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2025/04/23

メモではないマイクロノートの扱い

 Twitterのような短文投稿サービスは二つの意味で書きやすい。


 ひとつは「140字未満でオッケー」というケリのつけ易さ。もうひとつは「人に見られていると思うときちんと書きたくなる」という気持ちの面でのドライブ。これらによって、一定以上文章化が得意な人は果てしなく書き続けられるだろう。
 そしてTwitter系のサービスの良いところは、検索というフィルタリングをすると条件を満たすツイートがそのままの見た目で並んでくれること。内容を確認するためにクリックする必要はない。検索画面然としていないというのはそう当たり前のことではないと思う。
 そういったことが便利なので個人用のメモとして使うという人もいる。わざわざSNS風にデザインしたメモアプリもたくさんある。

 とはいえ、短文投稿サービスそのものは編集もできないし並べ替えもできないし分類もできないしで、ノートツールとして利用するのは心もとない。
 といって、Twitterに書いたことをTwitter以外で管理しようとすると、これが途端に難しくなる。Twitterに「意味のあること」を書き散らしてしまうタイプの場合、その後の扱いに困っているという人が少なくないと想像する。
 デジタルノートツールは数あれど、SNS的な短さの記述を大量に扱うに向いているツールというのが案外ないのだ。

 ひとつひとつにそれなりの意味が含まれているならばカード的なツールがいいんじゃないかと思うかもしれない。しかし短文投稿というのは何年か続けると万単位の件数になる。それら全てが意味のあるポストではないとしても、何百とかで収まるものではないのは明らかだ。
 何千件何万件のカードを、タイムライン的なビューなしに扱うのはちょっと厳しい。現状のカードっぽいツールだとTwitterのような一覧性はあまり伴わない感じがする。
 ひとつあたりの短さだけに注目して付箋ツールを使いたくなったりもするのだが、繰り返すが何千件何万件の世界である。付箋ツールでは一瞬で限界が来る。

 短文投稿サービスの良いところはもうひとつある。それは全てのポストに固有のアドレスがあることだ。URLを記述すればリンクが形成される。このことによって、ひとつの話題を一度に言えなくても後から結びつけて続きを書けるようになるので、「今言えることをとりあえず言う」ということがしやすくなる。また、ひとつのポストのURLを複数に貼れば、話題を枝分かれさせることもできる。
 ツイートを全部コピペしてテキストエディタに貼るとしよう。そうすると個々の記述はアドレスを失う。記述と記述の間に結びつきを作るのが難しくなる。そうなると話の流れというのは直接の並びによって認識するしかなくなって、SNS上にあるより不自由を感じることになる。
 よって、記述を個別に扱えて、他の場所から「あれ」と指し示せることは重要だ。

 ところで、この記述というのはなんなのだろうか。Twitterなんかに投稿する内容は人それぞれだろうから「SNSに書くもの」を定義することには意味がない。ここでは、あることについての説明や主張など、長期的に意味をなす短文について考える。
 これは「メモ」というよりは「ノート」だろう。後々より完成度の高いノートを作る過程で消費されていくかもしれないが、その作業をするかどうかはその人の志次第で、そこまでしなくても既にノートとして成立していると思う。
 しかしながら、その粒度の小ささと数の多さ、内容の種類の雑多さによって、いわゆるノート術がそのまま適用はしづらい感じがある。メモとも性質が違うのでメモ術も当てはまらない。
 日記をマメに書く人は、日記の中にこの種の記述が溜まっていくことになるかもしれない。日記に書いたという時点でそれは目的を達成している、と考えればそれ以上何もしなくてもいいが、もしもそれを「発展させていくもの」として考えるならば急に扱いが難しくなる気がしている。まず続きはそこに書くのか、それとも「続きを書いている日」の日記に書くのか。何の続きなのかをどうやって表記するのか。やりようは色々あるにしても、ちょっと頑張った工夫が必要な感じがある。
 この手の記述を、ひとまず「マイクロノート」と呼ぶことにしておこう。マイクロノートはそれひとつでもう完結しているかもしれないし、何十も連なるかもしれないし、何重にも枝分かれしていくかもしれない。SNSでは当たり前に見られる風景である。

 このマイクロノートを、SNSではない個人的なノートツールでうまく扱うにはどうしたらいいか。ひとつひとつにアドレスがあってほしいとなると、行単位でリンクを持つようなツール、つまりプロセス型アウトライナーのようなものか、ブロック単位でリンクできるNotionのようなものということになる。
 他にあるだろうかと考えてみるが、どうだろう、私も詳しいわけではないので断言することはできないが、いまいちこれというものは思いつかない。カード風のツールならある。しかしビューはTwitterのようには見やすくない。
 現時点ではプロセス型アウトライナー(私の場合はDynalist)が現実的かなとは思うものの、それは単に「行単位で扱える」という点に照らしただけで、構造化されていくとは限らない数千ノードを扱うのにアウトライナーが向いているとも思えない。無理ではないが、ドンピシャではない。
 Notionだと、ブロック単位でアドレスを持つものの検索結果がページ単位だから、やはりTwitterのようにはいかない。いっそデータベースで1レコード1マイクロノートの形にした方が検索という意味では良いが、コピペで一気に移すということが全然できなくなるので、テキストデータとして硬直的になり過ぎる感がある。
 どれも一長一短で、それよりSNSに分類機能と編集機能、まとめ機能があったらな、と思ってしまう。実際にそれらを実装してほしいかというとそういうことではないのだが、要するにTwitterがすごく画期的だったのだ。

 外山滋比古が『思考の整理学』で「手帖」「ノート」「メタ・ノート」の三段階のノートについて書いている。マイクロノートはそのうち「手帖」に書かれるものとおそらく近いと思う。「要点のみ簡潔に書く」とあるので、他人が読める程度に整えたツイートとはちょっと文の質は違うだろうが、例えば「明日不燃ゴミ出さなきゃ」的なメモとは別という意味ではだいたい一緒のものである。
 まず手帖に着想をどんどん書いていく。それには日付と通し番号を添える。通し番号があるので「このアイデア」と指し示すことができる。そして書いたらしばらく寝させて、後から読み返してまだ面白いものはちゃんとしたノートに植え替える。(つまり後日読んで意味を把握できるような文ということだ。)
 これと同じ手順をデジタルのマイクロノートでもなぞった方がいいような気はする。問題は、タイムライン状にただただ並んでいても手帖のようにはパラパラ見れない(気まぐれに適当なところを開くというようなことがしにくい)ことかもしれない。冊子をパラパラ見るというのは大量の記述を高速に捌けるし、アナログの記述ならおおよそどこに書いたかという記憶もしばしば残っているので、検索機能がなくても割とどうにかなる。しかしデジタルデータは「位置」の情報を使いにくいし、スクロールでの確認はパラパラ見るより遅い上に目が非常に疲れる。
 その不便さも相まってSNSに置いたままじゃなくてより扱いやすそうなどこかに移したいという気持ちにもなるのだが、しかし他のデジタルノートでもそれはなかなか解決できない。年ごとや月ごとに区切るくらいか。
 外山滋比古の手帖のように通し番号を振るならば、マイクロノートがそれぞれURLを持つ必要はなくなる。ただ、通し番号というのは書き換えができないアナログだからこそ几帳面にやっていられるとも思う。ツールを替えてノートの形が変わっても維持できるかというと微妙だ。できる人はいるだろうが、私は難しそうだ。

 結局未だ解決していない。理想の光景は紙の手帖にきっちり書いてそれが何十冊もバーンと並んでいるみたいなものだが、Twitterに書き込んだものをわざわざ手で書き写すのは馬鹿げている。
 いっそのこと、Wordか何かにマイクロノートを並べて自動でナンバリングした上で印刷してしまったらどうか、なんてことも考える。せっかくデジタルデータになっているのをわざわざアナログにするのかという感じだが、実際やってみれば悪くないような気がする。ただ個人的に、それをやる気にはなれないでいる。
 ちなみに自分でアプリケーションを設計することも考えてはいるが、メタデータが必要になる都合上、データの形式がどうしてもJSONなどの機械用のものになってしまって、普通にテキストエディタで外から編集できるような形にしづらい。もしスマートフォンから閲覧・編集したいとなったらスマートフォン用アプリも作らなきゃいけなくなってくる。現時点では厳しい。

 理想のデジタルノートはどんなものか。今日も悩んでいる。

2025/04/24 9:15 一部加筆しました
 

2024/12/18

B6バインダーを自作する(案)

 うちあわせCastを拝聴していて、B6サイズがちょうどいいのに汎用的なバインダーがないんだよね、というようなお話があった。


 私もB6は絶妙なサイズだと思う。普段A5を使っているけれど本当に手に馴染むのはB6だし、今使っているバイブルサイズのシステム手帳は外側のサイズがちょうどB6なのでなんとなく触っていて好ましい。(以前にも書いたことがある→「システム手帳×A6紙」というプチ革命
 中身がB6紙のバインダーとなると、外側はA5紙くらいのサイズになるだろうか。A5バインダーの横幅の広さと比べればそれでもかなり細身に感じられる気はする。

 B6のリフィルとかバインダーって確かに見たことないよなあ……と考えていてふと思いついた。A5バインダーを切っちゃえばいいのではないか?
 あまり立派なのは勿体ないし加工も難しいのでやめておくとして、百均に売っているようなややペラっとしたバインダーならカットしようと思えばできる。というか、かなり前の話だが『「超」整理法』に感化されて「超」整理手帳の真似事をしようとして、Z式バインダーを切って使っていたことがある。A4を四つ折りにしたのがちょうどぴったりになるように上も横も切り落としてしまったのだ(留め具で挟むための幅があるので実際の幅は三つ折りに近い)。その試み自体はまあお遊びのようなもので実用的というわけではなかったが、面白いことをやってみた感はあった。
 話を戻そう。A5バインダーを流用してみるとして、B6紙に自分で穴を開ける場合、上下の端は微妙なことになる。まず中央揃えで穴を開けた場合(綴じ具側の方に注目)

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 端の穴が半端に空いてしまう。雑さが気になる人はもうこの時点で「無理!」ということになるだろう。次にキリの良いところで穴を開けた場合。
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 紙の方は綺麗だが、綴じると位置が片側に寄るわけなのでちょっと気持ち悪いかもしれない。もしバインダーの幅を少しでも細くしたいなら、片側の空間を付箋などのスペースにあてて横幅をギリギリでカットするという手もある。
 なおB6紙用にカットする場合、バインダーの幅としてはやはりほぼA5になるだろう。A5紙と並べるとこうなる。左端はバインダーの背を立てた状態に合わせてある。
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 更に強硬手段に出るなら、A5リフィルを裁断機でB6の幅にカットして使うという手もある。この場合は別にB6にこだわらなくてもいいし、そうして自分の好きな幅のリフィルを強引に生み出すという選択肢はなくもない。裁ち落とした部分が勿体ないので余程強いこだわりがないとやりづらいが、いざとなったら安価に自分仕様のものを作れるには作れるということになる。
 毎日使うものであればちゃんとしたメーカー品を購入できるということはとても大事なことだし、なんでも自前で済ませればいいという話ではない。なによりこういう力技は他の人には薦められない。けれども頭の体操としてこういうことを考えてみるのも面白いし、実際にはやらないとしても考える中で得るものはあると思う。

 個人的には今現在用途が見つからないのと、リフィルの類の扱いには慎重になっていることもあって実践の予定はないけれども、いざとなればやれなくもないなという気づきは少し頭を柔軟にしてくれた気がする。

2024/12/16

手帳についての自分語りおよび来年の手帳・ノートのこと

手帳と私

「手帳とともにある生活」に漠然と憧れがあります。いや、憧れというより、そのようでなければ生活というものは完成しない、というような気持ちがあります。


それゆえ手帳を使うということをずっと試み続けていますが、「試み続けている」という状態から前進できている感じはしません。パートナーのような存在になっていかないのです。そもそもの話、自分が手帳に何を求めているのかが曖昧です。言うなれば、人を愛するイメージも人と暮らすイメージもないのに漠然と結婚した~いと言っているかの如き体たらくです。
かつて手帳が担ってきた役割というのは、その多くがパソコンやスマートフォンの中にあるアプリケーションに移っていきました。スケジュールもメモも連絡先も地図も、今となっては紙で扱う必要はあまりありません。デジタルだと電気とインターネットの状況、デバイスの健康状態に左右されるという理由で「念の為」紙にも情報を用意しておくということはありますが、デジタルでやれるならデジタルでやるという方が多くなっています。
「手帳とともにある生活」に近づけるために、これまで手帳の役割を増やすことを考えていましたが、それはつまり、既にデジタルでやっているものをわざわざ紙の手帳に戻すということになります。手帳がなくても回っている生活に、手帳を使いたいがために変更を加えるということです。このように言い表すと土台無理なこと(あるいは余計なこと)をやろうとしている感が滲み出てきます。

ところで、現時点で手帳を全くまともに使えていないのかというと、実はそんなこともなく、バイブルサイズの6穴システム手帳に自前のA6紙をセットしたものをずっと使っています。むしろほぼ毎日開いています。
しかしながら、それでも「手帳とともにある生活」を送っている感覚はありません。このシステム手帳の役割は「参照」に限られていて、サッと確認できなくてはならない各種の情報や、あるいはWindowsのショートカットキーや正規表現の書き方など画面の外にあると嬉しい情報といったものを入れています。ほぼ毎日開いてはいますが、新たに書き込むことは稀です。つまり、対話がないのです。
やはり「ともにある」「パートナーである」という感覚のためには対話が必要でしょう。実際にはあくまで壁打ちの壁であって対話相手は自分自身であるにしても、過去の自分を保存し未来の自分に向けてそれを放ってくれることで対話を成り立たせる、その役目を担ってくれるかどうかが「パートナー」と言えるか否かを決めているように思います。
ここで、二つの選択肢が私の中に生まれました。ひとつは、手帳にパートナーとしての役割を担ってもらうこと。それは私がずっと手帳に対する憧れとして抱いてきた道です。もうひとつは、パートナー感に飢えることをやめ、「参照」のために使うと割り切ること。イメージとしては最強の「生き字引」になってもらうことです。
いやそもそも生きてないしそれはただの字引だろう、というツッコミが入るに違いありませんが、手帳を最強の字引にするには私が育てなければなりません。現時点の私の手帳はまだまだ頼りないものです。その意味で手帳には生きもの的側面があり、やはり単に字引というよりは「生き字引」のイメージがより相応しく思えます。
そして、私は後者を選択することにしました。対話相手は既に別のアプリケーションが務めてくれています。なんとなく、無機質なデジタルツールをパートナーとは思いにくいところがありますが、幸い最近は特定のアプリケーションへの愛が深まっています。今ならそれらをパートナーと表現して構わないと思え、そうであれば無理して手帳をパートナーにしなくてもいいだろうと。同時に、「生き字引」として傍に控えていてくれるイメージを持つことで「手帳とともにある生活」として納得がいくのではないかと思うに至りました。

来年の手帳・ノート

ということで本題です。来年は以下のような編成でいこうと思っています。

  • アナログ
    • バイブルサイズ6穴システム手帳
    • A5サイズ綴じノート(無地)
    • B5サイズWリングノート
  • デジタル
    • Capacities
    • SoulLinkMap
    • Dynalist
    • Googleカレンダー

ノートとしては基本的にA5サイズのノートを使っていますが、これはどうにもデジタルでは表現しがたいことを手で書く(描く)ためのもので、使用頻度はそれほど高くありません。今のところタブレットを使っていないため紙のままになっているのであり、ゆくゆくは消滅する役目かもしれません。
他に雑学的なものをメモする雑記帳として、ページ数の多いB5ノートを用意しています。以前は小さめのノートを使っていたことがありましたが、この用途では紙面が小さいことには何もメリットがないと気がついたのでB5サイズになりました。デジタルツールのどれかに書くことにしようとしていたこともあったものの、検索するよりパラパラ見られた方が良く、デジタルである必要が全くないのでデジタルツールから引き上げました。
デジタルツールについては、スケジュールはやはりGoogleカレンダーに頼ることとして、それ以外の個人的なメモおよびノート要素はCapacitiesSoulLinkMap、Dynalistの三つのアプリケーションに担ってもらうことにします。この形態はつい最近確立しましたが、三本柱として私の中で非常に納得感があります。(ツールの話は個人サイト内で諸々書いています。)
三つの役割を書き表すとこのようになります。

  • Capacities
    • 日々の拠点にする(デイリーノート)
    • タスクおよびプロジェクトを管理する
    • 「あれ」と指せる類の情報を保管する
  • SoulLinkMap
    • 文章で説明するほかないもの(考え、アイデア、概念等)を収集・編集する
  • Dynalist
    • 文章を書く
    • URLを保存する

例えば読書メモ、Web記事のメモ、自分が思いついたことのメモ、といったものは全てSoulLinkMapに取ります。所謂「勉強」もSoulLinkMap上でやっていこうかと思っています。
このような感じです。未だ嘗てなくスッキリとした気分でいるので、少なくとも手帳・ノートに関しては気持ちよく新年を迎えることができそうです。

2024/04/05

角2封筒で物理的に粒度を調節する

 古いノート・メモを年ごとに角2封筒に突っ込んだらスッキリしたでは、形式が不揃いなメモ・ノート類を角2封筒に放り込むことで規格化したことを書いたわけだが、ポイントは以下の二点になるだろう。

  • 角2封筒という規格で統一した
  • 取り出したいタイミングを基準にしてまとめた(この場合は年単位)

 もうひとつ、前記事では強調しなかったポイントがあるので、今回はそれについて書いてみる。


 角2封筒で統一する、つまり「揃っていないなら角2封筒に突っ込む」という力技は、自分の中に湧いてくる余計な整理欲を問答無用で切り捨てつつ、自然と実際的に有効な粒度での管理を可能にする(と思う)
 というのも、デジタルと違って封筒は内容物に応じて物理的に様子が変わるからだ。少ししか入れなければぺたんとして軽いし、大量に入れれば分厚くなって重くもなる。みっちり入れると片手で取り出すのがやや辛い重さになる。
 前記事の文脈では、封筒は丈夫な紙でできているからペラペラの紙に留まらずノートまでもを突っ込んでしまえる、ということを強調したが、しかしながら丈夫だからといって詰められるだけ詰めるのが正解というわけではない。

 重要なのは、取り回しが楽な範囲で管理することだろう。パンパンに詰め込んだ場合、重くて取り出しにくい上に中身も出しづらい。そしてゆとりがないと内容物の確認のためにはいちいちすっかり出してしまわなくてはならない。それはひとまとめの粒度が大き過ぎる。封筒をケチってはいけない。
 年単位でまとめたら捗ると言っても、一年分を一袋に入れてしまわなければならないということではない。一袋で差し支えない場合は一袋でいいし、紙が大量にあるなら何らかの基準で分割すればよい。
 逆に、あんまり細かく分割するとそれもそれで大変になる。クリアホルダーならまだしも、紙の封筒の場合は中身の確認に一手間かかるわけで、ひとつの作業のためにいくつもの封筒を参照しなければならないとなると面倒である。
 やはり前回書いたように、「逆さにして全部ガサッと出す」ということができるくらいの粒度が良いだろう。それなりには入っているが、取り出すのに苦労はしない程度、机の上に広げられる程度の量であるということ。
 自分で封筒を手に取った時にちょうどよいと感じる粒度が、情報の管理上もちょうどよい粒度なのではないかと思う。物質的な感触を基準にして決めるというのはアナログならではのことだ。[1]

 不揃いなメモ・ノートを封筒を使って管理する際のポイントとなるであろう点をまとめ直してみよう。

  • 角2封筒という規格で統一する
  • 形式的分類ではなく取り出したいタイミングを基準にしてまとめる
  • 物理的に取り扱いやすい粒度でまとめる

 要するにこれは、放っておくとそうではない形でやろうとしてしまう自分への戒めである。規範意識の暴走を防ぐための自分用三ヶ条が今できたということだ。


  1. もちろん、客観的な基準が明確な書類はその限りではない。そういうものは「山根式袋ファイルシステム」や「押し出しファイリング」を実践することにして、それに相応しい単位で扱うのが良いだろう。 ↩︎

2024/04/04

古いノート・メモを年ごとに角2封筒に突っ込んだらスッキリした

 紙のノートについての自分語りの続きのような話。結論としてはタイトルに書いたことが全て。


 何ヶ月か前に、過去のメモ・ノート類の整理をした。上記の記事の時点で「一箇所にまとめる」ということは完了していたので、その上でより納得感のある形にすることを試みていた。
 時期によって規格がばらばらなのは過去記事に書いた通りで、ノート的なものをコピー用紙などのペラ紙に書いていることもしばしばある。自分のブームがかなり短期間で移り変わってしまうので、「この年はこの形式」みたいにキリの良い期間で綺麗に分かれるわけでもない。
 前はサイズごとに扱っていたので時系列がよくわからなくなっていたのだが、やはりメモ・ノートの整理の大前提として時系列に並んでいる必要があると思う。自分のテーマとしてはっきりしているものはテーマごとでいいが、それにしてもそのテーマ内ではやはり原則として時系列で整理されているべきだろう。
 ただし時系列といっても絶対に日時順を厳守するということではない。どの程度順番が厳密であるべきかは内容にもよるだろうが、個人的なノートはとりあえず何年のものかくらいはわかるようにした方がよさそうだと考えた。「2023年の箱」みたいなものにその年の分が入っていて、箱の中の順番はあまり気にしないでおく。

 きちんとしたノートに書いているならば箱やブックエンドで区切った空間に立てていくだけで済むのだが、既に書いたようにぺらぺらな紙に書いているパターンもかなりある。穴を開けて綴じたり括ったりしていることもあるが、それもしていないこともある。そのままでは立てておけないので、何かしっかりしたものに入れなくてはならない。
 そこで活躍するのが角形2号封筒だ。「山根式袋ファイルシステム」や「押し出しファイリング」でお馴染みのA4大の封筒である。とりあえず年単位の封筒を用意し、全部突っ込んでいく。小さいメモはクリアホルダーに挟むなどして、そのクリアホルダーごと封筒に入れる。クリアファイル(40Pなどのもの)に入れているような紙も、そのファイルが現在アクティブでないなら全部ファイルから出して封筒へ移動した。
 ノートも薄いものは一緒に封筒に入れた。丈夫な紙でできているので結構な容量になっても耐えられる。
 こうすることで、それなりの量の紙で膨らんだ角2封筒と、封筒には入れられないくらいのしっかりしたノート類とにメモ・ノート類がまとめられたことになる。見た目としてはかなりすっきりした。

 この一連で何が行われたことになるのかというと、メモ・ノートの管理上適当でない形式的な規格化から、体感として納得し得る規格化に変更したということだ。サイズ基準の整頓にはあまり意味がないにしても、明らかに小さいものと明らかに大きいものを一緒に扱うのはなかなか面倒である。角2封筒はそれを強引に成立させている。
 全部ただ突っ込んでいるので封筒の中は綺麗ではない[1]。しかし個人的なノートに関して言えば、実際取り出す時は「2018年頃って何考えてたんだっけな」みたいな流れで探すことになっているので、なんでもいいからとにかく一箇所にあればそれで事足りる。
 例えば「ノートの使い方に関する自分の思索の変遷」みたいなことを辿るとすれば、それ用のノートを作っていたのでない限りは、年単位でごちゃごちゃと入っている中から漁って確認することになり、如何にも効率が悪い。が、年単位でごちゃごちゃと入っている中を漁るということは、実のところ事前に想像するよりは簡単に済む作業でもある。それ以上の効率は必要なのかどうか。

 もちろん仕事の資料や事務的な書類はきちんと整理しておかないとまずいが、そういったものは大抵整理の基準が明確なので(時間さえ取れれば)簡単である。一方、個人的なノートは自分の関心の分だけ記述に種類があるので、整理しようと思うと何をどこまでどのようにやるか決めるのに苦労する。ルールを設けると維持するのは楽ではない。その上、おそらく几帳面に整理してもそれに労力を使った甲斐はそれほどないだろうと思う。
 なので、もうまとめて角2封筒に突っ込んでしまい、見返したい時は封筒を逆さにして全部ガサッと机の上に出す。整理したい気分になったらその都度整理する。整理されていないと成り立たないような保管方法は維持が大変なので、整理してもしなくても大勢に影響がないのは重要である。整理を必須にすると、その条件をクリアするために形式的に整頓だけして自分の必要には沿っていない、ということが起こり得るのだ。
 このずぼら極まる保管方法は非常に楽だが、封筒に入れてしまうと「さっと取り出してぱらぱら見る」みたいなことは難しくなるので、十分に時間が経ってアクティブでなくなったものをまとめるようにしている。また、繰り返し参照するようなものは必要に応じて別途参照用のノートに書き出しておく。要はアーカイブ扱いのものを封筒に入れているということだ。

 様々な形式で書いたものが封筒というひとつの入れ物にまとめて収納されている状態は、私にとっては思いのほか気分が良かった。こんなにもめちゃくちゃにノートを書いてきたのにそれが全部ひとまとめになっている、ということになぜだか感動を覚えた。きちんとバインダーに綴じたりノートに紙片を貼ったりして集約するよりむしろ「ひとまとめになっている」感があるのだが、多分そうやって変形したりせずに元の形のままであることを許容しているからだろうと思う。(そう感じるのは私だけかもしれない。)
 理想を言えば、デジタルで書いたものも全部紙に印刷してこの封筒にまとめられたら安心できるのだが、それはさすがに現実的ではないだろう。角2封筒の役割を果たすデジタルツールがあればいい気はするものの、現状イメージに合うツールはない。年単位で括ることはできても、「逆さにして全部ガサッと出す」的な操作が既存ツールでは難しい。ファイル名やページ名が並んだリストはちょっと違う。
 VR空間を使わない限りはデジタルではそもそも無理な気もするし、「こういうのがあったらいいのに」と思ってもそれをいざ実現してみると「思ってたんと違った」ということになる可能性はかなり高い。理想のデジタルツールを求めるよりかは全部紙に印刷してしまう方がいくらか現実的かもしれない。
 デジタルの話はまあいいとしよう。角2封筒を使い、ピシッとした整理を諦めて雑にまとめてみたことにより、逆に読み返しが気分的に楽になったのが面白いところで、やってみなくちゃわからない種の現象だなと感じている。


  1. クリアホルダーを駆使するなどすればある程度綺麗にすることは可能である。私は敢えてやらないでいる。 ↩︎

2024/02/04

じゆうちょうノート術(仮)⑤インデックス

 前回までの記事はこちら。


 今回はインデックスの話をします。一番最初の記事でも少し触れましたが、インデックスというものをどう解釈するのかについてより詳しく書いていきます。
 また、この先の内容には関わりませんが一応の前提として、私のインデックスは「見開き単位でノートを作ることにしたので先頭1ページが空いているから」という理由によって発生しています。インデックスの効能というのは色々ありますが(そしてそれを今から書きますが)、それでもその程度の軽さで存在しているものだということはちょっと留意しておいてください。

実例と恒例のパターン

 最初の記事にも貼った実例をもう一度掲載します。

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 ちなみにこれは右下に「8」とあるように、今使っているノートの見開き8番目のページに書いて作ったサンプルです。前後の見開きは全然関係ない内容になっています。こういうものが唐突に挟まっていても構わないのがじゆうちょうノート術です。
 さて、書き方の恒例パターンをまとめておきます。(あくまで恒例のパターンであり、「決まりごと」ではありません。)

  • 最初の1ページ目に書く(1ページ目のみ使う)
  • 左側上部に「INDEX」と書き、右側上部にノートの使用期間を書く
  • 左端に見開き番号を書く
  • 左半分に左ページの内容、右半分に右ページの内容を書く
  • 続きなら矢印(→/↓)を書く
  • 内容の頭には四角囲みで漢字一字の分類を書く
    • 生:生活に関すること、ライフログなど
    • 知:知ったこと、調べたこと
    • 思:思考したこと
    • 読:読書ノート
    • など(適宜作る)
  • 必要に応じて分類の四角内または内容部分をマーカー等で彩色する

 書き入れるものとしてはこのようになっていますが、重要なのは書く内容より書くスタンスの方だと私は考えています。

書き入れるタイミング

 私はインデックスへの記入は少なくとも見開きの10番目くらいまで進んでからにしています。ノートが1ページ進むごとに几帳面にインデックスを更新する、というのは、そうしても構わないのですが(使い方は自由なのです)、私の場合はそれがプラスに働かないのでやらないようにしています。
 というのは、そのような几帳面さを発揮してしまうとノート全体を雑に使うのが難しくなってくるからです。囚われが酷い場合には「インデックスを作るに相応しいページにしよう」という発想も生まれかねません。
 子どもの頃に「じゆうちょう」を使っていた時、インデックスを作ろうとしたり「相応しいページ」を考えたりした人はあまりいないと思います。自分で自分の自由を奪わないように、「こうしたら良さそう」という一見ポジティブなアイデアにも慎重になることが肝要です。
 なお、私は規範性が自分にとって邪魔になりがちなので避けていますが、むしろそうした方が捗るという人は構わずそのようにしてください。判断基準はあくまで自分が自由でいられるかどうかです。

書き入れる文言

 インデックスを見ただけでたちどころに内容を全部思い出せるように的確な文言をスパッとビシッと書いてやろう、というふうには思わなくていいです。おそらくどう頑張ってもそれは無理なのです。
 インデックス作りに囚われないために重要な大前提がひとつあります。それは「インデックスとにらめっこして内容を思い出すよりパラパラめくった方が早い」ということです。ノートがよっぽど大量でなければ、インデックスはなくてもどうにかなるでしょう。
 インデックスという小さい欄では「何をどのように書いたか」を示すのは困難です。でも「何について書いたか」は表示することができます。例えば「○○という本について」とか「正規表現について」といったようなことです。考え事なら「ノートの書き方について」というような感じです。
 そのページで何をどう考えたかまで要約しようとしても、おそらく時間が経ってしまえば結局わけがわからなくなってしまいます。前後の流れが肝心なこともあるでしょう。なのでインデックスは適当なくらいで良いと思います。
 経験上、後からノートを探す際に必要な情報は「何について」の部分です。例えば読書ノートを探しているならば、その書名が書いてあることが唯一必要なことです。インデックスはなくてもどうにかなると書きましたが、インデックスに書いてあればもちろん探しものは格段に早く済むでしょう。

インデックスを作るのは何のため?

 今述べたように、インデックスがあれば後から記述を探しやすくなるという利点はもちろんあります。ないよりはあった方が便利です。
 ただし、実際どの程度活きるものなのかはちょっと考えてみた方がいいかもしれません。例えばこういう自問をしてみます。

  • そんなに探しものをするのか
  • それは一瞬でズバッと探し当てたいものなのか
  • 付箋をつければいいのではないか
  • デジタル化した方が早いのではないか

 インデックスはないよりあった方が便利なのは事実としても、どれほど几帳面にやるべきかはノートの使い方の実情によって変わってきます。もしも「後のことを考えて」インデックスを作ろうとしているのであれば、これまでの経験上何があってほしかったのか自分に問うてみるのが有効性を高めるポイントになると思います。
 インデックスを作る理由は「後から探しやすくするため」だけとは限りません。まず「気分が良い」ということがあり得るでしょう。役に立つかどうかはさておき一覧を作るのは気持ちが良いのだと思うのなら、それだけでインデックスを作る理由として十分です。

振り返りとしてのインデックス作り

 私にとってインデックス作りの理由はもうひとつあります。それは「振り返り」です。振り返りと言っても反省するという意味ではありません。もっと単純に、最近の自分は何をしているのかを把握するということです。
 上の方で書いたように私はある程度ノートを書き進んでからインデックスを作りますが、その理由は規範性への囚われ回避に加え、ちょうどいいタイミングで振り返りの機会を設けるためです。
 インデックスを作る時、そのページに紐付ける文字列を考える必要があります。これを「タイトル」と呼んでしまうとちょっと適当でないので、あくまで「ページに紐付ける文字列」としておきます(タイトルっぽくなくてもよいのです)
 で、どんな文字列にするかを考えるには、そのページの内容がどのようなものでどんな意味を持っているかを確かめる必要があるでしょう。頑張って要約的な言葉をひねり出そうとはしなくていいのですが(前々項で書いたようにその努力は意味をなさない可能性があります)、これはつまり何についてのノートかというのがわかるとインデックスとして有効な文字列を作りやすくなります。そしてその過程で、自分は何のために何を考えてきたのかを思い出すことになります。
 几帳面に1ページ進むごとにインデックスを更新していくと、振り返りの機会は別に設けることになります。そして振り返りの際に何をするのかが曖昧では、「やった感」がいまいち生まれないので私はやる気が起きません。ただ漫然とノートをめくって見直しても脳が刺激されませんが、振り返りを通じて改めて何かを書くというのもちょっと大変です。その点、「インデックスを作る」という作業が振り返りを兼ねていれば、インデックスを作った時点で必然的に振り返りが完了しているので流れとして自然になります。

まとめ

 インデックスは「作らなければならないもの」ではなく、なきゃないでもまあそんなに困ることにはなりません。
 あった方が後々便利なことは確かで、どうせなら作る過程を活かして振り返りをすると、自分がノートとともに何を考えているところなのかが整理されて頭がクリアになるかもしれません。
 

2024/02/01

じゆうちょうノート術(仮)④読書ノート

 前回までの記事はこちら。


 無地のノートの四辺に印をつけて16分割できるようにする、ということを前回書きました。
 これは「じゆうちょう」ですから好きなところを好きなように区切ればいいわけで、この印に従って線を引かねばならぬというものではありません。でもガイドがあるとカオスになりすぎないという利点はあります。
 私の個人的な性質として、ガイドにできるものが多いと(例えば方眼罫)、それを活かそうとしすぎてしまうということがあるので、あくまで無地のノートにこだわっています。一方で、そのように「ガイドがあればなるべく従いたい」と思う程度に秩序好きな面があるということでもあります。間を取って、やろうと思えば4列×4行をぴしっと作れる、というゆるめのガイドを活用しています。

 さて補足はこの辺にして、じゃあ具体的にどうしているか。今回は読書ノートの取り方を書いてみます。
 例えばコマ割りはこのような感じ。(一度手書きで書きましたが字が汚かったので打ち直しました。)

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 左上の1マスに本の情報を記入します(2マス分以上使ってももちろん構いません)。あとは書き抜きやメモの量に合わせて必要なマスを作って書きます。線で区切っていると、隣あった内容の間に繋がりが全然なくてもあまり気になりません。
 引用は長くなりがちなので横長2マス分になることが多いですが、単語のメモなどは1マス分あれば足りるので、そのような知識系のメモが多いタイプの本ほどマスは細かく分割されています。

 もうひとつ実例を貼っておきます。

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 左ページは書き抜きごとに線で区切っていますが、右ページは「知的生産の定義」に関わる部分をゆるくまとめたものという感じで、どこも区切らずに書いています。細かいマスだらけにしてもいいし大きく1ページで書いてもいいのです。大事なのは気分です。
 区切って書くと各マスにゆとりが生まれるので、ページあたりの記述量は減ることが多いです。逆に、区切ることで隣との隙間なくみっちり書き込んでも気になりにくい面もあるので、むしろ増やすことも可能ではあります。マスというものの解釈次第でノートの雰囲気は変わるでしょう。
 罫線のない無地であることで、マスの中の密度は全く自由に決められます。大きい字で何文字かだけ書いたマスの隣が極小の文字で埋め尽くされていても問題は何もありません。
 各マスに余裕があると、そこに自分の感想や考えを書き込みやすくなります。埋めないともったいないような感じもしてきて「この引用部分にコメントを付けるなら何か」と考えたりもします。後で加筆できるようにと漠然と余白を取るとその空間の必然性のなさが気になってしまうのですが、このようにガイドに合わせて区切ると「この謎の空間が気になる!」ということにはなりません。

 ちなみに、見開き単位でノートを作ればいいので、ある本についての読書ノートを最初から最後まで全部続けて書こうとする必要は全然ありません。他の本についてのノートが挟まってもいいし、読書ノートではないものが間にあっても構いません。続きは何番にあるのか、何番からの続きなのか、を書いておけばいいのです。
 考えてみると、巻物のように全部広げて見られるならともかく、ノートはどう頑張っても見開き単位でしか見られないわけですから、続きの内容がすぐ次に書いてあろうが離れて書いてあろうが割とどうでもいいことですよね。
 

2024/01/28

じゆうちょうノート術(仮)③16分割レイアウト

 前回までの記事はこちら。


 じゆうちょうノート術(仮)と称しているこの使い方は、ノートの罫線に縛られない(罫線があるとそれに従おうとしてしまう己の心に縛られない)ために無地のノートを使っています。決まったフォーマットも作りません。
 とはいえいつも無秩序で行き当たりばったりなのが良いというわけでもありません。境界によって領域が区切られていた方が良い場合もあります。

 そんなわけで、このノートには四辺に境界線のガイドを付けています。

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 はっきり見えるように大袈裟に記していますが実際にはもっと控えめです。なお以前には印刷していたことがありましたが(前記事に書いた両端の線と一緒に)、今はマッキーで小口と天地をちょちょっと塗るだけで済ませています。
 四辺に付けられたガイドにそって線を引けば、見開きを最大4列×4行=16分割できるようになっています。
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 4分割で使っていることもあれば……。
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 変則的に区切っていることもあります。
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 先に区切っておいて書き込むこともありますが、書きながら区切りたいところで区切っていることも多々あります。もちろん前記事の例のように全然区切らないページもあります(ここ数年はどこも区切らないページの方が多いです)

 区切って使うのはどんな時か、例を挙げてみます。

  • 【4列4行】思いついたものをとりあえず書き込むInbox的メモ
  • 【4列4行】16マス埋まるまでアイデア出し
  • 【4列1行】バーティカル手帳風スケジュール(4日分)
  • 【2列4行】名言集
  • 【変則分割】読書ノート など

 活用法は無数にあるでしょう。次の記事でいくつか具体的に書いていきます。
 

2024/01/24

じゆうちょうノート術(仮)②中身の書き方

 前回の記事はこちら。

2024/01/21

じゆうちょうノート術(仮)

 こちらの記事を読みました。

 私のノートもまさにこんな感じになっています。


 かつてはテーマごとにノートを用意してということをやっていましたが、まともに継続できたためしがなく挫折感を増すばかりだったので、だんだんと一冊に統合するようになっていきました。一冊にまとめようと決めたというよりは、「必要になったら後でノートを作って転記しよう…」と思いながらとりあえず雑記帳に書いてそのままになっているという感じです。
 加えて私は無地にこだわっているので、自分のイメージに合った語彙を選択する意味でも「じゆうちょうノート術」と呼ぶことにします。メソッドとして形ができているわけではありませんから「じゆうちょうノート術(仮)」としておきましょう。

経緯

 私の場合の元ネタはバレットジャーナルです。バレットジャーナルそのものというよりは、バレットジャーナル界隈で常識になっていたことと言った方がいいかもしれません。もはや「バレット」は全然関係ないからです。
 ページまたは見開きごとにその都度役割を持たせ、冒頭のインデックスページに各ページの内容が何なのかを書いておく。と言っても、それだけならバレットジャーナル以前から普通にあったことでしょうし、インデックスページが備えられている大学ノートもあります。
 バレットジャーナル界隈で流行しているノート術のキモは「1冊のノートに多様なフォーマットが同居する」ことにあります。フューチャーログ、マンスリー、ウィクリー、トラッカー、ウィッシュリスト、各種の○○リスト、といった様々な役割のページのフォーマットを、それぞれの内容に合わせて自分で作るわけです。必然的に各ページは全然違う見た目になります。基本的には本来のバレットジャーナルのページの合間合間にこういった特別なページを必要に応じて作っていくので、互いに連続性を断ち切るような形でノートができていくことになります(几帳面な人はそうではないかもしれませんが)
 月末には翌月の分のフォーマットをきっちり作ったりしますが、前月までのフォーマットの具合を省みて改良していくことになるでしょうから、毎月全く同じ見た目にするとは限りません。最初は毎月作ろうと思っていたページや欄も、うまく働いていなければやがて除去されることになります[1]。時間があれば凝ったものを作り多忙なら簡素になる、という変化もあり得ます。自分に必要なフォームとは何なのかを自問自答し続けるノート術と言えるでしょう。
 とはいえ私の場合は、フォーマットを作るために行を数えたり線を引いたりする手間を費やすのが無理になってきて、バレットジャーナル界隈で定番になっているような方式のノート作りは途中で(割と早いうちに)やめてしまいました。しかしながらそういったノートの使い方の精神は私の中に残りました。
 奥野宣之著『情報は1冊のノートにまとめなさい』やモレスキンブーム、ほぼ日手帳ブームなどの影響も受けてはいますが、それらを直に取り込んだというよりは、バレットジャーナル界隈に染まった後に紆余曲折を経て最終的にそれらと同じ形になったと言った方が良さそうです。全てのものをタイムライン式で一冊に書き込んでいくという発想より、見開きごとに色々な要素があって良いという発想の方が私に強い影響をもたらしました。

インデックス

 先ほど「冒頭のインデックスページ」と書きましたが、倉下さんの記事では以下のように語られています。

まずノートは、先頭のページから書き込んでいきます。よくある使い方として先頭の数ページを『目次用』として空けておく使い方がありますが、それをしないわけです。
目次ページを作っておくと利便性が上がるのですが、その代わり「きちんと書いていかないと」という気持ちも同時に高まります。
 これは私もそう思います。私の使い方としては、単純な話、見開き単位にすると先頭の1ページが余るので、じゃあそこにノートの中身を書いておくか、という感じです。目次のために取っておいたのではなく、使わない場所なので目次にでもしよう、という順番です。
 具体的にはこのように目次を作っています。(これはサンプル用に作った目次ですが実際にこのようなページがどこかにはあります。)

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 このノートはA4のコピー用紙15枚を折って留めただけのもので、見開きが29あります。A5縦の長さはやや小さめの字で書けばちょうど30行くらい書けるので(1行7mm)、目次は1ページに収まります。縦に薄く線が引いてあり、左半分が左ページ、右半分が右ページの内容です。見開きを単位としつつ、左右で別の内容があっても構わないようにしています。
 ただのコピー用紙なので見ての通り罫線がありません。多分そのことが要因として大きいのですが、このノートには全然「きちんと書いていかないと」感が発生しません。以前普通に罫線があるノートにインデックスページを作った時は「今このノートに何があるのか」が妙に気になっていました。倉下さんのご指摘の通りです。
 今のところ、このインデックスはノートを半分くらい使ったあたりに「そろそろ書いとくかあ」と思って振り返って書き始めることが多いです。欄自体はノートを作った時点で準備しますが、しばらくそのまま放置しています。一方できちんと罫線があるノートに書いていた時は、新たなページに進むごとにきっちりインデックスを更新していました。そうすることで少しでも達成感を得て自分を慰めようとしていたのだと思いますが、長期的に見るとそれは私にとってプラスには働いていなかったようです。
 ちなみに、見開き単位でいくと最後の1ページもあぶれます。これをどうしているかというと、どうもしていません。白いままです。書かないと決めているわけではないので気が向いたら何か書くでしょうが、埋める必要もないので特に気が向かなければそのまま次のノートに移ります。昔はそこに、そのノートについての振り返りや次以降も引き続き考えたいことを書いたりしていました。

内容

 書いている内容は色々です。とにかくノートをテーマごとに分けようとしないことを重要視しています。
 例えば読書ノートの取り方に思いを巡らせてみたりすると、一念発起して専用ノートを用意してびしっといい感じに書き込んでいきたくなるのですが、そう思った時は「血迷うな!」と自分を止めます。
 もちろん専用ノートを作れた方が、情報を探しやすくまた見た目も良くて理想的です。そうできる人はそうした方がきっと良いと思います。しかし私はそれをやりだすと絶対に挫折するので(幾度となく挫折してきたので)、そういう身の丈に合わない欲を出してはならぬと戒めています。それでも時たま「やっぱりこれは分けた方が…」と思ってノートを作って案の定失敗するのです。
 ちなみに読書ノートのページは写真を撮ってパソコンやスマホで見られるようにしています。ノートの全ページをデジタル化できたらそれが良いのですが、実際に必要を感じるのは読書ノート部分だけなので、手間を考えてとりあえず写真を撮るのはそれだけに限っています。
 また、後から参照する種の情報はバイブルサイズのシステム手帳に転記しています。

実態

 じゃあ毎日活発に使っているのかというと、毎日何かしら書いている時期と全然書いていない時期とが交互にあるという感じです。
 以前なら「書いていない」ということの原因はノートの使い方にあることが多かったのですが、最近要因になっているのはデジタルツールとの兼ね合いで、単純に紙を使う気分になっていないから使っていないというパターンがほとんどです。使わないでいると使い方がわからなくなってくるので、再開には自問自答が必要になったりします。

 アナログツールとしては今のところ、このガワも中身もテキトーな作りのノートとシステム手帳の二つを使っています(後はスクラップ用のリングノートがあります)。過去に作ったノートはハードカバーやらダブルリングやらバインダーやら形態もサイズも色々ですが、結局一番有効に使えているのが「コピー用紙を折って留めただけ」のものなので、この先もこのテキトーノートを使い続けるでしょう。現時点で20冊以上使っていると思います。
 このノート術(仮)については書こうと思えば書けることがまだあるので、シリーズ的にちょこちょこ書いていこうかと思います。

関連


  1. 没にしたページに大きくバツ印を書いている人も見かけたことがあります。そして何事もなかったかのように次のページは作られていきます。 ↩︎

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