日々何かを書き表して暮らすことを前提とした話。
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文章を書かずにいられない人間の話
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- 自分に定着させるために記事にする
- 虫眼鏡を当てさえすればよい
- 書くことは自分を世界に出現させること
- なんてことないことを書くということ
- 際限なく書けることを自分に示したい
- 脱「運頼み」の道のり
- なぜか文章を書くのが楽になった
- 書いている時だけ天才の自分が書いた後のポンコツの自分を救う
- アウトプットのコントロールド下手問題
- 2022/11/14 ―― 日付をタイトルにする試み/やり方を真似したくなるということ
- 読みたくなるのは「きちんと加工された自慢話」
- 五十年残る文章を書く
- ブログ日誌:ブログを書くと別人になる
- ブログ日誌:大事なのは内圧を弱めないこと
- ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~
- 「書いて披露する」ことの不安、n番煎じになる勇気
- ミニブログからブログにカムバック
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「文章を書かずにいられない人間の話」タグの記事一覧
自分に定着させるために記事にする
本にしろ投稿にしろ、誰かが書いたものを読むと「面白い!」と感じることがある。その気持ちはとても鮮やかな感じがするので、こんなにも感動するなら自分の心に刻まれたに違いないと思う。ところがどっこい、一週間もすればその煌めきは嘘のように消え失せ、何かに感動したはずだが何だったか思い出せないなんてことになる。
際限なく書けることを自分に示したい
最近すいすいと文章が書けている感じがする。
波に乗って二ヶ月ちょっとくらいはノンストップで書いているのだが、今までにない自由さと手応えを感じている。
なぜか文章を書くのが楽になった
この頃、ブログ用の文章を書くのが楽になったなと感じている。
文体や内容の質が変わったわけではないと思うが、なんとなくすらすらと言葉が出てくる。事前にアウトラインを整理することもなく、大体いきなり書いて、自分としては「これでいい」と思える文章になっている。
書いている時だけ天才の自分が書いた後のポンコツの自分を救う
ちょっと迷いが生まれた時に、自分が前に書いたことを読み返すと、「ああ、そうだよな、そうだった」と迷いを振り払ってくれることがある。
私はこのブログで自分の問題を解決しようとする記事をよく書いているので、その問題が再発したような時に読むと特効薬を得たような気分になる場合が結構よくある。
逆に言うと、一度解を得たにもかかわらず、ちょっとすればもう忘れているということでもある。
アウトプットのコントロールド下手問題
自分は表現のコントロールが下手だと感じている。表現の技術がどうというより、表現の場所や頻度、タイミングの選択に常に不満がある。どうにかしたいので、少し考えていくことにする。
2022/11/14 ―― 日付をタイトルにする試み/やり方を真似したくなるということ
日付をタイトルにしているが、今日という日は特別な日になりました――的な話ではなく、単に、今日考えたことを無題で書き連ねてみようという試みである。(後日追記:さすがに中身がわからなすぎるのでサブタイトルを添えることにした。)
(Mastodonでの今日のトゥートをベースに文章化)
Twitterにツイートしようかと思ったがなんとなく気乗りせずにMastodonに書き込むということをした。自分の感覚として、Twitterだと本当に誰の需要も満たしそうにないものはツイートしづらい。今更ながら。
おそらく過去にツイ廃期間が長くあったせいで、Twitterというのは自分の中で「居る」場所として捉えるものになっており、「ツイートする」イコール「自分がいる(=オンラインである)」という意味合いがあるように感じてしまっている。その感覚が自分の中でものすごく邪魔になっている。
外界に対して閉ざしたいとか自分に都合の良いものだけ見たいとかいうつもりはないのだが、しかし自分が意識を向けられる範囲は量的に言ってごく僅かであるという認識があり、それを拡張することを求められるとしんどくなってくる。つまり、オンラインなら(今そこにいるなら)対応できるだろうとか、フォローしているなら見ているんだろうとか、そういう。誰かに何か言われたわけでもないが、そう要求したりされたりする様子を目撃したことはあるわけで、開き直りきれないでいる。
これはしかし、ツイ廃でなければ(=絶えずツイートするとかいうことをしなければ)回避できることであり、「読者の存在を利用した言語化」の魔力に依存しなければいいだけのことではある。Twitterだと捗るからつい居座って書いてしまうのだというようなことはどこかしらで何度か書いたが、そうやって「自分の中身が言葉になっていく気持ちよさ」を欲して言語化をTwitterでやるから葛藤が生じる。要するに欲である。
自分で自分を制御できていない感じというのはそれだけではない。TwitterにしろMastodonにしろ、言語化した内容そのものを世に放ちたいということもさることながら、空虚な自分を少しでも世界に根付かせたいという願望があってやってしまっており、その願望に対する自己嫌悪によって「つい呟いてしまう」と「つい呟いてしまうことを反省する(良くないことだと考える)」を無限に反復横跳びしている。それはきっと良くない。
発信者としての側面だけ見ればそういう人間こそTwitterがぴったり、ということになるが、Twitterは単に発信の場ではない。受信の場でもある。自分の中でそのバランスが崩れていることがいつも気になっている。別に他の人がみんなバランスを取ってやっているわけではないにしても。昔から、常々「自分はTwitterには向いていない」と思いながら、しかしずるずると続けている。
要するに、「気にしい」な性格でいながら一方的に喋っていられる場が必要で、それを求めてSNSを彷徨っても駄目なんだろう。そう考えると、つまるところ自分には「ブログしかない」のだと思う。じゃあ大人しくブログで書いてればいいじゃないかという話だが……点、点、点。
Twitterとブログは何が違うか。どちらも人が読むことを前提にして文を書いていくという点では同じだ。しかし思考のタイムラインを作っていくことと記事を書くことは根本的に違う営為のようにも思う。なぜなら前者は自己の内面の描写、後者は他に向けた表現だからだ。
そう思ったところで気づいたが、(例えばScrapboxの使い方としては失敗談として目にしがちな)「日付をタイトルにしたページ」というのはブログにこそ必要なのかもしれない。(そう思って、今この記事が作られている。)
Tak.さんの[アウトライナーライフ(noteの有料マガジン)](アウトライナーライフ|Tak. (Word Piece)|note https://note.com/takwordpiece/m/md373ba7a0d43)の記事を読んでいると(あるいはTak.さんの著作を拝読していると)、なんだか「シンプルにこれを真似たら結局全部うまくいくのでは?」という気分になってくる。読んでいてとても楽しい。実例があるとメソッドが実際的であることを感じるし、事実、Tak.さんはそうして日々をスムーズに送っていらっしゃるのだから、机上の空論ではないことは絶対確かなことである。想定は細やかで、スーパーマンがスーパーなところでしれっと補っているというようなところもない。
一方自分自身の問題として、誰かの方法を「そのまま真似したい(そうしたら万事がうまくいきそう)」と感じる時というのは、自分固有の癖を忘れている時でもあるという実感がある。もし自分自身のことを仔細に思い出せているならば、そのまま乗り換えるのではなく、それを取り入れた自分仕様の何かを具体的に考えるはずである。
そもそもTak.さんが「自分のやり方をそのままやってみてほしい、全部うまくいくから!」とお考えになっているはずもなく、むしろおそらくは全く逆で、人のやり方をそのままコピーしてしまわずに自分自身との対話でやり方を考えていく、その工程自体の例を示してくださっているのだと思う。なれば、こうしたら良さそうという気持ちを持ちながら、どうして「良さそう」なのか、どうしたらその「良さそう」を自分が殺さずに済むのかを、じっくり考える必要がある。
やり方を見せてくれる人々は、それぞれが自分の中にある成分に基づいて最適化したものを披露してくれている。詳しく聞けば聞くほど「隙がない」かのような気持ちになってくる。ただ、そこにはその人を構成する成分しか含まれていない(それしか含みようがない)。そこに書かれていないこと――多くは故意に「伏せた」のではない――を考えなくてはならないだろうし、そのためにはやはり、自分の成分は何なのかを自分に問うて明らかにしなければならないだろう。
ところで、このようにごちゃごちゃ詰めたような発信というのは前にScrapboxでも試したが、その時はまあ、さっぱり続かなかった。読み手の存在を考え、読み手にとっての無益さを意識しすぎたのだと思う。実際に無益で、変に自分の印象を和らげようとしたところもあったのか、他ならぬ自分自身にとってすら無益なものになっていた。何か自分にとって必要を感じたからやったはずだが、自分でそこから外れてしまったようだ。