Noratetsu Lab

動じないために。

2022年7月

2022/07/27

ツール製作日誌:プログラミングの勉強を開始して半年の振り返り

 JavaScriptの勉強を始めて半年が過ぎた(1/27スタート)
 三ヶ月経過した時点で振り返り記事を書いたが、今回も同じようなまとめをしておきたいと思う。自分用のただの日記である。


 まず前回からの三ヶ月で新たに作ったツール群をまとめてみる。

①Fusen2.html

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 三ヶ月前の時点で作ってあったFusen.htmlの改良版。当初は付箋の種類ごとに作成ボタンを作って別の経路で付箋を作っていたが、今回は付箋は一種類のみになっている。記述内容で付箋の種類を判定し、自動で然るべきHTML要素が構築されるようになっている。
 そして付箋の中に付箋をドロップするとアウトライン構造になる。現状ではアウトライナーとしての手軽さがちょっと犠牲になっているところがあり一長一短だが、構造が煩雑だった前バージョンよりわかりやすくはなっている。
 また、付箋の規格を統一したことによりOPML出力がスムーズにできるようになった。

②ToDo Manager(名前は適当)

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 前にツール製作日誌:タスク&スケジュール把握ツールで紹介したタスク管理ツール。
 ちょっとしたことだが初めて試した挙動というのが色々あり、地味にレベルアップしたように思う。特にinput要素を多用しているのでそのあたりはかなり鍛えられた。

③Protean Outliner(カード式アウトライナー)

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 ツール製作日誌:カード式アウトライナー①機能説明編で紹介したアウトライナー的ツール。
 どこかにゴールがある考え事をする場所。ブログ執筆を含め、今現在書き物の類は全てここで行っている。あれこれ機能を実装しており、もはや自分にしか理解できないであろうツールになっている。
 なお、最初は「カード式」のつもりで作ったのだが、結局のところ「ルーズリーフ式」であった、ということをつい先日書いたツール製作日誌:カード式アウトライナー③カードっていうかルーズリーフだった編

④Knowledge Manager(名前は適当)

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 辞書的知識を書き足していく場がほしかったので作った。
 それぞれのカードには名前を複数つけることができ、一覧では名前が全て列挙されている。「メインの名前+エイリアス」ではなく、名前が複数可の状態。各カードのノート部分(アウトライナーになっている)で名前を[]で囲むとリンクになるのだが、複数あるどの名前でも構わないようにしている。
 各カード内で一問一答のクイズを作れるようになっており、クイズ一覧表示でそれらがカードとして表示される。マウスオーバーで答えが表示され、覚えた時はクリックで現在日時を記録できる。そこからの経過日時に応じてクイズ一覧で表示できるカードをフィルターできる。
 Ankiに担わせたかった役割を(Ankiの起動と管理が面倒くさかったので)自作ツールで実現した形。
 なおカード一覧でもクイズ一覧でも、マウスオーバーで内容を確認できる。

⑤Mameronbuner

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 豆論文作成・管理ツール。(内容の性質上全てモザイクすることに)
 Protean Outlinerでやりたかったけどどうもやれなかったことを、より豆論文に特化した形を作り直して達成できるようにした。
 ポイントはタイトルが不要なこと。カード一覧で表示されているのは本文の冒頭3行で、タイトルとして表示したいなら最初の行をタイトルらしくすればいいようになっている。
 各カードに格言的なものを登録できるようにしており(複数可)、例えば「格言・仮説」を選択するとカード一覧より小さいカードでその一文をそれぞれ表示できるようになっている。コードの構造としては④のKnowledge Managerと大体同じ。マウスオーバーで内容確認が可能。カード間のリンクも可。

⑥ミニゲーム類
 コーディングの練習としてちょっとしたゲームを色々作った。特に参考にしたものはなく、いずれもゼロから自分で考えた。
ハイアンドローゲーム

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 表示されたトランプに対して次の一枚が高いか低いかを当てるゲーム(Aが最も高い)
 トランプ1組が尽きるまでやれるが途中でやめてもよく、いずれでもその時点での成功率を見ることができる。
 単純なゲームだが、やり始めるとやめ時がわからなくなり延々やってしまう。かっぱえびせん状態。

ポーカーゲーム

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 配られた5枚から一度だけ任意の枚数交換可能で、できた役が良い役だと嬉しいねというゲーム。役を正しく判定するためにif分岐をあれこれ考える必要があり、良いトレーニングになったと思う。

スロットゲーム

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 alertを使ってリールごとに結果を表示してスロットっぽい見た目にしているゲーム。柄の並びは某RPGのカジノのものを使っている。
 今のところただカチカチやって揃ったら楽しいというだけのものだが、倍率の設定はしてあるのでカジノっぽくしようと思えば一応できる。

神経衰弱ゲーム

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 番号を指定し、その番号に振り分けられている記号を揃えるゲーム。多分HTML要素(DOM操作)を使えばそんなに苦労しなかったのを、わざわざダイアログ上でなんとかしようとしたので無駄に悪戦苦闘した。その分経験値はそれなりに得た。

ハエたたきゲーム

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 上の画像のように動く四角をクリックできると消せるというゲーム。
 指定したミリ秒単位で、指定したいくつかの動きの中から乱数で決定して動き回るようになっている。直進:左折:右折:停止を2:1:1:1にしたら生き物っぽさが出た(後退しないようにした)。別途指定した時間単位で増殖させることもできる。
 マリオペイントで育った人間としては、ハエたたきと言えば手に汗握る思い出深きアクションゲームなのである。\アッー!/

 自分でツールを作ることの意義などは三ヶ月前に書いておりツール製作日誌:三ヶ月で劇的ビフォーアフター②‡‡‡生き方改革編、そこから今までの間に気持ちとしての大きな変化はない。前回書いた通り、プログラミングはいいぞ、という感じである。
 一方、この三ヶ月で技術的には結構進歩したように思う。DOM操作(今まさに画面の中に存在しているようなHTML要素群の操作)で出来ることというのは無限にあるわけではないので、三ヶ月前と比べて「結果として実現できていること」はそんなに変わっていないのだが、コードをうまくまとめることができるようになったことで書くスピードが上がり自由度が増し、後から見て意味がわかりやすくメンテナンスしやすくなった。コツを掴んだという感じがする。
 特に「クラス」と「インスタンス」の概念を理解してカスタム要素(Custom Elements)を作れるようになったのが非常に大きい。例えばアウトライナー機能をいつでもどこでも一瞬で用意できるのである。最初は本当に苦労したのだが、今はもう作り放題だ。

 もうひとつ、Electronでローカルファイルを扱えるようになったのが大きな進歩だろう。Electronというのは、Web技術(HTML+CSS+JavaScript)を使ってデスクトップアプリケーションを作ることができるフレームワークのことである。
 Web技術によってGoogle Chromeなどのブラウザをツール化できるのはとても便利で、プログラミング初心者には大変嬉しいことなのだが、セキュリティ保全のためブラウザからローカルファイルを編集することはできないようになっている。ローカルファイルを読み込むことと、手動でデータをローカルファイルとしてダウンロードすることはできるのだが、ローカルファイルをデータベースにしてリアルタイムに処理するということはできないのだ。
 となればダウンロードを忘れたら終わりなのかというと、ブラウザにはlocalStorageという保存領域があり、各ドメインに対して最大10MB(ブラウザごとに異なる)用意されているので、そこに保存すれば消えることはない。普通に公開されているツールも、データ保存のための通信を行わないものはその機能によってユーザーのデータをブラウザ内に保存している。ただ、そのPCのそのブラウザの中だけにある状態なので、データの取り扱いとしてはいささか不便である。
 そこでElectronなのだが(デスクトップアプリケーションを作成するのでローカルファイルを扱えるようになっている)、ElectronはJavaScriptの形式で記述するものの、色々とコンピュータ的に考えなくてはならず、JavaScriptのDOM操作が直感的なことに喜んでいた身にはかなり辛い。数学で言うと平方根が出てきたとか微分積分が出てきたとか三角関数が出てきたとか、そんな感じの段差である。
 今でもよくわかっていないのだが、とりあえずローカルファイルを読み込めてローカルファイルに書き出せるようにはなったので、まあそれ以上わからなくても当分はいいかなという感じでいる。(なお三ヶ月前の記事でElectronについて既に触れていたのだが、当時一応書き出し自体はできたものの、ごく限られた条件の元でしか実現できていなかった。セキュリティのためにメインプロセスとレンダラープロセスというふうに分かれており、その横断を理解するのがちょっと難しくて面倒だったため三ヶ月放置していた。)

 ツールのデータベースとしてローカルファイルを使えるということは、そのファイルがオンラインストレージ(Dropboxなど)にあればどの端末からもいつでも参照できるということである。また、ローカルファイルの読み込みも簡単になったので、例えばLogseqやObsidianで使うmdファイルを読み込むこともできるようになった。早速、Logseqのmdファイルで未来の日付をリンクしている箇所をピックアップしてHTML上に出力するコードを書いてみたりした。
 つまり他のちゃんとしたツールとの間に橋が渡されたということであり、このことは自作ツールの可能性を大きく広げるものだと思う。できることはおそらく爆発的に増えたのだが、自分自身がそれに全然追いついていないので、この先はゆっくり練っていきたいと思う。
 

2022/07/23

「何者か」にならないと世界がモノクロになる私たち

tksさんの投稿を拝読しました。


「これまで私は自分の考えを書くといった言語化やそれを元にした発信をしてきませんでした。」という一文がちょっと信じられない質の記事で、トンネルChannelという場があることの意義が今まさに発揮されていると思いました。

さて、私自身漠然と「(今の自分からは大きくジャンプした先の)何かになりたい」という気持ちを抱いていました。

私はこれまで「何者」になりたいと思って生きてきました。ここでいう「何者」は何かしら特別な人間という意味での何者です。「何者」になると言っても具体的になりたい像があるわけでもありません。「何者ってなんですか?」と聞かれたら、「何者は何者です」としか言いようがない漠然としたレベルです。何になりたいのかはわからないけど、何かにはなりたかったのです。
まさにこの気分です。
今現在もそうかというと、全くそうでないというわけではないのですが、かつて苦しみと共にそう願っていた時と比べるとどうも質が違っているような気がしています。とりあえず今に納得できているわけではなく、もっとちゃんとした、あるいはもっと輝きのある人間になりたいという気持ちはありますが、なんというか、「まあそのうちなるんじゃないの」みたいな楽観があります。「まあなれなくてもそれはそれで」という気持ちもあります。つまり「苦悩」になっていないという感じでしょうか。過去に挫折で負った傷が深くてもはや楽観的にならざるを得なかった面もありますが、多分「漠然と」の部分が少しずつ解決したのだろうと思います。

「何者にもなれない」というのは「何もできない」とは違います。なので、自分は何者にもなれないと言う人があれこれなんでもできるということは珍しくありません。何ができようとも、何者にもなれないのは何者にもなれないのです。「何かできたところで自分よりすごい人はいるし」というのは、何者かになれない本当の理由ではないように思います。基本的に全ての人に、上には上が山ほどいるからです。能力的才能的に特別すごくなくとも、その人なりの「何者か」になって輝いている人はいくらでもいるのです。
そもそも、成功者的な存在を羨む気持ちがありつつも、自分が本当に成功者になりたいかというと実はそうでもないということがあります。商業的にバリバリやりたいとか、有名になって引く手数多になりたいとか、お高いアンティークに囲まれたセレブな暮らしをしたいとか、全然そんなことは思っていないわけです。「何者か」が漠然としているということはつまり、そういうギラギラした憧れはさっぱりないということを意味しているように思います。

私の中にあった、漠然とした「何者か」への憧れは、おそらく「自分をフルに活かせること」への憧れなのだと思います。キラキラ輝いている成功者は「自分をフルに活かしている(そしてそれが成功をもたらしている)」ので、眩しく見えるのです。
「何者か」になりたいと思って悩んでいる人が、単に金回りがいいだけの成功者に対して憧れを抱くかというと、あまりその構図は想像できません。そういうものに憧れる人は「何者か」ではなくストレートに「金回りがいい人間になりたい」と思う気がします。手段を選ばなくてもいいのなら、それならそれでやるべきことははっきりしてくるでしょう。

tksさんが記事内でお書きになっていることと関係しますが、私個人の体感としても、自分を活かしたいという気持ちにとって最大の脅威は「自分を活かしたけど大したことなかった」という結果に行き着くことです。そして「自分を活かしたけど大したことなかった」ということは、tksさんがツイートされているように、私たちにとって単に自意識の問題に留まりません。(私もtksさんと同年代です。)
tksさん: 「世代的には私は30代半ばなのですが、物心ついたときから不況で、競争に勝たなければいけないと思ってきました。一方で、ゆとり教育の初期で、成績評価が相対主義から絶対主義に代わったり、オンリーワンでいいよ的なことも言われたりしてきました。」 / Twitter
tksさん: 「このどちらも、何者にならなければというマインドに影響を与えた感じはします。競争に勝つために何者になる、オンリーワンになるために何者なるといったように。また、単純に外側より内側に向く性格的な問題はあると思いますが。」 / Twitter
熾烈な競争社会であることと、自分らしさが武器になること、これが合わさると、自分らしさが武器にならなかった時というのは社会での競争にも敗北することが決定づけられることを意味しているように思えます。そもそもこの世代は、不景気が常態化し上の世代からは「ゆとり(笑)」と揶揄され明るい未来など見えるはずもなく、余程のパワー系を除いては社会で生きるエネルギーというものが元から乏しい傾向にあったと思います。その中で個性が武器になるというのは「(高度経済成長期やバブル期のような)ガツガツするエネルギーがなくても生きていけるのかも」という希望であったように思います。
競争と自分らしさの話自体はそれぞれ別個のことだとは思うのですが、同時に押し寄せてきたことであり、事実自分らしさによって競争に勝っている人がたくさんいる時代なので、自分らしさが他と比して劣っている(ように思える)というのは生きていくにあたりかなり致命的であるように感じられるのです。その時見える将来像は、大方「自分はこの先自分をすり減らしてただ食うために生きるんだろうな」といったものでしょう。(この厭世的な捉え方はもっと上の世代からすると飛躍を感じて不思議かもしれません。)

少し脱線しましたが、ともかく「自分を活かしたけど大したことなかった」ということに対する恐ろしさは、自分を活かすという意味が曖昧なうちから抱える恐怖なので、自分というものをどう活かせるかも知らないまま、「自分を活かそうと思ったのに結局駄目だったら辛い」という気持ちに苛まれるように思います。とりあえず、私はそうでした。
そうなると、「自分を活かせそうなこと」ほどできなくなるおそれがあります。もしそうして大したことがなかったら耐えられないからです。その結果、わざわざ苦手な仕事をしたりして「そもそも活きるはずがないことだから失敗しても仕方ない」という保険を無意識にかけてしまったりもします。置かれた場所で咲きなさいという言葉がありますが(それもそれで尤もとは思いますが)、わざわざ咲きにくいところに自分を置いてしまう悲劇があります。「活かそうとしない」方が「活かしてみたけど大したことなかった」より一層損失は大きいと思うのですが、可能性が決定的に閉ざされる苦しみよりかは精神的にマシに思えてしまうことがあり得ます。
(自分らしさに於いてうまくいかない可能性ばかりを想像してしまうのは、自分の意見を表明することや対人関係などでうまくいっていない現実があったり、自分が他の人と違って変人だというネガティブな自己認識があったりするという問題もあるかもしれませんが、ここではひとまず置いておきます。)

「きっと何者にもなれないのだ」と思って燻ることには、自分を迷走させるポイントが少なくともふたつあるように思います。「自分を活かしていない」ということと、「自分の活き方がわからない」ということです。
このふたつは密接に絡み合っています。自分を活かそうとしてみなければ自分の活き方というのはわからず、自分の活き方というのがわからなければ自分を活かすことができません。「鶏が先か卵が先か」の類の問題です。
自分の活き方を苦もなく知る人はいます。たまたま好きでやったことや、たまたま無意識でやったことを誰かに見出されるということはあり得ます。でも多くの人はそうではありません。二十歳になっても誰にも特に何とも言われなかったので何が強みなのかさっぱりわからない、ということが起こり得ます。上の世代は私たちほど個性で勝負していないので、個性の活かし方を教えてくれる大人の存在は極めて稀でした。そうすると、それでも自分の活き方を知るためにはよくわからないまままずチャレンジしてみなくてはならなくなるでしょう。
ただ、大人になったならば闇雲に試すことは難しくなります。同時に、闇雲に試さなくても済むようになってもいます。自分で自分を見つめる力がついてくるからです。というか、もっと強く、「自分で自分を見つめなくてはならないのだ」と言ってもいいかもしれません。
自分を活かすとはなんなのか、それが曖昧だと中途半端に自分を試してプライドごと玉砕しかねません。自分を活かすというのは恐らくかなりピンポイントなことです。例えばですが、「文章を書くのが得意」みたいなことは漠然とし過ぎていて、それだけを支えに生きようとすると重ねなくていい失敗を積み重ねる可能性が高そうです。何に対してどこから光を当ててどういう文体で何を書き出すのが得意か、まではっきり見えてはじめて「自分は文章を書くことで自分を活かせる」という確信を持てるのだと思います。
もちろん、自分と対話したからといってすぐさまそれが見えるとは思えません。「これか?」「こっちか?」と思いながら、自分のセンサーが反応しているものをいくつか試すうちに確信に辿り着くものと思います。そしてその確信が持てた時、実際にはまだ客観的に高い評価を得られていなくとも、「これが私にとっての『何者』だ」と信じられるのかもしれません。
(対話がうまくできず、あるいは社会の需要とあまりにも合わなかったために、結局どこにも辿り着けないということもあるでしょう。食べていくためにはいつまでものんびり自問自答してもいられません。しかし、「自分は何者にもなれない」と信じ込んでいる人の割合よりは、対話や環境次第でどこかに辿り着けるはずの人の割合の方がきっと多いと私は信じています。)

もしその確信によって「何者かになりたい」「何者にもなれない」という苦しみから解放されるのだとすれば、「ここではないどこか」に自分の心を向けさせている最大のストレス源は、自分の「何者でもなさ」そのものよりも、「自分が何になりたいのかわかっていない」という曖昧さなのかも、と思いました。私たちはそれを思い描くことを強いられましたが、その難しさについて教えてくれる人はいなかったのです。
そしてこのことは、「職についていること」「肩書きがあること」「家庭を持っていること」など、かつてはそれだけで自他が納得できたはずのステータスが、ある世代より後に於いては、それだけでは個性に関わりないがために大きな意味をなさなくなった、という価値観の不幸な転換を意味しているのかも知れません。家庭ができたから「何者か」になるのを諦めた(必要なくなったのではなく「諦めた」)、ということはごくありふれたことと思います。
 

2022/07/21

ツール製作日誌:カード式アウトライナー③カードっていうかルーズリーフだった編

 前に自作の「カード式アウトライナー」についてブログに書いた。ツール製作日誌:カード式アウトライナー②背景説明編
 これは二ヶ月ほど前から作り始めたもので毎日バリバリ使っているのだが、想定とちょっと違った使用感になっているので、そのことについて日記として書き留めておこうと思う。なお記事中でこのツールを指す呼称がないと不便なので、とりあえず自分のための愛称としてつけている「Protean Outliner」と書くことにする。


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 まず、これは「カード式」なのか? という疑問が立ち上がっている。コンセプトを根底から覆すような疑念なのだが、当初イメージしていた「カード」と、実際的な意味での「カード」が違っていたために少し想像から外れたところがある。
 背景説明編ツール製作日誌:カード式アウトライナー②背景説明編にて自分で「Evernoteの本文部分がアウトライナーになっているようなものかもしれない」と書いたのだが、まさしくそうで、これはカテゴリとしてはEvernoteと同種のものだった。カードではなくノート(大学ノートやリングノートの意味での「ノート」)の流れである。私が「カードボックス」としてイメージした構造は、実際にはルーズリーフのバインダーだった。
 アウトライナー部分がアウトライン構造から解放された状態というのが、このツールを作る前の時点では私の中でちょっと革命的だったし、「ばらせるもの」というイメージに基づいて「カード風」と捉えていた。実は「カード風」より「ルーズリーフのリフィル風」なのだというのは使ってみて初めてわかった。

 その感じが駄目かというとそんなことはなく、デジタルノートとしては私の中でEvernoteの上位互換になっている(もちろん「ノート」以外の機能はEvernoteに敵うべくもない)。アーカイブの概念があることによって、済んだリフィルをバインダーから外すようにして不可視化し、今現在アクティブなページのみがきちっと整列している。作成日時または更新日時でのソートや、期間や分類でのフィルタリングによって今の自分が把握しておきたい形で一覧できる。これはとても使いやすい。カード間リンクについても色々と機能を搭載していて、今開いているのとは別のカードの内容を、そのカードに移動せずに確認できるようにするなどしている。
 特に、何かゴールがある類の考え事をするのに適している。例えばブログ記事を書くということもそうだ。複数のカードに書いたものをその場で見ながら書くことができるので混乱が少ない。そして記事を書き終わればそのノートについてはとりあえず用済みになり、アーカイブにチェックを入れて、普段は見えない状態にする。ルーズリーフならバインダーから外されて保管用のファイルか何かに収納されるだろうし、それと同じ感覚だ。

 それと上述の記事(背景説明編(ツール製作日誌:カード式アウトライナー②背景説明編)内では「本になるくらいの長い文章を書くために使うことは想定していない」と書いたが、諸々の工夫によってむしろ長い文章が書きやすくなった。実際に本の執筆を試みたわけではないので使い勝手が本当のところどうなのかはまだわからないが、自分が打ち込んだテキストのビューはどうにでもしようがあるので、特別な機能を望まずただ書いていけばいいのなら普通に使えそうな感じがする。アウトライナーとしてより、テキストエディタとして便利になっている。
 他のやり方として、本くらいの規模の場合にはアウトラインはDynalistに作り、本文をProtean Outlinerで書くというのも有り得る。章ごとなどで作ったカード群の本文部分について、任意のカードを任意の順番に並べてまとめてtxtファイルにするということをできるようにしているので(最近付けた機能)、Git管理も簡単である。作業は章ごとにカードを分けた形でやることになるが、出力するのは全部マージした状態のひとつのファイルであり、後から章分けを変えたせいでGitの追跡が混乱するといったこともない。
 ツールを作った時点ではあくまでこれは「アウトライナー」だったので、長文を書く作業の場として活躍するとはあまり思っていなかった。

 一方で、うまくいっていない面もある。元々は豆論文を書いたり読書メモを溜めたりできるようにしたかったはずなのだが、その用途ではいまいち捗らない。つまり「思索を深める」「考えのリンクを張り巡らす」といったことがいまひとつできていない。機能としてはそうできるようにしたつもりなのにもかかわらず。
 各カード内でアウトラインの任意の行を「付箋」にして平面上で操作することができるようにしたり(≒こざね法)、カード自体を任意に平面に並べられるようにしたり(≒KJ法)、複数の粒度で紙片っぽくして扱えるように機能を実装してはいるのだが、それが存分に生かされているとは言い難い。機能自体に「なんか違う」と思っているわけではないし、使っているには使っているものの、「思索を深める場」としての自由自在な感じがない。
 ひとつの要因としては、常に何かしらについて課題解決用ノートとして使っているから、ということが言えそうな気がする。「ゴールがあって、それに向けて考える」という種のことを常にやっている場なのである。その用途で使いやすいように画面はレイアウトされており、豆論文を書くということはその中ではイレギュラーな状態になってしまっている。
 課題解決型の記述に於いては必要な機能が、豆論文を書くには別に要らなかったりするし、平面上の操作についても機能がついてはいるものの「オプション」という位置づけで、それをメインとして私自身が認識できない。つまり、兼ねてはいけないものを兼ねているということだろう。
 となると、豆論文を練る場は別に必要だということになる。既存のツールを見渡すと、素晴らしいツールはたくさんあるが、いずれも私個人の感覚にはどこかしら合っていない部分がある。やはり作るしかないだろうと思う。

 ということで、実はもうツールを作り始めていて基本的な機能を実装したところなのだが、それについてはまた後日書こうと思う。
 

2022/07/19

プログラミングに抱く「得体のしれなさ」問題

Go Fujitaさんのこちらの記事に、

次のようにあるのを読んで、少し考えました。(言及いただきありがとうございます!)

そして、倉下さんやのらてつさんと同じことはとてもできないしやらないけど、ぼくだったら何ができるだろうか、と考えるようになりました。 


私が使えるのは、JavaScriptがある程度とPythonが僅かばかりという状態ですが、倉下さんがお使いになっているのもJavaScriptとPythonなので、私は初心者ながらも倉下さんのお話はおおよそイメージを掴むことができます。どの程度の難易度のコードなのか、というのが大体わかるのです。
一方Go Fujitaさんが日頃お話になっている言語やツール(例えばSmalltalkやEmacs)については全く触れていないので、Goさんのお話は私にはおそろしく難解に感じます。何も知らないので「難しそう」と反射的に下す判断が当たっている保証は一切無いわけですが(実際、おそらく多くが間違っているのですが)、「難しそう」という評価を覆す体験を自分が一向に積まないので、「難しそう」という印象はそのまま残り続けてしまっています。
倉下さんや私がやっていることは当人からすると他の人にとって「とてもできない」ようなことではなく、またGoさんがお話になっているSmalltalkなどについてもGoさんからするとそこまでハードルの高いものではないのではないかと推察しますが、扱える言語が違うだけでなんだかとても高くて厚い壁が立ちはだかっているかのような気分になってしまうように思います。まだどの言語も知らないプログラミング未経験者からすると尚の事でしょう。ある言語の特徴などを抽象的に語ると、その言語を知らない人からすると「全く何を言っているかわからない」ということになってしまうからです(小一時間勉強するだけですぐわかるようなことであったとしても)

私が「こんな感じに自作ツールを作ったor改良した」「プログラミングを始めて○ヶ月でこのくらいだ」という話をするのは、「右も左もわからないド素人でもちょっと齧れば結構なことができるぞ」ということを伝えたいからです。
しかし一方で、「結構なことができる」を言いたいがために情報量を増やしてしまうと、まだその言語に挑んでいない人を逆に圧倒してしまう可能性があるとも感じています。すごいのはあくまでプログラミング言語なのですが、プログラミング言語を使う私がすごいかのように見えてしまう、という感じがします。他の人の語りに対して、私自身がそう感じています。(もちろん「プログラミングしている人」に個々のすごさというのがないわけではないでしょうが、プログラミング言語に対する「わからなさ」が「すごさ」の評価にどかっと上乗せされがち、という印象があります。)

伝える側として、これを解決するにはどうしたらいいのだろう、と時々考えます。しかしまだ答えは出ていません。
具体的なコードを公開するのはひとつの手かもしれませんが、しかし私個人の体験としては、先に「難しそう」を取っ払ってからでないとどんな簡単なコードも難解に見えて圧倒されてしまいます。「console.log("Hello World!");」でさえ、文字で見るとウッとなる可能性があるわけです。
私がJavaScriptの勉強を始められたのはいくつか具体的な動機があったからで(以前自分のブログ(JavaScript日誌:一歩進んだら十回足踏みせよで書きました)、誰かの導きの力というのはそれほど大きな意味を持ちませんでした(影響が全くなかったというわけではないにせよ)。そう考えると、誰かに「最初の一歩」を踏み出してもらうための後押しというのは、どう頑張ってもなかなか難しいのかもしれません。
ただ、例えばJavaScriptを勉強してみようという時に、「勉強するはいいけど最終的に何ができるんだろう」と思いながらやるよりは、「○○(※任意のツール名)の代わりになるようなツールを作れたりするらしい」というようなイメージがあった方がワクワク感は持てるような気はしています。Goさんは記事の中で「気取ることなく楽しそうに、サイトやウェブアプリ (?) をつくっているようすをみて、刺激を受けている人も多いと思います」と書いてくださっていますが、そのように「楽しいものだ」という印象をもたらすことができているとしたら、それは小さくない意義があるのではないかとも思います。

また、もしかすると個別のプログラミング言語の話や成果物の紹介よりも、「ツールというのはこれがああなってこうなってそうなるものということだ」的な、メカニズムの把握の仕方の方が「最初の一歩」の後押しとしては大事なのかもしれません。学校でプログラミング教育を受けていない私たちには、その部分にボコッと穴が空いている気がします。
例えばブラウザで動くメモツールを作るのだとすれば、まず「メモツールというのは、テキストエリアを用意し、そこに自分が打ち込んだテキストがどこかに保存され、起動時にそれを呼び出すことができるものだ」という認識が必要です。逆にそこまでくれば、「JavaScript テキストエリア」「JavaScript データ 保存」とかで検索するだけで大体どうにかなるのです。やりたいことがはっきりしてさえいれば、それが実現できるまで調べればいいので、投げ出さない限りそのうち正解に辿り着きます。

私はプログラミングそのものを人に教えられるほどプログラミングのことを知りませんが、日曜大工のように趣味として自分のためにプログラミングすることがもたらす豊かさへの感動を人一倍抱いていると思っています。(日曜大工的にプログラミングする人のことを「サンデープログラマー」と呼ぶようですね。)
どうしたらその感動を活かせるだろうか、ということを今後も考えていきたいと思います。

2022/07/18

五十年残る文章を書く

 昨晩、テレビで日曜美術館(NHK総合)を見た。「杉本博司 江之浦測候所奇譚(きたん)」の回である。
 現代美術作家の杉本博司氏が現在手掛けている「江之浦測候所」は、私たちの中に眠る古の記憶を呼び覚ますように、かつて古代人が見たであろう風景、覚えたであろう感動を想起させる彫刻や建造物で構成された、巨大なアート施設である(この説明は番組で見聞きしたものを思い出して書いているので、解釈に誤りを含む可能性がある)。この施設を作るにあたり杉本氏が意識しているのが「五千年後に遺跡としていかに美しく残るか」だ、ということがこの番組で語られていた。


 このアート施設にはテレビ越しでも色々と感嘆する点があり、細かく感想を述べたい気持ちもあるが、今回は「江之浦測候所」そのものについての所感は割愛する。一言だけ言うと、確かにこの施設は(他の多くのアートとは違って)五千年後も美しく残るかもしれない、という気持ちを私は抱いた。「表現」であって「表現」ではないような、元来のアート観を超越した何かがそこにはあるように感じられた。

 さて、この施設自体にも圧倒されたのだが、それ以上に、「五千年後に遺跡としていかに美しく残るか」というビジョンの壮大さに仰け反った。パーソナリティの小野正嗣氏も驚嘆のあまり思わず笑ってしまっていたが、あまりにスケールが大きいともはや「わはっ」と言うしかない。
 しかし、そのビジョンが非現実的かというと、そうは思わなかった。確かに残るかもしれないと思ったし、現に五千年前の人類が残した遺物というのは存在している。それも未だ美しい形で残っているものがいくつもある。そうやって残ることを「狙う」というのが想定外だっただけで、然るべきものを造れさえすればあり得ないことではない。
 ただ、「確かに残るかもしれない」と感じられたのにはもちろん理由がある。杉本氏がそう言うなら残るんだろうとか、使っているものが石なんだから失くなりはしないんだろうとか、そういう単純な話ではなく、「五千年後も美しく残るものとは何か」が考え抜かれているからこそ納得できたのである。しかも、彼は「杉本博司という人間がこれを作ったのだ」ということを残したいのではない(ということが語られていた)。自分という個を云々する次元は超越し、人類とその歴史というものに真摯に向き合い、人類史を繋いでいくものとしての遺跡を作ろうとしているのだろう。

 翻って、自分自身のビジョンを考えてみる。とりあえず、今まさにそうしている通りの「書く人間」としての自分に焦点を当てよう。私の日々にビジョンはあるだろうか?
 正直なところ、ビジョンらしいビジョンはない。というか、「五千年後に遺跡としていかに美しく残るか」というビジョンがあり得ることを知った今、それまであった自分の思いらしきものは取るに足らなすぎてもう忘却してしまった。圧倒されて消し飛ばされたという感じである。
 書くにあたって意識していたことを振り返るならば、「今書いているこの文章が、今読む人にとって、面白いものであること」を目指していたであろうと思う。共感性を高めるにはどうするかとか、読み手に首をひねらせることなく意味を伝えるにはどう書くべきかとかいうことである。
 それはそれで多分大事なことだとは思うのだが、なんというか、あまりに「今」に意識が向き過ぎているようにも思う。Twitterで何かツイートするのと感覚的にはあまり変わらないのだ。ブログという、本ほどではないにしてもTwitterよりかは遥かに「残る」ことを意識した場であるにもかかわらず、「今」のことしか考えていない。
 そして実際のところ、読んでくださっている人が「折に触れて読み返す」ということをしてくれるような文章を書けているかというと、それはまあ、検証するまでもないことであろう。
 そうしてもらえるほどの文章というのは当然才能や見識の豊かさに支えられるものであって、そもそも自分にそれが足りていないという現実があるわけだが、その上「今」のことしか考えていないとなればいよいよ「残る」可能性は皆無である。せめて目指すくらいはしないと話にならない。

 さすがに文章に於いて「五千年後」というのはスパンが長過ぎるので、それらしい長さを考えてみよう。といって、「五年後」程度だと、まあ今の時代ならば五年経って人の意識に残るのも奇跡的な話ではあるが、さすがにスケールが小さい。もっと大きく出てみたい。既存の名著を参考にするならば、まず『知的生産の技術』(1969年)『発想法』(1967年)『考える技術・書く技術』(1973年)『日本語の作文技術』(1976年)など、古典というより「今の書物」として未だに読まれている本が思い浮かぶ。
 それらがわっと刊行された時代から、既に五十年ほどが経った。私が生まれる前に誕生した本であり、デジタル技術をはじめ環境というのは大きく変わっているはずだが、私の目にも文章は全く色褪せていない。もっと下の世代にとっても同じであろう。これらは基本の「き」として折に触れて言及され読み返され、今を生きる人が「思考する」ということを考える上での最初の一歩であり続けている。はじめの一冊ではないとしても、返るべき原点として今も認識されているのである。
 これらの名著はこの先も何十年経とうと鮮やかさを失わずに在り続けるかもしれないが、とりあえず、「五十年」というのは目標として悪くないように思う。五十年先も文章が残るというのは、絶対にあり得ないわけではない一方で、当然ながら普通はそうはならない。少なくとも、漫然とやっていたのでは達成され得ないことであろう。

 よし、五十年残る文章を目指そう!

 実現を信じるのは無茶だという気持ちは当然あるが、自分の文章に「芯」を作る上では「五十年残る文章を書く」というのはなかなか良い目標に思える。

 ところで文章術の前提としてしばしば言われるように、基本的には「立派なものを書こう」という気負いが文章を書くという営みを邪魔しがちであって、その縛りから自分を解放することが肝要ではある。
 ただ、そもそも「立派なもの」として想像している像が不適当ということもあるだろう。万人を納得させられるようなとか、読んだ人に一目置かれるようなとか、PV稼げそうなとか、そういったものだ。あるいは「完全無欠」を目指すもの。
 先の「五千年後にも美しく残る施設」というのは、完璧な構造物ということではないように思う。己の信念や美意識に照らしてより理想的なものを追求するにしても、それは「完璧を目指す」のとはおそらく違っている。今に残る五千年前の遺物というのは「完璧」だから残っているわけではない。強いて簡潔に言語化するなら、必要なのは「存在感」であろう。

 つまり必要なのは、「渾身の文章」を捻り出そうとすることだ。内容のスケールは別に大きくないとしても(今日の朝ご飯の話でも良いのである)、「まあ大体言いたいこと言えてるし及第点だよね」みたいな軽さでちゃらっと書くのではなく、一文でもいいから地球に刻み込もうと思って書くということ。この文章を読むことでしか手に入らない何かがあるということ。「わかりやすい」「面白い」に留まらず、どこか独特な印象を残すということ。全ての人に満遍なく届かせようというのではなく、目の合った幾人かを掴んで離さないということ。

 字数を埋めるように書いているような時、「これが五十年後残ると思うか?」と自分を叱咤して筆を執り直したい。「他人」でも「自分」でもなく「歴史」に焦点を合わせた時、そこから湧いてくる活力というものがあるように思う。
 

2022/07/04

Evernoteの用途と「Evernote体験」の質

最初に書いた「Evernoteさん、雑に使ってごめんなさい」にいただいた反応と、他の方がお書きになった記事を読んで思い至ったことを書きたいと思う。(以下、埋め込みにするとあまりに場所を取るので手動リンクにしています。)


Evernoteに関しては、「使えている時は使えている/うまく使えた期間がない」「やがて使わなくなった/今も現役で使っている」の二つのステータスについて考える必要がありそうである。
もちろんあらゆるツールについてその二つのステータスがあるのだが、Evernoteは2010年頃にデジタルの情報管理に関心があった人の多くが通ったツールであり、おそらくそれぞれが結構な量の情報を保管しており、未だ開発は続いていてデータの扱いに困るわけではなく、それにもかかわらず使われなくなったケースが多いという少し特殊な位置づけにあるツールのように思える。「なぜ」を問うことには大きな意味がありそうだ。

今も活用しているGo Fujitaさんと研究室のEvernoteさん、前はうまく使っていたけれども今は使っていないえむおーさんとtasuさん、うまく使えた感触を持たないまま使わなくなった私。それぞれの話を眺めて思ったのは、「取り出す」頻度の違いである。他の方々が実際にどういう風にお使いになっていたか、具体的にはわからないので想像になってしまうところはあるが、「仕事や研究」で使うのと、「個人の関心」のために使うのとでは、おそらくその点に大きな違いが生じるのではないか、という推測を抱いた。
仕事や研究のために資料・書類を集めておくという場合、その情報を後で取り出す可能性というのはかなり大きいものなのではないかと思う。結局二度と出してこなかったという情報は、そうでないものよりどちらかといえば少ないのではないだろうか。読み物の収集にしても、実際的な意味で「後で読む」ために保管することが多いように思う。
一方で、個人の関心のために情報を集めるとなると、本当に「これはいい!」「これは興味深い!」と思ったものだけ厳選できるならいいが、そうできない場合「ちょっと興味があるかも」みたいな曖昧な基準で大量の情報を集めすぎる可能性がある。到底、熟読・熟考し得ない量の情報を集めてしまい、結局見返さなかったということが多々発生する。そもそも、一度読んだ時点で用は済んでいるのに、「消えちゃうともったいないから」といった理由で「念の為」保存しておくということもよくある。そういう情報は後々見返す確率はかなり低い。(そういったものを溜めるのは無駄、ということではない。)

Evernoteの有用性というのは、一番には「保存しておいたものをさっと取り出せる」というところに感じるものなのではないかと思う。そうできるシステムをEvernoteが備えているということと、そしてEvernoteを使う中でその良さを実際に体感するということで、ユーザーがその有用性を実感する。「さっと取り出せた」という体験をしなければ、Evernoteのシステムのすごさを頭で理解はしていても、それを実感できていないので、「ここがEvernoteの素晴らしいところだ」と惚れ込むこともなく不完全燃焼に終わるのかもしれない。
個々人の性質の違いもさることながら、Evernoteを使い始めた最初の時点で「仕事・研究用」と「個人用」のどちらをメインとしたかで、「Evernote体験」の質が随分違ってしまうのではないかと思った。取り出す可能性が高い情報ばかりを集めたならば、実際に取り出す経験を重ねるので、Evernoteっていいなとしみじみ思える気がする。

利用を途中でやめたか継続しているかということも、「取り出す」頻度にかかっているような気がする。
えむおーさんもtasuさんも、環境の変化でEvernoteを使いにくくなったり使えなくなったりしたことで、以後すっかりやめてしまうに至ったようである。よくよく思い返すに、私も環境の変化でPCを使う時間が減りスマートフォンがメインになったタイミングでEvernote離れが決定的になったように思う。Evernoteが備えていた固有の機能に物足りなさを覚えたとかではなく、スマートフォンアプリの出来がいまひとつであったことや「重い」「遅い」「不安定」といった理由によって、情報を「さっと取り出す」ことがスムーズに行かなくなった。「保存する」のは変わらず簡単でも、「取り出す」のが億劫になってしまうと「別にEvernoteじゃなくてもよくない?」という気持ちがじわじわ生まれてきてしまうのではないか。
また仕事や研究で使っている場合には、その内容がいつまでも必要なわけではない。同じ種の仕事・研究を継続しているならその限りではないが、何かのきっかけでそれまで蓄積した情報にアクセスする動機を失ってしまうと、代わりに溜め込むべき何か(そしてそれをEvernoteに溜め込む熱意)がなければあっさりとEvernoteから離れてしまうことになるのかもしれない。

こう考えてみると、もしかするとEvernoteというのはツールへの愛着より機能を重視してしまいがちになる要因を持っているのかもしれないし、どこかしらカチッとし過ぎているとか重厚過ぎるとか、使うために気合めいたものが必要になるツールなのかもしれない。(そのあたりについてはまた改めて考えられたらと思う。)
 

2022/07/01

令和の「同人」としてのトンネルChannel

 先月末に倉下忠憲さんが「トンネルChannel」というSubstack(メール配信できる共同執筆ブログ的なもの)を開設なさり、面白そうと思って参加することにした。先月中に記事を2件投稿してみた。


 前々からそういう構想があったことはTwitterのコミュニティで拝見して知っていたので、しばらく様子を見て自分が入っていっても大丈夫なものか判断できたら末席に加えていただこうかしらと思っていたのだが、なんというか、さっさと参加者になった方が「大丈夫じゃない」状態にならないのではと思ったので結局早めに参加してしまうことにした。
 この構想に興味のある人はそこそこいると思っていたので、数日経ってから志願した私は四番目か五番目くらいになるかなと思ったが、思いがけず(テストに協力なさっていた富山さんを除き)一番乗りみたいなことになってしまった。そんなこんなで恐縮しながら書いている状態なのだが、温かい反応をいただいて少し安堵した。

 トンネルChannelの全体像を知ることのできる記事のまとめや大雑把な概要については、個別ページを作ったのでご興味のある方はそちらを見ていただきたく。

 構想時点のお話をちらちら見ていて連想したのは、明治・大正・昭和初期にあった「同人」のイメージだ。現代で同人活動というとアマチュアの(そして特にパロディものの)創作・出版活動のことを指すことが多いが、その形の同人ではなく、「白樺」とかの意味での同人である。
 といっても高校の国語の授業でさらっと聞いたくらいで当時の同人活動については全く詳しくはないが、以前から漠然と、「〇〇荘」的な場所に集まったり文通したりで思想的・哲学的刺激に富んだやり取りを交わす関係性、というものに憧れを抱いていた。文学史や美術史に刻まれる一歩がそういったところから踏み出されたケースは高校で習うだけでも数々ある。
 おそらく、そこに属した人々はそれぞれ単独で活動していたらそこまでの力を持てなかったではないかと想像している。各々優れた感性を持っていても、化学反応を起こして力を引き出してくれる存在や、思う存分発揮した力をお披露目する場がなければ、ムーブメントにはなれないのではないか。絶対に無理ではなくとも、容易でないのは確かだろう。

 そこまでの「時代を変える」かのような先鋭的な力をこのトンネルChannelに期待しているわけではないのだが(程度の話ではなく、そもそもそういう方向性のものではないと思う)、上述した「『〇〇荘』的な場所に集まったり文通したりで思想的・哲学的刺激に富んだやり取りを交わす関係性」は再現できるのではなかろうか、と思っている。何も高度な話をしようというのではなく(まず私ができない)、「個人の思想を話し合える」ということが既に貴重になっているこの時代で、そういう感性の居場所が確保されることになると良いと考えている。
 明治・大正・昭和初期のことは、後に有名になった人々の活動を遡る形でしか知らないので、世間一般でどうであったのかはわからない。大学生に限って言えば今よりは思想的・哲学的な対話というのは普通のことであったのではないかと想像するが、それでも「世の中」がそうであったとは到底思えない。世間の人間の思慮の浅さを嘆く文章が生まれなかった時代はないだろう。いつでも思想を交わす関係はレアなのだ。

 ここで述べている「思想」とはつまりある種の「自分語り」である。より限定的に言うと「私たち語り」になるかもしれない。自分という一人の話ではなく、自分のような存在の話だ。これこれこういう特徴を持つ自分はこうなのである、という話をした時、その特徴があまりに個性的ならばほとんどその人ひとりの話をしているようではあるが、しかしそれでも「これこれこういう特徴を持つ人間」という「私たち」の話であるはずだ。
 そういう「私たち語り」をするのは、現代では世間一般はおろか大学生ですらもはや希少な在り方になってしまっている。インターネットが生まれてブログの文化ができた時点ではそういった語りがある程度復活したはずだが、アフィリエイトとPV志向がそれを破壊したのだろう。時を経てTwitterが隆盛し、「そういうタイプの人間もまだあちこちにいる」ということはわかるようになった。Twitterというメディア自体がその活動に向いていないのがもどかしいが、ともあれ「まだ絶滅していない」ということは実感できる時代にはなっている。
 noteはTwitterの短所を解決するかに思えたが、内容として思想的でないものも大量にある以上、結局雰囲気としてはTwitterと同じようなものではないかと感じている。どうにもSNS的過ぎる。「スキ」の数という指標があまりにも邪魔である。というかそもそも思想としての「私たち語り」をするには大衆的過ぎる。もう少し地下か路地裏かに潜むようでないと話しにくい。noteが駄目だという話ではなく、「私たち語り」の場として合っていないのだろうということだ。他の用途のための場だなという感じがする。

 そういえば、トンネルChannelについて語られたうちあわせCast(第百七回)でScrapboxの共同編集についても触れられていた。私も知識を集めるにはScrapboxは非常に有効と思うが、思想的な話は難しいと感じている。いや思想というか、抽象的なアイデアを共有するというのが難しい。
 アイデアというのはその人の自尊心などと固く結びついていて、切り離すことは感情的に難しいと思うし、切り離そうとするべきでもないだろう。企業で行うブレストは個人ではなく企業(ないし企業内のチーム)が主体だから成り立っているのであって、「知的生産を試みている者同士」で同じようにできるわけではないように思う。よって、「私たち語り」をするのであれば、知的生産の産物を発表し合う形でしかうまくいかないのではないだろうか。Twitterでならぽんぽん出てくるのも、それは「何月何日何時何分に私がこの言葉でこう述べた」という証拠が残るからであろう。逆にそういう証拠が個人に紐づく形で残ると困るタイプの人は匿名掲示板などで生き生きとするかもしれないが、そういうタイプでないと匿名性はむしろやりにくさに繋がることになりうる。
 Scrapboxは別に匿名の場というのではないので、自分で各行にアイコンを入れていけば良いのだが、複数行書いた時などに他の人のコメントが複雑に入ったりするとだんだんどこからどこまでが誰の発言かわからなくなってくる。発言を他人が分断できてしまうのである。そもそもアイコンをその都度付けない人もいる。そういったことが曖昧でも構わないような内容(知識重視だとか雑談だとか)か、あるいは明確に目的があってそれを達成すれば構成員全員のゴールになる形(企業のチームが使うプロジェクトなど)なら支障はない気がするのだが、多分、具体的なゴールがなくグループにもなっていないばらばらの個人の集まりで「アイデア」を交わすにあたってはその曖昧さはネックになってしまうと思う。他人のアイデアを元に思いついたものをその後どうしていいかもわからない。グループの形を取っていない以上、権利関係が感情的に片付かない。「これを元にしている」と言うためにも、各々のアイデアは知的生産の産物の形を取っていてほしいところがある。

 脱線したが、つまりトンネルChannelには「これまでだんだんと薄れていったもの」を再び濃く色づけていく可能性を感じられる。戦前の偉人たちがやっていたことを、令和の今になって、しかもオンラインで体験できるのではないか。私は偉人ではないので歴史を変える力は持てないかもしれないが、私という個人の歴史はちょっと変わるかもしれない。全てはやりように掛かっているが、その「可能性」はここにあるという感じがする。

 個人的にこうなったら良いなと思ってはいるものの、トンネルChannelをそういう方向に引っ張りたいわけではなく、それぞれの活動の結果で場として自然な方向に漂っていけばいいと思っている。なので、トンネルChannelにポストすることはしないで自分のブログに書くことにした。
 

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