Noratetsu Lab

動じないために。

2025/07/20

明治的・昭和的文体

うちあわせCast第百六十一回で己が影響を受けた文学のこと、第百六十九回で影響を受けている文体のことが語られていた。
そういえば、自発的に読んだ文学で受けた影響というのは、うーん、別に…夏目漱石がちょっと印象的だったかな…くらいしかないけど、学校でやったやつを含めれば、ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』、中島敦『山月記』、夏目漱石『こころ』が深々と刺さって今も根っこにあるというのはある。まあ多分、同じ人はかなり多いと思うけども。
あと問題集にあった文章がいろいろ面白かった記憶がぼんやりとある。幸田文とか。
そうだ、幸田文をちゃんと読みたいのだった。(まだほとんど読んでない)

あとライトノベルという言い方が流行る前のライトノベルのシリーズのいくつかに影響は受けたかなぁ。でも、「楽しんだ」というのが主で、価値観や人生が変わるまではしてないな。
私の人生を大きく左右したのは文学ではなく心理学の本だった。
文学から得る栄養みたいなのはシリアスな描写を含む大河的なRPGから得ていたと思う。語彙もそう。本を大して読んでいない割に言葉や漢字に困ったことはない。現代的な本をいくら読んでも「現代の人に合わせた語彙」しか手に入らない可能性があるが、ファンタジーRPG、歴史RPGではあの手この手で雰囲気づくりがなされているのでありとあらゆる語彙が使われる。同じだけの語彙を小説から得ようと思ったらちょっと大変だなと思う。

自分が影響を受けた文体というのはよくわかっていなかった。誰それの文体というのをそもそもよく覚えていない。
しかし回顧ついでに『山月記』を今読み返してみるに、深々と刺さったとはいえそう何度も読んだという記憶もないけども、自分の文体の割と核の部分にこれがあるような気がする。
あと一時期北大路魯山人の文章を青空文庫で読んでいたことをふと思い出した。その文体をコピーした感もある。でもその前からこうだったような気もしなくもない。微妙なところだが、それはそれとしてついでに紹介しておこう。

北大路魯山人は生まれ育ちの複雑さゆえか非常に気難しいところがあったようだが、文章は飾るところがなく率直であり、批判の仕方は痛烈だが(それがまた人との軋轢を生んでいる)誤解を避けるための配慮も感じる。ちらほら「言い過ぎ」なところが気になるのは事実だが、語り方は軽妙で面白い。

いずれにしても、明治期から昭和初期あたりの文体と相性が良いのだと思う。かぶれているとかではなく、自分の生来のノリがこれだから、最も苦労なく表現ができるのがそのような文体なのだ。ただその辺のが由来かもしれないということ自体今まで気づいていなかったし、本当にその影響なのかもわからない。何しろ染みつくほど読んでいない。
しかしあまりに明治的・昭和的に書いているとかぶれているようにしか見えない感があるし、何にしても今風ではないことは前から感じてはいたので一応努めて現代との間のぐらいで書くようにしているけれど、ノリが混ざらないので交互に出てくるみたいな妙な感じになっているような気がする。まずこの一連も二層の自然さの統合にうっすら苦労しているし、なんなら失敗している。

2025/07/15

筆が乗った状態を敢えて切断する

前提として、書ける時には書いたほうがいい。
ただし長めの文をスイスイ書くという成功体験が続き過ぎると、そこから戻ってこれなくなる。それが続くことを期待してしまうし、やり過ぎることもある。
なので時には意図してリセットした方がいい。

2025/07/15

堕落とはたとえば

「駄目なものの共通点」を探すようなことに熱心になること。

2025/07/14

ツゲノメイガ

昆虫図鑑と蛾の続き。続くと言ってから三週間経った(驚愕)。

ツゲノメイガの成虫は、真っ白な体で白地の翅には茶褐色に縁取るような模様がある。名前の通りツゲにつく蛾で、幼虫の数によってはツゲがぼろぼろになる害虫である。家のセイヨウツゲにもついているが、気になるほどの数の幼虫が発生するわけではないので特に対策はしていない。
幼虫がいるらしいことは糸の痕跡からわかっていたが、成虫の姿は長らく見かけていなかった。一昨年だったか、昼間にひらひら飛んできて木の葉(ツゲではない)に止まったのを見て、「なんだこれは!」と思った。蝶なら大抵「○○の仲間だな」と分かるので蛾だろうというのは判断できたが、『コンパクト版原色昆虫図鑑』には載っていない。仕方ないので図書館に行って一番大きい原色昆虫図鑑を引いて、頭からぱらぱら見ていって8割以上めくったところでようやく出会った(後ろからめくっていればすぐだった)。「ツゲノメイガ」とあって「お前かー!!!」と思った。
ツゲにつく幼虫はツゲノメイガ、まではその前から知っていた。のだが、なぜかそこでついでに成虫の姿まで調べなかったのである。見たものに成虫の写真は一緒に載っていなかった。

綺麗な虫なのだが、といって今写真を検索してもらってもピンと来ないと思う。「いや、まあ蛾ですね」としか思われないかもしれない。しかし明るい日差しの元で瑞々しい若葉に止まっているのを見ると、白が輝くようでとても美しい。
美しさが伝わりそうな写真はこちらに載っている。

蛾の種類は数あれど、ツゲノメイガに似た見た目のものはないようだ。蛾しか載っていないでっかい昆虫図鑑を頭から見ていったからわかる。

ところで、ネットで調べるとツゲノメイガについて「ツゲ、マメツゲなどツゲ科の木につく」というような記述をされていることがある。複数見かけた。しかしマメツゲはイヌツゲ(モチノキ科)の一品種でツゲとは全く異なる種類の植物であり、ツゲノメイガはつかないはずだ(実際うちにあるマメツゲにはついていない)。なぜわざわざマメツゲを併記しているのかわからない。何かと勘違いしているのだろうか。
ちなみにイヌツゲ、マメツゲにはアカシマメイガというのがつくようだが、成虫を一回だけ見たことがある。小さめの蛾だが、紅色がかった色味の翅を開いて止まる姿が印象的だ。幼虫は姿を認識できていない。他にはマエキオエダシャクの幼虫をよく見かける。肩のあたりが妙に隆々としていてちょっとおかしい。そこに何が入ってるんだろうと思う。

面白いと思って見てみれば蛾も面白い。育てている草木や衣類を食い荒らされたり家の中をばたばた飛び回られたり灯りにわらわら集まって来られたりするのは嫌ではあるが、そういう嫌さがあるということと、だから一切関心を向けるものではないなどという価値判断を繋げる必要はない。

2025/07/13

キバラヘリカメムシの香りとその保存方法(仮)

まだ先のことだが、秋になると毎年キバラヘリカメムシを見かける。お腹が真っ黄色で脚は黒のニーハイソックスを履いたような独特のカラーリングをしたカメムシだが、放つ香りが青りんごのようで爽やかということで知られている。
まだ嗅いだことがないので今年は捕まえて嗅いでみたいなと思ったのだが、カメムシの屁を食らったことがないので、どこまでどうすれば匂いを発するのかわからない。なので実際嗅いでいる人がどうやっているのかちょっと検索した。

 

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そこで、なんだかどえらいことをやっている記事を見つけた。(閲覧注意)
味見;キバラヘリカメムシ | 蟲ソムリエ.net byおいしい昆虫生活®︎
味見……? タイトルにうっすら不安を覚えながら開いた。まずマルカメムシへのトラウマと匂いの話が書いてあって、普通の話かとちょっと安心しかけたところに「とりあえず茹でていただきました」。
えっ? えっ、食べ……えっ?
いや、タガメを食べる文化が存在するのは知っているし、それが結構美味しいらしいというのも知っている。知識としては。

噛んだ瞬間強烈に爽快な青リンゴの香りとミント系の刺激が脳天を突き抜けました。

やはり青りんごの香りなんだ。爽やかという表現はあちこちで見たが、ミント系の爽やかさも含んでいるんだなあ。噛んだ瞬間……噛むのか……。
で、この香りは多分長持ちしないからどうにか保存したいということで捻り出したらしいのが「カメムシジンジャーウォッカ」。ええええ。
酒にカメムシを漬ける??? 前にスズメバチ酒を作るというのを見かけたことがあってそれも驚きだったが、カメムシ酒というのもあり得るのか……。

個人的には昆虫食にはあまり関心がないというか、まだどの昆虫も食べたことはないし食べなくていいなら食べないが、「エビはよくて虫は駄目なのはなんで?」というところに疑問を持ってはいるので、抵抗感をなくす体験をどこかでしておきたいとは思う。
いずれ本当に昆虫食に頼る時代が来そうだし。

2025/07/12

本に対する態度

※2025/07/14 一部加筆

https://bsky.app/profile/rashita.bsky.social/post/3ltnsnhta2s2e

「ある手法で本を読んだら、もうその本を手にする必要がない」ことをメリットだとイノセントに述べる読書術は、僕は信用しておりません。

このポストを見て京極夏彦氏のことをふと思い出したが、氏の本棚と本というものに対する解釈を知ったら、本を「情報を吸い取るためのもの」と見なしている種の態度はもはやふふっと笑えてくる。
私の親はどちらも相当な本持ちだったので何千冊くらいの単位の本があるのは当たり前だった。それが特にプラスに働かなかった、あるいは「飢え」がなかったために渇望することもなかったからか、私は大して本を読まない人間になってしまったが(読まずじまいの本を百何十だか二百か三百かその程度持って歩いている状態)、本という存在を自分の「下」に置いていいとは思わない。

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本は人の知と心が詰まったものであり、蔑ろにしていいものではない。それを読むことを好むか好まざるかは人それぞれだが、どういう経緯を経ようが本を「用無し」のようにみなすのは傲慢だろう。

そういえば、私は中学・高校の現代文の授業で文章の要約をさせられることを激しく嫌っていたのだが(リアルタイムにそうだったというよりは大学以降で振り返って苦々しく思うようになった)、エッセンスをコンパクトにまとめてしまえばあとはいい、というような態度を不愉快に感じている。
もちろん、要約をさせる意図はわかる。生徒に身に付けさせなければいけない能力というものがあるのもわかる。教育に従事している人たちはみな苦労していろいろ考えている。その努力に対して不快だとか言うのは失礼だとも思う。要点を何も汲み取れないような国語力が放置される方が遥かに害が大きい、それはそう。
それでも、中学高校のガキごときが人様の文章に対してそれらしい要約をできるものと信じるようなやり方は受け入れられない。「中学高校のガキごとき」の部分は「二十代三十代の若造ごとき」でもいいし「還暦にもなっていない青年ごとき」でもいいし「ただ自分の人生を生きただけの一人の人間ごとき」でもいい。要するにあらゆる人間に於いてそうである。

言わずもがなの話だが、要約を試みること自体が直ちに悪ということではない。しかしながら、大学受験のためにテクニックを使って文章を読もうとするみたいなことが進学校では当たり前にある(今は知らないが少なくとも過去にはあった)。そのような読み方で要約をして、採点基準を満たして満点を取り、それで国語が得意だったなどと思うのはどうかと思う。

本は(悪書も多々あるにしても基本的に)尊いが、本を読むということは別に偉くないし、本を読んだ人間が偉いわけでもないし、読書術を駆使している人間が偉いわけでもない。
本を尊ぶ姿勢は尊いと思う。

と言いながら、本を読むということを日常化することに失敗し続けている私としては、本と親しむために費やすべきエネルギーを極力少なくするということをずっと考え続けているので、どこかで何か軽率なことを書いたことがあるかもしれない(別に書いてないかもしれない)。

2025/07/11

○○ファーストは時限的になり得ない

○○ファーストという思想について思うのは、仮に○○に入るものに迫っている喫緊の課題を解決したとして、解決したのでじゃあ範囲を広げて考えるようにしていきましょう、と滑らかに移行するとは到底思えないということ。
それどころか、そもそもありとあらゆる社会的・政治的な課題が、どれだけ取り組んでも「すっきり解決」ということにならない。一度○○ファーストに傾いたら「こんなにやってもすっきり解決しない」ということによってますます先鋭化するしかない気がするし、それは外的な力で粉砕されるまで続いてしまうのではないか。
「まずは○○を守ろう」と言うとき、「まずは」の部分について真剣に考えているのかどうか。

「優先順位」は魔法の杖ではない。「優先順位」と言うから何か良いことのような気がしてしまうかもしれないが、単に「序列」と言えばなんとなくまずいかもしれない予感がしてくるだろう。「○○ファースト」はもろに序列的な表現だが、外来語にしているからビジネス的な軽いノリのように受け止められているように思う。
国政に関わる重要な指針を軽い外来語で表現すること自体大変に不愉快である。

2025/07/11

甲虫的なもの/マニアになれないということ

NHKの「美の壺」の蝶の回を見た。

デザイナーの森英恵さんは、蝶が己の美意識をそのまま表している、ということを仰っていた。
自分のことを考えてみるに、私は蝶ではなく甲虫にそれを見出しているような気がする。
甲虫にものすごく詳しいのかというとそういうわけでもないが、自分が好きなものの多くはつまるところ甲虫的なところがある。ずんぐりして丈夫な生きものが好きとか、大鎧が好きとか、メタリックカラーが好きとか。アイコンに蟹を使っているのもその一環。各種の「好き」を繋ぐハブとして甲虫があるかもしれない。
ただし文明的過ぎるものは私の「好き」の領域には含まれないので、一際類似性を感じる「自動車」は琴線に触れない。私の「好き」には自然的・有機的な部分が必要なのだと思う。日本の大鎧は好きだが西洋の甲冑は好きではない。鉱石は好きだが宝石は好きではない。

一方で好きな甲虫は何か、と考えるとなかなか難しい。具体的にこれというより「甲虫という概念」が好きという感がある。
自分に衝撃をもたらした甲虫ならいくらか挙げることができる。クヌギシギゾウムシ(クリシギかもしれない)、ウバタマムシ、シロスジコガネ、ヤンバルテナガコガネ、ゴライアスオオツノハナムグリ、アトラスオオカブト、ニジイロクワガタ、キイロテントウ、ハッカハムシ、イモサルハムシあたり。大体知った順。
これらにあまり共通点はないような気がする。大小さまざま、形もさまざま、色もさまざま、光沢もさまざま、生態もさまざま、生息地もさまざま(上記の内自分が住む地域に生息するものは実際に見た)。
逆に、自分が捉えた甲虫の概念をいつも打破するものが現れ、そのたびに衝撃を受けたということかもしれない。なのでカブトムシやオオクワガタやその他ごくふつうに知られている種は上記の並びに含まれていない。

甲虫は好きだが、甲虫の専門家になりたいというふうにはそれほど思わない。そのような熱意とともに好きでいるわけではない。森英恵さんのように(と言ってしまうのは烏滸がましいが)、自分の中にそもそもある美意識の象徴として甲虫のすがたに惹かれるものがあるということではないかと思う。
甲虫というカテゴリを自分のフィールドとしているわけではない。甲虫的なものに通底している何かを好んでいるのであり、自分の関心はしばしば越境する。
私の「好き」というのは私の美意識にのみ依存するものであり、何か特定の領域に対してオタク的・マニア的に好きになるということはあまりないのかもしれない。甲虫を含めてこれまで何かに対し自分としては強い関心を抱きながら、しかし知識を際限なく吸収するほど熱中するということがいつもできなかった。それがある種のコンプレックスになっていて、○○博士のようになっている人に憧憬を抱いてきた。
そのことを自分の「浅さ」だと思ってきたし、そうではないと否定するのも難しいが、自分を知るという努力をずっと続けてきて、単に浅いだけとは言えないのではという感じがしてきている。領域を限定している人が気にしていないようなところに私は関心を持っている。本当はそのところに私はもっと注意を向けるべきだったのだが、自分の「浅さ」にばかり囚われていたから、自分が何を見ているのかを分かっていなかったと思う。
「浅い」というのはつまるところ、何かに対して真摯になれないという感触である。自分は事物に対して――好きだと感じるものにさえ――真摯でないという感じがしていた。そこに人間的な欠陥を感じ、自分を本質的に「足りていない」存在だと認識していた。しかしどちらかというと、そのように決め込んで自分自身に対して真摯にならないというところにより深刻な問題があったと思う。

2025/07/10

シロイワヤギ

先日の「ダーウィンが来た!」でシロイワヤギのことをやっていた。

シロイワヤギのことをTak.さんが昔に書いていらっしゃったような、と思って探しに行こうとしたら、ブログサービス自体が今年の3月末で終了してしまっていた。今書きながらかなりのショックの中にある。まだ全部読めていなかった。
さてシロイワヤギだが(未だ「ガーン」という擬音の前にいる)、ロッキー山脈のものすごい断崖で暮らしているかなり大きなヤギである。ヤギと言って思い浮かべる姿よりはカモシカなんかに近いだろう。加えて真っ白でもふもふしている。ゆえに別名はシロカモシカ。
あるいはターキンと似ている。実際、ターキンとは系統図上かなり近そうである。

生態について紹介されていたが、やはり断崖絶壁の暮らしは過酷そうだ。赤ちゃんが生まれると、天敵から守るためにますます崖の上へ上へと登っていく。子どもがついて来れていないことに気づかずひたすら草を食んでいる母親にはちょっと笑ってしまったが、子どもにはなかなか厳しい生活だと思った。
あとは特定の岩に含まれるミネラルを求めて川を泳いで渡ることもあるというのに驚いた。そして例によって険しいその岩場を登り、時に僅かな足場から離れた岩に脚を伸ばしてものすごく頑張って岩のミネラルを舐める。その姿は少しコミカルに思えたが、あまりに頑張っている感じで転落しないかハラハラした。勢いをつけて前方の岩壁に前脚をかけるはいいが、その脚をどうやって戻すのかと思った。
夏に暑さを避けるために集まった残雪の上で、成長した子どもと思われるシロイワヤギたちがやたらと飛び跳ねているのが可笑しかった。遊んでいるらしい。やはり飛び跳ねるのは遊びとして大事なのだろう。人間もスポーツなどの言い訳を使わずともただ飛び跳ねていいと思う。

そのように面白みを感じるところもあるが、しかしシロイワヤギの立ち姿を見ればむしろ神々しさを覚える。
鋭く切り立った岩山の頂点に立ち下を遥かに見据える、という姿勢がその印象をもたらしているということはもちろんあるだろう。しかしそれだけではない。
シロイワヤギの姿というのは見れば見るほど不思議なバランスに思える。巨体を覆う純白の長毛は全体に柔らかな印象をもたらすが、その毛の届かない膝下は細く且つ強靭である。そして程よい長さの鋭い角は装飾的というより実戦的で(実際、クマを返り討ちにしてしまうこともあるようだ)、細長い顔はどちらかというとウマに似て顎は幾分頑丈そうに見える。ヤギと名のつくに相応しい顎髭は豊かで貫禄がある。柔剛併せ持ち、一言で印象を表現するのは難しい。
顔つきを見れば、喋りだしそうという印象があるわけではないが、黒い目の奥には深い知性を感じる。軽率さとは無縁のようだ。しかし狡猾な雰囲気はない。人間に例えるなら仙人的な存在感である。
かわいいとかかっこいいとか綺麗とか強そうとか、そのような単純な形容詞では感想を述べ難い動物だ。しかし本来いかなる生物も簡単には言い表せないはずである。シロイワヤギを見ているとそのことを思い出させてくれるような感じがする。

2025/07/05

若さと老い

エイジング|Tak.(Word Piece)
エイジング2|Tak.(Word Piece)

読んでいてふと(本筋から外れて)思ったことだけど、「若さ」と「老い」の感覚ないしは解釈が周囲と合っていないということが「馴染めなさ」を示しているかもしれないと思うなどした。
同じ年代の「若さ」についていけない。同じ年代の「老い」の話についていけない。時間の流れが一致していない感じがして、そして時間の流れが一致していないなら他のあらゆることも一致しない、そんな感じ。

最初から老人で、死ぬまで子ども、そんなタイプの人間というのがいる(私がそう)。同じ種類の人間のことはわかる。同じ種類の人同士の会話は、何も変わらないままでずっとあり続ける。最初から子どもらしくなく、しかし最後まで子どもっぽい。
そういうタイプであることを、正直嬉しく思っている。それが孤独をもたらしているとしても。

→noteにリライト:若さと老い

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