この世は嘘で満ちている。
とかいう言葉をどこかしらで何度も目にしたり耳にしたりした記憶がある。知ったからといって特に何も意味を成さない言葉だけれど、この事実(的な何か)に怯えて生きてきたのもまた事実だ。
まだ十歳になったばかりの頃、小学校のクラスメートの人間関係に衝撃を受けたことがある。
二人組になれと言われたら当然のように組になるような二人だったのに、それぞれと話すと「あいつ嫌いなんだよね」と言うのだ。えっ、わざわざ一緒にいるじゃん。わざわざ、自分の意思で、互いを選んでるじゃん。その当時そういう言葉が思い浮かんだわけではないけれど、今言語化すればそのような意味わからなさに支配されたのは確かである。ツンデレとか悪友とかいうものではなくて、どう聞いても本当に嫌っている口振りだった。
もちろん、その後大人になっていくにしたがってそういう不可解な関係は周囲に増えたし、やがて「よくあるもの」と認識するようになった。
それでも、まだ十歳だった私は「すきだから仲良くする」「すきじゃないから近寄らない」の二つの選択肢しか持っていなかったし、「すきじゃないけど仲良いふりをする」という道を選ぶ意味がわからなかった。しかも、話せばすぐに「あいつ嫌いなんだよね」を引き出せてしまうような軽率さなら、当然既に互いに「本当は自分はあいつに嫌われている」と知っていただろう。そう知ったからますます屈折したのかもしれない。どこの集団にもリークする人間は存在していて、リーク先が先生なら「チクったやつ」が嗤われて終わるかもしれないけれど、当事者同士にリークする種類の人々は自分の立場を守りながら確実に人間関係を壊していく。アサシンのようだと思うけれど、誰に雇われたわけでもないのにそんなことをする動機は未だに理解が難しい。
昼間の教育現場に潜む暗殺者のことは置いておくとして、そうやって自分の思いと裏腹のことをして自ら不快感を増しているタイプの人間の存在を目の当たりにしたとき、私の中で世界に対する安心感がかなり派手に破砕されたことを覚えている。そのときに生じた他人に対する不信感は今でも私を脅かしている。
私の親はお世辞が嫌いだ。
嫌いになるだけの経験をしたようなのだが、私はお世辞でダメージを受けたようなことはない。親がしきりにアンチお世辞を表明したので漠然と「お世辞には気をつけなきゃいけない」と思うようになったし、そのおかげでお世辞に調子に乗って後で傷つくこともなかったのかもしれない。
でも、お世辞を言う人とお世辞を言わない人の区別の仕方は長らくわからないままだったし、結果としてその間に言われたほとんど全ての褒め言葉を聞き流した。私自身に嫌な経験はなかったので「どうせお世辞だろ」みたいなひねくれ方をしたわけではなかったけれど、褒め言葉というのを受け止めるのは危ないことだと思っていたからキャッチしなかったのだ。
先生は生徒をコントロールするために煽てるし、友達は友達に嫌われないために機嫌を取るし、学校の外では尚更おべんちゃらばかりである。そうでない人もいたはずだけれど、「お世辞かもしれない」という想定は素直な人たちの賛辞の価値も損ねることになった。
真に受けて喜んで後になって傷つくのと、褒められても嬉しく感じられないまま低空飛行で生きるのと、どちらがマシだったのか私にはわからない。嘘をつかない人とだけ付き合って素直に褒められて喜ぶのが最適解だろうけど、その環境を得るのは容易でない。
私は誰かとお近づきになりたがる人のことを苦手に感じている。
人を尊敬して憧れたからといってその人と接点を持つ必要はないような気がするのだが、好ましく思う存在と双方向に関心を抱きあって同化したいと感じるのはたぶん世の中では「普通」の範疇に入るのだろう。宗教でも信仰対象との一体化はしばしば試みられることだ。相手のことを自分の完全上位互換だと感じれば確かに同化してアップグレードしたくなるかもしれないし、全てとは言わずともほんの一部でもいいからその力の恩恵にあずかりたくなるのも不思議ではないのかもしれない。
でも謎の魔法も謎の科学技術もない現実では、祈りは無意味ではないにせよ、何かの力を手に入れるには自分が努力するしかないし、ましてや誰かに認識されただけで自分のステータスが上がるはずもない。私はそう思うけれど、しかしながらそう思わない人は世の中にたくさんいて、今日もせっせと相手に言葉の貢物を捧げて振り向いてもらおうと頑張っている。
死ぬまで一途に貢いでいられるならいいけれど、一度振り向いてもらえた相手には貢物をやめてしまう人が結構いる。絶対振り向いてくれないと悟ると関心を失う人もいる。その人たちがきらびやかな包装で贈り続けていた言葉の貢物の数々、その中身はいったい何だったのだろう。
この世は嘘で満ちている。それは誰もが知っている常識なのだろうし、そうなんだろうなと私も思っている。
私にも友達と呼べる人間がいくらかはいて、その人たちに何らかの裏切りをされたことは今のところない。嘘を言われたこともないと思う。そう思うだけで真実がどうかは知らない。私もその人たちに嘘を言ったことはないつもりだし、コントロールしてやろうと思ったこともない。
でも、そんな友人たちに褒められても心底嬉しくなったことはない。そうかな、ありがとう、と少女漫画にでも出てきそうな軽い微笑みで返しただけで、自信をもらうことはなかった。
嘘は言ってないけれど、真実を全部話したわけでもない。素直に話しているような顔をして、「陰で否定されたらショックなこと」は全部伏せていた。肯定されることを期待していないから、肯定してもらえる機会を作らなかった。友人たちもそうかもしれない。類は友を呼ぶと言うし、同じ程度に伏せている同士で仲良くしている可能性もある。
とはいえ信条について語り合うくらいには親しいし、個人的にはそれができれば人間関係として十分だから、物足りなさを感じたことはない。そもそも、そんな繊細なことは、人を信用していようがいまいが他人に言う必要などないのかもしれない。
それでも、もし嘘があってもダメージを受けないように工夫して生きているのは事実であり、嘘などつかれたことのない相手に対して「嘘をつかれても」と想定すること自体が不誠実なことのような気はしている。でも、この世は嘘で満ちているんだよなあ。
SNSやブログや匿名掲示板などで、人々の言葉は溢れかえっている。都合の悪いことを隠して都合の良いことだけを発信している人はたくさんいる。都合が良いどころか、最初から存在しない事実を語っている人もあちこちに蠢いている。それらを逐一判別するのは相当に困難である。判別できたとしても、そこにコストを費やす意味があるかは怪しい。
今一番頭を悩ませているのは、本当そうな見た目のきれいな嘘に対して、嘘と知らずに感嘆したときのことだ。その現象はそこかしこで見られて、嘘と見破った人が、そういう嘘に簡単に惑わされる人々を嘲笑っている場面も目にする。嘘を発信した張本人は尚の事だろう。あるいは、誰かから聞かされた嘘を嘘とは知らずにシェアしてしまって、思いがけずめちゃくちゃに叩かれて途方に暮れた人もいるだろう。
完全な嘘っぱちでなくとも「盛る」ことはいくらでもあって、むしろ盛っていないものを探す方が難しいかもしれない。人の目に留めてもらうには多少演出をしなければいけないかもしれないし、うまい盛り方は人を楽しませる力でもある。嘘じゃない範囲で盛るのが良識的だとは思うけれど、ウケてしまえば誘惑に負けてちょっとずつ踏み越えていくことになるのは想像に難くない。本来真面目だったはずの人でも、忍び寄ってきた魔の手に足首を掴まれて引きずり込まれることはよくある。
そんな嘘で満ちた世界なわけだけれど、その中を「どうせ」と言ってアイロニックに生きたくもない。何かに感嘆できたらその気分に浸りたい。こんなに感嘆したということを表現したい。
そもそも、創作とわかってさえいれば悩むこともないのだ。創作として素晴らしければ、(それが剽窃でない限り)騙されて幻滅ということにはならない。完全な創作物の中身が現実世界の基準で「嘘」になることはないのだ。創作物に対して存在する真偽は「自力で書いたかどうか」である。
それでも、「現実なのにこんなことがあったなんてすごい!」という評価基準を設けてしまうがために、世の体験談を勝手に信じて勝手に騙されたり、嘘を疑って感動する機会を手放したりすることになる。
ふと思ったけれど、どうして「現実なのにこんなことがあったなんてすごい」のだろう。いや、現実にはぶっちゃけありとあらゆるものがあるじゃんね。事実は小説よりも奇なり、という言葉はほとんど誰もが知っているだろう。事実だと証明されているものだけでも、気が遠くなるほど多種多様に非現実的な出来事が存在している。それなら今更何が起きても不思議ではないし、「現実なのに」ということにどれほどの意味があるのだろう。
もし、今目の前で語られた「いい話」がその人の嘘だとしても、似たようなことがこの世に存在しないとは限らない。というか、そこらへんの普通の人が思いつく程度のことはどこかにはあるような気がする。「その人の身に、本当に起こった」ということを前提として捉えるから変なことになるのであって、「そういうこともこの世界のどこかにはあるのかもね!」とだけ思えば何も不都合はない。
むしろ、「小説よりも奇なる事実」と同じくらいファンタジックなストーリーを思いつけたことの方が素敵なことかもしれない。その人が思いついたからには、きっとどこかに本当にある。そう思えば逆に楽しくなってくるし、誰のことも疑う必要はなくなる。(但し利害関係がない人に限る。)
どう頑張ったって、この世界で起きた全てのことを把握することはできないし、自分の身に起きたこと以外は「そうかもしれない」としか言いようがない。それ以上の確からしさを求めることに意味があるのか、もはや疑わしい。そこに意味が生じてしまうのは、ただ単に、自分が「現実なのに」ということを勝手に重要視しているからである。現実かどうかを基準に態度を変えるから、「騙された」ということになる。
そして、現実であることを重要視する大多数の人間からすると、嘘のエピソードがバズってそれを本当だと信じて感動する人がわらわら涌いてくるのは許しがたいことだろう。私自身その現象は気分が良くない。「本当だとしたら」という期待がなければバズらなかったであろうことを思うと、なんとなく「ズルい」と感じる。実際ズルいと言っていいことと思う。それで金が動くのなら尚更で、『一杯のかけそば』は許されるはずもない。
一方で、嘘だろうがなんだろうが、そのエピソードに何かしら心を動かしたのは紛れもない事実である。それだけはとりあえず確かなことで、嘘である余地がない。つまり、もし世界のどこかに本当にそのエピソード(に近い種類の何か)があればそれでいいわけだ。嘘つきが何かしらの得をするのは不愉快だし許すべきでもないと思うけれど、それとは別の問題として、「感動が無に帰した」という虚無感はそれで解決するのだ。
本当にあったら素敵だと思って感動したことが、それが嘘だったと判明したときに、「やっぱりそんなのないんじゃないか!」というちょっとした絶望感を勝手に抱くから怒りになる。嘘だとわかったときに証明されるのは、そのエピソードひとつが架空だったということだけで、「そういう美しいエピソードなんて現実には存在しない」などということではない。嘘のような本当の話というのはこの世にいくらでもある。嘘つきが思いつけるようなことは、おそらく本当に世の中に存在している。もう、それでいいんじゃないか。
(ただし、虚偽のエピソードの中でも「こんな酷い目に遭った」系の嘘の存在は要注意だ。その類の話は嘘だったときに困ったことになる人が必ずいる。「実際どこかにはあるんだろう」と安易に判断するのは偏見の元である。とはいえ無闇に疑うのも良くないし、要するに真偽が判明するまでアクションを起こさない方がいいだろうと思う。とりあえず、真実がどうであったとしても誰も不当に権利を侵害されないような言動を選択することを心掛けている。)
平然と嘘の関係を構築しているクラスメート、嘘の褒め言葉を許さない親、嘘の尊敬で言葉を貢ぐ人々、他にも嘘や嘘への嫌悪は多様な形で周りにあった。そういった存在によって、人の言葉の本当らしさを信じることは難しくなった。友情も感心も尊敬も、一枚皮を剥けばそこにあったのは嫌悪と嘲笑と自己顕示、という現実が確かにある。誰もがみんな嘘をついているかもしれないし、それなのに素直に信じて感動していたら笑われるかもしれない。そうやって笑われることは結構怖かったし、それゆえに「確かである」ということを強迫的に求めていたこともあった。この文章に感動した、と言ったときに、誰かの嘘によって台無しになるのが恐ろしかった。
ところが、その考えはだいぶ変化した。
人の言葉を再び信じられるようになる日はもう来ないのだろうし、来なくていい。この世に嘘が満ちているのは本当のことだ。そうわかっていて自ら無防備になる必要もないと思う。
人の言葉は信じられないが、しかし人間全部を疑う必要もない。急によく耳にする聞こえの良い結論みたいなものを持ち出してきて心苦しいのだが、一言で言うとそういうことだ。目の前の人間はもしかしたら嘘つきかもしれないが(なるべく本当だと信じたいし嘘だと判明するまでは本当だと思っておくことにしているが)、仮に目の前のその人が嘘をついたとしても、その人がつけるような嘘の内容は、どこかには本当にあると信じていい気がしているのだ。
もちろん、途中にも書き添えたけれど、利害関係がある場合は別である。嘘を信じたことによって自分が損をする羽目になるようなのは許してはいけない。自分の身を守ることが第一だ。被害の捏造も、人の権利の侵害に繋がるものであって、それを信じると誰かを傷つける可能性があるから判断には細心の注意を払う必要がある。
ここで言いたいのはそういうものではなくて、例えばSNSや匿名掲示板や投稿サイトなどで見かける綺麗なエピソードを信じるかどうかの話だ。嘘だったときに発生する諸々を考えると拡散に加担するのはやめておいたほうが賢明だと思うが、たまたま目に入ったものを自分の中でどう取り扱うかという判断はそんなに神経質にならなくていいのではないかと思うのだ。
嘘かもしれないし、嘘じゃないかもしれない。
盛ってるかもしれないし、盛ってなんかいないかもしれない。
いずれにせよ、こんな感じのことはどこかにはありそうな気がする。その可能性を思い描けただけで十分だ。
本当のことを盛らずに話している人からすると、そういう想定をされることがもう不本意かもしれないけれど、この世の中ではすっかり信じるのはあまりにも難しいのである。誰も信じてくれないのは私もきっと耐えられないが、一人二人信じてくれたらそれで御の字だと思っている。みんなに信じてもらう必要は恐らくないし、そもそも無理である。
嘘かもしれないものにいちいち感嘆したら馬鹿だと嗤われることもあるだろう。でも、その個別事例の真偽はどうであれ、どこかにあるかもしれない人の心の美しさに思いを馳せるのは自由だ。嘘みたいに美しい本当の話を、既に数えるのが難しいほど知っているし、「そんな綺麗な話はありえない」というペシミズムに今更浸る気はない。残念ながら近くには見当たらない可能性はあるが、どこかにはあると信じるのはおかしいことではない。
つまり、「君の言葉を100%信じることはしないが、君の言葉から得た自分の想像の実在性を信じている」という選択肢があってもいいだろうということだ。自分の中で現実と想像の境界ははっきりさせる必要があるが(重要)、嘘かもしれないものが自分の想像の解像度を上げてくれて、より本当らしいと感じることはありうる。
その選択を自分に許すことによって、感動を表現することに対して随分自由になれる気がしている。そしてその表現は、必然的に小説めいたものになっていくに違いない。「もしこうだったら」と「かもしれない」と「だったらいいな」のミルフィーユはほとんど創作活動であって、創作物として新たな価値を生んでいくであろう。誰かがつまらない自己顕示欲でついた嘘だって、自分の糧にしてしまえばこっちの勝ちだ。人の嘘をばらまくことに加担するのは好ましくないし可能な限り回避すべきだと思うが、自分の想像に転化してしまえばそれはもう自分にとっての真実になる。元ネタよりも自分のIFのほうが価値あるものになるかもしれない。もちろん、目にしたのが本当の話だったらもっといい。
もっともこういう考えは、普段小説を読んだり書いたりして人間の善性を思い描くことを人生の糧にしているからこそのことかもしれない。相容れない人もたくさんいるだろう。それはそれで構わないし、どうであれ人の人生の邪魔をしなければそれでいいと思う。
綺麗な話を信じたい気持ちがあって、それなのに裏切られてしょぼんとしたことのある人がちょっとでも元気になってくれたらいい、と願ってこの話を終えることにする。