自分の今年の目標に「どうでもよいことはどうでもよいとする」というのがある。
そもそもは、何かを見て強い憤りを覚えても自分と利害関係がないならどうでもいいことだから反応しない、いちいち動じない、ということを指していた。自分なりの義憤で自分自身が制御不能になることを避けたいということだ。
目標の類は否定文だとなかなかうまくいかないという実感がある。なので「動揺しない」ではなく「どうでもよいことはどうでもよいとする」という肯定文にしたのは正解だった。(ということを2025年上半期の振り返りで書いた。)
で、毎月の月間振り返りで自分の動揺についてチェックしているうちに、制御ができなくなるタイミング、つまり自分にとっての望ましい自分でいられなくなるタイミングというのは「憤り」だけではないということに気がついた。いや、そのことに気がついたというか、自己の過剰性で生じる他の不本意さも「どうでもよいこと」に括れるということを発見した。
制御できてなさを大きく分けると二通りある。「言わずにおれない」のと「つい喋ってしまう、口が滑る」状態だ。それぞれ「アクセルを踏み込んでしまう」と「ブレーキを忘れている」と言い換えられるかもしれない。
さて私が私に振り回されている感じがする時に何が働いてしまっているのかというと、多分これらの要素である。
- 軽視に対する憤り(名誉の回復欲)
- 誤解を訂正したい欲
- 自分の存在価値の顕示欲
- 思いつきや先見を披露したい欲
一段階抽象化するとこういうことかもしれない。
- 他者を含む個人の名誉の守護欲(アクセル踏み込み)
- 自己のオリジナリティの顕示欲(ブレーキ忘れ)
アクセルの踏み込みは、無理解な他者に対して、他者そのものまたは他者の中にある認識を「滅したい」時にしばしば発生する。これは一般論ではなく私個人の話で、他には例えば「早口オタク語り」が止まらなくなる人は知識や感動の共有したさがアクセルの踏み込みに繋がっているのだろう。私はそのスイッチがない。
一方でブレーキ忘れは、他者に対して「私には特徴があり、そしてここにいる」ということを表明したい状態で発生する。これも一般論ではなく個人的な話ではあるが、当てはまる人はある程度いるような気がする。他に、偏見を撒き散らしたい人というのもブレーキが壊れているように思う。何か信念があってアクセルを踏んで人を攻撃している人間もいるが、どちらかというと惰性で適当なことを喋っている方が多いと感じる。
名誉を守りたいとか自分の独自性を表したいとかいうことは「どうでもよい」のかというと、そう断じていいことではないのだが、例えばSNSのような社会的な場での振る舞いを考えた時に、個人的な欲というのは他人には一切関係ないことなわけで、その意味で「どうでもよい」とは言える。
逆にもっと大事にすべきことと言い換えてもいい。軽々しく表に出してはいけないのである。もっと自分の中で大事にして「有効な行動」に繋げるべきだろう。SNSなどでただただ「自分にはこのような欲がある」という自己紹介をしていても、世界は何も変わらない。
判定基準としては「それを言ったから何になるのか」ということがあるだろう。大抵の発言は別に何にもならない。言っても意味がないのだ。冒頭で「利害関係」というワードを出したが、つまり自分と直接関わりがあってかつその関わりに於いて意味を成すかどうかである。それがないなら気分の問題に過ぎない。
草の根運動として「言っていかなくてはならないこと」というのはある。それは直接的な利害関係が存在しなくとも表明自体に意味がある。しかしそれは信念として確固たるものがあってこそであって、ただ自分の主義を垂れ流しにしていいという話ではないだろう。自分の表明が完全に自分の理性のコントロール下にあることが重要である。
ここまで考えてきてふと気がついたが、「どうでもよい」の主語がいつの間にか広がっていたようである。
最初は、誰かが何か不快なことを言っていたとしても、その相手に影響力がない、自分との間に利害関係がないのなら、"相手の言葉は"自分にとってどうでもよいことだからどうでもよいとせよという戒めを表現していた。
しかし敢えて主語は設定せずに「どうでもよいことはどうでもよいとする」と表現していたので、他の種類のどうでもよさも含まれるようになった。自分が何か言いたくなっても、"自分の欲は"他人にとってどうでもよいことだから黙っておけという戒めへと広がった。
ここまでのこの記事の流れだと、自分の欲のどうでもよさの方に偏ってしまっていたようだ。それは確かにどうでもよいが、それは他者目線のどうでもよさなので、やや自罰的過ぎる感がある。当初の想定も思い出しておく必要がある。
- 自分にとってどうでもいい他人の言動にいちいち動揺しない
- 他人の言動そのものは必ずしもどうでもよいことではない(実際に誰かにとって害が生じていることがある)が、とりあえず自分にとってどうでもよい(自分が口を挟む立場にない)ことはどうでもよいとする
- 他人にとってどうでもいい自分の欲望を軽々しく露出しない
- 自分の欲望は自分にとってはどうでもよいことではないが、とりあえず他人がいる場では他人にとってどうでもよいことはどうでもよいとする
だいぶ整理されたような気がする。
例えば誰かが何かを軽視したことに対する憤りというのは、この両面で「どうでもよい」という戒めが働くことになる。自分が今それに対して物申す立場にないなら動かない。自分の個人的な「守りたさ」「生理的嫌悪感の振り払いたさ」で軽々しく言葉を発しない。
ここまで書いてきたようなことを全て内包するのが「どうでもよいことはどうでもよいとする」というフレーズである。なかなか便利で万能な言い回しを思いついたと思う。