今はこうして文を綴って人が見る場に投稿しようとするくらい、文章を書くことが好きです。読むことにしても、活字中毒ではないですが文を理解することに不自由を感じることはあまりないように思います。
しかし中学や高校の間はそうではありませんでした。というか、現代文という授業で自分は何を学んでいるのか全くわからなかったのです。
わからないというのが今となってはわからないのですが、当時はずっと現代文の授業というものに対してふわふわしていて、何かを掴むこともないままなんとなく学校を卒業してしまいました。とりわけ評論の勉強がさっぱりで、その後普通に読めるようになってから振り返ると、授業によって獲得したことはひとつもなかった気すらします。相当なコマ数あったはずなのに! もったいない!
当時の私に何が起きていたのか、そしてそれがどういう事態を引き起こしたのか、振り返って考えてみたいと思います。
以下は私の経験の話なので、そういう習い方じゃなかったよという人もいるかもしれません。
①小手先のテクニックが邪魔
現代文の授業や試験対策では、色々なテクニックを教わりました。例えば、
「第一に〜」「もうひとつは~」等は丸で囲め!
「〜のだ」「~なのである」の前が筆者の主張!
という感じ。これが役に立ったかというと、正直なところ役立った記憶はありません。試験に対しても役立てられませんでしたし、その後の生活に於いては尚更です。
いや、普通に考えて世の大人はそんな読み方をしていませんよね。
だいたい、書く側にそういうルールが徹底されてなどいないので、そのような小手先のテクニックを覚えたところで、まあちょっとしたヒントにはならなくもないかもしれませんが、実用的に有効に使えるとは思えません。
まあ知らないよりは知っている方が得だろう、何であれ無いよりは有ったほうがいいのだ、と思われる気がしますが、個人的には他人の文章について「テクニックで読むもの」という軽薄な意識があるのは後々邪魔になったので、教わって良かったかどうかは微妙なところです。
もちろん、先生たちは生徒に入試で少しでも良い点を取ってもらいたい、一人でも多く志望通りの学校に合格してもらいたい、という善意と熱意と使命感で知りうることを全部教えてくれようとしていたのだと思うので、先生たちやカリキュラムが悪いと言いたいのではありません。うまく活用できた生徒もたくさんいるのでしょう。
ただ、私とは相性が悪かった……というか、そうやってテクニックを教えてもらっていい段階に、私は達していなかったのだと思います。
②要約とは「枝葉を削ぎ落とすこと」という思い込み
現代文の授業では要約がつきものですよね。評論というのは基本的には核となる主張があって、それに説得力を持たせるために根拠となるものを並べて論理立てて文章が構成されていますから、何が核であるかを掴むのは大事です。読解力を高めるにあたり要約を試みることが重要なのは言うまでもないことです。
しかし。その要約をするために、こういう言い方をどこかでされた記憶があります。「枝葉末節を削ぎ落とし、根幹となっているものを書き出しなさい」と。はあ、枝葉末節。枝葉末節という言葉を手元の辞書で引くと、「主要でないこと。重要でないこと。」とあります。まあ確かに、核の主張を直接表していない文や、主張を補強する役割でしかない文は、「主要でない」部分でしょう。要約ということをするにあたっては、そこに含めるべき要素ではないかもしれません。でも、単に「要約には入れなくていい」というだけで、その一文が無駄なものなわけではないですよね? 必要ない文ってありますか? 何らの必要もないなら作者は書きませんよね。無駄だらけの稚拙な悪文なら、そもそも授業の教材や問題文として採用されないはずです。
いえ、先生たちの言いたかったことはわかります。主張の補強でしかない部分を主張の核だと勘違いしていては文章を読解することができませんから。ちゃんと重要な部分を見抜いて、その文章全体が一体何のためにあるのか察知できるようにならないと、実質的に文盲と同じです。子どもたちがそうなっては困ります。(そうなってしまっている人は年代問わず結構いるように思いますが。別に若者に限った話ではありません。)
しかしながら、そもそも評論的な文章というのは、「根幹+枝葉末節」という構造ではないように思われます。ピラミッド状の頂点に著者の主張の核があったとして、それを下から支えるように論拠が並んでいるはずです。そしてその論拠を支えるためにまた条件とか補足とか例示とかが並んでいます。論理としての正しさを保証する他にも、比喩や言い換えなど、文意を理解をしてもらうために必要な文もあります。それはそこに無くても論理自体の強度は変わりませんが、無いと読み手に理解される確率が下がり、文章の価値が減る可能性があります。価値が減るという言い方はちょっと適切ではないでしょうか。ともかく文章は読んで理解されなくてはあまり意味がありません。
要は、文章全体、本全体の一文一文全てによって、著者の主張というのは支えられていると思うのです。良い文章は一文も無駄なく何らかの役割を負って存在しています。「削ぎ落としても構わない枝葉末節」が、教科書にも採用されるような質の高い文章に存在しているとは思えません。そのような軽率な言い回しが国語という教科の授業の中で出てくると、国語教育とは……という気持ちになってしまいます。著者や文章に対する敬意を全く感じられません。「まあ、要するにこうだよね」というような不遜な態度は著者の意図を正確に読み取ることの妨げになってしまいます。
一方で、もっと要約のしやすい文章というものがあります。それは例えば新聞の記事です。著者の気持ちや主張などが入っていない新聞記事は、シンプルに情報としての重要度で内容を段階に分けることができます。従って、字数が何文字与えられているかで、要約に含められる情報の範囲が変わります。
そのような要約にしても、記事に書かれている情報はすべて誰かにとっては重要な情報になり得るから書かれているのであって、枝葉末節という言い方を安易にするものではないと思いますし、**「枝葉を削ぎ落とす」のではなくて「核に焦点を当てる」**のが大事だと思うのです。
③問いを解くために読むという非現実性
テクニックや要約で問題が生じるのは、結局のところ、中学や高校の国語の学習というのが「問いを解く」という形式になっているからではないかと思います。取り上げられる文章は「問いによって解かれるもの」として生徒の前に現れます。(今はわかりませんが私の時はそうでした。)
現実問題として、問いを与えて解かせないと生徒の状態を数値的に判定できなくて成績をつけられないので、学校という組織で成績によって生徒に評定というシールを張らなければならない以上は、この形式は仕方のないことなのかもしれません。実際の読解力を確認したいのなら、本を読ませてその本について対話すれば簡単にわかることですが、それで先生が感じ取った読解力というのはあくまで先生の主観になってしまいますから、公正に成績をつけられる保証がないので難しい問題です。いちいち一人ひとりと対話している時間などないという制約もあります。
でも、大人になってから評論的なものも含めて様々な文献を読むようになって、それらの文章を「問いを解くもの」として読むことはなくなりました。問題文が添えられていないので当たり前です。代わりに、自分の問題意識や関心を元に、それを解決したり膨らませたりするという目的を持って読むようになりました。
中学や高校では学校からひたすら文章を寄越されて読む状態なので、別に読みたいと思ってないですし、文章の主題に対して問題意識も関心もないことが多々あります。なので授業では、文章を読み、先生に文意を噛み砕いてもらい、その内容に対して興味を持つように促され、その上で問題を解き、最後に要約してみる、というような流れになっていたように思います。その授業での流れが、実際に文章を読むという行為とは随分乖離しているように感じました。(総合学習の時間によって「問題意識を持つ」ということは訓練されるようになっていますが、そこで教えられていることと現代文を直結させるのは生徒には少し難しい気が当時はしました。)
そもそも、「問いを解く」というのはどういう行為なのでしょう。前提として、正解を判定できる問いは「いつ、誰が読んでも同じ答えになる」ものですよね。ですが文章というのは読む側の状態や価値観によって意義や価値が変わってくるものですから、「問いを解く」という行いは内容を吸収して糧にするということとは別の次元にあるように思います。じゃあ何のためかといえば、読解力の基礎として「一意的に決まるものを確実に読み取る」という力を鍛えているのではないかと思います。内容を吸収する以前のことです。文盲にならないための基礎の基礎ですね。それは大事です。
でもここでひとつ、それを習得できているという感覚のために決定的に欠けていることがあるのですが、それはその文章を読み取った結果、何か具体的な問題を解決できたという実感がないことです。大人になってからの「読む」行為がすいすい進んでいくのは、自分が抱えている問題が解決されるからではないでしょうか。困ったことがあって、その解決策を知りたくて、読んだら解決したのでハッピー! という実感があるので文章を読む行為が有意義なものになっています。あるいは、知識や発想が足りないなあという意識があって、それを広げる術を知りたくて、読んだら見識が広がったのでハッピー! という実感。前者はメカニズムやノウハウを書いた文章、後者は評論やエッセイなどが主です。大人になっても文章がうまく読めないのは、自分が何に困っているのか、自分に何が必要なのかを自覚できないからで、そのことを現代文の授業では教えてもらえないような気がします。そこがないから実質文盲の状態から抜け出せないような。
真剣に読むということのモチベーションを考えてみても、誤読しては自分が損するから誤読しないように一生懸命になって読むのではないでしょうか? 文章を誤読したところで、現代文の評価が下がるだけで今の生活には何の影響もないとなれば、神経を注いで疲労してまで頑張って読む意義など感じられない気がします。
④私に欠けていたこと
色々と書いてきましたが、主題は現代文の授業の批判ではありません。現代文の授業とは何であって、そこには何が有って何が無くて、何を自力で獲得しなければならなかったか、そのことを生徒であった頃の私がわかっていなかったことに問題があったという話です。もしかしたら、先生たちがちゃんと教えてくれたことを、私の考え方が未熟だったせいで右から左に聞き流してしまっただけかもしれませんから。
さて、文章を読むという行為や現代文の授業に関わる要素を、思いつく範囲でちょっと並べてみようと思います。
国語の先生たちがやりたかったこと
誤読しない読解力を身につけさせること
入試を突破する力をつけさせること
当時の私の意識にあったこと
入試を突破すること
国語以外も合わせた全体の成績を上げること(現代文は相対的に優先順位が低かった)
文章を積極的に読む動機となること
自分が解決したい問題を解決すること
自分が獲得したい知識・発想・感受性を獲得すること
文章を「読める」ようになる条件
文章を通して何かを得ようという目的意識
誤読するわけにいかないという切実さ
私に欠けていたこと
目的意識と切実さ
文章やその著者に対する敬意
並べてみると、これで文章が読めるようになるわけがない、という気がしてきました。読めるようにならないし、読みたいとも思わないのは当然です。
ちなみに、ゲームの攻略本なら普通に文章で書いてあっても読めました。パソコンの取扱説明書なども同様です。必要があって読むものだから読めたのでしょうし、単純に誤解なく読む力ならもう身についてもいたのでしょう。というかそれができなければあらゆる教科の教科書も読めないので、普通に学校に行っていたらその程度の読解力はあって当然とも言えます。
それ以上の読解力が必要だから現代文という授業が中学・高校とあるはずですが、それ以上のものの読解には単に能力としての読解力より目的意識と切実さが必要なのであって、私はそれを授業ではいまいち得られずに終わってしまいました。得られた人は素晴らしいと思います。
そういうことは本来現代文の領域ではなく、人間社会で生き延びるための能力として学校の外で親などから教わるようなことである気もしますし、総合学習の指導も年々レベルアップしているのでそちらでしっかり補われるようになっているかもしれません。
兎にも角にも、現代文の授業がいったい何時間あったのかわかりませんが、自分の認識のズレによってその時間を有意義に過ごせなかったことが残念です。その後に読解力が身についたことは幸運でした。
同じように大人になってから読み書きが得意になった人が、「昔は国語の成績悪かったんだよなー」と言いながら朗らかに笑っているのを時折見かけますが、そのことについてはちゃんと考えなくてはならないような気がします。
ひとつ言えるのは、「学校の現代文がピンとこなくても国語力がないとは限らないぞ!」ということです!
(※この記事は一度noteに投稿したものの下書きに戻したものです。)