Noratetsu Lab

動じないために。

2022年8月

2022/08/30

「いずれでもない」の受け皿としてのScrapbox

 去年まではScrapboxに入れていた情報のかなりの部分を、ここ数ヶ月で自作のツールに移した。その結果、Scrapboxを使うということの自由度が上がった。


 直近数ヶ月間で、自分にとってトップダウンの分類が一段階以上あった方が良い情報について、いくつも専用ツールを自作した。

など。それぞれ具体的にどういうツールなのかは手が回ったら書きたいと思うが、ここでは省略する。
 それまでならScrapboxかmdファイル(Logseq、Obsidian)かアウトライナー(Dynalist、Transno)かに書き込んでいた情報の大部分について、自分で作ったツールのいずれかに居場所を移すことになった。もう少し前に汎用的に作っていた自作ツールからも役割の移動が起きている。(なお過去に遡って処理したわけではないので、今のところ以前に書いたものは以前に書いた場所のままになっている。)
 専用ツールを作ったこれらの情報は、それぞれについて「分類」を強く欲しているため、どんなツールに置いてもタグかフォルダかではっきり区分することになる。自分の脳の中で、それをどの箱に入れたかというのを連想のキーとしているので、「箱をなくす」ということはプラスに働かないのだ。
 豆論文やブログにも分類が必要なのか、というと、それらは内容の形式的な分類ではなく、情報の成熟度の段階や「どういうつもりで書いているものか」という意図の部分に自分の中で箱があるため、それを分けられるようにしたいのだ。誰か他の人が作ったツールではそんな抽象的でニッチなニーズを満たしてはもらえないので、心底納得するためには自分で作るほかない。「工夫次第でそう使えなくもない」という感じのツールを頑張ってカスタマイズするより、全部自分で作ったほうが早いのである。必要なのは高度な処理技術ではなくただ自分に合った情報の紐付け方とレイアウトの再現というだけなので、別にすごいプログラマーの力を借りなくても事足りている。

 こうして、分類を欲している情報を全部専用ツールに振り分け、そのいずれにも入らないものが今Scrapbox行きになっている。
 いずれにも入らないものとは、様々あるが例えば「○○の時は△△すると良い」的な豆知識や、時事の情報などである。知っていた方がいいが、体系のある学問的なことではなく、また思索に関係するわけでもないようなもの、という類の情報と言えるかもしれない。
 これらは日々大量に手元に集まり、自分が実際に生活したり人とコミュニケーションをとったりする上で大事な情報である。しかし、これらはあまりに雑多なので、きちんと管理したい類の情報と混在するとノイズ感が非常に強い。(混在していても取り出せさえすれば別に構わない、という人も多いだろうとは思うが、如何に「ひとつにまとめる」が巷で流行ったとしても、混在させられない人は混在させられないものと思う。)
 分類したさの強い情報が外に出ていったことにより、現在それらの雑多な感じな情報だけがScrapboxに入るようになった。分類が不要だからここに残っているわけで、それらに分類のためのリンクを張る必要はない。結果的に、純粋にキーワードのリンクだけで繋ぐことに納得できている。

 分類したい気持ちがある情報が混在していた時、自分の頭の中で別の箱に入っているもの同士にリンクができることを必ずしも歓迎できなかった。そうなると、一般的な単語をブラケティングすることにモチベーションが生まれにくくなる。「繋がってしまう」ことに対してなんとなく後ろ向きな気持ちがあるからだ。いや意味がわからん、という人もいるかとは思うが、そういう人は自身の心の自由さを喜びながら思うままに我が道を行ってほしい。
 ところが雑多な情報だけになったことで、むしろ一般的な単語をどんどんリンク化したいと感じるようになった。繋がりが多ければ多いほど良いような気持ちである。
 一方リンクが繋がりすぎて意味がなくなる、というのはScrapboxではしばしば発生する問題だと思うが、分類用のタグや「日記」みたいな属性を表すキーワードとは違って、内容に沿った単語というのはそれがごく一般的なものでもそう大量にはリンクしない。ひとつのワードで100のノートと繋がる、とかいうことは、余程頻出の単語でない限りは起こらないのである。もしそういうことが発生する単語があるとしたら、それはもはや自分のテーマになっていることだろうし、わざわざリンクで繋ぐまでもないような気がする。検索しようとしてすんなり思い出せる程に「あるのが当たり前」な単語なら、敢えてリンクにしなくても良さそうである。

 分類の越境に対する不快感が取り除かれているならば、些細な関連性でもリンクになっていた方が良い。前までは適切なツールがないせいで分類したい情報を分離することができなかったため、その感覚を持てなかったのだが、自分でツールを設計することが可能になったことによりそれらを全部追い出した状態に行き着き、やっとScrapboxに合ったマインドになった気がしている。もちろんそれまでも、Scrapboxに関して言えばプロジェクトの分割である程度は越境を防いではいたが、そもそも「雑多さが足りない情報」はコントロールしたさが邪魔になって不自然な扱いにならざるを得なかったのだと思う。
 自分にとっていずれの分類も相応しくない、「十分に雑多な情報」だけを集めた状態でScrapbox内にリンクを張り巡らしてみる。そうすることで自分の感覚がどう変化していくか、これから観察してみたいと思う。
 

2022/08/24

ブログの書き方ド下手問題⑨~一度にあれこれ語り過ぎる件~

 前回から五ヶ月半経っていることに仰天している第九回。過去の回の記事はブログの書き方ド下手問題からどうぞ。 
 今回は「書けない」というより「ちょうどよく書けない」ということについて考える。いつにもまして個人的な話なので、誰かの参考にはならないかもしれない。


 久しぶりなので、本題に入る前に「ド下手問題」と題している一連が何なのかを説明しておくと、「自分が困っていることについて自問自答して対処法を見出す、その解体と構築の過程をそのまま書き留めたもの」である。究極のところ自分の問題を解決できれば私としてはそれで良く、副産物として読める形にしたものをついでに公開しているという感じのものだ。

 さて、このブログを続ける中で私はひとつ問題を感じている。それは「記事一本が常に長い」ことで、これを解決することには前々から苦戦が続いている。このブログを始める前より抱えている課題である。
 某所では「1500字くらいを目安に」と書かれているのを見たことがあるし、まあ実際、継続しやすさもさることながら、「読みやすさ」を追求する意味でもそのくらいが読みやすいには読みやすいのだろう。一方自分が書いている記事はいつも3000~5000字くらいである。長い。
 書きたいように書いているとそのくらいに「なってしまう」ので、その意味では字数が多いというのは苦しみを伴っているわけではないが、エネルギー消費は字数の分だけ多いため、長い記事を同じサイズで書き続けるのは難しい。つまり投稿の数が少なく抑えられてしまう。数多く連打すればいいというものではないが、自分が投稿したいペースに届いていないので、そのギャップは不本意に感じている。
 (こう書くと、長く書きたくても書けないのが悩みという人を面白くない気持ちにしてしまうかもしれない、と思わなくもないのだが、今現在そういう人も私と同じ病に罹ればたちまち「長くなってしまう」ことに悩む羽目になると思うので、そういうもんかと思っていただきたく。)
 このブログを始める前に別所でちょろっと書いていた時も、長々書きたくなくて手頃な内容が何かないかと考えるなどして"頑張って"短く書こうとしたことがあったのだが、努力して捻り出したのは短いというより単なる駄文だった。アプローチの仕方を誤っていたと思う。その頃は今より焦っていたので、無闇に必死だったのである。

 常に長いのが問題と書いたが、文章が長いことそのものが読み手にとって悪いのかと言えば、それは必ずしもそうとは思っていない。
 読んだ後に「要するに、」と言って三行くらいで簡単にまとめられてしまうような(というか、そうやってさっさとまとめてしまいたくなるような)冗長な文章は長い甲斐はないが、物事をわかった気にならずにきちんと考えるためには、必然的に粒度の大きい、つまり複雑なことを複雑なことだと示してくれているひとまとまりの文章を読む必要もあるだろうと思う。文章は要約されるためにあるのでもない。要約の暴力を跳ね除ける「濃い」文章と格闘することは絶対的に必要だと個人的には思っている。

 なので、「長い記事は良くない」ということを前提として考えているのではなく、ここで私が解決したい問題は自分が記事の規模をコントロールできていないことである。言いたいことを言おうとすると必ず長くなり、コンパクトに書こうとすると無意識に内容自体を陳腐にしてしまう。これがコントロールできないということは、文章の質もコントロールできないことを意味しているように思う。
 他の人は、長さが必要な時は存分に言葉を尽くしながら、そうでない時にはよく切れるナイフをスッと入れてスッと引くような洗練された文章を書いているように思える。それなのに私はどうして「長くなってしまう」のか、ということを考えたい。

 一応いつもこれというテーマがあって書いているし、全体がそれに関連したものになっているはずではある。「ところで」とか「そういえば」とかいう断りをして脱線した時もそうで、それがあるのとないのとでは自分のイメージに読み手がどれだけ寄れるかに大きな違いがあると思うからそうしているのであり、ただ思いついたから書いたというわけではない。脱線だが脱線ではないというか、線を太くするために横に一度はみ出ているといった役割のものだ。(功を奏しているのかは自分にはわからない。)
 それらは「要するに、」とやりたい人の手にかかればバッサリ裁ち落とされてしまうかもしれないもので、意図がどうあれただ冗長なのかもしれないが、ともかく自分の中では必要があってそうしているのである。
 必要があってやっているというならこれ以上どうにもならないじゃないか、という結論に行き着きかねないが、ここで立ち止まって考える必要がある気がする。「自分の中での必要」の部分である。何がしたくて、そう念入りに書いてしまうのか。

 そこをよくよく考えてみると、自分には「話の全てを自分が感じているように読み手に感じてもらいたい」といった欲求があることがわかった。もうちょっと無機質に言うと「誤解なく追体験させたい」ということだ。そうすると、読み手を文脈に乗せることが絶対になり、文脈から外れかねない分かれ道は全部塞いでおきたいということになる。
 つまらないところで明後日の方向に脱線(こちらは文字通りの脱線)をされると、自分としてはあんまり語った意味がないような感じがしてくる。その脱線が読み手や書き手の私にとって豊かさをもたらすものならもちろん喜ばしさもあるのだが、誤解や侮りによって読み手がひとたび否定的な気分になってしまうと、その瞬間その人の中で私の文章は無価値化し、何千字だかの文字の並びは全くごみのようになってしまう。それはなるべく避けたい。一旦否定したものを肯定し直すのには恐ろしく体力が必要で、そうまでして評価を改めてもらえる可能性は高くはない。もちろん意図通りに読んでもらいさえすれば必ず評価されるはずだとかいう話ではないのだが、防げたものを防げなかったということがあったとしたらそれはかなりの損に思われるのである。
 脱線を防止する手としては「結論を先に書く」ということがある。ただ、情報を教えるとかシェアするとかいうものではない、自分の状況や感情を共有するタイプの文章を書く場合、「結論を先に書く」ということは難しい。物語性が損なわれるからである。つまり「追体験」が難しくなる。そして、「追体験」を目論むゆえに最後まで読んでもらわないと何のための物語だったのかがわからないとなると、途中で切ることには勇気が必要になる。できれば文脈を切断することなく一本で最後まで行ってしまいたい。
 そういった思い――「○○してもらいたい」と「✕✕されたくない」――でガチッと縛られていることで、文章の規模は雪だるま式に増大していくのだろう。

 自分の「誤解なく追体験させたい」という願望に対して、如何なるアプローチがありうるか。
 この願望の最も過剰な状態を考えると、「(全ての人に)(一切の)誤解なく(一度に)追体験させたい」ということと言えそうだ。こうなるといかにも雁字搦めな感がある。日頃ここまで念じているわけではないが、「よりよい文章」を追求するということがこの過剰な状態に至らしめる可能性は想像に難くない。そうなれば、文章が短くならないどころか、書くこと自体ができなくなってしまうかもしれない。「書くなら前よりレベルアップしたものを書きたい」という漠然とした向上心が、その過剰さの罠に自分を陥らせる危険があるのである。
 「誤解なく追体験させたい」という希望自体を捨ててしまうのは恐らく無理なので(個性の成分ではないかと思う)、それはひとまず理想として置いておき、括弧内の過剰さをコントロールことを考える必要があるだろう。

 まず「全ての人に」の部分を抑えるとする。わかる人がわかればいいと割り切ること、この人にさえ伝わればいいという範囲を狭く持つこと。実際どれほど努力したところで結局伝わっているのはごく狭い範囲なのかもしれないし、それなら最初から「この範囲」と割り切るのが現実的に思える。どこまで絞るかの問題はあるが、少なくとも「全ての人」が無理なのは当たり前なので、何も意識しないでいることによって無自覚に「全ての人」を目指してしまう事態は回避したい。
 ただ、この範囲にさえ伝わればと思ってはみても、そう思えばその範囲外から絡まれても平気になるというわけではない。「この範囲」と想定した相手との結びつきの強さを支えにするといったことは必要になりそうである。
 なお「全ての人に」を諦めた場合にどう短くなるかというと、例えば諸々「初見の人でもわかるように」的な配慮をしている箇所を省略できることになる。以前「同志にはいきなり語れ」という話をしたが発想を文脈から解放するには③~実践とまとめ~、助走的な文章を省くことで話は随分コンパクトになるだろう。

 次に、「一切の」の部分を抑えよう。これも端から無理なのは明らかだが、「なるべく」を強化し続けると結局「一切の」を目指すことになってしまうので、意識的に妥協のラインを引く必要がある。
 冷静に考えた時、まず「誤解されるとそんなに困るのだろうか」という問いが浮かぶ。全く困らないということにはならないが、「そんなに」困るかと言うと、そこまででもないかもしれない。誤解した人間が何か影響力の大きいことをしでかさない限り、本当の意味で私に不利益になることはまずない。声のでかい人の偏った解釈が出回るとか、好ましくない集団の中に晒されるとかするとそれは実際問題困ることになるのだが、そうならない限りは単に「イラッとする」程度のものだろう。
 これも、前述したような仲間との結びつきがあるかどうかがストレス耐性を左右する気はするので、文章の書き方よりそちらに力を振り分けたほうが結果的に「ちょうどよく書ける」ようになるかもしれない。一切誤解されないようにとまで思わなくとも、誤解しない人は誤解しない、ということをどれだけ信じられるかにかかっている。
 「一切の」を抑えれば、いちいち厳密にしようとして言葉を重ねてしまう部分を減らせるので、多分いくらか文字数は少なく済むだろう。でもどちらかというと、投稿のハードルを下げる意義の方が大きいかもしれない。

 最後に「一度に」の部分だが、作業としてはこれが一番簡単なことだろう。この記事も切断ポイントが三、四箇所あると思う。そこで思いきってえいやと切ってそれぞれ投稿すれば、ひとつ当たりの字数は減る上に、投稿数は増えることになる。
 と言っても、長く書いたのをただ分割しただけでは、そのテーマに費やす字数自体は変わっていないことになる。不完全燃焼状態の記事を投稿する勇気を持つ感覚は鍛えられそうだし、それもそれで必要だが、書き方の根本的な変化にはならない。というかむしろ、分割した後でそれぞれに加筆してトータルで増える可能性すらある。自分はただ記事一本当たりの字数を減らしたいのではなくて軽快に書けるようになりたいのではなかったか。
 別の考え方としては、ひとつの話を小さくする、つまり変化を全て書いて全部を追体験させようということはせずに、俳句のように一瞬の「感じ」にクローズアップしたものを書くということがあるだろう。上の方で書いた「よく切れるナイフをスッと入れてスッと引くような洗練された文章」というのはこういうことのような気もする。これはジグソーパズルのピースを小さくするようなもので、同じ絵を表現するためにピースは多くかかるかもしれないが、ピースを置くべき場所の検討(≒話の解釈)の幅も含めて読み手の体験としてはより豊かなものになる可能性もある。
 ピースを大きくすると、それがピースとして成り立つためにその中で論理をカチッと固める必要が生じ、その分だけ解釈の幅は狭まっていく。紙面が限られていれば解釈の幅による豊かさは説得力とトレードオフで、どちらが必要なのかは内容次第だろうが、全ての話について説得力を重視してしまうと不必要に諄く重々しくなる感じがする。

~まとめ~

  • (全ての人に)(一切の)誤解なく(一度に)追体験させたい」を目指そうとしてしまう危険
    • 文章の肥大化を引き起こし、最悪書くこと自体ができなくなる
  • 全員に → 範囲を具体的に想定し、同志間での意思疎通の成功を支えにする
    • ⇒全員と接続するための助走部分を膨張させずに済む
  • 一切の → 誤解しない人は誤解しないという実感を得る努力と信じる努力をする
    • ⇒予防線を張り巡らし過ぎずに済む
  • 一度に → 自分の変化一連全てを追体験させようとしない、断片にクローズアップする
    • ⇒論理を固めることに文を費やし過ぎずに済む

 困るのは「全部が長い」ことであって、目指すのは「全部を短くしよう」というのではない。これからも長い時は長いだろうし、種々の要素のバランスを取ったら結局これまでと変わらないということになってしまうこともあり得る。
 そもそも短くすればペースが上がるという保証もない。結局どっちにしたって、書きたいこと自体が変わらなければ難易度は下がらないかもしれないし、むしろ長いままの方が速かったりするかもしれない。
 それでも「やらない」と「できない」の差異はおそろしく巨大なので、自分の意図を構成している要素を把握し、時にスッと引く勇気を持ち、身構える力を抜く選択肢をいつでも選べるようにしておけたら良いと思う。
 

2022/08/08

「何者」像の多様性/個性なき主体性

tasuさんの投稿をとても面白く拝読しました。


紙のノートにテレビゲームの発想を再現するというのは、使っている道具としては紙と鉛筆かもしれませんが、既にプログラミング的発想で考えることをしていたのだろうと思い、「おお」と感嘆しました。(ご本人の意識としてはそんな大層なことではないかもしれませんが、かなり面白いことを遊びとしてなさっていたと思います。)
tasuさんのゲーム作りのように、ああしてこうしてそうなるとこういう結果になる、という機構を生み出すことはまさに「創る」ことであると思います(文章を書くこともそうです)。それを試みるということは、その結果が他人にとって意味を持つかどうかとは関係なしに、自分に「創る人間」として何か力を漲らせてくれるように思います。私もコードを書いたり文を書いたりすることが自分を泰然とさせてくれている、という実感を抱いています。
大人になり、自分の権限の無さあるいは逆に責任の重さに苦しむ生活が常態化すると、「ああしてこうしてそうなるとこういう結果になる」なんてことを無邪気に考えて実行することはできなくなってしまうでしょう。そうすると自分の中から「創る」という要素が失われ、自分の人生の舵取りをするエネルギーも底をついてしまうのではと思います。逆に、突然大それた計画を立てて精神の回復を図ろうとしてしまう展開もあり得て、それもそれで大変な事態を招きかねません。
大人になっても「少年の心」を持っていたい、ということがしばしば言われますが、それは性格的な純粋さを保つのもさることながら、自分という人間のエネルギーを失わないという意味で大事なのかもしれません。「少年の心」とはつまり「個性」の発露なのだと思います。

さて、もう少しだけ「何者」の話をするのですが、「何者」という括りで考え続けることには限界も感じます。

自身で「何者ではない」と考えてしまうことに対しては、それぞれの「何者観」によって、とるべき行動が変わるように思います。
tasuさんがお書きになっている「それぞれの『何者観』」という表現が正鵠を射ていると思います。tasuさんの記事内の文脈としては「他に対して思う『何者』」と「自身に対して思う『何者』」の乖離が主眼かとは思いますが、自他の問題だけでなく、「何者」の二文字が生じる経緯にそもそも種類があるのでは、ということを思いました。
「何者か」とはつまり、今の自分とは異なる人物像であり且つ具体的に思い描くことができていない像のことではないかと思いますが、本当はそこに形容詞がくっついているはずです。個々人が人生に於いて求めるものというのは当たり前に違っているでしょうし、更に社会が要請する像が世代によって異なっているからです。漠然とした「何者かになりたい」は、具体的でない上に「どんな方向か」さえも曖昧であるところに苦しみを生じさせていると思います。

エリクソンの「心理社会的発達理論」では、人間の発達段階を八段階に分け、それぞれで直面する課題とその克服の成功・失敗の影響が整理されています。
一般的に、「何者」というのは「アイデンティティの問題」と捉えられているので、この「心理社会的発達理論」に基づけば五番目の青年期の課題というふうに解釈されることが多いかと思いますが(この理論を知らなくとも大体そういうイメージを持つことが多そうです)、「何者かにならねば」という焦燥が全てそこから来ているかというとどうも違っているような気がします。社会情勢や、周囲に求められた像、そして個々の従順さの度合いなどによって、もっと手前の発達段階の課題を引きずった結果である場合もありそうです。
いずれの段階をもきちんとクリアしたら体現できたはずの自己像、それが「何者」かもしれません。あるいは自意識が肥大していれば「人より優れた何か」を指すのかもしれません。
そのあたりの詳しい分析・議論は社会学や心理学の専門家が力を尽くしてやってくれているでしょうが、それはそれとして、自分の実感を言葉にしておきたいと思います。

私にとっての「何者」とは、「個性の発揮によって食べていけるような何者か」です。自分の中では「食べていける」にそれなりに強めのアクセントがあるので、ただ個性を発揮しているだけでは「何者か」になれたことにはなりません。
とはいえ、「個性の発揮とは何か」がわからない状態の形容しがたい苦痛から解放された時点で、「何者かにならねば」という強迫観念からは解かれ、「サウイフモノニワタシハナリタイ」的な、切実ではありながらもやや呑気な感覚に変化したように思います。
この「何者」のイメージを私にもたらした要因は、前回「何者か」にならないと世界がモノクロになる私たち書いたことの繰り返しになりますが、個性の発揮に依らない働き方に馴染むことが困難という予感があったからです。いわゆる「普通のこと」が、私にはあまり普通ではないのです。時代的にも、「普通」というのは結構なエネルギーが要るものになっていたと思います(「普通」とは競争に勝って初めて得られるものになっていたからです)。それでも私は「普通」にならなければいけないような気がして、頑張って「普通」を装って生きました。その間、自分の個性の育成などというのは棚上げです。
いよいよ「やっぱり『普通』にはなれないよ」と悟った時、自分が育てることをさぼりにさぼってきた「個性」を頼りにしないと自分は生きていけないと気がつき、私は人生を無駄にしてきたという現実に打ちのめされたのです。それゆえ、私が求める「何者」像というのは、食べていけるくらいにきちんと己の個性を知っているということなのだと思います。

私たちが児童・生徒だった頃には既に始まっていた、「個性を育てる」というコンセプトは、それ自体はそれこそが私にとって必要なものでした。しかし、同時に叫ばれた「主体性を持つ」というコンセプトがそれを覆ってしまいました。恰も「個性」と「主体性」は連動しているかのように解釈されていましたが、私にはそうは思えません。というか、「主体性」という概念が曖昧に過ぎます。
学校で想定されている(今は違うかもしれませんが、当時の学校現場では想定されていたであろう)「主体性のある子」というのは、「物事に積極的で快活な子」というイメージかと思いますが、その像そのものには「個性」は要りません。「主体性のある子」を、個性を封じて演じることができるのです。
「個性」を自覚してそれを守り、そして遺憾なく発揮しようとしたならば、確かに主体的に生きることになるでしょうが、それはつまり結果のものであって、「主体性」というのは獲得を目指して得るものではないように思います。ましてや、「主体的な子を高く評価する」なんてことをやっていたら、「評価されるであろう振る舞いを演じて主体的っぽく生きる」という戦略が選択されて「個性」なんてのは二の次三の次になって当然です。(そのことを悟るのが、私は少し遅すぎたなと思います。)

私は「何者かになりたい」という思いを抱いて生きてきました。自分が思う「何者」の条件が自分にとって遠い(しかも像としては漠然として掴みどころがない)ことから、「何者にもなれないのかもしれない」という不安を抱くことになりました。一方で、「どうせ何者にもなれやしないんだ」という捨鉢な気持ちになったことは多分ありません。おそらく、私の中にあるのはそういう「何者」ではないのだと思います。
自分にとっての「何者」についてはともかく、一般的に言われている「何者」とは何か、ということについて考えたことはなかったので、「何者」とは何者かという問いによって、そして「何者」になるために書くという試みとそこに至った経緯を知ることによって、「何者」の二文字の背景に錯綜する文脈の差異に初めて焦点を当てて思考したように思います。

(前回にしても今回にしても、正直なところトンネルChannelに書き込むのは躊躇われたのですが、ここで「気が引けるから自分のブログに…」「いやそもそも公開しないで胸に秘めておいた方が…」とやりだしたらトンネルChannelのコンセプトを形骸化させてしまうようにも思ったので、投稿しました。)
 

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