Noratetsu Lab

動じないために。

2021年2月

2021/02/28

【Anki】挫折しないために、学習開始の前にカード一覧を見る

最近Ankiを積極的に活用している。


Ankiとは、自分で用意した問いに答えると自動的に分散学習のスケジュールに沿ってタイミングよく復習させてくれるデジタル暗記カードアプリのことで、知っている人も多いと思うので説明はここでは省略する。

今は「Ankiってやっぱすげーな!」と思いながらカチカチクリックしたりぺたぺたタップしたりして楽しんでいるのだが、これまでに二度か三度挫折して、しばらくの間使わないでいた。
これほど便利なツールなのにどうして続けられないのか、と自分にイライラしていたこともあったが、挫折の理由は単純なことで、解決も単純なことだったので、メモとして書いておこうと思う。
普通に何も問題なくAnkiを使い続けている人にはあまり意味のない話だと思うので、そういう人は他の記事を読みに行くなどしてほしい。
予め書いておくと、Ankiというツールに落ち度は全くない。Ankiに何かを求めたいものではないし、これはツール論以前の、「勉強とは何か」というレベルの話である。

さて、「続けられない」とはどういうことか。それは何らかの理由によって「なんかやりたくないなあ」と感じること、と言い換えられるだろう。
ツールによっては「起動が遅い」とか「UIがダサい」とかいう、機能の本質とは離れたところで気分を害されることもありうる。しかしAnkiに関してはそういった問題はない(人によっては感じるかもしれないが、私には特に何の障害にもなっていない)
では何が問題かというと、それは単純な話で、カードを繰っても繰っても「パッとわからない」が続いたからである。いや、繰っても繰ってもというほどのことではなくて、5枚程度続くと既になんとなく気分が悪くなり、10枚20枚とかになるともはやうんざりした気持ちになる。
どうして「わからない」が続くのかといえば、それはまだ「覚えていない」からである。ではどうして「覚えていない」のか。それは「覚えるほど勉強していない」から。当たり前である。よって、「覚えるほど勉強していない」ものが立て続けに出てくると、あれもこれも「わからない」ということになる。

ところで、アナログの単語カードとAnkiの大きな違いは、分散学習のシステムのために現状を記録されるという点にある。よって、解答がわからなければ「わからない」という記録が残されることになる。別に誰に見られるでもないのだからそこで屈辱を感じる必要などひとつもないのだが、なんだか、テストされているのと同じでなんとなーく嫌な感じがしてくる。
(繰り返すけれども、これはAnkiに挫折しがちな人に向けて書いているものなので、ストレスなど感じたことはないという人はスルーしてほしい。)
システム上の区別でしか無いのだから気にしない、というふうに意識を変えるのも現実的なひとつの手である。Ankiを普通に活用するためには、そうなったほうが早いことは確実だ。
あるいは新規カードの数を減らして、「パッとわからない」の量を予めコントロールするという方法もあるだろう。ただ、それだと当然ながら自分が学習しているカードの総量がなかなか増えていかない。

ふと思ったのは、そもそもの話、「覚えるほど勉強していない」ものをいきなりテスト形式で自分に問うのがまずいのではないか、ということだ。
(こんなことにもすぐ思い至らないからいつまで経ってもポンコツ人間のままなのだが、それはさておき。)
自分で入力したなら、一応一度は見ていてその知識が覚える必要があるものだと自分で感じたからAnkiの中に収められているはずだが、その時にしっかり「よし、覚えるぞ」と意識できていないこともある。Excelを使って大量の問題を機械的に入力していったりすると尚の事である。そうなるとむしろ、Ankiに取り込んだ時点で、一仕事終えた安心からスルッと忘却してしまうことさえある。
その状態でAnkiを起動して学習開始ボタンを押すと、どうしたことでしょう、今さっき打ち込んだ情報なのに全くわからない! という悲劇に見舞われることになる。そんなことにはならないよ、という人はそれでいいんです。そのまま健康に生きてほしい。

で、学習開始ボタンを押すと「わからない」に直面し、学習を進めるには「わからない」を記録されてしまう。なんか嫌だ。面倒くさい。起動したくない。
このダメ人間ルートから抜け出すにはどうしたらいいか? それは至って簡単なことで、Ankiの予習をすればいいのである。
つまり、カードブラウザを開き、デスクトップ版では「期日」、スマホ版では「学習予定日時順」に並べ、これから出てくる問題を一通り先に見る。そして今からこれらを覚えるのだぞと意識をしてから、学習開始ボタンを押す。
そうすると、仮にそれでも覚えられていないとしても、「えっと……なんだろこれ……」というわからなさから、「あっ、あーっ、なんだっけ!」という程度のわからなさに進化する。テンションが全く違うのである。このテンションだと、「もう一度」を押すことになっても二度目には「あーわかるわかるこれでしょ」という気持ちで「普通」を押すことができるのだ。
直前に見たのだから「見たことある」感があるのは当たり前なのだが、勉強というのは結局のところ楽しくやれるかが鍵で、何も修行僧のように一切の甘えを許さずに取り組む必要もない。例えば高校数学の勉強も、解き方がわからない問題は自力で悪戦苦闘していないでさっさと解答例を見て記憶してしまうのが良いと言われているし、とにかく覚えられるようにやればいいのである。
ということで、延々と「もう一度」が続いて苦しいときはカードを一覧して予習してみよう、という話でした。
 

2021/02/27

【Scrapbox】タグは「タグです!」とわかるようにするといいかも

前にScrapboxについて書いた際、ページ(またはリンク)にはタグ・キーワード・記事の三種類があるということを語りました。

それから十ヶ月ほど経ちましたが、やはり自分の中ではそのように分けられるという実感が続いています。(ただし、言葉の雰囲気を統一するためにこの記事では「記事」を「ノート」に言い換えることにします。)


咀嚼し直すと、Scrapboxの管理というのはつまり、情報を持つ「ノート」を、「タグ」によって適宜カテゴライズし、意味内容の共通項である「キーワード」を繋ぎ合わせることで、自分が集めた情報を有機的に整理していくことである、と捉えて私はScrapboxを使っています。そしてScrapboxはそれらにシステム上の区別がない、ということが他のツールとの大きな違いになっています。

「タグ」と「キーワード」は、ネットワークの「線」の部分であると言えるかも知れません。それそのものは実体をあまり持たず(持つこともあり得る)、情報を繋いだり集めたりすることがそれらの仕事です。
例えばScrapboxに関するページがいくつかあったとして、それらが直接的にリンクされるとは限りません。他のツールとの使い分けの話とUserCSSに使えるコードの話とでは繋がりは強くありません。しかしどちらのページにも「大雑把に言ってScrapboxに関することである」というくらいの繋がりを持たせたいということはあるでしょう。そういうときは、多くは「Scrapbox」というワードで繋がりが作られることになると思います。(人によっては、内容にこのくらいの距離があったらもうリンクさせることはないということも勿論あると思います。ひとつの例として捉えてください。)
Scrapboxは検索がしやすいので、わざわざリンクをさせなくとも「Scrapbox」で検索すればいい、という考えもあるかもしれません。ただ、日誌をScrapbox内に置いている場合はそれがうまく働かない可能性があります。つまり、「今日はScrapboxを整理した。」みたいな記述が引っかかるかもしれないし、ブックマークとして貼っておいたURLの中にscrapboxが含まれていたらそれも引っかかります。ノイズが多いのです。種種雑多な情報を集めているプロジェクトでは、能動的にカテゴライズしたほうが情報にアクセスしやすくなるでしょう。

ということで、タグとしてのワードを用いて「ノート」となるページをカテゴライズしてスッキリサッパリ!めでたしめでたし!――とは、残念ながらなりませんでした。もう少し話が続きます。
(ここからは、個々人の頭の中で何が起きるかによって感じ方が異なると思うので共感を覚えない方もいるかと思います。)
例えば、

Scrapboxで日報を作る  
  
日報ページを作り、月ごとのページに一ヶ月分のリンクを貼る?  
関連ページがアルバムになるか  
[読書メモ]などにも日付タグを貼れば一覧できる  
#Scrapbox  

というようなライフハック的なメモページと、

noteのネタを管理する方法  
  
ネタには「結果的にこうなってほしい」と「文章として成立させる材料」とが混在する  
自分の問題意識の管理と、具体的に文にするための素材の管理  
[Scrapbox]は上下のない横断的なリンクでの管理=問題意識の可視化に適している  
[Dynalist]は上から下への一方向的な管理=具体的な文章化に適している  

というような思索のページとが、同じように出現してくることが果たして良いことだろうか? という問題です。
何がこの問題を引き起こしているのかというと、ページを繋ぐ概念として「タグ」と「キーワード」の二種類があるという点です。カテゴライズするものと、意味内容の関連を示すものとは、役目は似ていますが性質が違っています。
「Scrapbox」というワードを例に用いると、「Scrapboxに関することである」のニュアンス(=タグ)と「ズバリScrapboxというツールの存在に言及するものである」のニュアンス(=キーワード)とではかなりの距離を感じます。「Scrapbox」に向かう矢印の種類と強さが全く違う、と言ったらよいでしょうか。この違いによって、「Scrapbox」という繋がりにノイズが生じています。

このとき、既に自分の中で線引きがはっきりしているような領域ならば、タグの方を「Scrapboxの活用法」などというふうにより具体的なフレーズにして分けることが可能でしょう。しかしながら、切り分けは必ずしも明確ではなく、微妙にフレーズのニュアンスから外れるものに対しては別のフレーズを当てはめたくなり、無闇にタグが増える可能性があります。
もしも分けたい理由が「タグ=カテゴライズ」と「キーワード=共通項」との違いに起因するものであるならば、それはシンプルに「これはタグ」「これはキーワード」とたった二つに分ければ済むのではないか、と考えました。
具体的にどうするか。私は「頭に記号をつける」ということで解決しました。何の記号をつければ気分が良いかはそれぞれの好みによると思うので、こうすべしと言えるものではありません。何かの括弧で挟むという手もあるでしょう。ただ、私個人の感覚としては、「タグである」ということを殊更目立たせたいわけではないので、以下の形にしています。

[#Scrapbox]  

つまり、「#Scrapbox」という名前のリンクです。これをハッシュタグとして貼るならば、「##Scrapbox」と打つことになります。
ハッシュタグと重複する記号を敢えて採用したのは、意味を持たせる記号を増やしたくないこと、「#」がタグの意味を持つというイメージに既に馴染んでいること、といった理由からです。

こうすることによって、「Scrapboxの○○」のように新たな意味付けを加えてニュアンスのズレを引き起こすことなく、「カテゴライズ」としての役割と「共通項」としての役割とを分けることができました。
「これは果たしてScrapboxの思想に沿っているやり方なのか?」という疑問は生じるかもしれません。ただ個人的には、むしろScrapboxの思想に沿うために(=キーワードによるリンクを有効に働かせるために)、「Scrapbox的ではないが、しかし自分には必要なカテゴライズ」を「Scrapbox的なキーワードリンク」から切り分けることが必要だったので、これによってScrapboxは随分と風通しが良い環境になりました。

結論を言えば「頭に#をつけるといいぞ」というだけの話ではあるのですが、なぜそれに意味があるのかを示すために回り道をしてしまいました。
今回は以上です。

2021/02/25

【Obsidian】Zettelkastenのテンプレートはこう使っています

ObsidianにはZettelkasten(ツェッテルカステン)というカード式メモ術を実践するための機能がついています。


設定>コアプラグイン>Zettelkastenプレフィクサーをonにすることで有効になります。onにしても他の設定に影響が及ぶわけではないので(それ以降全部Zettelkastenに則らなければならないみたいなことにはならない)、気軽に有効化して大丈夫です。

Zettelkastenとは何か、ということについては、軽率に一言で言い表してよいものではないのですが、目立つ特徴としては「ノートではなくカードを用いる」「カードにはそれぞれ固有のIDを持たせる」「カードをリンクさせることで知識やアイデアを膨らませる」といったことがあります。梅棹忠夫氏の著書『知的生産の技術』を読んだ方は京大式カード術のことを思い出していただければ足がかりになるかと思います。
理解の入り口として是非次の記事をご参照ください。

Obsidianは、自動的にIDを付与することも、ファイル同士にリンクを貼ることも極めて簡便にできるので、Zettelkastenの思想と非常に相性が良いわけですね。これを紙のカードを用いてアナログで管理するのは、如何にこの手法が合理的で優れているにせよ、今の時代からすれば途方もない苦労があったのではないかと気が遠くなる思いになります。私たちは幸いにもデジタルでちゃちゃっとできるので、ありがたく恩恵に与ることにしましょう。

さて、Zettelkastenを取り込んでメモを作るにしても、それぞれが自分なりに模索していくものであって「絶対こうしなければならない」と強く言えるものはないと思うのですが、ひとつの例として私がどうしているかを書いておきたいと思います。(なぜなら、私が人の「私は具体的にこうしています!」を見るのが好きだからです。)
Zettelkastenプレフィクサーをonにすると、ファイルを作るたびに予め自動的に書き込まれるテンプレートを用意することができるのですが、私は以下のように設定しています。

---  
ID: {{date:YYYYMMDDHHmm}}  
date: {{date:YYYY-MM-DD HH:mm}}  
aliases: []  
tags: [{{date:YYYY/MM/DD}},]  
---  
#  

「---」で挟まれた部分はメタデータを書く領域で、「フロントマター」と呼ばれます。
なおファイルタイトル(Zettel ID)のデフォルトは「YYYYMMDD_HHmm」にしていますが、内容が充実してタイトルを付けられる状態になったら内容に沿って書き換えます。そのため、ユニークIDとして念の為フロントマターにID欄を設けています。(紙と違ってクリックひとつで飛べるリンクを貼れるObsidianの仕様上、今の所ユニークIDを必要としたことはありませんが、重複がないIDが備わっていることはZettelkastenに則ったメモを作る上で安心感があります。)
IDとdateは実質的に同じ情報が書き込まれますが、昔のメモなどをObsidianに転記した際には、dateをその当時の日付に書き換えて「いつのメモか」ということをファイルの作成日時と関係なくメタデータとして記録できるようにしています。むしろそのためにdate欄を設けています。一方IDは「重複しない」ということのためにあるので、過去のメモの転記でも現在日時で自動的に書き込まれたIDそのままにしています。
そしてタグにも年月日を記録します。半角スラッシュで区切っているので、自動的にネストされたタグになります。つまり、「2021」でも「2021/02」でも「2021/02/25」でも抽出できる形になっています。
更にこの年月日タグは、このノートを後から編集した時にその時点の年月日を付け加えて増やしていきます。翌日や翌週程度のごく近い期間の場合はいちいち加えることはしませんが、何週間何ヶ月何年と経って再び着目したという場合には、何度も取り組んでいるというログを残すために記録していきます。長期的に継続している場合には月単位のタグを加えます。
過去のメモの転記の場合は、その当時の年月日を加えます。このとき、自動的に書き込まれた現在の年月日を残すか消すかは、そのメモに今手を加えるか否かで決めています。
aliasesはファイルに別名を付けられるというObsidianの機能で、例えば「内閣総理大臣」というファイルに、

---  
aliases: [総理大臣,総理,首相,Prime minister]  
---  

というふうに書き込むと、「総理大臣」「総理」「首相」「Prime minister」も「内閣総理大臣」というファイルに関連付けられます。ダブルブラケットやクイックスイッチャー(Ctrl/Cmd+O)でファイルを呼び出すときにもこの別名で探してリンクを貼ることができますし、他のファイルでバラバラの表記で言及されているものも全部バックリンクタブに表示されます。便利ですね。使う頻度そのものはそれほど多くありませんが、付けたいときに付けられるように予め欄を作っています。
最後の行に「#」がついていますが、これは内容についてのタグをすぐ書き込めるように打ってあるものです。フロントマターのtagsに書いたタグはファイル全体にタグ付けをするものですが、タグ検索をしたときにはそのタグの行は検索結果に表示されません。本文中にハッシュタグを使って付与したタグについては検索結果にその行全体が表示されます。そのことが使用感に差異を生じるので使い分けています。このことについては改めて記事を書くかもしれません。

テンプレートについては以上です。あとは自由に書いて、自由に育てていくことになります。
なお、集中的に考えを深めたいときは敢えてタイトルを付け直さずにZettel IDで設定したIDそのままにしておき、「このファイルはまだ考える必要がありますよ」ということを自分に知らせるようにしています。「これ何だっけ」という引っ掛かりをわざと作って自分にファイルを開かせる形です。そんなことをしなくても普通にアクティブに考えていられる場合はそれが望ましいと思いますが、私は日本語として読めるものはつい「わかった気になる」「済んだもののような気がする」ということになりがちなので、「これ何だっけ」の力に頼っています。🖋

2021/02/24

Obsidianで人生が変わる(予定)

今年に入ってからObsidianというツールを使い始め、これまでにない手応えを感じている。


Obsidianというワードを初めて見た方にざっくり説明すると、カテゴリとしては「メモツール」または「ノートツール」であり、私なりに言い表すならば「markdownファイルを管理し、ページ間をリンクで繋げていくことで私たちの脳味噌と近い形の情報管理ができる(かもしれない)ツール」である。
具体的にどんな機能があるかということは既に詳細に説明してくれている方がいらっしゃるので、リンクを最後に貼っておきます。Obsidianに触れたことがない方はそちらを先にお読みいただくと良いと思います。

数々のメモ・ノートツールとの格闘

さて、今まで様々なツールを使ってきたのだが、どれも使い始めは「最強か!!!」と思うものの、だいたい数ヶ月経つと、後から気がついた不便に目をつぶったり無闇に自分ルールを構築したりという無理をし始め、結局「使うために使う」という状態に陥ってきた。
例えばEvernoteには万単位のノートが蓄積されているし、蓄積されてしまったから、しばらくの間「頑張って」使っていた。それもやがて、私の環境ではアプリケーションの動作の重さや同期の不具合が気になってフェードアウトするに至った。(最近のアップデートで「ホーム画面」の機能が公開されるなど色々と使い勝手が変わってきているし、重ささえ解決されれば魅力的なサービスであることに違いはないのだが。)
例えばDynalistは何度も何度も使ってはやめて使ってはやめてを繰り返しているのだが、アウトライナーという形態の「なんか良さそう」な香りに、誘蛾灯に惹きつけられる蛾のようにふらふらと近づいては弾かれて地面に落ちている。Dynalistが私に攻撃してくるわけはないのだが、どうしても馴染まずに終わってしまうのだ。私は箇条書きが苦手だった。Roam Researchも同じ理由で断念した。これらのツールが使い手によってはこの上なく便利であることを知っているだけに、「うまく使えない」というストレスは自己嫌悪にも繋がっている。
あとはXTMemoという少し古いフリーウェアをこの間まで使っていて、これはメモソフトとしてはかなり画期的なものだったのだが、メモとメモをリンクする機能がないのは今となってはややつらい。(メソッドを引き継いで現在開発中のソフトとしてVaNTというものがあるので、メモ管理に興味がある人はこちらもチェックしてみてほしい。期待大のソフトである。)
そして、今も使っているもののObsidianに役割の多くを引き渡したのがScrapboxである。Scrapboxの思想は私にとっては「それ!!!それがほしかったの!!!」と膝をばしばし叩くほど我が意を得たりなもので、その感覚は今でも変わっていないのでScrapboxをやめることは恐らくないと思うのだが、己の思索を深めるという点においてはObsidianと比べると一歩及ばずと感じるところがいくつかある。例えば複数ページを同時に開きづらいとか、明示的にリンクを貼っていない記述からのバックリンク機能がないとか、箇条書きが畳めないとか、その他細かい諸々。
とはいえ、「自分が今まさに考えている」というもの以外の情報の管理ではScrapboxに軍配が上がるところが多々あり、むしろObsidianに向いている類のことをScrapboxから切り離すことでScrapboxの活用は更に洗練されていく気がしている。

じゃあ何が劇的なのか

ここからObsidianの話を少ししていきたいが、Obsidianでできることはたくさんあると思われるし、機能も使い方も全く網羅できているわけではないので、私の個人的な使用感しか語れないことを予めご承知ください。

①情報を置き、探すツールとして

まず、情報を置く、そして探すことができるツールとしてObsidianがどう魅力的なのか。
ひとつは、情報の「置き場所」が多様であること。
まず実体としては個々のmarkdownファイル(拡張子".md"のテキストファイル)がフォルダの中に配置され、サブフォルダの階層も自由な深さで作ることができる。そしてファイル全体または各行にタグをつけることができ、タグはGmailのようにネストできる(階層化できる)。更に、本文中に他のページへのリンクを簡単に貼ることができ、その行き来が非常にスムーズなので、リンク集のページを作ることも自然にできる。
つまり、「このページはここにある、ここから辿れる」という手がかりが、検索以外に三通りは存在しているのである。それは何を意味するかと言うと、個々のページを配置できる文脈が多いということである。語り出すと長くなりそうなので、ここでは詳しく書かないでおく。
次に、バックリンクの存在である。これはRoam Researchと共通する機能で、情報管理においてはひとつの革命ではないかと思っている。
バックリンクとは「他のページからこのページに貼られたリンク」であり、これを呼び出すのはScrapboxもカバーしているが、Obsidian(とRoam Research)がすごいのは「明示的にリンクを貼っていない記述」を検索せずとも並べてくれることである。例えば「Obsidian」というページを作ってあったとして、例えば日記用のページで「Obsidianはバックリンクが便利だなあ」と書いたとき、わざわざダブルブラケットで囲んでリンクにしなくとも、「Obsidian」ページを開けば日記内のこの記述がバックリンクタブに表示されるのである。このことは、ひとつのページに複数のタイトルを設定できるalias機能と組み合わせたときに一層力を発揮する。
更に画期的なのは埋め込み表示の機能である。
別のページの記述を、ページ全体、見出しごと、行ごとに埋め込み表示することができる(記法に従ってリンクを貼ると、プレビュー画面でリンク先の内容を表示できる)。この機能によって、情報の大本になる一箇所を編集すればそれを参照している全ての記述が更新されるので、複数箇所の記述を手動で訂正するといったことをする必要が完全になくなる。また、日記を日ごとのページで書いていたとして、週単位や月単位でまとめて見たい、別の年の同じ日の記述を並べて見たい、日記のうちアイデアのメモだけを一覧したい、といったことが極めて自由に実現できる。
そして、画面両脇にサイドバーがあるということ。
このサイドバーがまた素晴らしく、ファイルエクスプローラ、タグリスト、検索結果、アウトライン、バックリンク、お気に入りなどをタブで設置でき、情報を思い出したときにその都度違っている「この切り口でノートを探したい」という需要に速やかに応えてくれる。フォルダから探す、タグで探す、検索するetcという、その時の自分の頭の中にある多様な種類の手がかりに1回2回のクリックでアクセスできるし、それらが常に目に見える形で表示されているということ自体が、私に「こういう手がかりがありますよ」と思い出させてくれることにもなる。

②情報を見るツールとして

そうやって情報を置いたり探したりすることが多分「情報管理」と言われる行為なのだが、私たちはコンピュータではないので、情報を文字列とか二進法とかで認識するわけではない。つまり、情報を認識するということは有機的なものなのである。「利便性」とか「手間が少ない」とかいうことだけでは、情報を捏ね続けてはいられない。(少なくとも私はそういうたちである。)
Obsidianが情報を扱うにあたって魅力的である理由のひとつ(とても大きなひとつ)が、自由にレイアウトできるということである。
いくつものページを何列何段で開いてもいいし、内容に合わせて列ごとに幅を変えることもできる。タグリストは左のサイドバーでもいいし右のサイドバーでもいい。サイドバーを上下二段にもできるし、邪魔なら閉じておいてもいい。なんとなくファイルエクスプローラは上に置きたいし検索結果は下に置きたいと思えばそうできるし、いつもアクセスするファイルをサイドバーに設置することもできる。自分の感覚に合わせて置き場所とそのサイズを決めることができる。
絵を描いたりデザインしたりする人は、ツール内で自分なりのワークスペースを自由に構築できるのは当たり前のことで、それがいかに重要かを実感していると思うのだが、情報整理に関してはそれらのツールほど自由にレイアウトできるものは私の見る限りではあまりなかった。(Evernoteはその点で大きな一歩を踏み出したところだろう。)
そしてもうひとつ大きな要素が、CSSを設定できるということだ。
有志の人々がテーマを数多く提供してくれているのでその中から好みのものを選ぶことができるし、自分でテーマを作ることもできる。CSSの知識がなくとも(私はほとんど知識がないに等しい)、Ctrl/Cmd+Shift+Iでデベロッパーツールというものを呼び出せば、見た目を変えたい箇所の要素を探して手探りでCSSを書いて適用することもできる。
実のところScrapboxもUserCSSという機能があるから使い続けている――と言っても過言ではないくらい、見た目は重要な問題である。人それぞれ、自分にしっくりくるデザインは違って当然なのだ。たった1pxの差が、愛着を持てるか否かの分水嶺になり得ると私は思っている。
内容の編集・閲覧に関して言えば、Obsidianは所謂アウトライナーではないながら、「畳む」ことができるというのも大事なポイントだ。見出しごとにも畳めるし、箇条書きにすれば子要素を畳めるし、箇条書きにしなくともインデントすれば子階層を畳むことができる。これはオプション>エディタの中に設定項目がある。
畳むことは全体像を把握することを助けてくれるし、そしてそれ以上に、「今見なくていいものを見えなくする」というのは思考のベクトルをコントロールする上で恐らくとても重要なことである。

Obsidianには他にも数多の要素があり、人それぞれ価値を見出すポイントも違っているだろう。
私にとっては、上記のことを同時に成り立たせてくれるObsidianが私の人生に大革命をもたらす可能性を感じているし、既に芽は出つつある。そのひとつが、今このnoteを書いているということそのものである。日頃から書く書く詐欺をやらかしがちなので宣言はしたくないが、Obsidianについて書きたいことは様々あるし、それを自己完結するだけでなく自分と似た人のために書き表したいなという思いは強まっている。情報というのはきっと捏ねれば見せたくなるもので、Obsidianは捏ねるハードルを下げてくれるのである。あるいは、捏ねることは楽しいものだと囁いてくれるのだ。

これを読めばObsidianがわかる!リンク集

最後に、私を助けてくれた先人の皆様の記事を紹介いたします。

皆様のおかげでObsidianを人生に組み込むことができました。素晴らしい記事をありがとうございます。

管理人

アイコン画像

のらてつ Noratetsu

キーワード

このブログを検索

検索

ブログ アーカイブ

2025
2024
2023
2022
2021