Noratetsu Lab

動じないために。

2026/04/22

絶対に淘汰されない唯一の場

テレビ、SNS、生成AI、と人間が自身の思考力の不足に気づかなくさせる仕組みがエンタメやビジネスの中心に巣食い続けている。
思考力がなくなることの恐ろしさというのはつまるところ政治判断の失敗で「国」や「人類」という単位で滅ぶことに直結するところにあるだろう。
それが何をもたらすかは、ドイツでもアメリカでも既に示されていることだ。
逆にその他のことはいっときの衰退をもたらしはしても直ちに致命的なことにはならず、どうにか盛り返すに至る可能性を残しているように思う。

思考力がどれほど不足しようと絶対に淘汰されないおそらく唯一の場が投票だ。他の場なら何かしらの手段で追放される可能性がある。
何者にも権利を奪われないことが仇となる日が来ないことを祈っているが、直近の二回の国内選挙を見ても、まあ時間の問題だなと思う。

2026/04/19

松岡朱里さんと三山賀子さん

松岡朱里(まつおかじゅり)さん、三山賀子(みやまよしこ)さんはともに2001年生まれ2024年入社のテレビ朝日アナウンサー。
新人の頃から肝が据わったしっかりした印象で非常に好感を持てる。

松岡アナは入社初日から羽鳥慎一モーニングショーのMCを務めていて、とてもきちんとした受け答えをして貫禄がある。癖のあるコメンテーターたちを前にしてもおどおどすることもなく立派だ。
三山アナも入社当初からグッド!モーニングに出演している。柔和でふんわりした雰囲気だがインタビューなどには聡明さがうかがえる。何事にも心から関心を持っていることが伝わってくるし、言葉選びはいつも的確な感じがある。
アナウンサーの入社試験の狭き門を突破しているのだからそのくらい当たり前かというと、先輩・後輩を見てもまあそうでもないなという感じで、彼女たちが特別優秀なのではないかと思う。
私には到底彼女たちのような仕事はできないし、いつも尊敬の気持ちでもって見ている。

そしてお二人は仲が良いということで、それもたいへん好ましいしとても納得感がある。
若手で一番好きなアナウンサーたちである。

2026/04/14

個人的禁止ワード

口で何か喋る時に使ったら負けだと思っているもの。
「なんか」「すごい」「~かなあと」「~だったり、~だったり」「<感謝など>しかない」「うん」「ほぼほぼ」「めっちゃ」「めちゃくちゃ」(以下適宜追加)

なお一部を除いて、書く時は逆に気にならない。
というか、自分がいま公と私の数直線上のどこにいるものとして言葉を使っているのかの問題なのだろう。公寄り、私寄りという概念がない感じのトークは苦手。

2026/04/13

やられている

テレビでもラジオでも頻繁に耳にするが、「やる」の尊敬語として「やられている」と表現するのはどうも馴染まない。
「されている」「なさる」「おやりになる」ではいかんのか?
というか、「やる」を日常的に使いすぎでつい「や」で始めてしまうからもう「やられている」と繋げるしかなくなってしまうのではないか。

ギャラをもらった仕事でやっているにもかかわらず話し方が軽率過ぎる。考える間もなく発話してしまうから後手後手で帳尻を合わせる羽目になっているように思う。そしてそんな調子で帳尻が合うわけがない。
仕事として人と話をする場なら発話にあたって表現を適切に整えるくらいの思考時間はあって然るべきだし、相手がそれすら待てないようならばそちらの方が公の場で話す態度としてどうかしている。

2026/04/12

心はかたく、頭はやわらかく。

心はかたく、頭はやわらかく。それがダンディってもんだぜ。

「おしりたんてい」に登場の、おしりたんていの父親おしりダンディの若かりし日の台詞。
なんだか妙に納得してしまって印象に残った。

2026/03/26

クイズ番組

クイズ番組が近年大流行りしていた。
それは基本的には好ましいことだったと思う。何かを知るということに興味を持ち、それを勉強然とした形ではなく笑いながら楽しんでやることができるのは良いことだ。
「クイズ」という括り方をすることで森羅万象あらゆることを扱えるのも、いわゆる勉強にはない良さだと思う。

続き(ネガティブな所感)

けれども、「知」をクイズ的に解釈することは正直に言って少々浅薄な態度だと思うし、「クイズができる」というのはそれだけでは「クイズができる」以上の意味を持たない。「知性がある」と「クイズができる」をイコールで結んではならない。
クイズ番組には様々な経歴の人が出演するが、知的に物を考えることに於いて実績があったはずの人がある種の無知を暴かれて恥をかくことが度々あったことには、実際幻滅する気持ちと、逆にクイズごときの失敗でクイズ的でない知性を侮られるのはどうなんだという気持ちもあり、色々と複雑な思いを抱かざるを得ない。
クイズができるということで出てくる人が時々自分の立ち位置をなんか変なところに置いているようなのも気になるところだ。

クイズ番組というのは多種多様な「侮り」を目にする機会でもあったなと思う。
クイズ番組を侮って何の準備もせず出演して大恥をかく人。
クイズが得意という自負から万物に精通しているつもりで大言壮語して失敗する人。
クイズに対応できなかった知識人に対しその業績も無価値だったかのように笑う人。
学生時代の成績なんかを持ち出してきて自らハードルを上げながら何も成果を出せない人。
バラエティ番組としての「テレビ的な」振る舞いというのを差し引いても、ああ、高を括っているな、と感じることが毎度あった。要らんことを敢えて言って「痛い目に遭ってみせる」という芸をしようとしていた、とは思えないことが多かったし、仮にその意図でやっていたとしても「そういう芸人」でない限りは別に面白くない。

何かが存在するかしないかを考える時に、その道の大家でもないのに根拠として「自分は聞いたことがない」を出してくる人が時々いる。しかしそんなものを持ち出して何の意味があるのかと思ってしまう。その人なら聞いたことがあるはずだとは他の誰も期待していないだろうに。
クイズのスターという感じで言われている人がこの間それで盛大に失敗していたが、まあ、あくまで「クイズの人」だし、視聴者も必ず正解するはずだとはそんなに思っていなかったのではないかと想像する。そんなものだ。

いろいろ書いてきたが、そんなクイズの流行もテレビでは終焉が見えつつある。
クイズ作家たちはもうあまりテレビに協力していないのか(過労で疲弊したのかもしれない)、ここ数年は単なる雑学クイズばかりだし、長年やっていた某番組も終わりを迎えた。(後継番組はあるが、リニューアル後は別の方向を向いたものになっている。)
少し寂しいなと思う。

2026/03/25

きかんしゃトーマス

NHKのEテレでアニメが放送されている。現在のシリーズは日本では2022年からのようだ。
昔の実写版とは違って、今のアニメ版は嫌な人、嫌な態度というのが全然出てこない。いわゆる「やさしいせかい」になっている。トップハム・ハット卿は機関車たちを心から大事にしているし、ゴードンもトーマスにいじわるを言ったりしない。パーシーは出てくるたびにトーマスに親しみを表現するし、みんな信頼し合う友だちだ。メインメンバー以外ではちょっとした文句を言ってくるキャラも出てこなくはないが、そのキャラなりの信条があってのことで、不快な感じはしない。
基本的には教育番組らしいオーソドックスな展開で、加えて毎回歌のシーンがあってその部分はちょっとミュージカル調になっている。そして使われている色味は優しく明るいもので、全体的に能天気で牧歌的な空気である。

で、如何にも子ども向けのアニメではあるのだが、見ていると時折身につまされることがあって侮れない。毎回何かしらのトラブルが起きてはそれをみんなで協力して解決することになるというThe教育番組だが、さすがに今の時代になるとなかなか巧みにできている。
嫌なやつは一人も出てこないのに毎度トラブルが起きるのはつまるところ「きちんと人の話を聞かない」「曖昧に指示する」「うっかりする」「甘く見て油断する」という「社会人あるある」である。誰も馬鹿ではないし愚かでもないし悪いやつでもないのに問題は起こる。それが私には逆にリアルに感じられる。
顔がついていて喋ったり歩いたり手っぽいパーツを伸ばしたりする機関車はどう見てもファンタジーなのだが、彼ら彼女らは「仕事をしている」存在なので、展開を追っているとところどころちょっと胃が痛くなってくる感じがある。自分自身の失敗も呼び起こされるし、こういうことの積み重ねであの会社はあんな不祥事を引き起こしたんだろうなとかそういうことを考えてしまう。
毎度人の話を聞かずに失敗する機関車たちに、子どもは「また同じことやってるー!ばかだー!」と思って笑ったりするかもしれないが、大人はこのアニメが如何に教育的かを人生経験からしみじみ感じ入ってしまうだろう。

トーマスたちは必ずリカバリーできるし、失敗した子が厳しく怒られることはなく(代わりに自分で気づいて自分で深く反省する)、それは現実にはない優しさだろう。実社会もこうだったらいいのになという思いを抱きつつ、笑って楽しめるよくできたアニメである。

2026/03/24

自分を「普通」と信じて疑わないということ

自分は絶対に「普通」である、「普通」でないはずはない、と固く信じている人というのがいるが、その頑なさが既に「普通」ではないように思える。
逆に「普通でない」方が都合がよい人は、自分は絶対に「普通」でない、「普通」であるはずはない、と固く信じていたりする。「普通でない」というのはそうやって信じることによって生まれるものではない。

どちらも似たりよったりというか、多分同じことなのだが、つまるところ自分と他人のずれを当たり前のこととして許容できていないということなのだろう。そのずれは他人の異常性によると思えば自分の方が普通だと主張するし、自分の異常性による(=ずれが生じないように自分が努力することは不可能である)と思えば自分は普通でないと主張する。
はっきり言ってほぼ全ての人間が何かしらおかしいし、何かしらおかしいのが普通だと思う。まあ一切なんにもおかしいところなどないという人もいくらかはいるだろうが、それ自体が極端な偏りを示していて、ある種のおかしさがある。
当たり前におかしい者同士の間で、どうにかずれを減らして円滑に過ごしていく、そのために各々が努力していく必要があるのが社会というものだろう。

「普通」に対する感覚は大抵親などからそのまま引き継いで引きずっているのだと思うが、親が己を普通だと信じていても、まあ当たり前に何らかの異常性はあるし(それが普通)、自分の親がまずおかしかったということを認めることが第一歩だろう。

2026/03/23

私という不思議な生き物を観察することについての諸々

私は「自分自身を不思議な生き物と思い観察している人」に親しみを覚える。
不思議というのは「特別」でも「優れている」のでも「劣っている」のでもなく、ただ不思議ということだ。他に同じ要素を持つ人がいようと、あるいは全ての人が同じ要素を持とうと、他人がどうかは関係なく自分自身がただ不思議なのである。
そして観察とは文字通りの観察であり、私とはこうであると結論づけるための試みではない。ましてや自分を機械のように解釈して全体を説明できると思うものではない。
他人のことも不思議には不思議だが、自分自身の不思議を相手にすることに忙しいので、私は他人のことは割とどうでもいい。他人に興味がないわけではない。解き明かしていく対象として他人を設定しないということ。よって詮索する趣味はない。

観察対象が自分自身であっても、何か発見があれば嬉しくなり、しばしば何かしらの形で発表したくなるものである。それが平易な文章で行われれば「自分語り」の一種として見られるが、あくまで観察結果の発表であって、自分を何かに見せかけようとする意図は基本的には伴わない。
自慢は自己の観察結果とは根本的に違うものだ。というのは、自慢は他者と比べて己が優れていると評価しているから行われるのであって、他者の存在など関係なくただ己を不思議に思って観察するものとはまるっきり性質が違っている。
そもそも、発表したいというのはこれまた文字通り発表したいということであって、それを他者がどう思うかはほとんど考えていない。他者が読めるように整える気遣いはするが、それを他者が読んで褒めてくれたらいいなどとは露ほども思っていないのである。共感する人がいたら嬉しいとは思うし、自分と向き合うことについて誰かのヒントになったら喜ばしくはあるが、そのように言われたいとは思わない。

「発見を発表したくなる」というこの癖は時に悪癖となる。
この発見というのは、自分自身の不思議について、時に半生をかけて考え続けてきた結果のものであり、だからこそ発見が嬉しいのだが、それを読んだ側にとってはそれほどの重要性を感じられないものだろう。よって、「半生をかけてきた観察結果の発表」に対して、何分もかけずにさらっと斜め読みして「あはは、それってこういうことなんでしょうね」などと軽い反応をされるということが時折発生する。(私がのらてつとして書いていてそういうことがあったという話ではなく、一般論としてこの構図ならどこにいってもそれは起こり得るのだという話。)
この熱量のギャップ、すなわち真剣味のギャップは、話の内容の素朴さとは裏腹にかなり深刻に不和を生みかねない。そして有名な作家などでも時々見られるように、柔軟なようでいて気難しいとか、冷静なようでいて感情的とか、はたから見たら奇妙な矛盾が生まれることになる。

先に「悪癖」と書いたように、これは軽い反応をした読み手が悪くて起こることではない。読み手が十分に慎重なら避けられた摩擦であるにしても、そのような繊細さをいちいち他人に求める方がどうかしている。(私自身それを幾度も反省する羽目になっている。)
要は発表が軽率過ぎるのである。
もしも明確に研究の形をなしているなら、考えなしに勢いで発表してしまうということはないはずだ。入念に準備をして、受け手の反応を想定し、想像しうる限りのことに備えた上でいざ発表となる。一方で、自分自身の観察というのは極めて個人的なものであるがゆえに、実際そこにある真剣さを自分でも忘れて、世間話のようにして軽々しく発表してしまうことがある。自分から発表しておきながら、それに対する反応に対してまるで無防備なことがあるのである。

とはいえ、軽率に発表してしまうからこそ言えること、知れるものはたくさんある。自分自身を観察している人々から軽率さが一切取り除かれたなら、みんな口を噤んで自分のことを発表などしないだろう。ものすごく親しくなって初めてそっと打ち明けられるというほどに秘められたものになってしまうかもしれない。
しかし別に自分のことは秘密ではない。そうやって秘めてしまうのはどこかまずいことではないかと思う。本来軽率に発表してしまえるほどあっけらかんとしたものだったはずなのに、熱量のギャップに気分を台無しにされることを避けて閉じてしまうのは、他の同類との出会いを難しくするし、早い話が「面白い話」が世の中から失われすぎる。
軽率さを敢えて残しながら、最低限のコントロールをしていく、そのことに尽きるだろう。

いずれにしても、このようなタイプというのは稀にいて、知り合えばおそらく互いに親近感を抱く。しかし意気投合して盛り上がるということには必ずしもならない。そもそも自分の観察の方に一生懸命であるし、相手の観察結果も慎重に注意深く扱うから、同じ空気を吸ってちょっと微笑む以上のことは起こらない場合もある。SNSで言えば「いいね」をつけるだけになることもあるだろう。
「ワタシトアナタ、ニテル!」と勝手に思ってそう伝えたいというようなことは時々あって、しかし実際にそう言うわけにはいかずにただ念を送っているみたいなことになるのだが、それ以上距離を詰めることなく見守っている時間というのが案外豊かなのじゃないかと思っている。

2026/03/22

阿呆

判断ミスを取り上げた番組などを見ていて「馬鹿だね~」という感想を持つ人。

管理人

アイコン画像

のらてつ Noratetsu

キーワード

このブログを検索

検索

ブログ アーカイブ

2025
2024
2023
2022
2021