デジタル手帳会議を実践している記事に付けるタグ。
「デジタル手帳会議」タグはデジタル手帳会議自体について語っている記事に付け、「デジタル手帳会議(実践)」はいまデジタル手帳会議をしているという種の記事に付ける。
ノートフローの検討であり、ノートツール環境スナップショットと重複する。
2025年からは月間振り返りに組み込むことになった。大規模な検討をする時があればこのタグを付けて投稿する。
動じないために。
デジタル手帳会議を実践している記事に付けるタグ。
「デジタル手帳会議」タグはデジタル手帳会議自体について語っている記事に付け、「デジタル手帳会議(実践)」はいまデジタル手帳会議をしているという種の記事に付ける。
ノートフローの検討であり、ノートツール環境スナップショットと重複する。
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「手帳とともにある生活」に漠然と憧れがあります。いや、憧れというより、そのようでなければ生活というものは完成しない、というような気持ちがあります。
それゆえ手帳を使うということをずっと試み続けていますが、「試み続けている」という状態から前進できている感じはしません。パートナーのような存在になっていかないのです。そもそもの話、自分が手帳に何を求めているのかが曖昧です。言うなれば、人を愛するイメージも人と暮らすイメージもないのに漠然と結婚した~いと言っているかの如き体たらくです。
かつて手帳が担ってきた役割というのは、その多くがパソコンやスマートフォンの中にあるアプリケーションに移っていきました。スケジュールもメモも連絡先も地図も、今となっては紙で扱う必要はあまりありません。デジタルだと電気とインターネットの状況、デバイスの健康状態に左右されるという理由で「念の為」紙にも情報を用意しておくということはありますが、デジタルでやれるならデジタルでやるという方が多くなっています。
「手帳とともにある生活」に近づけるために、これまで手帳の役割を増やすことを考えていましたが、それはつまり、既にデジタルでやっているものをわざわざ紙の手帳に戻すということになります。手帳がなくても回っている生活に、手帳を使いたいがために変更を加えるということです。このように言い表すと土台無理なこと(あるいは余計なこと)をやろうとしている感が滲み出てきます。
ところで、現時点で手帳を全くまともに使えていないのかというと、実はそんなこともなく、バイブルサイズの6穴システム手帳に自前のA6紙をセットしたものをずっと使っています。むしろほぼ毎日開いています。
しかしながら、それでも「手帳とともにある生活」を送っている感覚はありません。このシステム手帳の役割は「参照」に限られていて、サッと確認できなくてはならない各種の情報や、あるいはWindowsのショートカットキーや正規表現の書き方など画面の外にあると嬉しい情報といったものを入れています。ほぼ毎日開いてはいますが、新たに書き込むことは稀です。つまり、対話がないのです。
やはり「ともにある」「パートナーである」という感覚のためには対話が必要でしょう。実際にはあくまで壁打ちの壁であって対話相手は自分自身であるにしても、過去の自分を保存し未来の自分に向けてそれを放ってくれることで対話を成り立たせる、その役目を担ってくれるかどうかが「パートナー」と言えるか否かを決めているように思います。
ここで、二つの選択肢が私の中に生まれました。ひとつは、手帳にパートナーとしての役割を担ってもらうこと。それは私がずっと手帳に対する憧れとして抱いてきた道です。もうひとつは、パートナー感に飢えることをやめ、「参照」のために使うと割り切ること。イメージとしては最強の「生き字引」になってもらうことです。
いやそもそも生きてないしそれはただの字引だろう、というツッコミが入るに違いありませんが、手帳を最強の字引にするには私が育てなければなりません。現時点の私の手帳はまだまだ頼りないものです。その意味で手帳には生きもの的側面があり、やはり単に字引というよりは「生き字引」のイメージがより相応しく思えます。
そして、私は後者を選択することにしました。対話相手は既に別のアプリケーションが務めてくれています。なんとなく、無機質なデジタルツールをパートナーとは思いにくいところがありますが、幸い最近は特定のアプリケーションへの愛が深まっています。今ならそれらをパートナーと表現して構わないと思え、そうであれば無理して手帳をパートナーにしなくてもいいだろうと。同時に、「生き字引」として傍に控えていてくれるイメージを持つことで「手帳とともにある生活」として納得がいくのではないかと思うに至りました。
ということで本題です。来年は以下のような編成でいこうと思っています。
Scrapboxで自分が扱っていたものはつまり「がらくた箱」なのだ、ということを「賢くなる」と情報ツールの位置関係で見出してから整理を進めてきたわけだが、自分の関心に関わることでもうひとつ考えるべきものに思い当たった。「がらくた箱」に対するものとしての「宝石箱」である。
子どもの時分には、がらくた箱は宝石箱とほぼイコールなので、その差を意識する必要はない。そしてここまでの検討では子どもの頃の感覚をメタファーとして用いたので自分の関心を基準としたノートを「がらくた箱」と表現したが、しかし無秩序に全部突っ込んだ箱がひとつあるだけではちょっと不十分だという感覚がある。
子どもの頃のがらくた箱というのは、その時点で自分の目に輝いて見えたものを収集したもので、まだ関心の幅も大したことがないから必然的に純度が高く範囲が狭いものになる。例えば「情報」はその箱にはほとんど入らない。しかし大人になっていくと、むしろ情報に対して関心を持つ方が多くなるし、関心を抱く領域も広範になって、己の心の赴くままに集めていると量的に収拾がつかなくなる。なので懐の広いEvernoteやScrapboxのようなツールが必要になる[1]。
そうやって果てしなく収集していくとその数は何千とか何万とかになってしまうが、それらは等価というわけではない。いずれも自分の気分を良くすることは確かであるにしても、やはりその中でも特別なものというのがある。そして自分の好みはこれなのだ、という感じでそういう特別なものをずらっと並べてみたくなる。で、以前は例えば特別なものをピンするとか、「○○ランキング」「お気に入りの○○」みたいなページを作って列挙するとかいうことで「これが特別」と分かるようにしようとしていた。でもこれはどうも私には有効ではないようだ。「がらくた箱」という言い方を考えつかないでいた間はそのうまくいかなさの正体がよくわかっていなかった。
つまるところ、がらくた箱の中にある以上はがらくたであり、がらくた箱の中で何をどうやってもそれが宝石には見えないのだ。(私の場合は。)
デジタルツール以前はどうしていたのだったかと考えてみたが、Evernoteブームが到来する以前はそもそも自分の関心に焦点を当てることが下手くそだったので、そういうものをうまく扱えていた時期はなかった。今アナログでやるとすれば、特別感漂うシステム手帳か何かにきちんとリストやノートを作るとかするかもしれない[2]。
デジタルで「がらくた箱」とは別に「宝石箱」を作るとして、どんなツールを選ぶのが良いか。
以前は「自分はこれらを特別に思っている」ということを忘れないためにリストを作ろうとしていて、Scrapbox内のリストの他にも例えばDynalistやNotionにそういう場を作ったりしたのだが、そういうリストには思ったほどわくわく感が生まれない。熱心に更新したいと思わないし、見返してもそんなに楽しくない。リストではなくそれそのものがそこにある形の方が良い気がする。
また、宝石として扱うようなものは視覚要素が存在するものが多いので、単にタイトルが並ぶようなものではなく画像が目立つ形が良いだろう。その意味ではNotionでも全然問題ない。私個人がNotionを「リスト」として使っていたのがいまいちだっただけで、情報そのものの拠点にするならNotionのギャラリー表示でも構わない。
現状Notionをそんなに重用していないので、自分の中の「気安さ」で考えるとやはりScrapboxが良いような気がする。「がらくた箱」とはきょうだいのような位置づけのものだし、その意味でも同じツールを使う方が納得感がある。一覧のグリッドを大きめにしたり画像が目立つようにしたりすると楽しいだろう。「がらくた箱」は数が大量なのであまりグリッドのサイズは大きくしたくないのだが、「宝石箱」の方はひとつひとつが目立っていた方が良い。
そうだ、今思いついたが、CSSで画像に額縁を付けたりしたらどうか。かなり前にそういう感じのことを考えていたことがあったが(HTML/CSSで自分用の美術館を作る - Noratetsu's Room(のらてつ研究所))、ScrapboxのUserCSSでやるというのは全然思い至らなかった。例えばこんな感じ(スタイルは適当)。
ここ数日デジタルノートツールの使い方について色々考えている。
※2024/03/16 最終的にできた構造はこちら→三つの箱(領域)の整理
容れ物の話をしているので、豆エッセイについても容れ物の方に着目しよう。上記の記事では「濃いタイムライン」と表現している。「濃い」とは、別種のものが混在していない、または混在していてもそれが十分気にならない状態であるということ。
呼称の不揃いはそのうちどうにかするとして、まずそれぞれの性格について整理してみる。
「賢くなる」と情報ツールの位置関係で、「がらくた箱」と「賢くなる」ための情報ツールについて書いた。
何度も考えたような気はするのだが、なんとなく曖昧になってきていたので今この違いに気づきを感じている。
※2024/03/16 最終的にできた構造はこちら→三つの箱(領域)の整理
情報を置くのはScrapboxかObsidianかDynalistか自作ツールか…ということをずっと考えている。情報の性質に着目した場合にScrapboxとObsidianを大雑把にまとめてネットワーク型とみなしていたけれど、自分の中でその間の線引きが少しはっきりしたかもしれない。
現在情報ツールについて「がらくた箱」的運用はうまくいっている反面、「賢くなる」ための用途(「知の箱」と呼ぶことにしよう)ではあまりうまくいっていない。なお「知の箱」に入るものは、知識、知恵、引用、自分の仮説など「知」っぽいもの全般を想定している。おおよそ「知っておいた方がいいこと」「考えておいた方がいいこと」で、他方「がらくた箱」に入るのは概ね「好きなもの」「面白いと思うもの」「へ~と思ったもの」であるという点で区別される。
実用のための調べ物をした時に、何らかの情報ツールにメモを取るが、結局のところ紙のノートや手帳に書いたものしか自分の中で有効になっていない感じがある。例えばプログラミングについても時々紙に書く。紙では一応回っているのだから「自分は紙派なのだ」と解釈することにしてもまあいいのだが、「自分が紙派だからデジタルでうまくいっていない」というのが真実かというとそれは甚だ怪しい。実際そうであったとしても、それならそれで根拠を明快に説明できるところまで詰めておきたい。
情報ツールが「知の箱」として成り立つために必要な要素はなんだろうか。考えつくものを挙げてみよう。
無限に収納できること
何があるかわかること
情報と情報を繋げられること
体系的に整理できること
体系的でない整理もできること
紙でやると「情報と情報を繋げられること」が若干弱いのと、量が増えるとどこに何があるかわからなくなってくるのが難点だ。でも昔の人は紙が当たり前だったのだし不可能というわけではない。記述方法はデジタルよりずっと自由なのであり、紙でやるのだと割り切るのも別に非現実的選択というわけではない気がする。
逆に「がらくた箱」として欲している要素も整理してみる。「がらくた箱」はアナログとデジタルそれぞれにあるが、ここで考えるのはデジタルについて。
無限に収納できること
曖昧な検索で取り出せること
色々あるかと思ったが、「がらくた箱」についてはこれだけで良い感じがする。取り出しやすさを増やすためにリンクがあるとより良いとは思うものの、「知の箱」の内容とは違ってリンクによって情報の価値が増すわけでもないので(繋がったらちょっと嬉しい、という程度)、まあリンクはなくても構わないだろう。どちらかというとリンクよりタグの方が便利かもしれない。Evernoteはその点うってつけだった。
今「がらくた箱」として使っているのはScrapboxだ。今日時点で4023ページある。がらくたじゃないものも入っているが、がらくた箱に入れてしまったことで実質がらくたになっている。内容物の全貌はもうわからない。全部チェックしようと思えばできるがそうすることにあまり意味はない。
Scrapboxを「知の箱」として使おうと試みたこともあるものの、なんとなくうまくいっていない。ツールの機能としては十分なはずだが使い方には工夫が要るかもしれない。特に体系的な整理をどうするかだ。コンセプトを考えても体系的整理はあまり向いていないだろう。(でもできないということはない。)
ひとつ踏まえておかなければならないのが、「知の箱」と「仕事場」は違うということだ。「知の箱」にはこれという目的はない。こういう人間になりたいという目標はあるにしても、明確なゴールというのはない。一方で「仕事場」はプロジェクトの完遂がゴールだ。関係する資料は大量でも、今必要な情報だけがアクティブで、済んだものは眠ってもらって構わない。マニュアルや報告書は要るとしても教科書的な体系化は必要ないだろう。たくさんの情報を扱うということは共通していても「知の箱」と「仕事場」には性格的に違いがあり、「仕事場」として最適化されたツールやその使い方が「知の箱」に最適とは限らない。
ちなみにアウトライナーを「知の箱」として使うことも過去に一瞬考えたことがある。しかし、アウトラインに知識や知恵、思考を書いていくとなると、見かけが体系的になり過ぎて使いづらい。全部フラットに並べるとやたら縦に長くなり、それを防ぐために細かく階層を作ると複雑化し過ぎる。「こうもり問題」も発生する。無限に増殖し続けるものを管理するには向いていない。
アウトライナーは、ゴールがあることか、蓄積にはあまり意味がないことで使うのが良いだろう。例えばデイリーアウトラインは過去の記述が溜まってはいくが、基本的に過ぎたものを活用することはない。稀に確認の必要が生じても、それは「蓄積した知識の活用」とは性質が異なる。今日のためのアウトラインは今日が過ぎれば一応用済みだ。
前にObsidianを使っていた時、Obsidianの無限の可能性に感嘆しつつも「別にこれでなくてもいいかも」という気持ちも少しあったのだが、それは当時「がらくた箱」を欲していたことが原因だったのだろう。「がらくた箱が欲しい」という自覚は全然なかったのでどこで何がどう食い違っているのかその時はよくわからなかった。しかし考えてみるに、現在Scrapboxに4000ページあるわけだが、ローカルに4000の無秩序なmdファイルが生成されたらちょっと困る。多分、そんなことにならないようにセーブして使うことになるだろう。「がらくた」を扱うのは難しくなることが推測される。
逆に当時Scrapboxに於いては「がらくた箱」の中身を整理しようとしていた。「がらくた箱」は整理ができないものだから「がらくた箱」なのであり、それをピシッと整理しようというのは無謀な試みだ。要は博物館にしたかったわけだが、それは背伸びし過ぎというもので、がらくた箱はあくまでがらくた箱である。
そこから何年か経ち、Scrapboxの個人プロジェクトは「がらくた箱」として落ち着き、今「知の箱」を別に欲している。そうなった時に、やはりObsidianがそれに向いているのではないか、というのが今現在の気持ちだ。
各項目がそれぞれmdファイルとして存在するということは、昨今のスタンダードな情報ツールと比べて全貌を把握しやすいと言えるだろう。普通にエクスプローラでフォルダを開けば何があるかわかるのだし、フォルダ分けも自由である。自由であることが混乱を招く要因にもなるのでフォルダ分けは慎重に行う方が良いが、とはいえ配置換えはごく簡単である(同じ名前のファイルが複数あると面倒かもしれないが)。
また、「これだけ勉強したぞ」というのが量的にわかるのが嬉しい。がらくた箱と違って、正直やらなくていいならやらない領域のものなので、嬉しくなる工夫は可能な限り凝らしたほうが良いのだ。アナログなら見りゃ分かるようなことが、デジタルだと必ずしもそうではないので、アナログだったら得られた快について積極的に意識を向けておきたい。
ちなみに、「知の箱」として完璧なツールを自分で作ろうと目論んだこともある。構想としてはまあ悪くないとしても、挙動の不安定さやUIのいま一歩イケてない感じ、際限のない改良欲といったことで実用は難しかった。今作るとすれば、やはり結局のところmdファイル管理にするような気がする。それならばObsidianを使えばいい。どうしても足りないと思う機能があっても、自分で頑張ってプラグインを作れば済むかもしれないし。
自作ツールのデータは大抵JSONで保存しているが、そうするとそのツールからしか中身をうまく確認できない。なのでそのツールを開いている時だけ認識できればいい用途ならいいが、「知の箱」に入れておきたいようなもの、すなわち生きている間ずっと関連しているようなものにはあまり向いていない。それがツール作りを続けてきての実感だ。マルチデバイスのアプリケーションを作れるなら話はちょっと違ってくるが、そこまでの技術力はまだ自分にはない。
とりあえずObsidianの活用を復活させてみて、それでも今ひとつ捗らないなら、その時こそ「自分は紙派なのだ」と結論づけて割り切ることにしようと思う。
今月のお題について、既に書いた気になって書いていなかったので、滑り込みで書きたいと思います。(別にオーバーしても全然構わない場だと思います、念の為。)
メモ環境はころころ変わっているので、とりあえずここ半月くらいのことについて書いてみます。
まずメモの場として使っているのは以下のものたちです。
要するに適当な紙に筆算するとか、テキストを整形するにあたってちょっとコピペしておくとか、何かをする途中段階に発生する諸々のメモです。
前はチラシの裏みたいな紙に書いてその後捨てたり、テキストエディタに書いてファイルとして保存はせずに消去したりしていたのですが、残っていた方が嬉しい感じがすると思い始めたので残すようになりました。消えても別に構わないことには変わりないので、その意味で「残すメモ」と区別しています。
紙の場合はノートに適宜「計算用紙ページ」を設けてそこに書きます。他のページはペン書きで、計算用紙ページは鉛筆で書いていますが、これはそう決めているというよりはただの気分です。
デジタル(PC)では少し前までVaNT (Vanilla Note Taker)を使っていました。大変素晴らしいアプリケーションなのですが、ただちょっと重さが気になって、最近はNanaTerryを使っています。随分昔にNanaTreeを使っていたので大変懐かしい心地です。
ローカルなデスクトップアプリケーションを使っているのは、集中したいなどの理由によりブラウザを閉じている間に使えるものが欲しいこと、明示的に残すメモとの混在を避けるために専用のアプリケーションを割り当てたいことが理由です。
以前はScrapboxにこの種のメモも残していたりしましたが、やっぱりノイズになる感じがあるので混ぜないように気をつけています。
残すメモというのは、「日記・日誌」「知ったこと・調べたこと」「今後の予定・計画」「書くネタ」「それ以外の思いつき」といったことがあります。それぞれ違う場所が最終的な居場所になります。
日記・日誌は以前にもトンネルChannelや自分のブログで言及した「TextManager」という自作ツールが終着点です。前の記事で倉下さんがお書きになっているTextboxと同じように、ローカルサーバーを立ててWebブラウザ上でローカルファイルを編集しています。(元々倉下さんに影響を受けて自作ツールを作るようになりました。)
知ったこと・調べたことはDynalistに専用のドキュメントを作っています。今後の予定・計画についてもDynalistを使い、イベント毎プロジェクト毎にドキュメントを作っています。これらは語り始めると長くなってしまいますが、詳しくはちょっと前にブログに書いたのでよろしければお立ち寄りください。
残すメモはいずれも、情報が発生した時に然るべき場所を開いていれば直接書きますが、そうでなければ「とりあえず書く」ための場に書いておいて後で移すことになります。
紙の場合は、ノートに「Temp」ページを設け(左上に「Temp」と書いているだけです)、そこに日時付きで書いておきます。最終地点がノートでよいメモも多くあるのでそれはそれぞれページを当てて書きますが、日記・日誌の類などはTempページに書いておいて後でPCで入力し直すことになります。
PCでは上述のNanaTerryに日付をタイトルにしたノードを作っておいて書きます。あくまで計算用紙的メモの場なので後で移すのが基本ですが、プログラミングのアイデアなどは転記しないままのこともあります。
スマートフォンからは、QuickDynalistというアプリを経由してDynalistの特定のドキュメントをInboxとして追記していきます。
といっても、紙のノートのTempページとDynalistのInboxについてはそこに置きっぱなしでもそんなに困ることにはならないので(記述を探すことに苦労しないため)、そのままになっていることもしばしばあります。
こんな感じです。
ずっと前から恒例のことなのだが、何かのツールについて「使っていない」と書くと間もなく使い始め、「使っている」と書くと使わなくなっていく。
なのでつい先日書いた ノートツール環境スナップショット(2023/09) の状況から既に変わりつつある。
具体的には、Dynalistをあまり使っていないと書いたのでDynalistが復活し、逆にNotionとOneNoteは開く頻度がやや低下している。(他のアプリケーションは状態を維持。)
Notionでやろうとしていたことの一部がDynalistに移動し、OneNoteでやろうとしていたことはTextManager(自作ツール)に移りつつある。
自分はどうしても自分の決めたことと逆を行きたいらしい――というのはおそらく間違った解釈である。私はなんて天の邪鬼なんだ!とか思っていないで、何が起きているのかを淡々と見つめることにする。
自分の脳は別に「逆」をやりたいわけではないと思う。じゃあ何なのかと言うと、たぶん、単に新たな道を見出そうとしているだけなのだ。
「道を見出していない」と思うと、「いや、実は道はあるんじゃないか」と考え始める。逆に「道を見出した」と思うと、安心してそれを「済んだこと」にしてしまい、別のことを考え始めてしまうのである。
自分が何に対してどの程度活発に思考を巡らすかというのを、私は日頃「血流」でたとえて考えている。放っておくと血流は滞っていくが、「使えていない」とか「考えたことがない」といった自覚を持つとそこに血が巡りだす。
すると、ついさっきまで何も思いついていなかったのに、急にアイデアが浮かんだりする。新しいアイデアというのはとても良いものに思えるので、じゃあ試してみようとなる。そうしてあっちにふらふら、こっちにふらふらということになっていく。
血流は常に全体に全力で巡らせられるわけではないので、どこかが活性化すればどこかが停滞する。新しい領域あるいは滞っていた領域にどわーっと流れ込む時、その直前まで血流が豊かだったところの流量が減じてしまう場合がある。血流を滞らせてはならないと感じている箇所は減らないが、瞬間的にわーっと活発になったようなところは引く時もあっという間である。
この性質は困ったものだし、ずっと振り回され続けているのだが、しかし現在の状況については冒頭で丸括弧内に補足した「他のアプリケーションは状態を維持」の部分が重要だ。昔はメインで使っているツールごとあっちこっちにふらふらしていたから本当にその後が大変になったが、今は不動の領域があるので混乱は少なく済んでいる。
ツールのことも自分のことも全然わからなかった若かりし頃は、誰かが何か言ったり自分が何かに気づいたりする度にわーっと右に揺れ左に揺れを繰り返した。まあ多分、仕方のないことだったのだと思う。
今不動だと思っているものがいつふらっと揺れるかはわからないが、前よりは「揺れた後」のことを考えるようになったので、その意味でも安定はしてきているとは思う。
色々と悟ることによって、振れ幅が大勢に影響のない範囲に収まり、ただ新たな道の模索を楽しむ趣味として落ち着いていけばいいと思う。
自分が日常でどういうツールを使うかというのは日々変化している。そうそう変化しない方がいいと思うのだが、しかしそう思っても絶えず変化してしまっている。
ブログ記事にあれこれ書きながらも程なくしてそのやり方はやめてしまった、というようなこともかなりあるので、結局実情はどうなのかというのは別途定期的に残した方がいいのかもしれない。
現在使っているのは以下のものたち。
前回の記事(作るためのツール作りから使うためのツール作りへ③力量の変化)で少し書いたが、自分の短いプログラミング史の中で圧倒的に便利なツールができたので、五月あたりからずっとそれを使っている。「TextManager」と名付けた。
この自作ツールは現状PCでしか使えないので、出先で必要な情報の管理には向かない。そういう情報については基本的には出先で見やすい道具、つまりスマホのアプリや紙のノートを用いることにして、そうでない情報は大体全部このツールで扱っている。ただまあデータが入ったJSONファイルはクラウドを通じてどこでも見られるので、内容を確認するだけなら探そうと思えば探し出せるようになっている。
文章を書く時に便利な機能も色々搭載していて、ブログ記事の類はもう全部これでやっている。唯一「ノートテイキングアプリDIY体験記」に関しては大きな構造をDynalistに作っているのでそちらと行き来してはいるが、それも全部引っ越してもいいかもしれない。TextManagerでは見出しと折りたたみとアウトラインを使えるようにしているので、構造の整理はアウトライナーを使わなくてもやれるようになっている。
世にあるアウトライナーのうち、今使っているのはDynalistだけだが、それもアウトライナーであることを生かした使い方はあまりしていない。自分にとってメインの場ではなくなっている。
最近ではRemNoteなんかも試したものの、自由度が高すぎてドキュメントの扱いに混乱してしまって馴染めなかった。フラッシュカードシステムは非常に面白いと思うので、そのうちまたチャレンジしてみたいとは思っている。
自分で作るツールに於いてもアウトライナー機能の位置付けは変わってきた。詳しくは作るためのツール作りから使うためのツール作りへ②感覚の変化にまとめたが、「アウトライナーに分類されるアプリケーション」よりも、色々とやれるツールの中にアウトライン機能がある状態が私にとっては良いようだ。
なんにしてもアウトライン操作を手放したことはないので、「アウトライナーに分類されるアプリケーション」を使う頻度が減っていっても、それはアウトライナー離れを意味しているわけではないだろう。
出始めの頃に触って、爆発的に流行り始めた時にまた触って、結局ずっと使わないでいたNotionを、最近また使ってみるようになった。
今のところの用途は主に読書関係である。紙の本の読書メモをスマホで取りたいのだが(物理的に一番楽な方法であるため)、そのメモを書き込む先としてNotionを使うことにした。本のデータや図書館の利用記録についてもテーブルで管理するということを試している。
あとは文章の元になりそうなメモをとりあえず置いておく場所にしている。前まではAndroidアプリのハルナアウトラインを使っていた。なるべくローカルのプレーンなテキストファイルで管理したいという気持ちがあっての選択だったので、Notionの活用はその動機からは外れてしまう。あくまで「とりあえず置いておく」ために使っていて、それ以上蓄積させていく場所としては予定していないが、今後どうなっていくかはまだわからない。
他にもいくつかのことで使っているが、感触としてはまだどうとも評価しがたい感じなので詳しくは触れないでおく。TextManagerで済むのかNotionを使った方がいいのかということには慎重になっており、ノートに書いて検討してから試行に移るようにしている。
これまでに情報管理のために重用したことがあるアプリケーションで今現在はあまり使っていないものを書き留めておく。
前回の記事(ひとり掲示板で自由に呟く)で「掲示板を一人で使う」という閃きについて書いた。その掲示板を再掲しておくとこちら。
たまたま一人で使っても良い感じだということに気がついたが、そもそもは一人で使いたくて掲示板を探したわけではなかった。
複数人でちょっと話しましょうとなった時に、LINEのグループやTwitterのコミュニティ、各種チャットツールが選択されることが多いと思うのだが、それらが本当に最善なのかと考えるとなんだか微妙だなということをずっと思っていた。
それらは短期間だけ必要で何か決着のつくやり取りなら便利なのだが、蓄積にはあまり向いていない。なのでそれぞれ何らかの工夫がその先に必要になる。仕事であればやり取りの結果が反映される先があるが、ネット上の知り合いが雑談するというような状態だと結果を反映させるものがないので、ただただ流れていってしまう。Twitterのコミュニティなんかはもう過去のやり取りの発掘はほとんど無理である。(相性次第ではあるがこの問題の解決策の一つとしてScrapboxの共同編集プロジェクトがあり得るだろう)
そうなった時に、ふと「匿名掲示板はよくできていたな」ということを思った。私個人は昔にしたらば掲示板の一部の板をちょっと見ていただけで、2ちゃんねるなどはほとんど利用していないため実際の様子はそんなには知らない。でも「板があって、スレッドがあって、1000レスで終わりにするか場を改める」というのが「話題の管理」としてかなり合理的だなと今更ながら感じたのである。
実際、有名なスレッドはずっとどこかに残り続けている。そして全てのレスには番号がついているので、全ての言及についてこのスレの何番と指差すことができる。
そんなことを思い、実際に場を作るかどうかは全然別として、現在掲示板というものがどうなっているのかを調べようと思って無料掲示板を調べていた。(個人的には前回書いたようにzawazawaを気に入った。)
匿名掲示板の文化として、名前を記入する欄があってもそれが使われることはほとんどないわけだが、何も掲示板は必ず匿名掲示板として使わねばならないわけではない。
無料掲示板サービスをあれこれ見てみても、仲間内で使えるようにできますということが結構書いてあるので、それなりに非匿名の場として使われてもいるのかもしれない。私個人はそういう機会がなかったのでそういう風には使ったことがなかった。
匿名掲示板に慣れてしまっている人だと、掲示板だというだけでなんとなく乱暴な「匿名掲示板っぽい」振る舞いを想起してしまったり、自身がそういうモードになってしまったりするかもしれないので、そこがひとつ難点になるかもしれないと思う。
ただ、普通に実名やHNで各所に書き込みをするのと同じように書けるとすれば、掲示板の「板があって、スレッドがあって、1000レスで終わりにするか場を改める」という形式は割と便利なのではないかと思っている。(1000以上書ける掲示板なら1000レスにこだわる必要はないが、ともかく適当なところで区切りをつけるという発想があることに意味があると感じている。)
雑談の中で既にやり取りをしたことがある話題に差し掛かった時に、前に作ったこのスレッドで続きをやろうぜと言って移ればそこにどんどん蓄積されていく。同じ話題のループに悩むことはないし、自分の考えを繰り返して書く必要もなくなる。アンカーを付ければ参照が簡単だからだ。Twitterではひとつのツイートを取り出してきても同時にあった他のツイートのことは全然わからないが、スレッド内ならそのアンカーを起点に前後のレスを読めばいい話である。
もちろん「もうその話はしたぞ」と厳しく言う必要は全然ないし、話題のループが全部悪ということでもない。同じ話を何回も考え直すところにも意味はある。どちらかというと「もう話がされていることなんじゃないか」という不安を払拭する意味で過去の記述が一通り読めるというのはありがたいと思う。
掲示板のスレッド内では、それぞれが新たに話題を持ち込んだり特定のレスに言及したりしていて複数の話が同時に走っている。メンション機能のあるチャットツールやTwitterも同様だが、個人的にはアンカーの見た目が「今はこれに言及しています」という表示としてとてもわかりやすいと感じている。「○○さんへの返答」ではなく「何番のこの話への反応」という印象が強くなる。
複数のアンカーを貼ればそこで文脈を作ることもできる。何番と何番はこういうつながりがあって、みたいなことができるわけである。色んな人が同時に色んな話をしていてそれぞれに興味があるという場合にも、一度に「>>100にこう返信、>>123にこう反応」ということをまとめて書くこともできる。場全体の空気を読み過ぎる必要はなく、亀レスもあまり気が引けないと思う。普段「わかる」みたいな短い反応は親しい間柄じゃないとやりにくい気がするが、掲示板ならそれも気軽にできる、かも?
もはや掲示板と縁遠くなって久しい人々も、実は匿名掲示板で行われていたようなことを匿名ではない状態でやりたかったりするのではないか、と日頃感じているのだが、どうなのだろう。みんながみんな世界に向けて話したくてSNSをやっているんじゃないような気がする。
と、色々考えてはみたが、今になって実際に掲示板を使うというのが現実的かどうかはわからない。現在使っている場での工夫というのも様々積み重ねられていることだろう。でも、なんだかんだ「スレ」というのは「話題」を扱う単位としてとてもうまい仕組みだったな、と今更ながらに思うのである。
昨日、短文投稿サービスを彷徨うという記事を投稿した。その中で、Twitterには「自分の内面を自分で引き出す」という効用を感じているが、しかしそれはTwitterでなければならないものではないかもしれない、ということを考えた。
「自分の内面を自分で引き出す」ということをTwitterでやっていた理由は以下のとおり。
これは人に見せない日記でやっても良いはずで、実際日記によって同様の効果を得ている人はきっとたくさんいるのだが、私自身は100%自分のために何かをするということが苦手なので、「書くからには読んだ人が意味をきちんと理解できるようにしよう」という少しの利他性を動力にして文章を綴っている。長文にするとなると文章全体の組み立てを考えなくてはならないが(つまり利他性の発揮にエネルギーを費やしすぎる)、Twitterならとりあえず140字単位で意味が通じれば良いので文章化しやすい。
そしてこれをやる場はTwitterでない方がいいかもしれない理由は以下のとおり。
(自分の内面を引き出すための)自分の発信が生んでいるのはまた自分の発信であり、他者の受信・発信を通して自分の受信が豊かになっていくというサイクルを作り出していないのだ。
ではどこでやるべきかという話だが、昨日投稿した時点では解決策というのは全然見出せていなかった。しかしその後別な目的で探していたものによって図らずもスッキリ解決してしまった。
ずばり「掲示板」である。そして解決方法とは言うなれば「ひとり掲示板」だ。
なぜ掲示板を探していたかというのはまた改めて書こうと思っているので割愛するけれども、ともかくあれこれ無料掲示板サービスを見ていて、zawazawaというサービスに行き着いた。調べてみるまで存在を知らなかったのだが、WIKIWIKI運営が提供している「掲示板形式のWIKI」とのことだ。見た感じWikiだという印象は薄いが各スレッド(=「トピック」)の最初にMarkdownで記述を作れるので、確かにWikiなのかもと思う。記述部分を充実させればWikiらしいWikiにもなるし、そこはあっさりでコメント欄が目立つようにすれば掲示板らしい掲示板になる、という感じだろう。基本的にはWIKIWIKIの補助的な位置づけだろうかと思う。
今月のお題、「アウトライナーの使い方」に関する投稿です。
常に使っていると言っていいくらいアウトライナー(およびアウトライン機能)はいつも何かしら開いているのですが、その一方なんとなくで使っていて使い方に自覚的でないので、こう使っていますという話はなかなか思い浮かびません。
しかしちょうど最近始めたことがあって、そのことなら割合整理して語ることができそうなので、ちょっと書いてみることにします。どんなものかと言うと、ブログのアウトラインから本文まで全部Dynalistで書く、という試みです。
ブログやトンネルChannelの投稿のために記事を書く時、少し前までは自分で作ったノートテイキングアプリを使っていました。メモのリストがあり、メモそれぞれにアウトラインのデータと本文のデータがあって、メモをクリックするとアウトライナー部分とテキストエディタ部分が上下に並んだ形で表示されるものです。
似た形式でいくつかツールを作っていますが、例えばこういう感じです。