Noratetsu Lab

動じないために。

投稿先: https://noratetsu.blogspot.com/2023/09/heading.html

書き手のための小見出し

 ここのところ、記事に小見出しを多くつけるようになった。

 

読者を導く見出し

 以前は小見出しはあまりつけようとしていなかったのだが、その理由はふたつある。

  • 流れを分断する気がしたから

  • 各塊ごとに何か重要なポイントがあるというメッセージ性が強すぎる気がしたから

 今もある程度はそうかなという感じがするが、メッセージ性の強さについては前ほど気にしなくなった。

 それが気になっていたのは、いかにもメッセージを込めています感満載のWeb記事を目にすることが多かったからではないかと思う。そういう記事の見出しには「読者を次のステップに導きます」という意図を強く感じる。別にそれが駄目というのでは全然なくて、読者としては話がわかりやすくて良いのだが、ともかくこの場合「読者を動かす」というタイプの装置であることは確かだ。

 

話の仕切りとしての見出し

 その感覚が変わったきっかけは、トンネルChannelなのだと思う。いろいろな人が投稿していて、見出しは使われたり使われなかったりだが、いずれにしてもそこに書かれるのは自分の気持ちの表現であって、読者を導こうという種類の文章ではない。そこで見出しが使われる時というのは、私が見る限り、単純に「話題の塊」をまとめるために使われている。粋な見出しをつけようという工夫がされていることはもちろんあるけれども、読者をぐいっと引っ張るようなものではない。

 そういう風に単に仕切りとして見出しを付けておくという書き方が特段珍しいわけではない。多分、そういうものを見て、かつ自分もそこに書くということが、私の感覚の変化に作用したのだと思う。特別意識していなくとも、他の人がやっていることをなんとなく真似する、染まっていくということがあって、他の人がトンネルChannelという場にもたらした雰囲気を自然と踏襲してしまうのである。

 そんな感じで、小見出しを使ってみるということのハードルはぐっと下がっていった。見出しという機能があるのだから使ってみたいという気持ちも背中を押した。

 

淡々とした新書の見出し

 普通に使うようになると、見出しのメッセージ性というのはそんなに気にならなくなった。当たり前といえば当たり前の話だが、メッセージを込めなければメッセージ性は放たれないのである。

 メッセージ性を込める込めないというのは具体的にどういうことかというと、結局の所、結論を見出しにするかどうかではないかと思う。見出しで結論を提示して読み手に「これはつまりどういうことだろう」と思わせておいて本文での説明で納得させる、という組み立てだと、最初の方に書いたように「読者を次のステップに導きます」感が強くなる。見出しによって手をぐいと引っ張り上げておいて、本文では背中からぐっと押し支えて理解させる、というイメージである。

 一方で、結論ではなくて話題の対象をぽんと置いただけの見出しにはメッセージ性は感じない。「○○について」の「について」を外したようなもので、その○○に対してどういう結論が出るかは見出しからはわからないからだ。

 

 こういうタイプの見出しをどこかで見ているような気がする、と思ってしばらく考えていたのだが、やがてふと思い至った。新書の見出しである。章立てが一段階か二段階かあって、その下に通し番号のない言葉だけの見出しが(しばしば大量に)あるのが普通だ。(文庫や単行本がそうでないわけではないが、新書は大体フォーマットが揃っていてイメージが典型的なのでここでは新書の見出しに着目する。)

 この新書の見出しというのは結構不思議な雰囲気を持っているように思う。ひとつの見出しの内容はだいたい2ページ分くらいだろうか。何かしら伝えたいことが含まれているわけだが、その伝えたいことを直接的に見出しにしていることは案外多くないような気がする。どこか淡々としていて、見出しだけ見ても話がわかるようでわからないので、意味をわかるには本文をちゃんと読まなくてはいけない。

 逆に、章立ての方にはメッセージ性を強く感じることが多い。こうであらねばならぬ、こう理解されねばならぬ、という著者の信念が章や節に込められている。その下位にある見出し群というのは、章を通したメッセージを支えるための「部分」を示したものであって、部分が部分として存在するための容れ物のような役割なのだろうと思う。それぞれ全部に強いメッセージ性があるわけではないがゆえに、もしも見出し無しに全て繋げて書かれてしまうと結局何が書いてあったのかわからなくなってしまう。なんとなく納得はしたけどなんだったっけ、という感じである。

 

書き手を助ける見出し

 新書の見出しのイメージに行き当たると、ブログに小見出しを使うことの抵抗感は一層和らいだ。比較的存在感の薄い仕切りとして働くイメージを持つようになったからである。

 最初に書いたように、小見出しを使わないでいた理由のひとつに「流れを分断する気がする」ということがあった。ブログは論文ではないし、文章全体で何かの雰囲気を伝えたいということがあって、そうなると見出しが挟まると「文章全体」という雰囲気がなくなるのではないかという心配があった。あたかもパーツに分解可能かのように見えてしまう気がしたからだ。

 しかし、新書の見出しをイメージしてみると、見出しごとに区切られた部分というのは章なり本全体なりの大きな流れの中に必然的にあるものであって、その部分だけを単体で取り出してどうこうする気には全然ならない。バキッと分断するような味の濃い見出しではなく薄味でそっと置かれた見出しなら、全体を邪魔することにはならないだろう。

 

 で、最初は「ずらずら長くなると読み手が大変だから」と思ってある種の親切心で文章を区切っていこうと考えたのだが、細かく見出しを入れるようになってみると、読み手がどうこう以前に自分が助かる感じがすることに気がついた。

 何が助かるかというと、話が変わっていく時の「つなぎ」に余計な力を使わなくてよくなるということだ。如何に「文章全体」で何かを伝えたいと言っても、結局はパーツが組み合わされることになる。読み手による分解がしにくい内容にしたとしても、文章の構成要素としては複数のパーツから成り立っていることには違いない。パーツとパーツの間には何らかの形で「つなぎ」が必要で、話の向きが変わることで読み手が戸惑わないように色々と工夫が必要になってしまう。「話が変わる」という情報自体を言葉によって表現しなければならない。表現方法は色々あるが、そうは言ってもレパートリーには限度がある。

 しかし見出しを挟むと、そこで話の向きが変わるのは明らかである。変化が何もないところに見出しは置かれない。次の話の対象を見出しにすれば話の向きが大体伝わるし、結論を見出しにすれば次のまとまりのゴールまで伝えられる。話の流れのコントロールは非常に簡単になる。

 逆にコントロールし過ぎるところに懸念を感じていたのが冒頭で書いた「見出しをつけようとしなかった理由」だが、コントロールには強弱をつけられるというのがトンネルChannelと新書の見出しの話を通して出した結論である。

 

50mのターンとしての見出し

 もうひとつ、読み手のみならず書き手自身にももたらすものがあるように感じるので言葉にしてみたいと思う。

 たとえば400m泳がないといけないとして、一周400mとか直線400mのコースを泳ぐことはまずない。25mや50mの長さのプールでターンを繰り返して400mに行き着く。

 水泳に於いてふつう泳者がターンの存在を歓迎するものかどうかは私にはわからないが、競泳を観戦する時は50mでのターンがリズムを生んでいるような感じがして、見ていて少しワクワクする。単に何m地点を通過ということではなく、くるっと回って壁を蹴るという、泳ぎの中では異質な行動が挟まることで、見ている方の気分が改まる感じがするのだ。私はあまり水泳に馴染みがないので体感を知らないけれども、泳ぐ方も心のスイッチになっているかもしれない。

 文章に於ける見出しも見た目の面で異質である。話は止まらず続いているのに、急に太字だったり大きかったりフォントの種類が違ったり句点がなかったりする文字列が現れるわけである。文字列であることに変わりはないので「読む」「書く」という行いの中に普通に組み込まれて情報処理されるが(ターンが泳ぎの一部であるように)、気分がそこで何かしら変化するのは必然に思える。

 気分が変わった方が良いか変わらない方が良いかはその時々だろうが、話のわかりやすさや文脈のコントロールの問題とはまた別の要素として、「読む」あるいは「書く」という行為の中にリズムをもたらすものとしての見出しの存在も重要だろうと思う。

 敢えて「読む」だけではなく「書く」も併せて書いたが、やはり書く側としてもこの異質な文字列が作るリズムに影響を受けるものと感じている。本の執筆と違ってブログでは必ず自分で自分が思うところに自分が考えた見出しを置くのだし、文章を作るまさにその過程でその影響を受けていく。

 私個人としては、その「見出しが書き手自身にもたらすリズム」の感触が面白いかもしれない、とつい最近思い始めたところである。

 

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