Noratetsu Lab

動じないために。

2019年9月

2019/09/29

日記を書くのが下手、ということ

 noteを眺めていると、みんな日記が上手いなあ……と感じます。自分はこう感じましたよ、というのを自分で掴んで表現するのが巧み。
 それにひきかえ、私はそういう日記的なものがとても苦手です。昔から下手くそで、学校の宿題などで日記を書かされると何を書いたらいいかわかりませんでした。他の子たちと同じような密度・濃度で日々を過ごしているはずなのに、みんなはそれらから何かを感じられて、私はいまいち感じられない、そういう感覚がずっとありました。

 そして書き表せないばかりか、記憶の中でも思い出を大事にできず、たくさんのことをすっかり忘れ去ってしまいました。子どもの頃の楽しかったことを問われてもさっぱり出てきません。辛い生活を強いられたわけでもなかったのに、自分で自分の人生をつまらなくしてしまいました。
(果たして他の子たちが日記を鮮やかに書けていたかどうかはわかりません。今思えば、みんなが書けていたわけではないような気がします。)
 しかもその感覚はつい最近まで続いており、未だに具体的なエピソードを文章化するのは困難です。ようやく「感じる」ことを覚えた赤ちゃんのようなもので、それを日々継続して自然と物事に敏感にアンテナを向けて過ごせるようになるにはもう少しかかりそうな気がしています。
 なので、せめて「自分がなぜ日記を苦手としていたのか」を解明して言葉にしておこうと思いました。

 解明にあたり、逆に何なら書けるのだろうか、ということを考えてみます。
 noteを継続するために「自分に言えること」をせっせと書き出していますが、それを眺めてみてわかるのは、圧倒的にアドバイス調の内容が多いということです。特定の層を想定しているものもあれば、人類全部に向けたものもあります。一番多いのは、「昔の私」に向けた、「昔の私」こそが欲しかったアドバイスです。今まさに書いているこの記事もそうです。
 つまり、何かの役に立つこと、生活をより快適にしそうなアイデア、「こうしたらうまくいくよ!」という助言、そして「なぜこれはこうなったか」という理由を解明するもの。
 読んだことによって、読む前から何かが具体的にレベルアップすることを期待するような内容です。物事の「意味」や「理由」にばかり目が向いています。
 それは、子どもの頃に周りにいた大人がそういうタイプだったとか、そういう論理の扱いを武器に学校生活を生き抜いてきたとか、複合的な要因があって形成されてしまった性格だと思っています。

 そういった理屈で常に頭がいっぱいなのですが、頭の中はいっぱいなはずなのにものすごく空虚な感じがして、私はいつも自分が空っぽだという感覚を持ってきました。スラスラと理屈は口から出てくるけれど、だから何? みたいな。
 それなら、何が頭に詰まっていたら良かったんだろう。
 そう考えてみると、何かの意味とか理屈とか、つまりは勉強すればわかるようなことではなく、必要なのは「その時の自分にしか感じられなかったこと」なんじゃないかと思いました。感じた結果何かの結論を出さなければならないわけでもなく、ただ「私はこう感じた」ということ。
 逆に毎度体験したことについて結論を出したり意味を見出そうとしたりすれば、そこに至らないふわっとした「気持ち」はまるごと無意味になってしまいます。なってしまいました。それが「空っぽ」ということです。
 ただ何かをぼんやり感じる、ただ何かを楽しいと思う、それが身につかないまま人生を送ることのなんと虚しいことか。
 自分にしか通用しないかもしれない気持ちを、自分だけのために自分の中に蓄えていくことこそが、人生の充実感とか幸福感とかいうものなんじゃないかと思っています。

(※この記事は一度noteに投稿したものの下書きに戻したものです。)

2019/09/28

Notionから学んだこと――情報管理の五形態

 Notionという、ブラウザやアプリで動かせる情報管理ツールがあります。noteでも紹介記事を書かれている方がかなりたくさんいらっしゃるので、ご存知の方も多いかもしれません。
 ひとことで言うと、Evernote+Trello+スプレッドシート+……といった「情報を扱う」分野の数多くの機能を極めて自由自在に使える、衝撃的なレベルで便利で快適なツールです。痒いところの95%くらいに手が届く。(長文テキストの扱いには不向き、検索機能が若干貧弱、というところが残り5%です)
 このサービスを恥ずかしながら最近使い始めて色々触ってみたのですが、ツールとしての破格の利便性も然ることながら、データベースというものの意味合いについての学びが私の中で巨大だったので、今回はそのことについて書こうと思います。
(Notionの使い方ではなく、情報はどういう観点で管理すべきかという話です。)


 NotionのDatabase機能は、Viewを切り替えることによってひとつのデータベースを様々な観点で整理して見ることができるようになっています。Viewの形態は以下の5つです。

①Table(所謂データベース)
②Board(Trelloのようなカンバン形式)
③Calendar(マンスリーカレンダー)
④List(罫線のないシンプルな一覧表示)
⑤Gallery(カード形式)

 これらの形態はそれぞれに特化したアプリというのがあるのでどれも扱ったことがありましたが、これら全部をひとつのデータベースから作るということを初めてやってみたことで、自分の中で情報というものの考え方に大きな変化がありました。使い分けのポイントをようやく理解したという感じです。
 アプリ開発などをしているわけでもなく、データというものの扱いに真剣に向き合ったことがなかったんですよね。長きにわたり情報管理に失敗し続けてきました。やっとその不毛さからスッキリ脱出できそうです。
 以下、ひとつひとつ取り上げて気づきを整理していきます。挙げている例はNotion上でそのViewで管理するという意味ではなく、他のツールやアナログ管理も含めてのことです。

Table

 Notion内では「あらゆる構造のデータを扱えるテーブルです」とあります。
 データを扱うということの基本の形ですが、そのままテーブルの状態で見るのが最善なのは、

  • データの数が大量であること
  • データが持つ要素でフィルターをかけてピックアップすること

 が必要となるタイプの情報だと思います。
 生活上のもので言えば、例えば蔵書管理、家計簿、読んだ記事のログなど。

Board

 Notion内では「プロジェクト管理やバグ管理に向いたカンバン形式です」とあります。
 私はカンバンに加えてマトリクスやマインドマップも合わせて「配置」形式と捉えて認識しています。
 縦横のある二次元の「面」に要素を配置し、動かしたり並べ替えたりすることで属性を見出して整理することができる形です。
 例えば、タスクボード(ステータスの変化を管理する必要があるタイプのタスク)、小説のプロット、自己分析、ブレスト全般など。

Calendar

 Notion内では「イベント計画やスケジュールのためのマンスリー表示です」とあります。
 言うまでもなく「時間」に紐付けし、自分の行動と直結する情報を管理するのに有用です。ガントチャートも私の中では同じカテゴリです。曜日の概念が強いならマンスリーカレンダー、曜日があまり関係ないならガントチャート、というふうに普段使い分けています。
 これらが得意とするのは、例えばスケジュール管理、プロジェクトの進捗管理、家事ログ、体調の記録など。

List

 Notion内では「ブックマークやノートを一覧するのに向いたシンプルなリストです」とあります。
 Notion以外でリストを管理するならスプレッドシートを使うことが多く、使うツールとしてはTableとだいたい重なります。あとは紙のノートに列挙していくとか。
 データを見るという上でテーブルと違うのは、リストは検索性より一覧性が求められるものに向いているという点でしょうか。
 常日頃、目的に応じて様々なサイズのリストを作って頭を整理するということを誰しもしていると思いますが、つまりデータが持つ要素を全部書き出す必要はなく、「要するに何があるか」がわかることが第一です。
 例えば、今日やることリスト、やりたいことリスト、ノートのインデックスページなど。noteの投稿計画や投稿ログなどもリストの範疇でしょう。

Gallery

 Notion内では「ムードボードや情報カード、レシピに使うカード形式です」とあります。
 ムードボードとは、デザイナーなどが言語化しがたいイメージの共有のためにやりとりするイメージ画像、というような意味合いのようですが、つまりギャラリーは「視覚」を使った情報管理方式ということですね。
 言語を使わずに情報を判別する、ということに加えて、その情報から視覚的な影響を受けるということもあります。眺めることが自分の気分を良くしたり襟を正したりするというタイプの情報です。
 ほぼ日手帳やモレスキンやバレットジャーナルの用例を眺めていると、そういう視覚要素の活用によって自分をコントロールしているのだなあと感嘆することがよくあります。
 ということで、例えば思い出の記録、目標となる言葉・イメージ、名言、好きな絵などがこのタイプのデータです。

 まとめると、

①Table データが持つ「要素」で抽出
②Board データを「配置」して整理
③Calendar データを「時間」に関連付けて行動とリンク
④List 何のデータがあるかを「一覧」で把握
⑤Gallery データの「視覚」要素で把握・活用

 という感じです。
 今のところ、理論的に構築すること、つまり階層構造を要する情報以外は、だいたいこの5種類のどれかでスッキリ扱えるのではないかと感じています。
 管理したい情報を見つめて、それを活用するには何が必要なのかをきちんと考えれば、どの形が最適なのかすんなり分かってツールの選択で混乱することもなくなるように思います。
 私は更に、それぞれ「変わるかもしれない情報」と「もう変わらない情報」の区分をして10形態で捉えていますが、それについてはまた別の機会に。
 

2019/09/27

一発で決まればかっこいいけど大事なことは何度書いてもいいよね

 文章を書いて発表するということには色々なハードルがあると思いますが、私の中で足枷になってきたもののひとつが「大事なことは一発で全部伝えなきゃ」という気持ちです。


 ふにゃっとしたパンチのない書き方をしてしまうと、折角思いついて書いたのに読み手にいまいち刺さらず、そのままネットの大海の中に消えていく……という現実は確かにあるのですが、でもそうやって儚く消えてしまうのは「一度書いたからもう書かない」という無意識の自己ルールによってそれ以上の働きかけをしなくなるからに過ぎない、とも言えるなあと思いました。

バージョンアップの発想

 多くのサービスがバージョンアップということをしますよね。世の中の製品は全部がそうだとも言えます。芸術作品だって、一度発表したのと同じ構図・同じモチーフで再び創作するということはよくあることです。
 それなら、文章や主張をバージョンアップしていくのも当然のことと思えます。
 実際、本でも改訂版を出すのは全然珍しいことではないですし、要するに同じ話だよねという内容を何度も繰り返し本にして出版している作家は結構います。
 それなら、個人がブログなどで発信することだって、同じテーマを何度も取り上げて考え直して書き直して、少しずつより良い結論に近づけようとするのは何もおかしくない。しつこいなあと思われたとしても、「だってこれ大事なんですよ!!!」と言えるなら何度でも書く価値がある。むしろ、素人なんだからプロの何倍も試行錯誤してしつこくブラッシュアップに努めて然るべきですよね。
 加えて、前からの変化・成長にも情報として価値があるというふうにも思います。既に高みにいる人が究極の真理をすらすらと唱えるのと、未だ発展途上の人がひとつひとつ階段を登っていく過程を吐露するのとでは、同じ結論を語っていても伝わり方が随分と違います。どちらが良いというのではなく、どちらも無いといけないというか。

レベルアップの要件

 それに、一人で完璧なものを作り上げるまで黙々と取り組んで本当にすごいものが作れるか? という疑問も当然あります。作り上げている人もいるので絶対無理なわけではないにしろ、自分にそれができるかと問うてみるとどうも無理な気がしてなりません。できた頃にはもう他の人がもっとすごいことをやっているかもしれないし。
 これまでの経験から言っても、基本的に書き方というのは「実際に書いて、書き終えて、人の目に晒す」ということを繰り返すことでやっと前に進むもののように思います。しかも、本気で伝えたいことをその時点での本気で書いてみる、という気合の入れ方をしないときっと足踏みしてるだけで終わってしまう。
 その時書けることしかその時は書けないわけで、その時書けることを書かないと次の日新たに書けることが増えていくこともありませんよね。一人で精進し続けられる人も、一通りきちんと書き終え、それをその都度他人の文章かのように客観的に読み直すということができるからこそ進歩するのだと思います。そのような客観視はなかなか難しいです。

自分の文章を客観的に読むには

  • 元々自分のことを客観的に見る能力がある
  • 他人事になるまで時間が経つ
  • 人目に晒すことで自分のスイッチを切り替える

 この三通りかなと思いました。客観視に自信がない且つ早くなんとかしたいという場合はやっぱりどんどん発表していくのがよさそう。
 イラストでも、投稿した瞬間に自分の絵が違って見えるということがあります。不思議な現象だなあといつも首を傾げています。
 ということで、主張が一発で決まればかっこいいけど、大事なことは何度書いてもいいよね、と思いました。というか、伝えたいなら伝わるまで伝えるんだよ、というだけのことかもしれない。きっとこのテーマも将来書き直すことになるんだと思います。

2019/09/25

「手帳術」に憧れるけどぶっちゃけそれがやりたいわけではない気がする皆様

 私もそうです!
 ということで色々考えてみましたが、結論から言うと、きっと「見る」のと「やる」のは違うんだよね、ということです。
 これは「手帳術を彷徨う不安定さ」を楽しいというよりも不本意だと感じて困っている人、に読んでもらえたらなという記事です。

2019/09/23

「書いて披露する」ことの不安、n番煎じになる勇気

 別所で小説を投稿するということをずっとしてきたからか、「人と同じ発想を後から投稿してしまった」ということが起こることをとても恐ろしく思っている。


 でも考えてみると、世の中に溢れている文章のほとんどが、「どこかで誰かはもう言っている」ことなのだよなあ、と思う。何を言っても、基本的にはどこかの誰かが言っているに違いない。出版社を通して出版されている本にしたってそうなのだし。文章そのものの剽窃でない限り、「偶然の一致」の可能性は排除できないし、取り締まられるようなことではないのだろうと思う。
 それに情報の洪水に溺れているような現代では、類似のものがあちこちで発信されることでそのうちのどれかが視界に入ってきてくれる可能性が高まるということに価値があるようにも思うし。
 だいたい、これまで延べ何人の人間がこの世に生まれてきたかわからないけど、その誰もが思いつかなかったり発信しなかったりしたようなことをただの人である自分がそう簡単に思いつくはずもないのだし。
 発想が人とかぶっていようが、それを綴る言葉がオリジナルである限り、自由に書いてしまえばいいんだろう。
 ……と、わかってはいるものの、やっぱり「書く」という行為はなんかちょっと怖いのであった。(でも書く)

2019/09/23

ミニブログからブログにカムバック

 もう随分と昔のことになってしまいましたが、Twitterが流行り始めた頃、そういう短文の発信は全部「ミニブログ」と呼ばれていたように思います。今も「ミニブログ」というカテゴリは生き残っているようですが、「Twitter ミニブログ」と検索すると引っかかるのは10年ほど前の記事です。


 当初、つまり2010年以前の頃、私は「ミニブログ」という呼称の通りにブログのミニ版としてTwitterを使っていました。誰に言うでもないけど、抽象的な「誰か」に向けて言っているもので、それは独り言よりも心持ち大きな声で喋っている気持ちでいました。そしてブログほどきちんと展開を考えない代わりに、記事の核となる一言だけをそっと置いていくという感覚でした。それをブログに書くとすれば、色々と経緯の説明や状況の明示や読者の気持ちのコントロールなどを考えて文章を膨らませて補強して、つまり「説得力」を高める努力をしたわけですが、ミニブログではそういう説得力のための枝葉末節を削ぎ落としてポンと素直な気持ちをそこに置いていく。ブログに書くためにはそれなりの格好に整える必要があり、そこまで労力を費やせないままに眠っていた思いがミニブログならパッと言えたので、この短文のサービスが自分には馴染んだような気がしたのです。
 やがてTwitterはミニブログというカテゴリからは離れ、元来のブログ的な性格に加えて感情の吐き出し口(所謂「チラシの裏」)や交流の場、或いは広告・宣伝としての性格が強まっていき今に至ったように思いますが、Twitterという場の雰囲気が変化していくのに従って、自分の使い方も変わっていきました。アカウントを改めて、趣味の似通った人とフォローし合い、挨拶を交わし、共通の話題について共感を前提に感想を書き込んでいく。偶に社会に物申すようなことや抽象的な概念のようなものについて考えを語るようなこともしましたが、それがメインにはなりませんでした(今現在、Twitterでそういったことをメインに発信されている方々が数多くいらっしゃることは承知しています)
 自分の考えを言語化して発信するということは元来好きなはずなのに、それが一応自由に出来る場で、実のところ自由には発信できなかったのです。なぜなら、単純な話、「共通の話題について共感し合う場」にそういったことは馴染まないからです。逆に、Twitterに於いてもそういう話をする場を自分で作り上げている人、或いは場というものを作らずにほとんど発信に徹している人は、時に批判にさらされることはあったとしても、考えを発信するということには何も不自由することはないでしょう。
 それなら自分も考えを発信するに相応しい場を作ればいいのでは、ということになるのですが、私が考えを伝えたい相手というのは必ずしも私同様に自分の考えを発信したいような人ではなく(つまり同類の仲間に話をしたいのではない)、一方で全世界に訴えたいというほどの熱意があるわけでもなく、どうにも自分にとって調度いい温度の場をTwitterで作ることができませんでした。
 私が何か思いを抱く時、それは大抵「共通の話題について共感し合う」ということをしている間に「ちょっとしたズレ」のようなものを感じたことが発端のことが多く、それを全く別の文脈で生きている人々に向けて発信してもしょうがないようにも思われました。つまるところ、普段趣味嗜好を通してやり取りしているようなタイプの人とスッと思いを交わしたいのですよね。しかしそれをTwitterでそのまま言うと全く意図しない語弊が生じたりしますし、早い話が空気読めてない感じを自分で自覚してしまいます。
 Twitterを通じて親しくなった人と個人的にそういった話をすることもありましたが、もう少し「発信」という性格が強い形で何か言いたいという気持ちは残りました。空気は壊したくないし気分を害したいわけでもないけど何かしら思っていることを何十人かに聞いてほしいみたいな。我ながら面倒くさい欲求。でもフォロワーが何百人にもなってしまうと、(全員がずっと見てくれているわけではないにしろ)そこまで声を大きくして言いたいわけでもないというような微妙な気持ちになってしまいました。どんな人が見ているのかわからないし。
 そうこうしているうちに、そもそも構造的に考えを組み立てて文章化するということ自体から遠ざかって、自分の思考回路がもう140字単位になってしまったようにさえ思います。これはまずい、という気持ちはうっすら抱きつつも、日頃きちんと文章を書く機会はあまりない生活を送っているのでそのままになっていました。
 そしてnoteというサービスを知り、しばらく様子を見て、ようやく今になって登録して記事を書こうというところに至りました。
 noteでもどんな人に見られるのかはわからないわけですが、Twitterや一般的なブログよりは何らかのクリエイトや生き方というものに関心のある人が多いのではないかなと思いますし、少なくともそれなりの長さの文章をきっちり読むということに抵抗がない人が多かろうと思います。そういった人が自分の意思で見に来るこの場は、自分が発信したい空間そのものなのでは……と今更気がつきました。
 ということで、随分久しぶりにそれなりの格好の文章を書く気を起こして、かつてブログでやろうとしていたことをnoteで再開しようと思い立ったのでした。
 自己紹介代わりにとりあえず経緯を文章化してみようと思ってつらつら書いてきましたが、私の関心は主に「心の動き」「人としての在り方」「小説を書くということ」といったことにあるので、今後はこれらのことをふわっと書いていきたいと思います。
 

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