Tak.さんが「アウトライナー的」という表現をなさっていたのを見て、そのイメージを自分なりに言葉にするとしたらどう言えるだろうか、ということを考えていた。というか、アウトライナーと出会ってから此のかた、アウトライナーを何に言い換えられるかというのはずっと考え続けている。
アウトライナーと結びつくメタファー
アウトライナーはインデントと上下の並びによって項目と項目の間に親子関係・きょうだい関係が表現されている。ここでまず家族関係のメタファーがある。また、それぞれの項目が枝分かれするように広がっていく見た目から、木の枝葉や根っこ、芋づるなどを想像できる。
そして親と子、つまり上位と下位があることによって階層のイメージが生まれる。下層をまとめるものとしての上層があり、トップダウンとボトムアップという情報の流れができる。別に親項目と子項目の間に必ずそのような関係性を持たせる必要はないが(例えば「明日買い物に行く」と書いたノードの子項目に唐突に「織田信長マジかっけえ」とか書いても誰にも怒られない)、親子関係をわざわざ表現しているものに全くそれが意味をなさない記述をしてもアウトライナーの良さは活かされないだろう。
視点を上に昇ったり下に降りたりさせることから、この時点で階段や梯子、エレベーター、あるいは山のイメージも比喩として思い浮かぶ。
アウトライナーが単に「アウトラインを書くもの」と違うのは、下位項目を畳めるというところが大きい。下位項目を畳んでより上位の項目だけを並べることで、自分の処理可能な情報量に全体を収めて俯瞰するということができるようになる。「俯瞰」という言葉に既に現れているが、このことには「上から見てみる」というイメージが伴う。「鷹の目と蟻の目」などと言われるように、視点の高度が物理的に移動するようなメタファーが連想される。
アウトライナーにもよるが、WorkflowyやDynalistなどは「ズーム」または「フォーカス」という機能がある。どの位置にある項目もそれを大きく開いて主役にすることができる。つまりインデントがどれほど深くなっても、それらは「端に追いやられて小さくしか扱えない」ということにはならない。どのノードも等価であり、どこまでも焦点を当て直して更に詳しく考えるということができる。
ズームイン、ズームアウトという動きからはまず顕微鏡が連想されるだろう。単に拡大させるというよりも、拡大率を自由に上下させられるイメージがあった方が合致する。
視点の高度を上げて俯瞰できること、そして逆に如何なる高度の項目にも注目できることは、アウトライナーの機能としてはそれぞれ別のもの(「折りたたみ」と「ズーム」)でできているが、効果としてはまとめて「解像度を下げる・上げる」とか「倍率を下げる・上げる」と解釈できるだろう。これは「上下関係」あるいは「親子関係」とは別のイメージである。「上位項目が下位項目を定める」のではなく、「上位項目を詳しく見た結果が下位項目のようになる」という意味を含むことができる。
単に階層として上下をイメージした場合、「掘り下げる」という表現もあるようにある高さより下というのは地下的なイメージになり得るが、倍率の上下としてイメージすればより下位(倍率を上げる)で示されるのは「ある対象にどれほど寄っていくか」である。ここに違いがあることは普段はほとんど意識されない気がするが、ぴたりと合うメタファーを考えようとするとそのイメージの多重性に悩むことになる。
何かを考えていると、ある考えから可能性が分岐していくことが当たり前に発生する。その場合に、アウトライナーではある考えの項目の子項目に分岐の可能性をそれぞれ書いていくということがある。この記述の仕方には賛否が分かれるだろうが、その使い方が発生するのは別に不自然なことではない。
項目に親子関係ができるという場合、多くはまず先に親項目が存在する。これはアウトライナーが持つ性質というよりは、現在アウトライナーとして作られているアプリケーションのUIの都合にも思えるが、ともかく「上方向から順に」かつ「上位から順に」書いていく以上、「親項目の後に子項目が書かれる」というのが普通の流れである。(ボトムアップ思考で編集している最中にはその限りではない。)
ということは、親項目はより「手前」にあり、子項目がより「向こう」にあるという前後関係のイメージは当然発生する。インデントで右に右に位置がずれていくことに対して「右に進む」印象を持ったとすれば、更にそのイメージは強められる。
そして一度「理路の分岐」として使い始めると、きょうだい関係のノードをそれぞれ分岐のルートとして解釈したくなり、ある考えとその先の分岐を全部同じ階層にフラットに並べるということはしにくくなっていくだろう。アウトラインは右に右に枝分かれしながら進んでいくような形になっていく。このような使い方というのはアウトライナーに「道程」を連想しているように思える。よりインデントが深い項目がその思考のフロンティアになっている。
この用法はひたすら突き進むばかりで俯瞰の作業が自然には行われないかもしれないし、先述した階層の上下や倍率の上下を表す使い方とは種類が違ったものになってしまうのでアウトラインが混乱するおそれもあるが、アウトライナーの形状からすればそのように記述したくなるということは全くおかしなことではないと思う。
メタファーの限界
ということでアウトライナーが作り出す形状から実に多様な事物が想像されるのだが、これらのほとんどは、現在できているアウトラインを固定して見た場合に当てはまるかもしれないメタファーである。つまり、アウトライン自体が組み直され変化していくことをイメージに含んではいない。
変幻自在で形が定まらない物というのがそうそうないのだから、何かの物で喩えようとすればどうしてもソリッドなイメージにならざるを得ない。枝葉や根、あるいは道のように「伸びていく」という一方向での変化は比喩に伴わせられても、繋ぎ方がダイナミックに変化してしまうようなことを織り込むのは難しい。
しかしながら、アウトライナーの肝は、最終的にできあがるアウトラインの形状の利便性にあるのではなく、自分の思考がアウトラインの組み替えとともに変遷していくその流動性と同時性にある。自分とアウトラインが一体になり、恰も自分自身を編集しているかのようにアウトラインを編集し、そのアウトラインを見渡すことが自分自身を見渡すことを意味する、そしてアウトラインを組み替えることで自分の解釈の形をも組み替えてしまう、そのような有機的な動きを実現できるのがアウトライナーである。
それは別に自分自身というものを思考のテーマにしなくても同じである。何かについて考える時に、アウトライナーは自分の思考と「ともにある」ということができるのが重要である。
アウトライナーというメタファー
つまるところ、既存のものではアウトライナーの特性は十分に想起させられないのかもしれない。どれかに焦点を当てればどれかが抜け落ちる。性質それぞれは何かに喩えることができたとしても、それを全て併せ持ったものを表現することができない。そのようなものはアウトライナーそれ自体の他にないのかもしれない。
そうなると、アウトライナーのことを他のメタファーで言い表すことはもはや諦めざるを得ない。もう何年も考え続けて解決していないのだから正解というのは存在しない気がしてくる。むしろ逆に、Tak.さんがそうしているように他のものに対してアウトライナーをメタファーとして表現することの方が有意義だろう。
トップからボトムに向けて解像度が上がり情報量が増えていくイメージ、逆に言えばボトムからトップに向けて何らかの尺度でまとまっていくイメージ。そして同時にトップダウンとボトムアップを行き来、あるいは循環させて流動していくイメージ。
強いて言うなら人体(別にヒトの体には限らないが)が近いのかもしれない。Tak.さんがライフとアウトライナーを密に関連付けてお考えになっていることからも、アウトライナーというのは極めて有機的で、「アウトライナー」という言葉の響きやデジタルツールであるということから直ちに連想される硬質な物あるいは動作のイメージはそもそもマッチし得ない可能性がある。
アウトライナーと人体
アウトラインが巨大になっていくと、積極的な工夫なしには自力で把握するのが困難になってくる。内容物はデータベース然とした形になっていない(プロパティによって抽出や分析をするなどができない)ので、ピンポイントな検索のほかは、基本的には自分の記憶や、読み直すことでの追体験によってアウトラインを「辿る」ことになる。
そしていつまでも辿られずじまいになっている記述は、やがてその前提やそこにある理路が今の環境・考え方と合わなくなって丸ごと死んでしまったりする。「その時点での思考の記録」として後から読むに堪える形になっていればまだいいが、そこまで整っていない場合は随時手を加えていかないとあっという間に意味不明の無価値な記述になってしまう。
このことは、血流が滞った細胞が死んでいくのとある種近いものがあるかもしれない。日々いくらか死んでいくのはやむを得ないことである。考えるべきは新陳代謝で、アウトラインにも新陳代謝としての編集は必要であろう。何にもならないゴミが溜まって良いことはない。
また、人体を構成する細胞たちの間では絶えずトップダウンの司令とボトムアップのフィードバックが行われている、という点でもアウトライナーに沿わせたいところがある。人体は現場からの情報を無視すれば死ぬが、それは自分の思考でも同じようなことが起きる。
その意味で、アウトライナーの中に起こる・起こさせる作用のイメージはある程度人体の営みと類似したところがある。そのくらいアウトライナーというものを有機的に捉えてもいいと私は思っている。
とはいえ、アウトライナーの機能そのもの(インデントするとか並べ替えるとかいったこと)は人体で喩えるのはほとんど無理である。ゆえに「アウトライナーとは人体である」とか言ってしまうのは飛躍が過ぎるし、やはり「アウトライナー的」なもの全体を表現するには「アウトライナー的」と言うほかないのかもしれない。
