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ブログの書き方ド下手問題⑦~考えが整ったのに記事にしにくいものたち~

 一旦締めますと言いながらなんとなくずるずる続いている「ブログの書き方ド下手問題」の第七回。過去の回の記事はブログの書き方ド下手問題からどうぞ。 

 今回は「結論が出たのになぜかブログ記事にできない」問題について。

 

 例えばScrapboxの公開プロジェクトのらてつ研究所では、それなりに色々な話をしていて、それなりにアウトラインを掘り下げて、それなりに考えがまとまっていたりするのだが、それをいざ記事にしようとすると全然書けないということが多い。他にも、非公開プロジェクトやObsidianやDynalistに考えるだけ考えてそのままになっている思考が溜まっている。膨大という程ではないが、個数で言えば三桁に届いている気がする。

 大体はそもそも後でブログに書こうと思って掘り下げたわけでもないのだが、それにしてもこの書けなさは何なのかと思わずにはいられない。アウトラインはビシッと整っていて、材料は揃っている。話の混乱も特にない。調査が面倒くさくて放っておいているというのでもない(そういう場合がないわけではないが、そういうものはそもそも「まとまっている」と感じない)。別に全てを書かなければいけないわけではないが、せっかく考えたのに成果物として文章にならないのはなんとなくもったいない。

 

 もしかすると、予めアウトラインを整えすぎてしまったからだろうか? 

 そのパターンも無いではないように思われる。文章を書く時というのは、書きながら書き手自身に発見がないととてもやっていられない。自分としては既にわかりきっていることを、ただ人に読めるように翻訳するだけの作業というのは大変に苦痛なのである。書くということ自体が謎を解く探検の旅であるからこそ、私たちは何千字や何万字とかいう量の文字を拵えることができるのだと思う。

 よって、問題となるものをあまりにもきっちり解いてしまうと、それを文章にする時に楽しみが何も残っておらず、億劫になってずるずる先延ばしにしてしまうということは十分にあり得る。それを億劫がらずに淡々と書いていけるのがプロの作家なのかもしれないが、趣味で書いているだけなら苦行にならない書き方を目指して良いはずだし、淡々と書く修行は敢えてやることではないだろう。

 

 しかしながら、書けない理由はそれだけでもないような気がする。

 アウトラインがすいすい育っていくのはどんな時かを考えてみると、私の場合は自分の知見や経験、そして信念を言語化している時が多い。何か気になる事物を見聞きして、きっとこれはこういうことなのだーという調子で書いていく。大方、私がこのブログで主題にしようとしている「自分が困っている話」ではなく、世の中の現象か自分の願望の掘り下げになっている。

 それまで言葉にしたことがなかったことだから自分としては新鮮な気分で書いているが、その状態は新たに苦労をしなくとも既に何かしら組み立てられるものがあるということを意味してもいる。自分のために必要なことである一方で、じゃあ自分以外の誰かにそれをどう言えば良いかというと……。つまり、自分以外の読者を設定するのがとても難しいのである。書いたところで、誰に向けて言っているのかと自分で首を傾げることになるだろう。

 言語化ができた嬉しさによってそれをもう一段階整えてちゃんと文章にしたいという気持ちが生じてしまうのだが、もし世の中の現象についての思索であるとすれば、それはつまり大別すれば「世に訴えかける」タイプのものになってしまうだろう。個人の体験としてではなく(つまり自分の「好き」を語るのではない形で)自分以外のものについて語ることは、それに関わる物・事・人に向けて意見を表明することになる。これでは第一回で書いたように自分の価値観に反してしまうし、自分としてはただブレストをした結果でしかなくとも、それが誰かの何かに対する批判を意味しかねないとなればやはり気が引ける。「これは批判になってしまうなあ」という意識まではなくとも、「これを書くには色々な配慮が必要かもしれない」というのは感じてしまうし、そこに費やす気力は自分にはない。無名で何の影響力も持たない身であってすら、自分さえ楽しければ良いと言うには文章というものは力が強すぎるのである。

 ひたすら自分の願望を掘り下げて自分のことがよく分かったというような時も、自分としてはかなり強い感動があり、それを何らかの形で表現したくなる。しかしそれを読み手にとって面白くなるように書くのは容易でない。無理ではないが相当に技術かセンスを要求される気がするし、自分の感動の必然性を全て説明できないと「それのどこがそんなに興奮する話なのか」と思われそうだ。そういったことを上手く書くことに憧れはあるが、今すぐ自在に書けるものではない。これまでも、複雑に構造化されて自分を掘り出しているアウトラインを眺めながら、しかしそこにストーリーとして不足があることを薄々感じてしまって書けなかったのだろう。

 

 やはりここまでの回で考えてきたように、私に書けるのは「自分が困っていること」の分析または「今自分はこうしている」という近況報告くらいなのだろう。考え事が育っていく機会は様々なものに対して得られるが、それらのほとんどが結局は記事には出来ないままになる。それは別に私の守備範囲がとびきり狭いという話ではなく、大抵の書き手がその人なりのテーマに沿うものだけを書いていて、その人が思索を巡らした全てのものについて書かれることはまずない。全てが記事にならないのはごく当たり前のことと言えるのかもしれない。研究テーマがドンとあればそれに向き合うだけでも時間は足りなくなるし、必然的に他のことは触れにくくもなるだろう。

 私は自分のテーマとして「自分が困っていること」を軸にしようと考えたのがごく最近のことで、そういうふうに自分のカラーが自分でわからなかったことも「もったいない」という気持ちを引き起こしていたのだろうと思う。自分は何を書けさえすればいいのかがわからないから、全てが価値になり得たかのような惜しさを覚える。頑張れば居場所を作れたかも知れないのにまた頑張れなかった、という失敗体験としてそれらは自分の中に蓄積されていったのである。

 

 アウトラインを育てることはとても楽しいし自分自身にとって有意義だが、それがそのまま文章という形の表現に繋がるとは限らない。しかし逆に、文章として書くのは難しい考え事でもアウトラインまでなら書くことが出来るし、ブログ記事になり得ないものについてScrapboxなどにアウトラインの状態で公開できるというのはとてもありがたいことだとも思える。

 自分とはどんな人間であるか、どういうことに興味を持っているのかというのは、文章にできるものだけでは伝えられる範囲があまりにも狭い。Twitterがそれを補う役目を担ってはいるが、Twitterだけだとどんどん流れていってしまうし断片的過ぎる。たまたま或るツイートを見てくれた人は知っているがそうでない人は知る術がないとなると、自分を表現するものとしてはちょっと心許ない。いつでもアクセスできる場所にアウトラインの状態で溜めておけるなら、自分という存在を説明するのも随分楽である。

 そう考えると、アウトラインという形態は文章化の途中段階や要約としての役割に留まらず、表現のひとつの完成形としても大きな意味を持っているのかもしれない。

 

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