Noratetsu Lab

動じないために。

2021年12月

2021/12/31

ブログデザインを一新しました

 あけましておめでとうございます!
 年が替わったのを機にブログのデザインを変えてみました。


Before

画像

After
画像

 元のデザインも嫌いではないんですが、提供されているテーマや画像を選んだだけで特に何のこだわりも反映されていないのが気になっていたので、一から作ってみようと。
 ひとまずごくシンプルなものにしましたが、HTMLの構造が複雑な既製のテーマのCSSを書き換えて作ったので見た目のシンプルさとは裏腹に私としてはかなり大変でした。ナチュラルメイクが薄化粧などではないのと似ています。いやぁ勉強になった。
 リンクが見にくいことに気づいていながら長らく放置していましたが、それも今回直しました。アイコンを付けることを去年覚えたので、外部リンクをアイコンで判別できるようにしています。
 スマートフォンから見た時の見た目も自分で設定しましたが、なかなかうまくいかなくて地味に苦戦しました。多分大丈夫だと思いますが、なんか変だったらコメント欄でお知らせください。前はBloggerが提供しているモバイル用のビューを使用していましたが今回はデスクトップ用ビューを共通して用いてディスプレイのサイズによってビューを変えています。

 背景やカラーリングについてこれというものが思いついていないので現時点ではモノクロです。このままかもしれないし、変えていくかもしれません。配置についてはこれでいいかなと思っています。

 あとうっかり前のレイアウトのコードをバックアップし忘れてツイートボタンの入れ方がわからなくなってしまったので、解決したら追加することにします。(一応即日解決したので追加しました。しかし明らかに前とやり方が違っている……。)

 今年もよろしくお願いします。
 

2021/12/29

2021年の振り返り

 2021年ももう終わりということで、今年一年の振り返りをしたいと思います。
 普段は常体で書いていますがなんとなく今回は敬体で。


 

 「のらてつ」という名前で活動している範囲および「のらてつ」として言及したことのある話題に限って語りますが、それだけでも今年は色々なことが起きました。
 と言っても誰かと一緒に何かを成したというようなことは別に何もないのですが、自分はどこにいればいいのか、どこに向かって生きていけばいいのかということを掴む助けになる変化が様々あったように思います。

 まず「のらてつ」という名前で活動するということを本格化させたことがその一歩目です。
 この名前自体は2019年のうちに作っており、noteScrapbox(のらてつ研究所)にいくらか書くことをしていましたが、到底自分らしくやれてはいませんでした。世の中どころか自分自身にとってさえ、己のひっそりとした活動がなんの意味も成していなかったのです。自分の中で一番まともにできそうな「書く」という行為によって何かしらのことを成したいという気持ちはありましたが、自分の傷ついた自尊心が焦燥を生むばかりで少しも前に進めはしませんでした。
 今年に入って投稿の拠点をnoteからこのブログに移し、どうせ誰にも見つからないんだから好きなように書いてしまえと思ってちょっとした連載を始めました(アウトライナーの使い方ド下手問題)。連載と言っても単にひとつのテーマで複数の記事を書いたというだけですが、記事ひとつひとつその時点で言いたいことを全部言おうと思って「常識的な構成」的なものは無視して詰め込みました。それ以前は「読みやすいように適度な長さに収めよう」とか「主題と結論がわかりやすいようにシンプルに書こう」とか色々考えて書こうとしていたのですが、そうやったところで自分固有の価値のある文章が生まれることはなく努力は徒労に終わり、どうするべきか一年近く悩んだ後、先んじて自分に枷をつけることはせずにとりあえず自由に書くことにしたのです。
 そしてアウトライナーというキーワードからTak.さん(@takwordpiece)に見つけていただき、ほとんど透明だった「のらてつ」という人間がそれ以降謂わば実体化しました。倉下忠憲さんのうちあわせCastで取り上げていただいたのは大きな転換点になったと思います。
 それまで知的生産界隈(『知的生産の技術』で梅棹忠夫が示した種類の世界に対して興味を抱いている層)の方々のことは一方的に見ているだけで、誰とも繋がりを持ってはいませんでしたが、TwitterやScrapboxでやり取りを交わす機会を得られるようになり大変ありがたく思っています。

 前の記事ブログ日誌:ブログを書くと別人になるで書いたことですが、読まれることだけでなく書くことそのものの意味も大きく変わりました。読んで価値のある記事にしないといけないという呪縛から解かれ、書きたいことを書けるだけ書いてしまえというスタンスに変わったことにより、自分という人間に起こっていることを描写する解像度が随分上がりました。もし読者にとって有用な内容にしようと思ったならばほとんど省略されるであろう部分に言葉を費やし、言葉を費やすことによってより核心に迫る像を見出すことができるようになっていったように思います。
 書くことそのものが自分にとって意味を持つならば、書いたものがたとえ読まれなくとも人生が豊かになるという実感を得ました(逆に読んでいただけるようになりましたが)。自分の文章の価値を読者の存在に依存していると、思うように反応を得られない間じゅう、読んでもらえないことを嘆いて暮らすことになってしまいます。「自己満足で書け」とだけ言うと少し大雑把かと思いますが、読んでもらった暁には読者におっと思わせるように努めながらも、書くたびに書くこと自体が自分に大きな影響をもたらすようにできたら良いのではと感じています。

 この一年でできるようになったこともあります。例えばGitを使えるようになりました。と言っても理解したのは自分に必要な機能だけで、ブランチの作成もプルリクエストも実践したことはありませんが、Gitの前に立ちはだかる「なんか難しそう、理解するの大変そう」という壁は壊すことができました。コマンドで操作したこともまだないですが、GUIを通してGitというシステムが何をしているのかが解ったことにより、必要に迫られればなんとかできるであろうという気がしています。
 今年の一番大きな収穫はCSSだろうと思います。ScrapboxのUserCSSをいじるところからスタートしたわけですが、最初は「フォントサイズを変える」「色を変える」「他の人のコードをそのままコピペする」といったことしかできず、少しずつ試行錯誤の幅が広がってもしばらくはクラスもプロパティもよくわからないでいました。適当に指定して見た目は思い通りになったけど結局何がどうなっているのかわからない、ということも多々ありました。
 さすがに行きあたりばったりのカスタマイズでは限界を感じ、HTMLとは何か、CSSとは何かということを一から勉強することにしました。それが九月半ば頃のことだったかと思いますが、そこから二ヶ月半ほど取り組んで今は大体思い通りのスタイルを実装できるようになりました。普段ScrapboxやDynalistなど多くのwebアプリケーションを利用していますが、近頃はそれらの見た目を自分に合うように変え、更にマウスオーバー時の挙動を設定することで機能を付加したりしています。
 CSSを習得したことは、デジタルツールを使うということ自体に私の中で革命を起こしました。自分がツールの仕様に適応するのではなく、ツールの方を私に合わせるのが当たり前になりました。そしてツールに対する不満の多くは見た目の問題であり、機能そのものではなかったということもわかりました。CSSを上書きすることが可能ならば自分で解決できるものが相当に多いのです。ツールの機能としてユーザーによるCSSの上書きが可能になっているのは私が使っているwebアプリケーションの中ではScrapboxだけですが、ブラウザ上で利用するものならばブラウザの拡張機能をインストールすることによって自分の画面でのスタイルを変えることができます(検索すればいくつか見つかります)。ローカルのアプリケーションでは、例えばObsidianにCSSをカスタムする機能がついています。用意されたいくつかのテーマから選択するに留まらず、余白の1pxに至るまで自分好みに設定できることは、デジタルツールの使用感を大きく向上させることに繋がります。
 JavaScriptの勉強もゆっくりとスタートしました。まだ自分でコードを書ける域には全然至っていませんが、全く意味不明の文字列に見えていたものが、ここはオブジェクトでこれがキーで関数の引数がこうだからこの関数でここがそうなるんだなという程度のことはなんとなくわかるようになりました。勉強は始まったばかりですが、来年のうちには小さいアプリケーションを作れるようになるのではないかと少しわくわくしています。

 一方でやめてしまったことや終わってしまったこともあります。普段語っていることとは関係がないことであり、興味深く思われる内容とも思えないので具体的なことは書きませんが、昔は楽しくやっていたはずのことや毎日悩みの種になっていたことなどを手放し、幾分身軽になりました。自分を売り込むことができる可能性があると思うとついしがみついてしまったりしますが、それが自分を苦しめていては元も子もありません。多分、私はそこにいるべきではなかったのです。
 また、その他にも日常生活や人間関係上の問題として長らく苛まれていたことが解消し、考えるべきことを考えられる余裕が生まれたように思います。物事を俯瞰するには最低限の精神的ゆとりが必要であるということを身を以て感じているところです。
 そうして今はネット上の居場所をここに見出しました。今のところ違和感はなく、ここにいていいような気持ちでいます。まだ何かを成したわけではありませんが、いずれここで何かをできたらと思っています(現時点では何も予定はありません)

 この一年、各種の投稿をお読みくださった皆様、ブログやnoteやTwitterで言及してくださった方々、どうもありがとうございました。
 今後も色々書いて生きていきたいと思っています。来年もどうぞよろしくお願い致します。
 

2021/12/27

よくわかるNoratetsu Lab(2021年版)

 一年の総集編として、今年このブログに書いた全ての記事からそれぞれ一部分をピックアップしてみた。
 記事の内容の核になっているとは限らないが、このブログがどういうブログかが大体わかると良いなと思ってコアな部分を選んだつもりでいる。


01:Restart

少しでもまともに見せたい――今の自分はきっとまともの域に達していないから――と背伸びをすることは、自分自身を否定し侮辱することに他ならない。我が子を人に紹介するときにわざわざ「豚児」だの「愚息」だのと言えば、その度にかすかな復讐心が子の胸中に居場所を得るだろう。己への侮蔑も、己からの復讐として返ってくることになる。

02:情報整理と執筆作業は「有機度」が異なるせいでひとつのツールに同居させられない

情報の整理とは、有機的に存在しているものを一度分解して無機的なパーツにバラし、再び別な手続きで有機的に組み直すことのように思う。人と人との間で情報を伝達するには必ず有機的な形でなければならないが、有機的に組んでいる箇所は服薬ゼリーのようなもので、飲み込んだら本体から外されていくことになる。脳に届くのは無機的な本体の部分である。

03:アウトライナーの使い方ド下手問題~はじめに~

どうして私はアウトライナーとともに情報管理の「系」を作り上げていくことができなかったのか?

04:アウトライナーの使い方ド下手問題①~「きちんとしている感」との格闘~

そしてこの「どこにも位置づけられない思いつきの集合」が比較的短い時間で解体されていくのならよいのだが、ある程度はどこかへ巣立っていかせられても全てに就職先を斡旋できるわけではないし、もしデイリーやウィークリーで区切るということをしないならばむしろ膨張していくばかりである。「位置づけられないという場所に位置づけられた情報」が、どこかに位置づけられたいというメッセージを放ちながら、ほとんど無秩序にごちゃっとまとめられたままになる。いつか使えるかもしれない原石の山、と大きく構える心は残念ながら持てずにいる。

05:アウトライナーの使い方ド下手問題②~アウトライナーは「今」のものである~

作家の構想が箇条書きのまま本になることはないように、人に情報を伝達するには必ず「肉付け」をしなくてはならない。たとえ、読者が作った読書メモが結果的に作家のアウトラインとほとんど似通った形になるとしても、作家と読者の間には周到に肉付けされた文章が必要である。肉付けとはつまり文脈である。もう一歩突っ込めば、文脈とは「他の解釈の可能性」を断って読み手に一本の道を確実に歩かせるものと言えるように思う。

06:アウトライナーの使い方ド下手問題③~「自分」はもはや「宇宙」である~

ここで今日のテーマを確認するが、私が感じている問題は「情報の種類が雑多で量が多い」ことである。「量が多い」はともかくとして、どうして「種類が雑多」になってしまうのか。端的に言って、アウトライナーに書き込む対象の範囲が広すぎるのだ。日記や日誌を兼ねてしまうなら、広く「自分」のことを書いている状態と言えるだろう。「自分」を対象にするというのは、もはや「宇宙」を対象にするも同然である。

07:アウトライナーの使い方ド下手問題④~オールインワンという幻想~

アウトライナーは身体で言えば手指のようなもので、その存在は極めて重要だが、身体全体ではない。足で踏ん張らなければならないものを手指に支えさせたら当然に無理が来る。手指はいつも自由に動かせるようにしておく必要がある。

08:アウトライナーの使い方ド下手問題⑤~事前アウトラインと事後アウトライン~

文章を書いていると、自分でもよくわからないままにエンジンがグオオオッとピストン運動して文章が文章を生むという状態になることがある。それも割とよくある。文章を書くという行為をすればどこかしらには必ずその瞬間が訪れる気すらする。そうなったとき、その過程を逐一「構想メモ」であるアウトライナーに書き込むだろうか? 几帳面な人は書き込んでいくかもしれないが、私は全く書き込まない。よってアウトラインを大幅に無視して且つその結果がアウトラインに反映されないままになる事態が度々発生する。それは別に悪いこととは思っていないし、アウトラインのおかげでそういう脱線をどれだけしても本筋に戻ってくることが可能になる、ということにこそ執筆に於けるアウトラインの価値を感じている。

09:アウトライナーの使い方ド下手問題~まとめ~

アウトライナーはとても自由なツールだ。順番を入れ替える、そして階層を作る、というのは人間の思考の基本であると思うし、原則としてその二つの操作だけを行うものであることが、アウトライナーを使う人間の性質を露見させているように思う。果たして「完璧な使い方」というものが存在するのか私にはわからないが、アウトライナーを使っていてどうにもうまくいかない部分には、その人の思考の流れを妨げる癖が潜んでいる気がする。

10:アウトライナー日誌:「設計図」または「説明図」という意識を持ってみた

なお、ここで削ぎ落としてはならないのは自分の「気持ち」である。最近は思索をまとめるにもまず「気持ち」「前提」「経緯」といった欄を作るようにしているが、私自身のベクトルの記録というのはいつも忘れられがちだった。

11:Obsidian日誌:フォルダ分けにDoMA式の「フラットスタイル」を採用する

常に自分の注意に合わせてフォルダを作ってしまいながら、結局それが整理上の混乱の元になるか、それともそれこそが整理に成功する要となるかという正反対の結果があり得るのである。DoMA式に対して感じるひとつの大きな意義は、自分の注意に基づく塊を作るということを、「分類が面倒くさい」という怠惰の結果ではなく「そういうシステムである」と考える発想の転換をもたらしてくれたことである。大袈裟なようだが、私にとってそれは確実にコペルニクス的転回であった。

12:Obsidian日誌:構造ノートとはなんぞや①~構造作りは自動化できない~

ところが、個々人が多種多様な情報を千差万別の目的意識によって収集して整理するとなれば、構造の種類も多様になって当然のような気がしてくる。一度うまくいった構造が次も使える保証はない。個人の好みや思いが反映される以上は、ビジネス文書や学術論文のような画一的な形式にはなり得ないと言ってもいいだろう。うまくいったものをヒントにはできても、それをそのまま使い回せると無警戒に信じるべきではない。

13:Obsidian日誌:構造ノートとはなんぞや②~文脈には前提・操作・根拠が必要である~

並べられたものを見て、頭の中にはほとんど反射的に何かしらの文脈が生まれる。しかしそれをきちんと書き表さなければ、その文脈が情報として意味を持てないのだ。そこに見出した意味を活用するには、情報の列挙を見る度にいちいち同じ連想をしなければならないことになる。それは不確実で非効率である。

14:Obsidian日誌:構造ノートとはなんぞや~まとめ~

そしてその実践のためには「対象を通して自己を綿密に怠りなく観察すること」が必要となり、そうやって構造ノートを作っていくことはつまり「自分として生きること」そのものではないか、ということである。

15:発想を文脈から解放するには①~実はみんないつもやっている~

ブログを書く上での地味な悩みとして、「導入をどうするか」というものがあり、ぬるっと入っていくうまい書き出しが思いつかなくてしばしばエンジンがかからず仕舞いになる。一ヶ月半ほどの空白ができた理由のひとつでもあるのだが、しばらく考えて今しがた出した結論は、「導入などない」である。

16:発想を文脈から解放するには②~トリガーとアクション~

すなわち、使うためには、使えるフレーズでなければならない。当たり前のことを言っているようだが、私はそのことに長らく思い至らなかった。うまく言い表せたような気分で満足してしまって、それを用いるということを考えていなかったのである。

17:発想を文脈から解放するには③~実践とまとめ~

たまたま最初から活用可能なフレーズを思いつくこともあるし、そうなったならばラッキーだが、多くの場合は「状態を言い表してはいるが活用しにくいフレーズ」を核として取り出してしまう。それをそのままにしていては、いい感じのことを言えたはずなのに風化したという悲劇が待っているかもしれない。本当に風化させたくない大事な閃きならば、自由に使えるように形を整えておくべきなのである。

18:発想を文脈から解放するには④~余談~

分岐以前と以後は、分かれてはいるがそこに断絶があるわけではない。遡れば繋がっている。今文章をひとつ書くにあたって分岐してしまったかもしれないが、そういう縛りがなければもやもやと一緒に漂っていたような思考なのである。その思考は今文章を書くためだけにあるのではなく、もっと根源的な「解明したいこと」のためにあるわけで、関係する全てがなるべくアクセスの良い近い場所にあってほしいものなのだ。

19:Git日誌:テキストファイルをホワイトボードのように使う

実際問題、分岐させて残すこと自体が愚かなのではなく、むしろ適切な方法でやらなくてはならないものとも言えるが、凡人には「適切な方法」が一向に培われないのが致命的である。既に要らなくなっているファイルに対して「要らない」と評価する仕組みが自分の中に確立されないので、よくわからないゴミファイルが「もしかしたら要るのかも…?」という儚い可能性によって残されたままになる。ついぞロードしなかったセーブデータのように、当時の文脈を完全に失って、ただセーブした瞬間の「念の為」が亡霊として彷徨っているのだ。

20:余計な文脈を断つ有限性と工夫を促す有限性

何かを書こうとするとき、何らかの意味で書く場所に制限があるということに大きな意味がある。制限がないことは自由かもしれないが、それは自分の脳を自在に働かせることに貢献するとは限らない。脳の中の芋づるを引き出してこなければならないなら、それを引き出す鈎が用意されていたほうがよいこともある。いきなり大海に放り出されるよりも、泳ぐ目安のある小さな川や市民プールに足を運んだ方が楽しく泳げることもあるだろう。

21:知的生産を「自分の想像を大事にしようとすること」と言い換える

私たちは数多の賢人の後に、あるいは同時に生きているのであり、天才でも何でもない身では「自分にしか言えないこと」などほとんどありはしない。自分の想像は誰かが検証しており、大抵は自分の知らないところでそこにいる人々の間での常識になっている。何を書いても内容に真に新しさが含まれることはほぼあり得ない。しかし、何かを書こうとしたとき、そこには自分の人生に於いて今初めて生じた想像があるはずである。何かを思ったから、自分の頭の中にあるものをわざわざ残そうとしているのだ。もう少しはっきりさせると、実際に残したいと自覚している想像と、それを自分の頭に呼び出した想像とがあるのである。たとえ他の人にとってわかりきったことでも、自分の人生でそれが生まれたことには自分固有の経緯がある。それは全く別の事とも繋がっていく可能性があり、その経緯こそが自分の個性だと私は思っている。

22:アウトライナー日誌:アウトライナーとは何型のメモなのか

アウトライナーというツールを使って項目を編集し操作していくことを「要するに細かいメモを作って動かしているのだ」と言ってしまって良いかどうかはまだ判断しかねるところだが、そういうツールであると言えるとするならば、「○○型メモ」という名称を捻り出すことによってアウトライナーなるもののわからなさが多少軽減されるのではないかという淡い期待を私はこっそり抱いている。

23:HTML日誌:自分のためだけにHTMLを書く

誰かが開発したツールを利用することにすっかり慣れてしまった今となってはとてつもなく原始的な工夫をしているような気がするが、私にとってはこれでいいし、これがいいのだと思った。

24:ブログの書き方ド下手問題①~世に訴えたいことはないのだが私は書きたい~

表現をしたいという願望はありながら、私には世に訴えたいことがない。何かを見れば批判的な態度になることはままあるが、批判のための表現をしたいとは思わない。他者の批判には礼を尽くした取材が必要で、大変な労力のかかるその仕事をやり遂げてでも自分の思う正義を表明しなければ、という使命感は私にはないのである。あらゆることに私より相応しい論者が存在し、実際に世界中であらゆる意見表明が生まれている。その中のどれを選んで賛同するか考えるだけで精一杯だ。

25:ブログの書き方ド下手問題②~自己の言語化を意味あるものにするには~

エネルギーは形を作らなくてはならない。かめはめ波でも気円斬でも気功砲でも魔貫光殺砲でもビッグバンアタックでも、エネルギーを自分が放出できる形に整えるから放つことができるのである。そしてその形は人それぞれ違っている。観察力があれば他人の形のコピーもできてしまうかもしれないが、それが自分にとって最強の技になることはあまりないだろう。

26:ブログの書き方ド下手問題③~自分節を見つけ出す~

どうしたいのかということは自分の内側に最初からあるのだが、それを自分で捕まえることは驚くほど難しい。外れていけば違和感として心が訴えてくるが、この道を行きたいのだと明確に知らせてくれるわけではない。ひたすら自分の内面を描写して納得がいくまで検証するほかないのである。

27:ブログの書き方ド下手問題④~「書く」ための発想とは~

もし何かを物理的あるいはシステム的に構築することだけが創造ならば、構築するものそのもの、それを説明するもの、それを進める先として胸に刻むもの、というふうに整理されるかもしれないが、「執筆」のように物理的な構築無しに思考を人に伝えることを創造の本体とするとなると、全ての段階、全ての種類の発想が創造の種となり得てしまう。ネタの位置づけと扱いは複雑で流動的になり、書くにあたって実際にどう使うかが決まる瞬間まで整理がつかない。ネタをどう育てていけるかがわからないのである。ある程度整理できたとしてもそこからどこまでどう膨らむかわからないのに、整理すらできないとなるとひとつひとつがまるで宇宙か何かのように途方も無い存在になってしまう。

28:ブログの書き方ド下手問題⑤~結論が出ないことを恐れない~

ブログを書くというとき、核にはそうやって「エネルギーを形にして放出したい」という願望があるのだが、自己を見つめてみるとそれとは別に「せっかく思いついたからなるべく面白い形にして発表したいなー」というライトな欲求もある。

29:Office日誌:思想を自分の手に取り戻そう

人の思想に幾度も染まり直したことは私に多くの学びをもたらし、それは今の私を作る大切な蓄積になった。そこに、十年前に置き去りにした私の素朴な思いと望みを重ねて、今こそ自分らしいコンピューターライフを送ろうと思うのである。

30:Office日誌:フォントと背景で「自分の場」感を演出する

自分にとって気分の良い背景は何かということは私自身長らくわかっていなかったし、だんだんとツールが嫌になってくる要因として背景に納得できていないことがあるというのもごく最近気がついたのだが、気分が良くなる見た目を見つけて設定してからは「ここは私の場である」という意識を持てるようになった。

31:ブログの書き方ド下手問題⑥~試行風景を実例にしようとしない~

人に読んでもらうために書くのだから価値のある情報を出すのはある意味当たり前のことではあるのだが、ここで問題なのは、私がこうせねばと思っていた「価値」と、実際に文章に生まれる「価値」が違っているということである。文章が持つ価値というのは、「ここにこういう価値がありますよ」という語りではない。読み手の中の何かを動かしたということが価値になるはずである。「これに何の意味があるのかわからないけどなんか楽しそう」という感想を生むのも価値なのである。

32:ブログの書き方ド下手問題⑦~考えが整ったのに記事にしにくいものたち~

文章を書く時というのは、書きながら書き手自身に発見がないととてもやっていられない。自分としては既にわかりきっていることを、ただ人に読めるように翻訳するだけの作業というのは大変に苦痛なのである。書くということ自体が謎を解く探検の旅であるからこそ、私たちは何千字や何万字とかいう量の文字を拵えることができるのだと思う。

33:ブログ日誌:ブログに書くこと・書かないことを整理する

書くことがむしろ自分に何かをチャージするような形でないと、ブログというものを書く甲斐はないように思う。

34:Notion日誌:自己不在の不安が私を「データベース」に憧れさせた

今となってはそんな希望は幻でしかないことは当たり前にわかるのだが、当時はデータベースが放つ全能感に強く惹きつけられ、一方でデータベースの仕組みを今ひとつ掴めない文系思考人間の自分に無能感を募らせていた。私の中でデータベースという概念はコンプレックスとともにあった。コンプレックスによって惹かれ、惹かれることでコンプレックスが強化されていった。

35:デジタル日記の試み①~Scrapboxに日記用プロジェクトを作ってみる~

結局のところ紙にしてもパソコンにしても、何でもいいからどれかひとつの形式を決めてそこに淡々と書き続ければいいだけの話であるにもかかわらず、私の気質に問題があるのかそれがなんとしてもできないのである。大学ノートに書き始めていつの間にか何十冊に、みたいな話を聞くたびに私もそうでありたかったと溜息をついてしまう。

36:デジタル日記の試み②~Notionに日誌用データベースを作ってみる~

私の理想としては日記は巻物のようであってほしく、時系列順にずーっと続いた形で表示されてほしいのだ。実物の巻物は後から加筆するのが難しいのでアナログ巻物を日記とするわけにはいかないが、頭の中にあるイメージとしては巻物に見立てられることを前提としている。

37:デジタル日記の試み③~Wordで日記らしい日記を書いてみる~

必ず書くと決めることによって生み出される成果ももちろんあると思うが、私の場合はそういう自分ルールは己を雁字搦めにするデメリットがメリットを遥かに上回ってしまうので、「とにかく書く」より「とにかく書きにくくしない」ということを重視することにした。

38:デジタル日記の試み④~Dynalistに日記と日誌のファイルを作る~

(アウトライナーは)むしろ好きな粒度で「巻く」ことのできる柔軟なデジタル巻物と言えるかもしれない。アウトライナーの折り畳みはパタッと折り込むあるいはグシャッと潰す(collapse)イメージを持っていたが、模造紙にそうするようにくるくる巻いたり広げたりするイメージを当てはめることも可能だろう。

39:思った通りに書くということ

気をつけていることというのは、ずばり「思った通りに書く」ということだ。「なあんだ、月並みな」と思われそうなので念を押すが、厳密に「思った通りに書く」ということである。「思いつくままに書く」のではなく、「思った通りに書く」のである。「思い通りに書く」「自由自在に書く」「言葉巧みに書く」のでもない。真剣に、努力して「思った通りに書く」。

40:ブログ日誌:大事なのは内圧を弱めないこと

自分の思念を他人が読める形に文章化するというのは、腹に溜まっていたものを口から吐いていくようなイメージがある。下から上へ、時に心地よい深呼吸のように、時に苦痛を伴う吐逆のように、体内の諸器官をくねらせてどうにか吐き出していく。上手くいっていたとしても、やがて上半身が疲れて休みたくなる。

41:ブログ日誌:ブログを書くと別人になる

演出を加えずに正直に書くほど、進展した時にはそれが実際にどういう状態だったのか忘れてしまうように思う。書くにあたって拵えた「設定」は覚えている一方で、その時頭の中にあった光景は記憶に留めていられない。盛った嘘は覚えていても純粋な主観はあっという間に移ろってしまう。

 今年はあとひとつ振り返りの記事を書いて一年を終えようと思う。
 

2021/12/25

ブログ日誌:ブログを書くと別人になる

 このブログを開設してから書いた記事が40本になったらしい。
 ここを作る前にもいくつかのブログを開設しては削除し、noteも数回集中的に書いては途絶えということを繰り返したのだが、それらと今とで違っていることがひとつある。書き始めた時と書き終えた時とでの自分の変化である。


 

 三月と十月に「ド下手問題」と称した連載をやったが(アウトライナーの使い方ド下手問題ブログの書き方ド下手問題)、この時にその変化というのが顕著に感じられた。
 書く前の時点では、「ド下手」と言っている通りそれを上手くやれない状態を克服しておらず、解決の見込み自体あるようなないようなという状況にあった。過去の成長を振り返って記しているわけではなく、書いている最中では本当に下手なのである。以前だったら問題が解決してから「○○を上手くやるには」「✕✕を△△する方法」といったタイトルを付けて書こうとしたのではないかと思うが、今年に入ってその書き方はやめた。そのように題してしまうと内容の出来を保証しなくてはならない気がするし、そもそも私の「書きたい」という欲求は「他の人に伝授したい」とはイコールになっていない。
 よって解決方法を見出す前にスタートしてしまうわけだが、その場合記事の内容というのは、自分に起きていることはこうだ、自分とはこういう人間だ、ということを描写することによって成り立っている。それらは事実としてあるものであって、目を向けて言語化していけば「現時点でここにある事実はこうであるようだ」ということは言える。解決策を知らなくとも書ける。もちろん、事実を認識すること自体にコツはあり、恐らくそれなりの訓練の年月が必要で、更にその認識が必ず正しい保証など全くないが、今現在できうる限りの描写を試みることなら可能だ。なお、思考を描写することについては先日少し書いた思った通りに書くということ
 言い換えると、解決策がまだ見えていないので書けることはそれしかない、ということでもある。自己の描写をするだけのものを記事にして人に読んでもらおうとするのには多少の勇気が要ったが、「アウトライナーの使い方ド下手問題」の時はもやもやを吐き出したいという欲求が尻込みする気持ちに勝って記事になった。本当にただそれだけのものになってしまってももう構わないというつもりで書いていた。

 しかしながら、書いてみると不思議と何かしらのそれらしい結論が出てくる。「つまりこうすればいいということなのだろう」というのが、さも当然の流れのように浮かんでくる。書き始める前は全く解決の糸口が見えていなかったのに、書いてみると何故思いつかなかったのかと首を傾げてしまう。書き終えて少し経つと、もはや何に混乱していたのかもリアルには思い出せない。
 演出を加えずに正直に書くほど、進展した時にはそれが実際にどういう状態だったのか忘れてしまうように思う。書くにあたって拵えた「設定」は覚えている一方で、その時頭の中にあった光景は記憶に留めていられない。盛った嘘は覚えていても純粋な主観はあっという間に移ろってしまう。
 話を戻すが、不思議と解決策が浮かぶというのは、恐らくツッコミを思いつくのと同じことなのだろう。岡目八目を自力で作り出したということなのだと思う。大袈裟に言えば、己の問題を見つめて自力で解決できる自分を生み出したと言っても良い。書き始める前にいた自分と、書き終えた時にいる自分は既に別人である。

 それでは、書きさえすればこの魔法が降り注ぐのだろうか。
 半分はそうで、半分はそうではないという答えになりそうである。
 岡目八目を作り出すには客観的に判断できるだけの材料が要る。自問自答を通してそれを書き出さなくてはならない。それが十分に言葉にされた時、自己解決の力を持った自分が降臨する。つまり、「解決策がわからない」且つ「現状はわかった」という時、現状を書き出すことによって解決策が現れる魔法がかかる(かもしれない)
 現状がわかるとは、具体的に何を解決すべきかがわかるということでもある。そして現状をわかるためにまずあらゆることの言語化が必要になる。つまり、

画像

ということであろう。この「文章化」の過程で生じることがあまりにも劇的であるため、ついその部分を強調したくなるが、事はもっと手前から始まっている。「文章化」で行われることは解像度を上げることで、喩えるなら性能の良い顕微鏡を用意するようなものだ。それ以前に、顕微鏡で何を見ようとしなければならないのかに見当をつけておかなくてはならない。
 「言語化」の部分はブレストと言い換えても良いかと思うが、ブレストはそれだけでは悩みの解決には不十分なのかもしれない。人の心に関わらない問題を考えるのならば事実をぽんぽん並べるだけで大方解決するかもしれないが、一方で人の心については論理の展開が鍵を握っている。自分にどういうフィルターがあるから今この悩みが生じているのかというのを知るには、ただ単語やフレーズを列挙するだけでなく、因果関係や相関関係を意識しながら文章によって表現することが必要なのだろう。

 昔はなぜこの効果を得ることができなかったのか?
 それは正直に書かなかったということに尽きる。最初の記事Restartで吐露したことだが、とにかく背伸びをしないと不安でしょうがなかったし、「この件についてはもう解っていますよ」というポーズを取らずにはいられなかった。事実の描写だけに集中することができなかったのである。
 開き直ってカッコつけをやめ、「私はこれができないんです、下手なんです」とそのまま書くことにした。そうすると、微笑みを浮かべた女神の導きのように「こっちに道がありますよ」ということがわかるようになった。道を進むともう私は別人になっている。
 「書く」ことを通してそういう体験ができるようになったことは、回り道ばかりの人生でようやく踏み出した大きな一歩だと感じている。
 

2021/12/23

ブログ日誌:大事なのは内圧を弱めないこと

 前回の記事以降、ブログを書く以外のことに意識が向いていて少し間が空いてしまった。
 他のこととは、CSSを書いたりJavaScriptの勉強を始めたりGitで古いファイルの分岐の混乱を解消したりDynalistやScrapboxに情報を整理したりといったことで、それはそれで日々進歩があって気分は充実しているのだが、とはいえ「投稿する」ということをしないでいると私としては人生の蓄積を感じられない。やはり人に読んでもらうに足る文章を生産する努力を継続することが自分にとって必須なのだろう。


 

 テンポ良く続いていた投稿が途絶えたのには、他にも考えられる理由がいくつかある。
 ひとつは、テンポ良くいきすぎていて息苦しくなったということがあり得る。ガンガン書いている時、なんとなく自分の重心が高いところにあるような感触がある。呼吸も胸の高い位置で浅くなっているかのようである。自分の思念を他人が読める形に文章化するというのは、腹に溜まっていたものを口から吐いていくようなイメージがある。下から上へ、時に心地よい深呼吸のように、時に苦痛を伴う吐逆のように、体内の諸器官をくねらせてどうにか吐き出していく。上手くいっていたとしても、やがて上半身が疲れて休みたくなる。やりすぎる前に時折自分を落ち着かせていれば少しは長持ちするであろうと想像するが、落ち着いていないからこそガンガン書けるということもあり、そのバランスを取るのは難しい。そしていよいよ疲れた時に一気に脱力してしまうのである。
 他には、「渾身の」とまでは言わないにしても、自分の中でスッキリするような文章を書けてしまうと内圧が弱まって次の文章を書きにくくなるということがある。今回は典型的にそのパターンだったが、前回の記事思った通りに書くということでそれまで自分が言語化しないまま抱えていた考えをスッキリ言語化してしまったために自分の中の圧力がゼロになってしまったような感覚がある。これは他に書くことがあるかどうかとは関係なく起こることのように思われる。もし「思った通りに書くということ」に直接関連して更に書くべきものがあったならば続けられたであろうと思うが、それ以外の種類のネタをどれだけ抱えていても、ひとつのテーマについて決着がついてしまった時の圧力の低下は抑えがたく感じる。例えば小説を書く場合も、ひとつの世界観について書き終えてしまうとなかなか次に移れない。文章にしていくための断片は山程あるのに、それを繋いでいく作業のための気力がないのである。
 少し前まではネタそのものがなくて困っていたのだが、ブログの書き方ド下手問題を通して「ネタがない!」という悩みはなくなり、価値の如何はともかくとしてとりあえず書こうと思いさえすれば書けるネタがそれなりにある。それらのネタはどうすれば私なりの文章になるのかも解った。その段階に来てみて、「ネタはあるし書き方も知っているが書けない」という悩みに今直面している。
 原因が疲労であれ内圧の低下であれ、ギアを5速に入れてビュンビュン走っている時は一瞬で書けてしまうような文量も、一度停止して1速から入れ直さなければならないとなると果てしないかのような時間をかける羽目になる。せめて2速くらいまでの減速に留めて、停まりきらないで気力を維持・回復していきたいところだ。

 これらの状態の根本原因としては、「今」に注力しすぎて次に移る準備ができていないということが言えそうである。今書いているものに意識を100%割いてしまうために、それが完了したときに次のことをすっかり一から考え直さなければならなくなる。予め十分に材料を用意していたとしても、それを組み立てる力が枯渇していれば文章にはならない。気力の用意がないのである。
 とはいえ、今書いているものに対して30%とか50%の意識を割くだけで良い文章ができるとも思えない。良し悪し以前に完成させること自体が難しいようにも思う。限りなく100%の意識でもって取り組む必要がある。いくらでも同時に進められる器用な人も世の中にはいるかもしれないが、とりあえず私はそうではない。
 自己のコントロールとしてとても難しいことを試みることになるが、理想としては90%くらいで今今のものに取り組み、残りの10%で次の準備をしておくことだろうと思う。毎日注力するものを変えるのも手だが、そうするにしても次の日の90%のために今日の10%を割いて用意しておく必要を感じる。
 おそらく急には難しい。自分を信用できていないために、自分の90%がその日のワークとして十分だと感じられない。気持ちとしては120%や200%やりたいなどと思ってしまっているのである。ゆえに100%でも妥協しているかのような気分なのだ。実際には定義上100%より大きい値は存在しないので100%で最大なのだが、往生際の悪いことに自分の100%が自分にとってまだ不十分で不満なものになっている。そうやって無理をした結果0%の期間が生じているのは本末顛倒甚だしいが、長い目で見て勘定するには毎日の我慢に少し勇気が要る。その勇気を得るためには、今まさにしているように、現実を淡々と描写していくことがその一助となるような気はしている。

 100%とか90%とかいうのはイメージの話だが、具体的には何をするべきだろうか。
 ずっと何かを書き続けている人生でありたいとすれば、常に「アクティブな途中段階」を抱えている必要があるだろう。いくつかを並行してやっていてもそれが同時に完成してしまうと内圧は急速に弱まってしまうだろうし、一方で単に材料の揃った書きかけを溜めておけば良いのではなく、それらは自分にとって熱意を維持できるホットなテーマでなくてはならない。
 つまり、

  • 進行度が異なる題材を複数持っておくこと
  • それらに対して熱意を維持しておくこと

 の少なくとも二点が必要であろう。
 進行度とは、大雑把に言って「断片を思いついた」「材料を集めているところ」「アウトラインを作った」「文章化に着手している」「書き終わった」といった段階のことを指している。
 「断片を思いつく」ということは、半ば自動的に、黙っていても手に負えないくらいに発生することなので敢えて意識することはないが、そこにベクトルを持たせて関連する材料を集めたり作ったりすることには自分の意志が必要である。構想してアウトラインを作るのには更に積極的な検討が要請される(Tak.氏の『書くためのアウトライン・プロセッシング: アウトライナーで発想を文章にする技術』が大変参考になる)。文章化の工程は言わずもがなのことだ。
 「進行度」と書いたが、題材によって材料集めと構想と文章化の各段階の難易度は変わるだろうし、実質の進行度は割合で管理できるものではない。材料集めが終わったということが進行度五割を意味していることもあれば、進行度一割でしかない場合もある。構想が終わった状態を進行度八割と思っていたら実際には三割程度に過ぎなかったのだ、と文章化に苦闘し始めてやっと判ることもある。
 よって、何割のものを何個用意しよう、というような意識を持つのはあまり得策ではないように思われる。各段階それぞれに何個かある状態を維持しておくというくらいの気持ちでいた方が良いだろう。

 ところで、書くということに於いて大事なのは書いていない時間である。ということを常々自分への戒めとして唱えているのだが、なかなか難しい。文章を書くことを含め「表現」というのは、工程のどの段階にあっても「着想を得る」という偶然に依存するところがあるため、常時着想を得られる土壌を用意しておかなくてはならない。潜在意識の力を借りるのである。予め「ブログを書くにはどうしたらいいだろうか」と自分に問うていればこそ、パンを齧りながらはたと「必ず結論を示そうとするのが間違っているのだ」と思い至ることにもなる。
 潜在意識が仕事をしてくれるためには、前もって自分の脳に「このことについて考えておいてほしいんですよ」と頼む必要がある。そして自分の脳がうきうきと「承知つかまつった!」と応えてくれるのは、そのテーマに対して熱意がある時だけだと感じている。
 熱意というのは既に生じている熱意によって生まれるところが大きく、熱意があるから熱意が増し、熱意がないから熱意が湧かないということになる。一度鎮火してしまうと再燃させるのは容易でない。自分という人間の根幹に直接関わっているようなテーマであればしばらく放置していても熱意を取り戻すことが可能かもしれないが、大半は発想を膨らませていくことそのものを求めて書くのであり、その場合は意識を少しでも向け続けていないとあっという間に熱を失ってしまう。
 また、意識を向けると言っても「今途中のものリスト」をただ眺めればよいというものではない。存在を確認するだけで熱意を思い出すのは、存在を確認すると同時に僅かでも想像を膨らませているからではないかと思う。無意識に想像を膨らますことができるものはそれで良いだろうし、そうならないものはちょっと立ち止まって意識的に想像する必要があるだろう。

 最初の話に戻るが、日々の気力の90%を「今」に費やし、10%を「次」のために充てたい。今回は100%を「今」に使ってしまわないという趣旨なので「今」に費やす90%の中身については置いておいて、確保した10%によってどう「次」を準備するかが肝心である。
 今集中して取り組んでいる文章の他に、三つか四つくらいはすぐ着手できるネタとして備えておきたい。まだ記事にできそうなものがなければ、ただ思いついただけのメモやツイートなどを見返して想像を膨らませることを試み、書けそうなネタを用意する。
 既に見込みのあるネタが三つ四つあるなら、それらのページを巡回し、なるべく一行でも書き足して育てておきたいところだ。材料が集まっているならアウトラインを考え、アウトラインが大体整っているなら本文の断片を拵える。
 それらの準備というのは、別なことに注力している中で片手間にやっていることでもあり、いよいよ本腰を入れて着手した時には全部ばっさり没になる可能性がある(実際そうなることがしばしばある)。ならば無駄なのかというときっとそんなことはなく、芯を捉えていないものをばっさり没にできるほどそのテーマに対してアクティブな状態を維持することにそれらの努力は貢献しているはずである。
 

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