ノートは分けないで一冊にまとめよう、という話が流行った時期があった。
その種の話は色々あったと思うが、私が影響を受けたのは以下の本だった気がする。
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中公竹義『100円ノート「超」メモ術』
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奥野宣之『情報は1冊のノートにまとめなさい』
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樋口健夫『図解 仕事ができる人のノート術』
十数年前に書いていた大学ノートを読み返すと、これらの本から受け取ったメッセージを忠実に実行していたのがよくわかる。それ以前の私は無意味にノートを使い分けようとして失敗していたから、一続きの大学ノート群にどんどん書いていくというのは当時の私にとって画期的なことだった。
書くことが楽になったから、当時は猛然とノートを消費していた。なんでも書いていたし、一冊終わるごとに振り返って書き方の改善点を考え次のノートをバージョンアップさせるというサイクルが気持ち良くて、ノートを埋められるものを探していたふしもある。
読書メモも自分にしてはたくさん取っていた。数えてみたら、三ヶ月ほどで計120頁超の読書ノートを作っていた。その中に例えば梅棹忠夫の『知的生産の技術』の読書メモも含まれている。
しかしである。書くにはよかったが、後年読み返してみて、このノートは残しておきたくないなと思った。
その原因は「情報を一冊にまとめよう」という発想そのものにあったわけではない。なので例えば冒頭に紹介したような本のメッセージが誤っていたとかいうことではない。個々人の相性はあるにしても、これらはノート術として有効であると今でも言える。
情報の混在でカオスになっているとかいうことが問題なのではなく――混沌への対応策はそれぞれのメソッドに含まれている――自分個人の話として、そもそも同居させてはならない情報があったことに問題がある。
私が書き留めていた情報には、私の中で以下の種類があった(ということを今なら指摘できる)。
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事実
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思い(気持ち、自己分析、仮説)=文脈に依存
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アイデア(具体的なひらめき、案)=文脈に依存
一冊にまとめようということをしたとき、それらを構成するのが全て「事実」なら、どれだけ混在していてもおそらく嫌な感じはなかった。いずれも情報として価値があり、それが散逸の可能性なく一箇所にまとまっているならありがたいことだ。
しかし「思い」とか「アイデア」がその合間にごちゃごちゃと混ざっているとかなり雑然とした感じになる。反省の弁などが混ざっていようものなら、もはやそのノートは丸ごと捨ててしまいたい。
自罰性のある記述や嫌なことを思い出す記述はそもそも残さない方がいいとして、ポジティブな内容であったとしても「思い」や「アイデア」はノイズに感じる。その理由は、その記述単体で見ても何の話をしているのか明瞭ではないというところにある。文脈に依存しているのである。そして全てを一冊にまとめていると、複数の文脈が入り乱れている状態なので、特定の文脈に基づいた記述を拾っていくというのがかなり難しい。ノートを一から全部読んで当時の自分の文脈を全て把握して辿っていくとかしないと記述の意味がわからない。
もちろん後からそのように困ることのないように文脈自体を整理しつつ書くという工夫はあり得る。今ならそうする(例えばその工夫のひとつとして「あらすじノート」を先日紹介した)。しかし当時はやらなかったので、過去のノートに文脈を把握しやすくする仕組みはない。苦労して辿ってまで当時の記述の意味を蘇らせたいとは思わないので、ほとんどが今の自分に役立たない無駄な記録になってしまっている。
ちなみにSNSに投稿したポストが後から読んでも概ね生きているのは、他の人にわかるように心がけて書いていることや、その時点の話題がリツイートなどによって自然と記録されていることによって、文脈を辿ることが容易だからであろう。
文脈依存の情報がその後も生きるようにするには、とりあえず二つの工夫があり得ると思う。
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一冊にまとめるが、文脈を明示するタイミングを作る
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文脈に応じてノートを分ける
文脈をその都度言葉にするのはかなり大変なので、「一冊にまとめる」ことの楽さがそれを上回るかどうかは微妙なところだ。
文脈に応じてノート自体を分ければ、思いやアイデア自体が文脈を示すものになるので、わざわざ文脈を書き残そうとする必要はなくなる。ただし、自分はどういう文脈で考えているのかというのは自明のことではないし、どういう切り分け方でノートを分ければいいかを見極めることに苦労する可能性はある。
とりあえず「事実」「思い」「アイデア」の三つのノートを作っていれば、それだけでもかなり整理されていたと思う。「思い」には常に複数の文脈があるが、それ以上は細かく分けなくてもいいかもしれない。
最初に取り上げた本たちの中で、「事実」「アイデア」はいいとして「思い」をどう扱うよう書いていたか覚えていない。もしかしたら何か工夫について書いていたのかもしれない(書いていないかもしれない)。そもそもそういうのは想定していなかったかもしれない。
私は日記を日記らしくつけることがないので、自分の思いというのはこのようなノートに書くことになる。しかし日記を別に用意するなら、思いは事実やアイデアから自然と切り離された状態で扱うことになったのだろうと思う。
ここまでは「文脈がわからないから記録として意味をなさない」という問題の話だが、そのほかに、そもそも「思い」を物理的に残しておきたくないということがある。
これは五年後楽しくなっているように記録をつけるで書いたことと重なるが、「思い」を後年振り返って読みたいかというと、私の場合はそのようには思わない。きちんと整えた文章は自分なりの作品であるから残したいが、メモとして書き留めただけのものは残っている必要がない。そして人に読まれる可能性が僅かにでもあることはかなり嫌な感じがする。なので書くならデジタルツールの方が良い。
最近はそもそも紙に書くことが減ったのでこの点では当時のような問題は発生していない。
紙のノートに書き残すという時、何が残っていてほしいかは人それぞれだろう。自分の思いこそモノとしてはっきり残しておきたいという人ももちろんいると思う。私はそうではなかったので、それが混じっていることがノート全体の価値を損なってしまった。
とはいえ、当時のノートが無駄だったかというとそんなことはない。とにかく書きまくるということはある種セラピーとして働いて当時の私を救った。後先考えずに書いていったのも悪いことではない。
残っていてほしいノートはどんなものかを考えた時にそれがマッチしなかったということは不幸だが、何もかも未熟で不安定だった時点で何十年も先に残しておきたいようなものを残せることを期待するほうがどうかとも思う。当時と比べて精神状態が比較的健康で人格的にも多少成長し、情報の扱いについても知見や経験を得た今だからこそ、将来残すものについてまともに考えられるようになったのだろう。
過去に既に失敗していることを今になって繰り返すのはつまらないので反省はするとして、当時の自分を責めるつもりはない。
ちなみに、昔のノートはスキャンしたり写真を撮ったりしてデジタル化した上で、特別残したい部分を除いて処分している。