Noratetsu Lab

動じないために。

2021年9月

2021/09/24

HTML日誌:自分のためだけにHTMLを書く

 ここ一週間ほど、HTMLとCSSをちまちま書いて自分のためだけのページを作っている。完全にローカルで、他人がアクセスすることはないものだ。


 実際に作っているもののスクリーンショットはこちら。

画像

 画像には収まっていない下の方にも備忘録欄やお気に入りの画像欄、自分のツイート埋め込みなどいくらか要素がある。

 様々な情報管理ツールがある中で、今になって敢えて自分でHTMLを書く目的というのは二つある。
 一つはCSSの実践、もう一つは自分が本当に必要としている情報を本当に見たい形で表示することの模索である。

 私はこれまで自分でHTMLを書いてサイトを作る機会がなく、HTMLに関してはブログにちょこっと埋め込む程度のことしか試したことのないド素人だ。CSSの方はScrapboxでUserCSSを使って自分好みの見た目にするために多少勉強した。とはいえ自分の願望を叶えてくれるプロパティだけ検索で見つけて成功するまで手探りで試すというやり方で、およそ体系的ではない。CSSとは何をするものなのかはおおよそ掴んだつもりではいるが、わかっていないことはたくさんある。
 Scrapboxやその他自分でCSSを書いて適用させられるツールの見た目を整えることができるだけでも楽しいのだが、せっかく齧ったのでもう少し実践的にスキルを身に着けたいと思って、まっさらな状態から全部自分で整えていくということをしてみようと考えた次第である。

 もう一つの理由は情報管理の面だが、情報管理ツールの類はいくつか試していて、今アクティブなものだけでもScrapbox、Dynalist、Notionの3つ、少し前まで使っていたのはLogseqにObsidian、昔はEvernoteも使っていた。VSCodeでmdやtxtに書いたものをGitを通じてGitHubで見るということもある。
 それぞれできることは色々とあるが、どれを使っても一向にしっくり来ない要素がいくつかあって困っていた。一番はwebページのブックマークである。これがどうも……何をどうしても納得できない。アクセスしたものの管理という点ではNotionでデータベースを作るのが今のところ一番しっくり来るのだが、Notionだと読み込みに時間がかかったり多機能過ぎたりして「パッと開く」ということがどうにもやりにくい。
 結局はツールに頼るのを諦めてブラウザのブックマークを使ってはいるのだが、これが全く愛着がわかない。好きにならないというだけに留まらず、毎度毎度苛立ちを覚えるくらいに嫌いなのである。おそらくリスト形式の見た目がまず駄目で、アウトライナーなどに貼っておくという試みもそれが理由のひとつになって頓挫した。
 エクスプローラにリンクを作ってアイコンで管理したらどうかとも思ったが、ブラウザを開いた状態で他のページにアクセスするためにわざわざエクスプローラを開くというのが煩わしく、位置を固定できないのもいまいち気に入らなかった。
 ということで、もういっそのこと自分で自分好みのデザインを作って管理してみようと考えた。ブックマークの中でよく使うものというのは何百もあるわけではないので、並びを考えながら手動で追加していってもそんなに大変ではないだろうと判断した。

 自分にとってブックマークというものはどういう見た目をしてどういう情報を伴っていたら嬉しいだろうか、と考えてみたとき、以下の要素が浮かんだ。

  • リスト状ではなくタイル状である。
  • カテゴリごとに分けられる。且つ、複数のカテゴリを同時に開いておける。
  • faviconが表示されている。が、大きい必要はない。
  • タイトルが表示されている。が、全文見える必要はない。
  • 備考が表示されている。例えばログインのヒント、ブログの著者、ツールの概要など。

 これらを全部満たすツールは思い浮かばないのでやはり自分で作るしかない。条件をいくつも書いたが、これを満たすように作るのは全然難しくない。なお全体のテーマ的なものはScrapboxに設定したものを流用すれば一瞬で整い、新たな苦労はなかった。
 実現してみるとこれが実に便利だ。自分好みの見た目をしているので気分も良い。ブラウザで開けるのでエクスプローラを活用するのとは違って流れが自然。フォントも余白も何もかも厳密に調整できる。私は自分で思っていた以上に見た目にうるさいようなので、細かく変えられるのは私にとって非常に大事なことである。

 ブックマークが良い感じになったのでついでに他の情報も載せようと思った。諸々の情報管理ツールで他にいまひとつ良いやり方を見出だせていなかったのが、「お気に入りのものを並べる」ということだった。
 紙上でやるのは簡単なのだが、パソコン上ではなんだかうまくやりにくい。Officeソフトを使えば画像や図表を紙面に貼るようにレイアウトすることはできるが、編集ソフトは見るものとしては雑然とし過ぎているし、いちいちpdfなどに出力するのももどかしい。そもそもpdfは気分を良くするために開きたいと思えるような形式ではない。「見る」ことに集中できる形であってほしい。そうなるとHTMLで表示するのはそれなりに良いやり方であるように思われる。
 クリックしたら画像を原寸大に拡大するとか、左右にクリックで次の画像を表示するとかもできてほしい。これもHTMLにJavaScriptを使えば簡単にできる(検索すればやり方がすぐわかるし知識は要らない)
 これで画像ビューワを開いたり保管しているページにアクセスしに行ったりしなくとも常にお気に入りの画像にアクセスできる。更に動画ファイルも貼れるし、YouTubeの動画や再生リストも埋め込める。txtも埋め込めるので備忘録のtxtファイルを表示させることにした。
 これらが全部ひとつのページに収まっていて遷移の必要がないというところが肝である。昔Yahoo!のトップページをごちゃごちゃさせ過ぎて急にうんざりした身としては、自分にとって本当に必要な情報以外を詰め込んではならないと繰り返し自分に言い聞かせなくてはならないが、当時と違って「これが見たい」という気持ちがちゃんと先にあるのでかつてと同じ愚はおかさずに済みそうである。

 どうしてもっと早く試さなかったのだろうかと思ったが、CSSの知識が蓄えられた現在だからできることだろうと思う。
 誰かが開発したツールを利用することにすっかり慣れてしまった今となってはとてつもなく原始的な工夫をしているような気がするが、私にとってはこれでいいし、これがいいのだと思った。

2021/09/20

アウトライナー日誌:アウトライナーとは何型のメモなのか

 アウトライナーなどを用いてアウトライン形式で情報を取り回す時に行う作業をどう表現するか、というのはなかなか難しい問題である。
 以下、内容の種類にかかわらずアウトラインの形をしている状態(親項目があり、その下にインデントされた子項目があるという形態)を「アウトライン」と表記する。


 なぜ難しいのかと言えば、ひとつにはメタファーとして示せるものがないからだろう。
 強いて言えば、入れ替えの作業に限っては、本棚や冷蔵庫、日用品用の棚に、ブックエンドや容器を適宜活用しながら物を配置していくことが近い。どれとどれが仲間で、どの位置関係にあるのが自分の中で収まりが良いのかを探っていく作業であり、そこに正解というものはない。
 自分の美意識に対する理解が深まっていけば配置の必然性は高まっていくだろうが、少なくとも他人に同じように通用するものではないし、「絶対にこれしかありえない」と自分で納得するに至るには相当な年月を自己対話に費やす必要があるだろう。
 しかも、アウトラインに書いていくということは、どこかから買ってきた物(仕入れた知識)を並べるだけでなく、並べるコンテンツ自体を自分で次々生み出していくことになる。市販の物にはある程度規格というものがあるが、自分に絡む情報や発想はその多くが不定型である。情報に規格を作ることは不可能ではないが、それをやりだすと発想は硬直的になり、もし自分を自由にしたいのなら足枷になりかねない。

 とりあえずメタファーをひねり出そうとしてみたが、そもそもこのように物を並べ替えるイメージというのには、アウトライナーの使い方を言い表すものとして根本的な問題があるように思える。
 まずアウトラインというのはそれが目的ではないということである。物の配置についてもそれが家なのか仕事場なのか倉庫なのか美術館なのかで話は変わってくるが、少なくともアウトラインの操作は倉庫や美術館的な物の配置のイメージには当てはまらない。内容が最善の形で配置されることがゴールではなく、それによって自分がどう活動できるかが問題なのである。
 タスク管理ならば結局自分がどうタスクを処理できるかであり、執筆ならば結局自分がどう文章を書けるかである。アウトラインをどう作っても、本来の目的の達成に貢献しなければ意味がないし、目的が達成されるならアウトラインは中途半端でも構わない。

 こう考えると「中途半端でも構わない」ということは半ば当たり前のことのような気がしてくるが、しかし実際にはそのようには思いにくい。
 その理由は様々あるかもしれないが、個人的には「アウトライナー」という名称が邪魔をしているという感触がある。なぜなら過程でしかないものを対象とした名称になっており、且つ「アウトライン」というもの自体が曖昧だからである。日本語で描写されておらず英語に頼っていることも私の中では直感的理解を妨げる一因になっている。
 一方でこの種のツールについて明らかなのは、「親項目があり、その下にインデントされた子項目がある」という見た目である。プロセス型でもプロダクト型でもそれは同じと言えよう。
 なお、畳めるかどうかやズームできるかどうかは、機能の重要性としては非常に大きな意味があるが、アウトラインの要件としては必須ではなく(そもそも紙に書かれたアウトラインは畳めないしズームできない)、アウトライナーとしても定義をなすものではないだろう。

 ところで、昨今スマホ用のメモアプリは数え切れないほど開発されている。カテゴリとしては「メモアプリ」であって、それぞれの特徴は「○○型」を頭につけて形容されることが多い。たとえば「タブ型メモ」「フォルダ型メモ」「階層型メモ」といった名称をしばしば見かける。
 これらは見た目を表現したものであり、見た目を表現するということは必然的に機能を説明していることにもなるが、一方で目的については何も示していない。その形のメモを使って何をするかはユーザー次第である。なお、「メモ」と言うからには何かのための途中段階であるということをほとんど当たり前に感じられることがひとつ重要な点かもしれない。

 アウトライナーというツールを使って項目を編集し操作していくことを「要するに細かいメモを作って動かしているのだ」と言ってしまって良いかどうかはまだ判断しかねるところだが、そういうツールであると言えるとするならば、「○○型メモ」という名称を捻り出すことによってアウトライナーなるもののわからなさが多少軽減されるのではないかという淡い期待を私はこっそり抱いている。
 しかしながら、それならばこれをどういう形であると表現すればよいか、ということにはまだ悩んでおり、それはきっと他にもたくさんの人が悩み続けていることだろうと推測している。結論は未だ出ない。
 

2021/09/12

知的生産を「自分の想像を大事にしようとすること」と言い換える

 自分の関心の領域を示すためには名前があってほしいので、これまで「知的生産界隈」などという表現で自分の関心を説明していたが、正直なところ「知的生産」という言葉は自分には合っていないので、言い換えを試みたい。


 なお「知的生産」という表現自体については、『知的生産の技術』の著者である梅棹忠夫氏の生きた時代背景や意図が反映されているものであって(如何に先進的であったかを想像する必要がある)、今私が是非を云々できるような話ではないので置いておく。
 私が考えるべきは、「知的生産」という言葉があろうがなかろうが結局のところ私がしていることは何なのかということである。

 常々、今自分がやっていることは何であるかを自他に説明するのに苦労を感じているのだが、基本的には「考えたことを書き留めておく」ということだと言えるだろう。
 今の世の中ではありとあらゆることがネタになり、別に社会の役に立たなくとも自分のキャリアに繋がらなくとも表現できさえすれば価値となり得る。他人の評価を待つまでもなく、自分が大事だと思えば自分にとっては既に価値がある。
 更に、自分以外の人間にも何か影響をもたらしそうなものを公開できれば、自分に何のバックグラウンドもなくとも誰かの豊かさに貢献できる。それはインターネットが普及し、意志さえあれば誰もが表現者として存在できるようになった現代では当たり前のような奇跡である。
 自分だけに留めるにしろ、誰かに伝えるにしろ、はたまた好き勝手呟いた結果他者に影響を及ぼすにしろ、まずは自分が考えたことを書き留めなくては始まらない。それもいつの間にかどこかにいってしまうような紙切れなどではなく、余程のことがない限り意思に反して消えてしまうようなことのない、それなりにちゃんとしたところに書く必要がある。便宜上「書く」と表現しているが、別に文でなくとも良いし、形式の如何はここでは些末な問題である。

 私は考えたことを管理したいがためにテキストを扱う類のツールを試し続けてきた。タスクや知識の管理よりも、「きっとこれはこういうことなのだ」という自分の感想や仮説をうまく保存したかったのだ。
 また、人に伝えたほうが自分が嬉しくなり得る時、ついでにブログやTwitterで公開してきた。最近ならScrapboxを比較的頻繁に更新している。変に読者を意識しない限りは、基本的にそれらは「ついでに」公開するものであって、あくまで自分の考えをこの世に留めておきたいという気持ちを第一として行われるものである。
 たまに変な気を起こしてnoteなんかに漠然と読者像を思い描いて語りかけてしまったりするが、それは私にとっては結局不本意なものなので、できれば二度と読みたくない黒歴史になる。公開してしまった以上、それは客観的に見て知的生産の範疇に入るだろうが、読み返したくないものは自分の意識の中からは追放され、知的生産としての蓄積を半分失ってしまう。
 話を戻すが、とにかく私の生活における「知的生産」とは、自分の中に生じたものをこの世に固定することであり、且つそれが自分にとって糧になるものであることを指している。

 おおよそ指し示す範囲は明らかになったが、もう少し言い換えができそうである。
 自分の中に生じたものとは、正確には自分の思考が生み出したものであって、炭水化物を食べたらブドウ糖を生じたとかいうことではない。また、自分の中に生じるものであるから、自分と無関係に存在する知識・事実の類でもない。つまり、端的に言ってしまえば自分の想像である。可能性が高めの推測かもしれないし、こうしようという意志かもしれないし、念の為の準備かもしれないが、いずれにせよ今この瞬間にしか全く同じものが存在し得ない頭の中の像あるいは状態のことを指す。
 それをこの世に留めておくのが私にとっての知的生産の活動なのだが、しかし個人の知的生産活動としては、自分で自分の生産物を活用できない状態は上述の通りあまり意味がない。社会に対する知的生産活動と捉えるならば、何でも良いから公開すれば大抵何かしらの意味が生まれるのであって自分自身の納得は然程関係がないが、それは今論じたい領域ではない。よってここでは自分の生産物が自分の糧になることを前提としたい。つまり、自分の糧となることを期待して(というより確信して)、自分に対して生産をする、自分の想像を留めておくということである。
 自分の糧になることを確信して自分の想像をこの世に留めるというのは、更に言い換えるならば「自分の想像を大事にしようとする」ということだろう。「大事にする」と「大事にしようとする」の間には少しの距離があるが、私のイメージとしては敢えて「大事にしようとする」を選択したい。理由としては、大事にしようという気持ちはあっても大事にすることそのものは失敗する可能性があるからである。感覚には個人差が大きいかもしれないところだが、せっかく書き残してもそれを探し出す手立てを失ってしまったとき、私は自分の想像を大事にできなかったと感じる。

 ちなみに、「想像を大事にしようとする」と言いたいのにはもうひとつ理由がある。
 私たちは数多の賢人の後に、あるいは同時に生きているのであり、天才でも何でもない身では「自分にしか言えないこと」などほとんどありはしない。自分の想像は誰かが検証しており、大抵は自分の知らないところでそこにいる人々の間での常識になっている。何を書いても内容に真に新しさが含まれることはほぼあり得ない。
 しかし、何かを書こうとしたとき、そこには自分の人生に於いて今初めて生じた想像があるはずである。何かを思ったから、自分の頭の中にあるものをわざわざ残そうとしているのだ。もう少しはっきりさせると、実際に残したいと自覚している想像と、それを自分の頭に呼び出した想像とがあるのである。たとえ他の人にとってわかりきったことでも、自分の人生でそれが生まれたことには自分固有の経緯がある。それは全く別の事とも繋がっていく可能性があり、その経緯こそが自分の個性だと私は思っている。

 つまり私は、毎日「自分の想像を大事にしようとする」という試みのためにツールと格闘し、自分の言語化能力とも格闘し、傷つけられずに人に手渡すために自分の文章化能力と格闘しているのである。
 

管理人

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