こちらの記事を読みました。
「アウトライナー」と「アウトラインプロセッサ」という名前のどちらが好きかという個人的な好みを言うと、アウトライナーは「アウトラインがどうしたんじゃ」という気持ちになるので(すみません)、動詞が入っている「アウトラインプロセッサ」の方が昔から好みです。Windowsユーザーなのでその種の表現の方に親しみを覚えるというのもあると思います。(でも今はみんなアウトライナーと言っているので私もそれに合わせています。)
さて昨今「プロセスする体験」が失われつつある、というお話は多分その通りだろうと頷きながら拝読しました。昔がどうだったかというのを私はあまり存じ上げないので上の世代の方が抱いている危機感を同じようには感じられていないと思うのですが、生成AIがその部分に致命的な変化をもたらしつつあることはひしひしと感じています。
そしてアウトライナー(=アウトラインプロセッサ)は、デジタルゆえに実現可能な「可変のアウトライン形式」というものによって「プロセスする体験」を容易にしている、あるいはそのことのみに集中できるようにしているのだと私も思います。
アウトライナーのメタファーで私も次のように書きました。
アウトライナーの肝は、最終的にできあがるアウトラインの形状の利便性にあるのではなく、自分の思考がアウトラインの組み替えとともに変遷していくその流動性と同時性にある。自分とアウトラインが一体になり、恰も自分自身を編集しているかのようにアウトラインを編集し、そのアウトラインを見渡すことが自分自身を見渡すことを意味する、そしてアウトラインを組み替えることで自分の解釈の形をも組み替えてしまう、そのような有機的な動きを実現できるのがアウトライナーである。
アウトライナーでなくても「プロセスする」ということは可能ですが、なぜアウトライナーがよいのか。言い換えると、アウトライナーとテキストエディタは何が違うのか。アウトライナーはインデントがありますが、上から下に一行ずつテキストが並べられていく形であり、その意味では普通のテキストエディタと同様にリニアに読むものと言えます。
実際、アウトライナーを使っていない人はテキストエディタを始めとする「上から下にテキストが並んでいる」種の(要は普通のノート的な見た目の)道具を使ってプロセスしているのだと思います。断片をリンクで関連付けるZettelkasten系メソッドでも目次的なページは必要になり(Linking Your Thinking(LYT)のMOCのように)、そこではテキストが並んだ状態でプロセスしていることになります。
テキストエディタとの違いは何かというと、まず一行一行が個別に扱えることにあると思います。アウトライナーの話をするたびに言っているので再放送みたいなことになっていますが、例えば記述に輪郭を持たせるものとしてのアウトライナーでは以下のように表現しました。
アウトライナーというのは〈アウトライン〉を扱えるアプリケーションということになるが、その本質は各記述が区切られていることにあると思う。このことによって、記述単位で自由に動かすことが可能になり、適切に編集された記述の集合体によって更に何かの形を明らかにするということが可能になる。
また、そもそもテキストの並びをどこから「これはアウトラインである」と判定するのか、という観点で次のようなことを書きました。
つまるところ「ひとつの記述にひとつの区切られた領域が与えられた形式で書かれていること」だと私は感じている。箇条書きのバレットは「この行はこの記述のための領域である」ということを示しているし、所謂章立ては各文字列に章とか節とかの領域があるわけである。
で、これは再放送ではなく今回初の発見ですが、例えばPowerPointのデザインテンプレートの編集のように、アプリケーションやゲームなどで何かのレイアウトを変更する際には「エディットモード」的な機能が用意されていることがよくあります。要素の配置が点線で表示されたりして、何がどことどういう位置関係になっているのかがわかりやすくなり、そしてそのことに集中できるようになっています。このことを思い出し、アウトライナーはテキストにおける「エディットモード」なのではないかと思いました。
つまり「編集状態」が見てわかるように表現されているということです。アウトラインを用いなくてもテキストの切り貼りによる編集は可能ですが、親子関係やインデントの情報がない場合、ひとつひとつの文がどういう意味でその位置に存在しているのかということは頭の中で考えてやっている状態になります。その「頭の中にある情報」を可視化しているのがアウトライン形式です。
作り終えたアウトラインのインデントを取っ払ってしまえばそれが完成原稿になる、というような話を確か何度か読むか聞くかしたと思いますが、それはエディットモードから抜け出るということになります。
Tak.さんの「文章エディタ」についてのお話の中でWYSIWYGモードや複数のアウトラインという発想といったものが語られていますが、それらは如何にも「エディットモード」です。そもそも「文章エディタ」の話なのでエディットモード感があるのは当たり前と言えば当たり前ですが、アウトライナーにエディットモード感が既にある程度あるという見方はそれほど当たり前ではないかもしれないと思いました。
以前、アウトライナーを文脈エディタと表現してみることについて考えたことがあります。「文脈エディタ」としてのアウトライナーで以下のように書きました。
他人が作ったものであってさえ読み取ることが可能なほどアウトラインは文脈保存力に優れている。
逆に、アウトラインというのは文脈保存以外の何をやっているのだろうかと考えてみると、どうも思いつかない。アウトライナーは自由なので非文脈的に項目を作ることは可能だが、それは大抵アウトライナーではない方が良い類の使い方だろうと思う。
今記事全体を読み返すと、概ね今でも納得できるものの、なんとなく「文脈」に限定するのは早計という感があります。そうなんだけど、何か足りない、という空気が漂っています。
で、昨日思いついたのが「全貌解明支援ツール」という表現です。あまりにも飛躍があるので「アウトライナー」の呼び換えとしては到底使い物になりませんが、「要するに何をやっているツールと言えるのか」を考えたときの私の中での最新版の表現がこれです。「全貌」は「全容」でもいいです。「現時点で解明されている全貌」をエディットしていくのがアウトライナー、というイメージです。
よく事件の全貌というふうに言いますが、「全貌」「全容」というと単に「全ての情報」というのではなく、理路が必要であってリニアな語りが必須に思えます。そうなると情報の関連性をただ繋いだネットワークでは足りず、アウトライン形式で表現されるべきものという印象があります。また、アウトライン形式と似た形に樹形図がありますが、何かの体系のように組織化された情報の表現には樹形図がよくても全貌はアウトライン形式が必要に感じます。
文脈エディタという表現で足りなかった何かというのは、目的を示す要素です。アウトライン形式は確かに文脈を表現しますが、文脈を表現するために文脈を作るわけではありません。何かのために文脈を可視化する必要があるのです。それがつまり「全貌の解明」です。
全貌解明というと大変に仰々しい感じがしますが、別に事件事故のようなものを対象にするということではありません。例えば「メールを返信する」というタスクをアウトライナーに書き込んだとします。それだけですんなり実行できればよいですが、もし何か難儀しているならば問題点を掘り下げて考える必要が出てきます。情報がとっ散らかっている気がしたら、受け取ったメールの内容と返信すべき内容とをひとつひとつ整理した方がいいということになるでしょう。これはつまり、「メールを返信する」ということにまつわる全貌を解明しようとしている作業ということです。
執筆なんていうものは全貌解明の最たるものと思います。自分がテーマとしているものの全貌、そして自分が書くべきものの全貌を解明する必要があり、解明された全貌を語る営みが文章の執筆です。
あくまで「支援ツール」であって、アウトライナーを使うからにはアウトラインとして全貌を完全に表現しなければならないということじゃありません。全貌の解明が必要な時、そのプロセスを的確に支援するのがアウトライナーだということです。
ごく小さい規模のことなら一行で全貌が明らかになっている場合もあるでしょうし、その場合にはそれ以上プロセスする必要は何もありません。一行で終わる話も何百行と必要な話も同じノリで扱えるのがアウトライナーの素晴らしいところです。
全貌を解明するという時――ノンフィクション作家の仕事を想像するとわかりやすいですが――その解明のプロセスにこそその人の魂が宿っていると思います。その部分を全部生成AIにショートカットさせたら何もかもが「それをやるのは私でなくてもいい」ということになってしまいます。Tak.さんもお書きになっていますが、私というものを何も拡張しなくなる感じがあります。
アウトライナーを用いて何か考えを進めるという時、すなわち何かの全貌が解明される方向に進んでいるはずです。間違った仮説を展開していたとしても、それが間違っていたという情報が増えるわけですから、エジソンの言葉のようにそれは失敗ではなく糧になっています。
全貌解明のプロセスはアウトライナーを使わなければできないというわけではありませんが、アウトライナーを使えば(変な思い込みに囚われない限り)自然に行いやすいとは言えると思います。アウトライナーは「考える」という営みにおいて強力な味方であり、そしてアウトライナーに残されていくプロセスの足跡は自分固有の大きな財産になるでしょう。
「○○としてのアウトライナー/アウトライン」でシリーズ化できそうな今日このごろ。
