を吐く、その吐く時の脱力の勢いで言葉をすーっと出していくという感じがしている。息を吸う、そして吐く、吐く間にキーボードをタカタカ叩いていく、というイメージ。あんまり大きく吸いすぎず、普通の呼吸をゆっくりやるくらいがいい。
 最初に「事前にアウトラインを整理することもなく」と書いたように、吐いていったままの文章がそのままこの形になっている。どういう方向の話をしたいのかというのはもやもやとあるので、必ずしも単に行きあたりばったりということではないが、どういう文章でなければならないかというようなことはとりあえず考えない。書いてから余計な部分を削ればいい、と自然にそう思って書いている。そういうアドバイスを聞いてやろうとするとうまくいかなかったりするが、自分で「まあ変だったら編集すればいいや」と思ってやると全然身構えるところがない。
 これは感覚としては、「まず言葉にしておいて、後で整える」というのとは少し違う。最初から完成形のつもりで書いていって、それを自分で鑑賞して「ここは変かな」と思ったら手直しするというイメージだ。雑に始めておいて徐々に完成度を上げていくというモデルではない。手直しが多ければ結果的にそういう状態と同じになる可能性はあるが、どちらかというと「音源を作る時にちょっとデータをいじっていい即興演奏」みたいなものだろう。
 
 文章のテーマとして選択するものにしても力が抜けた感じがある。
 今まさに書いているようなことを、特にシリーズとして構成するでもなく、他の人の話題として見たわけでもなく、単に書けると思ったから書いた、というふうにするのは意外とできていなかったと思う。全くやっていなかったわけではないが、いつもちょっと思い切りが必要だった。
 多分、「位置づけ」ようとしすぎていたのだと思う。この内容は自分のアウトプットの領域のどの部分を占めることになるのか、みたいなことを前は考えていた。
 まず枠を拵えて、そこに流していく、というような形にしたがっていたと感じる。
 
 こういうことが、これまで一度もできていなかったけどできるようになった――というよりは、時々はそういうモードになれるけど久しくなれていなかったのをやっと取り戻した、ということかもしれないと思う。心境次第で普通にそうできることも多分ある。でもいつもではないし、そうできている時にも「自分が何をできていることになっているのか」ははっきりしていないことの方が多い。大抵は「なんか調子いい」という認識で終わりである。
 

深呼吸の流れで書く

 実際に深呼吸してもいいが、比喩として深呼吸をするように書くというイメージがあるとよいと感じる。何かのテーマや自分自身に目を向けて、静かに息を吸い、空気が無数の肺胞に行き渡る間に何かを感じ取り、そしてゆっくり吐いてすーっと言葉を出していく。
 実を言うと、この記事や前回の記事は「一回目の深呼吸」ではない。どういうことかというと、既にSNSやメモの中で深呼吸のアウトプットをしていて、それを前に置いて再び深呼吸して出てきたものがこれらの記事になっているということである。
 即興演奏という比喩を上で出したが、それは何も一発勝負というのではない。単に「自然に息を吐いたままのような文章」という話であって、一発かどうかはどうでもいいことである。むしろ一発勝負ではないから自然に息を吐いていられるとも言える。
 
 何回か深呼吸を繰り返すとして、力を掛けてひねりを利かせたような文章は、自分が書いたものであっても読み返した時に頭にすんなり入ってこない。一方息を吐いたような文章は、次の深呼吸で吸う時にすっと入ってくる。すいすいすらすらすーっとした文がいつでも良いわけではないけれども、何かしら面白くしようと意気込みすぎているような時は、まずは「すーっと」書いてみるとよいのかもしれない。
 「素直に書く」とか「自然体で書く」と言った方が通りが良いかもしれないが、それだと個人的には「斜に構えない」とか「飾らない」とかいう印象の方が強くなってしまう感じがあるので、あくまで「息を吐く」というメタファーで表現したい。いま肝心なのは内容の素直さではなく言語化の滑らかさである。また、「思ったことをそのまま書く」だと今度は反射的に言葉にするようなニュアンスをちょっと感じてしまう。ぱっと反射するのではなくすーっと書く。
 

生活と書き物

 この記事はまず暑さの話からスタートすることになったが、やはり肉体的に無理が来ている状態での書き物はしんどいものがある。そういう時でしか感じ取れないものもあるから、不調の時こそ記録として言語化する、というのも大事なことではあるのだが、人が読めるような種類の文章を組み立てるのはちょっと大変だ。なるべく健康を保ちたい。他には肩や腰の痛みなども邪魔である。
 そして心の健康も必要になる。私の場合取り立ててマイナス要素がなければいいような気になってしまうのだが、やはりプラス要素もないと活力は湧いてこないのだろう。何でも良いからワクワクしているようでありたい。未来にワクワクするのが難しければ、かつてワクワクしたものを追体験しに戻ってみる。書くのをやめてでも過去に戻ったのは個人的にはプラスになった。
 書けない時に「書き方」とか「ネタ」に意識を向けても、そもそも自分の体に書く準備ができていなければ言葉が出てこない。無理やり引きずり出しているようで、頑張った割に表現できたことは乏しいということにもなってしまう。もっと広く、生活自体を点検した方がいい場合もあるのだと思う。
 
 今回の変化は、自由に書くために必要なことが何なのかを考え直す良い機会になった。
 

2023/08/19

書いている時だけ天才の自分が書いた後のポンコツの自分を救う

 ちょっと迷いが生まれた時に、自分が前に書いたことを読み返すと、「ああ、そうだよな、そうだった」と迷いを振り払ってくれることがある。
 私はこのブログで自分の問題を解決しようとする記事をよく書いているので、その問題が再発したような時に読むと特効薬を得たような気分になる場合が結構よくある。
 逆に言うと、一度解を得たにもかかわらず、ちょっとすればもう忘れているということでもある。


 
 何かについて書いている時というのは、その対象についての知見という意味では、人生史上最高に天才的になっている時であると言っても良いかもしれない。もちろん自分比なので、他の人と比べての天才性ではない。あくまで自分の中で一番敏い瞬間だというだけである。
 なぜそうなるかといえば、意識をそれに集中していられるからだ。内容によっては事前に入念な取材すらしている。書き終えてしまえばそんな風には意識を割いていられない。一瞬その対象についてのプロのようになっても、その瞬間が過ぎればもう素人である。研究者にとっての研究対象のように現在進行系であり続けているものなら話は別だが、記事を書いた時点で一区切りということになるとその範囲に於いては急速に素人化していく。
 
 書いている時の自分は(自分比で)天才なので、それまでの自分は思いついていなかったこともすらすら思いつく。書いてみるとびっくりするほど滑らかに理屈が通ったりする。「そうだったのか」と思いながら書いているということがよくある。
 それが正しいか誤っているかはここでは置いておく。正しいとか正しくないとかいう以前の問題がここにあるのだ。
 当たり前のことだが、自分の信念というようなものは、繰り返し繰り返し同じ結論を導き出すから自分の中に形を持っていくものだろうと思う。事柄Aを見ても事柄Bを見ても同じことを思う時に自分にとってそれが確信になっていく。それが正しいか誤っているかはやはりここでは問わないものとする。とにかく、何度もそれを思うから自分の中に定着する、ということが今大事なことである。
 ところが、天才な自分が何かを思いついた時、それが如何に筋が通ったものであっても、思ったのは「一回」なのである。厳密にはたった一回じゃないにしても、少なくとも繰り返し繰り返しということにはなっていない。今まで思いついていなかったのだから書く以前は零回で、書いた後に同じ結論に至る体験が重ねられなかったとしたら、結局書いた瞬間のたった一回に終わってしまう可能性は普通にある。
 そうなると、その先覚えていられないのも当たり前である。理屈として尤もかどうかは定着とは関係がない。理屈として見事ならいつでも何度でも同じように導き出せるような気分になるが、そんなことはないのである。実際に繰り返し思うことでしか定着はしないと感じている。
 
 書きながら自分が導き出した結論というのは、所謂偏見の類以外は自分の中に再現性がないと思ったほうがいいくらいかもしれない。偏見は自分の人生経験と密接に結びついているのでそう簡単には消えてくれないが、閃きは一度形にしてさえあっという間にどこかに飛んでいく。メモしただけでは忘れるのと同じで、きちんと手間をかけて文章にしたってそれだけではあっさり忘れてしまうのだ。
 つまり、自分自身が繰り返し読み返すことで自分の書いた文章というのは完成されていくのだと思う。文章そのものは書き直さない限り変わらないが、その文章を書くという行為の周辺にあったことの、自分の人生に於ける意味が、読み返しによって豊かになっていく。
 
 何かを書こうとしているその一瞬だけ自分は過去にないほど天才的になり、その天才性は書かれた文章によって保存されている。自分自身は瞬く間にポンコツになっていくけれども、文章さえ書けていれば、その時一瞬だけあった己の聡明さに後から頼ることができる。
 それは非常に不思議で面白いことだと思う。たとえ向上心高く常に前進して総体としては賢くなり続けていても、一瞬の天才性がずっと維持されるわけではない。しかし形になっていれば失われっぱなしにならずに済む。
 やはり何より自分のために、自分の思いは形にしておくべきだと思う。それを公開するか否かは別だが、公開しなくともきちんと格闘して言葉にするのが自分のためになるだろう。
 

2022/12/18

アウトプットのコントロールド下手問題

 自分は表現のコントロールが下手だと感じている。表現の技術がどうというより、表現の場所や頻度、タイミングの選択に常に不満がある。どうにかしたいので、少し考えていくことにする。


 
 ここでの「表現」を定義すると、「自分の思考に発生したものを形にして出力すること」を指している。文字でないものも含むが、今のところ専ら文章での表現を選択しているので、基本的に「文をいつどこに書くか」という話になる。
 他の人たちは自分がどこかに何かを書き込む・投稿するということに納得しているように見えるのだが(多分、そう見えるだけなのだろうとは思う)、私はどうも納得できていない。ブログにもSNSにもごちゃごちゃ書いている割に、そうやって書いて投稿しているということ自体に不本意感を覚えている。
 
 大雑把に言うと、「これ言わなくても良かったな」と思うことが多い。書きたかったから書いた、ということが前提にあるわけだが、後からものさしを当て直した時に、「書く必要があるものではなかった」という評価が下される。
 しかし、「書く必要があるものかどうか」で判断してしまうなら、最初からそんなものなどない、ということにもなってしまう。ブログやSNSに「書く必要があるもの」なんてない。強いて言えば、Twitterを告知の場所と位置づけたなら、ブログの投稿なんかをしたらTwitterにポストする必要があるな、とは言えるが、表現行為という面では「必要」では測ることができないだろう。しかし反省をするとなると「必要なかった」が出てくる。じゃあどこまでなら良しとなるのかは曖昧である。多分、無意識下で他の尺度で測った結果納得できていないから、身も蓋もない「必要なかった」という結論に至るのだろうと思う。
 TPO的な観点で「適切でないかもしれない」と感じることもある。しかも、個別の投稿の是非に留まらず、「そもそもTwitterでこういう話をするのはどうなのか」みたいな規模でそう感じる。じゃあTwitterではどういう話をすべきなのかはこれまた曖昧だ。他の人々と照らしてみても、各々好き勝手にやっているわけで、あらゆるやり方が「あり得る」ことになる。
 適切かどうかは「場所」「公開の度合い」「頻度」「タイミング」といったものの如何で判断しようとするわけだが、それらを適切に選択しようというところまでは考えても、どう選択するのが正解か(自分が納得できるか)ははっきりしないので、考えたところで不満は抱いたままになる。
 
 曖昧さの一因として、自分が「一般人」であるということがある。芸能人でも作家でもないし、他の何らかの職業を看板にしているわけでもない。むしろ明らかにしないことを貫くつもりでいるので、純然たる「個」「私」である。何も代表しないし、何も背景に持たない。となると、その分基準にできるものもないということになる。自由過ぎて、引くべきラインが「人として」というところまで広くなる。それは本当に最低限のラインだが、それ以上は客観的な根拠なしに決めなくてはならない。
 多分、「どういうアカウントにするのか」ということをデザインする視点が必要なのだろう。
 
 もうひとつ原因を挙げると、結局のところ何を求めて投稿するのか、が常に曖昧だという問題もある。
 頭に浮かんだものを表現して投稿するという時、その結果がどこに着地してほしいかというのはその都度結構違っている。

  • 言語化できればいい
  • 自分以外の誰かの視界に入ればいい
  • 誰かが反応してくれればいい(「いいね」を含む)
  • 誰かに共感してもらえればいい
  • なるべくちゃんと理解してもらいたい(誤解は避けたい)
     例えばTwitterはその点色々都合がよく、「言語化しやすい」「人の視界に入りやすい」「反応を得やすい」というメリットがある。共感や理解を得ようとするなら言葉を工夫しつついくつもツイートを重ねる必要が生じるが、何しろ読まれやすいし返信もしやすいことから、他の媒体より楽なのは確かだ。
     共感を得るには友人や家族などに話したほうが確実だが、前提を相手と共有できていない内容だとその説明からスタートしなければならず、それを省略して「誰かがわかればいい」というふうにしてしまえるTwitterは非常に簡単な感じがある。
     つまり自分の希望を広くカバーし得るのがTwitterなので、「とりあえず」「なんとなく」Twitterに投稿する、みたいなことになる。ただ、Twitterは広くカバーし得る代わりに得られるものは薄いので、Twitterによって自分を満たすというのは難しい。それに、自分が得たいものがその都度違っているなんてことは、基本的に読み手にとっては知ったことではないわけで、自分は楽だが読み手は必ずしも楽ではないというところがある。結局はかなりの部分「空気を読む」ということに支えられている。そうなるといずれ疲れてくると思う。自分は投稿者であると同時に読み手であり、自分が他に要求した分は自分も他に対して満たそうとせざるを得ない(意識的にも無意識的にも)
     どこに着地したいのかに応じて表現スタイルを変えていくべきだろうと思うが、いつも「どうしたいのか」という自分の気持ちを自分に問うより先に思考の言語化が完了してしまうので、言語化できてしまった以上はつい投稿しやすいところに投稿してしまうという流れになっている。Twitterサイズで言語化した時、そこでツイートしなかったなら後で形を整えて記事化しなくてはならないが、それが面倒くさいと思うとそこでツイートしてしまう。「投稿先としてTwitterが相応しいからツイートした」のではなく、「それ以上手間をかけるのが億劫だからツイートした」になるわけである。そうなると後から不本意に思えてきて当然だろう。
     あるいは、不安が高まっているような心境の時は少しでも早く他者の反応を見たい(もしくは誰かに自分の状態を知らせたい)ということもある。表現として最善手かどうかよりも、読まれやすさ、反応の得やすさで判断してしまう。それが必ず駄目だということではないが、メンタルの状態が変わった時点で「あの投稿は自分で納得できるものではなかった」ということになる場合がある。
     たとえ「言うべきでないことを言った」という直接的な後悔はなかったとしても(それがある時ももちろんある)、「こういう形でない方が良かった」と感じる可能性が生じる。困ったことに、投稿している間は理屈でやっているつもりでいて、自分が感情的に慰められることを求めている自覚はない場合が多々ある。そうなると、読んでくれる誰かにとって必要な情報以上のものをぐだぐだ書き連ねることになって、「無意味に長文を書いてしまった……」などと反省することになる。
     
     面倒臭さ由来にしろ不安由来にしろ、言語化をスタートした時点で着地点が曖昧過ぎることが不本意なアウトプットを生じているように思う。着地点によって言語化の種類は変わってしまうし、一度言語化したものを別の種類に改めることは思いの外大変である。というか、ものすごく面倒くさく感じられる。
     つまり、思考を流し始める入口を適切に選択することが非常に重要なのだろう。私の場合「Twitterに流しやすいサイズ感」で言語化するのがデフォルトになってしまっており、そうしてしまってから記事に直そうとかアトミックに整理し直そうとかいうことをやっている。面倒臭いので、大抵はそのままツイートしてしまうか、ツイートの下書きとしてごちゃごちゃ堆積することになる。
     となると、最初の一歩の時点でさっと選択できるテンプレートの数を増やすことが必要な感じがする(テンプレートというのは比喩で、「表現形態のイメージ」みたいな意味である)。そのテンプレートと投稿場所、頻度、タイミング等は必然的に結びつくだろうし、傾向がはっきりすれば「どういうアカウントにするのか」が明らかになる気もする。
     
     今までは、表現して投稿するという行為を制御するにあたっては「ぐっと堪えて」的な精神論を思い浮かべていたが(そしてそれはなんにも役に立ってこなかった)、予め何を用意しておくべきなのかを考えることでもうちょっと現実的に自分を律することが可能になるかもしれない。
     
2022/11/14

2022/11/14 ―― 日付をタイトルにする試み/やり方を真似したくなるということ

 日付をタイトルにしているが、今日という日は特別な日になりました――的な話ではなく、単に、今日考えたことを無題で書き連ねてみようという試みである。(後日追記:さすがに中身がわからなすぎるのでサブタイトルを添えることにした。)


 

 
Mastodonでの今日のトゥートをベースに文章化)
 
 Twitterにツイートしようかと思ったがなんとなく気乗りせずにMastodonに書き込むということをした。自分の感覚として、Twitterだと本当に誰の需要も満たしそうにないものはツイートしづらい。今更ながら。
 おそらく過去にツイ廃期間が長くあったせいで、Twitterというのは自分の中で「居る」場所として捉えるものになっており、「ツイートする」イコール「自分がいる(=オンラインである)」という意味合いがあるように感じてしまっている。その感覚が自分の中でものすごく邪魔になっている。
 外界に対して閉ざしたいとか自分に都合の良いものだけ見たいとかいうつもりはないのだが、しかし自分が意識を向けられる範囲は量的に言ってごく僅かであるという認識があり、それを拡張することを求められるとしんどくなってくる。つまり、オンラインなら(今そこにいるなら)対応できるだろうとか、フォローしているなら見ているんだろうとか、そういう。誰かに何か言われたわけでもないが、そう要求したりされたりする様子を目撃したことはあるわけで、開き直りきれないでいる。
 これはしかし、ツイ廃でなければ(=絶えずツイートするとかいうことをしなければ)回避できることであり、「読者の存在を利用した言語化」の魔力に依存しなければいいだけのことではある。Twitterだと捗るからつい居座って書いてしまうのだというようなことはどこかしらで何度か書いたが、そうやって「自分の中身が言葉になっていく気持ちよさ」を欲して言語化をTwitterでやるから葛藤が生じる。要するに欲である。
 
 自分で自分を制御できていない感じというのはそれだけではない。TwitterにしろMastodonにしろ、言語化した内容そのものを世に放ちたいということもさることながら、空虚な自分を少しでも世界に根付かせたいという願望があってやってしまっており、その願望に対する自己嫌悪によって「つい呟いてしまう」と「つい呟いてしまうことを反省する(良くないことだと考える)」を無限に反復横跳びしている。それはきっと良くない。
 発信者としての側面だけ見ればそういう人間こそTwitterがぴったり、ということになるが、Twitterは単に発信の場ではない。受信の場でもある。自分の中でそのバランスが崩れていることがいつも気になっている。別に他の人がみんなバランスを取ってやっているわけではないにしても。昔から、常々「自分はTwitterには向いていない」と思いながら、しかしずるずると続けている。
 要するに、「気にしい」な性格でいながら一方的に喋っていられる場が必要で、それを求めてSNSを彷徨っても駄目なんだろう。そう考えると、つまるところ自分には「ブログしかない」のだと思う。じゃあ大人しくブログで書いてればいいじゃないかという話だが……点、点、点。
 
 Twitterとブログは何が違うか。どちらも人が読むことを前提にして文を書いていくという点では同じだ。しかし思考のタイムラインを作っていくことと記事を書くことは根本的に違う営為のようにも思う。なぜなら前者は自己の内面の描写、後者は他に向けた表現だからだ。
 そう思ったところで気づいたが、(例えばScrapboxの使い方としては失敗談として目にしがちな)「日付をタイトルにしたページ」というのはブログにこそ必要なのかもしれない。(そう思って、今この記事が作られている。)
 

 
 Tak.さんの[アウトライナーライフ(noteの有料マガジン)](アウトライナーライフ|Tak. (Word Piece)|note https://note.com/takwordpiece/m/md373ba7a0d43)の記事を読んでいると(あるいはTak.さんの著作を拝読していると)、なんだか「シンプルにこれを真似たら結局全部うまくいくのでは?」という気分になってくる。読んでいてとても楽しい。実例があるとメソッドが実際的であることを感じるし、事実、Tak.さんはそうして日々をスムーズに送っていらっしゃるのだから、机上の空論ではないことは絶対確かなことである。想定は細やかで、スーパーマンがスーパーなところでしれっと補っているというようなところもない。
 一方自分自身の問題として、誰かの方法を「そのまま真似したい(そうしたら万事がうまくいきそう)」と感じる時というのは、自分固有の癖を忘れている時でもあるという実感がある。もし自分自身のことを仔細に思い出せているならば、そのまま乗り換えるのではなく、それを取り入れた自分仕様の何かを具体的に考えるはずである。
 そもそもTak.さんが「自分のやり方をそのままやってみてほしい、全部うまくいくから!」とお考えになっているはずもなく、むしろおそらくは全く逆で、人のやり方をそのままコピーしてしまわずに自分自身との対話でやり方を考えていく、その工程自体の例を示してくださっているのだと思う。なれば、こうしたら良さそうという気持ちを持ちながら、どうして「良さそう」なのか、どうしたらその「良さそう」を自分が殺さずに済むのかを、じっくり考える必要がある。
 やり方を見せてくれる人々は、それぞれが自分の中にある成分に基づいて最適化したものを披露してくれている。詳しく聞けば聞くほど「隙がない」かのような気持ちになってくる。ただ、そこにはその人を構成する成分しか含まれていない(それしか含みようがない)。そこに書かれていないこと――多くは故意に「伏せた」のではない――を考えなくてはならないだろうし、そのためにはやはり、自分の成分は何なのかを自分に問うて明らかにしなければならないだろう。
 

 
 ところで、このようにごちゃごちゃ詰めたような発信というのは前にScrapboxでも試したが、その時はまあ、さっぱり続かなかった。読み手の存在を考え、読み手にとっての無益さを意識しすぎたのだと思う。実際に無益で、変に自分の印象を和らげようとしたところもあったのか、他ならぬ自分自身にとってすら無益なものになっていた。何か自分にとって必要を感じたからやったはずだが、自分でそこから外れてしまったようだ。
 

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