新用法としてのoutline
こちらを拝聴しました。
動じないために。
例えばBlueskyにポストしたようなものを紙に書き直そうかと一瞬思ったものの、300字みっちり書いていた場合「般若心経が260字ちょっと」ということを考えるとちょっと無理かもしれないという感じがしてくる。
そして「じゃあ印刷するか?」とこれまた一瞬思ったものの、多分1頁に3~4ポストくらいしか入らないのでえらい枚数になってしまう。印刷代も馬鹿にならないし、単純に紙が増えすぎる問題もある。
デジタルのメモをわざわざ紙化しようとしているのには理由があるけれど、実際やるのは無謀かもしれない。
ところで夏井いつき先生は俳句に関して「言葉の経済効率」という言い方をする。それで言うと般若心経はあまりにも言葉の経済効率がよすぎる(漢文なのだからそれはそうということはある)。
そして自分の言葉の無駄を反省している。放流すれば読んでくれる人がいて、自分の言葉に無駄があるならば、その人の時間をただ奪ったということになる。読むかどうかは読み手の責任と言ったって、関係性の都合上、読まないことを選択するのが現実的でないということは普通にある。それをわかっているならば、必要な分だけ差し出すようにした方が誰にとってもいい。
今日は無駄な言葉をたくさん放ってしまった。反省。
アメリカのトランプがさすがに支持率を落としている。
高市政権について、小沢一郎は「浮ついた人気は何かの拍子に落ちる。きっと夏ごろまでに、この人気はなくなるだろう」と語った。
トランプを「推し」としているアメリカ人のうちかなりの数はあくまで自分の暮らしの改善や自分の価値観の正当化を願ってのことであるから、それが叶わないとなれば支持が離れる。
一方で高市を「推し」としている日本人のおそらくほとんどは具体的な期待というより漠然と好感を抱いてのことで、それゆえにかえって幻滅の契機もないから、高市人気は一時的だ限定的だという予測はあまり当たらないんじゃないだろうか。
よっっっっっっっっっっっっっぽどとんでもないことにならない限り、現状ほかにカリスマ性を感じさせる議員なんかいないのだから、大衆の気持ちはそう簡単には変わらないだろう。高市政権の実情がどうであれ。
日本国民の生活は極めて苦しくなっているのではないかと思う。そして国民の生活が苦しいということは為政者の責任である。しかし、日本人の理屈というのは気分で簡単に変わるもので、為政者の責任を問おうとするのは為政者の責任にしたいという気分の時だけだ。為政者の責任にしたいとそれほど思わなければ厳しく問うことはしない。
石破茂に対しても最後は同情的な人が多かっただろうし、「これは一人の責任じゃないよね」「この環境ならよくやったよ」と感じれば大目に見たくなるものだ。
思想的なバックグラウンドがあんなにも怪しいのに、それでも初の女性首相が、にこにこと柔和に微笑み、そして落ち着いた毅然とした態度でいるというだけで、多くの国民を安心させてしまえる。
日本人の気質と歴史が高市政権の支持を意味不明なほど高く維持しているのだと思う。支持の理由が曖昧であるがゆえに、いつ転落するかと誰もが思いながら、逆にわけもわからず高止まりし続けるのではなかろうか。
遠い昔にディベートがうまくできなくて発狂した黒歴史がある。その時自他が感じたことは共に「なんてプライドが高いことか」ということだったろう。
でも今考えると、そこにあったのは「プライドの高さ」ではないんですよね。ただひとつ、「自分の無さ」があった(謎の日本語)。
強権的な、他罰的な、「批判的」で「知的」な親というものの下で育った場合、その物言いをコピーしてけば、他の同年代より遥かに速いスピードで「それらしいこと」をインストールできる。受け取らされた既成の「知」によって自分が知的になったと錯覚し、その「飲み込み」によって評価を得ることになる。
そうなると自分が知的に無能であるということは全く思いもよらないということになるわけですが、実際のところ自分で物を考えるということをほとんどショートカットして生きているので、誰も気づかないけど結局のところおそろしく無能のままになっている。インストールの能力だけが高まっていく。
ここで自分の知が揺らいだ時、何にも対処ができない。対処法に皆目見当がつかない。頭の中に警報が鳴り響き、この異常事態を一刻も早く終わらせてしまわなければならないと焦燥に駆られる。それが発狂である。
別にちょっと落ち着いて考えればいいようなことでも、それは実のところ「ちょっと」という時間や「落ち着き」という精神の安定の問題ではなく、その時点でそうすることは一切不可能なのである。
真に知的な人というのは知の得難さを思い知っており、よくよく備えて生きていかねばならないということを肝に銘じているので、そのように子どもにも伝えるだろう。そうではなく、「知」そのものを押し付けて「知を持つ人間」を作り上げようとするのはおよそ知的な育て方とは思われない。
その結果、「プライドが高い」という永久に的外れな評価で刺され続け気が狂って暴れ散らかすモンスターが誕生するわけですが、運が良くないとそこから脱して「物を考える人」に生まれ変わることはできないだろう。
運が悪いとどうなるかというと、真実を暴かれることを漠然と恐れながら虚勢を張り続け人から呆れられる人間としてそのまま寿命を迎えるか、実は無能であるという真実に自分が耐えられなくなりそこで生涯を終えてしまうか、そのどちらかになるんじゃないでしょうか。
道徳的な怒りと距離を置いていて且つ自分の知性に自負のある人の中には、道徳的怒りに駆られている様子それ自体を頭悪く思っている人がいるように感じることがたまにある。
しかし道徳的怒りが自分の中心に居場所を得ることがあるかどうか、知性があるかどうかはそれぞれ別の話だと思うし、道徳的な怒りは必ずしも制御不能になっているとも限らない。
もちろん、制御不能の狂戦士状態で思考力が麻痺しているということは実際ある。自分の半生の経緯によって脳がスイッチを入れてしまうという人もいるだろうし、単に知的訓練が不足しているせいで「怒っていいタイミング」に飛びついてしまう人というのもいるだろう。
とはいえ、道徳的に腹を立てている様子を見ただけで反射的に「またこのパターンか、やれやれ」というふうに解釈するのは早計にも程があるだろう。
地球ドラマチックでアルテミス計画のことをやっていた。
私は地球科学が好きで、その延長として宇宙がどうなっているかということにも人並みの興味はある。
宇宙とは何であり、何でできていて、これからどうなっていくのか。ハッブル宇宙望遠鏡による幻想的な画像にもしばしば感嘆する。
その一方で、「宇宙に行く」ことには僅かにも関心がない。宇宙飛行士が熱弁を振るっているのを見ても、地球を飛び出してまで発展しようとするホモ・サピエンスの強欲に気持ちが冷める。人類の未来のためねえ。ふーん。
宇宙に行くというのは、もはや「宇宙とは何かを知る」というためではない。資源のためであり、何かに利用するためにやることだ。それがとても大事だと思う人にとってはそれは大事なのだろう。私は人間の欲望にうんざりしているので、そんなのやめたらいいのにと思っている。