前回までの記事はこちら。
自分らしく生きている感じの人々の語りの中で、自分が使っているものに愛称をつけているという話が時々出てきます。それは朴訥な言葉のこともあればへんてこな表現のこともあり、時には本当の名前のような愛称が付けられます(例えば自分の靴に「チャーリー」と名づける、みたいなこと)。
私はそういう名づけをしようと思うことはないので、そのような話を見る度に圧倒されるような気持ちになってしまいます。名づけること自体思いつかないし、名づけようと思ってもなんだか難しい。無理に愛称を捻り出しても、その物の名前がその愛称であることに本心では納得できないのです。
名づけと言えば、他にはペットの名前を決めるとか、親しい友人とニックネームをつけ合うとか、自分のハンドルネームを考えるとか、機会は色々とあります。もちろん子どもが生まれれば我が子に名前を授けることになります。モノに名づけるというのはかなり非日常的なものに思われますが、自分や他の人間、あるいはいきものに名づけることは珍しいことではありません。人生のうちに何十回何百回とあるようなことではないにしても、全く無縁に生きる方が稀でしょう。
ところで、これまで考えてきたような、メソッドなどの用語や概念を言い換えるという行為も「名づけ」と表現してきましたが、上述のような名づけとは少し違いがあるように思われます。
「名前」には基本的に必然性というものがありません。そう呼びたいからそう呼ぶと決めた、というだけのことです。由来はあったとしても別にそれでなくてもよいのです。
しかしながら何かしらの用語というものについては、原則としてその語が意味内容と十分関連している必要があるだろうと思います。自分だけが使うのであれば「呼びたさ」の割合を増やしても全然構わないのですが、そうは言っても、例えばカレンダーに「エリザベス」と名づけるみたいなことはあまり一般的ではなさそうです(自分にとってそれがすごくしっくりくるならそれで良いわけですが)。
また、「名前」の場合は基本的に重複は避けるものでしょう。「他ならぬそれ」を指すための言葉なのであって、あれもこれも同じ名前にするとあまり名前の意味がありません。一方で、用語としての名称は、同じ種類のものをゆるく括ることも普通にあり得ます。例えばタスクを記述するとして、紙に書いたリストもアウトライナーに入力したリストも音声で順番に録ったものも、同じ用途なら全部まとめて「やることリスト」で差し支えないという人は少なくないでしょう。
そういうわけで、意味内容を示すことを目指すタイプの「名づけ」をそれ以外の名づけと区別する形で言い換えてみようと思います。
と言っても、他の人とコミュニケーションを取る上ではおそらく「名づけ」と言った方が伝わりやすいでしょうし、あくまで自分の中でどう呼ぶかの話です。言葉も余所行きと部屋着を分けて考えれば自分の世界を表現しやすいだろうと思います。
先程「メソッドなどの用語や概念を言い換える」と表現しましたが、ちょっと抽象度を上げると「情報(または情報の集合)に言葉を関連づける」ということになるでしょう。
そこで行われることは、自分が知っている語彙の中で、その情報(または情報の集合)が持つ意味合いと共通点が多いものを探し出すこと、あるいはその特徴を他と区別しながら指し示せるものを探し出すことです。
例えばデジタルツールについて何か考えたり情報を得たりしたとして、それら全部に「デジタルツールの話」と題をつけても、情報間の差別化がないので指し示せている感は薄いです。関連づけが緩すぎるということです。(ビシッと指し示す必要がなければ別にそれ以上詰める必要はありません。厳密さは目的に依存します。)
ただし「言葉を関連づける」ということは「要約する」ということと同一ではありません。自分の中でその内容とその言葉に関連があると感じられればよいのであって、言葉自体が内容を表現している必要はないわけです。
この試みを何と呼ぶか。自分がその言葉によって特定の領域を想起できる状態を目指しているのだから、「象徴探し」なんかがいいかもしれません。
前回は「翻訳」と表現しましたが、それは自分以外の人間による「名づけ」を自分の世界の言語に言い換える(またはその逆)というケースに限られている感があります。そしてもちろん「翻訳」には本来の意味が別にあるので、このパターンの試みは「翻訳的象徴探し」とでも呼ぶことにしましょう。他にも種類があれば「○○的象徴探し」の形で派生させれば良さそうです(今のところ思いついてはいません)。
自分なりのそれらしい表現が見つかったところで今回は終わりです。あなたは「名づけ」をどう表現しますか?