少し間があいてしまいました。
前回は、なぜ倉庫化するかという問いについて、主に情報を置いていく過程で発生する問題を考察した。主に扱う対象が広すぎること、アウトライナーを使った模索にケリがつかないことがゴミ屋敷化を招くという話をした。
今回はそれよりも基本的な、ツールとの向き合い方について考える。
①の最後に、「『アウトライナーの手前』の場を意識的に用意しておけば良かっただけの話でもあるのだが、すんなりそうできない理由がまた別にあったのである。」と書いたのだが、倉庫化について語った③でその振りに答えていなかったので、今回はそこに焦点を当てていこうと思う。
前回の話より根本的である一方、はまり込む人の割合はそこまで多くない気がするため、③では別の話を先にしてこちらは後回しになった。
さて、ツールとの向き合い方として根本的な問題とは何か。それはズバリ、「情報管理の全てをひとつのツールにやらせたくなった」ということである。
情報管理に強い関心を持つ人にはそこそこありがちで、そうではない人には全くかすりもしない話なのではないかと思うが、私は常にこの気持ちに振り回され悩まされてきた。
というのも、幼い頃から情報の散逸に悩んでいたからである。たくさんのものを体験し吸収したはずだが、そのほとんどを取り出すことができないという虚無感。「自分の内に蓄積しているはずだ」という思いがあるからこそ生じるのだろうが、それは同時に、自分というものは底が穴だらけで常に中身が空っぽであるような虚しさをもたらした。
詳しくは心理学の領域になってしまうのでこれ以上は語らないが、とにかくそういった恐ろしい虚しさと焦りで私は情報管理術という世界に取り込まれていったのである。
実際問題、情報があちこちにあると困るので、一箇所にまとめておいた方がいいということは普通の解決策として考えられることだろう。
かつて奥野宣之氏の『情報は1冊のノートにまとめなさい』が流行ったのもそれは一つの道理であるし、自分はそれを真似することができなかったにせよ、考え方として画期的で数多の人の悩みを救ったことだろうと思う。(私自身、このシリーズを読んで情報管理の前提を考え直すことになり、それ以前と比べれば随分と自由になった。)
しかしながら、アウトライナーを使っていて(あるいは他の情報管理ツールを使っていて)、私が直面したのは「どこに行ったかわからないから一箇所にまとめようとして、しかしどこに行ったかわからない」という事態である。
それは当然アナログのノートでも起こることで、奥野氏はパソコンに内容を記録して検索を可能にすることで解決していたが、最初から検索が有効なデジタルツールに於いて私は迷子になってしまったのである。
まず大きな原因として、私が扱おうとした内容というものが、抽象的で逐一言語化を試みなくてはならない領域にあったということがある。
③で「『自分』を対象にするというのは、もはや『宇宙』を対象にするも同然である。」と書いたこととも繋がるが、漠然と広くて未知過ぎるのである。インターネットで検索しても出てこないものを自分の中の宇宙で探しているのだから、その記録も検索しづらい形のものになるのは必然と言えそうだ。
検索という行為は、そのワードが既に何かしらの基準で定着しているからこそ成り立つものであろう。社会的に市民権を得た単語かもしれないし、自分が定義して自分にすっかり馴染んだ単語かもしれない。何であれ、「この概念はこのワードで言い表されるはずだ」という確信があるから検索が可能になるように思う。そういう認識が自分の中にないものは検索で的確に探すことができないのである。
もちろん、より一般的な単語で検索すれば多くの記述を掘り出してこれるが、それは「捜索」というより「発掘」であって、似て非なる別種の行為になってしまう。
アウトライナーについての連載なのでアウトライナーに焦点を当てるが、そもそもアウトライナーは「溜めておいて、検索で引き出してくる」というやり方が適切なものとは言えないだろう。②で書いたように、今今の思考を構築していくことに真価を発揮するものであって、動かしようがないものを蓄積していくことに役立つツールではない。(しかしそうすることが不可能であるとは言えない。)
そのことに気づかなかったわけではない。蓄積型の使い方をした時、不便とまでは思わずとも特別便利ではないなと感じてはいた。フラットに大量にノードを作ってしまうと開閉した時に扱いづらいし、階層化の必要がない記述の羅列には漠然と「これでやらなくてもいいよなあ」という気持ちを抱いた。
それなのになぜ無理してアウトライナーでアウトライナー的でない情報管理をしようとしてしまったかと言えば、最初に書いた通り「情報管理の全てをひとつのツールにやらせたくなった」からである。
そしてそのツールとしてアウトライナーを選択したのは、アウトライナー万能説を勝手に自分の中に作り出してしまったからにほかならない。
世の先駆者たちによるアウトライナーの使い方の紹介記事を見ていると、アウトライナーさえあれば何でもうまく管理できそうな気がしてくる。「あれとこれを管理できるよ」と言われたら、「あれもこれも管理できる」に見えてしまうのだ。
別に誰も、「何でも管理できるよ」とは言っていない。「できたらいいな」くらいは言っているかもしれないが、それを「何でも管理できるんだ!」と解釈するのはあまりにも思い込みが激しすぎる。
しかし実際、「アウトライナーでは不可能なこと」があるかというと、それはあまり思いつかない。どう見てもアウトライナーがベストとは言い難い領域はあるだろうが、それにしても不可能ではない気がする。つまり工夫次第でどうにかできそうな感じがする。オールインワンを達成するためならちょっとの我慢もなんのその――と、自分に言い聞かせて頑張るものの、やがて力尽きるのだ。この点についてはEvernoteやらNotionやら、あらゆる情報管理ツールについてある程度は同じことが言えるし、同じような失敗を繰り返した。
ただ、アウトライナーの方がそれらのツールよりも「自分次第」の幅が広いがゆえに、余計諦めきれずに何度もチャレンジしては挫折することになった。
挫折を繰り返す間、私は混乱し続けていた。情報を管理しなくてはと思い立つ前はもっと混乱していた。私が体験したこと、感じたこと、考えたこと、それらの一切を逃したくなかったし、全てを自由に取り出したかった。私の底に空いている穴を塞いでくれる手段を探していた。私の中を整然とした図書館にしてくれるものを探していた。アウトライナーならなんとかしてくれそう、という期待を抱いていた。
アウトライナーは私の脳が撒き散らす言葉たちを受け止めてはくれるが、もちろん私の心の問題を解決してくれることはない。自分の混乱は自分と向き合って解消するしかない。至極当たり前のことである。アウトライナーが様々なことを「やりやすい」ようにしてくれるのは確かだが、やるのは私以外にいない。
その思い違いを自覚して受け入れるのにもかなりの時間がかかった上、その自覚だけではアウトライナーをうまく使えるようにはならなかった、というのはこれまでの話を読んでいただいた通りである。
この連載の「はじめに」で、「どうして私はアウトライナーとともに情報管理の『系』を作り上げていくことができなかったのか?」と己に問うた。
その答えとしては、「アウトライナーの"中"に『系』を作り上げようとしたから」であると言えるかもしれない。
本当は、アウトライナーを含む、もっと大きな「系」を考えなくてはならなかった。
アウトライナーは身体で言えば手指のようなもので、その存在は極めて重要だが、身体全体ではない。足で踏ん張らなければならないものを手指に支えさせたら当然に無理が来る。手指はいつも自由に動かせるようにしておく必要がある。
このことにはすんなりと気がつけたわけではなかった。
しかしここ数年の間、ScrapboxやObsidianなどに於いてアウトラインというものを「ページの中の要素」として小さいサイズで扱い続けることにより、アウトライナーで作るアウトラインもサイズが適切なものに落ち着いてきた。
アウトライナーを「系」の外枠として捉えるのではなく、「系」の内部の運動担当(あるいは工作担当)部署として位置づけることを脳がようやく理解したのである。
正直に言うと、「アウトライン」の在り方はそこそこ前に掴んだものの、「アウトライナー」について決着がついたのはごく最近のことである。本当に決着がついているのか確証は持てていないのが実際のところだが、しかしながらこれまで私の周りを覆っていた霧はほとんど晴れた実感がある。晴れて辺りを見渡せるようになったからこそ、私は私にとってアウトライナーがどうであったかを言葉にすることができるようになったのだと思っている。
ところで、前回の最後に②と③はアウトラインを無視して書いたという話をしたが、今回はほぼアウトライン通りである。