Noratetsu Lab

動じないために。

タグの定義・詳細

ブログの書き方ド下手問題

ブログを投稿するにあたっての困り事について考察した記事群。
ド下手問題シリーズ

第7回までは連載風に続けて投稿し、その後は不定期に思いついたものを書いている。

各記事とも、記事を書き始めた時点では実際に下手で、書き終わる時点でいくらか克服することを目指して書いている(実際に克服している)
なお、この一連は「ブログの書き方」の話であり、「文章の書き方」の話ではない。文章を書くはいいが、ブログに投稿するにあたって困ることがある、という視点で書いている。

Backlinks

他の「Series」カテゴリの語句

「ブログの書き方ド下手問題」タグの記事一覧

2025/04/29

ブログの書き方ド下手問題⑭~「後で続きを書く」送りにして結局書かない問題~

 ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第十四回。このテーマでは一年四ヶ月ぶり。
 今回は、SNSに投稿しようと思って書き始めたものの考えが深まりすぎて「後で文章にしよう」と思って取っておいて結局書かない問題について。


 「後で書こう」と思って書かないということについては過去にも考えたことがある。

 これらのことと部分的には重なるが、ちょっと違う問題でもある。今までの問題は「後で書けそう」と思ったネタをいざ書こうとしても書けないというところに悩みがあった。
 今回のは、既にある程度書けていてそのまま書いていってもよかったものを、「今はSNSにいるから」という判断によって後回しにして、それが結局放置されるという問題である。放置の仕方によっては文脈を失うなどして頑張っても続きが書けなくなるという問題も伴うが、そもそも書こうという気を起こしていない、存在を忘れている、ということがまずある。
 このようにして、絶対に文章になったはずのものが結構な量失われている。もったいない。自分の発信として形にならなかったのももったいないが、それ以上に深められた考えを深めずに終わってしまうことがもったいない。

放置の理由

 放置してしまう理由は案外複雑なように思える。
 まずなぜ書くのをやめてしまうのか。

  • SNSに流すには相応しくないと判断した
    • 長すぎる
    • 重すぎる、攻めすぎている
    • 大事すぎる
  • 書き続ける用意がない
    • スマホでSNSを見ていた
    • 時間がない、より優先度が高い仕事がある
    • 今SNSに流れている文脈に乗る方が大事

 そしてなぜ再開しないのか。

  • 切実さがない
    • そもそもSNSに流すのでいいやと思って書き始めた内容だから書かなきゃ書かないでいい
  • 内容の位置づけが曖昧
    • 普段投稿している文章との繋がりが薄い、投稿するイメージがしにくい
  • SNS用文章から記事用文章へのモードチェンジが億劫
  • 既に時間が経って解像度が下がってしまった
    • 下書きの保存方法が適切でない

 こういった小さな複数の理由が重なって、なんとなくやめてなんとなくそれっきり、ということになっていく。
 SNSというレールに乗らない荷物があり、それを流すべき別のレールが作られておらず、どこにも繋がらない仮倉庫にただただ積んでいくしかない状態。仮倉庫の膨張が漠然と気になってはいるが、どんなレールがあればいいかがわかっていない(考えてすらいなかった)
 上記の理由を細かく見ていくと作るべきレールの形が見えてくるかもしれない。

 SNSにはそのままは出せないとか、今はその続きを書いていられないという「中断する理由」の方は、それはどうしようもないことだろう。なんとしてもSNSに投稿したい、SNSが主戦場である、という場合にはSNSに出せるように工夫するという道もあるが、個人的にはそういうタイプではないのでSNSに書きにくいと感じたものはさっさと撤退でいい。
 なので考えるべきは、保留にしたものをどこに向けてどういう形で流してそれをいつ拾うかである。

目的意識の問題と必要な工夫

 まず目的意識が薄いという課題がある。別に言わなくていいことなのだ。しかし、言おうとしてみたらすごく重要な気がしてきたから後で深めたいと思った。けれども元々言わなくていいことだったからその後再び取り上げる機会がない。そうしてその多くを単純に忘れてしまう。
 これには二つのアプローチがあるかもしれない。ひとつは目的意識を高めること、もうひとつは目的意識に依らない道を作ること。目的意識が薄いことで困るのは、思索の俎上にそれが再び乗らないということにあるので、目的意識がそれほどなくとも俎上に乗るようにすればいいわけである。
 目的意識を高めるには、自分の「もっと考えられそう」という感覚をそこで手放すのが非常に大きな損失になることをリアルにイメージすることが必要な気がする。例えば、毎日絶対一本記事を投稿しなければならないとすれば、考えられそうなことをみすみす逃してしまうとネタが足りなくなって切実に困ることになるだろう。実際に自分にそう強いるのはストレスが大きいし粗製乱造になるおそれもあるから慎重になるべきだが、何かしら機会損失を意識することが「まあいいか」という怠惰を減らすことに繋がるだろうとは思う。

 これは意識改革の領域だが、そうではなく、仕組みとして思索の再開を促す方法もあるだろう。下書き送りになったものが、次にできた暇な時間にスッと目の前に出てくるみたいなのが理想だ。時間を置いてしまうとうまく進められないので、「過去の蓄積の中からランダムでピックアップ」式よりは「今日の思いを今日かたちにし終える」のを滑らかにする何かがあったほうが(少なくとも私には)よさそうだ。
 そう考えると、デイリーノート内で書いてしまうのが簡単だろう。下の方に作業場を用意して、SNSにポストしようとしたけどやめたようなものをそこにどんどん貼っていく。仕事中はそれは画面外にあり、暇ができたらスクロールして表示して書き進める。
 メモ置き場にするとメモのまま残ってしまう。なので文章を書くモードになれるかどうかが重要だ。箇条書きスタイルではなく普通のテキストを書ける形のほうがいい。アウトライナーでは駄目とかいう意味ではなく、アウトライナーでも普通のテキストを書くように書けばいい。(実際この文章はアウトライナー上で書いている。)
 場を工夫しても全部は書けないだろう。それは仕方がない。近い休日などに見直してケリをつけていくために途中になっているものにはタグを付けておくといいかもしれない。しかし全部は書けないものと考えたほうがいいだろうし(他にやることはいろいろあるのだし)、心構えとしては「全てを失うままにしない」のが大事で、少しでも書き進められる可能性を上げられたらそれでいい。

公開する場と文体

 書く動機づけや場の整備ができたとしても、それだけでは捗らない可能性もある。「SNSに書こうとした」というのが少なくとも二つの意味で文章化を難しくしている。
 まずひとつは、本来自分が文章を投稿している空間に現状その内容がはまらないかもしれないということだ。自分のブログなどのテーマと合致しているなら、それは最初からブログの記事にしようと思うだろうし、ちょっと考えればそのくらいの文量に膨らむはずだという予想もつく。しかしそうではないのでSNSに流そうとしてしまうというパターンがある(全てがそうというわけではない)
 その場合、文章にするとして、誰に向けて何を言うものとして書くのか、そしてそれをどこにどういう位置づけで公開するのかというのが曖昧だ。なのでもし公開したいなら公開する場のほうを考えておく必要があるだろう。新たなテーマになりそうならタグを用意しておくとか、特定のテーマに属さないものを扱う括りを作っておくとか(例えば「日記」とか「雑記」とか)、場合によっては新たな投稿場所を準備するとか。場に応じて文体や内容の深度などは変わってくるので、「公開するとしたら」を先に具体的にしたほうが文章は書きやすくなるだろう。
 実際、SNSに投稿しようとして思いがけず筆が進むのは、SNSに投稿するという前提が読み手や文体を決定づけるからだろうと思う。しかしそうしてすいすい書いた結果、時にSNSにそのまま投稿するには憚られる量または質のものができてしまうのである。自分の意識はその場における相応しさの全てを完璧に考慮するわけではないので、一部分を満たしつつも他の部分で相応しさから外れるということはままある。

 もうひとつ文章にするのを億劫にしているのが、ある程度までSNS用に書いてしまっている、ということだ。
 今書いたように、SNSに投稿する前提で書いている時にはあくまでSNSの環境に相応しい文体やベクトルで書いているということになる。それをただ膨らませてそのまま他のブログなどに投稿できるとは限らない。
 なので、場合によっては既に文章にしてある部分について文の質を改める必要が生じ、その作業というのは結構面倒くさい。「せっかく書いたから」と変に残そうとすると逆に大変だったりするので、脇において一から書き直す決断も必要だ。慣れれば大した手間ではなくなると思われるが、えいやっとやる気力がいくらか要るので疲れているとちょっと大変かもしれない。

 ただしそもそもの話、文章にしたからといってそれは必ず公開しなきゃいけないなどということはない。SNSに書き込むつもりで書くのが一番筆が乗るという場合は、そのノリで一通り走り抜けて、自分の中で思索が深まったところでそれでよしとしたって構わないのだ。
 公開したいなら公開する場に合わせたほうが書きやすいし、公開しなくてもいいかもと思ったら場を気にせず一番滑らかに文章を紡げる文体を選べばいい。今公開しなくても、一通り考えておきさえすれば、ずっと後になってその思索が生きることもありうる。

下書きの保存方法

 途中まで考えたのを取っておいて後で続きを書くとして、重要になるのはその時点の状況を適切に保存しておくことだ。
 そこまでに言葉にしたものを適切な場(例えばデイリーノートの下の方)に貼り付けるはいいが、それだけでは足りないかもしれない。何かを言葉にしようと思うのは基本的には何かの事象に対する反応が自分に起こったからであって、その事象がなんだったのかが曖昧になると自分の中で起きた反応も曖昧になってしまう。なので、まずその事象がどんなものであったかをきちんと記しておくことが大切だ。
 そして自分の中に起きた反応のうち、まだ一部しか文章にできていないという場合は、後で再開した時にヒントになる文言をメモとして残しておいたほうがいいだろう。
 目的意識が薄いと考えたことは時間とともに儚く失われやすいだろうから、一層保存が肝要だ。書かなきゃ書かないでいいようなものなのに逆に手間を掛ける必要があるということになり、最初はかなり意識しないとうまくいかないかもしれない。
 簡単にフォーマットを作っておけば意識の力に頼る度合いは軽減できるだろう。例えばこの三点。

  • 話題
  • 所感
  • 思索

 まず話題欄にコピペするなり要約するなりして、とりあえず思ったことは「所感」欄に書き留め、文章にしたものは「思索」欄に書いていく。習慣づけば敢えて○○欄というふうにしなくてもよくなるだろう。
 今までの私は話題そのものの保存が疎かになっていたから、書いた時は自明に思えた「何の話か」が後になってよくわからなくなったりしていた。必ずセットで保存しておくことが大事だ。

 こんなところだろうか。以上のことで「後で続きを書く」送りにして結局書かない問題が解決したらいいなと思っている。(自分がこれからどうしていくかをこの記事を書くことで考えたのであり、実践はこれからになる。)
 

2023/12/13

ブログの書き方ド下手問題⑬~知らせたいことと言いたいことは分離する~

 ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第十三回。過去の回の記事はブログの書き方ド下手問題からどうぞ。
 目的が混在していると下手な文章になる問題。


 前回ブログの書き方ド下手問題⑫~経緯を説明しようとし過ぎている~に引き続き今年の個人的な反省文。
 文章の目的が複数あるような場合、その文章は失敗しやすいようだ。当たり前と言えば当たり前なのだが、目的を細かく分けて語る道筋が見えなければ複数の目的を兼ねながら文章を書くということをしてしまってもおかしくない(そういう文章を今年は書いてしまった)

 文章を通じてやりたいことというのは、大別すれば「言い表したい」「教えたい」「読んだ人を変えてやりたい」の三つくらいになるのではないだろうか。それを通じて何を実現したいのか、というのは更に奥にまたあるが、文章そのものの目的としてはそれ以上は分けられない気がする。ここではそれぞれ「表現」「共有」「演説」としておこう。

  • 「表現」タイプ:感じたことを言い表したくて書く文章
  • 「共有」タイプ:情報を人に伝えたくて書く文章
  • 「演説」タイプ:他者の認識を変えたくて書く文章

 このうち「演説」タイプの文章は当ブログではカバーしないので脇に置いておくとして、問題は「表現」タイプと「共有」タイプの境界だ。
 日記系の記事なら「表現」タイプになるし、技術系の記事は「共有」タイプになる。その境目ははっきりしていて迷うことはない。しかし、例えば紀行文的なものになると境は曖昧になってくる。自分が感じたことを書くわけだが、そのためにまず前提を共有しなければならないからだ。こういう場所に行ってこういうものを見てこういう体験をして、そこで私はこう思ったのだ、という流れになる。

 で、本当の紀行文ならば、大体そこにある事実が面白いし、五感に訴えるものだから何かしら想像を膨らませやすい。わくわくさせたところに作者の所感がすっと加わることで臨場感も増すだろう。
 ところが。具体的な事物ではない世界の話をしながらとなるとどうもうまくいかない。五感に頼れない場合、イメージを浮かばせるのがとても大変だからだ。[^1]
 自分の「表現」の前提に何か情報が必要なら、それを伝えるための「共有」の文が要る。その文が複雑化して読み手の負担が増えていくと、よっぽど面白い話でなければ「表現」の部分が霞んでしまう。抽象的な領域の話は、前提の共有がどうしても複雑になるので紀行文的に書くのは難しい。
 「表現」と「共有」を同居させるならば共有部分が十分コンパクトであった方が良い。どうしても膨張するなら、せめて「共有」のターンと「表現」のターンははっきり分けて書く。情報の共有は淡々と明快に進め、自分の解釈は別途噛み直すようにして表現する。巧みな人は織物のように両方編み込んだ文章を書けるかもしれないが、それは非常に高度な技術になってしまうだろう。
 紀行文的に書いたらいいような気がしていたことも、前提の共有のために読み手がどのくらい負担を強いられるかを踏まえて構造を考える必要がある。変に「表現」の方に重きを置いて「共有」を駆け足で済ませようとしてしまうと「共有」のための文章の位置づけが曖昧になってつまらなくなる。そのことが今年は身に沁みたので、文章の組み立て方を改めていきたいと思う。

NTA-DIY:なんでこれを書いているのか考え直す)、それは多分困難な道だったのだと思う。私が体験したことをうまく伝えて、私が感じたワクワク感をちょっとでも追体験してもらえるような術はないかと思って考えたことだったけれど、私の文章のうまくなさ以前に(それも大きな要因だが)、私がやりたかったことをそのまま実現する術はそもそもなかったのではないかと思っている。

2023/12/11

ブログの書き方ド下手問題⑫~経緯を説明しようとし過ぎている~

 ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第十二回。過去の回の記事はブログの書き方ド下手問題からどうぞ。
 文章が複雑化すると面白くない。その解決について。


 今年の自分の投稿記事を最初からずーっと読み返してきて上半期の分を読み終えたところなのだが、今年前半の記事は総じて面白くなくて読むのが嫌になってきた。去年までの方がまだ面白く思う余地があったと思う。
 何が面白くないのか。まず何を言っているのかわからない部分が多過ぎる。自分でもわからないので、他の読み手からすると丸っきりわからないのではないかと思う。読んでくれた人に申し訳ない気持ちになってくる。
 どうしてそんなことになってしまうのか?
 ひとつには文そのもの、一文一文に対する努力が足りなかったからだろう。自分の頭の中にあるものを書き出すにあたって、言語化のフェーズと文章化のフェーズは分けて考えるべきだと思っているのだが、今年は「言語化」で止まっている文を連発してしまったと思う。つまり、自分の頭の中を自分で捕まえるために言葉にするというステージの文をそのまま公開してしまっていて、読み手に伝わるように組み立て直すということをあまりできていなかった。

 もうひとつ考えられるのが、経緯の説明を必要とする内容が多かったことだ。「今私が書いている内容は、過去のこういう事情を前提としていますよ」という形の記事が去年までよりかなり多くなっていると思う。この種の記事が全くもって面白くない。
 自分にとって必要だから書いたつもりの記事だが、未来の自分から見てその存在に必要性を感じられず、振り返って読んだ時に自分自身が「つまらん」と一刀両断してしまう。「自分にとっての必要」に本当に正直に書けばそんなことにはならない。誰に向かって喋っているのかわからないようなことになってくると誰にも面白くない文章になっていく。
 経緯の説明を必要とするというのは、そもそも規模が大き過ぎる話であるか、正確に分かってほしいと思い過ぎている話であるか、そのどちらかだろうと思う。そして規模が大き過ぎるというのは、それ以上解体し得ないものである場合と、自分が解体できていないせいで大きな塊のままになっている場合とがある。正確に分かってほしいと思い過ぎているのは大方自己を露出し過ぎていることとイコールである。
 別に壮大な話はしていないわけなので、問題は「話を適切に解体できていないこと」「自己を露出し過ぎていること」の二点にある。
 話を適切に解体できていなければ、読み手として想定する像も曖昧になる。したがって、誰に向かって喋っているのかわからなくなってくる。メッセージがシンプルでないために記事全体の意図も一文一文のニュアンスも不明瞭になる。よって意味のわからない文章になる。
 自己の露出の方も読者像の想定の誤りに起因するだろう。未来の自分に向けて書くならば省略できることは省略するものを、内容はそのままに不特定多数の他者を想定し始めると「自分とはどういう人物であるか」「どういう前提で話をしているか」の説明が必要になってしまう。そうすると未来の自分には全く意味を成さない自己紹介が文章中に増えていく。自己紹介するからにはそれは誤解されては困るので、十分な説明に努めようとしてしまう。そもそもの話、不特定多数の他者に読んでもらう内容としては自己紹介が必要な話は適当でない。
 やたら経緯の説明が増えだしたら、それはもう方向性を間違っているのだろう。話がいちいち前後の繋がりに依存しないように適切に分解すること、読み手の想定を明確にして自分に言うなら自分に言うと決めること。その二つを守る必要がある。

 とはいえ経緯の説明を省略できない内容もあることは確かだ。その場合の書き方を工夫することも考えた方がいいだろう。技術的な記事だと一連の過去記事を列挙することが一般的だと思うが、そうでない種の記事はそういう形にはしにくいことも多い。関連する内容が一連のものになっているとは限らない。
 過去記事を列挙することで示せるように経緯の部分だけ予め記事にしておくということを試したこともあったが、そうするとその経緯の部分の記事というのは誰に向けて言っているのかが曖昧になって面白くない。別記事にしようとした理由は単に「場所を取る」からであって、その部分が話として完結できているわけではないのがよくない。
 要は場所を取らないようにすればいいのではないか。記事を切り分けるのはそのひとつの手段だが、切り分けなくても省スペース化できれば解決する。考えられるのは「脚注に書く」と「折り畳む」の二つのやり方だ。脚注は最近活用し始めているが、折りたたみをもっと積極的に使っても良いような気がする。

まとめ

  • 話は適切に解体すること
  • 読み手を明確に想定すること
  • 経緯説明の省スペース化を工夫すること
2023/10/24

×後で書こう‡‡‡○今書くけど後で投稿しよう

 諸般の事情により「後で書こう」と判断した題材があり、数週間経っていざ書こうとしたら全然筆が進まなくなってしまった。


 そうやって途中でやめてしまうと「流れで書く」タイプ[1]は駄目なんだということを前に自分でも書いた気がするが(少なくともそのような話に同意を表明したはず)、それにもかかわらず「後で書こう」と言って放置して案の定書けなくなっている。なんと愚かな。
 後回しにしても大丈夫だと思う程度に存在感の大きい題材だったので、まあいつでも流れに乗れるだろうと判断したのだが、そんなことはなかった。
 存在感が大きいことは変わっていないが、書きだす取っ掛かりがもうわからない。最初にもやもやとあったイメージはどこかに飛んでいき、その時点で残したメモを見て今想像できる世界というのは最初のイメージよりずっと小さい。今書こうとするとそのメモに依存しすぎてしまう。当時は全体の中の部分でしかなかったメモが、時が経った今では残されているものの全体になってしまっている。
 そして、うちあわせCast第百三十六回でTak.さんが語っておられたが[2]、「メモの断片」ではいまいち矢印が発生しない。「書きかけの記事」になるまで表現を進めるか、あるいは「ツイート」にしてしまわないと、当時の気分を再現することが難しくなってしまう。

 日頃の投稿までの流れがこの誤った判断を誘発している。というのは、私は普段記事のストックを作らない。これは適当にマイペースにやることが許される(そして自分に許している)個人ブログだからの話だが、書けそうな話があると、大体その場で書いてしまって、書き終わったらもう投稿してしまう[3]。「書く」と「投稿する」が直に繋がっている(投稿せずに没にすることはあるが)
 そうすると、複数書けそうなものが溜まっている時や、時期的にちょっと後にした方がよさそうと判断した時などに、「投稿する」が先になった分同時に「書く」も先送りしてしまう。他のものを書いてから着手しよう、になってしまう。
 挟まるのが一本二本ならどうにかなるのだが、それ以上になってくるとどんどん厳しくなってくる。だんだんその題材の光が失われていくので、嬉々として着手するという感じにならなくなる。そうして更に後回しになり、ついにその題材は息絶えて書けなくなってしまう。勿体ない!

 ということで、「後で書こう」はやめて「今書くけど後で投稿しよう」を心がけたい。
 時間には限りがあるのでそう思えば書けるという話ではないのだが、せめて着手しておけば、書き終えた部分が持つ矢印の力によって、未来の自分がそれをいくらかでも引き継げる可能性が高まる。流れで書くタイプゆえ最初の段階で思い描いたものを保持し続けることは無理だが、着手しないとすっかり全部消えてしまって未来の自分がどうにもできなくなる。新たな芽が出る可能性も薄れてしまうのである。


  1. 流し切るように書くタイプ ↩︎

  2. 第百三十六回:Tak.さんとコウさんとアウトラインを使って書くことについての疑問 - 知的生産の技術
    当該部分→Podcast感想 #43 のらてつの雑記帳 - zawazawa ↩︎

  3. 書き終わったらとは言っても、推敲や様子見に一日以上かけることはある。書いた時のテンションが後から見ると変だったりするからである。 ↩︎

2023/10/08

NTA-DIY:何をどう書いたらいいか考え直す

 ノートテイキングアプリDIY体験記の連載再開、と思って意気揚々と記事を投稿する気でいましたが(ほとんど書き終わっていましたが)、ちょっと待てよと思ったので一度立ち止まります。自分らしい文章になっていない気がしたのです。


 例によって、自分の頭の中だけで完結させていい話をわざわざ書いて投稿してしまうことにします。内容としてはどちらかというと「ノートテイキングアプリDIY体験記」ではなく「ブログの書き方ド下手問題」の方に入るべきものかもしれません。いったい誰得かというと、私得のためのものです。
 二ヶ月半ほど前にも一度立ち止まりました。その時は動機が曖昧だという問題の解決を試みました(なんでこれを書いているのか考え直す(NTA-DIY:なんでこれを書いているのか考え直す)。記事内で示した動機を並べると以下のようなものです。

  • 食うためでないプログラミングがもたらしてくれる自由の共有
  • 私が私の人生を忘れないための記録
  • 自分でアプリケーションを作ってもいいのかもという気持ちの肯定と惹起
  • 見切り発車したもの勝ちというメッセージ
  • 自力で何かを作ることの感動の共有

 もう一段階整理すると、

  • メッセージ① プログラミングは自分を自由にするものである
  • メッセージ② プログラミングは誰でも今すぐチャレンジしてよいものである
  • メッセージ③ 私の人生にはこういう日々があったのである

 という三つのメッセージに集約できるかもしれません。①②は自分以外の誰かへのメッセージで、③は未来の私へのメッセージです。

 さて、動機についてはまずまず明らかになりました。しかしそれに沿って書いてみようとした時、何かが「違う」感じがしました。動機を明らかにする以前よりはピントが合ってきた感はあるのですが、何か足りないのです。自分が読者だったとして、多分「へえ」とか「ふうん」とかは思うのですが、読んでよかった感をどこから得ればいいのかわからない感じがしました。
 文章自体は書けるのに、その文章がブログ記事に投稿されるものとしてはピンと来ない。そんな時こそ「ブログの書き方ド下手問題」の出番です。自分が書いたからといって自分に定着しているわけではありません。ヒントがあるかもと思って読み返しに行きました。
 ちょっと長くなりますが、今の自分の問題意識に関連する箇所を抜き出してみます。長いので重要なところを下線で強調します。

ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~

私が何かを書くに当たっては書き手が主人公であり続けるのではなく、読み手が主人公になれる瞬間がある文章を綴らなければ私のエネルギーは無駄になるだけなのだ。
ブログの書き方ド下手問題②~自己の言語化を意味あるものにするには~
自己の中の現象を書き表わそうとしたとき、その現象の瞬間、つまり「気づき」にフォーカスしたくなる。私の中でこれが起きたのだ、ということに力を入れて書きたくなってしまう。確かにそれを含むように書くのではあるが、その気づきというのは他人にとっては必ずしも意味のあるものにはならない。少なくとも本人ほどはそこに感動はしない。本人にとっても、本当はそれが単発で意味をなしているのではなく、そこに至る経緯がそこに意味を作り出しているからである。
自分語りに対して読み手が期待するのは、書き手の状況がその間抜けさや滑稽さまでも隠さず明らかになっていくことであり、案外「膝を抱えてぐだぐだといじけている」ようなことなのではないかと思う。気づきや決定や変化の、その手前に共感を見出すからこそそれらのターニングポイントに意味が生まれるのだろう。
ブログの書き方ド下手問題⑤~結論が出ないことを恐れない~
無理して結論めいたものを書こうとしなくてよかったのにな、と思う記事がいくつもあるのだが、結論を捻り出さないとしてその記事はどういう位置づけになっただろうか。そう考えると、多分それは「近況報告」というものだったのだろう。「○○してみた結果、~と言えそうだ」とまでいかずに「○○してみた」で止めても良かった。
ブログの書き方ド下手問題⑥~試行風景を実例にしようとしない~
そもそも私が「自分はこうすることにしたんですよ」と書きたいのは、上述したように自分のやり方の有効性を示したいからではなく、ただ単に、こういう私がここにいて、こういうことをやっているんですよと言いたいからというだけである。こういうことを考えてこういうことを始めてみました、こういうことをやったらこういう学びを得たんです、それが言いたいだけなのである。そしてへえこういう人がいるんだなと思ってもらえたらそれで良いのである。別に私のやり方は他の人の役になんか立たなくていいし(役に立てばそれはそれで嬉しいけれど)、のらてつ流の何とかが広まってほしいとも思わない(広まったらそれはそれでまあ気分は良いのであろうが)
ブログの書き方ド下手問題⑦~考えが整ったのに記事にしにくいものたち~
文章を書く時というのは、書きながら書き手自身に発見がないととてもやっていられない。自分としては既にわかりきっていることを、ただ人に読めるように翻訳するだけの作業というのは大変に苦痛なのである。書くということ自体が謎を解く探検の旅であるからこそ、私たちは何千字や何万字とかいう量の文字を拵えることができるのだと思う。
やはりここまでの回で考えてきたように、私に書けるのは「自分が困っていること」の分析または「今自分はこうしている」という近況報告くらいなのだろう
ブログの書き方ド下手問題⑧~文章にするの面倒くさい問題~
何かが不十分であった過去という経緯があり、何かを気づいたり獲得したりすることによって変化し、より良い状態に至ったという流れが文章の骨格となる。逆に言えば、そういう骨格が見出された時、そのことについて話さずにはいられなくなるとも言える。

 現状について気づいたことがいくつかあります。

  • 読み手が共感し得るポイントが明らかでない
  • Before/Afterがはっきりしていない
  • 読み手を引っ張ろうというメッセージ性が強すぎる
  • 文章を書いている間自分自身に発見がない

 むしろどうしてこれで書き続けられると思ったのか。「ブログの書き方ド下手問題」での内省はなんだったのか。頭を抱えてしまいますが、このズレが発生するのにも理由があります。別にこのシリーズ記事以外の単発記事には違和感はないのです。普段書くにあたっては、「ブログの書き方ド下手問題」での格闘はちゃんと活きています。
 この「ノートテイキングアプリDIY体験記」というシリーズは私にとって、というかこのブログに於いて、かなり特殊な位置づけになってしまっています。冒頭で整理した動機でそれが明らかになっていますが、何かしらのメッセージを誰かに送ろうとしているものなのです。「プログラミングは自分を自由にするんですよ、あなたもどうですか」「プログラミングをする時は見切り発車でやっちゃっていいんですよ、あなたもえいやとやってみてください」、といった具合です。そもそも私はそういう風に書きたくないのだということを繰り返し記していたはずなのに、どうしてそうなってしまうのか。

 やはり根本には、「プログラミングの素人なのに、プログラミングについて書いて、何か意味があるのか」という疑問があります。本音としては意味があろうがなかろうが書かねば気が済まないから書くのですが、自分の良識がそれにいちゃもんをつけています。ちゃんと読み手が得するように書きなさいよと。さしあたっては、「自分もプログラミングしてみたい!」という気分にさせることを目指したらいいんじゃないかと。それに貢献しない記述は文章を冗長にするだけだから省きなさいよと。
 なんだかおかしいことが起きている感じがバリバリします。今のところは書いていて全く楽しくないというわけではないのですが、楽しみきれていないと感じてはいます。一応の体を成した時点で終わりにしてしまうからです。そして普段の単発記事と違ってこのシリーズは体を成すのが大変なので(自分の良識の要望に応えようとしているために)、一応のラインに達した時点で「もう疲れたから投稿してしまって次に行きたい」という気分になっています。おかしい! 勝手に書いているブログなのに、恰も仕事でやらねばならないことを最低限クリアして片付けているかのようです。おかしいおかしい。

 自分が目指すべき姿勢として「読み手が主人公になれる瞬間がある文章」を書く、ということを述べました。また、今しがた自分の良識からの文句として「ちゃんと読み手が得するように書きなさい」と表現しました。これらは似ていますが、しかしおそらくはかなり違っています。
 基本に立ち返る必要があります。私にとっての基本、つまり文章を書く時の根本の目的とは、「自己の仔細な言語化を通じて他の誰かの内面の言語化に貢献する」ということですブログの書き方ド下手問題③~自分節を見つけ出す~。対象は「自己」で貫くのが正解でしょう。しかし現時点では「プログラミング」「ツール作り」を対象にしているので混乱が生じるのです。プログラミングを対象にしてしまうから、語る資格があるとかないとかいうことを考えなくてはならなくなるのです。

 いつもは「まさに自分と同じ状況にある人」とのシンクロを図って書いています。普遍的な話題なら、性質的に重なるところさえあれば職業も年齢も性別も趣味嗜好も関係なくシンクロの可能性はあるでしょう。しかし「プログラミングに悪戦苦闘している自分」のことを書くとすればシンクロする可能性のある範囲はかなり絞られてしまいます。似た性質であることに加え、更にプログラミングに挑戦してかつ悪戦苦闘している人、にしか共感が生まれないかもしれないからです。なので、文章を書く努力が無価値になることを恐れて、「まだ挑戦していない人」という、より広い範囲に向けて書こうという気持ちが生まれているわけです。
 ですが……別にいいじゃないか、という気がしてきました。シンクロする範囲は狭くて結構。というのも、私より先に進んでいる人が「そうだったなあ」と思ってくれるかもしれませんし、この先挑戦し始めた人が「あれはこういうことだったのか」と後から納得してくれるかもしれません。読んだ時点で共感はなくてもよくて、「よくわからないけど、なんか意味のありそうなことを書いている気がする」くらいの感想を持ってもらえたら御の字というものです。
 他の人が言ってくれることは私が頑張って言わなくてもいいわけで、私は私の時間と労力を、私からしか出てこないかもしれない何かを搾るために費やしたほうが良いはずです。

 そういうわけで、記事の在り方をもっと「いつもの調子」に寄せる形に改めてやり直していきたいと思います。自己満足は自己満足として本気で徹底しなくては、読み手にとっても面白くなりませんよね。

用語集へのリンク

2023/08/14

ブログの書き方ド下手問題⑪~そりゃそうでは?問題~

 ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第十一回。過去の回の記事はブログの書き方ド下手問題からどうぞ。

 今回は、せっかく書いた自分の文章に「そりゃそうでは?」と批判の目を向けてしまう問題について考える。


 他の書き手がどうかは正直全然わからないのだが、私は記事を書いていて「これは当たり前の話では?」と思って価値を疑うことがかなりよくある。そう自己批判してブラッシュアップするというのは大事なことだけれども、これ以上どうにもしようがないという内容でもそう考えてしまうのはただ自分を辛くするだけという感じがする。
 なんとか投稿の手を止めないでいられるのは、少なくとも自分語りの部分に関して「自己についての発見は自分にとっては当たり前ではない」という保証があるからだろう。しかし自分以外のものについての発見は何を書いても「そりゃそうでは?」という気持ちに苛まれ、自分語りをあまり含まないものは投稿ボタンを押すのにかなりの気力を必要とする。
 例によって、私自身が困っているのでこのことについて考えたいと思う。

本当に「そりゃそう」なのか?

 まず、事実として自分の書く内容が「そりゃそう」なものなのかどうか、ということを考える必要があるだろう。
 といっても、それは自分では判定できない。それこそ「そりゃそう」である。自分以外の人が読んだ時にどう感じるものかというのはどう頑張っても事前に察知しようがない。
 しかし一切判定できないわけでもない。少なくとも、自分自身はそれを書いてみるまでそれは当たり前ではなかったはずである。ということは、それを書く前の自分がよっぽどの無知蒙昧でない限りは、その内容を「そりゃそう」と感じない人がいくらかはいると思ってよいのではないか。「そりゃそう」と思う人が多数派である可能性を排除することはできないが、全ての読み手にとって「そりゃそう」なわけではないということは言えそうである。

「そりゃそう」が生まれる理由

 自分自身は書いてみるまで当たり前じゃなかったはずなのに、書いてみると途端に「当たり前では?」という気分になる。それはそもそもどうしてだろうか。
 当たり前のような気がするというのは、元々知っていたことのような気がしているか、理屈が単純で展開が必然的過ぎるような気がしているか、のどちらかのように感じる。
 この感覚はとても厄介である。自分の中から生まれたことなのだから、言語化以前の状態では既に自分の中に存在していたことだろうし、自分が書いたものであれば自分の理屈に必然のように納得してしまうのも当然のことだ。書きあらわした時点で、その内容は自分にとっての常識としてもう自分に組み込まれてしまっている。
 今まで自分が読んだことがないような話を書いてみたのだとしても、他の人達は既に知っている記述を自分が見ていないだけだとか、当たり前過ぎて今更誰も言わないだけだとかいう可能性は捨てきれない。

 更にそこに「自分ごときがわかるなら他の誰もがわかるはずだ」的な自己評価が加わると当たり前感が跳ね上がる。それを言い出したらおしまいなのだが、そう思い始めると振り払うのは容易でないと感じる。
 書こうとしているのが「新しいものを咀嚼する」という類の内容ならば、自分が咀嚼できたということで多分納得できる。しかし既にあるものを見つめ直して何かを言うというようなことをする時は、それがもし「自分だけが今更気づいた」ということだったなら、それを発表することが自分や他者にとってプラスになるかわからない。その可能性が高いかもしれないと思うと何も言えなくなってしまう。
 これについては、自分の発想の程度について忌憚のない意見を言ってくれる知人がいない、というのが大きな問題かもしれない。(信頼関係を築いていない人の評価は本気の批評なのかそうでないのか判別できない。)
 リアルの友人は文面でググって辿り着かれると私としては困るので見せられない。ネット上の友人は今のところ全然違う趣味での繋がりであり、こういう文章を読んでもらうような相手とは言い難いし、違う名前でやっていることなのでこれもまた文面でググって辿り着かれると困る。
 この「辿り着かれると困る」というのは私の個人的な理由なので、そういうのがない人は普通に親しい友人を付き合わせて批評してもらうのが自信に繋がる有効な手なのではないかと思う。

 あるいは、世にある記述を網羅するくらいに読みまくって、実際にこの世に何が書かれていて何が書かれていないかを知るのが一番早いのかもしれない。途方も無い遠回りに思えても、最も確実で結局近道になりそうである。本を読むのが苦手な人間にはかなりしんどい道だが、避けていてはいつまでも不安から逃れられないとも思う。
 『独学大全』を読むと自分が如何に怠惰かわかるし、自分を不幸にしているのは自分であると感じる。

「そりゃそう」なら駄目なのか?

 ただそもそもの話、「そりゃそう」なものを「今更」書いたら駄目なのだろうか、ということは考える必要がある。博覧強記の人からしてみれば、いま世の中にある文章の大半が「今更」に思えるのではないか。一体何回、この次元の話を繰り返すのか、と思うかもしれない。
 私自身(そしてきっと皆さんも)、おんなじ内容のものを何度も見かけるということは常日頃当たり前に体験している。各々の書き手が「その内容は既に世界に溢れている」ということを知っているのかいないのかわからないが、知っていようがいまいがそれらは発表されたのだろうし、既に世界に溢れているはずのその内容が全ての人に染み渡っているかというと到底そうは思えない。
 例えば「人ってご飯食べないと死ぬんですよ」レベルの「そりゃそう」はさすがに何の価値も生みそうに無いが、「人って寝ないと死ぬんですよ」となると「そりゃそう」度合いはもう半分くらいになりそうである。いや、もちろん概ね「そりゃそう」ではあるのだが、その一方でなんで死に至るのかはそんなに自明ではないし、どのくらいの不足でそうなるのかも明らかではない。死の原因が睡眠不足であったことがわかられていないケースもあるだろう。わかっている人はわかっている話だが、わかっていない人もいるかもしれない、というくらいになってくる。そうなると、それを知らせる記述はなんぼあってもいいですからね、という気もする。

信念はどこにある?

 この「今更」問題については私自身三年以上前に考えたことがある。

誰かにとっての「今更」は誰かにとっての「今」だ、という今更のこと

 一応答えは出ているのだが、それなのに今スッキリしない気持ちが残っている。なぜかと考えてみて、思い至ったのは信念の所在である。
 この三年前の記事内で出た結論では、まさに今その段階にいる人のために書くのだ、ということが自分を納得させうる理屈だった。今もそう思うし、そう思っている限りは無敵のような気がする。
 また、先程取り上げた「人って寝ないと死ぬんですよ」の例を考えれば、とにかく睡眠不足で命を削っている人を救いたいという強い思いがあればいくらでも繰り返し発信できるだろうと思う。他にもそれを言っている人がいるかどうかは全然関係ないし、むしろ同じことを言う人が多ければ多いほどいいくらいである。
 つまり、「○○な人のため」という目的があれば、「○○な人」がこの世に存在する限り立ち止まらずに続けていられることになる。立ち止まっているのは「○○な人のため」という思いがなくなっているからではないか。
 例えば今この記事を書いていられるのは、「自分と同じ悩みを抱えている人のため」ということがあるからだ。全然しょうもない文章かもしれないけれども、それでも自分と同じ悩みを抱えている人の力にちょっとでもなれたらそれでいいと思って書いている。

 ノリノリで投稿している記事と同じテンションで書いているつもりでいるのに投稿に躊躇う時がある。それは多分、「○○な人のため」という意識が欠けている時なのだと思う。じゃあどんな意識でやっているのかと言えば、「自分(の文章)が面白いかどうか」である。自分の存在意義に意識が向いている。だから「もう常識かもしれないことを発信してどうするんだろう」という思いに支配されることになる。みんなが知っていることを書いていたんじゃ自分の文章には価値がないんじゃないか、という発想だ。「みんなが知っていることを書いても意味がない」というルールのゲームを自ら設定しているということである。
 この状態にあるかどうかを判別するのは簡単で、「そんなのもう知ってるよ」と言われた時にダメージを受けるか受けないかを考えればいいだけだ。もしダメージを受ける状態にあるとしたら――オリジナリティによって自分の存在意義を証明しようとする試み自体が悪いわけではなくとも――発信者が過去に星の数ほど存在し、そして今この瞬間にも夥しく発信がなされているこの世界にあって、あまりにも無茶なことを成そうとしていることになるのは確かだろう。
 別に世紀の大発見をしたいわけではないにしても、「そりゃそうって言われるんじゃないか」と恐れるのは、つまるところそういう価値を勘定していることに他ならないのではないかと思う。

 誰かのために動くのなら、「そりゃそうでは?」なんて迷っている暇はきっとない。
 

2023/08/12

ブログの書き方ド下手問題⑩~人のブログにコンボを決めたいのに~

 ブログを滑らかに書けるようになりたいという話の第十回。過去の記事はブログの書き方ド下手問題からどうぞ。

 短文投稿サイトの重用を避けて諸々をブログに書くことにしようと思い始めたのだが(そう思って既に結構経つのだが)、なかなかそうはいかないでいる。
 誰かが書いた記事を読んだ時に、「あっ、それわかる」「この文すごくいい」といった感想を持つことがあり、それを何らかの形で表現したいと思うのに、それを表現するのが思いの外難しくていつも困っている。自分の中にエネルギーがワッと湧いた気がするのに何も生まれないのである。
 今実際に悩んでいるので、記事を書くことを通じて解決を試みたいと思う。


 湧いてきたのがシンプルに「良いと思った」という気持ちだけなら、その記事のコメント欄に書くか、SNSで言及するのが手っ取り早いだろう。そして筆者の目に留まって、筆者もわーいと喜ぶかもしれないし、筆者にキャッチしてもらえたというので自分も嬉しいかもしれない。それで終わっていいことなら、それでいいと思う。
 ただ、それだと自分の発信としては蓄積にならない。批評性も創造性もないし、コメント欄に書いてしまったら自分がそこに書いたということすら自分の履歴から離れてしまう。発信したい側の人間としては、どうにか自分の発信として意味のある形にしたい。

 選択肢としては二つあるだろう。ひとつは、何かしら膨らませて自分の文章を綴ることだ。今私が目指そうとしているのもこれである。もうひとつは、例えば期間を区切って「今週の気になった記事」というようにパッケージにしてしまうという手だ。記事ひとつあたりにつけるコメントはごく短いとしても、それを複数まとめることで記事として意味を持つ。
 あれこれたくさん読むよという人は、ひとつひとつを膨らませるより記事まとめを作ってキュレーターとして発信するのがいいのかもしれない。あれこれたくさん読むということそのものに十分な価値があるわけである。
 私の場合はそんなにアンテナを張るタイプではなく、知的好奇心に溢れているたちでもないので、多分そういうのは向いていない。それよりも「あっ、これいい」と感じた時の自分の反応の解像度を上げて文章にした方が自分に合っているだろうと感じる。

 そう思うものの捗っていないわけだが、何の苦労もなくするする書ける時も偶にはある。しかし大半は形にならないままになる。元の文章に対するテンションは変わらないような気がするのに、アウトプットには大きな差異が生じる。その違いはどこにあるのかを考えておこうと思う。

 文章にできる形でワッと何かが溢れてくる時、それは一言で言えば「自分語り」になるだろうと思う。そもそも表現というのはある種の自分語りなので当たり前と言えば当たり前の話だ。自分の体験にもこんなことがあった、自分もこれまでにそれを考えたことがある、自分の専門分野とここの部分が重なる、自分の中で今こんなイメージが生まれた……といったことである。自分そのものを語るつもりはなくとも、自分を通さなくては自分なりの文章は出てこない。(するする書ける時というのには自分の知見を元に解説を書ける時というのもあるが、今回はそのパターンは除いて考える。)
 で、テンションは上がったのにいまいち何も生み出せない時というのは、その対象を十分に自分に引き寄せられていないということなのだろう。漠然と「いい」「すごい」「面白い」と思うに留まり、それが如何に鮮やかな感動であっても、「自分語り」に接続できない以上は言葉になっていかない。

 何かを読んでいて、「解釈」が生まれることがある。というか、常に自分の解釈を生みながら読み進めているはずだが、その中でも「これはきっとこういうことなんだ」と強く思うということがある。自分の中では電球がピカーッと光ったような感動がある。じゃあそれが文章になるかというと、案外そうならない。
 よく、「これはこういうことなのだと思いました」という感想に終わってしまうことがあるだろうと思う。自分もそこに留まらざるを得ないこともあるし、人の記事のコメント欄やTwitterなんかでもしばしば見かける。そこには「人によってはその部分をそう解釈するらしい」「その部分がその人にとっては印象的だったらしい」という情報は含まれるが、その人の内側にあるはずの属人的な豊かさはほとんど表現されていない。放たれた言葉がその人の深部を通ってきていないから、その人のことが見えてこないのである。
 別にそういうコメントが駄目という話をしているのではない。そもそも自分語りは義務でも善行でもないのだから、それ以上膨らませる必要を感じていないのならそれでいいのだ。
 ここで言いたいのは、「これはこういうことなんだ」という感動だけでは、その感動の大きさの割に必ずしも表現には結びつかない、という悩みがあることである。人の文章についての咀嚼・解釈に個性はそんなに現れない。読解は筆者が意図する意味合いに迫る試みであって、そこに自分の創造性がやたらと反映されていてもおかしい。やはり咀嚼の次の一歩が必要である。筆者のフィールドの探索の後に自己のフィールドへと帰り、自分のフィールドで何かを芽吹かせることでやっと表現に至るように思う。

 するする書ける時はするする自分語りをしているということになるが、そういう時に自分は一体何を書いていることになるのか、というのは思いの外わからないものではないかと思う。自分で書いているのだが、その書いたものが何なのか自分ではっきりしないのだ。個人的なことを言えば、そもそもはっきりしない領域――私という個人に於ける総合的な領域――を書こうとしているというのもその一因であろう(あるいはそれが唯一の原因なのかもしれない)
 しかし、もし自分の表現をコントロールしたいのなら、そう博打的なままでいるわけにはいかない。狙って出力できるようでなければと思う。その手がかりとして、今まで実際に自分が滑らかに書けた時のパターンを分析してみるのは有効な手だろう。
 個々人でパターンは異なると思うのでこう書けばよいという話にはならないが、まず私自身について考えてみよう。私が一番饒舌になれるのは、誰かが書いた何かのテーマに関連付けて、自分の人生に実際にあったことを書くことだと思う。「そりゃそう」と思われるかもしれないが、言い換えると「自分の見解」を書くことではないということだ。「そりゃそう」度が少し減ったのではないかと期待するが、自分はこう考える、こう予想する、こう想像する、ということではなく「私の身にもこういうことが実際にあった」という体験を書くことでテーマに寄り添いたいという気持ちがある。そして自分の体験が伴わない想像はおそらくかなり不得手である(ということに今気がついた)。不得手だし多分あんまり興味がない。
 しかし誰かの話に「これはこういうことか」と感動した時というのは、そのままその感動を膨らませるならば「自分の見解」を膨らませることになるだろう。それこそ得意なパターンだ、という人はたくさんいるように思うが、私の場合はどうもそこにうまくいかない原因がある。

 私が開拓するべき道は二通りありそうだ。ひとつは「なんとしても自分の人生に繋げる」という道、もうひとつは「自分の人生に依存しない語りを身につける」という道だ。いずれにせよどちらも必要だと思うが、後者はかなりのトレーニングが要る気がしている。でも格闘しておかないと私にできる語りはそう遠くないうちに枯渇するおそれがある。
 現状、面白いと思ってもらえるものは私自身の解像度を上げることに取り組んだ文章が多いので、前者の自由度を上げるのも私にとっては大事だろうと思う。豊かでユニークな人生経験などというものはないのだが、その代わりに自分の人生をできる限り細かく把握して自在に取り出せるようになりたいと思っている。そういうことにかなり強度の関心があることは確かだ。

 他の手として、自分が活発に取り組める範囲で切り口にテーマを設けるという方法もあるだろう。読んだ記事について、例えば「メタファーを考えてみる」とか「川柳にしてみる」とか「似た話を含む本を取り上げる」とか、何でも良いのだがそういうシリーズを勝手に作って取り組むというのはひとつの取っ掛かりになると思う。
 自分が得意で強い興味がある領域でないと続けられないのが難しいところだが、そういう何かが自分にあればいくらか面白いことができるだろう。

 お読みくださっているみなさんの場合はどうだろうか。
 

2023/06/28

ブログの書き方ド下手問題番外編~漠然と無気力な件

 前回が⑨なので、今回は⑩にしようかと思ったが、シリーズ記事というよりは今の個人的な状況の話をするだけになろうかと思うので、番外編ということにする。
 このシリーズではこれまで「書く気がある」「書く材料がある」ということを前提に、「ブログ記事にした時に自分で納得できない」という問題を回避するためにどうしたらいいかを考えてきた。今回考えなければならないのは、そもそもの前提が崩れた状態についてである。


 最近ブログを全然更新していない。端から無理なくらい多忙を極めていたならば特に気にはならないが、書こうと思えば書けたはずだという気持ちがあるのでなんとなく不本意に感じている。書こうと思えば書けたはずなのだ。しかしエンジンはかからなかったし、足はアクセルから遠く離れていた。漠然とやる気がなかった。
 なぜ書かないままになったのか、という理由を考えると、何か大きなきっかけというのは見つからない。物事が手につかなくなるような精神的ショックを受ける出来事も最近は特に起きていないし、意識の全てを集中させなければならないような何かがあったわけでもない。一方で、そこまで大きくない理由ならばあれこれと思いつく。

  • 期間限定で肉体労働が増加し身体的に疲労している
  • 大きなシリーズ(ノートテイキングアプリDIY体験記)の次の記事がプログラム修正に手間取って止まっている(心身ともに元気な時でないと進まない)
  • 別なサイトを作ろうかと考えており、どうせならそっちができてからの方がという気持ちがある
  • Twitterなどをあまり見ておらず着火剤が不足している
  • 懐古モードになっていて全然別なことを始めた(再開した)
  • 小説を読むのに時間を使っている
  • 書いていないということ自体が書けなさを招いている

 ひとつひとつはそこまで大きな要素ではないが、これが同時に全部発生しているとなると、そりゃあ書けないという感じがしてくる。

要因① 疲れている

 まず身体的に結構しんどい。日中に疲労困憊になることは明らかなので、本当に文章を書く気なら早朝にやってしまうべきであった。疲れが一定以下ならば夜になってから「まあちょっと書くか」とぬるっと始めても良いのだが、疲労が濃くなるとそういう無計画なやり方は使えない。
 ただし早朝に書くためには気持ちの面で下準備が必要で、あれを書こうという思いが予めないとただ早起きしてもうまくいかない。数多の「時間がある時に片付けておきたいこと」が押し寄せ、あっという間に朝が占領されてしまう。
 なお私の場合は肉体労働増量期間が一応今月までなので、この点については七月からはハードルが下がるだろうと思う。

要因② 一番進めたいものが止まっている

 で、この疲弊した状態と関連することだが、ド素人のサンデープログラマーとしては、万全に近いレベルの元気な時でないとプログラムのエラー潰しや書き直しが難しい。むしろ新しく作る方が簡単で、前に進み続けるだけなら多少の疲労感があってもどうにかなるのだが、「きちんとする」ための作業は本当に元気でないと捗らない。
 この捗らなさをちょっと甘く見ていて、力を入れているシリーズ記事が立ち往生している。文章を書くこととは直接関係ない箇所なのだが、これが終わらないことには文章も進まない。
 何か意気込んでいるものがあると、それが止まっている時に「じゃあ他の記事を書こう」ということになかなかならない。そうしようと決めておけばいいだけの話ではあるのだが、色々と他に意識を割いたりして注力のバランスを取れないでいると、並行して他のものに取り組みにくいと感じる。他のことに力を使うということは、最も進めたいものをますます停滞させるような気がしてしまうからだ。

要因③ 「どうせなら環境を整えてから」問題

 更に、情報を追加することに精神的にブレーキをかけている要素もあり、それは一つには投稿場所の問題である。
 現在はBloggerを利用しているが、ブログ然とした形よりも時系列を意識しない素朴なホームページ的な形を作ることを考えている。デザインも色々決めているところで、どうせならそっちを先に作って移転先をガッと充実させたら良いんじゃないか、などという考えがちらちらしている。
 この「どうせなら」が曲者で、別に新しいサイトを作るにしても現在のブログに記事を追加していくことは何の邪魔にもならないのだが、なんとなく、新しい場所をイメージし始めるとその場所のことに意識が向いて、今ある場所の充実のモチベーションが薄れてしまうところがある。
 また、情報整理作業なんかをし始めて「そもそも別の形の方がいいんじゃないか」と考え出すと、やり方が落ち着くまで、整理される対象となる情報を追加しにくくなったりもする。トップダウンな形の管理だとその傾向が助長されるように思うが、例えばScrapboxはそういった愚かしい停滞が生じにくいように設計されていると感じる。いずれにしても自分なりの形が決まりさえすれば無縁になるはずの悩みである。

要因④ 意識が違うものに分散している

 ブログを書き続けるとなったら、自分なりのテーマにある程度集中していなければならないが、それがすっかり乱されていたように思う。
 集中すると言っても、机に向かってバリバリとか缶詰になってそれ以外視界に入れないとかいうことではなく、認知資源に余裕ができた時に「つい意識を向ける」ような領域がおおよそ一箇所になっているということだ。
 一箇所に意識が向くためには、自然とそこに向かうように引っ張ってくれる情報を得ること、そして他の場所に引っ張るような情報を見過ぎないこと、の二つが必要だろう。そしてその両方が不十分だと、書くエネルギーは自分の中にさっぱり溜まっていかない。
 私の場合は、前回の記事拾い直しの旅で書いたように、Twitterその他をたまたま見なくなり、たまたま懐古気分に浸ったことで、自分の中でテーマになっているような領域が他のものに替わってしまった。この旅はごく短期間で済むつもりだったのだが、最初に書いた疲労困憊状態が従来路線への復帰を妨げたところがある。何か考えようにも全然捗らないので、この頃は代わりに小説(『三体』など)を読んでいる。
 この寄り道はそれはそれで別に悪いこととは思っていないのだが、何かを書くというのは「空いた時間に自問自答」だけで為せるものではないことはやはり気に留めておく必要があるだろうと思う。

要因⑤ 書いていないから書けない

 正直最大の原因と感じるのが、「書いていないから書けない」ということだ。これは何かを書けた時に毎回思うことだし、ブログにもどこかで書いたのではないかと思うが、それでも度々陥っていることである。
 書けていない時というのは大体「書いていない」。書くネタを意識的に探したりしているとかえってこの状態になりやすい。何をどう書こうかと考えるばかりで、実際に着手しないのである。箇条書きで要素は並べてみるかもしれないが、他人に読ませられるような形の文章を書かない。既に書きかけのものがあるからその先のことはとりあえずメモだけで、なんてこともしばしばある。
 何か自分にとっていい感じの文章が書けた時もその後に注意が必要である。そのいい感じの文章は必ずしもトップダウンで計画的に書いたわけではないし、どちらかというと「書き終えてみたら書けていた」というような感覚の方が多いのだが、前回うまく書けたから次も、などと考えると急に逆算して書こうとしだしたりする。そうならない人はならないと思うが、自分をコントロールしたい、コントロールしないとコンスタントにできるはずがない、というような意識があるとかえって自分で自分を乱してしまうことがある。結局は「欲を出している」ということなのかもしれない。

 こういう理由によって自分は書けていなかったのだろうと考えたわけだが、ここまで書いてみると、五つの要因それぞれ個別の記事にできたような気もしてくる。もちろん書き始めた時点ではそんなことは全然予想していなかった。
 書いてみないと書けるか書けないかわからないし、書いてみると大体書けている。書いてみなければ書けるものも書けない。わかっちゃいるのに、そのうちまた同じ罠に嵌ってしまうのだろう。でもこうして書いておけば、自分のボタンの掛け違いに気づきやすくなるのじゃないかと少し期待している。
 

2022/08/24

ブログの書き方ド下手問題⑨~一度にあれこれ語り過ぎる件~

 前回から五ヶ月半経っていることに仰天している第九回。過去の回の記事はブログの書き方ド下手問題からどうぞ。 
 今回は「書けない」というより「ちょうどよく書けない」ということについて考える。いつにもまして個人的な話なので、誰かの参考にはならないかもしれない。


 久しぶりなので、本題に入る前に「ド下手問題」と題している一連が何なのかを説明しておくと、「自分が困っていることについて自問自答して対処法を見出す、その解体と構築の過程をそのまま書き留めたもの」である。究極のところ自分の問題を解決できれば私としてはそれで良く、副産物として読める形にしたものをついでに公開しているという感じのものだ。

 さて、このブログを続ける中で私はひとつ問題を感じている。それは「記事一本が常に長い」ことで、これを解決することには前々から苦戦が続いている。このブログを始める前より抱えている課題である。
 某所では「1500字くらいを目安に」と書かれているのを見たことがあるし、まあ実際、継続しやすさもさることながら、「読みやすさ」を追求する意味でもそのくらいが読みやすいには読みやすいのだろう。一方自分が書いている記事はいつも3000~5000字くらいである。長い。
 書きたいように書いているとそのくらいに「なってしまう」ので、その意味では字数が多いというのは苦しみを伴っているわけではないが、エネルギー消費は字数の分だけ多いため、長い記事を同じサイズで書き続けるのは難しい。つまり投稿の数が少なく抑えられてしまう。数多く連打すればいいというものではないが、自分が投稿したいペースに届いていないので、そのギャップは不本意に感じている。
 (こう書くと、長く書きたくても書けないのが悩みという人を面白くない気持ちにしてしまうかもしれない、と思わなくもないのだが、今現在そういう人も私と同じ病に罹ればたちまち「長くなってしまう」ことに悩む羽目になると思うので、そういうもんかと思っていただきたく。)
 このブログを始める前に別所でちょろっと書いていた時も、長々書きたくなくて手頃な内容が何かないかと考えるなどして"頑張って"短く書こうとしたことがあったのだが、努力して捻り出したのは短いというより単なる駄文だった。アプローチの仕方を誤っていたと思う。その頃は今より焦っていたので、無闇に必死だったのである。

 常に長いのが問題と書いたが、文章が長いことそのものが読み手にとって悪いのかと言えば、それは必ずしもそうとは思っていない。
 読んだ後に「要するに、」と言って三行くらいで簡単にまとめられてしまうような(というか、そうやってさっさとまとめてしまいたくなるような)冗長な文章は長い甲斐はないが、物事をわかった気にならずにきちんと考えるためには、必然的に粒度の大きい、つまり複雑なことを複雑なことだと示してくれているひとまとまりの文章を読む必要もあるだろうと思う。文章は要約されるためにあるのでもない。要約の暴力を跳ね除ける「濃い」文章と格闘することは絶対的に必要だと個人的には思っている。

 なので、「長い記事は良くない」ということを前提として考えているのではなく、ここで私が解決したい問題は自分が記事の規模をコントロールできていないことである。言いたいことを言おうとすると必ず長くなり、コンパクトに書こうとすると無意識に内容自体を陳腐にしてしまう。これがコントロールできないということは、文章の質もコントロールできないことを意味しているように思う。
 他の人は、長さが必要な時は存分に言葉を尽くしながら、そうでない時にはよく切れるナイフをスッと入れてスッと引くような洗練された文章を書いているように思える。それなのに私はどうして「長くなってしまう」のか、ということを考えたい。

 一応いつもこれというテーマがあって書いているし、全体がそれに関連したものになっているはずではある。「ところで」とか「そういえば」とかいう断りをして脱線した時もそうで、それがあるのとないのとでは自分のイメージに読み手がどれだけ寄れるかに大きな違いがあると思うからそうしているのであり、ただ思いついたから書いたというわけではない。脱線だが脱線ではないというか、線を太くするために横に一度はみ出ているといった役割のものだ。(功を奏しているのかは自分にはわからない。)
 それらは「要するに、」とやりたい人の手にかかればバッサリ裁ち落とされてしまうかもしれないもので、意図がどうあれただ冗長なのかもしれないが、ともかく自分の中では必要があってそうしているのである。
 必要があってやっているというならこれ以上どうにもならないじゃないか、という結論に行き着きかねないが、ここで立ち止まって考える必要がある気がする。「自分の中での必要」の部分である。何がしたくて、そう念入りに書いてしまうのか。

 そこをよくよく考えてみると、自分には「話の全てを自分が感じているように読み手に感じてもらいたい」といった欲求があることがわかった。もうちょっと無機質に言うと「誤解なく追体験させたい」ということだ。そうすると、読み手を文脈に乗せることが絶対になり、文脈から外れかねない分かれ道は全部塞いでおきたいということになる。
 つまらないところで明後日の方向に脱線(こちらは文字通りの脱線)をされると、自分としてはあんまり語った意味がないような感じがしてくる。その脱線が読み手や書き手の私にとって豊かさをもたらすものならもちろん喜ばしさもあるのだが、誤解や侮りによって読み手がひとたび否定的な気分になってしまうと、その瞬間その人の中で私の文章は無価値化し、何千字だかの文字の並びは全くごみのようになってしまう。それはなるべく避けたい。一旦否定したものを肯定し直すのには恐ろしく体力が必要で、そうまでして評価を改めてもらえる可能性は高くはない。もちろん意図通りに読んでもらいさえすれば必ず評価されるはずだとかいう話ではないのだが、防げたものを防げなかったということがあったとしたらそれはかなりの損に思われるのである。
 脱線を防止する手としては「結論を先に書く」ということがある。ただ、情報を教えるとかシェアするとかいうものではない、自分の状況や感情を共有するタイプの文章を書く場合、「結論を先に書く」ということは難しい。物語性が損なわれるからである。つまり「追体験」が難しくなる。そして、「追体験」を目論むゆえに最後まで読んでもらわないと何のための物語だったのかがわからないとなると、途中で切ることには勇気が必要になる。できれば文脈を切断することなく一本で最後まで行ってしまいたい。
 そういった思い――「○○してもらいたい」と「✕✕されたくない」――でガチッと縛られていることで、文章の規模は雪だるま式に増大していくのだろう。

 自分の「誤解なく追体験させたい」という願望に対して、如何なるアプローチがありうるか。
 この願望の最も過剰な状態を考えると、「(全ての人に)(一切の)誤解なく(一度に)追体験させたい」ということと言えそうだ。こうなるといかにも雁字搦めな感がある。日頃ここまで念じているわけではないが、「よりよい文章」を追求するということがこの過剰な状態に至らしめる可能性は想像に難くない。そうなれば、文章が短くならないどころか、書くこと自体ができなくなってしまうかもしれない。「書くなら前よりレベルアップしたものを書きたい」という漠然とした向上心が、その過剰さの罠に自分を陥らせる危険があるのである。
 「誤解なく追体験させたい」という希望自体を捨ててしまうのは恐らく無理なので(個性の成分ではないかと思う)、それはひとまず理想として置いておき、括弧内の過剰さをコントロールことを考える必要があるだろう。

 まず「全ての人に」の部分を抑えるとする。わかる人がわかればいいと割り切ること、この人にさえ伝わればいいという範囲を狭く持つこと。実際どれほど努力したところで結局伝わっているのはごく狭い範囲なのかもしれないし、それなら最初から「この範囲」と割り切るのが現実的に思える。どこまで絞るかの問題はあるが、少なくとも「全ての人」が無理なのは当たり前なので、何も意識しないでいることによって無自覚に「全ての人」を目指してしまう事態は回避したい。
 ただ、この範囲にさえ伝わればと思ってはみても、そう思えばその範囲外から絡まれても平気になるというわけではない。「この範囲」と想定した相手との結びつきの強さを支えにするといったことは必要になりそうである。
 なお「全ての人に」を諦めた場合にどう短くなるかというと、例えば諸々「初見の人でもわかるように」的な配慮をしている箇所を省略できることになる。以前「同志にはいきなり語れ」という話をしたが発想を文脈から解放するには③~実践とまとめ~、助走的な文章を省くことで話は随分コンパクトになるだろう。

 次に、「一切の」の部分を抑えよう。これも端から無理なのは明らかだが、「なるべく」を強化し続けると結局「一切の」を目指すことになってしまうので、意識的に妥協のラインを引く必要がある。
 冷静に考えた時、まず「誤解されるとそんなに困るのだろうか」という問いが浮かぶ。全く困らないということにはならないが、「そんなに」困るかと言うと、そこまででもないかもしれない。誤解した人間が何か影響力の大きいことをしでかさない限り、本当の意味で私に不利益になることはまずない。声のでかい人の偏った解釈が出回るとか、好ましくない集団の中に晒されるとかするとそれは実際問題困ることになるのだが、そうならない限りは単に「イラッとする」程度のものだろう。
 これも、前述したような仲間との結びつきがあるかどうかがストレス耐性を左右する気はするので、文章の書き方よりそちらに力を振り分けたほうが結果的に「ちょうどよく書ける」ようになるかもしれない。一切誤解されないようにとまで思わなくとも、誤解しない人は誤解しない、ということをどれだけ信じられるかにかかっている。
 「一切の」を抑えれば、いちいち厳密にしようとして言葉を重ねてしまう部分を減らせるので、多分いくらか文字数は少なく済むだろう。でもどちらかというと、投稿のハードルを下げる意義の方が大きいかもしれない。

 最後に「一度に」の部分だが、作業としてはこれが一番簡単なことだろう。この記事も切断ポイントが三、四箇所あると思う。そこで思いきってえいやと切ってそれぞれ投稿すれば、ひとつ当たりの字数は減る上に、投稿数は増えることになる。
 と言っても、長く書いたのをただ分割しただけでは、そのテーマに費やす字数自体は変わっていないことになる。不完全燃焼状態の記事を投稿する勇気を持つ感覚は鍛えられそうだし、それもそれで必要だが、書き方の根本的な変化にはならない。というかむしろ、分割した後でそれぞれに加筆してトータルで増える可能性すらある。自分はただ記事一本当たりの字数を減らしたいのではなくて軽快に書けるようになりたいのではなかったか。
 別の考え方としては、ひとつの話を小さくする、つまり変化を全て書いて全部を追体験させようということはせずに、俳句のように一瞬の「感じ」にクローズアップしたものを書くということがあるだろう。上の方で書いた「よく切れるナイフをスッと入れてスッと引くような洗練された文章」というのはこういうことのような気もする。これはジグソーパズルのピースを小さくするようなもので、同じ絵を表現するためにピースは多くかかるかもしれないが、ピースを置くべき場所の検討(≒話の解釈)の幅も含めて読み手の体験としてはより豊かなものになる可能性もある。
 ピースを大きくすると、それがピースとして成り立つためにその中で論理をカチッと固める必要が生じ、その分だけ解釈の幅は狭まっていく。紙面が限られていれば解釈の幅による豊かさは説得力とトレードオフで、どちらが必要なのかは内容次第だろうが、全ての話について説得力を重視してしまうと不必要に諄く重々しくなる感じがする。

~まとめ~

  • (全ての人に)(一切の)誤解なく(一度に)追体験させたい」を目指そうとしてしまう危険
    • 文章の肥大化を引き起こし、最悪書くこと自体ができなくなる
  • 全員に → 範囲を具体的に想定し、同志間での意思疎通の成功を支えにする
    • ⇒全員と接続するための助走部分を膨張させずに済む
  • 一切の → 誤解しない人は誤解しないという実感を得る努力と信じる努力をする
    • ⇒予防線を張り巡らし過ぎずに済む
  • 一度に → 自分の変化一連全てを追体験させようとしない、断片にクローズアップする
    • ⇒論理を固めることに文を費やし過ぎずに済む

 困るのは「全部が長い」ことであって、目指すのは「全部を短くしよう」というのではない。これからも長い時は長いだろうし、種々の要素のバランスを取ったら結局これまでと変わらないということになってしまうこともあり得る。
 そもそも短くすればペースが上がるという保証もない。結局どっちにしたって、書きたいこと自体が変わらなければ難易度は下がらないかもしれないし、むしろ長いままの方が速かったりするかもしれない。
 それでも「やらない」と「できない」の差異はおそろしく巨大なので、自分の意図を構成している要素を把握し、時にスッと引く勇気を持ち、身構える力を抜く選択肢をいつでも選べるようにしておけたら良いと思う。
 

2022/03/05

ブログの書き方ド下手問題⑧~文章にするの面倒くさい問題~

 久々の「ブログの書き方ド下手問題」更新。
 これまではブログに書いて発表するにあたっての精神的な枷について考えてきた。今回は少し方向転換をして「文章にするの面倒くさい問題」に挑むことにする。


 これは今まさに自分が困っているから扱うことなのだが、書けそうなことを実際に書いていくというのが大変に面倒くさい。「これについて記事一本くらいにはなるな」と思うものが溜まる一方で、結局全然書いていない状態が続いている。この一ヶ月ほどはJavaScriptいじりに熱中していたこともあるが、そちらに熱中しっぱなしでブログ更新を挟まないでいたのはつまるところ面倒くささに負けたからである。
 前回までは「これを書いていいのだろうか」「読んでもらうに足る文章になっているのだろうか」といった迷いに対する解を探し、その点については既に解決している。今抱えているものに関してそれを書いていいという許しは自分に対して出しているので、「こんなことを書いてもな……」という足枷はもうない。しかし書いていないのである。形容するとすれば「やる気が出ない」という状態だが、単に気分的な問題ではないような気がするのでもう少し考えてみることにする。

 「これについて記事一本くらいにはなるな」と思うものがいくつかリストにあると、書くものがないという不安を退けられるので大分安心する。いつでも何かを書けるかのようである。
 しかし実際には必ずしもそういう状態にはない。書けるはずなのになんとなく書けないんだよなあということになる。なんとなく書けないのではなく明確な理由があって書けないのだと思うが、それが解決される瞬間に自覚的でないことも多いので、結局なんとなく書けるようになって「なんとなく書けなかった」という認識で終わってしまう。もちろん、そんな停滞とは無縁な人もいるだろうし、そういう人は無意識下で有効な手を打てているのだろう。
 なんとなく書けないでいるうちにリストには次々とネタが溜まっていき、前に追加したネタは相対的に古いものになっていく。するともはや臨場感を失って書くことができないという気持ちになる。そういう気持ちになるだけであって実際にそうなのかは疑問の余地があるわけだが(もし本当にそうなら自伝などはとても書いていられないのではなかろうか)、ともかくそういう気持ちになって熱意が削がれがちである。
 この「なんとなく書けない」とは何であろうか。

 そもそも考えを文章に起こすのは面倒くさいものである、ということもひとつの真実ではある。言葉になっていないものに対して、自分の頭の中にある語彙を次々引っ張り出して適切なものを選択していかなくてはならない。文章にするからには論理の関係や全体の構成も踏まえる必要がある。抑えなくてはならないポイントがいくつもあり、それら全てがすんなりいくことはそう多くはない。一方で、波に乗れば何の苦労もなく数千字数万字とさらさら書いていける場合があるのも事実だ。
 まず文章になるというのはどういうことかというところから確認する必要があるかもしれない。全ての種類の文章について語るのは難しいので、とりあえず私自身が悩みから解放されるために、私が書く題材としている「私が得た気づき」をどう書けばいいかということに絞ることにする。
 このことについては既にブログの書き方ド下手問題②~自己の言語化を意味あるものにするには~で記しているが、気づきを書きたいのであればまず経緯を明らかにする必要があるというのが最も肝要と思う部分である。何かが不十分であった過去という経緯があり、何かを気づいたり獲得したりすることによって変化し、より良い状態に至ったという流れが文章の骨格となる。逆に言えば、そういう骨格が見出された時、そのことについて話さずにはいられなくなるとも言える。巷にはそういう話が無尽蔵に溢れている。
 次々と文章が生まれて流水のように書き連ねていられる時というのは、書けば書くほど新たに経緯と変化を発見している状態なのではないかと思う。書き始める前には気づいてもいなかったことに、書いているうちに思い至る。するとここに重要な変化があったのだとわかって、そのことを書かずにいられなくなる。そうして書くと再び別の変化に気づいて、そのことを書き足していく。そうやって文章が文章を生んでいく。

 では、「これについて記事一本くらいにはなるな」と思いながら「なんとなく書けない」というまま停滞している時はどうしてそうなっていかないのか。
 典型的な失敗例としては、「これについて」の「これ」が名詞であるパターンだろう。「これについて書ける」と思った瞬間は何かの変化がそこにあったからそう思ったはずだが、それがメモした時点で反映されず、ただ「ブログについて」とか「○○法について」とかいった形で書き留められ、いざ書こうとした時にそこにあったはずの変化を鮮やかに思い描けない。頑張れば思い出せるかもしれないが、頑張るのが億劫で後回しになる。時間が経つとそれを思い出すためには認知資源を大量に消費することになってしまう。
 「これ」のメモが不十分であったために後から文章にできなくなった、ということ自体は恐らく多くの人が気づくであろう。「何のことだったっけ」と思うからだ。しかし、何のことかがわかりさえすればすらすら書けるというわけではないのである。名詞としての解像度を上げてメモしておいても、それを文章に構成するのが大変であれば結局書かれないままになる。メモした瞬間にあった鮮烈な感動はいつの間にか褪せて失われている。
 「これ」に感動したから何かを書こうと思ったという時、そこで意識されているのは「これ」そのもの、またはそれに対する感動だが、文章にするのであれば文章としての未来をそこで設定しておく必要があるのだろう。あまりにも自明であれば省略しても問題ないが、常に省略していると、気づいた時には既に風化して取り返しがつかなくなっているという事態に直面する。一手間かけて、「これ」と出会う前と後の状態を書いておく必要がある。

 つまり、メモするにあたって「これ」を名詞ではなく状態の変化として書き留めておくと後から文章にしやすくなるのではないか。しばしばブログ記事のタイトルに「○○したら△△になった」という形の表現が見られるが、それは要点としてとてもよくできていて、ただ読者を惹きつける手法としてだけではなく、後日文章を書く自分を惹きつける言い回しとしてメモに使うと有効に思える。変化を引き起こした事物そのものではなく自分自身の体験・体感にフォーカスしたメモを作るのである。
 既に名詞でメモしてあるものについては、変化を自分に問うテンプレートを作ると良いだろう。「Before」「After」の二点を問うだけでも随分違う。新たな概念を思いついたという場合でも、その概念がない状態とある状態とで比較すればその概念が如何に重要かを自分で実感できるだろうし、そうすればモチベーションの強化にもなる。文章の組み立ても自ずと明らかになっていくかもしれない。

 
 余談だが、今回の記事は実は「過ぎたことは書きにくい」というのを仮タイトルとしてスタートした。しかし考えていくと「過ぎたこと」なのが原因ではないような気がして、捏ねているうちにこういう展開になった。練ってみるまでわからないものである。
 

管理人

アイコン画像

のらてつ Noratetsu

キーワード

このブログを検索

検索

ブログ アーカイブ

2025
2024
2023
2022
2021