Noratetsu Lab

動じないために。

2021年11月

2021/11/29

思った通りに書くということ

 先月いっぱい、ブログの書き方ド下手問題と題して「ブログを投稿する」ということが如何に難しく厄介な試みであったかを語った。
 ブログの投稿には本当に苦戦したのだが、一方で、文章を書くことそのものは(客観的な上手い下手はともかくとして)それほど苦手ではないようである。とりあえず、自分の中では他のあらゆる表現手段より文を書くのが自然で苦労のない選択だ。
 とはいえ、何も意識せずにスラスラと書いているとかいうことではない。ひとつ気をつけていることがあって、今回はそのことについて書いてみようと思う。物書きでもないのにそういう話をするのは烏滸がましいようだが、自分の頭の中をメモとして書き留めているだけということで許されたし。


 

 気をつけていることというのは、ずばり「思った通りに書く」ということだ。「なあんだ、月並みな」と思われそうなので念を押すが、厳密に「思った通りに書く」ということである。「思いつくままに書く」のではなく、「思った通りに書く」のである。「思い通りに書く」「自由自在に書く」「言葉巧みに書く」のでもない。真剣に、努力して「思った通りに書く」。
 自由自在に書くのでも言葉巧みに書くのでもないので、これは「文章術」の話にはならないだろうと思う。人に文章術を説けるような身分ではないし、今回語るのはあくまで「思った通りに書くためにどうしているか」についてである。

 「思った通りに書く」ということを一段階解体してみると、恐らく「どう思っているのか」+「どう書けば良いのか」の二つの軸があると言えるだろう。いきなり「どう書くか」を考えるのではなく、まず「どう思っているか」が肝心だ。
 では「どう思っているか」とは何だろうか。そう問うと急に漠然とした感じがするかもしれない。このことを明らかにするには、むしろ「どう思ってはいないのか」と考えたほうが良いだろう。
 例えば「赤いリンゴが好き」というのは、はっきりしているようで実は非常に曖昧な一文である。「他の赤ではないリンゴの赤さが好き」なのか? 「黄色や青ではない赤い種類のリンゴの味が好き」なのか? それとも「イラストなども含めて赤いリンゴという概念が好き」なのか? そのいずれの疑問も「赤いリンゴが好き」では解かれない。「赤いリンゴが好き」という一文は、「赤いリンゴが好きではない」という状態を否定してはいるが、それだけのことしか言えていないのだ。つまり、「赤いリンゴが好き」という一文から読み手が想像しうるものが大変に広くなってしまう。それは誤解の可能性の大きさと同じである。コメントされて「いや、そういうことじゃないよ」と答える羽目になるかもしれないし、それは「どう思ってはいないのか」を十分に表現しなかったことが要因になり得る。(単に読み手がよく読まなかっただけのケースもある。)
 「赤いリンゴが好き」と言いたい時、では「他の何"ではない"のか?」ということを己に問わなければならない。その答えがすんなり出てこないならば、文意の曖昧さは日本語の問題ではなく、自分の認識自体が曖昧なのが原因であると言えるだろう。

 次に「どう書けば良いのか」だが、これは実際のところ「どう思っているのか」を明らかにすることで半分は自動的に解決するように思う。
 「どう書けば良いのか」と問うた時、解決すべきは「自分の中にあるイメージをどう表現すればそのまま伝わるのか」という問題であろう。これも「どうなのか」以上に「どう"ではない"のか」が大事であると言えそうだ。
 例えば赤いリンゴについて言いたいことが「他の赤ではないリンゴの赤さが好き」ということだとする。「リンゴの赤さが好き」という話をするのなら、リンゴの赤のどの部分の話をしているのかを明確にする必要があろう。

  • 高級な口紅のような深みのある紅が好きなのか
  • カラーそのものが好きで他のものでも同じ色なら好ましく思うのか
  • 自然物らしく細かい濃淡によって複雑な色味になっていることに惹かれるのか
  • 茎の根本のクリーム色へのグラデーションが好きなのか
  • 果肉の仄かに黄色みがかった白との対比として美しく思うのか

 これのいずれなのか、または複数もしくは全てなのかはわからないが、とりあえず当てはまるものをそのまま書いたならばそれでもうかなり細かく話をできていることになる。当てはまらないものは「こういうことではない」と書けばそれもまた文意の補強になる。(とはいえ、否定形で書く場合は読み手の気分を害する可能性を伴うことを想定するのが平和な書き物ライフのひとつの要と言えよう。)
 もしかすると「そ、そんなに細かく考えたことない……!」と思われるかもしれないが、こういう「どの部分か」という掘り下げは「他のものではない」という切り分けによってさくさくと進む。自問さえできれば、「違う」と判定すること自体はそんなに難しいものではない。
 そして正直に言うと、こういう自問自答は大抵「さあ書くかね」と思ってからスタートする。エディタに向かって書く過程で自分に問うのである。つまり常日頃そのように解像度高く生きているわけではない。むしろ、書くために自分を知る必要に迫られ、書くことで初めて自分を知るのだ。普段はボーっと生きているが、書く時にはボーっとしていられないから、書かれたものがそれなりに濃いものになっている。ある種のマジックである。何かしらの思いや考えがあるから書き始めたのにもかかわらず、書きながら「あぁ、私ってそう考えてたんだ」と知ることになるのは、書くということに誠実であろうとするならばごく普通に起こる現象なのだ。

 ところで、「どう"ではない"のか」というのはどこまで問えば良いのだろうか、という疑問が当然生まれるであろう。細かく見ていけばどこまでも解像度を上げていくことができてしまうだろうし、逆にすぐ道が途切れて先に進めなくなることもある。
 つまるところ、それは「何を言いたいのか」によって決まるものだ。赤いリンゴが好きだということについて本気で語りたいのなら上述のように突き詰めていく必要があるだろうし、ただ好きな果物を列挙する中で「黄色よりは赤いほうが好き」などと言うだけならそれ以上の自問自答は必要ない。記述が全体を構成する部品のひとつでしかないならあっさり通り過ぎても読み手が引っ掛かりを覚えることはなく、一方明らかに「赤いリンゴが好き」ということが記事の主題なのに情報が乏しければ「内容の薄い文章だ」と思われることもあるだろう。言いたいことを言い切れたかどうかが問題で、言い切れたかどうかを判定するには「何を言いたいのか」が定まっていることが必要である。
 自分が「何を言いたいのか」がまずもってわからない、ということもあるだろう。表現を仕事や趣味にしていない人はそもそもそういうことは考えないで生きていくかもしれないし、それでも然程支障はないように思われる。それでも何か表現をしたいと思うのなら、自分で言語化できていないだけで自分の内には何か言いたいことがあるのだろう。
 私の場合を言えば、「何を言いたいのか」というのは「何を蔑ろにされたら困るのか」とほぼ同義である。私個人にとって困る場合もあれば、私が生きているこの世界にとってそれは困ると言いたい場合もある。無理解の暴力による蹂躙に耐えられないから文章でバリアを張って、私や私が属する何か、私が好む何かを守らんとするのである。或いは、自分で何かを書いていかなければ私という存在が自分自身や世界にとって希薄になってしまうから、文章でもって私をこの世界に固定しているのである。このブログは基本的に後者を動機としているが、他の機会では前者を目的に発信することもある。

 さて、「どう書けば良いのか」というのは「どう思っているのか」を明らかにすることによって半分は自動的に解決すると書いたが、もう半分のことも考えなくてはならない。ここまでは「自分がどう思っているのか」の話をしてきたが、今度は「読み手はどう思うのか」に思いを巡らすことにする。
 ごく簡単な例を上げるならば、「赤い林檎が好きだ。」と「赤いりんごが好きなんですよね!」と「赤いリンゴってマジ尊い……。」とでは、文の意味としては「赤いリンゴが好き」でも文章の持つ意味合いとしてはそれぞれ違ってしまうだろう。読み手の中に結ばれる書き手の像が丸っきり異なっている。この例は名詞の表記と語尾を違えているだけだが、単語の差異に留まらず、フレーズや文単位でもどういう記述を加えるかで文章の総体としては全く違った存在になっていく。
 そもそもこういったことはどうして行われるのか。ただ自分にとっての真実を書けば良いのであれば、書き言葉としてごく一般的で平易な表現をすれば良いだけの話である。「私は赤いリンゴが好きです。皮の赤みに高価な口紅のような気品を感じるからです。」と書けば、それでも一応ある程度の独創性を感じるであろう。万人がリンゴの赤さに対してそう感じるわけではないからだ。しかし、これでは何かが足りないような感じがする。例えば、これを書いた人間の雰囲気が全くわからない。本当に「思った通りに書く」ことが達成されているのだろうか?

 他ならぬ私という人間が、他ならぬその対象に対して何かを思い、そしてそれをなるべく確実に読み手に伝えようとしている。そこには、

①このようなことを思った
②それを誤解なく書き表すならこうだ
③そしてこれを思ったのはこの私である

という三つの要素があるように思われる。「どう思っているのか」を突き詰めていけば、他の選択肢への道を排除することによって①と②の半分が解決するだろう。それでは②のもう半分と③はどうやって表現されるのか。それは謂わば「演出」であろう。
 演出というと読み手の気分を操作するものという印象があるかもしれない。それももちろん含むが、ここで大事なのは「読み手の思考を順路に導く」ということだ。書き手の全く意図しないところに行かないように、順路はこちらですと表示すること。赤いリンゴの話をしていて「じゃあトマトも同じですよね!」などと言われたらば困るようなら、「私はどうしてかリンゴにだけこだわってしまうのだ。」とでも書けば「じゃあトマトも」とはならない。トマトの話をされるのを防ぐためにその一文を置いたのだとしても、読み手はそのようには思わずリンゴに対する思いの強さを演出するものとして解釈するだろう。あまりに直接的に可能性を断とうとするともはや演出ではなくなってしまうので、言葉選びには神経を使う必要がある。
 単に赤いリンゴに対して思ったことをその通りに書くならば「他のものは一切無関係だ」という情報は不要なわけだが、もし読み手に誤解されたり意を汲まないコメントをされたりしたくないのならばそういった演出が要ることになる。読み手はそれぞれが自分の経験と知見に基づいて自由に想像を膨らませて読むのであり、書き手の意図がどうだろうがその意図を明示してくれなければ他の可能性を気ままに想起してしまう。もちろんそうした読み手の自由こそを重要視して敢えて如何様にでも解釈し得るものを表現する場合もあるし、加える演出の質は今書く文章について読み手にどう思ってもらいたいかに依る。

 今の話は②をイメージしたものだが、③の表現についてもつまりは「読み手の思考を順路に導く」ことであると言えるだろう。私という人間の個性を表現したいという気持ちもないではないが、どちらかというと、自分の人物像を明らかにしていくことによって「この人ならこういう意味で言っているのではないか」という感想を導き、特定の解釈の可能性を高めるという意味合いの方が強い。「私はこう思った」ということを雰囲気全体で補強するわけである。全ての文に完全に誤読のない表現を徹底することは不可能であり、書き表しきれないところは「この人ならこうだろう」という推察に頼ることになる。そういう推察を読み手が必ずしてくれるとは限らないが、人物像を示しておくことによって、少なくともそういう推察をしてくれる人には誤解されにくくはなる。
 また、プラスアルファとして個性的な人物像が持つ滑稽味を付与することもできる。例えば「真面目な顔して変なことを言っているぞ」というのは真面目さを予め演出しておかなければ成立しないことであり、逆にヘラヘラしたノリで書いていたのに急に量子力学の話を滑らかにし始めたら読み手は意表を突かれて笑ってしまうだろう。ただこれは技巧の領域であって「思った通りに書く」ということからは外れるので、これ以上は語らない。

 この調子で「私はこう思ったのであり、他のものではない」ということを自問自答で追求しながら、不本意な解釈の可能性を断つように演出を加えて導いていく。その工夫を通して文章は自然と厚みと鮮やかさを増し、読む甲斐のあるものになっていくだろう。そう信じて書いていくのが私にとっての文章である。
 

2021/11/22

デジタル日記の試み④~Dynalistに日記と日誌のファイルを作る~

 デジタル日記の試み語り第四回。今回で現時点の試行錯誤の報告としては最後になる。

 迷走時代→Scrapbox→Notion+Word、と来て、結局今どうしているのかという話をしていく。


 

 Notionで日誌、Wordで日記というスタイルは一ヶ月半くらい続けていたが、今現在は日誌も日記も併せてDynalistをメインにしている。前回までの力説はなんだったのかと言われそうだが、ここまでの試行に何らかの手落ちがあったというのではなく、それはそれで良くて、今現在の自分により合うものを模索したらDynalistに辿り着いたということである。
 Dynalistとの付き合いはそれなりに長く、苦闘の日々は以前「アウトライナーの使い方ド下手問題」として記したのだが、最近になってガラッと使用感が変わった。というのは、ブラウザの拡張機能によってCSSを上書きして表示を変えてみるということを試したことで、Dynalistが元々備えていた機能に対する「使いたさ」が変わったからである。具体的に見た目をどうしているかは今回の趣旨から外れるので語らないが(Dynalist自体が提供している機能ではないのでそもそもこれ以上語らないかもしれないが)、ともかくそういう経緯によってDynalistをもっと使いたくなり、日記・日誌の場所をDynalistに移すに至った。その結果今になって利点を理解した機能もある。私はDynalistのことを全然わかっていなかったのだ……。

 CSSをあちこち変えているので普段実際に見ている景色とはかなり違うのだが、一応Dynalist上で日記や日誌をどう記述しているかという画像を貼っておく。まず日記はこちら。

画像

 前回のWord同様なんてことのない光景である。
 ひとつポイントがあるとすれば日付タグだ。Dynalistではタグとして「@」から始まるものと「#」から始まるものの二種類を設定することができ、私はDynalist内全体で「@」を日付専用にすることにした。タグをクリックすればその日に関わる記述を探すことができるが、「@2021」で検索すれば2021年の記述が、「@2021-11」なら2021年11月の記述が、「@2021-11-2」なら2021年11月下旬の記述が抽出される。Diaryファイル内で日付を検索することはないが(順番に並んでいるので見ればわかる)、他のファイルにフォーカスしていて横断検索をした場合に日記も引っ掛けることができるのは安心感がある。なお、必ず同じ書式で書くならタグにしなくても構わないのではあるが、アイデアを書く時などに「日付を書いたぞ」というのを明示したいということがあり、日付はタグにすることで統一している。
 ここで補足しておくと、Dynalistには日付を入力する機能があり、「!」と打てば日付選択のカレンダーが出てくるのだが、個人的には@タグの方がシンプルでやりやすいのでタグを使っている。
 日記の書き方は適当で、別に敢えて「残したい」とは思わないようなものでも構わず書く。消したくなったら消せば良い。アウトラインを閉じてしまえばしょうもない記述の圧迫感などは霧散するので、残っていて不都合を感じることはほぼない。とはいえもし悪口や憤りを書いたりした場合には、隠していても負のオーラが放たれる気がするので適当なタイミングで消してしまったほうが良いかもしれない。
 日記は巻物状であってほしいということを二回にわたって強調してきたが、Dynalistはどうかというとこれも下位項目を全部開いてしまえば普通のテキストファイルと同じく巻物状である。PCからの操作に限ってしまうが、ショートカットキーによって一段階だけ開く(それ以下はその時点での状態による)こともできるし(Ctrl+.)、全部バッと開いてガッと畳むこともできる(Ctrl+Shift+.)。むしろ好きな粒度で「巻く」ことのできる柔軟なデジタル巻物と言えるかもしれない。アウトライナーの折り畳みはパタッと折り込むあるいはグシャッと潰す(collapse)イメージを持っていたが、模造紙にそうするようにくるくる巻いたり広げたりするイメージを当てはめることも可能だろう。
 横断検索で日記を引っ掛けられるのは安心だと書いたが、状況によってはArchive設定にして検索に掛からないようにすることもあり得る。とはいえ、ファイル自体の位置が下の方なら横断検索での検索結果も下の方に表示されるので、ファイルの位置を気をつければ基本的には検索に掛かっても気にならないし、Archive設定にすることはあまりなさそうである。

 次に日誌はこんな感じ。内容はサンプル用の架空のもの。

画像

 日記とはファイルを分けており、こちらは記録用であって事実だけを書いている。日記は日付の子項目にメモを並べているが、日誌の方は日毎の階層を作らず項目にいちいち日付タグをつけている。そして#タグでおおよその種類を区別していて「前回どうだったっけ」といったこともすぐに見つけ出せるようにしている。日常生活での出来事は大抵一行で済ませるが、必要があれば子項目を作る。
 また、プロジェクトなどは別のファイルにそのプロジェクトについて説明する欄を作っておき、日誌ファイルではプロジェクト名へのリンクを貼る。そうするとリンクをクリックしてプロジェクトの項目を開いた時、下部のバックリンク欄に経過が全て並ぶので便利である。よってタグは一般的な括りに留めておき、固有名詞は行リンクを使うことにしている。
 日記と日誌とで重なる要素があると思うと、タイトルのつけ方などでなんとかして工夫して一箇所にまとめたくなってしまったりするのだが、我慢して二つの場所を明確に分けることで見返しやすさを高めている。相互にリンクさせたい場合は行リンクを貼ればいいだけなので、場所を分けることに今のところデメリットは感じない。

 具体的なやり方は以上だが、NotionとWordの組み合わせに不満はなかったのにどうしてDynalistに移ることにしたのか。
 端的に言うと、Notionで日誌をつけるということが今の自分の生活に対してちょっと仰々しすぎるように感じたためである。僅かに手間もかかるし、また実際の手間以上に「手間をかけている感」が大袈裟で気疲れしてしまう。良いやり方だとは思うのだが、そこまでしなくていい。Notionで便利に感じた要素を踏まえて、もう少し身の丈に合った方法に縮小させたくなった。結果として、Notionでのプロパティで得た感覚をタグと行リンクの使い方に応用してDynalistに移行するに至った。なお、日誌以外の用途(例えば本の情報管理など)ではNotionの活用を継続している。
 こうして日誌要素をDynalistに移し、また見た目を自分好みに整えたことにより、Dynalistを使う頻度や時間が増した。そうすると日記要素もとりあえずDynalist内に書いておきたくなる。元々、スマートフォンからメモをする時には簡単にPCと同期できるメモ置き場としてDynalistを選択しており、結局どこからでも一度Dynalistに書き込まれることになった。Wordを使っている間はスマートフォンからのメモをわざわざWordにコピペしていたのだが、PCでもまずDynalistに書くとなるとWordに移す手間に疑問を感じざるを得ない。前回、Officeソフトについて画像の取り回しの自由さを讃えたばかりだが、日記の大半は画像を伴わない記述である。また、素朴な「なんてことのない」記述は「移す」という行為と合ってないようにも思う。やはりここでも仰々しさへの違和感を覚えたと言えるかもしれない。
 とはいえ、日記として書きたいものが全てアウトライナーの形式に合っているわけでもない。そういう感じじゃない、ということが発生するし、もう少し修飾したいこともある。ということで、Wordの日記は内容を限定して継続することにした。紙の手帳に綴るようにレイアウトやデザインを気にしたいような大事な内容はWordの機能を遺憾なく発揮して記すことにして、単に「なんかこんな気分だなあ」というようなものはDynalist内に書く。上記の日記サンプルにも記述してあるが、Dynalist内にWordのファイル名を書いたノードを用意し(使用ツールの一覧みたいなものを作ってある)、Wordに書いた時にはDynalistの日記ファイルにそのノードへのリンクを貼って「このことについて○○.docxに書いた」という旨を記載しておく。そうすれば情報の分散に後から振り回されることもないだろう。

 このような形で、最近はDynalistに日記・日誌をつけることで納得している。いい加減どこかに落ち着きたいのでここがゴールであってほしい。「デジタル日記の試み」と題した記事が延々続かないことを祈って、まずは全四回ということで終わりにしたいと思う。
 

2021/11/20

デジタル日記の試み③~Wordで日記らしい日記を書いてみる~

 デジタル日記の試み語り第三回。

 前回は「日誌」をNotionにつける試みについて書いたが、今回はその間「日記」をどのように書いていたかという話を書いていきたい。


 

 前回の最後に以下のように書いた。

 私の理想としては日記は巻物のようであってほしく、時系列順にずーっと続いた形で表示されてほしいのだ。実物の巻物は後から加筆するのが難しいのでアナログ巻物を日記とするわけにはいかないが、頭の中にあるイメージとしては巻物に見立てられることを前提としている。
 これを踏まえて、適切なツールを考えてみると、まず浮かぶのはプレーンテキストである。メモ帳を開いてただ書いていってもいいし、階層付きテキストを扱えるソフトを使ってもいいし、Markdown形式で適宜見出しを付けながら書いてもいい。テキストだけなら余程の量を書かない限りは動作に支障が出ることもなく、管理上分割する必要があるというのでなければたったひとつのファイルに丸一年分くらいは書けそうである。見た目にあまりこだわらないのならプレーンテキストで十分であろう。
 ただ、個人的には自由に修飾を加えたいし、且つプレビュー画面がエディタ画面と分かれていないWYSIWYGのツールを使いたい。

 その結果思い至ったのが、Microsoft Wordの活用である。
 なおOfficeソフトとの付き合いや思い入れについては、先日Office日誌:思想を自分の手に取り戻そうにまとめた。また、ファイルやツールの見た目を自分の感性に合うように整えて使うということをOffice日誌:フォントと背景で「自分の場」感を演出するで書いた。Officeソフトに対する私の基本姿勢について書いているので、よかったらそちらもどうぞ。
 さてWordで書く日記が具体的にどのような形式かというと、以下のような形である。(内容はサンプル用)

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 実に「どうということもない」という感じの、普通の見た目をしている。
 日付は見出しレベル1、下線の引かれた部分が見出しレベル2で、必要に応じてレベル3、レベル4まで用いている(基本的にはなるべく階層を浅く保っている)。Wordは左ペインにナビゲーションウィンドウを表示することで常時アウトラインを俯瞰できるので、見出しを活用すれば記述が増えても全体を把握できなくなるおそれはない。
 見出しの書式は自分でスタイルに手を加えて自分好みになるように設定した。印刷するものでも発表するものでもないので、シンプル且つ一目でレベルが判るような見た目にしている。
 Webレイアウトにすれば改ページを気にする必要はないが、私は紙のノート感を若干感じたいので、A4横で余白やや狭めの二段組に設定して印刷レイアウトで表示している。だいたい日単位で改ページしているが、一日の記述が紙面の半分にも満たない日が続いた時は改ページしないこともある。気分で適当にやっている。
 更に、Officeソフトはファイル内の要素にジャンプするハイパーリンクも設定でき、Wordでは見出しに設定されている要素と自分でブックマークを設定した部分にリンクすることができる。よって過去の特定の記述にジャンプするリンクを貼ることも可能である。

 あと忘れてはならないのは画像の取り回しである。今改めてOfficeソフトと向き合ってみると今更に驚いてしまうのだが、画像の加工や表示方法の豊かさは一般的な情報整理ツールでは到底得難い。
 単に画像を表示できればいいのなら画像をそのままベタッと貼れればそれで十分だろうが、例えば日記のように自分の気分が良くなるように色々と調整したい場合には、ただそのまま貼り付けただけでは味気ないし気分が乗らない。縁を付けたり影を添えたり斜めに傾けたりトリミングしたり色を変えたりと多様な手段によって自分好みに加工し、また前面でも背面でも文中でも自由に配置することができるのは、仕事用以上に自分用のファイルでこそ威力を発揮する機能なのではなかろうか。(Officeソフトでできること以上の細かいこだわりがある場合には別途専用の画像編集ソフトを使う必要があるだろうが、ある程度見た目を整える程度なら十分である。)
 腐れ縁の気分で「Wordの機能」として見てしまうともしかするとどれもダサいかのような気がするかもしれないが、ダサいかどうかは使い方の問題であり、Wordでできる加工自体が全部ダサいわけではないように思う。用いる効果と色味の組み合わせ次第である。

 また、肝心の内容は前々回で書いた通りだが(要するに何でも良い)、とにかく「フォーマットを作らない」ということを決めて死守している。夏休みの絵日記の宿題ではないのだし天気も書いたり書かなかったりで、どの要素についても書きたければ書けばいいし書く気が起きなければ書かなくていい。日記と言っているが書かない日もあるし、書くことがないと自分が思ったならそれで良いことにしている。
 必ず書くと決めることによって生み出される成果ももちろんあると思うが、私の場合はそういう自分ルールは己を雁字搦めにするデメリットがメリットを遥かに上回ってしまうので、「とにかく書く」より「とにかく書きにくくしない」ということを重視することにした。

 Wordに書くことによって、巻物のように時系列に並び続け、アウトラインを俯瞰でき、ファイル内リンクも設定可能で、画像は様々に加工し得て、またフォントや背景に各種スタイルなど全体のテーマも好みの形にでき、手書きの日記に近い自由度とデジタルならではの処理をどちらも獲得できることに気がついた。
 もしもっと明確な(あるいは対外的な)目的がある用途で用いるならば各機能に力不足感を覚えるかもしれないが、日記というごく個人的でライトな用途で使う上では「色々なことがおおよそできる」というOfficeソフトのバランスに助けられる。

 そしてもうひとつ個人的に大きな変化があったのだが、それは「スマホでも扱えるということにこだわらない」という感覚を取り戻したことである。
 Office日誌:思想を自分の手に取り戻そうでも書いたが、環境の都合によって一度スマートフォンをデジタルの拠点にした時期があったために、PCの比重が増してからも「スマホでも見れる・編集できる」ということに固執するようになってしまった。スマートフォンから見ることができない情報にどことなく不安を覚えるのである。
 しかし、日記なんて別に四六時中アクセス可能性が保証されていなくても構わない。確認したくなることがあるとすれば「いつ、何をやったか」という事実の情報で、それは前回書いたようにNotionに書き出していた。そのように日記と日誌を分けることによって、全部一箇所に、そしていつどこからでも見れる形にしなければ、というこだわりを手放すことができた。不安に対して視覚的な楽しさの方が勝ったから上手くいったのだろう。
 日記を通じてその感覚を得たことにより、日記以外のことでも冷静にスマートフォンからのアクセスの必要性について検討することができるようになりつつある。この点でも、情報整理ツールの群雄割拠時代に敢えてWordに立ち戻る選択をした甲斐があったと感じている。

 次回は、今回までのことを踏まえて結局今現在やっていることについてまとめることにする。
 

2021/11/17

デジタル日記の試み②~Notionに日誌用データベースを作ってみる~

 デジタル日記の試み語り第二回。

 今回は日記というより日誌だが、それにNotionを使ってみたパターンについて書いていきたいと思う。


 

 まず見てもらった方が早いと思うので、イメージのスクリーンショットはこちら。

画像

 例の内容がなんとなく貧弱だが、やっていることとしては、日常で発生する出来事のうち後から探し出したいと思う可能性のあるものを全部ひとつのデータベースに記録していくということだ。粒度は前回Scrapboxについて書いたのと同じで、多ければ一日に何項目も書くことになるし、何もなければ何も書かない日もある。なおルーティンのチェックにも使えるとは思うが、私個人としては毎日やることについて書き込むというのが難しかったので、トラッカー的な使い方はしていない。
 実際にはプロパティ(列)はもう少し色々と作ってあるのだが、基本的な要素は例のように日付、イベント、種類、カテゴリ(分野)、場所、支出の6つであろう。このうちカテゴリについてはリレーション機能を使っており、下記の記事をご参照いただくと意味するところが解るかと思う。

 自分の行動を分類するとき、自分の行動としての種類、つまり「仕事としてやったこと」「趣味としてやったこと」「スキルアップとしてやったこと」といった区分けと、その対象の分野、つまり「絵を描いた」「プログラムのコードを書いた」「映画を観た」などといった区分けがあり、それらを別のプロパティで整理している。前者は日記のデータベース内のみで使うのでマルチセレクト、後者は他のデータベース(書籍情報やweb記事のクリップ、動画の視聴ログなど)と共通して使っておりリレーションを設定している。とはいえ使用感としては両者の間に然程の違いはない。当てはまるものを0個以上選択するだけのことである。
 また、仮に特定の種類の記述が偏って多くなったりしたとしても、フィルターをかけた状態のビューを用意すれば条件を満たすものだけ表示したり非表示にしたりということが可能なので、記録するにあたって「見た感じのバランス」に囚われる必要もない。とりあえず全部突っ込んで、見たいものをフィルターとソートによって取り出せば良い。
 こうすると、自分に必要な観点によって抽出できるようになり、あれは何日にやったっけとか、この時期はだいたいどういう過ごし方だったっけとかいうことを簡単に振り返ることができる。プロパティを工夫すればいくらでも自分好みの管理が可能だが、しかし継続できる範囲に収まるように重々気をつける必要がある。検索すれば出してこれるものまでもをいちいちプロパティで管理すると入力は二度手間ということになるし、シンプルに検索で探すという習慣自体を失いかねない。データベースの形をしていようとあくまで自分のための「メモ」であるという意識を持ち、管理できている感に乗っ取られないように注意が必要である。

 冒頭で「日記というより日誌」と断ったが、私は日記的なメモは基本的にNotionの中には書かないでいた。
 と言ってもそれは単に「Notionで日記は向かない」という話ではない。各項目には自由にプロパティを設定できると同時にノート欄に自由に記述を加えることができるので、もちろんNotion内に詳しく日記要素を記しても良いだろうと思う。画像も貼り付けられるし、画像があればギャラリーモードで一覧できて楽しい。イベントとして切り分けられないことも、必要があれば例えば「日記」というタイトルの項目を作って書いてしまえば良いことで、自分の思い込みに邪魔されない限りはデータベースという形式によって記入が妨げられることはない。Notionに全情報を収録することに納得できればそれで良いのである。
 個人的な話として、私の場合はNotionに自分の気持ちや考えなどを書き込むのはいまいちしっくり来なかったのでやらなかった。というのは、記述部分をTwitterのタイムラインのように並べて流し読むということができないからである。私の理想としては日記は巻物のようであってほしく、時系列順にずーっと続いた形で表示されてほしいのだ。実物の巻物は後から加筆するのが難しいのでアナログ巻物を日記とするわけにはいかないが、頭の中にあるイメージとしては巻物に見立てられることを前提としている。
 それではNotionに日誌をつけている間、日記は何にどう記していたのか。それを第三回の内容にしたいと思う。
 

2021/11/14

デジタル日記の試み①~Scrapboxに日記用プロジェクトを作ってみる~

 日々繰り返している試行錯誤について、ちゃんと記録してもっと記事にしていこうと思ったので早速着手することにした。
 私はデジタルツールで日記をつけるということにずっと悪戦苦闘しており、最近もあれこれ試しているのでひとつずつ書いてみる。


 

 気持ちとしては例によって「日記のつけ方ド下手問題」と題したいところだが、今回の場合は自分との対話というより単に試したことをさらっと書いていきたいので、簡単に「デジタル日記の試み」とした。

 日記というものについてはまず紙に書くかデジタルツールに書くかという選択があるわけだが、日記や手帳の特集でしばしば見かける「毎日ぴしっと日記帳に書いてそれが五年十年と経って宝物になっている」という光景にそれはもう大変な憧れがある。しかし残念ながら、私の人生に於いて日記帳の一年以内の挫折率は今のところ100%であり、どうやら手で紙に書き続けるというのは私には無謀な挑戦らしい。
 媒体の種類以前に、「日記を書くこと」の習慣化自体にもハードルがあるようだ。日記帳や手帳に毎日同じような心持ちで向かうことができないために、「日記の時間」の確保がどうも有効に働かない。隙間時間に「今これやった」「今こう考えた」を打ち込んでおいて、気が向いた時にそれなりの形に整えるのがせいぜいだ。
 編集できない文章をいきなり紙に書いてしまうことにも心理的に大きな抵抗がある。後から「この表現微妙だな」と思うと気になってしょうがない。デジタルなら見つけ次第いちいち修正するのかというとそうでもないのだが、微妙な表現が放置されていることそのものより「書き直せない」という制限を感じるのがストレスになる。それを回避するには下書きでもして納得のいく表現を用意してから書くしかないが、しかし日記というのはわざわざ練って書くようなものではないだろう。そんな暇はないのである。(作品として発表するつもりなら話は別だが)

 ということで、憧れは諦めて自由に編集可能なデジタルツールに書くことにしたはいいが、長い間ひとところに定められずDynalistとScrapboxとその他のサービスやフリーウェアの間で彷徨っている。結局のところ紙にしてもパソコンにしても、何でもいいからどれかひとつの形式を決めてそこに淡々と書き続ければいいだけの話であるにもかかわらず、私の気質に問題があるのかそれがなんとしてもできないのである。大学ノートに書き始めていつの間にか何十冊に、みたいな話を聞くたびに私もそうでありたかったと溜息をついてしまう。
 私がどういう問題を抱えていることによってあちこち転々とする羽目になっているのかは今回は考えないが、最近試したいくつかのやり方はそれ以前と比べて不満が少なく、見当違いの努力で迷走している感はなくなってきたので、どうやらある程度気分の振幅が抑えられるようになったらしい。

 今年の6月から9月いっぱいまでやっていたのが、Scrapboxに日記用のプロジェクトを用意して書くというやり方である。
 全てのページを「yyyymmdd 出来事」の形にして、発生したイベントや視聴した番組のメモ、耳に入ったニュース、考え事などを書いていく。認識としては日記だが、1ページに1日全体をまとめるのではなく、1ページには1イベントだけ記す格好だ。例えばこんな感じ。

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 記述は十行以上になることもあるし、タイトルだけで本文は一行も書かないこともある。(ちなみに実際にはケーキを買ったりはしていないし最寄りの駅前にイタトマはないのだが、サンプルのために適当に書いたら食べたくなってしまった。しばらくケーキ食べてないなあ。)
 出来事と書いたがいわゆる出来事の範疇に留まらず、Web記事やYouTubeで見た動画、漫画の感想などもこの形で書いていった。フォーマットはなく、検索で出てくれば良いということにしてリンクも気分次第で、とにかくゆるくやることを意識した。一日に10ページ作る日もあれば1ページもない日もある。また、例のように日付のリンクも張っていない。張ってもいいと思うが、張らなくてもよかったので張らなかった。
 ひとつ心掛けていたのは、ページ一覧画面でサムネイルによって内容を視覚的に判別できるようにすることで、フリー画像を使ったり写真をアップロードしたりロゴ画像を借りたり、なるべく何かしらの画像をつけるようにしていた。ページ一覧画面にサムネイル画像が並んでいるとポップな感じがしてとても気分が良い。
 なお、個人用のプロジェクトをひとつにまとめたい人は他の用途と兼ねても良いだろうし、そうすることに堪えるのがScrapboxだと思うが、個人的には混ざってしまうとどちらの用途から見ても互いにノイズになっているように感じてしまうので日記専用のプロジェクトを作った。今ならUserCSSで特定の文字列から始まるページをフィルタリングして一覧から除くといったこともできるので、ノイズ感を低減する工夫の余地はあるだろう(私がこのプロジェクトを作った当時は、特定のページを非表示にはできても空間を詰められず虫食い状態が避けられなかった)

 数百ページ作ったところで結局このやり方もやめてはしまったのだが、特に不満や違和感があったというわけではなく、まあこれはこれで悪くないよなと今も思っている。何より日記の粒度についての学びが大きく、また視覚的な気分の良さを重視すべきだという意識も培われた。この先に試したことでもその感覚は大いに活かされている。
 Scrapboxでなければならない理由がないがゆえに、他の可能性を試したくなりフェードアウトしたが、またそのうち戻ってくるかもしれない。
 

2021/11/09

Notion日誌:自己不在の不安が私を「データベース」に憧れさせた

 ここ数ヶ月、Notionを生活に取り入れている。必要に迫られてのことではなく、「見た目が綺麗だと嬉しい」「ピックアップが楽だと嬉しい」というようなふわっとした動機でごく個人的な情報を扱っている。期待しすぎることもなく、また「服に着られている」かのように「ツールに使われている」ということもなく、ちょうどよく活用できているように思う。


 

 そういうわけで具体的にどう使っているかを書こうかと思ってエディタを開いたのだが、その前に失敗談について一度まとめておく必要が(私の人生に於いて)あるだろうと思ったので、そちらから先に書くことにする。

 Notionとうまく付き合っているのはここ最近のことだが、Notionと出会ったのは二年以上前の2019年のことで、noteにもNotionに関する記事を書いたことがあるNotionから学んだこと――情報管理の五形態。当時はまだ無料版にかなりの制限があり、別に仕事に使うでもなかった私は課金するほどの動機づけがなく、最初から様子見のつもりではあった。学べるところは学んでおこうというくらいの気持ちだ。
 そうして触ってみたのだが、これがまあなんとも使い方が下手くそなのである。構造がどうこうの問題ではなく、データベースのためのデータベースばかりを作ってただただ時間を溶かしていた。データベースにできそうなデータがあるからデータベースにしよう、というノリの産物でしかなく、データベースが完成した暁にはどう活用するつもりなのか自分でもわからなかった。また、同じことをその後Airtableでも繰り返した。

 時を遡るが、データベースというものを初めて扱ったのはまだ大学生の頃だった。その時は必要に迫られてOfficeソフトのAccessを使っていたのだが(やっていたのはごく簡単なことで、データベースの機能を十全に活かすスキルを身につけられたわけではない)、そうしてデータベースなるものに触れたことによって、当時の私は漠然とした希望を感じた。すっきり整理すると先が見通せて適切な判断を下すことができる、一目で網羅できないようなこともデータベースがあればたちどころに把握出来るようになる、というような希望である。
 今となってはそんな希望は幻でしかないことは当たり前にわかるのだが、当時はデータベースが放つ全能感に強く惹きつけられ、一方でデータベースの仕組みを今ひとつ掴めない文系思考人間の自分に無能感を募らせていた。私の中でデータベースという概念はコンプレックスとともにあった。コンプレックスによって惹かれ、惹かれることでコンプレックスが強化されていった。
 別にデータベースの概念を仔細に理解し扱うことなどできなくとも、それで人として無価値ということにはならないと思うが、自分の無能ゆえに魔法の杖を手にできないという心境にあった私はパソコンを開くたびに「本当はこんなにも馬鹿だったのだ」と自分に落胆していたのである。その評価が覆る日を夢見ていたが、そもそもデータベースが力を発揮するには曖昧過ぎるものをデータベースソフトで扱おうとしており、恐らく実現しようもないものを求めていたように思う。

 私はどうしてデータベースというものに希望を見出し憧れを抱いてしまったのか? そこから考えなくてはならなかったのだが、しかしそれを冷静に考えられるようになったのはごく最近のことである。具体的には今年の春くらいであった。逃げて目を背けていたというより、データベースに憧れを抱いていたこと自体が恐らくおかしかったのだと思い至ることがそれまでなかった。

 個人的な話になるので詳細は省くが、以前の私は四六時中正体の見えない不安に襲われていて、自分というものがなく、自分で何かを選択するということがおそろしく難しかった。今でこそ「私は私の好きなようにやるんじゃー!」とばかりに自己を前面に押し出しているが、前までは例えば自分が何色が好きで何を食べると幸せかというようなことすらもわからなかった。制服を着て範囲の決まっている勉強をしていれば生きていけた高校生活の終了とともに、その日何を食べるかという些細なものから将来を左右する重大なものまで無数の選択に迫られる日々になり、私の人生は瞬く間に困難に満ちたものへと変貌した。人との繋がりの有無で言えば孤独ではなかったが、とにかく自分自身がわからないのである。自分自身がわからない結果、人と深く意気投合することは難しく、精神的に満たされたこともなかった。開示する自己がないのに意気投合も何もない。
 そんな中、全貌がわからない事物を網羅し解析を助けるデータベースソフトに触れ、「私の内面もこうなったら自分のことがわかるかもしれない」と私は感じたのだろう。ひとつひとつデータを集めて入力していけば、いずれ自分のこともそこに分析可能な対象として顕現させられるのかもしれないという希望を見出した。Accessまで使わずともExcelにデータを作っていこうと試みたことも幾度となくある。結局のところデータベースのことはよくわかっていなかったが、私が持っている全てのデータをデータベースとして自分の外に構築することによって、私が抱えている全ての問題を解決してほしかったのである。しかし毎度挫折するから「幾度となく」試し直すことになったわけで、その試みはついぞうまくいかなかった。
 データベースにデータを入力していったところで、そこにある情報にどうアプローチして何を分析するかは自分で検討して決めなくてはならないが、自分自身のことがわからず霧の中を手探りでよろよろ歩いている人間にそんなことができるはずもない。そしてそもそも自己のデータベース化が私を救ってくれるべくもない。失敗は必然である。実際ずっと試み続けることもできずやめてしまう期間はあったが、しかしそれは「うまくやれない」という挫折感に疲れてのことであって見当違いの努力に気づいたわけではなく、愚かにも気力が少し回復し次第間歇的に再挑戦していた。

 これは多分無意味な試みなのだ、と察したのは上述のAirtableを弄っていたときで、ある日ふと「そうするほどのデータを持っているわけではないよね」と思い至った。そういうことをする必要がそもそもないんじゃないかと急に冷静になったのだった。
 私は自分の自己不在に対してデータベース化以外の観点でも解決を図っていて、幸いにもそちらは功を奏し、2019年ともなるとデータベースというものの引力は憧憬とコンプレックスの残滓でしかなくなっていた。Notionを使い始めた時にはまだその残滓に惑わされていたが、Notionを有意義に使えない自分を責めるほどのことはなく、「なんか他にないかな」というライトな理由でさっさとAirtableに移ることができた。自己の内面が安定したことによって漸くデータベースに対する執着は解かれたのである。
 NotionもAirtableも使い方がわかりやすく、自分の無能感を刺激しないということも呪縛からの解放に貢献しただろう。使おうと思えば使えるが、使うほどのことはないのではないか、と客観的に考えられるようになったのだ。誰でも使えるほど簡便でデータベースツールとして優秀であることによって、逆に使わなくても大丈夫だと心置きなく離れるに至った。

 今ではこう書き表すことができるが、この一連のことについて「こういうことだったのだな」と整理がついたのは、Airtableを離れてから更に一年以上経ってのことである。
 このようなおかしな闘いの年月を経て、今は普通に「こういう情報がほしいからデータベースを使うと良さそう」という判断によってNotionを活用している。つい何でもかんでもひとつのツールに託そうとする悪癖は例に漏れず発動したが、それはデータベースだからというのではなく、ツールを新たに活用し始めた時に毎度発症する持病である。この病との付き合いもいい加減長くなってきており、この頃は数日のうちに「ですよねー!」と言いながら軌道修正し、落ち着くところに落ち着いていくようになった。
 自分の経験からしても、人生の経緯によってデジタルツールにかける期待というのは違ったものになるだろう。アウトライナーの使い方ド下手問題の最後アウトライナーの使い方ド下手問題~まとめ~でも書いたことだが、種々のデジタルツールとの悪戦苦闘の中に、自覚が難しい自己の問題が潜んでいる、という実感が私にはある。データベースなるものとの苦闘は長かったが、こうして振り返ることができるようになったことを私は素朴に喜ばしく思っている。
 

2021/11/06

ブログ日誌:ブログに書くこと・書かないことを整理する

 ブログ日誌と書くとブログの記事のタイトルとしてなんだか変だが、ブログについての日誌(=近況報告)を書くよということを意味している。
 今回は、ブログの書き方ド下手問題で考えたことを踏まえて、自分がブログに書いていく内容を整理したい。


 

 ド下手問題の中で何度か繰り返しているが、この一連を書き始める前は自分が何を書いたらいいのかもよくわかっていなかった。このブログでは変な無理はしていないが、それでも自分で書いた記事に自分でピンと来たり来なかったりが続いていた。他の場所に寄せる原稿と違って、個人ブログでは自分が書きたいことを書けばいいだけのはずなのだが、それがまず自分でわからないのである。
 書けることならいくらか思いつく。自分はこういうことを経験し、こういうことを知っていて、こういう文体なら作れるから、ならばこういう文章を生み出すことはできるだろう、という予測を立てることは不可能ではない。しかしそこに「書きたい」がなければ継続は困難だし、ただただ自分からストックを放出していくばかりで、どんなに細く長くと思ってもいつかは空っぽになってしまいかねない。
 書くことがむしろ自分に何かをチャージするような形でないと、ブログというものを書く甲斐はないように思う。今の時代、「伝える」ということを目的にするなら他にいくらでも良い媒体がある。倉下忠憲氏が先日11月といえば自分の好きなブログを告白する月であるとして 2021 – R-styleでお書きになっていたように、「目立ちたいならもっと異なったアプローチを取るのが賢明」なのである。

 とはいえ、何も「整理」などということをしなくとも、自然に書けることをその都度書いていけばいいんじゃないだろうかという気持ちはないではない。
 ただ私個人の問題として、自分自身が不定形であることが結構強度のコンプレックスになっており、何か柱となっているものがあると私は安心できる。このブログを開設した時に書いたRestartでも吐露したことだが、ともすると己を侮辱する文章を生み出しかねないことを知っているために、意識して「自分が書く文章」そして「自分という存在そのもの」に自分で納得できるようでありたいという願いがある。
 違和感のある記事を錬成してしまわないように、違和感がないはずの話題を忘れないように、自分が選択していい道を書き留めておきたいと思う。

 まず自分が書いていきたい記事は、次の二通りであろう。

  • 自分が困っていることとその分析
  • 自分が今やっていること、近況報告

 最近の記事に書いたことと重複するので詳しくは述べないが、前者はド下手問題シリーズで書いているようなことや自分の認識の仕方の考察の類であり、後者はツールの活用や思想の改革(と書くと大袈裟だが要は何をどう考えるように変化したかということ)が主になる。徹頭徹尾「自分」の話である。

 反対に「私は書かない」と意識しておきたいこともある。例えば以下のようなものだ。

  • 願望そのもの、自分の意見・主義主張
  • ツールの解説
  • 具体的な何かに対する感想や紹介

 批判のための記事は当然として、他の人や事物に対して「こうなってくれたらなあ」と願うものもやめておきたい。一応断っておくと、そういう記事自体が駄目だという話ではなく、使命感というものを持ち合わせていない私がそういったものをわざわざ書こうとする時には、大抵自分の価値観に反した欲求が耳元で囁いているからである。ブログの書き方ド下手問題⑦ブログの書き方ド下手問題⑦~考えが整ったのに記事にしにくいものたち~でもこのあたりのことについて詳しく書いたところだ。
 ツールの話については、デジタルツールなどを使うのは好きなのだが、ツールの機能を網羅したいという欲求がないので解説者を務められるほど詳しくなれないというハードルがある。自分の使い方を近況報告として書きたいがために前提の説明としてツールの解説をしだすことがあるのだが、これが非常に億劫だと感じてきた。なので読者には不親切かもしれないが、解説は極力避けていきなり語ってしまうことにする。別に親切にしなくとも、見慣れない単語があり且つ興味を持ったなら勝手に調べてくれるだろう。noteに書くとしたらこうはいかない感じがするが、ここは辺境の無名の個人ブログなので許されたい。
 また、自分という存在以外の具体的な何かに対する感想、例えば書評や商品の紹介、調べ物の成果などを語ることも避けておこうと思う。今までもほとんど書いていないのだが、noteを更新しようと焦っていた頃は色々と紹介&感想の記事を書く計画を立てたりもしていた。実際に書き出す前に気力が尽きたことからして、自分がやりたいことではないのだろうと思う。

 以上のことは別に「こうすると決めました」という宣言でも「こうするから読んでね」という宣伝でもなく、単に定点観測の記録として書いている。(内容はただ自分に言っているだけのものだが、人が読める形にまとめて投稿するのは記録のためである。)
 この先スタンスが変わっていくことはあまり想像できないが、そうなった時に振り返るためのセーブポイントを作っておいて損はないだろう。そのうちまたブログというものがわからなくなってしまったら読み返しに来ようと思う。
 

2021/11/02

ブログの書き方ド下手問題⑦~考えが整ったのに記事にしにくいものたち~

 一旦締めますと言いながらなんとなくずるずる続いている「ブログの書き方ド下手問題」の第七回。過去の回の記事はブログの書き方ド下手問題からどうぞ。 
 今回は「結論が出たのになぜかブログ記事にできない」問題について。


 例えばScrapboxの公開プロジェクト(のらてつ研究所)では、それなりに色々な話をしていて、それなりにアウトラインを掘り下げて、それなりに考えがまとまっていたりするのだが、それをいざ記事にしようとすると全然書けないということが多い。他にも、非公開プロジェクトやObsidianやDynalistに考えるだけ考えてそのままになっている思考が溜まっている。膨大という程ではないが、個数で言えば三桁に届いている気がする。
 大体はそもそも後でブログに書こうと思って掘り下げたわけでもないのだが、それにしてもこの書けなさは何なのかと思わずにはいられない。アウトラインはビシッと整っていて、材料は揃っている。話の混乱も特にない。調査が面倒くさくて放っておいているというのでもない(そういう場合がないわけではないが、そういうものはそもそも「まとまっている」と感じない)。別に全てを書かなければいけないわけではないが、せっかく考えたのに成果物として文章にならないのはなんとなくもったいない。

 もしかすると、予めアウトラインを整えすぎてしまったからだろうか? 
 そのパターンも無いではないように思われる。文章を書く時というのは、書きながら書き手自身に発見がないととてもやっていられない。自分としては既にわかりきっていることを、ただ人に読めるように翻訳するだけの作業というのは大変に苦痛なのである。書くということ自体が謎を解く探検の旅であるからこそ、私たちは何千字や何万字とかいう量の文字を拵えることができるのだと思う。
 よって、問題となるものをあまりにもきっちり解いてしまうと、それを文章にする時に楽しみが何も残っておらず、億劫になってずるずる先延ばしにしてしまうということは十分にあり得る。それを億劫がらずに淡々と書いていけるのがプロの作家なのかもしれないが、趣味で書いているだけなら苦行にならない書き方を目指して良いはずだし、淡々と書く修行は敢えてやることではないだろう。

 しかしながら、書けない理由はそれだけでもないような気がする。
 アウトラインがすいすい育っていくのはどんな時かを考えてみると、私の場合は自分の知見や経験、そして信念を言語化している時が多い。何か気になる事物を見聞きして、きっとこれはこういうことなのだーという調子で書いていく。大方、私がこのブログで主題にしようとしている「自分が困っている話」ではなく、世の中の現象か自分の願望の掘り下げになっている。
 それまで言葉にしたことがなかったことだから自分としては新鮮な気分で書いているが、その状態は新たに苦労をしなくとも既に何かしら組み立てられるものがあるということを意味してもいる。自分のために必要なことである一方で、じゃあ自分以外の誰かにそれをどう言えば良いかというと……。つまり、自分以外の読者を設定するのがとても難しいのである。書いたところで、誰に向けて言っているのかと自分で首を傾げることになるだろう。
 言語化ができた嬉しさによってそれをもう一段階整えてちゃんと文章にしたいという気持ちが生じてしまうのだが、もし世の中の現象についての思索であるとすれば、それはつまり大別すれば「世に訴えかける」タイプのものになってしまうだろう。個人の体験としてではなく(つまり自分の「好き」を語るのではない形で)自分以外のものについて語ることは、それに関わる物・事・人に向けて意見を表明することになる。これでは第一回ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~で書いたように自分の価値観に反してしまうし、自分としてはただブレストをした結果でしかなくとも、それが誰かの何かに対する批判を意味しかねないとなればやはり気が引ける。「これは批判になってしまうなあ」という意識まではなくとも、「これを書くには色々な配慮が必要かもしれない」というのは感じてしまうし、そこに費やす気力は自分にはない。無名で何の影響力も持たない身であってすら、自分さえ楽しければ良いと言うには文章というものは力が強すぎるのである。
 ひたすら自分の願望を掘り下げて自分のことがよく分かったというような時も、自分としてはかなり強い感動があり、それを何らかの形で表現したくなる。しかしそれを読み手にとって面白くなるように書くのは容易でない。無理ではないが相当に技術かセンスを要求される気がするし、自分の感動の必然性を全て説明できないと「それのどこがそんなに興奮する話なのか」と思われそうだ。そういったことを上手く書くことに憧れはあるが、今すぐ自在に書けるものではない。これまでも、複雑に構造化されて自分を掘り出しているアウトラインを眺めながら、しかしそこにストーリーとして不足があることを薄々感じてしまって書けなかったのだろう。

 やはりここまでの回で考えてきたように、私に書けるのは「自分が困っていること」の分析または「今自分はこうしている」という近況報告くらいなのだろう。考え事が育っていく機会は様々なものに対して得られるが、それらのほとんどが結局は記事には出来ないままになる。それは別に私の守備範囲がとびきり狭いという話ではなく、大抵の書き手がその人なりのテーマに沿うものだけを書いていて、その人が思索を巡らした全てのものについて書かれることはまずない。全てが記事にならないのはごく当たり前のことと言えるのかもしれない。研究テーマがドンとあればそれに向き合うだけでも時間は足りなくなるし、必然的に他のことは触れにくくもなるだろう。
 私は自分のテーマとして「自分が困っていること」を軸にしようと考えたのがごく最近のことで、そういうふうに自分のカラーが自分でわからなかったことも「もったいない」という気持ちを引き起こしていたのだろうと思う。自分は何を書けさえすればいいのかがわからないから、全てが価値になり得たかのような惜しさを覚える。頑張れば居場所を作れたかも知れないのにまた頑張れなかった、という失敗体験としてそれらは自分の中に蓄積されていったのである。

 アウトラインを育てることはとても楽しいし自分自身にとって有意義だが、それがそのまま文章という形の表現に繋がるとは限らない。しかし逆に、文章として書くのは難しい考え事でもアウトラインまでなら書くことが出来るし、ブログ記事になり得ないものについてScrapboxなどにアウトラインの状態で公開できるというのはとてもありがたいことだとも思える。
 自分とはどんな人間であるか、どういうことに興味を持っているのかというのは、文章にできるものだけでは伝えられる範囲があまりにも狭い。Twitterがそれを補う役目を担ってはいるが、Twitterだけだとどんどん流れていってしまうし断片的過ぎる。たまたま或るツイートを見てくれた人は知っているがそうでない人は知る術がないとなると、自分を表現するものとしてはちょっと心許ない。いつでもアクセスできる場所にアウトラインの状態で溜めておけるなら、自分という存在を説明するのも随分楽である。
 そう考えると、アウトラインという形態は文章化の途中段階や要約としての役割に留まらず、表現のひとつの完成形としても大きな意味を持っているのかもしれない。
 

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