今年の総集編の後編。前編はこちら。
大人になっても「少年の心」を持っていたい、ということがしばしば言われますが、それは性格的な純粋さを保つのもさることながら、自分という人間のエネルギーを失わないという意味で大事なのかもしれません。「少年の心」とはつまり「個性」の発露なのだと思います。
21:ブログの書き方ド下手問題⑨~一度にあれこれ語り過ぎる件~
読んだ後に「要するに、」と言って三行くらいで簡単にまとめられてしまうような冗長な文章は長い甲斐はないが、物事をわかった気にならずにきちんと考えるためには、必然的に粒度の大きい、つまり複雑なことを複雑なことだと示してくれているひとまとまりの文章を読む必要もあるだろうと思う。文章は要約されるためにあるのでもない。要約の暴力を跳ね除ける「濃い」文章と格闘することは絶対的に必要だと個人的には思っている。
分類の越境に対する不快感が取り除かれているならば、些細な関連性でもリンクになっていた方が良い。前までは適切なツールがないせいで分類したい情報を分離することができなかったため、その感覚を持てなかったのだが、自分でツールを設計することが可能になったことによりそれらを全部追い出した状態に行き着き、やっとScrapboxに合ったマインドになった気がしている。
23:AutoHotkeyを使い始めた/noteを一年半ぶりに書いた
どういう頻度で書くべきか、どういう長さで書くべきか、どういう内容を書くべきか、どういう文体で書くべきか、そういったことをぐるぐる考えていた。考えて悩んだだけで何も実行できていないのだが、とにかく「こうではいけない」という自己認識で苦しんでいた。
24:デジタルツールでの情報カード性および文脈との結びつきの在り方
これまで、文を部分的に取り出す時には「文脈を記録しなければ」という気持ちが強くあった。そのために文脈を要約するにはどうしたらいいかと考え、それがうまくできないことをもどかしく思っていた。それもそのはず、文脈というのはそもそも要約できないものであろう。要約するために「言い換え」をしてしまうと、かえって元のイメージに戻りにくくなることもある。
25:のらてつの茶の間とは
Scrapboxがあるのにわざわざ別のものを自作した理由のひとつとして、ついさっき書いたように「タグ」と「リンク」の機能がそれぞれ欲しいということがある。タグは「こういう領域の話」、リンクは「これについての話」というふうに使い分けている。私の中では、どうもこの二つに混ざってもらっちゃ困るようなのである。
翻って読み手の身になって考えた時、「読む」という体験として楽しいものというのは、「役に立つもの」より誰かの「どうだ!」だと感じています。「情報を得る」という作業の中では「役に立つもの」を欲することにはなりますが、別にそれは楽しいものというわけではないような気がします。TwitterやInstagramなどが面白いのも、やはり「どうだ!」に感心したり驚き呆れたりできるからだと感じています。
私はこの八ヶ月間ずっと楽しくJavaScriptのコードを書いていました。説明を読んでもちんぷんかんぷんなことはたくさんあって、「説明がわからない自分」に多少もやもやすることはありましたが、でもまあ、その記述がわからなくても、できるようになったことがたくさんある喜びと比べればそんなのは些末なことです。理解が及ばないがゆえにへんてこな自作関数山盛りでごちゃごちゃやっているダサさ極まるコードでも、自分でアウトライナーを作れたことの方が私にとっては重要です。
ちなみに、PCやスマホ内で自分自身が扱う種類のファイルを入れたフォルダの名前にも長らく納得がいっていなかったのだが、「_」にすることで決着した。半角のアンダーバー1文字である。どう名前を付けても変にレトロニム的になって気持ちが悪く、何の意味も示さない且つ名前順で先頭に来る名前が良いと思って「これでいいじゃん」となった。
ただしあまりに自明な場合を除いて、何のためにやるのかを1行でいいから言葉にして書いておいた方が、迷走を回避できるし動機づけの強化にもなるのは確かである。欄があれば書きたくなるので、メモ欄とは区別してわざわざ目的欄を設置し、なるべく書くようにと自分を仕向けている。
T08:飽き性だから凝ったツールを作る
仕事をする、何かを書く、というようなことをすれば、もちろん私がした何かが世界や誰かの中には残るのですが、それを自分自身が認識していられないと「私は何もできていない」ということが私の中では真実になってしまうので、「私はこの日これをした」という証明書を自分に発行するために毎日ログを残すのです。私の脳は私自身がしたポジティブなことを忘れたがっているようで、一目で把握できる形で書き留めないと容易く「なかったこと」になってしまいます。そのくせネガティブなことは絶対忘れてくれない残念な脳です。
29:エッセイ集団という夢想
そこで考える。もし、「ここに属している人なら面白いぞ」という保証を持たせられる、「個人の総合的な表現」集団があったとしたらどうか。
デジタルツールに関しては、前提として「アナログツールではなくデジタルツールを使う」という判断をまずしていることになる(そもそもデジタルの方が当たり前という人は別だが、アナログに軸がある人間からするとデジタルは意識的に選択されたものであろう)。そうすると、「せっかくデジタルのツールなんだし」という意識が働く。その意識は必要なものでもあるのだが、しかし油断すると「デジタルであることを最大限活かさねば」という意識に知らず支配されていたりする。
文章の場合もやはり、それを読む前と読んだ後で読み手に変化があるかどうかにかかっていると思う。話が動くかどうかも大事だが、読み手をどこかに運べるかどうかが重要なのである。本当は何が書いてあったのか分からなくとも、読み手が自分の中に変化を感じれば「何が言いたいのか分からない」という感想にはあまり至らないように思う。
予定について「組む」と言うように、アウトラインでも「組む」ことを考えていたから(私にとっては)駄目で、いわゆるキュー(queue)としてイメージした方がいいのかもしれない。つまりアウトライン(輪郭)を浮かび上がらせることは考えない。なおキューと言っても一番上から消化しなければならないものではないとする。とりあえず並んでいるだけである。
もしTwitterの画面を開いていたならばそこに文章化できたメモでも、他の「メモのための場」に書き留めようとするとそれがなぜか全然そうはならない。如何にも「メモっぽく」メモを取ってしまうのである。
より短く簡潔に書き留めた方が勝ちかのように、ササッと書いて済ませようとしてしまう。つまり「敢えて読み物にしないようにしている」という状態になっている。本当はちゃんと文章化した方がいいとわかっているのに、「メモなんだし」という意識がそれを邪魔している。一秒でも早く「メモを取る」という行為を終わらせたいという気持ちになっている。元の作業に戻りたいという意識がなくとも(つまり暇でも)、メモ書きは可及的速やかに終わらせたい。
軽快に勢いに乗って書いている状態が如何なるものかを考えてみると、私の感覚では「ほとんど全ての文が新たな意味を持っている」という状態だと感じます。その文章を通じて示したい結論に向かって進んでいるかはあまり関係ありません。新たに生み出す文が、そこまでに書いた文には無い意味を持っているかどうかです。
まず前提として、私は頭の中に「規範意識と合理性に沿った判断をしたい自分」と「自分の性質に正直に従ってカオスに生きたい自分」のふたつが存在しているということを強く感じている。別に人格が分かれているという話ではないのだが、判断基準が二つあるとか、片方の判断がそれと矛盾したもう一方の要素によって台無しにされるとか、そういうことを常に感じるということだ。かつては規範意識と合理性の側が勝ってしまいがちで、自分の本質を抑えつけて「真っ当」っぽい選択をしようとして、その結果精神を壊してしまうことにもなった。
タイムライン機能を考えた最初の動機は、ツリー構造とは別に「考えた順」に並べたいという気持ちが前々からあったことだ。アウトライナーは内容を基準としてツリー状に形を成していて、いつでもどこにでも書き加えられて書き加えるほど成長していくのは良いのだが、その場所から離れてしまうと「さっき考えたあれ」に戻るのがまあまあ面倒である。データの構造としては内容が基準になっていて良いのだが、それはそれとして「最近追加または編集したノード」が時系列順に並んでほしい。
36:2022/11/14 ―― 日付をタイトルにする試み/やり方を真似したくなるということ
やり方を見せてくれる人々は、それぞれが自分の中にある成分に基づいて最適化したものを披露してくれている。詳しく聞けば聞くほど「隙がない」かのような気持ちになってくる。ただ、そこにはその人を構成する成分しか含まれていない(それしか含みようがない)。そこに書かれていないこと――多くは故意に「伏せた」のではない――を考えなくてはならないだろうし、そのためにはやはり、自分の成分は何なのかを自分に問うて明らかにしなければならないだろう。
37:2022/11/18 ―― Twitterからの垂直移動/紙と筆ペン
私達はTwitterに適応し、Twitterは私達に適応し、進化なのか退化なのか分からない変化を双方が経てきた。なんというか、そろそろ考え直しても良いのでは、という気分になってきている。
水平移動ではなく、前にしろ後ろにしろ、どちらかに垂直移動した方がいいのかもしれない。前に何があるのかはよくわからないが、サービス側もユーザー側も手探りの中でやっていくような、ある種の謙虚さを持った場に環境をリセットしたい気持ちはある。
自分自身の思いをキャッチできるのはアンテナを張ってからだと思います。アンテナを張り、そしてそこにそれがかかってくるまで、どれだけの時間を要するかはわかりません。
でもまあ、死ぬまでにひとつでも多くわかれたらいいな、というくらいで良いのではないかと思っています。いくつ書き出せているかより、「自分は何にテンションが上がるんだろう?」「自分は何をやれたら良い人生だと感じるだろう?」と考えて何かが引っかかるのを待ち構えられているかどうかの方が大事だなと感じます。
知り合いや会社の関係者というような距離感の時、話をしていて「こいつ自分の行いを正当化しているな」と感じる場合があろうかと思う。しかし親しい友人が如何にも駄目っぽいことを言っていた時、同じように感じるだろうか。多分そうはならないと思う。内心に相手に対する敵意がある時、相手の「自分を描写する」という行為を許し難くなる。そしてそれを許さない時に、「それは正当化だ」と判定するのではないか。
己に囚われないでいることは、己を知らずに済ませていることと同じというわけではないように思います。知らなくて良いことは知らなくても良い、知る必要があることは知る必要がある。当たり前に思えることですが、何を知らなくて良いのか、何を知る必要があるのか、それすらも自分を知らないとわからないという難しさもあります。
39:お仏壇ライフハック
私は、「現状をより良くする」ということを目的にして何かの目標を立てたり自分と約束したりする、というのが基本的に下手くそなのだが、なぜ下手くそかというと、相手が自分自身だからである。自分が立てた目標を貫くモチベーションはさっぱり生まれない。自分との約束は守る方が稀な感すらある。というか、ちゃんと思い描いた通りにやれても、全然充実感を覚えないから達成したことを忘れている。
インボックスの概念などあるはずもないし「一箇所にまとめるとわかりやすい」なんてことは考えもしなかったと思うが、ただ「大事なものはとりあえず仏壇に置く」という習慣によって、仏壇の周りは「祖母的に大事らしい、且つ他に置き場所を見出していないもの」で溢れていた。
文章を書くとか物を考えるとかいう時、必ずしもすっきり交通整理することこそがそれに貢献するわけではないと感じている。交通整理して書いたり考えたりしたものというのは読んでいて「交通整理されたものだな」という感想を抱くわけだが、書かれるもの、思考されるものというのは整理されたところにだけ生まれるのでもない。
42:2022/12/11 ―― 「アウトライン」問題/TypeScriptを使い始めた
形式と目的が同じ語で語られてしまうと、形式に常に目的が伴っているかのように感じる。でも、アウトライン形式で何かを書いた時、それは必ず目的的なアウトラインなのかは疑問である。少なくとも、積極的にアウトラインを作る時と、アウトラインと言えなくもないくらいの記述をする時とのグラデーションがある。そのグラデーション全てをカバーできるのが所謂アウトライナーの強みだと思う。しかしアウトライナーと言ってしまうと積極的で目的的なアウトラインに持っていくことをイメージしてしまうところがあるのが、私の中では引っかかるポイントになっている。
こういうのは、「仕組みを理解する」ということはもちろん大事だが、とにかくたくさんやって慣れることが一番だなと思う。
大雑把に言うと、「これ言わなくても良かったな」と思うことが多い。書きたかったから書いた、ということが前提にあるわけだが、後からものさしを当て直した時に、「書く必要があるものではなかった」という評価が下される。
しかし、「書く必要があるものかどうか」で判断してしまうなら、最初からそんなものなどない、ということにもなってしまう。ブログやSNSに「書く必要があるもの」なんてない。
こう考えてみると、もしかすると「何度か上手くいったやり方がいつの間にか前提化してしまう」というところに弱点があるのかもしれない。環境の影響を大きく受けるにもかかわらず、(あるいはそれゆえに、)特定の環境に無意識に拘泥してしまっている。いや、拘泥というか、他の環境の存在を忘れると言ったほうが正確かもしれない。
46:「報いの時」感想
他のあらゆることより、「頑張ればこのキャラが手に入る」「頑張ればコレクションが欠けない」ということの快や安心感が上回っていると――いや、「手に入らない」「欠ける」ということが、他の何かをやらないでいることより大きい損失に感じられると――それをやめてしまう勇気は持てなくなる。
自分の内側に自分の感性に基づいて自分なりの世界を作るということ。ゲームを成り立たせている要素の総合的な摂取は、自分にとってその工程の手がかりになった。
今年はブログ記事を48本、トンネルChannelに11本、その他noteにAutoHotkey関連で9本書きました。週1本も書いていなかったような気持ちでしたが、均せば一応週1本ちょっとくらいになったようです。