Noratetsu Lab

動じないために。

タグの定義・詳細

Scrapbox

チームで使うことを想定した共有ノートサービス。
※2024/05/21 「Cosense」に改称

公式サイト: Scrapbox - チームのための新しい共有ノート

個人でも利用可能。

Backlinks

他の「Application」カテゴリの語句

「Scrapbox」タグの記事一覧

2024/03/18

がらくた箱と宝石箱

 Scrapboxで自分が扱っていたものはつまり「がらくた箱」なのだ、ということを「賢くなる」と情報ツールの位置関係で見出してから整理を進めてきたわけだが、自分の関心に関わることでもうひとつ考えるべきものに思い当たった。「がらくた箱」に対するものとしての「宝石箱」である。


 子どもの時分には、がらくた箱は宝石箱とほぼイコールなので、その差を意識する必要はない。そしてここまでの検討では子どもの頃の感覚をメタファーとして用いたので自分の関心を基準としたノートを「がらくた箱」と表現したが、しかし無秩序に全部突っ込んだ箱がひとつあるだけではちょっと不十分だという感覚がある。
 子どもの頃のがらくた箱というのは、その時点で自分の目に輝いて見えたものを収集したもので、まだ関心の幅も大したことがないから必然的に純度が高く範囲が狭いものになる。例えば「情報」はその箱にはほとんど入らない。しかし大人になっていくと、むしろ情報に対して関心を持つ方が多くなるし、関心を抱く領域も広範になって、己の心の赴くままに集めていると量的に収拾がつかなくなる。なので懐の広いEvernoteやScrapboxのようなツールが必要になる[1]
 そうやって果てしなく収集していくとその数は何千とか何万とかになってしまうが、それらは等価というわけではない。いずれも自分の気分を良くすることは確かであるにしても、やはりその中でも特別なものというのがある。そして自分の好みはこれなのだ、という感じでそういう特別なものをずらっと並べてみたくなる。で、以前は例えば特別なものをピンするとか、「○○ランキング」「お気に入りの○○」みたいなページを作って列挙するとかいうことで「これが特別」と分かるようにしようとしていた。でもこれはどうも私には有効ではないようだ。「がらくた箱」という言い方を考えつかないでいた間はそのうまくいかなさの正体がよくわかっていなかった。
 つまるところ、がらくた箱の中にある以上はがらくたであり、がらくた箱の中で何をどうやってもそれが宝石には見えないのだ。(私の場合は。)
 デジタルツール以前はどうしていたのだったかと考えてみたが、Evernoteブームが到来する以前はそもそも自分の関心に焦点を当てることが下手くそだったので、そういうものをうまく扱えていた時期はなかった。今アナログでやるとすれば、特別感漂うシステム手帳か何かにきちんとリストやノートを作るとかするかもしれない[2]

 デジタルで「がらくた箱」とは別に「宝石箱」を作るとして、どんなツールを選ぶのが良いか。
 以前は「自分はこれらを特別に思っている」ということを忘れないためにリストを作ろうとしていて、Scrapbox内のリストの他にも例えばDynalistやNotionにそういう場を作ったりしたのだが、そういうリストには思ったほどわくわく感が生まれない。熱心に更新したいと思わないし、見返してもそんなに楽しくない。リストではなくそれそのものがそこにある形の方が良い気がする。
 また、宝石として扱うようなものは視覚要素が存在するものが多いので、単にタイトルが並ぶようなものではなく画像が目立つ形が良いだろう。その意味ではNotionでも全然問題ない。私個人がNotionを「リスト」として使っていたのがいまいちだっただけで、情報そのものの拠点にするならNotionのギャラリー表示でも構わない。
 現状Notionをそんなに重用していないので、自分の中の「気安さ」で考えるとやはりScrapboxが良いような気がする。「がらくた箱」とはきょうだいのような位置づけのものだし、その意味でも同じツールを使う方が納得感がある。一覧のグリッドを大きめにしたり画像が目立つようにしたりすると楽しいだろう。「がらくた箱」は数が大量なのであまりグリッドのサイズは大きくしたくないのだが、「宝石箱」の方はひとつひとつが目立っていた方が良い。
 そうだ、今思いついたが、CSSで画像に額縁を付けたりしたらどうか。かなり前にそういう感じのことを考えていたことがあったが(HTML/CSSで自分用の美術館を作る - Noratetsu's Room(のらてつ研究所))、ScrapboxのUserCSSでやるというのは全然思い至らなかった。例えばこんな感じ(スタイルは適当)

画像

 このスタイルが良いかどうかはちょっと置いておくとして、何かしら画像表示に特化したようなデザインを考えるのは「宝石箱」らしさの演出として重要なことに思える。


  1. 置き場所の膨張を気にしないならみうらじゅんのようにスクラップブックを無限に作り続けるのもありだが、みんなができることではない気がするし、場所を取らないデジタルながらくた箱は便利である。そもそも手に入れたものがデジタルデータであることも多いので、いずれにしろデジタルがらくた箱は必須という感がある。 ↩︎

  2. 写真ならアルバムを作ればいいのだが、多分あれは時系列だからすんなり作れるのだろうと思う。アルバムの発想を応用して自分にとっての特別なものを出会った順に記録していくというのもありだが、リアルタイムの記録がなく後から思い出していく必要がある状態なので入れ替え可能なやり方のほうが良さそうだ。 ↩︎

2024/03/17

ScrapboxとObsidianの個人的使い分け(2024年版)

 他の年の記事があるわけではないが、「今思っているだけに過ぎない」という意味で「2024年版」としておく。過去に断片的に書いた見解とは大きく違っている可能性がある。


 現在、ScrapboxとObsidianにはそれぞれ以下の役割を持たせている。(「がらくた箱」「知の箱」については三つの箱(領域)の整理参照)

  • Scrapbox
    • がらくた箱(好きなもの、面白いと思うもの、へ~と思ったものを集める場)
    • 特定の領域・ジャンルの調べ物や記録(ジャンル毎に1プロジェクト)
    • 個人サイト用のデータベース
  • Obsidian

 個人で使う場合、どちらも大雑把に言えば似たようなツールだ。ページ間リンクに優れているネットワーク型のデジタルノートツールと言えるだろう。なので使い分けに客観的な必然性はない。どちらでもやろうと思えば同じことができるからだ。
 有志が作ったプラグインの多彩さから言って「できること」の幅はObsidianの方がずっと広いようには思えるが、それにしたって、自分でスクリプトを書けるならScrapboxのUserScriptでもかなりのことができる。決定的な差があるとは言えない。

 大きく異なることを挙げるならば、ページがひとつひとつファイルとして存在するかどうかの違いがある。Scrapboxはページそれぞれをファイルとして扱うことはない。エクスポートする際も全部まとめてひとつのjsonファイルに入った状態で出力される。Obsidianは個別にmdファイルとしてローカルに存在している。Scrapboxの中身を分類することは仕組みとしてほぼ不可能だが、Obsidianが扱うmdファイルはフォルダを分けて分類することが容易である。また、ただのmdファイルであることにより他のアプリケーションを併用することも可能だ。
 ページがひとつひとつ存在していることが常に良いかというと、必ずしもそうとは言えない。というのは、例えば今現在私が「がらくた箱」として使っているScrapboxプロジェクトには4000ページほど存在しているが、これが全て個別のファイルとしてローカルに出力されたらちょっと耐えられない。ファイルが何千もあるということ自体圧倒される感じがして嫌だし、実体を持った形で並んでしまうとページの無秩序さが気になってくる。適当に使うことが難しくなるのだ。
 その点Scrapboxはページの数が増えればほとんどのページが視界から消えていくので、見えていないものの無秩序さは(一覧しないということに慣れてしまえば)無視できる。無価値なページが存在していても、その存在が視界に入る機会自体がほぼないので気にならない。

 逆に、内容によってはScrapboxではちょっと困るのだが、その要因はこの「視界に入る機会」にある。あるページが存在していても、そのページに至る導線がその後全く作られなければ、そのページに行き着くことはない。そういうページは別に見えなくなっても構わないのだ、と思える領域ならそれで全く困らないが、そういう「必要が生じた時に見つかればいい」型の情報ではないものを扱うとするならば、それでは少し不便になる。
 例えばその典型が「常識として知っておいた方がいいこと」みたいな情報だ。自分の関心と強く結びついている情報なら「そういえばあれがどこかにあったよな」という感じで探しに行く機会が発生するが、個人的には別に興味はないという場合には思い出すことが難しい。つまり自分がどういう人間かと関わりなく覚えなければならないもの、時折見返して思い出しておかなければならないものの扱いが難しい。こういう時、Ankiを活用する人も多いだろう。それはひとつの有効なアイデアだと思う。
 もちろん、Scrapboxでもきちんとリンクやタグを整理して網羅的に辿れるように整えていけば問題はない。なので「Scrapboxではできないこと」の話をしているわけではない。ただ、そのような几帳面さを維持するのは私には不可能なので、ページが個々に存在し、フォルダを開けばそれらが整列した状態で確認できるObsidianの方が、自分の感性や生活、仕事と直接的に関わりのない情報を扱うのは楽だろうと思う。(そういう情報を扱う必要があるのか?というのは個々人のスタンスによりけり。ない人はない。ある人はある。)

まとめ

 現時点での私の中での使い分け。

  • Scrapbox
    • 体系的でないもの
    • 自分の関心、生活、仕事と直接的に結びつくもの
      • =情報にたどり着くトリガーが自分の中に存在するもの
    • 見つかったり見つからなかったりしてもいいもの
  • Obsidian
    • 体系的なもの
    • 自分の関心、生活、仕事との結びつきが薄いもの
      • =情報にたどり着くトリガーが自分の中にないもの
    • 確実に見つかってほしいもの、ぱらぱら見たいもの

 

2024/03/04

がらくた箱と知の箱

 「賢くなる」と情報ツールの位置関係で、「がらくた箱」と「賢くなる」ための情報ツールについて書いた。
 何度も考えたような気はするのだが、なんとなく曖昧になってきていたので今この違いに気づきを感じている。


※2024/03/16 最終的にできた構造はこちら→三つの箱(領域)の整理

 情報を置くのはScrapboxかObsidianかDynalistか自作ツールか…ということをずっと考えている。情報の性質に着目した場合にScrapboxとObsidianを大雑把にまとめてネットワーク型とみなしていたけれど、自分の中でその間の線引きが少しはっきりしたかもしれない。
 現在情報ツールについて「がらくた箱」的運用はうまくいっている反面、「賢くなる」ための用途(「知の箱」と呼ぶことにしよう)ではあまりうまくいっていない。なお「知の箱」に入るものは、知識、知恵、引用、自分の仮説など「知」っぽいもの全般を想定している。おおよそ「知っておいた方がいいこと」「考えておいた方がいいこと」で、他方「がらくた箱」に入るのは概ね「好きなもの」「面白いと思うもの」「へ~と思ったもの」であるという点で区別される。
 実用のための調べ物をした時に、何らかの情報ツールにメモを取るが、結局のところ紙のノートや手帳に書いたものしか自分の中で有効になっていない感じがある。例えばプログラミングについても時々紙に書く。紙では一応回っているのだから「自分は紙派なのだ」と解釈することにしてもまあいいのだが、「自分が紙派だからデジタルでうまくいっていない」というのが真実かというとそれは甚だ怪しい。実際そうであったとしても、それならそれで根拠を明快に説明できるところまで詰めておきたい。

 情報ツールが「知の箱」として成り立つために必要な要素はなんだろうか。考えつくものを挙げてみよう。

  • 無限に収納できること
  • 何があるかわかること
  • 情報と情報を繋げられること
  • 体系的に整理できること
  • 体系的でない整理もできること

 紙でやると「情報と情報を繋げられること」が若干弱いのと、量が増えるとどこに何があるかわからなくなってくるのが難点だ。でも昔の人は紙が当たり前だったのだし不可能というわけではない。記述方法はデジタルよりずっと自由なのであり、紙でやるのだと割り切るのも別に非現実的選択というわけではない気がする。
 逆に「がらくた箱」として欲している要素も整理してみる。「がらくた箱」はアナログとデジタルそれぞれにあるが、ここで考えるのはデジタルについて。

  • 無限に収納できること
  • 曖昧な検索で取り出せること

 色々あるかと思ったが、「がらくた箱」についてはこれだけで良い感じがする。取り出しやすさを増やすためにリンクがあるとより良いとは思うものの、「知の箱」の内容とは違ってリンクによって情報の価値が増すわけでもないので(繋がったらちょっと嬉しい、という程度)、まあリンクはなくても構わないだろう。どちらかというとリンクよりタグの方が便利かもしれない。Evernoteはその点うってつけだった。
 今「がらくた箱」として使っているのはScrapboxだ。今日時点で4023ページある。がらくたじゃないものも入っているが、がらくた箱に入れてしまったことで実質がらくたになっている。内容物の全貌はもうわからない。全部チェックしようと思えばできるがそうすることにあまり意味はない。

 Scrapboxを「知の箱」として使おうと試みたこともあるものの、なんとなくうまくいっていない。ツールの機能としては十分なはずだが使い方には工夫が要るかもしれない。特に体系的な整理をどうするかだ。コンセプトを考えても体系的整理はあまり向いていないだろう。(でもできないということはない。)
 ひとつ踏まえておかなければならないのが、「知の箱」と「仕事場」は違うということだ。「知の箱」にはこれという目的はない。こういう人間になりたいという目標はあるにしても、明確なゴールというのはない。一方で「仕事場」はプロジェクトの完遂がゴールだ。関係する資料は大量でも、今必要な情報だけがアクティブで、済んだものは眠ってもらって構わない。マニュアルや報告書は要るとしても教科書的な体系化は必要ないだろう。たくさんの情報を扱うということは共通していても「知の箱」と「仕事場」には性格的に違いがあり、「仕事場」として最適化されたツールやその使い方が「知の箱」に最適とは限らない。

 ちなみにアウトライナーを「知の箱」として使うことも過去に一瞬考えたことがある。しかし、アウトラインに知識や知恵、思考を書いていくとなると、見かけが体系的になり過ぎて使いづらい。全部フラットに並べるとやたら縦に長くなり、それを防ぐために細かく階層を作ると複雑化し過ぎる。「こうもり問題」も発生する。無限に増殖し続けるものを管理するには向いていない。
 アウトライナーは、ゴールがあることか、蓄積にはあまり意味がないことで使うのが良いだろう。例えばデイリーアウトラインは過去の記述が溜まってはいくが、基本的に過ぎたものを活用することはない。稀に確認の必要が生じても、それは「蓄積した知識の活用」とは性質が異なる。今日のためのアウトラインは今日が過ぎれば一応用済みだ。

 前にObsidianを使っていた時、Obsidianの無限の可能性に感嘆しつつも「別にこれでなくてもいいかも」という気持ちも少しあったのだが、それは当時「がらくた箱」を欲していたことが原因だったのだろう。「がらくた箱が欲しい」という自覚は全然なかったのでどこで何がどう食い違っているのかその時はよくわからなかった。しかし考えてみるに、現在Scrapboxに4000ページあるわけだが、ローカルに4000の無秩序なmdファイルが生成されたらちょっと困る。多分、そんなことにならないようにセーブして使うことになるだろう。「がらくた」を扱うのは難しくなることが推測される。
 逆に当時Scrapboxに於いては「がらくた箱」の中身を整理しようとしていた。「がらくた箱」は整理ができないものだから「がらくた箱」なのであり、それをピシッと整理しようというのは無謀な試みだ。要は博物館にしたかったわけだが、それは背伸びし過ぎというもので、がらくた箱はあくまでがらくた箱である。
 そこから何年か経ち、Scrapboxの個人プロジェクトは「がらくた箱」として落ち着き、今「知の箱」を別に欲している。そうなった時に、やはりObsidianがそれに向いているのではないか、というのが今現在の気持ちだ。
 各項目がそれぞれmdファイルとして存在するということは、昨今のスタンダードな情報ツールと比べて全貌を把握しやすいと言えるだろう。普通にエクスプローラでフォルダを開けば何があるかわかるのだし、フォルダ分けも自由である。自由であることが混乱を招く要因にもなるのでフォルダ分けは慎重に行う方が良いが、とはいえ配置換えはごく簡単である(同じ名前のファイルが複数あると面倒かもしれないが)
 また、「これだけ勉強したぞ」というのが量的にわかるのが嬉しい。がらくた箱と違って、正直やらなくていいならやらない領域のものなので、嬉しくなる工夫は可能な限り凝らしたほうが良いのだ。アナログなら見りゃ分かるようなことが、デジタルだと必ずしもそうではないので、アナログだったら得られた快について積極的に意識を向けておきたい。

 ちなみに、「知の箱」として完璧なツールを自分で作ろうと目論んだこともある。構想としてはまあ悪くないとしても、挙動の不安定さやUIのいま一歩イケてない感じ、際限のない改良欲といったことで実用は難しかった。今作るとすれば、やはり結局のところmdファイル管理にするような気がする。それならばObsidianを使えばいい。どうしても足りないと思う機能があっても、自分で頑張ってプラグインを作れば済むかもしれないし。
 自作ツールのデータは大抵JSONで保存しているが、そうするとそのツールからしか中身をうまく確認できない。なのでそのツールを開いている時だけ認識できればいい用途ならいいが、「知の箱」に入れておきたいようなもの、すなわち生きている間ずっと関連しているようなものにはあまり向いていない。それがツール作りを続けてきての実感だ。マルチデバイスのアプリケーションを作れるなら話はちょっと違ってくるが、そこまでの技術力はまだ自分にはない。

 とりあえずObsidianの活用を復活させてみて、それでも今ひとつ捗らないなら、その時こそ「自分は紙派なのだ」と結論づけて割り切ることにしようと思う。
 

2023/12/14

Scrapboxの「新規作成ボタン」を非表示にした

 最近Scrapboxの使用頻度が上がっている(逆に言うと少し前までちょっと下がっていた)
 その理由のひとつはUserScriptの工夫で、簡易ながらエイリアスを実現するなどしてページへのアクセスを自分なりに自由にした。それが使いやすさの向上に大きく寄与している。
 もうひとつの理由は「新規作成ボタン」を非表示にしたことだ。


 それがどうして使用頻度向上に繋がるのか。
 今までの私の流れとしては、何かページを作りたいと思ったらまず上部の検索バーにタイトルとなる文言を入力し、その際にサジェストされた既存のページタイトルを見て内容が重なるものなどがないか確認する。そしてなさそうなら新規作成ボタンをクリックしてページを作る。
 新規作成ボタンをなくしてしまうとどうなるかと言うと、検索バーに入力した後はEnterで検索を実行することになる。検索結果の画面を経由して一番上の「+ create new page "hoge"」の欄を選択することで、やっとそのページの作成画面に至る。ひと手間増えるわけである。
 ページタイトルが長いフレーズだとただひと手間増えるだけになるので、この流れにはあまり意味がない。力を発揮するのは固有名詞や専門用語の類だ。過去に言及したもののリンクにしていなかったページが並ぶことになるので、サジェストだけではわからなかった既存の情報を確認することができる。
 それは別に、新規作成ボタンをなくさなくてもそうする癖をつければいいじゃないかという話だが、私はどうしてもつい新規作成ボタンをクリックしてしまう。その上、検索しないどころか検索バーへの入力もせずに、まず新規作成ボタンをクリックして空のページを作ってしまうこともしばしばある。そうすると既存のページタイトルの確認すらしないことになる。なので強制的に「押せない」ようにした。
 UserCSSはこう。

.new-button {  
    display: none;  
}  

 新しいページを作るには、検索を経るか、ブラケティングで空リンクにしてクリックするかのどちらかしかなくなる。必然的に既存のページが自分の目に触れやすくなる。

 そうすると、直で新規ページを作っていた時よりずっと楽しくなった。長く使っているプロジェクトなので、ブラケティングを積極的にやっている期間とあまりやっていない期間とがあって、言葉が既に登場していてもリンクになっているとは限らない。検索を自分に強制すると過去の記述の死蔵が減る感じがある。昔の適当な記述が生き返る。
 Scrapboxの利用頻度は結構上下しているが、ほそぼそと続けてなんだかんだ4000ページくらいになっているので、もう全容は全然把握していない。なので「あれっ、そんなページあったっけ」というのが頻発する。それは結構面白いことだ。
 これまで、「ごちゃごちゃしてきたしルールを変えたいからまた仕切り直そうかな」と何度思ったかわからないが、結局はひとつのプロジェクトを使い続けてきた(テーマ毎に他にプロジェクトを用意することはある)。Scrapboxなら後から統合することもできるので、仕切り直していたとしても別に全然致命的ではないけれど、「(自分が作り出した不本意感に)我慢して使い続ける」ということをやってきてよかったなという思いはある。
 自分に対する自分の忍耐が報われる瞬間を作るひとつの手立てとして、新規作成ボタンをなくして検索を強制することが私には有効だったということだ。
 

2023/03/16

【こういう】Scrapboxのページタイトルはスレタイ風に隅付き括弧を使うことにした【形式】

 ここのところ、未だかつてなくScrapboxを盛んに使っている。といっても非公開の個人プロジェクトの話だが、きっかけがあって劇的に使いやすくなった。


 これまでずっとページのタイトルの付け方に納得がいっていなかった。全然Scrapboxが悪いとかではなく(そりゃそう)、自分がうまくやれないでいただけの話である。
 特にうまくできなかったのが、Web記事などの中の文章をScrapboxに保管しようと思った時のページタイトルである。記事のタイトルにすべきか、引用した文章そのものにするか、内容の要旨にするか。記事タイトルは必ずしも保存したい内容に沿っているとは限らないし、文章そのものというのもその文章が名言的なものでなければあまり有効でない。一時期は「~~は……である(要旨)」みたいな書き方をしたりしていたが、なんだか全然しっくりこない。
 単に「~~は……である」だけでいいのでは、というのはもちろんあり得ることなのだが、自分が思いついた発想と誰かの言葉から得たものとを区別したいという気持ちがある。なので何かしらのルールでタイトルを書き分けたかったのだが、その目的に於いては記号や絵文字を付けると見た目に煩わしく感じてしまう。どうしたものか。

 なかなか答えが出ないままでいたのだが、先日、ふとあることを閃いた。ページタイトルをスレタイみたいにすればいいのではないか?
 スレタイと言っても色々あるが、イメージしているのはニコニコ動画でもよく見る隅付き括弧で挟むタイプのものだ。匿名掲示板はそんなに見に行ったことはないのだが、本題に対してサブタイトルが二つに分かれて左右についている形式を最初に見た時にはなんだかとても面白く感じたのを覚えている。以下スレタイと言ったらこの形のことを指しているということにする(この形式に何か名称があるのかわからなかったため)

 Scrapboxのページタイトルとしては、例えばこんな感じのページを作るようになった。いずれも実際に作ってあるページである。

  • 【名文】真にカルチベートされた人間になれ【太宰治】
  • 【なるほど】覚えたい英単語でショートストーリーを作らせる【ChatGPT】(→出典
  • 【💡Scrapbox】ページタイトルはスレタイ方式にする【実践】
  • 【感想】RemNoteを使ってみた【惜しい】
  • 【悩】ローカルサーバー方式でデータを保存すると一部文字化けする問題【解決🎉🎉🎉】
  • 【2023/03/12】漠然と体調不良【翌日解消】

 パターンはいくつかある。整理すれば「【感想】~【出典・対象等】」「【分類】~【状態】」の形が多いだろう。如何にもスレタイっぽくなる場合もあるが、別に如何にもなスレタイっぽくしたいわけではないので、ただ日付を入れたり絵文字や顔文字を入れたりすることもある。例に挙げたのはいずれも両端に隅付き括弧をつけているパターンだが、頭の方だけつけているページもある。
 で、この場合、【名文】とか【なるほど】というような言葉を頭につけたものは明らかに自分以外の誰かの発信が元だとわかる。逆に【💡Scrapbox】は「💡」で閃きを示しており、自分が思いついたことだとわかる。自分発のものと他人発のものの区別がしたいということはこれでクリアである。
 前々から、頭の方に隅付き括弧で種別を添えることはあった。例えば「【JavaScript】指定した要素の位置までスクロールする方法」という感じ。しかしスレタイのイメージは浮かんでいなかったので、感想をそこに書いてしまうという発想はなかった。

 この形式の良いところは、なんといっても情報量が増えることだ。一文に領域が三つでき、それぞれメインとサブ①、サブ②であることが明らかである。且つ、隅付き括弧同士は繋がっている可能性があるが、真ん中の内容部分とは少し断絶があるという独特のニュアンスを持っている。そしてメインが何であるかは明確でありながら、両脇も強調している感があるのが面白い。
 例えば「【名文】真にカルチベートされた人間になれ【太宰治】」というタイトルについて考えてみる。この一文が示しているのは「『真にカルチベートされた人間になれ』というメッセージを含む太宰治の名文」であることがほぼ明らかである。「太宰治の名文」という要素が、【名文】【太宰治】に分割されている(【太宰治】~【名文】の順でもいい)。ちなみに、「太宰治のこと」ではなく「太宰治が書いたもの」であることを明示したいという理由で【名文】を敢えてつけている。
 これが「【太宰治の名文】真にカルチベートされた人間になれ」とか「真にカルチベートされた人間になれ【太宰治の名文】」とかいう形だと、サブの部分が重たくなり、なんだかバランスが悪い。一方、むしろ情報を足して「【太宰治の名文】真にカルチベートされた人間になれ【正義と微笑】」とするとまた見やすさを取り戻す。天秤のように左右に重さが乗っていればサブ部分がある程度長くても違和感がない。
 とはいえ短く済むならその方がスッキリする。作品名を入れたら必然的に「書いたもの」の話なので「の名文」はカットしてもいいだろう。比較しやすいように列挙してみよう。

  • 【名文】真にカルチベートされた人間になれ【太宰治】
  • 【太宰治の名文】真にカルチベートされた人間になれ
  • 真にカルチベートされた人間になれ【太宰治の名文】
  • 【太宰治の名文】真にカルチベートされた人間になれ【正義と微笑】
  • 【太宰治】真にカルチベートされた人間になれ【正義と微笑】

 ブログで紹介するみたいなことなら一番目より五番目の方が相応しく思える。ただ、自分の個人的なメモとしては、どの作品で書かれたものかより「太宰治がこんな名文を残している」という感慨の方が重要なので、一番目の方が適当なのである。
 また、「真にカルチベートされた人間になれ」というのは実際に『正義と微笑』の中にある表現そのままだが、この部分が多少要約的になっていてもよい。例えば「【名文】学問は人格をカルチベートする【太宰治】」でもいい。これは私の中にある「スレタイには要旨が書かれているものだ」という前提の助けを借りている。そのまま引用しているかもしれないし、適宜縮めて要約しているかもしれないが、ともかくそのような内容で太宰治が残した名文がある、という意味合いのタイトルになっている。わざわざ「(要旨)」と断らなくても気にならなくなった。

 個人的な感覚の話だが(それは全面そうではあるが)、絵文字が単体で文にくっついた状態というのが私は好きでないようだ。例えば、「【💡Scrapbox】ページタイトルはスレタイ方式にする【実践】」というタイトルを例に挙げたが、前は「💡Scrapboxのページタイトルはスレタイ方式にする」と書いていた。これがなんだかとても気に入らない。しかし絵文字が持つニュアンス自体は好きなので、絵文字を使えたらいいという気持ちはある。絵文字の情報量を優先して、ずっと気に入らなさを我慢していた。
 ところが、「【💡】Scrapboxのページタイトルはスレタイ方式にする」と書いたところ、不思議と気に入らなさがなくなった。多分、絵文字部分が本体の一部のようであったのが、隅付き括弧で本体から明確に分離されたというのがその理由だろう。
 最終的に、左の隅付き括弧に分類を示す言葉と合わせて入れることにした。【Scrapbox】だけなら「Scrapboxに関する一般的な知見や仕様」のニュアンスがあり、【💡Scrapbox】なら「Scrapboxを利用するにあたっての自分のアイデア」という意味になり、他には【💭Scrapbox】なら「Scrapboxの使い方として今考えていること」という意味がある。なお【💡】だけなら生活に関わる閃きなどになる。

 このスレタイ風タイトルは、名詞・フレーズのページとそうでないページを区別する役割も担っている(後者のみをスレタイ風にしている)。このページはWiki的に使いたいページで、こっちはスレッド的な使い方のページだ、というのがひと目でわかる。私にとってこれは結構重要なことだ。
 両端に隅付き括弧を配置する形式を好ましく感じるかどうかは多分人それぞれだろうし、そもそもページタイトルにそんなに細かくニュアンスを込めたいかというのも個々人でバラバラだろうと思うが、私の場合は自分の微妙な要求に答えてくれる形式をこれに見出して怒涛のようにページを作るようになった。スレタイのあの形を前から面白いと思っていたので、やっていて楽しい。Scrapboxライフは劇的に豊かになった。
 

2023/03/13

NTA-DIY:余談①~ScrapboxとGitの貢献~

 最初の一ヶ月について十本かけて書いてきました。(もう一本書くつもりでいたので締め的なことを書きませんでしたが、一ヶ月目については前回で終わりです。)
 一年も前のことですが、比較的解像度高く書けたのではないかと思います。もう少し細かく書きたい気持ちもありましたが、費やせるリソースはこれが限界と思いちょっと駆け足になりました。


 一年前のことを書けるのは、簡単ながら記録を残していたからです。何がわからなくて何に感動したのか、Scrapboxの個人プロジェクト(非公開)に書き込んでいました。
 こう書くとその都度きちんと整理していたかのようですが、実際には「○○って~~ってこと?」とか「なるほどね!!」とかいう感じの記述があるだけです。後々のために残そうとかいう意識はなく、何もしていなかったかのような気分になるのを防ぐために書いていったらそれなりの記録になった感じです。
 ページの粒度としては、「次のステージに進んだ」と感じたらページを改めていき、期間にして1ページあたり数日から一週間程度の記録になっています。実際のページ名を並べるとこんな感じです。

  • TS/JS日誌vol.1 基本~配列・関数・オブジェクト
  • TS/JS日誌vol.2 ブックマークレット実作
  • TS/JS日誌vol.3 「TypeScriptで学ぶJavaScript入門」復習/ブックマークレット進化
  • TS/JS日誌vol.4 ScrapboxのPageMenu作成
  • TS/JS日誌vol.5 bookmarks.htmlの自動生成実装&cards.html開発
  • TS/JS日誌vol.6 card.htmlのlocalStorage化、メモアプリに進化
  • TS/JS日誌vol.7 outline.html開発

 これらのページの中に、日付を書き、参照したURLと疑問や感想、作ったコードへのリンクを日付の下に箇条書きでずらっと並べていきます。実のところ八割がたURLの列挙で、日記的な記述はそんなにはありませんが、何に取り組んでいたかがわかりさえすればその時どうだったかはある程度思い出せます。また、いちいち細かく書いていないことによって、逆に「わざわざ書いた」部分の困り具合や感動具合、その他正直な心境が目立ちました。これは思わぬ収穫です。この一連に関してはズボラ日記で正解でした。
 見返すために書いたのではなく書くために書いていたものなので、今回このシリーズ記事を書くにあたって見直すまで、一年近くこれらのページを開くことはなかったように思います。たまたま記事を書こうと思ったので役に立つ日が来ました。
 Scrapboxでなければこうはできなかった、というようなものではなく、Obsidianでもアウトライナーでもtxtファイルでもなんでもいいのですが、Scrapboxは気軽に書ける雰囲気があり、他のことにも使っているのでScrapboxを選択しました。

 じゃあずっとこれを書いていたのかというと、実際は上記の七ページだけです。ちょうど一ヶ月分しか時系列に沿った日記はありません。JavaScriptの習得スピードが速くなるといちいちメモしていられず、また疑問点も比較的すぐ解決できるようになり、ノートを取る必要性が薄くなっていきました。書くために書いていたので、書く必要がなくなると途絶えてしまったわけです。
 代わりに、一ヶ月が過ぎた頃からはツール開発を始めていたので、書いたコードは頻繁にGitでコミットするようになりました。勉強したことは実際に動かすコードとして反映され、その記録がGitに全て残っています。コードを書き、また別に日誌を書く、となると二度手間になってしまいますが、Gitを使えばその時点の状態が記録されていくので、コードをこまめにコミットするだけで日誌を書いているのとおおよそ同じことになります。
 ただ、漫然とコミットしているとそのコミットが前回のコミットとの間でどう違うのかひと目ではわからず、資料として使いづらくなります。そこでコード内のコメントやコミットメッセージを工夫する必要がありますが、これがまた結構難しいです。いずれもその時点の文脈に基づいて書き残すことになりますが、後から難点になるのが、知識・スキルの状態の変化です。

 知識が乏しく経験が浅い時点で書いたメモは、その時の感覚で「こう書けばわかるはず」と思っているのですが、もっと先に進んでから戻ってくると何のことを言っているのかびっくりするほどわかりません。書き方自体が下手だったのも大きいと思いますが、能力不足で的確な表現ができないことによって、結局コードを細かく見ないと何がなんだかわからない記録になってしまいました。その時点ですごく頑張って記録をつけても、言葉にする労力があまり活きない可能性があるのです。
 このことを解決する術はわかりません。まあ、プログラミングを勉強し始めた最初期しか起こらないこととも思うので、「最初に学ぶ言語の学習記録はどんなに頑張っても読めるものにならない」と思った方がいいのかもしれません。Gitのコミットは如何にも「後から確認できるようにするための記録」然としているので、あまり意味をなさない記述が気になってしまいましたが、最初の一ヶ月にScrapboxに書いていたもののように、「見返すために書いたのではなく書くために書いた」と思って見れば十分な記録だと思えます。他の人に読んでもらうものではないので、何かしら残っていればそれでいいでしょう。
 その意味で、うまく記録を作る力がなくとも、「そのもの」を残しておけるGitというのは本当に素晴らしい仕組みです。見たままを撮れる写真ですら写真の撮り方の上手い下手が後々問題になりますが、Gitのコミットログはどこからでも見れる3Dモデルを全ての段階で残しておけるようなものです。威力を遺憾なく発揮できるのはプレーンテキストの記録に限られはしますが、今やっていることを言語化すること自体が困難な状況の中で「とりあえずそのまま残す」が可能というのは大変ありがたいことです。(うまくやれていないものを前にして素朴に喜んでいられるのは趣味の独学者の特権ですね。)

 そんな感じで、ScrapboxとGitに残した記録を元に、一年間の書き起こしに取り組んでいます。一ヶ月以上かけてやっと一ヶ月目が終わったところですが、二ヶ月目以降はもう少しサクサクいけると思います。
 

2023/02/23

NTA-DIY:1ヶ月目⑧~ScrapboxのUserScriptを作ってみる~

 ブックマークレットが作れるようになったので、今度はScrapboxのUserScriptに挑戦することにしました。


 ScrapboxのUserScriptは私がJavaScriptを習得したいと思った動機のひとつです。是非とも作りたい何かがあったわけではありませんが、コーディングできる人が自由にカスタマイズして便利にしている一方、そのコードをすっかり公開までしてくれているのに自分はそれを参考にすることもできないのが少し悔しかったのです。
 一応作ろうと思えば作れるようになった今となっては、逆に「別に作ろうとしなくても構わないな」という結論に至っているのですが、やりたくてもやれないのとやれるけどやらないのとでは心持ちが違いますね。

 さて、UserScriptでできることというのは色々あります。その可能性の広さがどのくらいのものか私はまだ全然わかりませんが、私が思いつくだけでも方向性は様々です。
 当初は処理の実行タイミングのコントロール(つまりイベントの設定)がよくわからなかったので、まずPage Menuのボタンを作る形を試しました。自分でイベントリスナーやsetInterval、あるいはUserScript Eventsを設定できるようになれば自由にイベントを発火させられることになりますが、その域に行くのは当分先のことです(私の場合は)
 Page Menuのボタンクリックで動かすとして、そこでやれるのは例えば次のようなことです。

  • 予め用意した文字列などをalertで表示する
  • どれかのページのコードブロックの内容を取得して表示する
  • 自分のプロジェクトのページデータを取得し特定の条件に合うページを抽出して何かする
  • DOM操作でclassを付け外ししてCSSを変更する
  • DOM操作でstyle要素を付け外ししてCSSを変更する

 他にも数多の可能性があります。今挙げたのは1ヶ月目の時点で私が実際にやってみたことです。つまり簡単な処理です。
 Pege Menuの作り方の細かい説明はここではしませんが、一番下にいくつかリンクを貼ったので必要な方はご参照ください。

 まずPage Menuのメニュー追加の書き方を知るためにalertを表示するだけのコードを書きました。
https://gist.github.com/nora-tetsu/c3cec884219f1ba75768063a5c92bac2
 実際には、当時ブログ記事をScrapboxで書くことがあったので、記事を書く際の組み立てのヒントを表示するようにして使っていました。

 次は特定のページのコードブロックの内容の取得です。この処理には「FetchAPIを使ってScrapboxAPIを叩く」という工程が必要です。当時はAPIも非同期処理もよくわからなかったので見様見真似でやりました。
https://gist.github.com/nora-tetsu/68cabe5bbf8e7e2d51a2a247eefc83ec

 今度はScrapboxAPIの別のプロパティを使い、自分のプロジェクト内のページの中から特定のキーワードをタイトルに含むページを抽出して、リンクを一覧にして今開いているページに追記することを試みました。
https://gist.github.com/nora-tetsu/8a47788d0740443eb9fdf98cb4c95cb8

 DOM操作によってCSSをコントロールすることもできます。まずUserCSSに予めスタイルを書いておいてclassで切り替える方法です。daiizさんのコードを参考にさせていただきました(新書モード - daiiz)。例えばコードブロックのフォントを切り替えるとしたらこう書けます。
UserCSS
https://gist.github.com/nora-tetsu/7f1d938a56db34f702c0dcf9fd85fa9f
UserScript
https://gist.github.com/nora-tetsu/bac49dbc95d7c6e8366c5867b7d36275

 UserCSSは使わずにstyle要素の追加と除去で切り替える方法もあります。こちらはページの背景をリーガルパッド風にするUserScript - Scrapbox研究会を参考にしています。例えば以前作った、関連リンクを左列に持ってくるUserCSSのオン・オフを切り替えるとしたらこうなります。
https://gist.github.com/nora-tetsu/aef2d3f5833eebcfe0358de3a8e191da

 Scrapboxの公開プロジェクトには当時作ったコードが色々置いてありますが、今となってはあまりよろしくない書き方があちこちにあります(直すのも面倒で…)。なので参考にしてくださいとはちょっと言えませんが、自分が振り返る分には「手探りで頑張っていたなあ」と懐かしく思い出されます。なお今回記事内に載せたコードは当時のものを適宜直しています。

 まだ単純なことしかできていないわけですが、「自分でメニューを増やして、自分が作ったコードを何かしら実行できる」という体験をしたことにより、UserScriptへの漠然とした憧れはこれで大方解放されました。特にCSSの切り替えについては、UserCSSで設定した状態に固定されてしまうことに不都合を感じていたので、それを解消できたことでかなりの達成感がありました。
 ずぶの素人がUserScriptをJavaScriptの勉強のための実験場として使うのはちょっと危なく感じられたこともあり、UserScriptについてはそこそこにして、ここからいよいよHTML・CSS・JavaScriptの三点セットでツールの自作に挑んでいくことになります。

参考

当時の咀嚼

 

2022/10/09

ツールを「使いこなす」という余計な構え

 一ヶ月ほど前に、最近Scrapboxを自然に使えるようになったという記事を書いた。「いずれでもない」の受け皿としてのScrapbox
 今回は、要するに何が私を邪魔していたのか、ということについて考えようと思う。


 Scrapboxに限らず、色々と魅力的な機能を持つ「良さげな」ツールを目の前にした時に私の中で発生するのが、「このツールをどう活かそうか」という気持ちである。
 そのツールならではの特徴を掴み、今までは実現できなかったけどこのツールならできそうなことをあれこれ想像し、生活が一新されることを願っている。そうしている時というのはわくわくと胸躍り、まだ何もしていないし何も得ていないしその後も何も欲を満たすものを得られるでもないのに、なんだかすごく色鮮やかな時間を過ごしているような気分になる。それは悪いことではないと思う。
 そう期待を抱くことは悪いことではないが、しかし「それならでは」にこだわるというのは、つまりそのツールを「それならでは」縛りで使うということでもある。「他のツールでできるならこれでやる必要ないのだし」などと言って、なんとしても「他のツールではできないこと・やりにくいこと」をやろうとする。もちろんその気持ちにはっきりした自覚はなく、後からそうだったとわかるのが常である。
 多機能で何にでも対応しうるツールとなれば、それを活かして何にでも対応させようとしてしまう。「こうすればあれにも使える」「ああすればこれにも使える」と考えて、全部ひとつに放り込もうとする。「このツールでもやれる」という可能性を「しかしやらない」と切り捨てるのはなかなか難しかったりする。

 そもそもは、自分の中に何らかの必要があって、それを実現するためにツールを欲していたはずである。ならば、その必要を満たしさえすれば、本当はもうそれでいいはずなのだ。他にどれだけ機能を搭載していようが、それをうまく使いこなさなければならない義務はない。せっかくの優秀さを活かしてやれなくても、別に全然構わないのである。自分には必要ないのだから。
 これがツールではなく人間なら話は別である。使っている人間を十分に活かしてやらないのは、その相手も人生のある主体であるがゆえに問題が生じうる。でもツールは主体ではない。使いこなそうがこなすまいが、ツールは何も損をしないし(主体ではないのだから)、製作者も別に困らない。製作者は私がそのツールをどう使っているかなど知る由もないのだ。

 以前、手帳の使用例を特集した雑誌を読んでいて、誰の手帳だったかはもうわからないが、わざわざ日付の入った手帳を選んでおきながらそれを一切無視して使っている例を見た。まずその紙面に書き込んだタイミングというのがその日付の範囲と全く合っていなかったし、一応スケジュールの類を書くことが想定された横罫のページだったかと思うが、そこに縦線をフリーハンドで書き足して日付とは全然関係のない何かの表にして使っていた。
 何かが印刷されていればそれをどう活かそうか考えてしまう私にとっては衝撃も衝撃の使い方だったのだが、まあ確かに、そう「しなければならない」というルールなどどこにもない。印刷があろうがなかろうが関係ないのである。他に気に入った要素があって(あるいは誰かに貰うなどして)その手帳を選択し、そしてその手帳の紙面にはたまたま自分には不要な印刷が施されており、だからそれは無視する、それでいいのだ。

 一時期、紙のノートの罫線を憎らしく感じて、敢えて無視して(というか、敢えて「反して」)使っていたことがある。別にノートが「私のガイドに沿いなさい」などと命令してくるわけではないのだが、私の中の規範意識が私より罫線を優先するので、それが心底気に入らなかったのである。
 自分自身に腹を立てた結果、私の中にある「こう罫線があったら普通こう使う」という「常識」を破り捨てるべく、しばらく目茶苦茶に書いていた。それでもおそらく然程の奇抜さではなかっただろうが、紙のノートについてはその時点で割と心理的解決を見た。今は、そもそもノートをあまり使っていないこともあるが、ちゃんと使おうとかいう意識とは距離を置いている。

 しかしである。そういう格闘を経たにもかかわらず、デジタルツールではまーた同じことを繰り返したわけだ。
 デジタルツールに関しては、前提として「アナログツールではなくデジタルツールを使う」という判断をまずしていることになる(そもそもデジタルの方が当たり前という人は別だが、アナログに軸がある人間からするとデジタルは意識的に選択されたものであろう)。そうすると、「せっかくデジタルのツールなんだし」という意識が働く。その意識は必要なものでもあるのだが、しかし油断すると「デジタルであることを最大限活かさねば」という意識に知らず支配されていたりする。
 つまり、検索のしやすさやリンクの張り方にこだわったり、表記揺れを撲滅したくなったり、データベースとして相応しいデータの在り方に近づけようとしたり、そういった意識が恰も当たり前のこととしてツールの使い方に入り込んでくるのだ。
 その意識は、自覚して制御できていればこそ快適なデジタルライフに貢献するが、無意識下で乗っ取られてしまっているとひとりの人間が現実的にやっていける範囲を超えて「きちんとデータを整える」ことを自分に求めることにもなり、便利なツールのはずが「理想の形で運用できていない」として苦しめられることになる。
 一体私は何をしたくてそのツールを使い始めたのだったか?

 さて、ツールを自作することを勧めたくて書くのではないが、デジタルノートツールを色々作ってみて変わったことというのは書き留めておきたい。
 冒頭に示した過去記事「いずれでもない」の受け皿としてのScrapboxでも書いたが、私はデジタルノートツールとして、用途に合わせて複数のツールを作っている。現在アクティブに使っているものだけでも8つあるだろうか。それぞれ特定の用途に特化しているので、汎用性は無い。つまり「うまく使う」という尺度は存在しない。できることは限られており、それしかできないのだから、「使う」か「使わない」かの二択しかないのである。
 「うまく使う」という概念が無い代わりに、「うまく作る」ということは必要になる。そして「うまく作る」というのは、自分のために作るものである限り、「仔細に亘り自分の要求にフィットしたもの」を作るということになる。実現したい動きというのがまずあり、それを再現するのである。
 そうして作った時、その事前の想像を超えた活用法というのは基本的には生まれない。「このツールで何ができるかな」とわくわくと空想することはないわけである。
 つまり何が起きたかというと、使いこなすものというのが「ツール」から「プログラミング言語」にスライドすることで、ツールを使いこなさねばという気持ちは自然と消滅した、ということになる。

 その後Scrapboxに戻ってきた時、以前はあれほど「Scrapboxらしさを活かしてやろう」などと考えていたのが(そうだったというのは後から気づいたことである)、全然そういった熱意が湧かなくなっていた。まあとりあえずここに書いとくか、という感じである。リンクも張ったり張らなかったり。UserCSSにも前ほどは執着していない。
 内容面でも、「分類の力によってワンアクションで的確に取り出したい」と感じるような情報は全部自作のデジタルノートツールに移ったことで、Scrapboxは「探そうと思えば探し出せるもの」、つまり「一瞬で取り出せることを保証しなくていいもの」の置き場所へと変化した。
 一瞬で確実に取り出せるということを保証しなくていいなら、細かくルールを決めてタグを用意するというようなことはしなくていい。何も覚えておく必要はなく、その時の気分で使っていいことになる。つまりテキトーである。そもそもそういうふうに使って成立することがScrapboxの売りだったような気がするし、最初からそのように使っている人からすれば「どうしてそうおかしな回り道を…?」と首を傾げてしまうところかもしれない。

 まあ具体的にScrapboxというツールをどう捉えているかはここではどうでもいいことである。どのツールに対しても「そのツールならでは」を掴んで活かそうと考える癖が自分にはあり、しばしばそれによって自分を迷走させているという構図が問題だ。
 そこから抜け出すには、意思の力に頼るのではなく根本的に違う構造に沿うことが必要だったのだろうし、それがデジタルノートツールの自作を通して知らず知らずのうちに達成されていたのだ。紙のノートの時は意識的に荒療治を施したわけだが、デジタルツールに関して自分を縛っていたのは「罫線」のような単純明快な規範とは違ってもっとメタなレベルのものであったことから、仮に自覚があっても紙のノートでやったようにはできなかっただろうと思う。

 それでは新たなツールに夢見る気持ちもなくなってしまったのだろうか?
 半分はそうで、半分はそうではない。「私の生活を変えてくれるかもしれない」というような期待を抱くことはなくなった。このツールをこう使えばこんな理想の形になるかもと夢想しても、そしてそれが正しい想像だとしても、「こう使えば」の部分に無理があるのはもう解っている。自分の期待に、(ツールではなく)自分が応えられないのである。
 代わりに、新しく登場したツールを見た時、既に自覚している自分の要求に照らして「あ、この発想をこう借りればあれが実現できるかもしれない」ということを考えるようになった。ツール全体に何かを期待するのではなく、新たなツールが新たに示した機能の核にあるアイデアを取り出して転用することを検討するようになったのである。それはそれでわくわくした気持ちになる。
 しかし転用とは言っても、自分のツールに取り入れるならその機能は自分で一からコードを書いて作らなくてはならないので(何しろ新しいツールが具体的にどういうプログラムで動いているかは全然わからないのである)、かつてEvernoteを使うにあたり失敗したような「安易に真似をする」ということはできない。既に作った機能との兼ね合いも踏まえて、よくよく考えて組み込まなくてはならない。実装のためには勉強も要る。そうなると、必然的に「その場の思いつきで自分が振り回される」ということもなくなっていく。思いついてから実現するまでにそれなりの時間と労力が必要になるからだ。

 一連の変化を一言でいうと、「落ち着いた」ということなのかもしれない。自分の閃きや期待が自分をブンブン振り回すことが随分減った。中心にあるのはツールではなく自分自身であり、ツールは道具としての相応のサイズ感になって自分の周りに存在している。必要な時に必要なだけ使えばいい。
 なんとも当たり前の話だが、ここに来るまでに呆れるほどの年月を費やしてしまった。まあ、それでも落ち着きを得るということができたのだから御の字というものだろう(本来の意味での「御の字」である)
 

2022/08/30

「いずれでもない」の受け皿としてのScrapbox

 去年まではScrapboxに入れていた情報のかなりの部分を、ここ数ヶ月で自作のツールに移した。その結果、Scrapboxを使うということの自由度が上がった。


 直近数ヶ月間で、自分にとってトップダウンの分類が一段階以上あった方が良い情報について、いくつも専用ツールを自作した。

など。それぞれ具体的にどういうツールなのかは手が回ったら書きたいと思うが、ここでは省略する。
 それまでならScrapboxかmdファイル(Logseq、Obsidian)かアウトライナー(Dynalist、Transno)かに書き込んでいた情報の大部分について、自分で作ったツールのいずれかに居場所を移すことになった。もう少し前に汎用的に作っていた自作ツールからも役割の移動が起きている。(なお過去に遡って処理したわけではないので、今のところ以前に書いたものは以前に書いた場所のままになっている。)
 専用ツールを作ったこれらの情報は、それぞれについて「分類」を強く欲しているため、どんなツールに置いてもタグかフォルダかではっきり区分することになる。自分の脳の中で、それをどの箱に入れたかというのを連想のキーとしているので、「箱をなくす」ということはプラスに働かないのだ。
 豆論文やブログにも分類が必要なのか、というと、それらは内容の形式的な分類ではなく、情報の成熟度の段階や「どういうつもりで書いているものか」という意図の部分に自分の中で箱があるため、それを分けられるようにしたいのだ。誰か他の人が作ったツールではそんな抽象的でニッチなニーズを満たしてはもらえないので、心底納得するためには自分で作るほかない。「工夫次第でそう使えなくもない」という感じのツールを頑張ってカスタマイズするより、全部自分で作ったほうが早いのである。必要なのは高度な処理技術ではなくただ自分に合った情報の紐付け方とレイアウトの再現というだけなので、別にすごいプログラマーの力を借りなくても事足りている。

 こうして、分類を欲している情報を全部専用ツールに振り分け、そのいずれにも入らないものが今Scrapbox行きになっている。
 いずれにも入らないものとは、様々あるが例えば「○○の時は△△すると良い」的な豆知識や、時事の情報などである。知っていた方がいいが、体系のある学問的なことではなく、また思索に関係するわけでもないようなもの、という類の情報と言えるかもしれない。
 これらは日々大量に手元に集まり、自分が実際に生活したり人とコミュニケーションをとったりする上で大事な情報である。しかし、これらはあまりに雑多なので、きちんと管理したい類の情報と混在するとノイズ感が非常に強い。(混在していても取り出せさえすれば別に構わない、という人も多いだろうとは思うが、如何に「ひとつにまとめる」が巷で流行ったとしても、混在させられない人は混在させられないものと思う。)
 分類したさの強い情報が外に出ていったことにより、現在それらの雑多な感じな情報だけがScrapboxに入るようになった。分類が不要だからここに残っているわけで、それらに分類のためのリンクを張る必要はない。結果的に、純粋にキーワードのリンクだけで繋ぐことに納得できている。

 分類したい気持ちがある情報が混在していた時、自分の頭の中で別の箱に入っているもの同士にリンクができることを必ずしも歓迎できなかった。そうなると、一般的な単語をブラケティングすることにモチベーションが生まれにくくなる。「繋がってしまう」ことに対してなんとなく後ろ向きな気持ちがあるからだ。いや意味がわからん、という人もいるかとは思うが、そういう人は自身の心の自由さを喜びながら思うままに我が道を行ってほしい。
 ところが雑多な情報だけになったことで、むしろ一般的な単語をどんどんリンク化したいと感じるようになった。繋がりが多ければ多いほど良いような気持ちである。
 一方リンクが繋がりすぎて意味がなくなる、というのはScrapboxではしばしば発生する問題だと思うが、分類用のタグや「日記」みたいな属性を表すキーワードとは違って、内容に沿った単語というのはそれがごく一般的なものでもそう大量にはリンクしない。ひとつのワードで100のノートと繋がる、とかいうことは、余程頻出の単語でない限りは起こらないのである。もしそういうことが発生する単語があるとしたら、それはもはや自分のテーマになっていることだろうし、わざわざリンクで繋ぐまでもないような気がする。検索しようとしてすんなり思い出せる程に「あるのが当たり前」な単語なら、敢えてリンクにしなくても良さそうである。

 分類の越境に対する不快感が取り除かれているならば、些細な関連性でもリンクになっていた方が良い。前までは適切なツールがないせいで分類したい情報を分離することができなかったため、その感覚を持てなかったのだが、自分でツールを設計することが可能になったことによりそれらを全部追い出した状態に行き着き、やっとScrapboxに合ったマインドになった気がしている。もちろんそれまでも、Scrapboxに関して言えばプロジェクトの分割である程度は越境を防いではいたが、そもそも「雑多さが足りない情報」はコントロールしたさが邪魔になって不自然な扱いにならざるを得なかったのだと思う。
 自分にとっていずれの分類も相応しくない、「十分に雑多な情報」だけを集めた状態でScrapbox内にリンクを張り巡らしてみる。そうすることで自分の感覚がどう変化していくか、これから観察してみたいと思う。
 

2022/01/09

Scrapbox日誌:「整理したい病」には「放置」が効いた

 複数の情報を扱う時、何かしらの観点で括れそうな気がすると括りたくなる。
 物事と物事の間に共通点や相違点を見出すことは理解の基本であって、見出した瞬間には脳内に快感物質が出ている気もする。括れるところで括り、分けられるところで分けるのは気持ちが良いのである。
 それは同時に、括れるはずなのに括れていない、分けられるはずなのに分けられていない、という認識が自分を不満にさせる可能性も示している。


 

 自分がその不満に気分を支配されている状態を「整理したい病」と私は呼んでいるが、これに罹患していると毎日をもやもやとした気持ちで過ごすことになってしまうのでとても困っている。整理できていないことが気になって気になって、「あれ何とかしたいよなあ」とずっと考え続けてしまう。大抵のことは何とかしたからといって「スッキリした」という以上のものは得られないのだが、そのスッキリを味わいたいがために「きちんと整理されているべき」という客観的っぽい尺度を持ち出してきて自らもやもやとして生きることになる。勿論スッキリしようとすることは悪いことではないし、スッキリする瞬間を目指してウキウキとしていられるならそれは人生を豊かにするひとつの要素だとも思うが、しかしそれに「支配」されてはならないのである。
 「整理したい病」が根っからのものか環境・心境に依存する一時的なものかは人それぞれな気がしているが、私は自分のそれを長らく根っからの持病だと思っていた。身の回りの物や情報に片がついていないことにずっともやもやとして生きてきた。それを解決するには自分が望む形で整理を完了してスッキリさせるしかないのだろうと信じてきたのである。
 ところが、どうやらそうではなかったようだ。いや、どうあっても「整理したい病」の症状を発症しないタイプの人もたくさんいるであろうから、「発症し得る性質を生来持っている」という意味で最初から罹患しているのではあるかもしれないが、ただ生きている間じゅうその症状に悩まされるものというわけではなかったらしい。経験上、一言で言うと「行きたい場所がわからない」という心境の時、つまり「暇」な時に病に支配されるということが言えそうである。「暇」というのは毎日時間に追われているかどうかとは別の話で、自分の人生に於いて今この瞬間にどれだけの必然性を感じられるかという意味である。忙しくても必然性が感じられなければそれは自分の心にとってはぼんやり生きているのとあまり変わりがない。(ぼんやり生きるのが悪や愚だと言いたいのではない。)

 心境の如何については今は置いておくとして、私自身の「整理したい病」の発症と寛解が具体的にどこにどう現れたかをまとめておこうと思う。
 デジタルツールに関して言うと、最も症状が激しく手に負えない状態にあったのがEvernoteを使っていた時だ。十年から八年ほど前のことである。Evernoteが悪いのではなく、私の心がぼんやりしていたタイミングでたまたまEvernoteと出会ってしまっただけのことだが、「あらゆるものを入れられる」且つ「整理の方法に制限がある(工夫が必要である)」ということが「整理したい病」の症状を著しく増悪させたようには思う。
 最初に述べたようにこれは「括れるところで括りたい」「分けられるところで分けたい」という欲求なのであって、「探しやすいように」などという理由は自分の欲求を正当化する口実に過ぎない。よって、「検索で探せば良いんですよ」という対案は「整理したい病」を鎮めてくれることはない。本当に探しやすさを求めて「分類したほうがいいのかな」と思ってやっている人には効くだろうが、欲求で整理の罠に嵌っている人間には恐らく大した意味をなさない助言なのである。
 検索で探せば良いという在り方は、それ以前の情報の扱い方と異なり馴染むのに苦労するということも相まって、なかなか自分に取り込むことができなかった。ノートブックやタグを手がかりにした目視によって探してそれでも見つからなかった時にやっと検索に頼った。そうして見つかる度に「最初から検索かけてれば早かったな」とは思うのだが、じゃあ今度から検索に頼ることにしようとはならない。なぜなら情報群をうまいこと括りうまいこと分けることに欲求の源があるからである。「インターネットで調べ物をする時は検索エンジンで検索をかけているじゃないか」と言われても、それは自分に整理の権限がない領域であり他に方法がないから仕方なく検索しているだけのことであって、たとえ検索という行為が日常的であっても、自分の支配下にある情報に対してそれでいいと割り切る理由にはならない。そこですんなり割り切れるのがどう考えても健康的ではあるのだが、「整理したい病」に既に罹患しているのでそれでは解決しないのである。
 Evernoteのノートブックやタグの工夫については例が世の中にたくさんある。それらを眺めては「頭に記号や数字をつけて自分好みの順番に並べよう」とか「こうもり問題が生じるノートブックではなくタグで分類しよう」とか「いや用途がはっきり分かれるものはノートブックできっちり分けておこう」とか色々考えてあれこれ実践していたわけだが、最適解に落ち着くことはついぞなかった。情報源となっている人々がそれぞれ自分なりの方法論で納得しているらしいことを羨ましく思いながら、どの人のやり方もそのまま馴染まずに終わった(その人たちが本当にそのやり方に納得して落ち着いていたかはわからない)。肝心の情報の活用より情報の整理に多大な労力と時間を割いていたし、今当時の自分を振り返るともはや滑稽である。いかにも「暇」という感じがする。
 やがて、情報整理以外に新たな趣味を持ったことで「整理したい病」の症状は若干緩和し、Evernoteへの諸々の不満も重なってEvernoteとの格闘はフェードアウトした。Evernoteに保存された情報はそのままの形で今に至るまで残っている。その後アクセスした回数は指で数えられるくらいしかないし、あれほどたくさんの情報を突っ込んで整理に躍起になっていたのに、実体はそんなものなのである。別に中身がゴミというのではなく、思い出としての価値はあるし見返してみれば懐かしさに心温まりもするが、整理に労力を費やさねばならないほど情報として重要なものを扱っていたわけではないのだ。

 Evernoteとの戦いが終わっても「整理したい病」が完治したわけではなかった。趣味によって「暇」な度合いは僅かに軽減されていたが、その後はツールを転々としたりDropboxに置いたファイルのディレクトリ構造をごちゃごちゃ捏ねたりという形で症状が現れていた。もやもやした気持ちがなくなることはなく、そのうちにScrapboxに行き着いた。
 Scrapboxでもまた「整理したい病」の症状に苦しむことになった。とはいえ、Scrapboxのコンセプトからして「きっちり整理する」というのが最適解でないことは最初から解っていたし、自分の個性としての整理したさとどう折り合いをつけるかがテーマになっていった。つまり、「整理」からどこまで離れていってなお安心感を維持できるかを探る試みが始まったということである。私の人生は「整理したい病」とともにあったが、「整理したい」と思うことをいい加減やめてしまいたかったのだ。
 一方で整理の方法が判らないのが不安の一因になるので、Scrapboxに於いても整理が成立するにはどういう方法があり得るかを考えることにはそれなりの時間を使った。多少実践したが、大体は途中で飽きてやめることになった。Scrapboxの場合、大雑把に言ってしまうとタグというのは「リンクをタグと見なす」というだけのものなので、そう見なさなくなれば単にリンクに戻る。他のツールのようにサイドバーにタグの一覧が並ぶわけでもなく、タグだという解釈をやめるだけでその方法はそこで終わりになるのである。ツール全体の構造を左右しているわけではないから、整理に失敗したものが残っていても、新たにページを作ったり他の方法を始めたりすることに支障はない。
 色々なタイプのページを作り色々な方法で整理を試み、プロジェクトも増やしたり統合したりして、やがてメインのプロジェクトのページ数が2000ほどになった。もやもやし続けていたが、もやもやしたままそれだけのページ数をScrapboxというひとつのツールに作ったのである。Evernoteのページ数はそれどころではなかったが、Evernoteの場合はwebクリップやファイルの保管のためのページが相当数あってのことだから、多くが自分で書いたり構成したりした情報で2000ページになったことは自分としては驚くべきことだった。数多の場所に分散せずにひとつのツールの中にあるということがポイントである。

 しかしもやもやした気持ちも相当に膨らんでいた。2000ページの内訳をおおよそわかってしまっているので、あの類の情報はこうした方がとかこっちはこう括った方がとかあれこれ考えてしまうのである。リンクしてほしい情報間にリンクがないこともわかっているから、全部見返して適切なリンクを付けて回りたいとも思った。いずれも作業の量として現実的でないから実際にローラー作戦に出る愚はおかさなかったが、気になる気持ちはいつまでも消えなかった。
 その気持ちに疲れてきて、また他のツールへと旅立ちうろうろと彷徨うことになった。半年ほど他所で悪戦苦闘し(その苦闘についても色々書けそうではあるが、ここでは省略する)、しかし結局Scrapboxに戻ってきた。戻ってきたきっかけは何だったのかはっきりしたことは忘れてしまったが、今思い返すに恐らく「のらてつ」としての活動のために公開プロジェクトを使うことにしたから「非公開の情報の拠点もScrapboxの方がやりやすい」と考えたのではなかったかと思う。他に理由があったかもしれないがパッと思い出せない。
 そうして2000ページのプロジェクトに戻ってくると、半年間他の場所で戦っていたことによって、Scrapboxの中身がほとんどわからなくなっていた。半年の間ただぼーっとしていたなら中身を覚えていただろうと思うのだが、他のことに意識を割いていたのでScrapboxの方は脳内のリンクが細くなったような状態で記憶が不鮮明になったらしい。思い出そうとすれば「こういうページがあったはずだ」と思い至るが、自分の頭の中を埋め尽くすような感じではない。
 すると、雑然とした一覧画面を前にして、意外にも「まあいいか」と思った。Scrapboxの情報は整理されていないままなのでまた整理したくてたまらなくなるだろうと思っていたのだが、どうやら整理されるべきものが曖昧になってしまったので、整理したい欲も発症しようがなくなったようである。

 これは最近のことなので、もはや昔のものになってしまったEvernoteのことはこの時すっかり忘れていたのだが、考えてみるにEvernoteの方も同様である。情報はまともに整理されていないし、過去の自分の変な工夫が邪魔になってノートブックもタグも今となっては全く当てにならない始末だが、「まあいいか」という感じである。今更整理するのは現実的に無理だし、もうどんなものが入っているかわからない。そう、「わからない」から整理する気にならないのである。
 検索エンジンでインターネット上の情報を探す時も、何が世の中に存在しているのかをわからない状態である。整理しようがないし、整理されていないことが気になることもない(例えばWikipediaの内容などは何かしらの基準で整理されていてほしいが、インターネットそのものは整理されていなくても構わない)。それは全体像がわからないからだ。括るにも分けるにも、基準が必要になるわけで、基準は全体像となるものを認識しているから生まれるものと思える。何を全体像にするかはその時々で、自分が全体と見なしたものが真に全体である必要はないが、自分なりにこれが全体だと決められないことには整理ができない。ひとつの情報と情報の間をその都度つなぐことはできても、「こう括ることにしよう」「こう分けることにしよう」と決めることは難しいのだ。
 自分の手で作ったり集めたりした情報は自分である程度覚えているので、何かのツールを普通に使い続けていればずっとおおよその全体像を把握していることになる。何が入っているのかわからないということにはなりにくい。そうすると整理の基準を考えることができてしまうことになる。解決策のひとつとして、思索や収集を加速させたりランダムにしたりすることによって「もはやわからない」ということになる可能性を上げることはできるかもしれない。ただ誰でもそうなれるわけでもないし、いつでもそうあれるわけでもなさそうである。私の場合は、十分な量を蓄えた状態で十分な時間離れたことにより、偶然にも「もはやわからない」という状況に至った。
 また、Scrapboxにはそれ自体に他のツールのようなタグやノートブック的なシステムがないことによって、わからなさを気にせずにまた同じ場所で再開できているのも重要なことである。例えばEvernoteはそうではないので、Evernoteに拠点を戻すことは難しい。ツールの機能の如何とは別の問題として、自分が構築したものに手を加える必要が生じるのがネックになる。それが実のところ非常に大変なことなので、もし戻るなら新たにアカウントを作ることになってしまう気がする。

 そういうわけで、Scrapboxに詰め込みに詰め込んで一度放置したことが、結果的にScrapboxのコンセプトに沿った現実的な運用を自分に馴染ませることに貢献した。これは自分にとっては全く予想しなかった展開で、今は「おお、Scrapboxを気楽に使えているぞ」という感動を日々感じている。何が自分の枷を外してくれるかというのはわからないものである。
 なお、途中で「『整理したい病』の発症と寛解」と表現したが、これはあくまで寛解であろうと感じている。整理に労力を費やす以上に大事なことがはっきりしていれば惑わずに済むだろうが、それが曖昧で少しでも「暇」になると、上述したように全体像を意識し次第に整理したくなってしまうであろうし、その性質が消えることはないように思う。自分を蝕んでいるので「整理したい病」と表現したが、整理する基準を見出して整理しようとすること自体は別に滅すべき悪しき性質ではないだろうし、それがプラスにだけ働くように自分で手綱を握り、暴走を防いでいけたらそれでいいだろうと思っている。
 今回書いた「もはやわからない」は対症療法だが、そもそも「暇」にならないことも重要な点である(話が大きくなるのでここでは触れないでおく)
 

管理人

アイコン画像

のらてつ Noratetsu

キーワード

このブログを検索

検索

ブログ アーカイブ

2025
2024
2023
2022
2021