Noratetsu Lab

動じないために。

2022年12月

2023/01/01

2023年にやっていくこと

 いつもは新年の抱負的なものはあまりはっきり考えませんが、今年はちょっと明確にしようかなと思って、ブログに書いておくことにします。


 今年「のらてつ」としてやりたいことは以下の三点です。

  • ツールの自作について連載
  • 作ってきたツールの公開
  • ReactとCordovaの習得(とその過程の公開)

 今のところ具体的に考えられることがプログラミングに関するものなので、そこに偏っています。何か出会いがあればまた変わるでしょう。

 ツール作りを通して考えたことや得たことの共有というのはずっとやりたいと思っていて、手段を如何にするか去年の間考え続けていたのですが、なかなか形を見出だせていませんでした。なぜかといえば、私は「ツールを自分で作れない人間」から「ツールを自分で作れる人間」へと劇的に変化した一方で、技術としては素人の域を出ませんし理解は到底正確とは言えず、プログラミングを語る資格というのは持っていないように思うからです。「できない」から「できる」になっていく過程を共有したいという意味で「講座」をイメージしていたわけですが、しかし「講座」なんてものをやっていい身ではない、と思ったのです。
 そしてずうっと考えていてつい昨日、大晦日になってはたと気がついたのですが、それならば「体験記」を書けばいいのではないか、と思い至りました。むしろなぜそう思わなかったのか――ブログでは再三「自分の体験、自分の内面を書く」という話をしておきながら――という話ですが、あまりに「書きながら解決する」ということに意識が偏重していたために、「振り返って捉え直す」というような形態を想像できていませんでした。リアルタイムで書かないなら、あとはもう咀嚼して教訓化するしかないか、というような考えになっていたところがあります。
 ということで、去年一年をなぞりながら、なるべくリアルに脱皮の過程を描写できたらと考えています。

 それとコーディングもある程度まともになってきたので、これまで作ってきたツールを他の人が試せるようにしようかと思います。自分以外の人の実用に堪える出来になっているわけではありませんが、自分のツールについて語るにあたっても「ここで試せます」があるとないでは全然違うだろうと思うからです。
 あとは更にもう一歩自由になるために、Web技術をガッと向上させるであろうReactと、スマートフォンアプリを作るためのCordovaを習得したいと思っています。いずれも新たに別の言語を覚えるというのではなく、JavaScriptでの開発の幅を広げるものです。

 他にも何かまとまった文章を書きたいという思いもあるのですが、現状テーマが曖昧で具体的に取り掛かれる段階にないので、まだ検討中というところです。自分のブログ以外に何かに記事を書く機会があれば面白いなとも思いますが、いずれにせよ力不足でしょうから、ともかく筆力の向上に努めたいと思います。

 それでは今年もよろしくお願いいたします。
 

2022/12/30

2022年の振り返り

 2022年ももう終わりということで、今年一年の振り返りをしたいと思います。何か活動をしたというわけではないので、単に私個人の内省となります。


 今年はプログラミングの一年でした。1月27日から勉強をスタートし、新たに習得したりある程度馴染んだりしたのは以下の通り。

  • JavaScript
    • ・Node.js
    • ・Electron
    • ・TypeScript
    • ・React
  • Python
  • AutoHotkeyのスクリプト
  • コマンドプロンプト、VSCodeのターミナル
    • ・Gitのコマンド操作
    • ・Node.jsのコマンド操作

 このブログの更新もプログラミングに関することがほとんどだったかと思います。その内、プログラミングを勉強するのはなぜなのか、勉強するとどんな良いことがあるか、ということをメインに書いた記事を並べておきます。

 JavaScriptの勉強を始めた時、目標としていたのは「ちょっとしたアプリケーションっぽいものを年内に作れたらいいな」ということでした。
 この「ちょっとした」というのは本当に「ちょっとした」ことで、テキストエリアに打ち込んだテキストをどこかに保存する、くらいのイメージです。プログラミングで実現できることの難易度というものが全く想像できていなかったので、フリーウェアで配布されているようなものをイメージして「アプリケーションを作るとなると相当時間がかかるだろう」と踏んでいました。
 しかし実際には、最初にイメージしていた「ちょっとした」ことというのは一週間もあればできてしまうようなものでした。教材選びに失敗するともう少し手間取るかもしれませんが、ともかく、コードとしては想像より遥かに簡単だったのです。
 そして複雑なことも「ちょっとした」コードの組み合わせによってできているので、ちまちまやれば初学者でもそれなりのことができてしまいます。組み合わせて組み合わせて、二ヶ月後にはアウトライナーを作れるようになり、今ではデジタルノートツールは「自分で作るもの」になっています。
 去年までとは比較にならないほどデジタルライフが自由になったと感じています。文句を言う暇があったら自分で作るというマインドになったので、ツールに対する批判精神は失ったと思いますが、その代わりにパーソナルコンピュータが持つ可能性に対して主体的になっていくことについては色々と考えられることが増えました。パソコンを使えば自力でできることはいくらでもあるのに、誰かが作ってくれた何かに頼りっきりなのはもったいないな、という気がしています(ですが、活用するには相応の労力を費やして格闘する必要が生じるのが難しいところです。誰でも簡単に、とはいかないでしょう)

 書き物については、トンネルChannelへの投稿も合わせると去年よりかは多くなりました。ただ、作ったツールの話が結構な割合を占めていることを考えると、考えを言葉にする活動としては投稿数の増加ほどは活性化していない感じがします。いずれにしても絶対量として納得の水準には達していないので、もう少しさくさく書いていきたくあります。
 それでも、ブログでは基本的に「知っていることを書く」のではなく「知るために書く」ということをしているので、書いた分だけ新たに何かを知ったことになります。遅々とした歩みですが前には進んでいるという感じはします。
 ただ今年は、自分のための言語化という側面が強くなり過ぎて、全体的にちょっと読みづらい文章になっていたかもしれないという反省があります。全記事を読み返したのですが、論点を同時に走らせたり全方位的に保険を掛けたりする傾向が目立っていたように感じました。来年はその辺のところを改善していきたいと考えています。
 各記事一文を抜き出した総集編を作ったので、よろしければお立ち寄りください。

 内面を振り返ると、このように文章の語り口にも現れていたことですが、やや保守傾向が強まっていたという感じがします。去年は新たな土地に進撃していくというような果敢さが多少ありましたが、今年は完全に守りの姿勢でいました。普段の生活でも若干そのようなところがありました。「自分がどこかに出ていく」ということより「自分のところに何かが来る」ことに意識が向いていて、その分だけ神経質になっていた感があります。
 その原因となっているものがなんなのかは自分でもよくわかりませんが、昨年のうちに繋がりや居場所を得たことで、それを安住の地にしようという気持ちが働いていたのかもしれません。あるいは、プログラミングを通して一年中自己対話に明け暮れていたので、自分の思考のフィールドが自分という範囲に限られていたからなのかもとも思います。
 もしくは、ニュース記事をTwitterのタイムラインに流すようにしたことで、世界に存在する不愉快さを摂取し過ぎたということもあるかもしれません。ずっとうっすら嫌な気分だった感があります。世の中のことは知りたいですが、こういう犯罪があった、こういう事件があった、戦争はこういう状態だ、といったことを知り過ぎるのはあまり良いことではないように思います。楽しいニュースを見る機会も増えはしたのですが、愉快な知らせひとつで嫌なニュースひとつがチャラになるわけではないのですよね。
 まあ「しいたけ占い」とかその他の占いなんかを見るに、自分にとって問題があった時期の欄に「なんか起こるぞ」的なことが書いてあったりしたので、よくわかりませんがそういう時期だったのかもしれません。占いの類を信じているというのではないのですが、理由を見つけにくいものや理由を探すのが面倒なものについて「そういう時期だったんだな、はいこの話は終わり」みたいに使ったりしています。

 なんにせよ、この一年、ブログを読んでくださった方々、関わりを持ってくださった皆様、どうもありがとうございました。
 来年もよろしくお願いいたします。
 

2022/12/29

よくわかるNoratetsu Lab(2022年版)~後編~

 今年の総集編の後編。前編はこちらよくわかるNoratetsu Lab(2022年版)~前編~


T06:「何者」像の多様性/個性なき主体性

大人になっても「少年の心」を持っていたい、ということがしばしば言われますが、それは性格的な純粋さを保つのもさることながら、自分という人間のエネルギーを失わないという意味で大事なのかもしれません。「少年の心」とはつまり「個性」の発露なのだと思います。

21:ブログの書き方ド下手問題⑨~一度にあれこれ語り過ぎる件~

読んだ後に「要するに、」と言って三行くらいで簡単にまとめられてしまうような冗長な文章は長い甲斐はないが、物事をわかった気にならずにきちんと考えるためには、必然的に粒度の大きい、つまり複雑なことを複雑なことだと示してくれているひとまとまりの文章を読む必要もあるだろうと思う。文章は要約されるためにあるのでもない。要約の暴力を跳ね除ける「濃い」文章と格闘することは絶対的に必要だと個人的には思っている。

22:「いずれでもない」の受け皿としてのScrapbox

分類の越境に対する不快感が取り除かれているならば、些細な関連性でもリンクになっていた方が良い。前までは適切なツールがないせいで分類したい情報を分離することができなかったため、その感覚を持てなかったのだが、自分でツールを設計することが可能になったことによりそれらを全部追い出した状態に行き着き、やっとScrapboxに合ったマインドになった気がしている。

23:AutoHotkeyを使い始めた/noteを一年半ぶりに書いた

どういう頻度で書くべきか、どういう長さで書くべきか、どういう内容を書くべきか、どういう文体で書くべきか、そういったことをぐるぐる考えていた。考えて悩んだだけで何も実行できていないのだが、とにかく「こうではいけない」という自己認識で苦しんでいた。

24:デジタルツールでの情報カード性および文脈との結びつきの在り方

これまで、文を部分的に取り出す時には「文脈を記録しなければ」という気持ちが強くあった。そのために文脈を要約するにはどうしたらいいかと考え、それがうまくできないことをもどかしく思っていた。それもそのはず、文脈というのはそもそも要約できないものであろう。要約するために「言い換え」をしてしまうと、かえって元のイメージに戻りにくくなることもある。

25:のらてつの茶の間とは

Scrapboxがあるのにわざわざ別のものを自作した理由のひとつとして、ついさっき書いたように「タグ」と「リンク」の機能がそれぞれ欲しいということがある。タグは「こういう領域の話」、リンクは「これについての話」というふうに使い分けている。私の中では、どうもこの二つに混ざってもらっちゃ困るようなのである。

T07:読みたくなるのは「きちんと加工された自慢話」

翻って読み手の身になって考えた時、「読む」という体験として楽しいものというのは、「役に立つもの」より誰かの「どうだ!」だと感じています。「情報を得る」という作業の中では「役に立つもの」を欲することにはなりますが、別にそれは楽しいものというわけではないような気がします。TwitterやInstagramなどが面白いのも、やはり「どうだ!」に感心したり驚き呆れたりできるからだと感じています。

26:ゼロからのプログラミングについての所感

私はこの八ヶ月間ずっと楽しくJavaScriptのコードを書いていました。説明を読んでもちんぷんかんぷんなことはたくさんあって、「説明がわからない自分」に多少もやもやすることはありましたが、でもまあ、その記述がわからなくても、できるようになったことがたくさんある喜びと比べればそんなのは些末なことです。理解が及ばないがゆえにへんてこな自作関数山盛りでごちゃごちゃやっているダサさ極まるコードでも、自分でアウトライナーを作れたことの方が私にとっては重要です。

27:ローカルのディレクトリの構造を大整理した

ちなみに、PCやスマホ内で自分自身が扱う種類のファイルを入れたフォルダの名前にも長らく納得がいっていなかったのだが、「_」にすることで決着した。半角のアンダーバー1文字である。どう名前を付けても変にレトロニム的になって気持ちが悪く、何の意味も示さない且つ名前順で先頭に来る名前が良いと思って「これでいいじゃん」となった。

28:ツール製作日誌:トピック管理ツール

ただしあまりに自明な場合を除いて、何のためにやるのかを1行でいいから言葉にして書いておいた方が、迷走を回避できるし動機づけの強化にもなるのは確かである。欄があれば書きたくなるので、メモ欄とは区別してわざわざ目的欄を設置し、なるべく書くようにと自分を仕向けている。

T08:飽き性だから凝ったツールを作る

仕事をする、何かを書く、というようなことをすれば、もちろん私がした何かが世界や誰かの中には残るのですが、それを自分自身が認識していられないと「私は何もできていない」ということが私の中では真実になってしまうので、「私はこの日これをした」という証明書を自分に発行するために毎日ログを残すのです。私の脳は私自身がしたポジティブなことを忘れたがっているようで、一目で把握できる形で書き留めないと容易く「なかったこと」になってしまいます。そのくせネガティブなことは絶対忘れてくれない残念な脳です。

29:エッセイ集団という夢想

そこで考える。もし、「ここに属している人なら面白いぞ」という保証を持たせられる、「個人の総合的な表現」集団があったとしたらどうか。

30:ツールを「使いこなす」という余計な構え

デジタルツールに関しては、前提として「アナログツールではなくデジタルツールを使う」という判断をまずしていることになる(そもそもデジタルの方が当たり前という人は別だが、アナログに軸がある人間からするとデジタルは意識的に選択されたものであろう)。そうすると、「せっかくデジタルのツールなんだし」という意識が働く。その意識は必要なものでもあるのだが、しかし油断すると「デジタルであることを最大限活かさねば」という意識に知らず支配されていたりする。

31:「何が言いたいのか分からない」ということ

文章の場合もやはり、それを読む前と読んだ後で読み手に変化があるかどうかにかかっていると思う。話が動くかどうかも大事だが、読み手をどこかに運べるかどうかが重要なのである。本当は何が書いてあったのか分からなくとも、読み手が自分の中に変化を感じれば「何が言いたいのか分からない」という感想にはあまり至らないように思う。

32:アウトラインではなくキューを作る

予定について「組む」と言うように、アウトラインでも「組む」ことを考えていたから(私にとっては)駄目で、いわゆるキュー(queue)としてイメージした方がいいのかもしれない。つまりアウトライン(輪郭)を浮かび上がらせることは考えない。なおキューと言っても一番上から消化しなければならないものではないとする。とりあえず並んでいるだけである。

33:メモを取ろうとすると文にできなくなる件

もしTwitterの画面を開いていたならばそこに文章化できたメモでも、他の「メモのための場」に書き留めようとするとそれがなぜか全然そうはならない。如何にも「メモっぽく」メモを取ってしまうのである。
より短く簡潔に書き留めた方が勝ちかのように、ササッと書いて済ませようとしてしまう。つまり「敢えて読み物にしないようにしている」という状態になっている。本当はちゃんと文章化した方がいいとわかっているのに、「メモなんだし」という意識がそれを邪魔している。一秒でも早く「メモを取る」という行為を終わらせたいという気持ちになっている。元の作業に戻りたいという意識がなくとも(つまり暇でも)、メモ書きは可及的速やかに終わらせたい。

T09:勢いを感じる/勢いに乗る/勢いが余る

軽快に勢いに乗って書いている状態が如何なるものかを考えてみると、私の感覚では「ほとんど全ての文が新たな意味を持っている」という状態だと感じます。その文章を通じて示したい結論に向かって進んでいるかはあまり関係ありません。新たに生み出す文が、そこまでに書いた文には無い意味を持っているかどうかです。

34:アウトライナー×つぶやき×平面配置①~経緯編~

まず前提として、私は頭の中に「規範意識と合理性に沿った判断をしたい自分」と「自分の性質に正直に従ってカオスに生きたい自分」のふたつが存在しているということを強く感じている。別に人格が分かれているという話ではないのだが、判断基準が二つあるとか、片方の判断がそれと矛盾したもう一方の要素によって台無しにされるとか、そういうことを常に感じるということだ。かつては規範意識と合理性の側が勝ってしまいがちで、自分の本質を抑えつけて「真っ当」っぽい選択をしようとして、その結果精神を壊してしまうことにもなった。

35:アウトライナー×つぶやき×平面配置②~ツール紹介編~

タイムライン機能を考えた最初の動機は、ツリー構造とは別に「考えた順」に並べたいという気持ちが前々からあったことだ。アウトライナーは内容を基準としてツリー状に形を成していて、いつでもどこにでも書き加えられて書き加えるほど成長していくのは良いのだが、その場所から離れてしまうと「さっき考えたあれ」に戻るのがまあまあ面倒である。データの構造としては内容が基準になっていて良いのだが、それはそれとして「最近追加または編集したノード」が時系列順に並んでほしい。

36:2022/11/14 ―― 日付をタイトルにする試み/やり方を真似したくなるということ

やり方を見せてくれる人々は、それぞれが自分の中にある成分に基づいて最適化したものを披露してくれている。詳しく聞けば聞くほど「隙がない」かのような気持ちになってくる。ただ、そこにはその人を構成する成分しか含まれていない(それしか含みようがない)。そこに書かれていないこと――多くは故意に「伏せた」のではない――を考えなくてはならないだろうし、そのためにはやはり、自分の成分は何なのかを自分に問うて明らかにしなければならないだろう。

37:2022/11/18 ―― Twitterからの垂直移動/紙と筆ペン

私達はTwitterに適応し、Twitterは私達に適応し、進化なのか退化なのか分からない変化を双方が経てきた。なんというか、そろそろ考え直しても良いのでは、という気分になってきている。
水平移動ではなく、前にしろ後ろにしろ、どちらかに垂直移動した方がいいのかもしれない。前に何があるのかはよくわからないが、サービス側もユーザー側も手探りの中でやっていくような、ある種の謙虚さを持った場に環境をリセットしたい気持ちはある。

T10:自分のことを知っている自分になりたい

自分自身の思いをキャッチできるのはアンテナを張ってからだと思います。アンテナを張り、そしてそこにそれがかかってくるまで、どれだけの時間を要するかはわかりません。
でもまあ、死ぬまでにひとつでも多くわかれたらいいな、というくらいで良いのではないかと思っています。いくつ書き出せているかより、「自分は何にテンションが上がるんだろう?」「自分は何をやれたら良い人生だと感じるだろう?」と考えて何かが引っかかるのを待ち構えられているかどうかの方が大事だなと感じます。

38:自己の未熟さを描写するということ

知り合いや会社の関係者というような距離感の時、話をしていて「こいつ自分の行いを正当化しているな」と感じる場合があろうかと思う。しかし親しい友人が如何にも駄目っぽいことを言っていた時、同じように感じるだろうか。多分そうはならないと思う。内心に相手に対する敵意がある時、相手の「自分を描写する」という行為を許し難くなる。そしてそれを許さない時に、「それは正当化だ」と判定するのではないか。

T11:自分を知るということ自体の意味を考える

己に囚われないでいることは、己を知らずに済ませていることと同じというわけではないように思います。知らなくて良いことは知らなくても良い、知る必要があることは知る必要がある。当たり前に思えることですが、何を知らなくて良いのか、何を知る必要があるのか、それすらも自分を知らないとわからないという難しさもあります。

39:お仏壇ライフハック

私は、「現状をより良くする」ということを目的にして何かの目標を立てたり自分と約束したりする、というのが基本的に下手くそなのだが、なぜ下手くそかというと、相手が自分自身だからである。自分が立てた目標を貫くモチベーションはさっぱり生まれない。自分との約束は守る方が稀な感すらある。というか、ちゃんと思い描いた通りにやれても、全然充実感を覚えないから達成したことを忘れている。

40:お仏壇ライフハック~祖母編~

インボックスの概念などあるはずもないし「一箇所にまとめるとわかりやすい」なんてことは考えもしなかったと思うが、ただ「大事なものはとりあえず仏壇に置く」という習慣によって、仏壇の周りは「祖母的に大事らしい、且つ他に置き場所を見出していないもの」で溢れていた。

41:アウトライナーを前にしてやりたくなること

文章を書くとか物を考えるとかいう時、必ずしもすっきり交通整理することこそがそれに貢献するわけではないと感じている。交通整理して書いたり考えたりしたものというのは読んでいて「交通整理されたものだな」という感想を抱くわけだが、書かれるもの、思考されるものというのは整理されたところにだけ生まれるのでもない。

42:2022/12/11 ―― 「アウトライン」問題/TypeScriptを使い始めた

形式と目的が同じ語で語られてしまうと、形式に常に目的が伴っているかのように感じる。でも、アウトライン形式で何かを書いた時、それは必ず目的的なアウトラインなのかは疑問である。少なくとも、積極的にアウトラインを作る時と、アウトラインと言えなくもないくらいの記述をする時とのグラデーションがある。そのグラデーション全てをカバーできるのが所謂アウトライナーの強みだと思う。しかしアウトライナーと言ってしまうと積極的で目的的なアウトラインに持っていくことをイメージしてしまうところがあるのが、私の中では引っかかるポイントになっている。

43:ホームページ(仮)を作った

こういうのは、「仕組みを理解する」ということはもちろん大事だが、とにかくたくさんやって慣れることが一番だなと思う。

44:アウトプットのコントロールド下手問題

大雑把に言うと、「これ言わなくても良かったな」と思うことが多い。書きたかったから書いた、ということが前提にあるわけだが、後からものさしを当て直した時に、「書く必要があるものではなかった」という評価が下される。
しかし、「書く必要があるものかどうか」で判断してしまうなら、最初からそんなものなどない、ということにもなってしまう。ブログやSNSに「書く必要があるもの」なんてない。

45:「とりあえずブログに」の定着を試みる

こう考えてみると、もしかすると「何度か上手くいったやり方がいつの間にか前提化してしまう」というところに弱点があるのかもしれない。環境の影響を大きく受けるにもかかわらず、(あるいはそれゆえに、)特定の環境に無意識に拘泥してしまっている。いや、拘泥というか、他の環境の存在を忘れると言ったほうが正確かもしれない。

46:「報いの時」感想

47:自分とゲーム①~ソシャゲの話~

他のあらゆることより、「頑張ればこのキャラが手に入る」「頑張ればコレクションが欠けない」ということの快や安心感が上回っていると――いや、「手に入らない」「欠ける」ということが、他の何かをやらないでいることより大きい損失に感じられると――それをやめてしまう勇気は持てなくなる。

48:自分とゲーム②~RPGの話~

自分の内側に自分の感性に基づいて自分なりの世界を作るということ。ゲームを成り立たせている要素の総合的な摂取は、自分にとってその工程の手がかりになった。

 今年はブログ記事を48本、トンネルChannelに11本、その他noteにAutoHotkey関連で9本書きました。週1本も書いていなかったような気持ちでしたが、均せば一応週1本ちょっとくらいになったようです。
 

2022/12/28

自分とゲーム②~RPGの話~

 小中学生だった頃は毎日のようにテレビゲームか携帯ゲーム機で遊んでいたが、大人になってからはゲーム機で遊ぶということが全く無くなってしまった。ツクール作品を何本かPCでやったことはあったが、それも大学のうちの一、二年の間だけだ。
 スマートフォンで無料のゲームをインストールしてちょっとやって飽きたらやめる、ということは続いている。しかし「ちゃんとゲームをやる」みたいなことからはしばらく離れている。今年はスマートフォンのゲームも縁遠くなっていたが、今月に入ってまたいくつかやっている。ただそれも、昔ゲーム機で遊んだような厚みのゲームではない。


 プログラミングの勉強を始めたことで、頑張れば自分で作れるのだなと思うようになった。実際、テトリス風のゲーム(→動画)やぷよぷよ風のゲーム(→動画)をゼロから作ったりした。もっと単純なところではダイアログを使ったポーカーや神経衰弱などを作ってみたりもしたツール製作日誌:プログラミングの勉強を開始して半年の振り返り。ゲーム開発用のライブラリを使えるようになれば本格的なゲームも作れるのだろうと思う。
 そこで、実際挑むかはともかくとしてもし自由にゲームを作れるならどういうゲームがほしいかなと考えてみた。つまり自分が本当に面白いと思うゲームは何か、ということだ。自分で作って自分で遊ぶならば、「この先に何が待ってるんだろう」というワクワク感には頼れない。「やっていて楽しい」ということの純度の高さにかかっている。しかし「新たな情報が手に入る」「グラフィックが美麗」以外の純粋なゲーム性を考えるとあんまり思いつかない。
 これまでスマホゲームを次々とインストールしてはそこそこで(10分~二、三ヶ月くらいで)飽きてアンインストールしてを繰り返していたのは、「そもそも楽しいのは最初のうちだけ」ということもあるが、一番は「自分が本当にハマれるゲームはどこかにないだろうか」という気持ちによるものだった。「最初のうちだけ」を突破したのはフリーセルとイラストロジックくらいで、フリーセルの方はインストールしてあると無限にやるから自分を守るために今は入れていないほどなのだが、なんかこう、そうではなく、トランプとペンシルパズル以外の領域で何かないだろうかと思い続けている。
 本当に自分がハマれるゲームというのはあるのだろうか? というか、そもそも自分はゲームというものが好きなのだろうか? 小説や映画の代替として「物語を摂取するもの」として使っているだけなのではないか。そんなことを考え始めて、いっときスマホゲームを全部やめてしまった。「自分が本当にハマれるゲームはどこかにないだろうか」という願いが叶わない気がしてきたからだ。
 今月に入って一周回って「気晴らしなんだし、楽しい部分だけ齧っていこう」という気持ちになってまたいくつかインストールして遊んでいるが、代わりに「自分が本当に面白いと思うゲームを作れるだろうか」と考える気持ちは萎んでしまった。プログラミングのスキル向上のために作れそうなものを作ってみる、ということで満足することにしようと思う。

 この一連の検討を通して、そもそも自分にとってゲームとは何だろうか、ということを考えることになった。今回のことは、自分でも作れる可能性が生まれたということを発端に、自分で作って自分で遊ぶことに意味のあるタイプのゲームの中で面白いと思えるゲーム性とはなんなのか、ということを考えていった。つまり、ゲームを進めていくことで謎が明かされていくような物語性については敢えて無視している。グラフィックと音楽についても同様で、自分で用意するなら何も驚きはないので無視して考えている。
 しかし、自分が子どもの頃に熱心にやっていたゲームはどんなものかと言えば、ほぼRPGである。つまり出来事の全貌を知らない主人公として、強敵に挑みながら(強敵を倒すこと自体は特に快感ではなかったが)、次第に明かされる情報に「なんだってー!」とか思いつつ、グラフィックの美しさや面白さ、雰囲気を演出する音楽の絶妙さを味わっていたのだ。
 正直、子どもの時分では大人が作ったストーリーを全部は理解できなかったし、始めてからラスボスを倒すまでに相当な時間がかかっていたりして流れを覚えてもいられなかった。でも「雰囲気」は自分の脳に深く刻み込まれている。グラフィックと音楽と言葉遣いが自分に染み込んでいるのだ。

 考えてみるに、ある文脈に沿って視覚・聴覚・言語の要素をインストールするということは、感性を養うこととほぼイコールではないかと思う。まあ「養う」が多少オーバーだとしても、「これがすごくいい」と感じることが自分の美意識の解像度を上げるのは確かだろう。どれかの要素をひとつずつ取り込んでもいいが、テレビゲームはそれらを併せて摂取できるところに強みがあると感じている。物語性自体の摂取も大事だったとは思うが、それを形作っていた演出部分が私にとっては重要だったろうと思う。
 自分の内側に自分の感性に基づいて自分なりの世界を作るということ。ゲームを成り立たせている要素の総合的な摂取は、自分にとってその工程の手がかりになった。私にとって自分の内面の世界のイメージはある程度グラフィカルで音楽がバックに伴い、語彙は単に辞書的意味ではなく語彙それぞれの印象・響きが存在感を持って世界を構成している。あくまで私という人間の感性が反映されたものであって、別にゲーム的・ファンタジー的な様相を呈しているというわけではないが、構築のされ方はRPG的なのだと思う。(逆に自分の世界の構成要素として弱いのが、人間の顔・表情のイメージとか、自分が体を動かすというような身体的イメージである。)
 このように子ども時代の私にとってテレビゲームのRPGというのは非常に大きな意味を持っていた。しかし子どもの頃に総合的な摂取をしていた、ということが重要であって、今はもう総合的にやる必要は感じていない。自分の内側の世界の作り方はわかったので後はそれぞれの要素をそれぞれ集めていけばいい、という感じだ。だからもう私はRPGをやらなくていいのだと思う。やればそれはそれである程度楽しいだろうとは思うが、今はそんなにやりたいと感じないし、スマホゲームでは途中でやめてしまったものが割とある。

 私にとってゲームとは何か。子どもの私にとっては「世界を作るもの」だった。そしてここでは語らないが途中で「現実から逃避するもの」になった期間があって、その後自分の性質に基づいての「熱中できるもの」として思い描いていた。どこかに「心底熱中できる、し続けられる何か」があるのではないかと思っていたが、そういうものはないかもしれないという結論が出かかっているというのが記事の前半に書いたことだ。
 今の私にとっては何だろうか。何かしらのゲームが常に自分の生活の中にはあったが(毎日長時間やっていたという意味ではない)、実はゲーム性というもの自体に然程興味がないのかもしれない。つまり「私にピタリと合うゲーム性」みたいなものはそもそも存在しない可能性がある。
 ゲームについて今楽しいと思うポイントがどこにあるかを素直に言えば、「このゲームがどんなものであるかを理解するまでの過程」だと思う。理解した後にそれをやり続けたいのかというと、正直それはそうでもない。「なるほど、ここが醍醐味のゲームか」と感じる瞬間が楽しさの頂点であり、知った後は快の度合いは急激に低減する。例外として、短い間隔かつある程度の手間がかかる形で報酬を得られるタイプのものは「よし次のこれできた」という快を得たさにやり続けることもあるが、そのパターンは稀である。
 となると私がゲームを通して得たいのは、「ゲームの中に込められた工夫を知る」ということであり、自分がそれをプレイすること自体はどうでもいいのかもしれない。それが私の快の核ならば、それを求めてあれこれやるのだと割り切っていいのではとも思える。
 ゲームにはハマらなければならない、という謎の意識があるような気もする。ハマらなければ面白いと言えない、みたいな。一日でやめたけど面白かった、とかいう感想が理解されるとは思えず、なんとなく後ろめたさが漂っている。
 でも、私にとっての真実は「一日でやめたけど面白かった」であって、それはそれでいいのでは、という気がしてきた。
 

2022/12/28

自分とゲーム①~ソシャゲの話~

 プログラミングをやるようになってから、ソシャゲの類は全くやらなくなったし、スマホゲーム全般に関心が薄くなった。高校以降はそもそもゲームをそんなにはやっていなかったが、この一年は一番ゲーム離れしていたと思う。(12月に入ってからソシャゲでないゲームをまたちょっとやっているけど。)


 ソシャゲをやり続けてしまうのは、やり続けないと手に入らないものがあるからだ。そして頑張ればやり続けられそうだから、時間をそれに振り分けてしまう。
 他のあらゆることより、「頑張ればこのキャラが手に入る」「頑張ればコレクションが欠けない」ということの快や安心感が上回っていると――いや、「手に入らない」「欠ける」ということが、他の何かをやらないでいることより大きい損失に感じられると――それをやめてしまう勇気は持てなくなる。ちょっとイベントを頑張れば、あるいはいくらか金を出せば手に入るのがわかっているのに、それをしないという選択をする、というのがかなり辛いものになってくる。ここまでやり続けてきたのに、ここまで手に入れ続けてきたのに、途中でやめるのは……という気持ちも生じる。
 私はその気持ちが強い方ではなく、そんなに頑張ってもいなかったし、課金も他の人と比べたら微のうちの微という感じだが、それでも「すっかりやめる」のは容易でなかった。そしてやっていて特に面白くもないイベント周回を最低限こなし、何かを取り逃すと悲しい気持ちになったりした。
 しかし、プログラミングにハマってからはいよいよ「ゲームなんかやっている時間はない」という状況になり、自分の生活からソシャゲがバッサリ裁ち落とされた。そもそも「手に入れられる喜び」のためではなく「手に入らない悲しみ」のためにやっていたようなもので、結局ネガティブ感情が生まれる機会の方が多かったため、一切やめてみるとむしろ気が楽になった。ソシャゲはゲームとしてはいくらやってもすごく楽しい嬉しいということにはならなかった一方で、プログラミングはやればやっただけ楽しいし嬉しくなる。

 自分の中にあったソシャゲの「やめがたさ」は、キャラなりカードなりにストーリーが付与されていることに起因している。ストーリーには快があるから見たくなるし、登場するキャラのことが好きになっているからそのキャラについて見逃しているものがあるのが嫌だし、キャラについて話した時に「それはあのカードで語られていますよ」とかなったらどうしようもない。
 ストーリーの快は、次々出てくるのをずっと追うことによって加速すると感じている。次はどんなのが来るかと待ち構えて、予想が当たったとか外れたとかで興奮するわけである。でも追えなくなるとその興奮はすっと消えてしまう。待ち構えることなく見かけたストーリーには「へえ」としか思わない。カードを手に入れる時期が登場時期とずれてくると、どの順番で何が発生したのかもわからなくなってくるし、何を見て何を見ていないかも曖昧になる。そうなると、「へえ」という分の小さな快はあっても、興奮を覚えることはなくなっていく。
 この変化は、追わなくなって初めて分かるものだろうと思う。そして一度興奮が収まってしまえば、もう必死にはなれない。早い話がほとんどどうでも良くなってくる。ソシャゲというのは基本的に辛いものだから、やめられるならやめたいという気持ちが常に漂っていて、「なんかもうやめてもよくない?」という方に傾き始めると戻ることはほぼない。今年の私の場合は少しずつフェードアウトしたというより一瞬でプログラミングに圧殺されたのだが、いずれにしてももう熱意が復活することはないだろう。過去にやめてきたソシャゲを振り返っても、一度やめたら復帰はない。これまでは「別のソシャゲ」に移っていったわけだが、今回は「ソシャゲ」というカテゴリ自体とお別れになりそうだ。

 Twitterで発信するなどしている場合、ソシャゲ類を全部やめるということは、(他のジャンルが共通言語になっていない限り)そのソシャゲを共通の話題として成り立っていた人間関係を半ば捨てることでもある。わざわざ断ち切るわけではないとしても、話す機会は確実になくなっていく。相手が自分に興味のない話しかしなくなれば「知らない話しかしないしもう見なくてもいいか」となることもある。
 共通の話題がなければ成立しない程度の縁は、繋がろうが切れようが人生の大勢に影響は無いが、まとめて手放すためにはそれなりのエネルギーや口実が必要になる。就職したとか昇進したとか結婚したとか子どもができたとかのイベントを機に手放す人は多いだろう。そういうライフステージ上の変化がない場合、生活がガラリと変わるくらいの出会いがないとたとえ疲れを感じていてもそこから離れることは難しいのかもしれない。ゲームそのもののやめがたさに人間関係上のやめがたさが加わって、ソシャゲという世界に留まってしまう。

 プログラミングをバリバリやり始めるということは当然それ以前にあった何かを切り捨てて時間を捻出しているわけで、その切り捨てられたもののうちのひとつがソシャゲだったわけだが、色々な意味で、プログラミングに取って代わられたことは良いことだったなと感じている。

 切り口は全然違うものになるが、ゲーム繋がりということで次は自分とRPGについて書こうと思う。
 

2022/12/25

よくわかるNoratetsu Lab(2022年版)~前編~

 去年と同様に、一年の総集編として今年このブログに書いた全ての記事からそれぞれ一部分をピックアップしました。ちょっと多いので前後編に分けています。
 なお2021年版はこちら→よくわかるNoratetsu Lab(2021年版)


 番号の前にTがついているのはトンネルChannelに投稿したもの。

01:Scrapbox日誌:「整理したい病」には「放置」が効いた

複数の情報を扱う時、何かしらの観点で括れそうな気がすると括りたくなる。
物事と物事の間に共通点や相違点を見出すことは理解の基本であって、見出した瞬間には脳内に快感物質が出ている気もする。括れるところで括り、分けられるところで分けるのは気持ちが良いのである。

02:アウトライナー日誌:バレットを「┠」にしたらバレット感に邪魔されなくなった

アウトライナーを使いたいと思うということは、まず前提として「複数の独立した項目を同時に扱いたい」という要求があるだろう。項目同士が関係するかもしれないししないかもしれないが、とりあえず自分の視界から外れてしまうと忘却の危険があって困るので、つまり脳の機能上の制約を理由としてそれらを限られた範囲に同居させる必要がある。アウトライナーを使っている間、アウトライナーは私の視界そのものである。

03:Twitter日誌:同じ流れを繰り返してパブロフの犬になる

Twitterでツイートするということには「人に読んでもらう」という意識が伴い、話の流れに欠けがあると気になるため、その意識が「この後何か言うんだったような」という違和感となって手を伸ばし結びつきを作ってくれるように感じている。

04:ブログの書き方ド下手問題⑧~文章にするの面倒くさい問題~

つまり、メモするにあたって「これ」を名詞ではなく状態の変化として書き留めておくと後から文章にしやすくなるのではないか。しばしばブログ記事のタイトルに「○○したら△△になった」という形の表現が見られるが、それは要点としてとてもよくできていて、ただ読者を惹きつける手法としてだけではなく、後日文章を書く自分を惹きつける言い回しとしてメモに使うと有効に思える。変化を引き起こした事物そのものではなく自分自身の体験・体感にフォーカスしたメモを作るのである。

05:JavaScript日誌:一歩進んだら十回足踏みせよ

実際にできるようになったことの多さよりも、「できない気がする」と感じていた領域が無闇に果てしなかったのがある程度狭められたことが、自分の中では大きな意義に感じられる。

06:ツール製作日誌:「面のアウトライナー」

ゆえに、「線のアウトライナー」と「面のアウトライナー」の二つが必要なのではないか、と思うのである。万人に必要かはわからないが、とりあえず私には必要だったように思う。そしてマンダラートというアウトライナーとは一応別物として存在しているメソッドの形態が、アウトライン表示の追加やドラッグアンドドロップ操作の実装などにより、結果として「面のアウトライナー」と呼べそうなものになった。

07:座標のない平面

やはり「座標」の概念の有無は良くも悪くも大きな影響力を持っており、一口に「面」のツールと言っても「座標」の概念がどう扱われるかで情報の認識は随分変わる。前述のように「座標」があるツールは既に存在しており、少し前に自分でも付箋ツールを作った。それでもまだ手が届いていなかった領域が、「座標の影響力が限りなく小さい平面」だったのだろうと思う。

08:ツール製作日誌:三ヶ月で劇的ビフォーアフター①‡‡‡自作ツール紹介編

(付箋ツールは)「この情報をどのくらい視界に留めておきたいか」というようなことをコントロールできるのが良い。ページやカードで内容が分かれてしまうものだと、その点であまりうまくいかなかったのである。

09: ツール製作日誌:三ヶ月で劇的ビフォーアフター②‡‡‡生き方改革編

誰かがやってくれるのを待つしかなかった生活から、頑張れば自力でなんとかできる生活へとデジタルライフが転換したのである。何が何だかさっぱり分からなかった世界で主体性を手に入れたことは、精神的に劇的な変革をもたらしたと感じている。ますますデジタル化が進む中でも自分の生活をコントロールしていられるかもしれないという希望がある。

10:タスクとプロジェクトを考える

前の段落で、「プロジェクト」の語が伴う要素として「ある目的がある」「目的は達成される類のものである」「具体的な業務が計画・構成されている」という三点を整理した。(これは絶対的なものではなく、あくまで私の中のイメージの言語化である。)
事の規模の大小を無視すれば、これはあらゆる「タスク」が伴っている要素でもある。何かをやる必要があるという時、それは何か目的があるからであり、やればその目的の一部あるいは全てが達成されるもので、「やる」ということはつまり具体的な業務を実行することを意味している。「タスク」が特に「具体的な業務」の部分を指すならば、「タスク」と、そこにくっついている前提とを合わせたものが、「プロジェクト(という語の語感が引き連れている要素)」ということになる。

11:ツール製作日誌:タスク&スケジュール把握ツール

そういう変に神経質な人間なのに、プログラミングを全くわからなかった状態では「与えられたツールの使い方の工夫」という形でしか努力できず、したがって常に「なんか違う」という不満に悩まされていた。しかしプログラミング(JavaScript)を覚えたことでダイレクトに「自分のためのツール」を作れるようになり、初めてサイズの合った服を着れるようになったような気持ちでいる。作るのは大変だが、それでしか自分を助けられないとなれば頑張れる。

12:ツール製作日誌:カード式アウトライナー①機能説明編

大分類・小分類・件名と三段階の分類がある。ただし、これらは「混ざると気持ち悪いものを混ぜない」「頭を使わずに探し出せるようにする」という為に設定するものであって、図書分類のように内容の種類によって分けるとかいうことではない。

13:ツール製作日誌:カード式アウトライナー②背景説明編

前者はそもそも「ツリー」にしたいのであって「アウトライン」ではないかもしれない。しかし「ツリーを作れるツール」として身近で簡便なのが現状アウトライナーなので、ツールを選ぶ際にはアウトライナーが第一の候補になる。ただ、ツリー構造を作るのは簡単だが、それを維持・成長させることにアウトライナーが向いているとは限らない。枝葉の先ひとつひとつを自力で見回ってケアすることになってしまうからだ。

14:タイムライン型・カード型・デスクトップ型①~タイムライン型とカード型を使い分ける~

思索の根幹について文章を用いて使い回しのできる単位でまとめたものを豆論文(梅棹忠夫による)とかアトミックなノートと言ったりするが、そういうものの「小さな塊」の感じと、日々の出来事や自分の気持ちなどを「これ」と指し示せる形でまとめた時の「小さな塊」の感じを、どうも混同してしまっていた。両方とも「小さな塊」であることには違いないが、後からそれらの記述にアクセスする時、前者は「繰り返し使うもの」として取り出し、後者は「事実を確認するもの」として取り出す。そこには、粒度がある程度小さいということくらいしか共通点はなく、それらを交ぜてしまうのはビー玉と大豆を同じ袋に入れておくようなものに思える。

15:タイムライン型・カード型・デスクトップ型②~デスクトップ型~

目的に向かうためには、一度にできることはひとつである点で時間の流れというリニアな縛りへの対処を考えなくてはならない。一方で、何をしなければならないかを考えるには、同時に存在する物事や概念を俯瞰する必要もある。これを「縦の視点」と「横の視点」などとするとなんとなくビジネス感が漂うが、とはいえその二つが目的を達成するにあたり必ず要求されるものと思う。

16:アウトライナーと手帳と表紙

一方でデジタルツールはどうか。Logseqに限らず、「表紙」にあたる部分はほとんどない。アプリケーションの起動時にはロゴが表示され、それがツールとしての表紙であろうが、そこには紙の表紙が担えた機能を一切付与させられない。デジタルツールはどれもリーガルパッドのように「いきなり紙面」のような形である。と言ってもいちいち表紙にあたるページをめくらされるのも煩わしいので、「いきなり紙面」であることが悪いというのではなく、デジタルツールの良いところでもある。ただ、「手前」にあたる場所がない、ということは、メタな記述をする場所として自然なスペースがないということでもある。

T01:Evernoteさん、雑に使ってごめんなさい

Evernoteが教えてくれたことがある。
ひとつは、「情報を得る」ということについて私は何も知らなかったということだ。「知らないよりは知っていた方が良いのかも」「覚えれば役に立ちそう」「私の関心にマッチしている」「絶対に必要な知識だ」、これらはいずれも「あ、」と思って自分の目に留まるが、それを全部同じように突っ込んで良いのかどうか。
大抵のことが「知らないよりは知っていた方が良い」ことだ。するとつまり大抵のことが網にかかってしまう。それを全部集めていたら、自分のEvernoteが地球か宇宙かになってしまう。自分でピックアップしている意味がない。少なくとも、自分のEvernoteというのが「個人的な関心に沿ったコレクション」なのか「自分の視界に入ったもので作り直した宇宙」なのか、意識した方が良いに違いない。

T02:インボックスを飛ばしたほうが良いわけではない、ということ

「多分必要」「多分価値がある」というような、弱々しい判断らしきものをしているがゆえに、多少は意識を向けたかのようなつもりになっていたわけですが、実際には何も考えていないに等しかったように思います。情報を見た時点で何かを「思った」かもしれませんが――いや、「感じた」に過ぎないかもしれません――少なくとも、「考えた」わけではありません。

17:令和の「同人」としてのトンネルChannel

アイデアというのはその人の自尊心などと固く結びついていて、切り離すことは感情的に難しいと思うし、切り離そうとするべきでもないだろう。企業で行うブレストは個人ではなく企業(ないし企業内のチーム)が主体だから成り立っているのであって、「知的生産を試みている者同士」で同じようにできるわけではないように思う。よって、「私たち語り」をするのであれば、知的生産の産物を発表し合う形でしかうまくいかないのではないだろうか。Twitterでならぽんぽん出てくるのも、それは「何月何日何時何分に私がこの言葉でこう述べた」という証拠が残るからであろう。

T03:Evernoteの用途と「Evernote体験」の質

Evernoteの有用性というのは、一番には「保存しておいたものをさっと取り出せる」というところに感じるものなのではないかと思う。そうできるシステムをEvernoteが備えているということと、そしてEvernoteを使う中でその良さを実際に体感するということで、ユーザーがその有用性を実感する。「さっと取り出せた」という体験をしなければ、Evernoteのシステムのすごさを頭で理解はしていても、それを実感できていないので、「ここがEvernoteの素晴らしいところだ」と惚れ込むこともなく不完全燃焼に終わるのかもしれない。

18:五十年残る文章を書く

つまり必要なのは、「渾身の文章」を捻り出そうとすることだ。内容のスケールは別に大きくないとしても(今日の朝ご飯の話でも良いのである)、「まあ大体言いたいこと言えてるし及第点だよね」みたいな軽さでちゃらっと書くのではなく、一文でもいいから地球に刻み込もうと思って書くということ。この文章を読むことでしか手に入らない何かがあるということ。「わかりやすい」「面白い」に留まらず、どこか独特な印象を残すということ。全ての人に満遍なく届かせようというのではなく、目の合った幾人かを掴んで離さないということ。

T04:プログラミングに抱く「得体のしれなさ」問題

また、もしかすると個別のプログラミング言語の話や成果物の紹介よりも、「ツールというのはこれがああなってこうなってそうなるものということだ」的な、メカニズムの把握の仕方の方が「最初の一歩」の後押しとしては大事なのかもしれません。学校でプログラミング教育を受けていない私たちには、その部分にボコッと穴が空いている気がします。

19:ツール製作日誌:カード式アウトライナー③カードっていうかルーズリーフだった編

背景説明編にて自分で「Evernoteの本文部分がアウトライナーになっているようなものかもしれない」と書いたのだが、まさしくそうで、これはカテゴリとしてはEvernoteと同種のものだった。カードではなくノート(大学ノートやリングノートの意味での「ノート」)の流れである。私が「カードボックス」としてイメージした構造は、実際にはルーズリーフのバインダーだった。
アウトライナー部分がアウトライン構造から解放された状態というのが、このツールを作る前の時点では私の中でちょっと革命的だったし、「ばらせるもの」というイメージに基づいて「カード風」と捉えていた。実は「カード風」より「ルーズリーフのリフィル風」なのだというのは使ってみて初めてわかった。

T05:「何者か」にならないと世界がモノクロになる私たち

そうなると、「自分を活かせそうなこと」ほどできなくなるおそれがあります。もしそうして大したことがなかったら耐えられないからです。その結果、わざわざ苦手な仕事をしたりして「そもそも活きるはずがないことだから失敗しても仕方ない」という保険を無意識にかけてしまったりもします。置かれた場所で咲きなさいという言葉がありますが(それもそれで尤もとは思いますが)、わざわざ咲きにくいところに自分を置いてしまう悲劇があります。「活かそうとしない」方が「活かしてみたけど大したことなかった」より一層損失は大きいと思うのですが、可能性が決定的に閉ざされる苦しみよりかは精神的にマシに思えてしまうことがあり得ます。

20:ツール製作日誌:プログラミングの勉強を開始して半年の振り返り

ツールのデータベースとしてローカルファイルを使えるということは、そのファイルがオンラインストレージ(Dropboxなど)にあればどの端末からもいつでも参照できるということである。(中略)つまり他のちゃんとしたツールとの間に橋が渡されたということであり、このことは自作ツールの可能性を大きく広げるものだと思う。

 続きは後編よくわかるNoratetsu Lab(2022年版)~後編~へ。
 

2022/12/22

「報いの時」感想

 日曜日に「鎌倉殿の13人」が最終回を迎えた。いやあ、すごかった。といっても私が見始めたのは途中からで、確か頼家が斃れる直前の回からだったから1/3くらいしか追えていない。わかっていないことがたくさんあるが、それでも面白かったので、わかっている範囲で感想を書いておこうかなと思う。論考とかではなくただの日記です。

 ※以降最終回の内容に触れるのでネタバレされると困る方は回れ右。


 何より舌を巻いたのは、これまでうっすら「これでいいのか?」と感じていた人物たちについて全て片を付けていったところだ。このドラマの人物たちは、歴史上の人物的ではなく、実際に生きているリアルな人間をベースにちょっとキャラクター寄りにデフォルメしたかなというくらいの人物像だと思うが、その中で妙に言動が単調のように感じていた人物がいて、それがのえ(=伊賀の方)、三浦義村(平六)、北条政子、の三人だった。ずっと出ているのに何かがわからない、どこか言動が浮いている、そんな感じがしていた。
 のえはところどころ登場しては野心が強い愚かな妻という振る舞いを見せ、それ以上のものがない。平六は毎度毎度人を唆してはその後北条に寝返り、「三浦が生き残るため」と繰り返す。政子は小四郎が非情な決断を下す度に綺麗な正論で食って掛かる。そういうキャラだと言われたらまあそうなのかなと思うものの、小四郎の人物像の複雑さと比べるとなんだか厚みが足りない。一方北条時房(五郎)や北条泰時(太郎)は、わかりやすいキャラクターではあったが、意外性を見せたり考えを途中で改めたりと複雑さが垣間見えるところがあった。しかしのえ・平六・政子には(少なくともドラマの2/3以降では)意外性を見せる箇所が無かった。このまま話が終わったら「なんだったんだあの人物は」という気持ちのままだった。
 そして最終回で、そのもやもやが全部晴らされていったことになる。
 最終回を見る前にタイトルの「報いの時」から受けた印象は、小四郎が政治家としてこれまで数多の重要人物を死に追いやってきた、その所業に対する報いがやってくるのだろうということだった。実際には、それもまあ無くはなかったとは思うが、そんなことよりもっと個人的な不誠実さに対する報いの時だった。最終回時点で存命の人物の中で、小四郎が決定的に不誠実だった相手がのえと平六と政子だったわけだ。(実衣(=阿波局)に対しても酷かったとは思うが、実衣の方は実衣も実衣だし「(自分は)どうかしてました」で自己解決している。)
 小四郎は「思惑」はわかるくせに人の「心」はもう本当に全然わかっちゃいないので、直接関わった相手にはだいたい無神経なのだが、「距離が近い」ほどその無神経さが悪質なものになってしまったということだろう。のえも平六も政子もずっと我慢していた。そして小四郎がやるべきことをやり終えるまで我慢してやったのに、結局我慢した甲斐がなかった、ということになってしまったのかもしれない。

 のえはあまりに悪妻な感じに描かれていたので最終回より前の段階で感情移入するのは難しかったように思うし、どちらかというと小四郎目線で「こんな妻じゃ愛せなくて当然」というふうに見てしまうところがあった。しかし考えるに一番長く小四郎の隣にいた妻はのえだし、描かれていないところで妻として支えてきたに違いないし、出自も真っ当であって、大人になった男子もいる。それなのに小四郎はのえを愚妻扱いして徹底して目を背けてきた。そんなに嫌なら早いうちに離縁すればよかったのに、それもしない。結局のえは妻なら知らされていて当然のことを何も知らされず、兄は謀略に巻き込まれて死んだのに謝罪はなく、子どもは跡継ぎにもさせてもらえない。一体何のために妻をやってきたのかとなって当然だ。
 一見すると、妻という立場の中で比較して八重や比奈のように想われていないことを訴えていたかのようだったが、ただその二人に負けたということではなく、最後にのえが言及した面々、つまり八重、比奈、太郎、政子、平六、その五人全てより順位が低かったことを訴えていたのだと思う。そりゃ小四郎が悪い。前の妻二人、前の妻の息子、姉、盟友、それより今の妻の優先順位が低いというのは普通に不誠実過ぎる。父時政が「今の妻」のために全てを捨てることになったのとは良くも悪くも正反対だ。小四郎が仕事を一通り全うするまで待ってやったのだからのえは偉い、くらいの気持ちにもなってくる。「私のことなど少しも……少しも見ていなかったから。だからこんなことになったのよ!」という咆哮は、それまでの軽佻浮薄なのえと打って変わって重々しい存在感を放っている。

 平六も毎話の掌返しで「あいつはそういうやつだ」という雰囲気が漂っていたが、どうして小四郎の言うことを聞いたり裏切ったり果ては殺そうとさえしたかの種明かしをされると、「そりゃそうなる」という気分になった(掌返ししているのは私の方です)。平六の告白を聞いて「いや爆豪勝己か!」と思ったが、相当な苦悩があったということを想像してしまう。平六が度々無駄に脱いでいたのも、「俺は小四郎より立派な偉丈夫だ」ということを小四郎や周囲に示すためだったのかも知れない。
 平六が裏切り裏切り裏切りを重ねていたのは、半分くらいは小四郎の指示で不満分子を唆して誅殺の口実を作るためだったかと思う。平六はその企みを全部成功させ、小四郎の思惑通りに危険な存在が排除され続けた。今考えるに、小四郎は説得らしい説得にほとんど成功したことがない気がするのとは対照的だ。平六はいつも相手の信用を得て懐に入り込み、言葉巧みに操って相手に行動に移させる。時房なんかは平六が本当に忠義に厚い人間だと思っていたふしがある。それだけ平六は有能で魅力的で影響力の大きい重要人物で、北条という立場がなければ人の上に立てていない小四郎とは大違いなのだろう。(だからといって平六に執権が務まったかと言うと多分それはそうではないのだろうけど。)
 自他ともに認める優秀な人物であるのに、小四郎が北条で自分は三浦というそれだけのことで、平六は小四郎の言うことを聞かねばならず、北条の支配を盤石にするために所領を奪われたり茶番をさせられたり汚れ仕事をやらされたり……小四郎は「お前は私の盟友だろう、わかってくれるよな?」という感じの態度で平六を従わせ続けてきた。それだけ平六を働かせても、小四郎は「お前のおかげだ」と真摯に向き合った気配もなく、そして政を成り立たせるためには表に見える手柄の分しか報奨も返せなかったのではないか。平六はどれだけ頑張っても小四郎の下にいる限りはただの御家人である。しかも北条が偉いのは小四郎が偉いからではなく、たまたま小四郎の姉が頼朝と結婚したからだ。「世の中不公平だよなあ!」
 しかし結局のところ、平六が信用ならない人物であることはとっくにわかっていた小四郎が、それでも幼少からのよしみと平六への高い評価から平六を重用し続けたということが、実朝暗殺前まで平六を耐えさせていたし、その後もここぞというチャンスを逃させたし、ついに毒を盛るに至っても、最後には平六を忠義の人間に変えさせたということになるんだろう。小四郎はずっと平六をこき使って不誠実に扱ってきたが、小四郎が示せる最大限の誠意が「それでも信じる」ということだったのだろう。いやあ見事なパズルだ。「女子は皆きのこが好き」という話を信じているような小四郎を、平六は「間抜けな奴だ」と思いながらも憎めないところがあったのだろうなとも思う。

 政子に関しても小四郎は酷い。
 政子が頼家の死の真実を知らないでいた(うすうすわかっていたが詳しくは知らなかった)ことに、一瞬小四郎と同じ顔になって「あ!?そっか!?」と思ったのだが、なぜ「政子は知っている」と思い込んでしまったかといえば、実朝が政子を責め詰った場面があったからだろう。あの時具体的にどういう台詞が交わされたのかちょっと覚えていないが、私は政子もある程度知っていると思ってしまっていたから実朝の嘆きが政子に深々と刺さったのだと解釈したのだが、知らなかったとなれば政子にとっては全く仰天の展開だったのではないか。何が間違っていたのかと反省しても、頼家の死の真相を知らないことには実朝のメッセージは正しく受け取りようがない。
 最終回の小四郎との最後の会話で政子に起きたことは、最愛の息子は小四郎の命で殺されていたと知らされ、実朝と公暁の憤りの正体が何だったかを悟り(多分)、それが究極のところ小四郎の「北条泰時の名を輝かせる」という願いのために行われたと語られ、更に小四郎は自分の息子のためにまだ人を殺そうとしているのだと知った、ということだ。これは酷い。小四郎が「鎌倉のため」と言っていたうちはいいが、もはや小四郎は「太郎のため」に人を殺めるつもりでいる。政子はこの会話の最初で「頼朝様から鎌倉を受け継ぎ次へ繋いだ」「だからどう思われようが気にしない」という話をしたのに、小四郎は政子を称賛しながらも違うことを考えていたわけだ。苦渋の決断に涙を流していた姿はもう失われ、太郎のためならボタンをぽちっと押すかのように幼帝の殺害を命じられる。政子は我が子を失った分(そして尼将軍としても)、民のために尽くし、親をなくした子どもたちを助け、亡くなった人々の菩提を弔おうとしている。そんな政子に向かって、自分の息子を輝かせたいからまだ人を殺すぜとか言っちゃう小四郎。酷い!
 政子が「我が子を殺された恨み」だけで小四郎の命を絶ったわけではないにしても、小四郎の姿に「この子はもうこれ以上生きていてはならない」と思ったのは確かで、人の死を誰よりも明確に嫌っていた政子が延命の道を自分の手で断つ決断をするほど、小四郎は酷いことをした。これまでの数々の非情な政治的決断よりも、政子の前で「自分の息子の未来」を語ったということが遥かに罪深く感じられた会話だった。
 でも、可愛い弟がそんな人間になってしまったのは小四郎を鎌倉の政治に巻き込んだ政子のせいでもある。「あの子はそういう子です」が口癖のような政子としては、小四郎が本当はこういう子ではないこと、政の重圧でおかしくなってしまったことがわかっていただろうし、耐え難いことだったのかもしれない。政子のすすり泣きは小四郎に対する申し訳なさもあったのだろうと思った。

 のえ・平六・政子の態度が最終回前まである種単調に見えたのは、小四郎に対して突きつけるべき感情を突きつけないでいたからだったのだと思う。のえは文句を言ったことがあったが、それにしたって本当ならもっと怒ってよかったのに、「ちょっと文句を言う」くらいに留まった。小四郎の仕打ちに対して三人が感情を激しく爆発させたことがなかったから、なんとなく人間味の乏しい姿になってしまっていたのだろう。明らかに不満があるのに、事態を大きく動かすほどのことはせず小四郎の思い通りにしてきたのが、なんとなく「起きるべき波乱が起きていない」印象をもたらしていた。それが最後の最後で全部回収されていった。まさに「報いの時」。すごい。
 そして、単純に「のえが毒を盛って小四郎を殺した」というのではなく、平六が毒を用意し、のえが毒を飲ませ、しかし最後は政子が薬を飲ませなかったことで命が尽きたという展開に膝を打った。誰が殺したとも言い難い。その全員によって小四郎は少しずつ死んでいった。あと運慶の仏像にも命を縮められた感がある(視聴者の命も縮みそうな造形だった…)。でも、政子に頼家の話をしたあたりから容態が悪化しているところからして、一番小四郎の寿命を削ったのは小四郎自身の罪の意識だったようにも見える。

 それにしても。前の回で、独りで死ぬつもりでいた小四郎を政子が演説で救った。しかし最後は、まだ生きるつもりでいた小四郎をその政子が見殺しにしている。その逆転は皮肉なようだが、でも前回の小四郎の救いは生かされること(生きることを認めてもらうこと)だっただろうし、最終回の小四郎の救いは死ぬこと(もう頑張らなくていいと止めてもらうこと)だったのだろう。
 小四郎を鎌倉という地獄に引きずり込んだのは政子で、小四郎に生と死の救いをもたらしたのも政子。逆に、この時代にあって政子の手は綺麗なままだったのは小四郎のおかげで、一方政子の絶望を作り出したのも小四郎。地獄の二人三脚で一蓮托生といった感じだが、少し前までは「こんな泥沼の連続で最後はどう着地できるのか」と心配になったのがなんとまあ鮮やかに終わったことだ。
 そういえば、政子が演説前に小四郎について「格好良いままでは終わらせません」という話をしていたが、それはその時点では「まだ生きてもらいます」「格好良い出番は私がもらいます」というようなニュアンスだったのに、最後の最後本当に小四郎が格好良く終われなかったのだから政子の言霊は強い。
 史実に詳しくないのでどこにどの程度脚色が加えられたのかは感想コメントや検索で知ったことと照らして想像するしかないのだが、かなり難しい時代を三谷幸喜マジックで見事にまとめて走りきったのだろうと思う。
 面白かった!

(2022/12/23 最後の方に加筆)
 

2022/12/19

「とりあえずブログに」の定着を試みる

 常々、Twitter(あるいはMastodon)に考えを放流してしまってそのままになっていることが気になっている。


(※何かを論じている記事ではなく日記です。)

 少し前には「日付をタイトルにした記事にすればいいかも」というアイデアを練ったり2022/11/14 ―― 日付をタイトルにする試み/やり方を真似したくなるということ、昨日も投稿先のコントロールについて考えたりしたアウトプットのコントロールド下手問題

 言語化のデフォルトがTwitterモードになってしまっているから駄目なのだ、というのはいい加減わかってきたのだが、具体的な行動についても考えなくてはならない。
 早い話が、「真っ先に開くのがスマホのTwitterクライアント」というスタイルが良くない。Twitterを開いてしまうとその時点で言語化のモードがTwitterモードに切り替わってしまう。
 なおPCからはそれほどTwitterを利用しないが、PCの前でスマホを操作して投稿しているということがしばしばあるので、現状「PCを開きさえすれば然るべきところに書き込める」ということにはなっていない。
 選択肢としては二つあるだろう。より望ましいスマホアプリへの動線を作るということと、PCを開いている時にはPCで書き込みたいと当たり前に思うような動線を作るということだ。

 スマホから書き込む時に私の中で前提になるのは、書き込んだものがPCからスマホ上と同様かそれ以上の細かさで確認・操作できることだ。つまりクラウドを通じてブラウザかデスクトップアプリでデータを扱えるか、クラウドストレージ経由でローカルファイルを共有できるか。Twitterは前者を満たしている。
 Google Playストアを見ると面白いメモアプリは様々あるのだが、クラウド保存機能がないとPCからデータにアクセスできないので条件に合わない。クラウドを利用できても、PCからのログインがすぐ切れるものは煩わしくなってしまう。スマホのアプリが多機能過ぎるなどして挙動が重いとそれも駄目だ。求めているものは単純なことなのだが、案外希望を満たしてくれるものがない。
 普段使っているDynalistはどうかというと、Androidアプリは一時期重くて使い物にならなくなっていた(なので、「Quick Dynalist」というアプリでDynalistのインボックスにメモを送信するという形で利用している)。しかしさっき久々に開いたら大丈夫そうかという感じがしたので、短文の編集場所として復権するかもしれない。あとは、最近Scrapboxをスマホから編集するのがやりやすくなったので、これも候補のひとつではある。Obsidianのアプリなんかも悪くはない。
 ただ、いずれもなんとなくもう一歩という感があり、面倒になって易きに流れるとTwitterに負けてしまいそうだ。すぐ読んでもらえる誘惑などもあるが、「簡単に書けて、PCでもアクセスできる」という観点でTwitterが勝ってしまう。ノートアプリはやれることが多すぎるせいだろう。
 うーん、と唸ってしまうのだが、唸っている間にCordovaあたりを覚えて適当なものを自分で作ったほうが話が早いかもしれない……。
 とりあえずスマホについてはまずDynalistとScrapboxをよりアクティブにすることを考えるとして、PCの環境を検討することにしよう。

 ブログ記事を書くためのツールというのはもう作って用意してあって、そのツールに不満があるわけではないのだが、いつも「よし書くぞ」という気合が入った時に使っているからか、「ぱっと開いてさっと書く」という感じではない。整理用のアウトライナーと本文用のテキストエディタを並べた形のツールなのだが、そうやってちゃんと準備して書けるように設計してあることによって、逆にラフに取り掛かることが心理的にやりづらくなっている。
 なんだか変な自縄自縛だなと思うが、この類の自縄自縛感というのは「ハマれば駆動に繋がる力が、今は噛み合っていない」という時に発生する感じがあり、如何なる場合も自縄自縛感が一切発生しないツールやメソッドが常に良いのかというと、それはそれで微妙なところでもある。環境の力を借りないとうまく動けないタイプは、同じ環境の力が時として負に働くこともあるということで、今どの環境にいるべきかを上手く選択することを考える必要がある気がしている。
 で、「いきなり本文書きたい時もあるよな」ということを考えていてふと思ったのだが、それならブログの記事作成画面をいつも開いておいたらいいのではないか。
 常に記事作成画面に書いている人々からすると「何を言っているんだ?」と思われそうだが、私はいつも別のエディタで書いたのをコピーして記事作成画面に貼り付け、プレビューして手直しするなどして投稿するという形を取っていて、直にそこで書くという習慣がない。つまりブログというのは「書いたものを投稿しにいく」場所で、「そこで書く」ものとして認識していなかった。同じ「投稿」という行為でも、Twitterは当たり前に「そこで書く」をやっているのに、ブログではそうなっていない(最初の最初は直に書いていたはずだが)
 予め他の書きやすい場所で書いておいて持ってくる、というのは基本的には良いやり方だと思うものの、「直に書くという発想がない」まで行ってしまうとそれは「より良いやり方」の選択の結果ではなく、単に惰性でやっていたに過ぎない。直接書けるなら直接書いたほうが早いのだから、あくまで「これこれこういう理由で直接は書きづらいから、別のツールで書いてくる」という判断によって他のツールが選択されるものだろう。

 こう考えてみると、もしかすると「何度か上手くいったやり方がいつの間にか前提化してしまう」というところに弱点があるのかもしれない。環境の影響を大きく受けるにもかかわらず、(あるいはそれゆえに、)特定の環境に無意識に拘泥してしまっている。いや、拘泥というか、他の環境の存在を忘れると言ったほうが正確かもしれない。
 そのことについてはまた改めて考えるとして、とりあえず今思いつく範囲で動線の修正を試みることにする。
 

2022/12/18

アウトプットのコントロールド下手問題

 自分は表現のコントロールが下手だと感じている。表現の技術がどうというより、表現の場所や頻度、タイミングの選択に常に不満がある。どうにかしたいので、少し考えていくことにする。


 ここでの「表現」を定義すると、「自分の思考に発生したものを形にして出力すること」を指している。文字でないものも含むが、今のところ専ら文章での表現を選択しているので、基本的に「文をいつどこに書くか」という話になる。
 他の人たちは自分がどこかに何かを書き込む・投稿するということに納得しているように見えるのだが(多分、そう見えるだけなのだろうとは思う)、私はどうも納得できていない。ブログにもSNSにもごちゃごちゃ書いている割に、そうやって書いて投稿しているということ自体に不本意感を覚えている。

 大雑把に言うと、「これ言わなくても良かったな」と思うことが多い。書きたかったから書いた、ということが前提にあるわけだが、後からものさしを当て直した時に、「書く必要があるものではなかった」という評価が下される。
 しかし、「書く必要があるものかどうか」で判断してしまうなら、最初からそんなものなどない、ということにもなってしまう。ブログやSNSに「書く必要があるもの」なんてない。強いて言えば、Twitterを告知の場所と位置づけたなら、ブログの投稿なんかをしたらTwitterにポストする必要があるな、とは言えるが、表現行為という面では「必要」では測ることができないだろう。しかし反省をするとなると「必要なかった」が出てくる。じゃあどこまでなら良しとなるのかは曖昧である。多分、無意識下で他の尺度で測った結果納得できていないから、身も蓋もない「必要なかった」という結論に至るのだろうと思う。
 TPO的な観点で「適切でないかもしれない」と感じることもある。しかも、個別の投稿の是非に留まらず、「そもそもTwitterでこういう話をするのはどうなのか」みたいな規模でそう感じる。じゃあTwitterではどういう話をすべきなのかはこれまた曖昧だ。他の人々と照らしてみても、各々好き勝手にやっているわけで、あらゆるやり方が「あり得る」ことになる。
 適切かどうかは「場所」「公開の度合い」「頻度」「タイミング」といったものの如何で判断しようとするわけだが、それらを適切に選択しようというところまでは考えても、どう選択するのが正解か(自分が納得できるか)ははっきりしないので、考えたところで不満は抱いたままになる。

 曖昧さの一因として、自分が「一般人」であるということがある。芸能人でも作家でもないし、他の何らかの職業を看板にしているわけでもない。むしろ明らかにしないことを貫くつもりでいるので、純然たる「個」「私」である。何も代表しないし、何も背景に持たない。となると、その分基準にできるものもないということになる。自由過ぎて、引くべきラインが「人として」というところまで広くなる。それは本当に最低限のラインだが、それ以上は客観的な根拠なしに決めなくてはならない。
 多分、「どういうアカウントにするのか」ということをデザインする視点が必要なのだろう。

 もうひとつ原因を挙げると、結局のところ何を求めて投稿するのか、が常に曖昧だという問題もある。
 頭に浮かんだものを表現して投稿するという時、その結果がどこに着地してほしいかというのはその都度結構違っている。

  • 言語化できればいい
  • 自分以外の誰かの視界に入ればいい
  • 誰かが反応してくれればいい(「いいね」を含む)
  • 誰かに共感してもらえればいい
  • なるべくちゃんと理解してもらいたい(誤解は避けたい)

 例えばTwitterはその点色々都合がよく、「言語化しやすい」「人の視界に入りやすい」「反応を得やすい」というメリットがある。共感や理解を得ようとするなら言葉を工夫しつついくつもツイートを重ねる必要が生じるが、何しろ読まれやすいし返信もしやすいことから、他の媒体より楽なのは確かだ。
 共感を得るには友人や家族などに話したほうが確実だが、前提を相手と共有できていない内容だとその説明からスタートしなければならず、それを省略して「誰かがわかればいい」というふうにしてしまえるTwitterは非常に簡単な感じがある。
 つまり自分の希望を広くカバーし得るのがTwitterなので、「とりあえず」「なんとなく」Twitterに投稿する、みたいなことになる。ただ、Twitterは広くカバーし得る代わりに得られるものは薄いので、Twitterによって自分を満たすというのは難しい。それに、自分が得たいものがその都度違っているなんてことは、基本的に読み手にとっては知ったことではないわけで、自分は楽だが読み手は必ずしも楽ではないというところがある。結局はかなりの部分「空気を読む」ということに支えられている。そうなるといずれ疲れてくると思う。自分は投稿者であると同時に読み手であり、自分が他に要求した分は自分も他に対して満たそうとせざるを得ない(意識的にも無意識的にも)
 どこに着地したいのかに応じて表現スタイルを変えていくべきだろうと思うが、いつも「どうしたいのか」という自分の気持ちを自分に問うより先に思考の言語化が完了してしまうので、言語化できてしまった以上はつい投稿しやすいところに投稿してしまうという流れになっている。Twitterサイズで言語化した時、そこでツイートしなかったなら後で形を整えて記事化しなくてはならないが、それが面倒くさいと思うとそこでツイートしてしまう。「投稿先としてTwitterが相応しいからツイートした」のではなく、「それ以上手間をかけるのが億劫だからツイートした」になるわけである。そうなると後から不本意に思えてきて当然だろう。
 あるいは、不安が高まっているような心境の時は少しでも早く他者の反応を見たい(もしくは誰かに自分の状態を知らせたい)ということもある。表現として最善手かどうかよりも、読まれやすさ、反応の得やすさで判断してしまう。それが必ず駄目だということではないが、メンタルの状態が変わった時点で「あの投稿は自分で納得できるものではなかった」ということになる場合がある。
 たとえ「言うべきでないことを言った」という直接的な後悔はなかったとしても(それがある時ももちろんある)、「こういう形でない方が良かった」と感じる可能性が生じる。困ったことに、投稿している間は理屈でやっているつもりでいて、自分が感情的に慰められることを求めている自覚はない場合が多々ある。そうなると、読んでくれる誰かにとって必要な情報以上のものをぐだぐだ書き連ねることになって、「無意味に長文を書いてしまった……」などと反省することになる。

 面倒臭さ由来にしろ不安由来にしろ、言語化をスタートした時点で着地点が曖昧過ぎることが不本意なアウトプットを生じているように思う。着地点によって言語化の種類は変わってしまうし、一度言語化したものを別の種類に改めることは思いの外大変である。というか、ものすごく面倒くさく感じられる。
 つまり、思考を流し始める入口を適切に選択することが非常に重要なのだろう。私の場合「Twitterに流しやすいサイズ感」で言語化するのがデフォルトになってしまっており、そうしてしまってから記事に直そうとかアトミックに整理し直そうとかいうことをやっている。面倒臭いので、大抵はそのままツイートしてしまうか、ツイートの下書きとしてごちゃごちゃ堆積することになる。
 となると、最初の一歩の時点でさっと選択できるテンプレートの数を増やすことが必要な感じがする(テンプレートというのは比喩で、「表現形態のイメージ」みたいな意味である)。そのテンプレートと投稿場所、頻度、タイミング等は必然的に結びつくだろうし、傾向がはっきりすれば「どういうアカウントにするのか」が明らかになる気もする。

 今までは、表現して投稿するという行為を制御するにあたっては「ぐっと堪えて」的な精神論を思い浮かべていたが(そしてそれはなんにも役に立ってこなかった)、予め何を用意しておくべきなのかを考えることでもうちょっと現実的に自分を律することが可能になるかもしれない。
 

2022/12/18

ホームページ(仮)を作った

 何と呼べばいいのかわからないが、所謂ホームページ的なものを作った。

 ここに何かコンテンツがあるわけではなく、投稿先を一覧できるものがあったらスッキリするかもと思い、まとめて見れるものを作ろうと思って作った。
 全く何者でもないような身でホームページなんか作っても……という感は無きにしもあらずだが、今後もTwitterにいるとは限らない感じになってきており、「今どこにいるのかわかる」ような何かを作っておきたいと思った。


 あとは単にJavaScriptを書けるようになってきて何でも良いから何か作りたい的な気持ちがあり、その一環としてこんなのも作ってみた、というものでもある。

 Information欄は今のところ新規投稿のお知らせがほとんどだが、過去記事の加筆・修正についてもここで知らせることにしようと考えている。他にも何かやったらここに表示する。
 PCで見る場合は、日付、favicon、タイトルにマウスオーバーでそれぞれ日時、投稿先名、URLがツールチップで表示されるようになっている。あと最初は10件しか読み込まず、スクロールする度に続きが表示されるようにした。少し前に覚えたことを活用してみた。

 スクリプトで何かを処理するということにも慣れてきて、Bloggerのエクスポートデータ(xml形式)やnoteの非公式エクスポートデータ(txt形式)から必要なデータをJavaScriptでオブジェクトに変換してJSON化するということもさっとできるようになった。
 こういうのは、「仕組みを理解する」ということはもちろん大事だが、とにかくたくさんやって慣れることが一番だなと思う。(ちなみに、xmlは必要な部分をそのままcreateElementで作ったdiv要素のinnerHTMLに入れてquerySelectorAllで取得してループ、txtは記事単位になるようにsplitで分けてループ、でデータを作っている。)

 Informationは手動でデータを作ることになるので更新が自動で瞬時に反映されるわけではないのが前時代的で微妙なポイントだが、技術的に自動更新は作れないし、何より表示する内容が自分の尺度で選択されたものである以上仕方がない。ちまちまやっていこうと思う。
 

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