ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第十二回。過去の回の記事はブログの書き方ド下手問題からどうぞ。
文章が複雑化すると面白くない。その解決について。
今年の自分の投稿記事を最初からずーっと読み返してきて上半期の分を読み終えたところなのだが、今年前半の記事は総じて面白くなくて読むのが嫌になってきた。去年までの方がまだ面白く思う余地があったと思う。
何が面白くないのか。まず何を言っているのかわからない部分が多過ぎる。自分でもわからないので、他の読み手からすると丸っきりわからないのではないかと思う。読んでくれた人に申し訳ない気持ちになってくる。
どうしてそんなことになってしまうのか?
ひとつには文そのもの、一文一文に対する努力が足りなかったからだろう。自分の頭の中にあるものを書き出すにあたって、言語化のフェーズと文章化のフェーズは分けて考えるべきだと思っているのだが、今年は「言語化」で止まっている文を連発してしまったと思う。つまり、自分の頭の中を自分で捕まえるために言葉にするというステージの文をそのまま公開してしまっていて、読み手に伝わるように組み立て直すということをあまりできていなかった。
もうひとつ考えられるのが、経緯の説明を必要とする内容が多かったことだ。「今私が書いている内容は、過去のこういう事情を前提としていますよ」という形の記事が去年までよりかなり多くなっていると思う。この種の記事が全くもって面白くない。
自分にとって必要だから書いたつもりの記事だが、未来の自分から見てその存在に必要性を感じられず、振り返って読んだ時に自分自身が「つまらん」と一刀両断してしまう。「自分にとっての必要」に本当に正直に書けばそんなことにはならない。誰に向かって喋っているのかわからないようなことになってくると誰にも面白くない文章になっていく。
経緯の説明を必要とするというのは、そもそも規模が大き過ぎる話であるか、正確に分かってほしいと思い過ぎている話であるか、そのどちらかだろうと思う。そして規模が大き過ぎるというのは、それ以上解体し得ないものである場合と、自分が解体できていないせいで大きな塊のままになっている場合とがある。正確に分かってほしいと思い過ぎているのは大方自己を露出し過ぎていることとイコールである。
別に壮大な話はしていないわけなので、問題は「話を適切に解体できていないこと」「自己を露出し過ぎていること」の二点にある。
話を適切に解体できていなければ、読み手として想定する像も曖昧になる。したがって、誰に向かって喋っているのかわからなくなってくる。メッセージがシンプルでないために記事全体の意図も一文一文のニュアンスも不明瞭になる。よって意味のわからない文章になる。
自己の露出の方も読者像の想定の誤りに起因するだろう。未来の自分に向けて書くならば省略できることは省略するものを、内容はそのままに不特定多数の他者を想定し始めると「自分とはどういう人物であるか」「どういう前提で話をしているか」の説明が必要になってしまう。そうすると未来の自分には全く意味を成さない自己紹介が文章中に増えていく。自己紹介するからにはそれは誤解されては困るので、十分な説明に努めようとしてしまう。そもそもの話、不特定多数の他者に読んでもらう内容としては自己紹介が必要な話は適当でない。
やたら経緯の説明が増えだしたら、それはもう方向性を間違っているのだろう。話がいちいち前後の繋がりに依存しないように適切に分解すること、読み手の想定を明確にして自分に言うなら自分に言うと決めること。その二つを守る必要がある。
とはいえ経緯の説明を省略できない内容もあることは確かだ。その場合の書き方を工夫することも考えた方がいいだろう。技術的な記事だと一連の過去記事を列挙することが一般的だと思うが、そうでない種の記事はそういう形にはしにくいことも多い。関連する内容が一連のものになっているとは限らない。
過去記事を列挙することで示せるように経緯の部分だけ予め記事にしておくということを試したこともあったが、そうするとその経緯の部分の記事というのは誰に向けて言っているのかが曖昧になって面白くない。別記事にしようとした理由は単に「場所を取る」からであって、その部分が話として完結できているわけではないのがよくない。
要は場所を取らないようにすればいいのではないか。記事を切り分けるのはそのひとつの手段だが、切り分けなくても省スペース化できれば解決する。考えられるのは「脚注に書く」と「折り畳む」の二つのやり方だ。脚注は最近活用し始めているが、折りたたみをもっと積極的に使っても良いような気がする。
まとめ
話は適切に解体すること
読み手を明確に想定すること
経緯説明の省スペース化を工夫すること