総集編の続きです。
9月10月は多いので、10月の前半部分まで。
46:書き手のための小見出し
最初は「ずらずら長くなると読み手が大変だから」と思ってある種の親切心で文章を区切っていこうと考えたのだが、細かく見出しを入れるようになってみると、読み手がどうこう以前に自分が助かる感じがすることに気がついた。
何が助かるかというと、話が変わっていく時の「つなぎ」に余計な力を使わなくてよくなるということだ。
見出しを挟むと、そこで話の向きが変わるのは明らかである。変化が何もないところに見出しは置かれない。次の話の対象を見出しにすれば話の向きが大体伝わるし、結論を見出しにすれば次のまとまりのゴールまで伝えられる。話の流れのコントロールは非常に簡単になる。
単に勘違いや無知でかいた恥というのも多々あります。まあでも、「うわ~~~っ、恥ずかしい~~~~」と言っていられる程度の恥なら可愛いものです。自分が制御不能になったような黒歴史は、恥ずかしいというより恐怖の方が遥かに大きいのです。自分がいつ自爆ボタンを押すかわからないわけです。そのボタンは突然手のひらの中に現れ、気づいた時には押してしまっているのですから。
各テーマに対して、①何を理想だと思っているのか、②現在の心境はどうなのか、③理想と現実の乖離の原因は何か、④思いついたアイデアは何か、といったことを考えて書いている。そういう欄を作っているとかではなく、そういうものが含まれるように少し意識しながらフリーライティングした。
T13:脱「運頼み」の道のり
私の転機というのは、(中略)書き始める時点で全然解決していない自分の問題について書きながら考えることを自分に許したことにありました。
それさえ許せば、私は問題だらけの人間なので、なんだかんだ書けることが絶えません。
レゴブロックのようにカチカチ組み合わせる感じにはなりにくく、ドッと流れてしまうそのエネルギーの通る道を適切に設計するというのが、このタイプの人間が書く間に意識しなければならないことです。そして「流し直す」のが難しいというのも傾向としてあると思います。流し切るように書くタイプと言ってもいいのかもしれません。
49:作るためのツール作りから使うためのツール作りへ①目的の変化
最初のうちは、何かを思いついた時というのは具体的なコードを最初から最後まで細かく想像できるわけではないので、「本当にできるのか」というのはやってみないとわからない。実際、想像できなかった問題にぶち当たることもあるし、最終的に実現に至っても当初の予想とは結構違うコードになっていることもあった。その一連の「ある程度は予想できるけど実態については未知の領域」を探検する試みは、本当に楽しいし、次々思いついてしまうのでやめられない。
50:作るためのツール作りから使うためのツール作りへ②感覚の変化
自分の好きなようにデザインしたツールをあれこれ作っていく中で気づいたが、プロセス型にしろプロダクト型にしろ、アウトライナーというものが一番の大枠にあるツールではなく、色々な機能の中にアウトライナーの発想が包含されているような形式の方が自分に合っているのだと思う。つまり「○○型アウトライナー」よりも「××の中のアウトライナー的機能」という考え方だ。
51:作るためのツール作りから使うためのツール作りへ③力量の変化
正直ただ機能を作るだけなら割と簡単で、垢抜けないコードで良いなら基本的な処理をどうにか組み合わせれば結構色々なものを作ることができる。しかしアプリケーションに於いて重要なのは「起きてはならないことが起きないようにする」ということで、これが大変なのである。
T14:どうやって文章を書いているのか
この場合(=文章を書く手が止まった時)、次を捻り出そうと頑張りがちですが、しかし実のところ、「次に繋がらない道に一歩進んでしまった」ということがかなり多いです。なまじ文を作れてしまったのでもったいないのですが、それはあってはいけない文だったということがあるのです。
同じ時間推敲したとしても、推敲の出来自体もまたムラがあります。推敲力が下がっているタイミングだと、何度読んでもわかりにくさを自分では認識できなかったりします。日を置いて読み返して「何言ってるんだこいつは」と自分で思うことになります。
(システム手帳とは)その後も野良猫との交流のような付かず離れずの状態が続いた。十歳にもならないくらいからずっと持っているにもかかわらず、一向に仲良くなっていかない。しかしいつもすぐ手に取れるところに置いていて、何かに使えないだろうかと思い続けていた。
引用集や読書メモまとめなども綴じるつもりだ。ぎゅうぎゅうになってきたら如何にコンパクトにするかを考えるだろうし、省スペース化のために何回もまとめ直してエッセンスが凝縮されていったら面白いと思う。
何らかの工夫をしなければ昔の記事を読んでもらえることはまずないだろうし、「前に書いたので読んでください」と言ってもあまり面白みがないので、なるべく新たな価値を生みながら過去の文章を引っ張り出したい。活用可能なフレーズを作るというのはその点ちょうど良いのではないか。
56:流れで書けない時
(自分はどう感じるのかということは)問うてみればわかるが、問うてみないとわからない。問うたらわかるということが、問うてみないとわからない。つまり主観がしっかりしているということ自体が、それを発揮する瞬間に至らないとわからないのである。そして必然的に、主観が曖昧だということも問うてみないとわからない。
自分が何に対してどの程度活発に思考を巡らすかというのを、私は日頃「血流」でたとえて考えている。放っておくと血流は滞っていくが、「使えていない」とか「考えたことがない」といった自覚を持つとそこに血が巡りだす。
60:Denoを使い始めた
理解しなくても支障がないものだとしても、それがあると「理解できそう」という希望が生まれない、みたいなことというのがある。Node.jsのデザインは私にとって希望を生まれにくくする暗幕のようなものだったので、Denoの採用は大変に高い効果があった。
61:ファイルというモノから解放されて漸くデジタルがデジタルになった
結局問題は実際にごちゃごちゃしているかどうかではないのだ。ごちゃごちゃに対処するためには労力が必要だという予測こそが自分を苦しめる。
過去に作成したローカルファイルのごちゃつきはずーっと気になっていたことで、自分の認知資源をちびちび削り続けていた。しかしもう気にする必要のないことになった。
自分にはこれらをいつでもどうにでもできるという余裕が生まれ、何の葛藤もなく堂々と後回しにできる。むしろ、今やってしまうよりもっとスキルを得てからの方が良い結果になる可能性が高いわけで、なるべく後にやった方が良いとさえ感じている。これは非常に気楽である。
自己満足は自己満足として本気で徹底しなくては、読み手にとっても面白くなりませんよね。
見かける使い方というのが色々ある中で、全く見かけていないものを思いつくのは結構大変なことだ。自分が学習した「○○らしいやり方」にどうしても縛られてしまう。例えばアウトライナーは「アウトライナー」という名前でもう雁字搦めに縛られている人が結構多いと思う。例えばタグ機能は、他のツールとも共通する「タグらしさ」から離れがたい。
64:ファイル・フォルダ機能と仲良くなった(Dynalist)
アウトライナーでやりたかったことはいつでも「自分の意識を占めているものを可視化したい」ということだった。それだけではないが、それがいつも核にあった。「思い出し直す」ということが大きなロスに思えて、それがなくなるようにしたかった。
ノート欄にあれこれ書くと「重くなる」感じがすると書いたが、この場合はむしろ重くなって良いのである。私はここで色々考え事をしているぞ、というのがノート欄の存在によって未来の自分にも伝わるのだ。
思えば、Dynalistに限らず「タグ」というものとはなかなか仲良くなれなかった。常に先回りして「こういう分類があった方がいいんだろう」と頭で考えてやるから、手間ばかりかかって結局いまひとつ功を奏さない。後からタグを付け直すというのが非常に大変なのでタグを付けるなら最初からうまい具合に付けておきたい、という事情があるため、これはある程度やむを得ない話ではある。しかしついぞ「こういうタグが欲しかった」と思う瞬間が来ないので、いつまで経っても自分に必要なタグが結局なんなのかよくわからなかったりする。
これでめでたくDynalistと自作のツールが直線で結ばれた。ライフログがただただDynalistに溜まっていくだけになることはなくなり、記録しやすいものに記録し、管理しやすいもので管理する、という理想的な在り方に近づいた。これはかなり大きな変革である。
68:Chrome拡張機能を自分で作って活用する(Dynalist)
次が最後です。