ちょっとした工夫などの話。
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- 自分のためにフォルダにはREADMEを用意する
- メールはアウトライナーで読む
- 自分に定着させるために記事にする
- 飽きたら別のことをやる、を高速回転させて生きる
- 「机の上」引き出し
- お仏壇ライフハック~祖母編~
- お仏壇ライフハック
- Twitter日誌:同じ流れを繰り返してパブロフの犬になる
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自分のためにフォルダにはREADMEを用意する
PCの中にはフォルダというものがたくさんある。大抵は多重に階層を作っている。フォルダを作る基準やその粒度に万人共通の規格はなく、フィーリングで多種多様なフォルダが無数に生成されていく。
フォルダを作った時というのは自分なりに根拠があってそうするのだが、使用頻度があまり高くないものだと月日の経過とともに納得感が薄れることもあるし、そもそもどういうつもりでその作り方をしたのかを忘れる場合もある。
ところで、GitHubにリポジトリを作ろうとすると「README.md」の作成を勧められる。そこに書いた記述を元にGitHub上の表示も自動で生成されるし、公開リポジトリなら訪問者に向けた説明が必要なので「README.md」を用意するのは半ば当たり前のことだろう。
あとはアプリケーションをダウンロードするとそのフォルダ内には大抵「readme.txt」が入っている。アプリケーションの情報はそこに書いてあるので、インストール手順などに困ることはほとんどない。
こんな感じでreadmeというのはよく見かけるものである。けれども基本的には自分以外の誰かに何かを説明する時に書くものであって、個人的なファイル管理の中で登場することはなかなかない。
自分の作ったファイルやフォルダについて時間が経った時に曖昧になっていくのは、実質的に過去の自分と未来の自分が他人だからである。なので未来で困りたくなければ未来の自分に向けて説明を残しておく必要がある。
となると、未来の自分への手紙として用意すべきはこのreadmeということになるんじゃあないか。
今までは、例えばアウトライナーなどに、今フォルダはこういう構成にしていてそれぞれこういう意味があって、と書いておくことはあったのだが、そのアウトライナーと現場のフォルダとが直接リンクしていないので、現場の状況が変わった時に記録を更新するということが遵守されなかった。変遷の記録を一段階飛ばしたりするともう面倒くさい。
しかしフォルダに「README.md」が存在していれば、状況が変化した時にもそのファイルが目に入るので、ここに書いておこうという流れが生まれる。
例えばこんな感じ。
こういうちょっとしたメモを書いておきたいと思った時に、そのメモにどういう名前を付ければいいのかが思いつかずに置き場所が定まらなかったということが大きい。メモの種類(例えば「履歴」とか)でそれぞれtxtファイルを用意するのはなんだか大袈裟な気がしたし単純に邪魔な感じもあった。
なので、未来の自分に「とりあえずこれを開いて読め」とメッセージを送る場として「README.md」を作ればいいのだと思いついたことで随分すっきりした気がする。フォルダごとに未来の自分に伝えたい内容の種類は違うし、それぞれいちいちそれっぽいファイルを作るのは億劫で、全部まとめて「README.md」につっこんでしまえばいい。
どうして今まで思いつかなかったんだろうか。
もちろん、これはいつまでもフォルダの構成に迷走しているがゆえに生じる必要ということでもあるので、そんなん要らないよ自分で作ったフォルダは意味が明瞭だよという人は多いだろう。PCというものを使い始めていったい何年経っていると思ってるんだ、というのは自分でも思うことだ。
まあでも、そんなことはどうでもよく、とりあえず「メタな情報」の置き場所にシンプルな名前がついて今ハッピーな気分でいる。
メールはアウトライナーで読む
メールを読む時、メール画面の横でテキストエディタを開いて要点を書き出しながら返信を書くという形をとっていた。そう長くなければ返信画面に直接書いていた。
自分に定着させるために記事にする
本にしろ投稿にしろ、誰かが書いたものを読むと「面白い!」と感じることがある。その気持ちはとても鮮やかな感じがするので、こんなにも感動するなら自分の心に刻まれたに違いないと思う。ところがどっこい、一週間もすればその煌めきは嘘のように消え失せ、何かに感動したはずだが何だったか思い出せないなんてことになる。
もちろん自分の世界が変わるほどの凄まじい衝撃を受けたなら別だ。問題はそこまでいかない程度の「面白い!」で、それでもそう感じた時には自分の考え方が変わったはずだと錯覚する。実際には何もしなければあっさり忘れ去る。なので何かしら手を打つ必要がある。
このような場合、自分の言葉で言い換える、ということが重要だとされる。それはそうだと思う。自分にとって自然な言葉で表現することが、それを自分の世界に存在するものとして取り込むためにまず必要な手続きである。
ただしその手続きは自分の世界に入れるためのことであって、そうやって入れたものが定着するかはまた別の話に思える。そこに感動があったことは、言葉の変換だけでは必ずしも保存されない。感動を思い起こせるものならそれで済むが、そうではなかった場合には時が経つにつれ印象は薄れていく。
自分の世界に元々あったものとの結びつきの強さにもよるだろう。そうなると初めてやって来たものほど――その瞬間の感動は鮮やかであるにもかかわらず――その後はいつの間にか存在感を失ってぼんやりしていたりする。定着させるためにはもう一歩何かをした方が良い気がする。
言い換えにプラスアルファで何かをする必要があるとすると、やはり何が前提でどの部分を面白く思ったのかという、感動そのものの情報化だろう。
その時点ではその対象を見ればまた同じように感動すると思ってしまうのだが、案外そんなことはなく、頭の中で何が活発になっているかによって感動は大きく左右されてしまう。同じ本を時間を置いて読むと毎度新たな発見と感動がある、というのはよく言われることだ。
日記を書く習慣がある人は日記に書くのと同じようにすればいいし、SNSに感想付きでシェアする習慣があるならそれでも良いだろう。個人的にはそういう手段だとサボってしまうので感動の情報化自体にもう少しうまみがあった方がいい。
いずれにしても未来の自分が読めるもの、イコール自分以外の人間が読んでわかるものにしないと後から困る。となると、もう記事にしてしまって自分のサイトで公開するのが良い。当然手間はかかる。しかしどうせ手間をかけなければ定着しない。一方で手間をかけすぎるのも現実的ではない。肝心なのは「忘れ去らない」ことで、記事の完成度にこだわるのは目的を逸脱している。その点、自分のサイトなら記事として中途半端でもまあ構わない。むしろ頑張りすぎずに書く訓練としてちょうどいいかもしれない。
記事を書いたからといって、それだけで感動が永久に鮮やかなままというわけではない。しかし「その時点の自分」を感動の対象とともに保存することによって、読み返す度に感動を追体験できる可能性が高まる。「その時点の自分」の保存が重要である。
自分自身が変化してしまうと、一度感動を覚えたものでも同じ感動を蘇らせることはできない場合がある。当時何が刺さったのか、不思議なほど思い出せなかったりする。だから自分自身のスナップショットが必要で、それは文章で書き表すことによって残すしかない。全ての瞬間のスナップショットを残すことは無理でも(そもそもそんな必要はない)、「面白い!」の瞬間くらいは残しておいた方がきっといい。
飽きたら別のことをやる、を高速回転させて生きる
私は極度に飽き性だということを何度か書いている(はず)。
全く変化のない単純作業はやっていられないし[1]、同じツールを使い続けられないし、同じ本を何十頁も続けて読めない。基本的に「こつこつやる」ということが苦手で、色々なものをちょっとずつやってじわじわステップアップしている人を本当に尊敬している。
と、長らく思っていたが、ふと気がついた。飽き性だから一つのことを続けていられず、すぐ他のことを始めてしまう――それは結局、色々なことをちょっとずつやっていることになるのではないか?
結果として継続しているということ
こつこつやるというのは「ちょっとずつやる、を継続する」ということだと思うので「継続する」が難しい自分にはかなりつらい。いや、正確には「継続しようとする」だ。「継続しようとする」ということは考えただけで「無理!」という気分になる。[2]
しかし、結果として継続していることなら実際はいくらでもある。例えばブログもこうやって書き続けている。でも毎日○字書こうとか○日に一本投稿しようとか言い出すともう駄目である。某投稿サイトの「○日連続投稿おめでとう」みたいな表示は心底余計に感じる。
極度の飽き性の人間はたぶん一日当たりの作業量を事前に意識してはならない。それは作業量の多寡とは関係ない話で、「毎日たったこれだけ」みたいな計算は慰めになるどころかむしろ邪魔なのである。
実際何をどの程度やれるのか
毎日これらをこれだけやれば○日後にはこんな量に、という見積もりは挫折の入り口なので避けるとして、しかし完全に無計画に生きていると結局何も進まないということになりかねない。
作業量の目標を設定するのが難しいとなれば、できることは何か。それは実際に毎日どれだけの労力を使うことができて、それをなるべく多く使った時に何がどの程度できるのかを把握することだろう。つまり、なるべく多くの時間で何でもいいから何かをやる、そうした場合に自分のパフォーマンスはどのくらいになりうるのかということだ。
そうすると、とりあえずその見積もり以上の作業量は実現できないことがわかる。逆に、飽きてあれこれ別なことに手を付けたとしても、それをトータルすればそのくらいの作業量にはなるはずであることもわかる。飽きて他のものに移るということをすると、それぞれ目標に定めた量に到達しないでやめてしまうことになる場合が多いので、結局どれも何にも進んでいないという感覚になるのだが、実際にはゼロではない。集中力を欠いて実質何もできていないという時間で埋まらない限り、前には進んでいるはずなのである。
実質何もできていない時間
飽き性にとって恐ろしいのはこの「実質何もできていない」時間の発生だ。無理に目標を達成しようとすると最後の方はこういう感じになってくる。あとちょっとだからと思って頑張るが、効率は大きく落ちるし、やり終えた後は気力が尽きていて他のものには移れない。よって目標を達成することより、「実質何もできていない」時間をゼロにすることを目指した方が良いだろう。
そして「実質何もできていない」時間がほとんどなかったなら、何をどういうふうにやっていたにしろ、その日自分にできるベストは尽くせたということだ。なるべくベストを尽くして日々を過ごして、それでも結果が思わしくないなら、それ以上「足す」ことはできないことがわかっているわけなので、内容の適切な配分を考えることになる。
配分をぬるっとコントロールする
で、ここで「じゃあ何曜日は何を何分やって……」とやりだすと駄目なのは最初に書いた通りである。もっとぬるっとした対処が必要になる。何かをやっていて飽きて他のものに移るという時に、頻度を増やしたいものに移りやすくなるように整えておくのだ。例えば作業に必要なページをさっと開きやすくするとか。
「これをやれ」感が出てくると嫌になってくるので、「これもあるよ」くらいのメッセージがあるとよい。掃除をしたいなら掃除用具を出して見えるところに置いておく。やろうかなとなってから準備するとその間に飽きるおそれがあるので、やろうかなの瞬間にすぐ着手できるようにする。準備作業自体は何にも集中できないようなタイミングに思いついた分だけやる。頭を使わなくていいからである。
飽きていいから立ち止まらない
とにかく立ち止まらないこと、飽きによってエネルギーを失わないことが重要だろう。やることの候補をぐるぐると巡り続けること。後回しにしてはならないものを後回しにしない工夫はもちろん必要だが、基本的に「気が向く」ということに素直に従って他のものに移ることを自分に許す。移った先でも飽きるのだからどうせまた戻ってくるのである。
頑張りすぎると「今日はもうこれについてはおしまい!」という気分になってしまうのだが、それが今日取り組むべき量として十分な量に達していないと当然負債が溜まってくる。しかし頑張りすぎなければ一日に何周かしてそのことに取り組める可能性がある。つまり一度に80%なら二周目にはいかないが33%なら三周できるかもしれないのである。
ひとつひとつ順番に着実に片付けていくという美徳に馬鹿正直に囚われない。ぐるぐると高速巡回して、完了に至ったものを順番に並べていけば、実情を知らない人間からすると恰もそれらをひとつひとつ片付けたように見えるだろうし、実情はどうでもいいのだ。
こういうふうに書くと、既に自分の性質とうまく付き合えているかのようだが、全然そんなことはない。ただうまくいっている時というのは確かにあるので、その時にどうなっているかを言い表してみようと思って書いたのがこれで、どちらかというと「こうしたらいいってことなんじゃないの」と自分に提案するための記事である。実際、最近はちょっとうまくいっているなと感じてはいる。
「机の上」引き出し
机の上はしばしばごちゃつく。使ったものが机の上に溜まっていくからである。
溜まっていく理由は二つある。
- 然るべき置き場所があるが、そこに戻すのが面倒くさい
- 机の上以外に適切な置き場所がない
例えばペンが溜まっていくとすれば、ペン立てなどが然るべき置き場所で、そこに戻すのが面倒くさいから溜まっていってしまう。基本的にはやはり「戻す」ことを目指した方がいいだろう。ペン立ての位置を工夫するとか片付ける時間をどこかのタイミングで取るとかいう対処だ。
しかし、机の上に溜まっていくのはそういうものだけではなかったりする。机の上にないとあまり意味がないものである。例えば時計とか、カレンダーとか、電卓とか、メモ用紙とか、いつも目にしていたい置物とか、様々ある。分類的なもので場所を決めて仕舞ってしまうと存在をすっかり忘れ去りかねないものもある。それらは仕舞う先がはっきりしない。机の周りの引き出しを一応の定位置としつつも微妙に納得いかないままでいるものもある。
そういうものは机の上に置いておけるなら置いておいた方がいい。その方が自分の生活が快適だからだ。しかし机のスペースは限りがあり、全部は置いておけないこともある。となると、机を大きくする(あるいは正面に棚を増設する)か、やむなく仕舞うか、選べるのはどちらかである。
私の環境だと机上のスペースを拡張するのはちょっと無理なので、仕舞うことを選択せざるを得ない。
机の上以外に適切な置き場所がないと言いながら、結局然るべき場所を作って仕舞うことになるわけだが、仕舞い方で少しでも「机の上の延長」感を保持したい。
仕舞う場所として、机からまあまあ近い場所にある(座ったままでは届かないが、一歩踏み出せば届くくらいの距離にある)スチール製引き出しを選択した。一段のサイズはA4が収まるくらいの深さ8cmのもので、それが十段ある、レターケースとかトレーキャビネットとか言われるようなものだ。別にそういう事務用然としたものである必要は全然ないが、たまたまそういう引き出しがあるので、その一番上の段を使うことにした。
なんでもいいのだが、私の感覚としてはA4以上で浅すぎず深すぎずのものが良いと思う。そして引き出し自体が軽くて、本体からその段を取り出して持ち運べるのがいい。
机の上を延長したいので、ずばり「机の上」と名付けた。前面に嵌めるプレートに「机の上」と書いた。そこに、本当なら机の上に置いておきたいが今現在はちょっと邪魔になるのでひとまずどけるもの、を入れていく。
結論としてはそれだけのことなので、ここからは余談である。
本当なら机の上に置いておきたいものというのは、上の方で書いたようにカテゴリとしては多岐に亘るだろう。もしその物だけを見たら同じ括りには決して入らないようなものが、机の上には様々並ぶのである。
例えば電卓とオブジェとは全然違うカテゴリのものだ。店で買うにも全く異なる場所に足を運ばなければならない。物を基準に仕舞う場所を決めるとすれば、電卓はガジェット系のものをまとめた場所に置きたいかもしれないし、オブジェはオブジェでまとめた棚に並べたいかもしれない。
そうして物基準に仕舞う場所を定めると、「机の上に並べておきたいもの」をピックアップする時には各カテゴリの置き場所を巡ることになる。出すのも大変だし、仕舞うのも大変だ。季節のイベント的に総入れ替え作業などをやるならいいが、日常的には手間ばかりかかってしまう。
なので、明示的に「机の上という共通項」で括った場所を作ることで、互いに全然関係がないようなものも普通に同居させていいことにする。これが「適当な箱にとりあえず入れる」に留まると雑然とした感じが拭えないままなのだが、「机の上」コーナーにすると気分として納得しやすい。
そしてまた出したい時にはその引き出しごと机に持ってきて、狭いようなら他のものと入れ替えたりして模様替えをする。机の上にあったものが一箇所にまとまっているので、以前の様子を復元することも簡単になる。多分入れ替えは頻繁になるし、むしろ毎朝「今日の机の上」をセットする習慣をつけてもいいくらいかもしれない。片付けるのも大事だが、出しておくのも大事だ。
机の上の片付けのために引き出しをひとつ割り当てるというのは前に見たことがあるやり方だし、多分やっている人は普通にやっている工夫だと思う。
ちなみに、今現在「机の上」引き出しには、メモ書き、付箋、USBメモリ、電卓、ピンセット、文鎮などが入っている。
お仏壇ライフハック~祖母編~
前回(お仏壇ライフハック)は「お仏壇ライフハック」と称して、毎朝拝む時の心持ちを活用してその日を有意義に過ごす方法を書いた。
またしても仏壇に関するライフハック(?)の話をしようと思うのだが、今回は私ではなく祖母のライフハック(仮)である。
このことはすっかり忘れていた――というかライフハックだとは全く思っていなかった――のだが、今日うちあわせCast第百十七回を拝聴して思い出した。
最後の最後あたりでTak.さんのお母様のお話があった。大事な書類を、大事ゆえにしまい込んで行方をわからなくしてしまう。大事なものを大事でないものと一緒くたに置いておくのは抵抗があって、「わかりやすさ」を基準にして一箇所にまとめることができない。そういった感じのお話だったかと思う。
私の祖母も基本的にはそういう価値観だった。祖母の場合は価値観どうこう以前に片付けがあまりにも苦手過ぎて、結局大事なものも今すぐ捨てても良いようなものもごちゃごちゃに混ざっていたのだが、しかし意識的にものを仕分けるとなれば、やはり大事なものは大事にするという気持ちが働いて変なところに置き場所を移してしまうということが起こっていた。周りが「ここにある」と思っていたのが、ちょっとしたらもう全然違うところに移動しているのである。
本人としてはより相応しいところに移そうとしているわけだが、その基準が下の世代とは根本的に違っているので周りには理解し難いし、本人もその都度相対的に場所を選んでしまって基準が曖昧なので自分で思い出せないということになる。齢を重ねるにつれ、移したこと自体覚えていられないということにもなった。
一方で、手紙類は割と一箇所にまとまっていた。どこかと言えば、そう、仏壇である。
インボックスの概念などあるはずもないし「一箇所にまとめるとわかりやすい」なんてことは考えもしなかったと思うが、ただ「大事なものはとりあえず仏壇に置く」という習慣によって、仏壇の周りは「祖母的に大事らしい、且つ他に置き場所を見出していないもの」で溢れていた。結果として、手紙類の七割くらいはそこにまとまっているということになった。本人なりに置き場所をうっかり思いついてしまったものは果てなき放浪の旅に出発してしまうため、100%全部がまとまっていたわけではないが、全てばらばらよりかは大分マシである。
大事なものを大事でないものと一緒に混ぜてしまうことへの抵抗を減らすというのは、ほとんど無理なことだろうと思う。そもそも全く抵抗が無いことが「良いこと」かどうかも正直わからない。そこに抵抗を感じないことには物の管理に於いてメリットがあるが、抵抗をなくすべき、とは言い難い。
祖母のライフハック(仮)を踏まえると、「大事っぽいものはとりあえずここに置く」と本人が納得できる置き場所があれば、ある程度は物の紛失・散逸を防げるのだろうと思う。大事っぽいものを置くわけだから、適当な箱とかではなく、十分に大事っぽい場所である必要がある。その点たまたま仏壇というのはうってつけだったわけである。
置き場所の性質としても割に都合が良かった。なにしろオープンであり、「しまい込む」が発生しない(仏壇の抽斗を活用し始めるとやや怪しくなってくるが、それでも「仏壇のどこか」さえ貫かれれば探すのはそう難しくはないだろう)。取捨選択も無しにごちゃごちゃと置きすぎて家族からすれば「仏壇は物置きじゃない!」と不評だったわけだが、しかし今考えるにそれ以上の適切な(現実的で実行可能な)やり方はなかったと思う。
重要なのは本人が「大事なものを置くに相応しい」と納得できることだろうし、私の祖母の場合は祖母自身の中に「とりあえず仏さんのところに置くべし」という気持ちがあったから成り立っていたことではあるだろう。既に長い歳月を生きてきた人に、別途新たに場所をセッティングさせるのは容易でないような気はする。
あと思うのは、比較的若いうちは合理性で決めていられるわけだが、自分も年を取るとそういう風には判断できなくなってくるかもしれないということだ。「より適切な場所」を考えるのが難しくなる日が来ても混乱しないように、「大事なものはこの入れ物」みたいな反射は予め意識的に構築しておいたほうがいいのかもしれない。
お仏壇ライフハック
仏様に怒られそうなタイトルである。
我が家には仏壇がある。仏壇があるので毎朝線香をあげて拝んでいる。
仏像とご先祖様の位牌が祀ってあるわけだが、祀られている故人にはそれほど親密な間柄だった親族はいないので、毎朝手を合わせることはほぼ欠かしていないものの、お祈りの内容は非常に漠然としていた。ぼんやりと、今いる家族と自分が健康であることに感謝し、ご先祖様が見守ってくれているかもしれないということを多少思いながら、自分たちが今日も一日元気でいられることを祈っている。仏様は金色にぴかぴかしているので、見上げるとなんとなくありがたい気持ちになってくる。
ところで、今度は別の宗教の話になるけれども。神社に参拝するという時、「~~でありますように」と願い事をしようとしがちだが、本来はありがとうございますと感謝をしに行くものだというのを以前聞いた。
まあ考えてみるに、願掛けに行ってさんざんああしてくれこうしてくれと祈っておきながら、うまくいってしまえば後はすっかり忘れて参拝しないとなると、なんとなく罰が当たりそうである。神様に怒られるというより、そういう態度で生きているとそのうち反感を買う事態を招くような感じがする。
その話を聞いたのは相当に前のことだが、最近に至るまで、仏壇に手を合わせるにあたっては変わらずぼんやりお祈りが続いていた。頭の中で「神社に関する話」の箱に入ってしまっていて、家の仏様とその話が直ちに結びつかなかったからだ。いや、そもそも仏壇に向かって「願い事」はしないし、漠然としてはいたが感謝の祈りではあったので、その点でも「願い事をしがちだが本当は…」という展開の話は全然思い出さなかった。
で、ある時ふと神社の話を思い出して、(いくらかの連想ゲームが脳内で進んだ末、)「拝む時は具体的な感謝もしよう」ということを思った。こういう良いことがあったとかこの仕事が上手くいったとかあの話がまとまったとか、そんな感じのことである。もっとしょうもない(?)感じのことでもよくて、例えば「ブログに記事を投稿できました」も含む。
そうした時、逆向きの発想が生まれて、「次の日の朝に具体的に感謝するために、今日やることを宣言しよう」と考えるようになった。仏壇の前の座布団に正座して、何を宣言するのかをマッチを擦る前に考え、良しとなったら火をつけて線香をあげて手を合わせ、「昨日は~~でした。ありがとうございます。今日は~~をします。」と心の中で呟く(なお実際はそんなにフォーマット固定の言い回しではない)。
この習慣が生まれてから、自分の心持ちに結構変化があった。
私は、「現状をより良くする」ということを目的にして何かの目標を立てたり自分と約束したりする、というのが基本的に下手くそなのだが、なぜ下手くそかというと、相手が自分自身だからである。自分が立てた目標を貫くモチベーションはさっぱり生まれない。自分との約束は守る方が稀な感すらある。というか、ちゃんと思い描いた通りにやれても、全然充実感を覚えないから達成したことを忘れている。
ところが、仏様に「こうします」と宣言すると、それは声に出したわけでもないのだが、なんだか「仏様にそう言っておいてさぼるわけには…」という気持ちになって実現しようとする。そして次の朝に報告のお祈りをし、言った通りにできていればいいし、思うようにできていなくとも、ほんの少しでも何かが進んでいればその分をありがたく思うことにして感謝する。すると「おお、感謝できたぞ」と思う。なお仏様に命令されているのではないのだから、できなかった分を申し訳なく思ったりはしない。できた分を感謝するだけである。
時々「感謝日記」というのを聞くが、それがきっととても良い習慣であるのはわかっていても、全く続いたことがない。三日坊主にすらなれたことがない。多分感謝する先が曖昧過ぎたのだと思う。あと「日記として書く」というのが少しハードルを上げていた。仏様への感謝は仏壇の前で心に思い描くだけである。尤もらしいものを残さなくてはと思う必要もないので、しょぼいことでも感謝できる(そもそも感謝日記が尤もらしい必要は全くないのだが、私個人の問題として、日記に「書く」となると無意識に及第点を上げてしまうのである)。あと単純に、日記を書くには意思が必要だが、仏壇で拝むのは毎朝決まっていることなので「やり忘れる」ということがほぼない。
ここまでの言い方でご推察かとは思うが、私は全然信仰心は篤くない。どうでもいいとは思っていないものの、如何にも日本人的なご都合主義的テキトー信心がいくらかあるだけで、熱心に帰依しているわけではない。しかし「ありがたいもの」という象徴を目の前に置き、それに小さい約束をしていくことは、自分自身が信用ならないタイプの人間からすると「気持ちをうまく回していきやすい」というような効果を感じる。
正直なところ、次の日に感謝の報告をしやすいように宣言のハードルを下げようとする、という気持ちはないではないのだが、まあそれはそれで別にずるいわけでもないかなと思っている。できることしかできないし、やらなきゃいけないことはどうにかやるのだし、ハードルが低くても「これをしよう」「昨日はこれができました」を繰り返していけることの方が大事だと思う。
究極的には「今日も生きよう」「昨日も生き抜きました」が一番重要なのだから、約束の難度にこだわる必要はないだろう。
そういえば、「ありがとうございます」「ありがたく思います」とは唱えるが、「仏様のおかげです」とは唱えない。そういう表現はしないとか決め込んでいるわけではないが、何かのおかげとかではなく、万物の働きの結果のもの(そのうち自分が感謝しうるもの)に感謝しているのであり、私にとって金ぴかの仏様は、あくまでそれを聞いてくれる存在なのだ。(都合良く使ってゴメンナサイ!)
Twitter日誌:同じ流れを繰り返してパブロフの犬になる
シリーズにするほど継続して書くことはない気がするが、とりあえず「このツールの使用について」という意味でTwitter日誌と題しておく。
最近ツイートをすることによる効果を実感したことがあったので書き留めておく。いわゆるライフハックである。
突然だが、世の中には理不尽な出来事や無神経な言動が溢れており、それらを見聞きしたり実際に体験したりすると非常に気分が悪くなる。そして世の中に溢れているので遭遇する機会が大変多い。自分に全く関係のないことならばなるべく見ないようにして回避するという手もあるが、残念ながら自分自身に直接降り掛かったり自分の好きな対象が災難に見舞われたりすることはしばしばあるので、どうしても避けられないことである。解釈の力で影響を抑えるにも限度がある。
そんな時どうしたら良いかとずっと考えていたが、去年思い至ったひとつの解決策が「仔パンダの動画を見る」ということだ。上野動物園のシャオシャオとレイレイの動画は毎週配信されているし、アドベンチャーワールドの楓浜の方はなんと毎日更新されている。パンダって本当かわいい。動きに合理性が全然感じられないのが良い。規範意識や良識で頭がいっぱいの時には脳味噌をだいぶ柔らかくしてくれる感じがする。(関連:自分の機嫌は仔パンダ動画で取る - Noratetsu's Room(のらてつ研究所))
とはいえ、出くわした理不尽で生じたネガティブな影響というのが、「心が深く傷ついた」といったふうに自分自身に直接関わるダメージだと、さすがにただかわいい動画を見ただけでは癒えないかもしれない。しかし、自分の良識に合わないものを目撃して湧いた「何だこいつは!」というような怒りならば、パンダを眺めることによってある程度抑えられる実感がある。
さて、世の中の理不尽の話も仔パンダの話も本題ではないので脇に置くとして、ここで問題になるのは「気分が悪くなったら仔パンダ動画を見る」という流れをすんなり実践できないことである。気分が悪くなった時というのは、憤怒や悲嘆に支配されて全然冷静ではないので、仔パンダのことなんか思い出せないのだ。
自分の脳波を常にモニタリングして負の感情が湧いた時に何かを知らせてくれる仕組みみたいなものがあれば苦労はないが、そういうものはまだ普通に使える技術ではないので、「気分の悪さ」自体をトリガーにはできない。まあそもそもの話、脳波をトリガーにして機械的に「仔パンダ動画を見ましょう」と知らせてこられたとしたら、それを素直に受け入れられる自信はない。
それならば、自分の気分とは関係なく定期的に知らせてくれたら良いだろうか。それで良いかもしれないし、それだと壁に貼った宣言の類が風景と化すのと同様に意識を向ける気をなくすかもしれない。個々の性質に依るところが大きいだろうと思うので一概にこうとは言えないが、とりあえず私は風景化するタイプなので、定期的に知らせる方法はあまり向いていないように思われる。
知らせの存在感が薄くなるということの他に、知らせから受ける印象の問題もある。気分が良い時も仔パンダ動画を見れば一層癒やされるのだし、いつでも視聴するにやぶさかではないのだが、一方「仔パンダ動画を見ましょう」という提案は気分が悪くない時にはされたくない。仔パンダ動画自体は自分の気分と関係がないが、「仔パンダ動画を見ましょう」の提案は「もし気分が悪いのなら」が前提にある。その前提自体がネガティブなオーラを纏っているので、タイムリーでない提案は余計である。単なる条件分岐としては片付けがたい(一度二度なら良いのだが、繰り返されるとストレスになる)。
トリガーが気分である以上自動的に知らせてもらう手段はなく、また定期的に提案してくるのもいまひとつとなると、結局自分の力で自然と思い出せるようになるのが良いのではないか、という結論に至った。学習を十分な回数繰り返せばいずれはそうなると思うが、定着するまでの間はどうしたら良いだろうか。
頭で考えてみてもこれだという方法を見出だせなかったのだが、やがてTwitterがそれに役立つということに気がついた。
習慣の定着を目論んだわけではなかったが、まず「気分が悪い」という旨をツイートし、その後に「仔パンダ動画を見よう」とか「仔パンダ動画を見れば良いんだった」とかいったことをツイートするというのを偶々数回繰り返した。そうすると、この時点ではまだ「気分が悪い」から「仔パンダ動画を見る」は直通ではないのだが、「『気分が悪い』とツイートする」と「『仔パンダ動画を見る』とツイートする」の間には回路ができたらしい。「気分が悪い」という内容をツイートした時点で、何かその後につぶやくことがあったような気がしてくる。そして「そうだ、仔パンダ動画の話だ」と思い出し、「仔パンダ動画を見よう」とツイートする。仔パンダ動画のことが思い出されたわけなので、そうだそうだと見に行く。
そうなると、そのうち「気分が悪い」とツイートしようとした時点で「このツイートの後は『仔パンダ動画を見よう』だな」ということを無意識にイメージするようになるだろう。必然的に、ツイートの中身である「仔パンダ動画を見る」が「『気分が悪い』とツイートする」と結びついていく。そもそも「気分が悪い」という状態と「『気分が悪い』とツイートする」が結びついているからツイートしようとするわけだが、いずれツイートの過程をショートカットして「気分が悪い」と「仔パンダ動画を見る」が直結するかもしれない。(現時点でかなり近づいている実感があるが、まだ直結はできていない。)
まとめるとつまり、
という四つの工程があり、本当は①と④が直通であってほしいのだが、①と④はそのままでは遠すぎるので結びつきにくいというのが課題である。ここで①と②、③と④の間は最初から強く結びついているものとする。この時、②と③の間を繋げればひとつの流れとして繋げることができ、この場合は「ツイートする」という共通項が結びつきに必然性を持たせる要素になる。そして②と③が自分の脳内で当然の流れになれば、この回路を繰り返すことで①から④までの工程が少しずつショートカットされ、いずれ①と④が直結するであろうということである。
結びつけたいものの間にある工程は②と③の役目を果たすものであれば何でも良いのだが、②と③の間が繋がるにはそれなりの強さが必要に思われる。その強さを持ち得る選択肢のひとつとしてTwitterがあるということに今回気がついたわけである。Twitterでツイートするということには「人に読んでもらう」という意識が伴い、話の流れに欠けがあると気になるため、その意識が「この後何か言うんだったような」という違和感となって手を伸ばし結びつきを作ってくれるように感じている。
(余談だが、ストレス対策としては、ストレスを感じた時に実行すると気持ちを回復できることをまとめると便利である(「コーピング」で検索推奨)。自分自身のことなのに、自分の気分を良くするものがなんなのか自分では思い出しにくい。余裕がある時に予め自分に訊いておくのがいざ困った時に対処できるためのポイントなのだろう。私は今のところ仔パンダ動画一択という感じで、昔作ったコーピングリストを参照することはほとんどないが、もっとストレスが増えたら話は変わってくるかもしれない。)