久々にEvernoteにログインしてみた。いつからいつまで使っていたのか確認するためだ。
アカウントは愚かにも二つ作っており、もはや使い分けを試みた理由も覚えていない有り様だ。十中八九、先に作っていたほうのごちゃつきに耐えられなくなって仕切り直したとかだろう。
アカウントを複数使い分けているんですよと語っていた誰かの話を口実にして、うまくいかなさの理由を突き詰めることから逃れて「とりあえず」やり直したのだ、きっと。
実態
ノートをエクスポート・インポートで移動させたりしたので、二つのアカウントの使い始め時期のズレがどの程度だったかはよくわからないが、とりあえずEvernoteは2011年5月末あたりから使っていたらしい。
2010年には使っていたような気持ちでいたが、確かに2011年に入ってからプレミアムが1年分無料みたいな話を見たんだったような気がする。その少し前から存在は知っていたはずだが、実際に始めたのは2011年の半ばだったようだ。
そしていつまで使っていたかというと、アカウントAは2015年7月、アカウントBは2018年2月までだ。しかしこれは外部サービスから自動でEvernoteに送っていたノートの日付である。自分の手で作ったらしいページはといえば、アカウントAは2013年5月、アカウントBは2016年9月が最後と思われる。
ノート数はアカウントAがおよそ28000、アカウントBが12000で、合わせてちょうど40000件くらいあるらしい。その内訳はもはや全くわからない。大事なノートはおそらく1000件もない。いや、今となっては大事なノートなど1件もないのかもしれない。久しくEvernoteを開かないでいたのだから。
ちらちら見返してみたところ、なんだか嫌なニュースの記事がたくさんある。世間の現実に目を向けなくてはと勇んでいたに違いない。その割にはその後それをどうともしなかったし、多分本当は大して興味がなかったのだろう。
スクロールしてもスクロールしても、そこにあるのは本当は大して興味のない内容のノートだ。稀におっと思うものもあるが、全て自分で集めたもののはずなのに、その中で今価値を感じるノートは川で砂金を見つけるくらいに希少である。
自分で作ったノートは別だが、「とりあえず」と言って反射でクリップした記事、メールマガジンやキーワードなどから自動で取得した記事などは、集めた甲斐がさっぱりない。そもそも「集めた」と言っちゃいけない気もする。掃除機のようにしてそこらへんのをただ吸っただけだ。
根無し草
Evernoteの使い方を振り返ると、自分の混乱がまざまざと思い出される。
情報管理というものをまともに考え始めたほとんど最初の頃に使い始めたのがEvernoteであったから、何をどう考えて使えば良いのか全くわかっていなかった。
何でも突っ込んでおけるんですよと誰かが言ったから、何でもかんでも突っ込んだ。音楽ファイルとかも入れておくとバックアップになって安心ですよと誰かが言ったから、月間容量を気にしながら音楽ファイルを突っ込んだ。サービスの連携が充実しているから何でも送っておけるんですよと誰かが言ったから、それはすごいと何でも送った。
それぞれ語り手は別だったわけで、幾人もの「誰か」は、いずれも私のようには使っていなかったのではないかと思う。私はひとりで勝手に混沌を生み出していた。
情報を収納すると、待ち構えているのは「整理」である。何もわかっていなかった私は、例によって誰かが言ったことをその都度試した。
ノートブックのタイトルは連番で綺麗に並べるんですよと誰かが言ったらそうしたし、いやノートブックは使わないでタグだけでやってますよと誰かが言ったらそうした。そういうことを思いつくことに憧れがあったから、自分で何かを思いついたらそれもまた試した。
あっちにふらふらこっちにふらふらとして、ついにやり方が定まることはなかった。「私はこれでいく」という形が結局できなかったのだ。
学び
Evernoteが教えてくれたことがある。
ひとつは、「情報を得る」ということについて私は何も知らなかったということだ。「知らないよりは知っていた方が良いのかも」「覚えれば役に立ちそう」「私の関心にマッチしている」「絶対に必要な知識だ」、これらはいずれも「あ、」と思って自分の目に留まるが、それを全部同じように突っ込んで良いのかどうか。
大抵のことが「知らないよりは知っていた方が良い」ことだ。するとつまり大抵のことが網にかかってしまう。それを全部集めていたら、自分のEvernoteが地球か宇宙かになってしまう。自分でピックアップしている意味がない。少なくとも、自分のEvernoteというのが「個人的な関心に沿ったコレクション」なのか「自分の視界に入ったもので作り直した宇宙」なのか、意識した方が良いに違いない。
もうひとつ、Evernoteは大事なことを教えてくれた。それは「私」について、やはり私は何も知らなかったということだ。
何でもかんでも突っ込んで思いつきで区分けを変えたのは、自分がどうしたいのかさっぱりわからなかったからだ。信念も美意識もないから(自分で気付いていないから)、取捨選択が何もできなかった。そしてどうなってほしいのかもわからずに、Evernoteがどうにかしてくれることを期待していた。
恰も「パソコン使えば何でも作れるんでしょ?」「東大生なら何でもわかるんでしょ?」と、「よくわからないけどすごいらしいもの」によくわからないまま謎の期待を寄せる人のように、「Evernoteに情報を入れれば何でも整理できるんでしょ?」と思っていたように思う。
Evernoteを書斎にしたいのか台所にしたいのか倉庫にしたいのかもわからずに、一体どんな整理ができるというのだろう。
「今」とEvernote
そんなわけで、今Evernoteに対して思うことは「雑に使ってごめんなさい」ということだ。Evernote自体に根本的な難しさというものがある気はするが、それにしたって、自分はEvernoteの可能性をあまりにも活かせなかった。
そして「Evernoteの後」に生まれた波に揉まれて、今日(こんにち)に至っている。Evernoteを使い始めた時には全く考えもしなかった方法で、今私は自分に合った情報管理の道を見出そうとしている。
Evernoteを過去に使っていた人、今も使っている人にとって、Evernoteとの戦いあるいは良き付き合いというものがどんな形だったのか、Evernoteがこの世に生まれてから十分な年月が経った今だからこそきちんと聴いてみたいところである。
富山孝裕さんがEvernoteに触れていたので、私もまずはEvernoteについて振り返ってみよう、と思ってひとつ目の記事を書いてみた。