Noratetsu Lab

動じないために。

2021年10月

2021/10/30

ブログの書き方ド下手問題⑥~試行風景を実例にしようとしない~

 ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第六回。過去の回の記事はブログの書き方ド下手問題からどうぞ。 
 今回は「自分が実際にやっていること」を書くことについて。


 前回ブログの書き方ド下手問題⑤~結論が出ないことを恐れない~の結論として、「結論のない近況報告的な記事を書いていいじゃないか」ということを語った。今回の話もそれと関連することで、実際無理して結論を捻り出して失敗したことについて考えたいと思う。具体的には、「私はこうすることにしたんですよ」という「例」を記事にする際の話である。

 noteでもこのブログでも、私のやり方を示した記事というのをいくつか書いている。数で言えば手の指で足りる程度のもので、まあ書いたうちに入らないようなものなのだが、実際はかなりの試行錯誤を繰り返しているにもかかわらずそれらを全然書かないままになってしまったということもこの現状が示している。
 自分のそれらの記事を眺めていると、「これもうやってないんだよなー」「書いたけど割とすぐやめちゃったんだよなー」と思うことがある。継続しているものもあるが、やめてしまったことの方が多い。そうするとかなりの後ろめたさを感じる。これをやるとこういう良いことがありますよと書いておきながら、私自身がそれを続けていないとなれば、それは嘘を書いているも同然なのではないか。

 もちろん、一度書いたやり方をずっと継続している書き手はそう多くないだろうとは思うし、他の人がどんどんやり方を変えているのを見ても「おい、前に言っていたのと話が違うじゃないか!」とはあまり感じない。もし高い金を払ってセミナーを受講したならば、それを後で「このやり方いまいちでした~」とやられたら怒るかもしれないが、個人がやっているブログの記事に対して効果の保証を求めることはまずない。人は変化し、変化とともに成長していくものである。
 そう考えるとつまり、出来上がった記事の如何ではなく、書いている時の自分のスタンスに問題がある。

 これまでの自分を振り返ってみるに、自分がやっていることを書くにあたっていつも「有効性のあるやり方の実例」として出そうとしていた気がしている。試行錯誤の過程でしかないにもかかわらず、常に価値があるものとして演出しようとしていたのである。
 演出しようとしていたと言っても、確かにその時点では有効だったから書いているわけで嘘を言っているつもりは全くないし、実のところそれに価値があると見せかけたかったわけでもなかった。そもそも「有効性がある」ということを言いたくて書いているわけではない。それなのに、やり方というものを紹介するにあたってはこれこれこういう有効性があると語らねばならないような気がしていたのだ。ブログというものを書く以上、価値のある情報を出さなければ……という呪縛があったのである。
 noteに書くのであればフォロワーとスキを稼げるようでなければいけない、という気持ちもあった。「稼ぎたい」ではなく「稼げるようでなければ」というのが迷走に拍車をかけている。つまり私を背面から脅していたのは「noteに書く身として目指すべき像」という虚像であったと言えよう。これはサイトに数字が表示されることを受けて私が勝手に思い描いた像である。
 人に読んでもらうために書くのだから価値のある情報を出すのはある意味当たり前のことではあるのだが、ここで問題なのは、私がこうせねばと思っていた「価値」と、実際に文章に生まれる「価値」が違っているということである。文章が持つ価値というのは、「ここにこういう価値がありますよ」という語りではない。読み手の中の何かを動かしたということが価値になるはずである。「これに何の意味があるのかわからないけどなんか楽しそう」という感想を生むのも価値なのである。読み手としては呆れるほど当然のことだが、書く身としてはそう当然のことにはならない。内容の価値を証明しようとせずに思うことをそのまま書いただけで読み手を面白がらせるようなセンスや独自性が、何者でもない平凡な自分にあるとは信じられないからである。

 さて、この連載の趣旨は冒頭に書いてある通り「ブログを無理なく書けるようになろう」ということである。すなわち、読み手を面白がらせることができるかどうかはここでは二の次の話だ。良い記事を書けるようになることを考える前に、書くだけならすらすら書けるぞという域に到達したい。平凡な自分がそのまま書いただけで面白い記事になるかどうかは知らないが、ならないとしてもまず良いとしておこう。
 そもそも私が「自分はこうすることにしたんですよ」と書きたいのは、上述したように自分のやり方の有効性を示したいからではなく、ただ単に、こういう私がここにいて、こういうことをやっているんですよと言いたいからというだけである。こういうことを考えてこういうことを始めてみました、こういうことをやったらこういう学びを得たんです、それが言いたいだけなのである。そしてへえこういう人がいるんだなと思ってもらえたらそれで良いのである。別に私のやり方は他の人の役になんか立たなくていいし(役に立てばそれはそれで嬉しいけれど)、のらてつ流の何とかが広まってほしいとも思わない(広まったらそれはそれでまあ気分は良いのであろうが)
 じゃあ、別にそれで良くない? 別にそれで良いような気がする。
 自分の試行が他の誰かの役に立つことを保証しようとしなくていい。自分の試行から何が導き出されるかを示すことに固執する必要はない。「こうしたら、こうなった」、「こう考えたから、こうし始めた」、それだけで良いのではないか。実例として意味を成そうとせず、試行は試行としてそのまま素直に書くだけで私にとっては十分だ。

 結論を出そうとしさえしなければ書けたはずの夥しい試行錯誤の数々が、どうして書いてくれなかったのかと私を責めているような気持ちになることがある。リアルタイムに書いていかなければ、そこにあった素朴な思いや感動は零れ落ちて「意味」ばかりが残り、本当に何かを導き出せた時にその歴史として書くほかなくなる。その日が来なければ、私の試行錯誤は私のなんてことのない一日のなんてことのないひとつの欠片として忘却の波に流されていくだけである。それらは確かに蓄積して私を形作ってはいるが、それ以上の意味を持つ可能性もあり得たのに、私は新たな脇芽が出ることを封じてしまったのだ。
 そう思い至ったからと言って、すんなり気分を入れ替えてもりもり書いていけるようになるわけではないだろう。それでも間違った方向を目指し続けているよりは未来は明るいように思う。

 前々からこのブログの記事を「○○日誌」と題して書くようにしていたのには、「役に立たねば」という気負いをなくす意図があったのだが、どうもそれだけではエンジンにはならなかった。表面上の鼓舞やコントロールで自分を操ることは難しく、やはり真剣に自分と向き合い自分の精神を解剖していった先に、漸く現実的な解決策というものが見えてくるのだろう。
 そういった試みをブログ記事として書こうとした時、文章に対して真摯であろうとしたついでに自分にも真摯に向き合うことができると感じる。それは正直に己を開示することを決めた自分に、天からもたらされるご褒美のようにも思える。
 

2021/10/25

Office日誌:フォントと背景で「自分の場」感を演出する

 前回、Officeソフトをまた積極的に使い始めたという話をした。

 今回はOfficeソフトの見た目を自分仕様にするということについて。(文中でもしつこく繰り返しますが、正解は各人の胸の内にあるので、私の仕様を推そうとして語るわけではありません)


 Officeソフトを使うにあたり私が気になったのは、如何にも「仕事に使うソフトです」という感が漂っている点である。真っ白の背景にデフォルトのフォントだとなんとも無個性で、他でもない私が文字をここに打ち込んでいるのだという気分はさっぱり得られない。自分らしさが何もない。それはあまり楽しくない。
 Wordについてはまず余白からして気に入らない。綺麗に印刷するための設定値なのだからそれは当然の話で、そもそも「ただ書き込むだけ」というのは初期設定のレイアウトでは想定されていないだろう。なので「ただ書き込み、ただ見る」という使い方をしたときに気分が良いように変えることにする。A4という大きさ(そこに収まる情報量の具合)は嫌いじゃないので、横長にして2段組にし(つまりA5の見開きのような形)、余白は各辺20mm程とした。この設定を自分の基本形として日記用のファイルは印刷レイアウトで表示しているが、他の用途のファイルは内容によってはWebレイアウトで表示してページや幅の概念を排除している。

 次にフォントである。フォントは本当に大事で、文字の見た目の雰囲気で文の内容まで違って見える(だからフォントというものが存在するのだろう)。よって自己像との乖離のない見た目を選択した方が良さそうである。私は文字の筆運びというものが好きで文字からは常にそれを感じていたいので、明朝体やゴシック体は自分が打つ文字としては違和感が拭えない。しかしあくまで情報を扱う場であるので個性の強い達筆なフォントを選んで可読性を損ねては元も子もない。読む時にストレスがないのが大前提である。
 点画に文字本来の強弱を感じられて且つ読みやすいフォントは何か? それを体現しているフォントが数年前に誕生した。「UDデジタル教科書体」である。子どもが読みやすいように設計されたユニバーサルデザインフォントだが、これが本当に美しい。そしてWindows10に搭載されており、Windows10のユーザーなら誰でも使うことができる。これがなかった時分はどのフォントを選んでもドンピシャではなく、かなり綺麗に作られているHG教科書体やHG行書体、HG正楷書体でも漠然と不満が残っていた。フリーフォントも市販のフォントも私の好みにはいまひとつ。だからみんなUDデジタル教科書体を使おう!などと言いたいわけではないが、私の好みに合致したフォントが存在しているのは大変にありがたいことだと感じている。無論好みの見た目は人それぞれ異なるだろうし、明朝体が好きな人もゴシック体が好きな人ももちろんいるだろう。手書き風フォントを使うのも面白い。

 もうひとつ重要なのが背景である。背景は常に目に入っている。書き進んで内容がどんどんスクロールしていっても、背景は変わらずそこにある。自分の意識に対する影響は馬鹿にならない。
 自分にとって気分の良い背景は何かということは私自身長らくわかっていなかったし、だんだんとツールが嫌になってくる要因として背景に納得できていないことがあるというのもごく最近気がついたのだが、気分が良くなる見た目を見つけて設定してからは「ここは私の場である」という意識を持てるようになった。つまりOfficeソフトのファイルに対して愛着を感じられるようになったのである。前回、Excelとはなかなか仲良くなれなかったということを書いたが、その原因のひとつは「白か塗り潰しか」しか視覚的に選択肢を持っていなかったことだと気づいた。
 Officeソフトには塗り潰し効果としてテクスチャが色々と用意されているが、大体背景としては主張が強すぎる。良いなと思う柄があったとしても必ずしもそれが文字の後ろにあるものとして適切とは言い難い。また個人的には、背景にはあまり色味を感じない方が良いようだ。しかし灰色一色なのもただ暗い感じがする。多少柄がほしい。
 ということで今実際にあちこちで使っているのが以下の青海波文様である。CSSで書く術を知ったのでScrapboxの背景に設定しており、それが気に入ったので「自分の場」と認識したい場所はこの柄にすることにした。

画像

 CSSでこれを背景にしたHTMLを表示してスクリーンショットを撮り、テクスチャとしてシームレスに敷き詰められるようにトリミングして使っている。(具体的なCSSコードは一応Scrapboxに書いてある
 いや背景など無い方が良い、真っ白でいい、という人はもちろん白紙を選択するのが正解だ。

 これらのフォントと背景を設定してWordに作っている引用集が、例えばこんな感じの見た目である。

画像

  ちなみに「こんな感じならば自分は納得できる」というのは実のところOfficeソフトとの対話で得られた結論ではなく、ScrapboxのUserCSSをちびちびいじったり、HTML/CSSを勉強して自分用のページを作ろうとしたりするHTML日誌:自分のためだけにHTMLを書く中で掴んだことだ。再現したいイメージが先にあればそれをOfficeソフトの設定でどう実現するかを考えるのも難しくないのだが、Wordなら何をどうできるのだろうという模索からスタートすると「私がしたいこと」より「ツールでできること」に囚われて自分の好みから逸れてしまう可能性もなくはない。(昔の私はそうだった)

 ここまで自分で変えられる部分のデザインについて語ってきたが、私はOfficeソフト自体の見た目には特に不満がない。しかしその部分が自分に合わないという人もいるだろう。そういう場合はCSSなどでツール全体のテーマを変えられることを選択の第一条件にすることもあり得る。
 ツールの機能というのはもちろん大事ではあるが、どんなに優れた機能があっても「なんかしっくり来ない」というストレスを抱えたままでは継続が難しくなる場合があると感じている。視覚要素が自分にとって大事だと感じる人は、ツール選択に於いても視覚要素こそを最も重要視すべきかもしれない。

 見た目を整えることで自分の幸福度が上がったので、各々が自分の好みに合った見た目を追求したら良いと私は単純に思っているが、ただここでひとつ注意しておきたいのは、真面目に考えるあまり「私の好みってなんなんだろう」という自問に押し潰される可能性である。私のこの記事でそこまで考える人がいるかはわからないが、「自分の好みをちゃんと知ろう!」というメッセージを示している記事や本はたくさんあって、「そうかー」と思う人はいるだろう。私もそう思って自問し始め、自己をまともに知らないことに愕然とした経験がある。
 もちろんすらすらと自分のスタイルを言い表せるならそれが良いと思うが、自分で自分の好みがわからないことが苦しみになっては本末転倒であろう。見た目を整えるのは自分が楽しく過ごすためであって、こだわりが無いなら無いでいいだろうし、いつかこれぞと思うものに出会えたらいいなあとゆったり構えて生きていればそれでいいだろうと思う。いいえこの際本気出して自己分析します、と一念発起するのならそれも良い。
 自分の好みを知ることは絶対的に必要だと個人的には思っているし、最終的には誰しも自分の好みを表現できる(無いなら無いで「無い」と言える)ようになればいいと思う。しかし今すぐ明らかにしなくてはと自分に迫る必要はないだろう。

~余談~
 はたと気づいたが、このブログも「私の場」として見た目を統一した方が良いのではなかろうか。ブログを作った当初はHTMLやCSSの知識とスキルが皆無だったので選べる中から自分の好みに近いものを選んで設定せざるを得ず、今に至るまでなんとなくそのままにしていた。概ね好きな色味だし不本意だと思うこともなかったが、この見た目がすごく気に入っているというわけではないし自分の感性は大して反映されていないので、自分が納得できる見た目を追求していった方が良さそうである。
 まあでも、私自身は自分のブログをそんなに見に来ないので、着手には時間がかかるかもしれない。
 

2021/10/23

Office日誌:思想を自分の手に取り戻そう

 先月下旬から、日記をWordで書くようになった。先々週あたりからは思考を図表化する用途でPowerPointを使い始め、ここ数日イシューの類の管理やブログネタの育苗の場としてExcelを活用し始めた。
 懐かしさと新鮮さでとても楽しい経験をしている。


 Officeソフトを個人的な用途で使うことは昔からやっていたことで、子どもの頃はらくがき帳にお絵かきをするようにOfficeソフトで表やテキストボックスや図形を作って遊んでいた。手書きでやると到底美しく描けないものを、パソコン上では本に印刷されたもののように美麗に作れることが大変な感動だったのである。定規で線を引こうとしたら指先が出っ張っていて線がぽこっと歪んでしまうということもないし、四角の中に収まると思った文章が収まらずに最後だけ無理やり細かい字で詰め込むという羽目にもならない。起こることの予測が甘い子どもでも綺麗なものが作れる、なんと素晴らしいことだろうか。もちろん子どもの私が思った「綺麗」は、今大人になった自分が思う「綺麗なデザイン」からは程遠いが、綺麗に作れるのだという感動はパーソナルコンピューターというものの可能性を鮮やかに感じる一つの要素だった。
 高校の間も特に誰に言われるでもなくWordで諸々資料を作っては自分用に印刷していたし、その後も豆論文の図化をPowerPointに百何十枚だか作ったりしていた。図化はプレゼンのために作るものとは少し違っていて、あくまで自分自身が確実に意味を再現できるようなものである。年月が経った今見直しても、きちんと図化までしたものなら意味がわからないということにはまずならない。一方Excelとの付き合いはWordとPowerPointに比べるとちょっと難しいものがあり、いくつもファイルを作っては挫折し作っては挫折しを延々繰り返していたが、それでも常に仲良くなる方法を考える対象としてあった。
 しかしながら、それほど色々やっていたにもかかわらず、ここ十年くらいは種々のデジタルツールの隆盛と流行を受けてOfficeソフトから離れ、WordやExcelを開くのは書類を作ったりきちんと関数を使って表計算をするためだけになっており、個人的で素朴な使い方をすることはほとんどなくなっていた。PowerPointの活用はしばらく頑張っていたが、それも何年か前に途絶えていた。その変化を決定的にしたのはEvernoteの登場とスマートフォンの常用である。
 Officeソフトはインターネットにパソコンを繋げる以前から使っており、アナログ手段で得た情報をあれこれするやり方というのは多少考えていたのだが、その後webページで得たものをどうするかということに直面してついぞ決着がつかなかった。また、ファイルを様々作るはいいがそのファイルをどう管理するかも悩みどころであった。そこにEvernoteが現れ、「なんでも詰め込める」「なんでも探せる」ということに神の救いかのように感動を覚えて一気に「Officeソフト以外のデジタルツール」の世界に飛び込むことになった。Evernoteの登場以降、色々な企業や個人が色々なツールを生み出し、新たな概念、新たな思想が世に生まれるたびワクワクしてそれらを試していった。一所にとどまることなく、次々と。
 とても楽しい日々だったと思う。現実の人付き合いや仕事ではかなり苦しい立場に置かれ鬱々とした日々があっても、デジタルツールの進歩を感じる瞬間は未来を明るくしてもらえたような気がして少し元気になった。痒いところに手が届くようになった、という晴れやかな感動はなかなか他のものでは得難く、いつか掻いてもらってスッキリさせてもらうべく痒いところを探していたふしさえある。
 やがてスマートフォンを日常的に使うようになり、メールや電話やゲームに留まらず情報全般を扱うものとしてスマートフォンを位置づけると、また事情は変わっていった。単純な話、スマートフォンではOfficeのファイルは扱いづらい。とはいえ扱えなくもないし一時期頑張って使っていたこともあったのだが、やはり起動の手間や操作のしにくさがネックになった。もし「使えそうなアプリ」が他に存在しなければ大してストレスにもならなかったであろうその少しの不便さが、他に無数のアプリがストアに並んでいることによって気になってしょうがなくなってしまったのである。より早く着手できるアプリ、より直感的に編集できるアプリ、より簡単に情報を検索できるアプリ、そういったものを求めて延々インストールとアンインストールを繰り返した。
 こうなると、毎日が期待ともどかしさに揺れ動く日々である。情報を扱うという本題はそっちのけで「より良い」を追いかけては「ちょっと違うんだよなあ~~~」と唸っていた。ちょっと違っているのは自分の願望を向ける先の方であろう。

 さて、時は2021年10月の今日である。
 今年に入ってからも様々な右往左往があり、使用ツールはいくつも転々とすることになったのだが(むしろ今年になってから過去最も激しく変動した気がしている)、ここ最近心境が大きく変わった。一言で言うならば、「思想を自分の手に取り戻そう!」といった心持ちである。
 別に洗脳されていたとか乗っ取られていたとかいう話ではないが、未熟だった自分が解決できなかったことを解決してくれる誰かの何かに焦がれるあまり、自分自身の感性や美意識、認識の形態のようなものを二の次三の次にして忘れていたような感じがするのである。最初の最初は自分自身の物の見方というのは当たり前の前提としていたのに、人の思想を渡り歩くうちにいつの間にか、「情報とはこう整理したほうがいい」というような、主語が自分以外の抽象的な何かに設定された思考に偏っていった。そのことに気づいてもいなかった。また、スマートフォンでも操作(ないし閲覧)できることを絶対の前提としてしまい、自由を自ら捨て去っていたところもある。一時期パソコンを使いづらい環境にいたという現実的な理由もあるにせよ、その環境は既に変化し、いつまでも引きずる必要はない。
 人の思想に幾度も染まり直したことは私に多くの学びをもたらし、それは今の私を作る大切な蓄積になった。そこに、十年前に置き去りにした私の素朴な思いと望みを重ねて、今こそ自分らしいコンピューターライフを送ろうと思うのである。
 そして今再びOfficeソフトを開いている。WordもExcelもPowerPointも、今になって機能を眺めるとなんとすごいソフトだろうかと思う。自分にアイデアさえあれば、その多くにOfficeソフトは応えてくれる。できると思っていなかったことが(使いこなしている人は当たり前に使っているかもしれないが)実は色々できるということにも気がつく。
 と言っても何も全てをOfficeソフトで管理するのだというのではないし、ScrapboxやらNotionやらDynalistやらもこの先積極的に使い続けるつもりでいるのだが、そういった新興ツールで無理してやっていたようなことが、今Officeソフトに向き合うと「あれっ、これでやればよくない?」とあっさり解決したりするのである。
 どんなツールも、無理をさせるとどこかで「違う方法に変えたいなあ」という思いで限界が来てしまうし、蓄積が多ければ多いほど苦しくなるかもしれない。ゆえになるべく無理がない使い方をしたい。いくらOfficeソフトが柔軟でも、例えばExcelに無理して長文を書いたりするようなことは得策とは言い難い。このツールならすんなりいくし継続も容易い、という感触を求めるのが将来をスッキリさせることに繋がるだろう。その候補から長らく外してしまっていたWordやExcelやPowerPointを、普通に常用するデジタルツールのひとつとしてカウントするようになったのがここ最近の私の大きな変化である。

 具体的に何をどうしているのか、仕事道具くささを除去するにはどうするのか、といった話はまた別にしていこうと思う。
 

2021/10/20

ブログの書き方ド下手問題⑤~結論が出ないことを恐れない~

 ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第五回。過去の回の記事はブログの書き方ド下手問題からどうぞ。 
 今回は記事の完成度に対する気負いについて。


 

 これまで四回にわたって書いてきたことで「ブログを書く」ということの困難さの根幹はおおよそ解決しているのだが、いざ書くとなるとまだ足枷になるものがいくつも残っていることに気がつく。
 私が困っていることのひとつが、「軽いネタが書けない」ということだ。あるいは、軽く書こうと思って書いてみたものの、自分で納得できていないという状態である。なんとなく記事の体は成しているが、自分で何がしたくて書いたのかよくわからないということがしばしばある。
 自分で納得できるように書こうとすると、ド下手問題と題したこの一連の記事のように、数千字の規模の文章をドンドンドンと重ねることになる。そうやって書ける分は書いていきたいのではあるが、テーマに設定できるものは無限にはないので、その調子でずっと書き続けることはかなり難しい。もっとコンパクトに、スルッとまとめられるような小ささで書けないものだろうか。何かに変に引っかかっている気がしてならない。
 なお、書けないことを悩む人へのアドバイスとして「短くて構わないよ」「○字書ければ上出来」というような言葉をしばしば見かけるが、この場合に於いてはそういう問題ではないので、「気楽にまず書いてみようよ」という種の忠言は横に置いておく。

 起きていることをもう少し一般化して考えてみたい。
 ブログ記事を書くにあたって、ある程度意味のある話をしようと考えたとき、自分なりの結論が導き出された状態を記事として発表したくなる。これこれこういうことがあり、こういう理由によって、私はこう考えたのだ、という展開である。
 提供できる事実の情報が自分で意味を加えるまでもなくそれだけで十分に面白いのならば、ただ事実をまとめただけでも良いと思えるのだが、自分の解釈を付与して語るのが本題となればそれなりの形式に則って書いたほうが良いように感じてしまう。ちゃんとオチやケリをつけなければ、という意識が生まれる。そして結論を書くためにはそれを支える根拠の提示が必要になるし、オチをつけなければと思うと結論が出ようもないものにもなんとかして結論らしきものをでっち上げようとして冗長になっていく。
 実際、漠然と個人の気持ちだけを書かれても、そこに目新しさがなければ読んだ甲斐がないので、どうせ書くなら読み手にとって何かしらの価値が生まれるように書きたいというのはおかしな願望ではないはずだ。
 ただ、意味のある記事を書かなくてはということを前提として考えてしまうと、結論が出るまで書けないということになって息苦しい。着地点がはっきりするまで未完の大作を抱えることにもなりかねない。本の執筆ならともかく、ブログでそんな悩みに苛まれるのはブログに対して気負いすぎだろう。どうも私にはそういう過剰な気負いがあるようだ。

 ブログの書き方ド下手問題②ブログの書き方ド下手問題②~自己の言語化を意味あるものにするには~で、自己の言語化を意味あるものにするための構造として、

  1. 自分にはできないこと・困っていることがある
  2. その理由はこれだ
  3. こうしていけばいいかもと思った、こういうことをし始めた

 という組み立てを示した。今回の記事はそれと矛盾しているようだが、僅か十日で否定したくなったとかではなく、前提として書いている通りこの構造はあくまで「意味あるものにするため」のものである。例えばこの一連の「ブログの書き方ド下手問題」や以前書いた「アウトライナーの使い方ド下手問題」のように、自分語りに意味を持たせる時に有効な組み立てだと考えていて、内面に渦巻くエネルギーを価値に転換しようという試みの中で用いようとしているものだ(この記事もそうなっている)

 ブログを書くというとき、核にはそうやって「エネルギーを形にして放出したい」という願望があるのだが、自己を見つめてみるとそれとは別に「せっかく思いついたからなるべく面白い形にして発表したいなー」というライトな欲求もある。書かずにいられないわけではなく、書けたら良いなあという位置づけである。それがつまり「軽いネタ」であり、書かずにいられないからと思って書いている場合とは違う考え方で文章を捉える必要がありそうだ。
 自分という人間の存在に関わるとなれば、そこには何らかの結論もあるだろうし、ガッチリ構造を作って説得力や魅力を備えて発表しようというモチベーションも生まれる。一方で、別に自分の価値に繋がるようなものでもないとなれば、思いついたことを書きたいという場合でも必ずしも何かの結論があるわけではない。必要に迫られていないので持論を組み上げねばとは思わないし、自分としてはそんなことをしないでそのまま書けたらなと思う。書く側が結論を必要としていないのである。書きたい範囲を書けたらそこがゴールで、プラスアルファとして読み手が面白がってくれたらより良いというものだ。
 世の中の記事を見てみると、ビシッと結論が出ているような文章ばかりではないことはすぐわかる。感想を言いっぱなしのままになっている話、疑問に思ったという段階で終わっている話、意図して結論を読み手に託している話、様々ある。それが面白いかどうかはそれぞれの文章次第だが、結論が提示されないイコール不足を感じる文章だというものではない。論を完成させようなどと思わなくてもブログは書いていいし、面白く書けるのである(なんとも当たり前の話である)

 とはいえ世界は許してくれるとしても、それはそれとして自分にとって違和感があるようではいけない。
 今まで比較的軽いネタを書いたとき、別に誰にもなんとも言われていないのだが、自分で「なんか変だな」と感じる場合が多かった。その記事が自分や自分のブログに於いてどういう位置づけなのかがわからなかったからだ。
 まず第一にブログを更新したいという思いがあり、文章になりそうなネタが思いついたから、それなりの形に整えて投稿した。ブログを更新するという目的を果たせるなら何でも良いかのようで、実際何でも良かったのである。何でも良いと思って書いていたわけではないのだが、目的が「ブログを更新したい、記事を増やしたい」というものである以上、結局は何でも良かったということになる。その結果、自分の執筆体験としての蓄積がいまいち感じられないということになった。
 ブログが更新されるのは結果であり、書きたいことを書くのが先に来るはずである。PV稼ぎをしたいならともかく、そんな気は毛の先ほどもないのに、ただ実績的なものを積みたいがために早く更新しなければと自分で自分を追い立てていた。人知れず己を追い立て続けた割に大して更新してもいないのだが、焦燥と同じかそれ以上に違和感のブレーキが強力だったことでただただ私はひとりで息苦しい思いをしていたのである。
 無理して結論めいたものを書こうとしなくてよかったのにな、と思う記事がいくつもあるのだが、結論を捻り出さないとしてその記事はどういう位置づけになっただろうか。そう考えると、多分それは「近況報告」というものだったのだろう。「○○してみた結果、~と言えそうだ」とまでいかずに「○○してみた」で止めても良かった。自分の書くものに意味を持たせたいあまりに結論を急ぎがちだったが、意味を持たせる記事は持たせるとして、別にそうしなくていいものはそうしなくていいものとしてあって良い。
 ブログを書くにあたって「エネルギーを形にして放出したい」という願望と「せっかく思いついたからなるべく面白い形にして発表したいなー」という欲求があると前述したが、今までその自分の願望と欲求にも整理がついていなかったから、役割分担させて緩急をつけることが難しかったのだろう。

 ということで、自分の中にあるヘビーな願望とライトな欲求を見つめながら、無理して結論を出そうとせずに素朴に書くという形を自分にとって自然な執筆形式にしていけたらと思っている。
 

2021/10/15

ブログの書き方ド下手問題④~「書く」ための発想とは~

 ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第四回。

 今回はブログ記事として書くネタをどう管理すべきかという話で、ちょっと長くなってしまうがお付き合いいただければ幸いである。


 まずネタとは何だろうか、ということから少し考えてみる。
 ブログに限らずあらゆる創造的行為にその元となるネタというものがあり、どの形態でもネタの発生速度に創造のペースは到底追いつかない。しかしながら絶え間なく湧き出るというほどコンスタントで無尽蔵というのでもなく、ネタが生まれたらすかさず溜めておかないと創造は停滞してしまう。この溜め方がなかなかに難しい。
 ネタにも創造の発端になるものや創造の妥当性を支える根拠になるもの、創造の方向性を決める思想となるものなど様々ある。というか、そのいずれなのか定まらないものを私は「ネタ」や「発想」と呼んで曖昧に扱っている。もし何かを物理的あるいはシステム的に構築することだけが創造ならば、構築するものそのもの、それを説明するもの、それを進める先として胸に刻むもの、というふうに整理されるかもしれないが、「執筆」のように物理的な構築無しに思考を人に伝えることを創造の本体とするとなると、全ての段階、全ての種類の発想が創造の種となり得てしまう。ネタの位置づけと扱いは複雑で流動的になり、書くにあたって実際にどう使うかが決まる瞬間まで整理がつかない。ネタをどう育てていけるかがわからないのである。ある程度整理できたとしてもそこからどこまでどう膨らむかわからないのに、整理すらできないとなるとひとつひとつがまるで宇宙か何かのように途方も無い存在になってしまう。
 したがって、テーマを明確に限定せずある程度以上の幅をもって雑多に書くとするならば、たとえ語る対象の種類を図書分類のように仕分けることは可能でも、実際に書く行為に於いて有効な形でネタを分類することはどうも難しいように思う。分類はしないことを前提にネタの管理を考える必要がありそうである。
 ネタとは増え続けるものである。核となるものが新たに発生するし、既に存在しているものからいくつにも分岐する。何かを見て何かを思ったということがもうネタとなり得るわけで、そうなると生きている間じゅう、ネタにしようという意識が働きさえすればそこにネタが生まれることになる。
 ネタには生死がある。分岐した先同士に矛盾が生じて丸ごと扱うことができなくなることもあるし、環境や心境に依存した発想はその前提の変化によって意味をなさなくなる。しかし、矛盾があること自体、あるいは環境や心境に依存していること自体をネタとして全体を書くことは可能であり、そうなるとネタは生き返る。産業ではあり得なくとも、表現ではそういうことが可能になる。
 地球に存在する全ての物質全ての細胞を管理するにはどうしたらいいか、を考えるのと同じくらい果てしないことのように思えてくるが、幸いひとりの人間の中に生まれる発想の母数は何兆や何京というほどにはならないし、普通の人は何万から何十万くらいで収まりそうではある。何百程度では収まらないのは確かだが、パソコンやスマホなら普通のスペックのものが一台あるだけで済み、アナログのノートでも何十冊か、多くともせいぜい何百冊かあればまかなえる範囲であろう。
 ただ、それくらいの規模にはなるということは踏まえる必要がある。目視で全てを把握することはできないし、関連しているはずのネタ同士を取り出して結びつけるのも容易でない。ネタとして発生したときにはそのネタがどういう意味をなし得るかわからないせいで、後で使う時のために的確に備えるのもほとんど不可能である。とりあえず全部を収録できること、そして目視に頼らず検索する術があることは必須と言える。
 そしてそれぞれがいつでも育つ可能性がある。潜在意識下で育った結果が新たな発想かのようにポンと誕生することも多々あって、必ずしも一度記録した文言そのものが膨らむわけではないが、いつでも膨らませることができるようであった方が良いのは確かだ。ノートなら余白を設けたり、カードなら後から差し挟めるようなルールを作っておいたりという工夫が必要になるだろうし、デジタルだとTwitterのような編集不可能な形ではなくいつでも書き足せる形式でネタを扱った方が便利だろう。元の文言に隣接した場所に書き足さないとすれば、リンクできるように通し番号や固有のIDないしURLが欲しいところである。
 更に、こういう形態を維持するためのコストは限りなくゼロであってほしい。ネタはパッと浮かぶもので、すぐに消えてしまうから直ちに捕まえなくてはならないし、一方で今必要なものでもないから、他のことを中断せずに済むようでなければならない。メモする以上の動作や認知資源の消費は避けたいし、避けないと継続は難しい。几帳面な人はその都度きちんと整備すること自体が自分の気分を良くし人生の質を上げてくれるかもしれないが、ずぼら寄りな人間は残念ながらそうならずひたすらコストとして嵩んでしまう。

 さてここからがド下手問題としての本題だが、実際問題どうしたら良いのだろうか。
 これはまあ大変に難題で、正直なところ自分にとっての正解もまだ見つけ出せたわけではないのだが、これなら大丈夫かも……?と思うやり方には一応至ったので書いてみることにする。
 失敗の歳月は長く、思い出せるだけでも、大学ノートに書き、文庫サイズほどの手帳に書き、バイブルサイズのシステム手帳に書き、ルーズリーフに書き、情報カードに書き、スケッチブックに書き、Wordに打ち、プレーンテキストに打ち、フリーウェアのテキスト管理ツールを数々使ってはやめ、Evernoteを使ってはやめ、Dynalistを使ってはやめ、Obsidianを使ってはやめ、Scrapboxを使っても迷走してきた。○○ダイエットを試しては挫折するというのと同じようなものである。試したものはどれもそれぞれに良いところがあって、それぞれの手段そのものを「こんなのは駄目だ」と批判したい気持ちは露ほどもない。問題はただただ私の内面にある。
 何でも良いからどれかを継続できたらそれで解決する気がするのだが、それがどうにも難しい。何かが気に入らなくなるのである。完璧なシステムを追求する価値のあるほど大層なアイデアを書けるわけでもないのに何をごちゃごちゃ悩むのかと思わなくもないが、凡人なりに自分の思いつきは自分にとって大事で、うまいこと蓄積してくれないと嫌なのだ。
 書く瞬間がしっくり来ない、書いた結果がしっくり来ない、探す手段がしっくり来ない、嫌になる要素は色々あるが、それならばどうしたら自分が納得するのかがなかなかわからない。その時の気分で馴染むものに書いて分散してもいいじゃないか、と書く時には思ったりもするのだが、後になって探す段になるとやはり分散していては困る。とても困っている。
 ブログを書く人間になるということさえも思い描いていなかった頃は、発想をその後どうするのかを決めようがなく、ただ「とりあえず書き留める」ということしかできなかった。こういうことをしていきたいというビジョンがあれば話は違っていただろうが、ある時期までの私は人に敷いてもらったレールを進む以外にどうしたらいいのか全く考えることができなかったので、そういう不確かな自己に輪郭を作りたいと無意識下で渦巻くエネルギーを言葉に変換するだけで精一杯だった。
 しかしだんだんと「自分は何かを書いてもいいんじゃないか」と思うようになり、最近はいよいよ本格的に自分の内側をアウトプットしようという気になっているのだが、そうなってやっとネタの辿るべき道をイメージできるようになった。まずは思いついたものを全部メモする。それを「書く」ことを前提として集めて操作する。そして「書く」ために然るべき場所に切り出して書く作業をする。重要なのはあくまで「書く」ことを前提とすること、そして「書く」ための場所を作ることである。
 現在、ゆるいブログみたいな位置づけでScrapboxの公開プロジェクトを更新しているが、そこでの思考の育ち方やリンクの繋がり方が割と良い感じで続いているので、公開しにくいものや今後ちゃんと書きたいものを水面下で捏ねていくための非公開プロジェクトを何ヶ月か前に作ってみた。本やweb記事の引用も適宜収録して、自分のツイートをまとめたりもする場所だ。
 これがなんと、全くうまくいかなかった。想定外のうまくいかなさで何がまずいのか分析するのにかなりの時間を要したのだが、一言で言うと「書くため」「知るため」「考えるため」が混在していたのが原因だったようだ。そういうものを混在させられることがScrapboxの利点のような気はするが、恐らく私にとってそういう混在は自分の頭の中だけでたくさんで、外部脳までもカオスになってほしくはないのである。「書くこと」と「知ること」「考えること」は言うまでもなく密接に結びついているのだが、情報それぞれがゴールとするものが異なっているのが私には混乱の元になってしまうらしい。公開プロジェクトでも「知ったこと」のためのページは作らないようにしていて、それは曖昧で不完全な知識を人に見えるところに知識っぽく置いておきたくないという意識からだったのだが、図らずも自分の混乱要素の除去に寄与していたようだ。
 ということで、今は書くための専用のプロジェクトを作ってやっている。少し前まではDynalistを書く場にしていたのだが、文章化の作業そのものについてはとても良い感触がある一方で、これから書こうかなと思っている発想の類がリスト状に並んでいるのが私にとっては全くプラスに働かないようなので、アウトライナーはやめてScrapboxに移った。Scrapboxはいくらでもテキスト情報を詰め込むことができ、検索ももちろんできる。ひとつのページのサイズに制限もなくいくらでも書き足すことができてページ間に容易にリンクが貼れる。
 ただ、書く用プロジェクトでは無闇にページ数は増やさないようにしている。私は公開プロジェクトにて内容ごとに分けずに時系列で書き足していくツイート場のような場を作っているのだが、それと同様に、書く用プロジェクトでも整理せずに思いついた順に書いていくページを「Timeline」と題して設けている。ページに分けてしまうと編集のためにはそのページを開く必要があって気楽にはやりにくいと感じるため、まだ内容となるものが何行もないようなものはページにはしないでおいてある。加えて内容のサイズ感が一覧からはわからないため、本腰を入れているものとペラッとしたものとが並んでいるのは嫌だということもある。
 また、ページとして分けないというのはタイトルをつけなくて良いということであり、Twitterが書きやすいのと同様の効果が得られる。パソコンを開いていれば書き込む場所に迷うこともない。スマホの場合はすぐ開いて書き込みやすい場所として一度Dynalistに書いておき、パソコンを開いた時に移している。
 なおTimelineはInboxではなく、書かれたものは処理待ちのものではない。思いついたものを書き出したという時点でタスクとしては完了しており、必要があれば更に書き足すことも可能だという認識のものである。
 よし書くぞと思ったものはページを作成し、思考の整理のためのアウトラインと、文章として成立させるためのアウトラインを作り、コードブロックに本文を書いている。コードブロックは日本語の文章を書いて違和感のないようにUserCSSで見た目をちょっと整えてある(この一連についてはそのうち詳しく書くかもしれない)
 また、Timelineと個別ページの間の位置づけとして、大きいテーマについて構想を練るページも作ってあり、ページ一覧上部のpin欄には構想用のページが並んでいる。

 それまでDynalistに溜めてあった分の内容はそのプロジェクトに移したが、それでもまだ量が少ない状態のため、もっと増えてきた時に使い勝手がどうかはこれから検証することになる。前々回ブログの書き方ド下手問題②~自己の言語化を意味あるものにするには~で書いたように自分に書ける文章のパターンが見えてきたこともあり、そういう「型」の存在を生かしたやり方も模索しているところである。
 それでも今のところは「なんかこのままいくと混乱しそう」という予感は持たないでいられている。「書く」ということが自分の中に位置づけられたことで、混沌極まりなかった発想群に然るべき居場所を提供できるようになったように感じている。そして実際に必要な要素は何なのかが見えてきたことにより、ツールの機能に依存して振り回されることもなくなりそうである。なお、「書く」ため以外の発想というのももちろんあり、生活をより良くするためのアイデアなども日々生まれるが、それはそれでまた別の居場所を作っている。

 一応集中的な連載としてはひとまず終わりということにする。ブログを書くことに関して他に書きたいこともいくらか思いついてはいるが、根幹というよりは枝葉になるので、そのうち書きたくなったら書こうと思っている。その際にはまた⑤、⑥と続けることにする。
 

2021/10/12

ブログの書き方ド下手問題③~自分節を見つけ出す~

 ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第三回。

 今回は文体とテンションの話をしていきたい。


 

 ブログを書こうとした時の困り事として、内容だけでなく語り口の問題がある。
 「です・ます調」の敬体なのか、「だ・である調」の常体なのか、「~じゃね?」「~だよね」などの軽い口語なのか、如何にも堅苦しい書き言葉なのか。どれを選択すべきかというのは思いの外難しい話で、最終的に「気分次第」で済ませたくなる。
 どういう時にどれを選ぶべきかは簡単に結論を出せることではなく、またここで結論を出したいわけでもない。ただ、私は語り口に迷ったせいでブログを書くことに困難を感じたことがあり、そこから脱しようと試みたのだ、ということを報告しようと思ってその一連をここに書くことにする。
 文体の話については以前noteにも記事を書いたです・ます調は距離が近過ぎるのかもしれないことがあり、その内容も一部用いながら整理し直していきたい。

 ブログとして書く拠点をこのNoratetsu Labに移してからは、基本的に「だ・である調」で統一している。今回ここまでの間には「~だ」も「~である」も登場していないが、敬体を使わず淡々と断定的に語っているので「だ・である調」になっている。
 しかし、noteやそれ以前の既に存在していないブログでは、どちらかと言えば「です・ます調」の敬体で書いていることが多かった。その語り方になんだか違和感を覚えて書いていられなくなり、記事の更新は滞るばかりだった。ただ、敬体で書いていたのもそもそもは「だ・である調」に違和感があったからのことで、結局どうしたら納得できるのかが自分でわからないという状態がしばらく続いていた。
 敬体か常体かということの他にも、読み手との距離感を左右する表現というのがあり、それを考えなしに使ってしまうと後から自分で自分の文章を気持ち悪く思ってしまうことになる。例えば極端な例を挙げると「皆さんも~してみてはいかがでしょうか」「さて今から~を読み解いていこう」のような表現である。ここまであからさまに書くことは少ないが、「~でしょう」「~しよう」は断定せずに印象を和らげる目的でうっかり使ってしまうことがある。書いた時は印象を丸めることに意識が向いているので気がつかず、後で読み直した時に「誰に語りかけているんだ!」と急に気持ち悪くなるのである。
 語りかける表現そのものが気持ち悪いという話ではないし、他の人がそう書いているのを読んでも別におかしいとは感じない。あまりに連発していると「この人は自分の立ち位置をどう捉えているのだろう……?」と気になってくるが、自然に含まれているならばまあ人に何かを呼びかけるものとしては普通の文章だなと思う。語りかけたいなら語りかける表現を使えば良い、という単純な話である。
 ところが、前々回ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~から書いているように、私は世に訴えたいわけではないので、つまり読み手の感性や生活に積極的に影響を与えたいとは思っていない。別に語りかけたくないのだ。よって、相手に語りかける表現を使うと非常におかしく感じてしまう。

 語り方についての苦悩はここまで書いた通りなのだが、この混乱には要因が幾つかあるように思われる。現時点で思いつくのは以下の三点だ。

  • 書く目的の迷走
  • および読み手として想定する対象の曖昧さ
  • 文体が持つ力についての無知

 私は何故書くのだろうか。知見を元に講演したいのか? 信念の演説をしたいのか? 成果を発表したいのか? 人を慰めたいのか? 自分に言い聞かせたいのか?
 私自身の目的については前回ブログの書き方ド下手問題②~自己の言語化を意味あるものにするには~はっきりさせたところである。はっきりしたからブログに書いたのだが、しかし書くまではそれほど明瞭ではなかった。どうしたいのかということは自分の内側に最初からあるのだが、それを自分で捕まえることは驚くほど難しい。外れていけば違和感として心が訴えてくるが、この道を行きたいのだと明確に知らせてくれるわけではない。ひたすら自分の内面を描写して納得がいくまで検証するほかないのである。なお、私の目的をまとめ直せば「自己の仔細な言語化を通じて他の誰かの内面の言語化に貢献する」ということになるであろう。
 目的が定まらないことには読み手を想定することもできない。ターゲットを絞らないままでは「なんとなく多くの人に読んでもらえそうな文章」というのをぼんやり書くことになってしまう。
 読み手を想定するということは、読み手との距離や読み手へのアプローチの強さを決めるということである。絵的に考えるならば、矢印の向きと長さと大きさと質感をイメージすることと言えよう。質感というのは曖昧な言い方になってしまうが、例えば触って気持ち良いもふもふの矢印なのか、当たったら穴を開けられそうな硬くて尖った矢印なのか、といった意味である。
 私が自分の目的に沿ってイメージしているのは、木でできた握りこぶしくらいのころっとした矢印が自分を中心にして放射状に複数浮いているような状態だ。柔らかくはないが冷たくも鋭くもなく、誰かを狙って飛んでいくでもなく、ひとつの文章で示すものがひとつに集約されているわけでもない。それを物的に表すならそういう矢印になる。と言って「なるほど!」と思ってもらいたいのではないのだが、とにかく自分が誰に向かってどうしたいのかを自分でわかる必要があるというのがここで言いたいことである。

 目的と対象が明らかになったとして、では実際に使うべきはどういう文体なのか。「です・ます調」と「だ・である調」の差異としてはまず堅さの違いがある。柔らかく書きたいなら「です・ます調」を使えばいいし、堅く書きたいなら「だ・である調」を使えばいい。しかし話はそれほど単純ではないだろう。そのふたつの違いは堅さには留まらない。全く同じことを語尾を変えて表現したというだけならば確かに堅さの違いがあるということになるだろうが、そもそもどういう内容を表現できるかということに恐らく違いが生じてくる。
 敬体の「です・ます調」は読み手に対して丁寧語を使っているということだが、となれば必然的に、読み手の方に体を向け聞いてもらうことを前提に話しかけているがごとき格好になるように思う。独り言で敬体を使うというのはもちろんあり得ないではないが、常に天が聞いているから丁寧な言葉遣いを貫くと決めているといった信条がない限りは、大抵の場合敬体には聞き手の人間というのが想定されていそうである。
 そうなると、逆に敬体で書くことを選択したことによって聞き手の人間を想定せざるを得なくなるということも考えられる。敬体と常体のどちらが自分のデフォルトなのかという個々人の性質の差が感覚を大きく左右するところかもしれないが、実際私にとっては敬体というのは読み手に寄り添わざるを得ない形式のように感じられてしまう。つまり、私は人に語りかけたいのではないにもかかわらず、語感の柔らかさを求めて敬体を選択してしまったがために、人に語りかけるものとして適切な内容を書かなくてはいけない気分になっていた、というのが私の迷走中に起きていたことなのである。
 そもそも「だ・である調」ならばガチガチに堅いのかというとそんなことはなく、風のようにさらっと過ぎていく文もあればスーパーボールのように跳ね回る剽軽な文もある。自然に書いていけば書き手の内面を流れる空気がそのまま表現されるだろう。敬体でも常体でも構わないが、誰に向かってどういう自分であろうとするのが自分にとって自然なのかがわかっていれば、書きたいことを違和感なく書いていけるはずである。無理して敬体で書こうとしていた時には「主張したいわけじゃないから断定的に書きたくない」というふうに思って常体を避けていたが、私にとって敬体は自然ではなく、余所行きのおめかしをしたものであり、内面を綴るには向いていなかった。文体が書き手である自分に及ぼす影響について、私は長いこと無知でいたのである。
 今のところの自分の解としては、文体は常体を基本とし、語りかけるような「Let's」的言い回しは禁止する、ということで納得している。なお、noteはSNS的な要素によって読み手の存在を否応無しに意識してしまい、場所を個人ブログにすることで自分の文体に場違い感を覚えずに済むようになった。

 これで文体の問題は大方解決したが、もう一歩踏み込むと「テンション」をどうするかということがある。再び矢印のイメージに重ねるならば、矢印の色や模様をどうするかであると言えるかもしれない。「テンション」の定義はこれと言いにくいので曖昧なままにしてしまうがご容赦願いたい。そもそも文の場合は「調子」と言ったほうが良いのかもしれないが、体調的な「調子」と区別するため、今回は「テンション」と書くことにする。
 自分のテンションを色に喩えてみるとすると、恐らく赤やオレンジではないだろう。金や銀でもないし、当然虹色でもない。水色のように爽やかではなく、青をイメージするほどクールでもない気がする。彩度や明度は低くても、どちらかと言えば暖色系ではなかろうか。自分で思うのと読み手の感想とでは乖離があるかもしれないが、想像するに深緑や焦げ茶あたりだろうか? ポップな模様はないだろう。強いて言えばアラベスク、あるいは鱗紋とかかもしれない。
 テンションは文体と密接に結びついているようであるが、しかし文体とは別の次元で決まるもののようにも思う。一文一文をばらして見れば同じようでも、全体として出来上がる文章の雰囲気は人それぞれ違うものである。難しい言葉を使えば堅くて暗いのかと言えばそうでもないし、平易な言葉を使えば明るく親しみやすいかと言えばそうとも限らない。話の飛ぶ幅や登場する固有名詞の種類、大和言葉と漢語の兼ね合い、自虐や諦観の有無、そういった様々な要素から総合的に判断されるものなのだろう。
 テンションは個性であって正解はないし、どんなものにも需要はあるだろう。自分と似ているものは安心するし、自分と違うものは刺激的だ。よって何でも良いのだが、自分という人間はどういうテンションで物を語るのが自然なのかは知っておく必要がある。あまりに人の文章を参考にしようとすると、文の構造を学ぶに留まらず、その人のテンションまでもをコピーしようとしてしまったりする。一致しているのなら良いのだが、自分と違うがゆえに魅力的に感じたというものを真似ようとしても継続は難しいだろう。私は人の真似を諦め、自分に馴染む空気によってのみ書き表すことにした。
 私が書こうとしている文章のテンションが広く受け入れられるものかはわからない。ただ、私の固有のテンションを私自身がきちんと表現している限り、誰かは波長の一致に親近感を覚え、誰かは捉えどころのない不思議さを興味深く思うだろうと信じている。

 次回は記事にするネタの管理方法の話を予定している。
 

2021/10/10

ブログの書き方ド下手問題②~自己の言語化を意味あるものにするには~

 ブログを無理なく書けるようになろう、という話の第二回。

 今回は記事の内容と構成についての迷走と展望について書いていこうと思う。


 ブログを書こうと思ったとき、書きたいことや書けそうなことがあるからそう思うのだが、実際に書こうとするとどうしたら良いかが何故かわからなくなってしまう。どういう切り口で、どういう語り口で、誰に何を伝えようとすれば良いのか。そもそも自分は何がしたくて書くのか。自分の中にエネルギーが渦巻いていることはわかるのに、いざそれを放出させようと思うと途方に暮れてしまう。
 エネルギーは形を作らなくてはならない。かめはめ波でも気円斬でも気功砲でも魔貫光殺砲でもビッグバンアタックでも、エネルギーを自分が放出できる形に整えるから放つことができるのである。そしてその形は人それぞれ違っている。観察力があれば他人の形のコピーもできてしまうかもしれないが、それが自分にとって最強の技になることはあまりないだろう。
 とはいえ、そうと解っていても自分の形を見出すのは容易ではない。読者がいて初めて成り立つことを考えると、有効な形とはなんであるかを考慮に入れなければならなくなってくる。世の中では何がウケているのか、誰が何を欲しているのか、自分が読んで面白いのはどういうものか。分析すればするほど、正解は放射状に無数に広がり、その全てを満たしたくて迷走する。
 書く目的がPV稼ぎならば話は別だが、もし自分のエネルギーを放出させたくて書くのならば、自分仕様というものを先に考えなくては道は定まらないであろう。

 私自身長いこと迷走している。「きっとこう考えて生きたほうが良いのだろう」みたいなことを言いたいという気持ちがまずあって、ならばそれをどう書くのか。そのまま言ってもそれを聞き入れようと思ってもらえるとは思えない。何かしらのプロにならなくてはならないような感じがする。そのまま言うなら、毎日同じ熱量でそのまま言い続けるとか。そのままでないのなら、フィクションにしろノンフィクションにしろきっちりストーリーを作って読み手の心に染み込むようにするとか。もっと一般化して心理学に基づいたアカデミックな説得力を核にするとか。どれかでやっていけるだろうかと思ってちょっと書いてみては、なんか違うなと感じてブログ自体をやめてしまう。その繰り返しだ。やがて「ちょっと違うよな」と事前にわかるようになり、投稿に至ること自体がなくなっていく。
 一歩引いてみて、その生き方を実現する手段として何かのツールやメソッドと出会ったとする。じゃあ生き方そのものをストレートに表現しようとするのをやめてツールの話をしようと思う。しかしそうなると、どこに力点を置くのかが曖昧になってくる。ツールの良さはツールの良さであって、自分の考える生き方を実現する手段として推したいかというと、なんとなく微妙な気持ちになる。論理が複雑になってきてしまうのだ。Aという理由があってBという生き方を推したいという信条が前提にあって、更にそれを支えるCというツールの話をしようとすると、Aから話をスタートするとCまで遠すぎ、かといってBのためにCを使うのだという話だけでまとめてしまうとBという生き方を当然の正解と捉えているかのような印象になりかねない。これは個人的に不本意なのである。そもそもこれでは誰に言いたいのかもわからない。
 いっそ自分の信条は封じて自分を支えているノウハウだけを書いてみようかと思ったりもする。何本かは確かに書ける。しかしそれ以上は続けられない。理由は単純で、ノウハウ探しやツールの機能分析に熱意があるわけではないからだ。あくまで自分の人生と密接に結びついている範囲でしか表現できず、そうなるとノウハウの数としてはたかが知れている。ノウハウ紹介のプロになるには、自分がそれによってどういう恩恵を受けるかとは関係なく、どういう人間にどういう効用が生まれるかを想像することに豊かさを感じられるようでなくてはならないだろう。
 迷走で通過したどのやり方にしても、まだ実践してはいないが認識はしている他のやり方にしても、「全く書けない」とは言えないために判断が鈍ってしまったところがある。無理をすればやれそうな気がしてしまう。どういう組み立てでできているのかわからないではない。実際何本かならそれっぽいものが書けなくもない。覚悟を決めさえすれば、その中のどれかを選べそうな希望がある。
 ピンと来ないまま苦しみ迷っている時点でその希望はまやかしなのだが、何を軸にしたいのかが自分でわかっていないから他に希望を見出すことができずにいたのである。

 前回ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~、私には世に訴えたいことがない、自分に対する研究発表をしたいだけなのだ、ということを書いた。そのことは以前から薄々自覚していたことではあるのだが、自分のそのスタンスを肯定してしまったとすればいよいよ何をどう書けば良いのかわからなくなってしまい、その気持ちは脇に置いたままにしていた。読み手に読んでもらうものなのに世に訴えたいことがないとはどうしたことか。有名人でも何でもない一般市民がただ自分語りをして何になるのだろうか。普通に考えて、何の価値も生み出せそうにない心境である。
 その考え方が少し変わる転機になったのが、このブログを初めてすぐに数本連載した「アウトライナーの使い方ド下手問題アウトライナーの使い方ド下手問題~はじめに~」だ。ただただ自分が如何にアウトライナーの使い方が下手かを言語化して分析を試みたものだが、意外にも面白がってもらえた。早い話が、自己紹介と今後の予定を語っただけにもかかわらずである。
 自己の言語化は私にとっては半ば強迫的にやってしまうことで、誰かの役に立つだろうからと思って試みているというよりは、放っておいても無限にやってしまうからそれを人が読める形に書こうと思えば書ける、というものだ。変態的に自己の言語化を重ねていくと、そのうち誰かの痒いところに手が届くのかもしれない。その瞬間にきっと読み手を主人公にすることができる。
 やるなら自己イメージなど抛ってちょっと狂気を感じるくらいにやらなければ、他人の痒いところにまで手は届かないだろう。気鋭の書き手たちにはどこかそういうところがある。内容に共感が多ければ狂気は目立たないが、その文章を生み出すために必要な心構えを想像すると常人離れした感覚を察してしまう。前々からそういう感覚に憧れてもいたのだが、自分の中にそんなものはないと思っていた。事物への関心は薄く霧のように広がっており、どこか一点に集中することはできない。ただひとつ見続けていられるのが、自分自身の内面だった。
 私自身が軽視していたように、自分自身の内面、自分の中だけで起きている現象について見つめて言語化するということは、ごく個人的なもので社会的に価値を生むものとは思いにくい。世界にとって自分という存在は全くちっぽけなのに、更にその自分の中でちらっと揺れ動いただけのことは、まるで取るに足らない些細なもののように思える。せいぜい自分の認知の偏りを正すための指標にするくらいで、それを外に表現して誰かの役に立つことがあるだろうか。実際そう思いながら記事を書いて、しかしそれは自分が思うほど些細なことではなかった。自分の中の現象は数多の人間の中の現象であり、全ての人間の中に起こることではないにしろ、誰かが言葉とともに自覚したかった現象なのである。
 ここで私の中に生まれたのが、「小乗仏教」のイメージだ。といっても私は仏教に詳しいわけではないし教義について語りたいのではなく、また「小乗仏教」というのは軽侮の表現であり「上座部仏教」と呼ぶべきである。それでも敢えて「小乗」のイメージを取り出したかったのでそう書いたのだが、「他の人を悟りに連れて行こう」ではなく「自分が悟りに至ろう」を体現するようなことを文章に於いても目指して良いのではないか、ということである。もちろん既にそのようなスタンスで書いている人というのはたくさんいるのだが、そうするにはもっと自分に特別な何かが必要な気がしていた。しかしながら、実のところ必要なのは「特別な何か」ではなく、ただ自分を見続ける癖なのではないかと思うようになった。

 自己を語ることを人にとって意味のあるものにするには、言語化の解像度を上げて誰かの痒いところに手を届かせるのがまず必要なことであろう。ただそれだけではあまり価値があるとは言えない。その言語化がどういう文脈に於いて行われているのか、すなわち文章の構成というものが重要になってくると感じる。いや、いかなる文章でも構成の如何がその価値を左右すると思うのだが、自分語りも当然例外ではないということである。
 自己の中の現象を書き表わそうとしたとき、その現象の瞬間、つまり「気づき」にフォーカスしたくなる。私の中でこれが起きたのだ、ということに力を入れて書きたくなってしまう。確かにそれを含むように書くのではあるが、その気づきというのは他人にとっては必ずしも意味のあるものにはならない。少なくとも本人ほどはそこに感動はしない。本人にとっても、本当はそれが単発で意味をなしているのではなく、そこに至る経緯がそこに意味を作り出しているからである。
 それは自分の意志表明や、自分が考えや行動を何か変えたという内容でも同じであろう。自分にとっては何かを決めたり変えたりといったことが非常に重要なのだが、他人にとってはそれそのものには意味がない。必ず経緯とセットでなければ読み手が自分の人生に於いて応用することができないのだ。
 そもそも、気づきや決定や変化は瞬間的なものである。その重要性を強調するために言葉を重ねることはできるかもしれないが、そうやって言葉を尽くすことは必ずしも状況の解像度を上げることには繋がらない。説得力を上げるための言葉は何かの事実を詳らかにするわけではない。自分語りに対して読み手が期待するのは、書き手の状況がその間抜けさや滑稽さまでも隠さず明らかになっていくことであり、案外「膝を抱えてぐだぐだといじけている」ようなことなのではないかと思う。気づきや決定や変化の、その手前に共感を見出すからこそそれらのターニングポイントに意味が生まれるのだろう。
 つまり自分が何についてどんなふうに困っているのか、ということからスタートする必要がある。困ったままでいられても読み手も困ってしまうから、少しでも良いから何かターニングポイントとなる要素に着地するのが望ましい。
 よって簡単にまとめるならば、

  1. 自分にはできないこと・困っていることがある
  2. その理由はこれだ
  3. こうしていけばいいかもと思った、こういうことをし始めた

 という組み立てだ。こうしてみると読み手としては当たり前の構成で稚拙さすら感じるが、しかし書き手としてはそうでもない。何を閃いても、そもそも自分は何に困っているのかに立ち戻ることを意識する。そうすることで、自分語りを軸としながらも読み手にとって意味のあることを安定的に書けるのではないかと思っている。
 これは別に魔法の杖でも銀の弾丸でもないが、自分が表現の波に乗り、すいすいと書いていくためのひとつのガイドになるに違いない、という期待を抱いている。

 次回は文体とテンションについて考えようと思っている。
 

2021/10/06

ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~

 ブログを書くことについて延々迷走している。迷走していない瞬間がないと言っても過言ではない。
 と言っても私の場合は投稿をさっぱりしていないので(半年で二十本程度)、方向性の混乱が読み手に伝わっているわけではないだろう。方向性を感じるほど継続的に書いていないからだ。アウトプットに至る前の空間で迷走していて、書けないまま人知れずうろうろと彷徨っている。「作家になりたいと口では言っている人」のごとく、心が空回りするばかりで実績を構築できない。


 書きたいことなら色々あるような気持ちだけはずっと抱いている。書き始めれば自分でも思いがけずするすると言葉を綴っているという経験もしばしばしている。文章を書くこと自体には、得意とは言えないもののコンプレックスはない。「ハマれば何かしら書ける」というふわっとした期待を持って、しかし望むような頻度で「ハマる」ことなどないままにいた。
 noteとこのブログの過去の投稿を振り返ってみたが、そうだったっけと自分で驚くほど短期間に続けて記事を投稿している期間がある。そういう時は「ハマる」ことができているか、あるいはゴリ押しする体力があるかのどちらかだ。
 ゴリ押しをどこまで続けられるかは人それぞれだと思うが、私の場合はどうやら二週間が限界らしい。何らかのテーマに対してその都度数千字をどうにかでっち上げることはできるのだが、二週間ほどで面倒臭さが意志の力を上回り、嫌になってやめてしまうことになる。十分に報酬が得られるなら頑張るかも知れないが、何の稼ぎにもならない状態では力技で執筆を続けるのは私には無理であろう。自然と投稿に堪える文章が生まれるように誘導路を整備する必要がありそうである。

 具体的にどういう時に「ハマる」のかという分析は後に回すことにして、そもそも何が起きているのかを考えたいと思う。
 根本的にネックになっているのは、自分の立ち位置の曖昧さである。表現をしたいという願望はありながら、私には世に訴えたいことがない。何かを見れば批判的な態度になることはままあるが、批判のための表現をしたいとは思わない。他者の批判には礼を尽くした取材が必要で、大変な労力のかかるその仕事をやり遂げてでも自分の思う正義を表明しなければ、という使命感は私にはないのである。あらゆることに私より相応しい論者が存在し、実際に世界中であらゆる意見表明が生まれている。その中のどれを選んで賛同するか考えるだけで精一杯だ。人の変わらなさに不満はあっても、人を変えたいと立ち上がる気はないのだ。甘い考えであろうが私としては変わっていく様を眺めたいのであって、自分が何かを変えて満足に思うわけではない。
 世に訴えたいことがない割に世に向けて表現をしたいとはどういうことなのか。抽象的に言うならば「エネルギーが内に向かって生まれているから」ということになるが、つまり自分の内面を描写したいのである。自分の内面を認識することに自分の思考の多くを割いてしまう癖があるために、そこに形になる成果が生まれないと割に合わない。自分のことをそっちのけで他にエネルギーを費やす才能は私にはなく、エネルギーを自己の内面に振り分けてしまうことが避けられない以上はそこに価値を生み出せないと困る。
 しかしながら、ただ私個人の描写をしても読み手にとっては意味がない。もし私がテレビで毎日見かけるような超有名芸能人ならば自己の内面を語っただけでとてつもない価値を生むかもしれないが、そういう付加価値は私には僅かにもないので、私が何かを書くに当たっては書き手が主人公であり続けるのではなく、読み手が主人公になれる瞬間がある文章を綴らなければ私のエネルギーは無駄になるだけなのだ。読み手が主人公になるとはつまり共感の感動である。
 共感を呼ぶ文章というのはそこかしこに存在して、書くのもそう難しくないようではあるが、実際にはなかなか悩みの多い話である。普遍的に共感を得られるような話は大事ではあるが、それを自分が書くことに意味があるのか。普遍的であればあるほど読み手にとっては「私のための文章」ではなくなり、「みんなのための文章」になっていく。私自身が私を普遍的な人間とは思えていないし、だからこんな調子で悩んでいるのだが、そういう人間が広く共感を呼ぶ文章を書こうというのはどこか無理がある。まず楽しくもないだろう。

 自分の内面を描写しながら、そこに読み手の誰かにとって主人公になる瞬間が生まれるとはどういうことだろうか。赤裸々に語るとか、同じ悩みを持つ人を励ますとか、読み手を元気づける種の文章についてよく言われることはあるが、そのいずれも私にはぴたりとはまらないようである。まず元気づけたいとは思っていないので利他の精神は続かない。内面の描写にはもちろん正直な自己開示が伴うが、赤裸々に語るというほど私自身の人物像を開けっぴろげにしたいわけでもない。私は私を対象とした研究の成果を報告したいだけなのである。
 以前倉下忠憲さんのうちあわせCastにてTak.さんに「人と違う斜め下の角度から光を当てるのがうまい」と評していただいたことがあり(第七十八回の54:30あたり)、そうなのかと思ったが、自分という全貌の見えない洞窟を探検して懐中電灯で天井を照らし「あっ、あそこはああなっているのだ」と語っているようなものなのかもしれない。世の事象について語るにしても、既に陽光の元に明らかになっていることをわかりやすくするよりも、太古の昔から確かにあるにもかかわらず見えにくいままであるところにスッと光を当てられたらよいのだろう。劇的な新発見である必要はなく、「そう言われれば確かに」としみじみ考える機会になるような内容ということである。

 さてどうしたら無理なく書いていけるのか、つまりどういう条件によって「ハマる」のか、ということを考えなければならない。
 洞窟の天井を照らすことが誰かに価値をもたらすとしても、天井を照らすために洞窟を探検するわけではないし、天井を照らすことが探検のゴールになるわけでもない。探検の途中に懐中電灯の光が当たった瞬間というのは、あくまで読み手を主人公にするという要件を成立させるものであって、それは話の全体にはならないのである。ここでの光とは、存在感を放つ具体的な一文であり、それは文章に於いてはある文脈の中に位置づけられたパーツの一つでしかない。
 ブログに書けそうなことを考えていくとき、その光になりそうなものを単発で閃いてしまうことがある。「閃いてしまう」と言ってもそれが悪いことと言いたいのではないが、何も文脈に基づかずにぱっと出てきてしまうと扱いに大変困ることになったりするのである。なまじ光っているだけに捨てられないのだが、その一文のためにそこから文脈を生み出すのは容易でない。どうにか記事にならないかと唸りながら時間を費やすものの、ついぞ形にならずに終わることが多い。出発地点も着地点もこれと決まらないのだ。特に着地点を見出す難しさたるや、ジグソーパズルの1ピースを見て全体像を描けと言われているが如き難題である。それは挑んではいけない戦いなのだとつい最近気がついた。
 文章の書き方の話は数多されていて本もいくらでも存在するが、前述したように私には「世に訴えたいこと」がないために、文章術のセオリーをいまいちうまく使えないできた。書けることがあっても主張がないので、「まず主張を先に書こう」の時点で躓くのである。話を構成しようにも、そもそも要素となるものが自分でわかっていないのだ。もっと気合を入れて文章術を探し回れば自分にぴったりな言説を発見できたかもしれないが、そこまでの気力がなかったので自分で悩みながら道を探すことになった。重要なのは文章を書く以前の自己分析であったと言えるかもしれない。エッセイの書き方を真似るにも、まず自分自身を最低限確かにしなければ始まらない。

 ということで、今後数回に分けて、私はどうしたら無理なくブログを書いていけるようになるかを検討していきたいと思う。つまり、自分の中に起こる様々なことに着目するタイプの人間が、人に訴えかけるという動機なしに自分らしい文章を綴っていく一例を作る試みである。
 流れとしては、①内容と構成の話、②文体・テンションの話、③ネタの管理の話、を予定しているが、自分に対する結論の如何によっては増えたり減ったり変更になる可能性もある。
 

管理人

アイコン画像

のらてつ Noratetsu

キーワード

このブログを検索

検索

ブログ アーカイブ

2025
2024
2023
2022
2021