Noratetsu Lab

動じないために。

投稿先: https://noratetsu.blogspot.com/2021/03/writing.html

情報整理と執筆作業は「有機度」が異なるせいでひとつのツールに同居させられない

 私はどうも書く「場」の力を借りないとうまく書けないらしい。

 具体的に言うと、ブログにしろnoteにしろその「場」の投稿画面を開かないといまいち文章が思い浮かばない。話の根幹になるアイデアはどのツールの前でも思いつくのだが、文章を書くとなるとなかなかそのようにいかない。特に、アイデアを記録するための「場」と文章化の「場」の共有はキーボードを叩く手を鈍らせる。

 つまり、今自分自身に関する情報と思索をObsidianにまとめている一方で、Obsidian上で文章を書くことには困難を感じているのである。

 原因は何だろうか?

 

 ひとつには、まずObsidianのcssを「より多くの情報が明瞭に視界に入る」という目的に合わせて整えていることがあるかもしれない。フォントの種類もサイズも、「情報を書き留める」という点では最適化されているのに、それはどうも創造性とは噛み合っていないようだ。

 ひとつには、自分の脳内が、思考を組み上げる際に単語やフレーズではなく数十字の文を単位として物事を捉えているという癖もあるかもしれない。ある一定以上の構造を持つ思考については、論理関係をきちんと文として成立した日本語として書き表さないとイメージしにくいのである。これは生来の脳の働きの「種類」の問題なのか、あるいは鍛錬不足で「扱うサイズを細かくできない」だけなのか、今のところ判断はつかない。現時点ではそれ以上細かくするのが難しく、インプットを単語やフレーズで整理していく一方で、アウトプットでは最初から文の形で挑まないと進まない。その上どうも、単語やフレーズで整理していると、そのように切断する方向の引力めいたものがその「場」に働いていて、ページは別に用意していても同じツール内では文章化の方向に脳が働きにくくなってしまう感触がある。

 つまりは、しばしば「有機的な○○」という表現がされるが、その「有機度合い」のズレがアウトプットの進みを左右してしまっているような気がしているのだ。「有機度」なる言葉は存在しないが、現時点で的確に言い表せる言葉を思いついていないので、仮称としてそう表現することにする。インプットしたものを取り扱う有機度と、アウトプットするための材料を取り扱う有機度が違っている。

 情報の整理とは、有機的に存在しているものを一度分解して無機的なパーツにバラし、再び別な手続きで有機的に組み直すことのように思う。人と人との間で情報を伝達するには必ず有機的な形でなければならないが、有機的に組んでいる箇所は服薬ゼリーのようなもので、飲み込んだら本体から外されていくことになる。脳に届くのは無機的な本体の部分である。服薬ゼリーも美味しいかもしれないし、自分が服薬ゼリーを作るためにそのレシピを拝借しなければならないが、情報を理解したというのは服薬ゼリーの中にある薬が脳に効いたということを意味している。そして単純な話、服薬ゼリーを取り除く作業をする場所と、服薬ゼリーを作って薬を包み込む作業をする場所とは、同じ形をしているはずがない。

 各種投稿場所の投稿画面は、その点で文章を書くこと、有機化すること、服薬ゼリーを作ること、がしやすいように作られていると感じる。サイトの設計者たちの長年の研究と試行錯誤によってそのような形に落ち着いたのだとすれば、それは当たり前のことかもしれない。実際に投稿される画面をすぐに確認できるのも大事なことではあるだろう。web上で結果的にどういう形になるかということは、本にするときほど実際に文章を左右することはないのではないかと思うが、なんとなく「気になる」ことである気がしている。

 それと、単にデザイン上の問題だけでなく、今からここに投稿するのだという気分が文章化の作業を引っ張ってくれるように思う。サイトとは関係のない、書きやすく洗練されたデザインのテキストエディタというのもいくつかあるが、そのことだけでは必ずしも脳を活性化させてくれるとは限らない。

 つまり、「ここに書く=投稿する」という紐付けが脳内ではっきりなされていることが重要なのかもしれない。

 投稿場所の投稿画面というのは、良い感じに書けたらそのまま投稿ボタンを押すことになる。それは当たり前のことだが、その「書けたら投稿」という流れが「決まりきったこと」として自分の脳に認識されていることが脳の働きを活性化させるポイントかもしれない。それが、他の用途と混ざっているツールでは、書いたからといって必ずしも投稿するわけではないということになる。行き先が自由すぎるのである。テキストエディタを使うならば、必ず「投稿を前提とした執筆作業専用」のエディタを用意するべきと言えるかもしれない。

 執筆にあたって専用エディタを用いるのは、「余計な情報を遮断する」ということも理由のひとつにはなるが、私の中では「これは投稿するものを書く場だ」という認識を当たり前に持つことができるかどうかが鍵のひとつと思える。

 更に――むしろここからが重要かもしれないのだが――執筆作業のためのアウトラインと、情報整理のためのアウトラインもまた、はっきりと場所を分けなくてはならないのかもしれない。これまでアウトライナーというものとは幾度となく格闘してきたのだが、ついぞ折り合いがついていない。思い返せば、インプットとアウトプット(主に小説のプロットづくり)の両方をやろうとし始めた時点で破綻しているような気がする。それはどちらかの用途がアウトライナー向きでなかったということではなく、「同じ場所で」「両方向を」やろうとしたことがまずかったのではないか。

 何かを書くためには、アウトラインの作成はどうしても必要である。行きあたりばったりで書くと、「使えない名文」をうっかり生み出して困ったことになる。捨てられないが使えない文章は、その処遇に迷うということも含めて大きなロスになるのである。

 くねくねと道を曲がりながら書いてきたが、同時に様々な要素が絡むことであるので、どれがどうとはっきり言うことはまだできない。しかし、とりあえず絡んでいそうな要素をピックアップすることはできた。「有機度合い」と「有機化無機化の向き」と「目的地からの引力」、どれが決定的なものかはまだ考える必要がある。

 今後進展があったらまたブログに書こうと思う。

 

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