2026年5月の振り返り
5月の振り返り。割合充実した一ヶ月だった。
動じないために。
自分が重要視しているものは重要だが、自分が重要視していないものは重要でない、ということはよくある。私も多かれ少なかれそうなのだろうし、これから逃れることはできないのかもしれない。
自分が重要視していることは厳密に理解してもらわねば困るが、自分が特に重要視していないものは別にどこにどういう違いがあろうがどうでもいい、ということ。
自分を世界の基準と一体化させていると、自分にとってそうなら世界にとってもそうと思ってしまう。
万人に共通であろう重要性というのはもちろんある。人として真っ当に生きるとか社会を存続させるとか地球を持続可能にするとか、……いや、これもどうでもいい人はどうでもいいらしいし例として相応しくないな。「自分が明日も生きていること」くらいにしないと万人共通にはならないかもしれない。
要するに、自分の重要視と他者の重要視は全く違っているということ。自分が重要に思っていることも他の人からしたらどうでもいいし、自分がてんで重要視していないことが他の人にとっては何より重要であるということが当たり前にある。
問題は、このことが知性の評価と結びつきやすいということだ。つまり極端に言うと、自分が重要視しているものを厳密に理解できないやつは馬鹿で、自分が重要視していないものに真剣になっているやつも馬鹿ということになる。
恐ろしい話ですね。
「おさかな天国」という曲がある。日本に住んでいて知らない人はいないんじゃないかと思う恐るべき大衆ソングである。
全国漁業協同組合連合会のキャンペーンソングとして作られたものということで、全国のスーパーでかかっていたしテレビでも魚の話をする時にかけられることが多かったのでまあ誰でも聞いたことはあるに違いない。
でもただ聞いたことがあるだけでは誰もが知る歌ということにはならない。メロディー、歌詞、歌声のインパクトで一回聞いただけでもう覚えてしまうような曲なのがすごい。そしてそれをあっちこっちで繰り返し繰り返し聞くものだからもう頭から離れない。魚を買おうと思ったというだけで反射的に口から「さかなさかなさかな~」と出てくる始末である。
で、それとは全く関係ない話だけども、私はSNSとの付き合い方がうまくないので前から困っている。というのは、「短文をすぐさまポストできる」という形式により、自分が考えたことをしばしば垂れ流しにしてしまう悪癖がある。
このことについては言葉の経済効率でも書いたばかりだし、私という不思議な生き物を観察することについての諸々など何度も書いている。
考えの垂れ流しというのはシンプルに迷惑になり得る(知り合いが何か書いていたら読んでしまうものであって、すなわち時間泥棒になる)し、短文ゆえに自分がフォーカスしているもののエッセンスだけを喋ることになるから、どういう文脈で、何"ではない"話なのかというのが読み手に見えにくく、不親切な表現になってしまう。その結果誤解が生まれることもあるし、考えの垂れ流しはコミュニケーションではないから、他の人の考えと相乗効果を生めないこともある。
SNSでも投稿は投稿なのだから、「この文章を人のいるところに投稿するぞ」という意識を持ち、そして他の人の投稿と反応を起こし合うことを楽しむ態度を作った方がいい。
一人で考えたい時は一人で考えられる場所で考えるべきで、そしてまとまってから公開するという流れを守る必要がある。
で、私はこのサイト、こののらてつの茶の間という場所をわざわざ作っているのであり、何ポストにもわたって連投するような規模なら本体の記事か茶の間記事かにきちんとまとめて投稿すべきなのだ。
そうわかっていてそのように出来ていないのは、思考垂れ流しモードになっている時にそのことを思い出せないか、思い出しても脇に置かれているから。
ということで「おさかな天国」の出番である。Blueskyを開いて何かを言いたくなったら、「茶の間茶の間茶の間~茶の間~が~ある~でしょ~」と頭の中で口ずさむことにする。つまり、望ましくない行為を引き止めるトリガーを、「軽率に投稿しない」という心がけから、「歌を歌う」という行動に変えるということだ。
もちろんそうすることを忘れてしまうだろうけども、100%「意志の力」の問題であったのが単純に「歌うということを覚えているかどうか」の問題になれば心持ちが随分変わると思う。
自分の認識の空間については「のらてつワールド」という表現をしている。
これは「個人的な話ですよ」「独自の定義で話していることがありますよ」ということを示す意味があるけれど、他にも効果がある。
自分が何か個性的なことを考える時に、それが自分以外の存在に通用すると思わないようにする、ということだ。
自分独自の視点というのは大抵が「自分にしかわからないもの」であって、他人にとって有効なものにするためには相当な洗練の努力が要る。
その努力なしに提示したって「なんか言ってるな」程度にしか思われない。自分が余程の大人物――偉大な哲学者のような――でない限り、「これは何を示しているのだろう?」と真剣に考えてもらえることはない。
実際、全然有効ではない発想であることが多い。発見をしたつもりが、単に有効でないから世の中で言われていないだけというパターン。
自分のワールドを区切って、そこから外に出す時には「おうちから出てやっていける?」と問うことが、自分の勘違いを抑止するひとつの策になっている。
例えばBlueskyにポストしたようなものを紙に書き直そうかと一瞬思ったものの、300字みっちり書いていた場合「般若心経が260字ちょっと」ということを考えるとちょっと無理かもしれないという感じがしてくる。
そして「じゃあ印刷するか?」とこれまた一瞬思ったものの、多分1頁に3~4ポストくらいしか入らないのでえらい枚数になってしまう。印刷代も馬鹿にならないし、単純に紙が増えすぎる問題もある。
デジタルのメモをわざわざ紙化しようとしているのには理由があるけれど、実際やるのは無謀かもしれない。
ところで夏井いつき先生は俳句に関して「言葉の経済効率」という言い方をする。それで言うと般若心経はあまりにも言葉の経済効率がよすぎる(漢文なのだからそれはそうということはある)。
そして自分の言葉の無駄を反省している。放流すれば読んでくれる人がいて、自分の言葉に無駄があるならば、その人の時間をただ奪ったということになる。読むかどうかは読み手の責任と言ったって、関係性の都合上、読まないことを選択するのが現実的でないということは普通にある。それをわかっているならば、必要な分だけ差し出すようにした方が誰にとってもいい。
今日は無駄な言葉をたくさん放ってしまった。反省。
アメリカのトランプがさすがに支持率を落としている。
高市政権について、小沢一郎は「浮ついた人気は何かの拍子に落ちる。きっと夏ごろまでに、この人気はなくなるだろう」と語った。
トランプを「推し」としているアメリカ人のうちかなりの数はあくまで自分の暮らしの改善や自分の価値観の正当化を願ってのことであるから、それが叶わないとなれば支持が離れる。
一方で高市を「推し」としている日本人のおそらくほとんどは具体的な期待というより漠然と好感を抱いてのことで、それゆえにかえって幻滅の契機もないから、高市人気は一時的だ限定的だという予測はあまり当たらないんじゃないだろうか。
よっっっっっっっっっっっっっぽどとんでもないことにならない限り、現状ほかにカリスマ性を感じさせる議員なんかいないのだから、大衆の気持ちはそう簡単には変わらないだろう。高市政権の実情がどうであれ。
日本国民の生活は極めて苦しくなっているのではないかと思う。そして国民の生活が苦しいということは為政者の責任である。しかし、日本人の理屈というのは気分で簡単に変わるもので、為政者の責任を問おうとするのは為政者の責任にしたいという気分の時だけだ。為政者の責任にしたいとそれほど思わなければ厳しく問うことはしない。
石破茂に対しても最後は同情的な人が多かっただろうし、「これは一人の責任じゃないよね」「この環境ならよくやったよ」と感じれば大目に見たくなるものだ。
思想的なバックグラウンドがあんなにも怪しいのに、それでも初の女性首相が、にこにこと柔和に微笑み、そして落ち着いた毅然とした態度でいるというだけで、多くの国民を安心させてしまえる。
日本人の気質と歴史が高市政権の支持を意味不明なほど高く維持しているのだと思う。支持の理由が曖昧であるがゆえに、いつ転落するかと誰もが思いながら、逆にわけもわからず高止まりし続けるのではなかろうか。
遠い昔にディベートがうまくできなくて発狂した黒歴史がある。その時自他が感じたことは共に「なんてプライドが高いことか」ということだったろう。
でも今考えると、そこにあったのは「プライドの高さ」ではないんですよね。ただひとつ、「自分の無さ」があった(謎の日本語)。
強権的な、他罰的な、「批判的」で「知的」な親というものの下で育った場合、その物言いをコピーしてけば、他の同年代より遥かに速いスピードで「それらしいこと」をインストールできる。受け取らされた既成の「知」によって自分が知的になったと錯覚し、その「飲み込み」によって評価を得ることになる。
そうなると自分が知的に無能であるということは全く思いもよらないということになるわけですが、実際のところ自分で物を考えるということをほとんどショートカットして生きているので、誰も気づかないけど結局のところおそろしく無能のままになっている。インストールの能力だけが高まっていく。
ここで自分の知が揺らいだ時、何にも対処ができない。対処法に皆目見当がつかない。頭の中に警報が鳴り響き、この異常事態を一刻も早く終わらせてしまわなければならないと焦燥に駆られる。それが発狂である。
別にちょっと落ち着いて考えればいいようなことでも、それは実のところ「ちょっと」という時間や「落ち着き」という精神の安定の問題ではなく、その時点でそうすることは一切不可能なのである。
真に知的な人というのは知の得難さを思い知っており、よくよく備えて生きていかねばならないということを肝に銘じているので、そのように子どもにも伝えるだろう。そうではなく、「知」そのものを押し付けて「知を持つ人間」を作り上げようとするのはおよそ知的な育て方とは思われない。
その結果、「プライドが高い」という永久に的外れな評価で刺され続け気が狂って暴れ散らかすモンスターが誕生するわけですが、運が良くないとそこから脱して「物を考える人」に生まれ変わることはできないだろう。
運が悪いとどうなるかというと、真実を暴かれることを漠然と恐れながら虚勢を張り続け人から呆れられる人間としてそのまま寿命を迎えるか、実は無能であるという真実に自分が耐えられなくなりそこで生涯を終えてしまうか、そのどちらかになるんじゃないでしょうか。