2026年3月の振り返り
3月の振り返り。上旬まではどちらかというとゆっくり感じられたのだが、最後の方は一瞬だった。
今回は忘れていたわけではなく昨日のうちに公開するつもりで書いていたが、いろいろ書いていたら思ったより時間がかかってしまった。
動じないために。
3月の振り返り。上旬まではどちらかというとゆっくり感じられたのだが、最後の方は一瞬だった。
今回は忘れていたわけではなく昨日のうちに公開するつもりで書いていたが、いろいろ書いていたら思ったより時間がかかってしまった。
クイズ番組が近年大流行りしていた。
それは基本的には好ましいことだったと思う。何かを知るということに興味を持ち、それを勉強然とした形ではなく笑いながら楽しんでやることができるのは良いことだ。
「クイズ」という括り方をすることで森羅万象あらゆることを扱えるのも、いわゆる勉強にはない良さだと思う。
けれども、「知」をクイズ的に解釈することは正直に言って少々浅薄な態度だと思うし、「クイズができる」というのはそれだけでは「クイズができる」以上の意味を持たない。「知性がある」と「クイズができる」をイコールで結んではならない。
クイズ番組には様々な経歴の人が出演するが、知的に物を考えることに於いて実績があったはずの人がある種の無知を暴かれて恥をかくことが度々あったことには、実際幻滅する気持ちと、逆にクイズごときの失敗でクイズ的でない知性を侮られるのはどうなんだという気持ちもあり、色々と複雑な思いを抱かざるを得ない。
クイズができるということで出てくる人が時々自分の立ち位置をなんか変なところに置いているようなのも気になるところだ。
クイズ番組というのは多種多様な「侮り」を目にする機会でもあったなと思う。
クイズ番組を侮って何の準備もせず出演して大失敗する人。
クイズが得意という自負から万物に精通しているつもりで大言壮語する人。
クイズに対応できなかった知識人に対しその業績も無価値だったかのように笑う人。
学生時代の成績なんかを持ち出してきて自らハードルを上げながら何も成果を出せない人。
バラエティ番組としての「テレビ的な」振る舞いというのを差し引いても、ああ、高を括っているな、と感じることが毎度あった。要らんことを敢えて言って「痛い目に遭ってみせる」という芸をしようとしていた、とは思えないことが多かったし、仮にその意図でやっていたとしても「そういう芸人」でない限りは別に面白くない。
何かが存在するかしないかを考える時にその道の大家でもないのに「自分は聞いたことがない」を出してくる人が時々いる。しかしそんなものを持ち出して何の意味があるのかと思ってしまう。その人なら聞いたことがあるはずだとは他の誰も期待していないだろうに。
クイズのスターという感じで言われている人がこの間それで盛大に失敗していたが、まあ、あくまで「クイズの人」だし、視聴者も必ず正解するはずだとはそんなに思っていなかったのではないかと想像する。
いろいろ書いてきたが、そんなクイズの流行もテレビでは終焉が見えつつある。
クイズ作家たちはもうあまりテレビに協力していないのか(過労で疲弊したのかもしれない)、ここ数年は単なる雑学クイズばかりだし、長年やっていた某番組も終わりを迎えた。
少し寂しいなと思う。
NHKのEテレでアニメが放送されている。現在のシリーズは日本では2022年からのようだ。
昔の実写版とは違って、今のアニメ版は嫌な人、嫌な態度というのが全然出てこない。いわゆる「やさしいせかい」になっている。トップハム・ハット卿は機関車たちを心から大事にしているし、ゴードンもトーマスにいじわるを言ったりしない。パーシーは出てくるたびにトーマスに親しみを表現するし、みんな信頼し合う友だちだ。メインメンバー以外ではちょっとした文句を言ってくるキャラも出てこなくはないが、そのキャラなりの信条があってのことで、不快な感じはしない。
基本的には教育番組らしいオーソドックスな展開で、加えて毎回歌のシーンがあってその部分はちょっとミュージカル調になっている。そして使われている色味は優しく明るいもので、全体的に能天気で牧歌的な空気である。
で、如何にも子ども向けのアニメではあるのだが、見ていると時折身につまされることがあって侮れない。毎回何かしらのトラブルが起きてはそれをみんなで協力して解決することになるというThe教育番組だが、さすがに今の時代になるとなかなか巧みにできている。
嫌なやつは一人も出てこないのに毎度トラブルが起きるのはつまるところ「きちんと人の話を聞かない」「曖昧に指示する」「うっかりする」「甘く見て油断する」という「社会人あるある」である。誰も馬鹿ではないし愚かでもないし悪いやつでもないのに問題は起こる。それが私には逆にリアルに感じられる。
顔がついていて喋ったり歩いたり手っぽいパーツを伸ばしたりする機関車はどう見てもファンタジーなのだが、彼ら彼女らは「仕事をしている」存在なので、展開を追っているとところどころちょっと胃が痛くなってくる感じがある。自分自身の失敗も呼び起こされるし、こういうことの積み重ねであの会社はあんな不祥事を引き起こしたんだろうなとかそういうことを考えてしまう。
毎度人の話を聞かずに失敗する機関車たちに、子どもは「また同じことやってるー!ばかだー!」と思って笑ったりするかもしれないが、大人はこのアニメが如何に教育的かを人生経験からしみじみ感じ入ってしまうだろう。
トーマスたちは必ずリカバリーできるし、失敗した子が厳しく怒られることはなく(代わりに自分で気づいて自分で深く反省する)、それは現実にはない優しさだろう。実社会もこうだったらいいのになという思いを抱きつつ、笑って楽しめるよくできたアニメである。
自分は絶対に「普通」である、「普通」でないはずはない、と固く信じている人というのがいるが、その頑なさが既に「普通」ではないように思える。
逆に「普通でない」方が都合がよい人は、自分は絶対に「普通」でない、「普通」であるはずはない、と固く信じていたりする。「普通でない」というのはそうやって信じることによって生まれるものではない。
どちらも似たりよったりというか、多分同じことなのだが、自分と他人のずれを当たり前のこととして許容できていないということなのだろう。そのずれは必ず他人の異常性によると思えば自分の方が普通だと主張するし、必ず自分の異常性による(=ずれが生じないように自分が努力することは不可能である)と思えば自分は普通でないと主張する。
はっきり言ってほぼ全ての人間が何かしらおかしいし、何かしらおかしいのが普通だと思う。まあ一切なんにもおかしいところなどないという人もいくらかはいるだろうが、それ自体が極端な偏りを示していて、ある種のおかしさがある。
当たり前におかしい者同士の間で、どうにかずれを減らして円滑に過ごしていく、そのために各々が努力していく必要があるのが社会というものだろう。
「普通」に対する感覚は大抵親などからそのまま引き継いで引きずっているのだと思うが、親が己を普通だと信じていても、まあ当たり前に何らかの異常性はあるし(それが普通)、自分の親がまずおかしかったということを認めることが第一歩だろう。
私は「自分自身を不思議な生き物と思い観察している人」に親しみを覚える。
不思議というのは「特別」でも「優れている」のでも「劣っている」のでもなく、ただ不思議ということだ。他に同じ要素を持つ人がいようと、あるいは全ての人が同じ要素を持とうと、他人がどうかは関係なく自分自身がただ不思議なのである。
そして観察とは文字通りの観察であり、私とはこうであると結論づけるための試みではない。ましてや自分を機械のように解釈して全体を説明できると思うものではない。
他人のことも不思議には不思議だが、自分自身の不思議を相手にすることに忙しいので、私は他人のことは割とどうでもいい。他人に興味がないわけではない。解き明かしていく対象として他人を設定しないということ。よって詮索する趣味はない。
観察対象が自分自身であっても、何か発見があれば嬉しくなり、しばしば何かしらの形で発表したくなるものである。それが平易な文章で行われれば「自分語り」の一種として見られるが、あくまで観察結果の発表であって、自分を何かに見せかけようとする意図は基本的には伴わない。
自慢は自己の観察結果とは根本的に違うものだ。というのは、自慢は他者と比べて己が優れていると評価しているから行われるのであって、他者の存在など関係なくただ己を不思議に思って観察するものとはまるっきり性質が違っている。
そもそも、発表したいというのはこれまた文字通り発表したいということであって、それを他者がどう思うかはほとんど考えていない。他者が読めるように整える気遣いはするが、それを他者が読んで褒めてくれたらいいなどとは露ほども思っていないのである。共感する人がいたら嬉しいとは思うし、自分と向き合うことについて誰かのヒントになったら喜ばしくはあるが、そのように言われたいとは思わない。
「発見を発表したくなる」というこの癖は時に悪癖となる。
この発見というのは、自分自身の不思議について、時に半生をかけて考え続けてきた結果のものであり、だからこそ発見が嬉しいのだが、それを読んだ側にとってはそれほどの重要性を感じられないものだろう。よって、「半生をかけてきた観察結果の発表」に対して、何分もかけずにさらっと斜め読みして「あはは、それってこういうことなんでしょうね」などと軽い反応をされるということが時折発生する。(私がのらてつとして書いていてそういうことがあったという話ではなく、一般論としてこの構図ならどこにいってもそれは起こり得るのだという話。)
この熱量のギャップ、すなわち真剣味のギャップは、話の内容の素朴さとは裏腹にかなり深刻に不和を生みかねない。そして有名な作家などでも時々見られるように、柔軟なようでいて気難しいとか、冷静なようでいて感情的とか、はたから見たら奇妙な矛盾が生まれることになる。
先に「悪癖」と書いたように、これは軽い反応をした読み手が悪くて起こることではない。読み手が十分に慎重なら避けられた摩擦であるにしても、そのような繊細さをいちいち他人に求める方がどうかしている。(私自身それを幾度も反省する羽目になっている。)
要は発表が軽率過ぎるのである。
もしも明確に研究の形をなしているなら、考えなしに勢いで発表してしまうということはないはずだ。入念に準備をして、受け手の反応を想定し、想像しうる限りのことに備えた上でいざ発表となる。一方で、自分自身の観察というのは極めて個人的なものであるがゆえに、実際そこにある真剣さを自分でも忘れて、世間話のようにして軽々しく発表してしまうことがある。自分から発表しておきながら、それに対する反応に対してまるで無防備なことがあるのである。
とはいえ、軽率に発表してしまうからこそ言えること、知れるものはたくさんある。自分自身を観察している人々から軽率さが一切取り除かれたなら、みんな口を噤んで自分のことを発表などしないだろう。ものすごく親しくなって初めてそっと打ち明けられるというほどに秘められたものになってしまうかもしれない。
しかし別に自分のことは秘密ではない。そうやって秘めてしまうのはどこかまずいことではないかと思う。本来軽率に発表してしまえるほどあっけらかんとしたものだったはずなのに、熱量のギャップに気分を台無しにされることを避けて閉じてしまうのは、他の同類との出会いを難しくするし、早い話が「面白い話」が世の中から失われすぎる。
軽率さを敢えて残しながら、最低限のコントロールをしていく、そのことに尽きるだろう。
いずれにしても、このようなタイプというのは稀にいて、知り合えばおそらく互いに親近感を抱く。しかし意気投合して盛り上がるということには必ずしもならない。そもそも自分の観察の方に一生懸命であるし、相手の観察結果も慎重に注意深く扱うから、同じ空気を吸ってちょっと微笑む以上のことは起こらない場合もある。SNSで言えば「いいね」をつけるだけになることもあるだろう。
「ワタシトアナタ、ニテル!」と勝手に思ってそう伝えたいというようなことは時々あって、しかし実際にそう言うわけにはいかずにただ念を送っているみたいなことになるのだが、それ以上距離を詰めることなく見守っている時間というのが案外豊かなのじゃないかと思っている。
他人から見た像と本人の像が一致していない時、他人からは「自分自身のことが見えていない」というふうに思われる。
それは間違いとは言わないけども、本人の中には他人に見える形になっていないものが果てしなくあり、それを前提にすれば現状というものは必然的にそうなるという状態になっているはずなわけで、情報が「ない」のではなく「ありすぎる」ことによって起きているズレなんじゃないかと思う。
だから自分自身の情報を見せることで他人から見た像の方を変えて整合性が取れるようになる人が(特に近年では)たくさんいる。
まあもちろん、「自分自身のことが見えていない」と指摘したくなる状況というのは色々あって、明らかに自分の能力を高く見積もっているとか、抱えている怒りの正体を本人がわかっていなくて変なところに向けて暴発しているとか、そういうシンプルに困った迷走もある。
今回言いたかったのは、他人を単純に見て話を片付けようとしてはいけないのではということ。
親が国政に対して何らの意見も持たず、あるいは子に説くことをせずにここまで済ませてきたのだとすれば、一定以上の強さの主体性を持たない多くの子は国政について全く真剣にならずとも一向に不自由しないというふうに学習するのが当然だと思うけれども、なぜか「若者」という切り取られ方をして、ほぼ全ての若者に直接繋がりのある上の世代が存在しているはずであることは無視されているように思える。
ついでに言うと「若者」が何らかの傾向を持つという時、その傾向は大抵「既に若者ではない世代」からもう生じている。
「若者」の二文字が使われる時の「自分をもう若者とは思っていない人々」の無責任さに辟易している。
昭和初期の若者(学生)は話し方や書き方が今から見ると偉そうだなと感じられる。単に文体の流行りというのもあると思うが、少なくとも「偉ぶっている」結果なのではなく、「自分なりに毅然とする」という意識があったと感じる。
その意識がないといつまでも幼稚な物言いで、例えば人と話をした時に一文一文を完結できずに単語だけ投げて雰囲気を察してもらおうとするようなことが生じるのではないか。その意味で発話にだらしがない人は老若男女問わずそこここにいる。
書いていることは話すことができる――というのは言い過ぎだとしても、文字で表現し、それを見える形で残す習慣のない人は、その分だけ話す能力の成長が遅れやすいと個人的には思います。
「現実は厳しい」と特別思わずに済んでいる(脅されるほどは厳しいと感じずに済んでいる)人というのも世の中には結構いっぱいいると思うのですが、その現実は現実じゃないのかなと時々思う。
もちろん、「現実は厳しい」と言うことによって教えたいものはわかるし、生きていくために必要な教えだろう。しかし言葉として正確じゃないことを伝えてしまう以上は、そこから何か困った歪みは生まれるでしょうねという。
そもそも、夢見がちになるのは実際にある厳しくない現実を知ったからが多いんじゃないか。