自分がアウトライナーをうまく使えなかった理由について考察した記事群。
ド下手問題シリーズ
全6回。自分はアウトライナーを使うのが下手だということについて書いたもの。
各記事とも、記事を書き始めた時点では実際に下手で、書き終わる時点でいくらか克服することを目指して書いている(実際に克服している)。
なお「のらてつ」として居場所を得たきっかけの連載である。
動じないために。
自分がアウトライナーをうまく使えなかった理由について考察した記事群。
ド下手問題シリーズ
全6回。自分はアウトライナーを使うのが下手だということについて書いたもの。
各記事とも、記事を書き始めた時点では実際に下手で、書き終わる時点でいくらか克服することを目指して書いている(実際に克服している)。
なお「のらてつ」として居場所を得たきっかけの連載である。
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ここまで五回にわたり「私はアウトライナーの使い方が下手くそだった」という話をしてきた。アウトライナーについて話したいことはまだ尽きないが、「アウトライナーの使い方ド下手問題」というテーマとしてはここでひとつの区切りとしたいと思う。
今回は各記事の簡単な振り返りと、今私がアウトライナーに対して持っている認識の整理をしていきたい。
今回が一応この連載の最後の内容となります。
前回までは、いずれも「アウトライナーというツールにどういうスタンスで向き合うべきか」という観点でのド下手要因について考えるものだった(と今気がついた)。
今回は、アウトライナーをそれなりに活用できている状態で、それでも発生するストレスについてひとつ考えていきたいと思う。
それは何かといえば、「最終形態が"未完成"のまま問題」である。
アウトライナーでできることはあまりにも多いのだが、とりあえず「文章を書くために構想を練る」という用途を想定することにする。
そしてアウトライナーに自分のアイデアを書き出して並べ替えて階層を作って、よし文章が書けた!万々歳!――というところに至ったとして、その時アウトライナーに残っているものはどういう形をしているだろうか。
文章を書いていると、自分でもよくわからないままにエンジンがグオオオッとピストン運動して文章が文章を生むという状態になることがある。それも割とよくある。文章を書くという行為をすればどこかしらには必ずその瞬間が訪れる気すらする。
そうなったとき、その過程を逐一「構想メモ」であるアウトライナーに書き込むだろうか? 几帳面な人は書き込んでいくかもしれないが、私は全く書き込まない。よってアウトラインを大幅に無視して且つその結果がアウトラインに反映されないままになる事態が度々発生する。
それは別に悪いこととは思っていないし、アウトラインのおかげでそういう脱線をどれだけしても本筋に戻ってくることが可能になる、ということにこそ執筆に於けるアウトラインの価値を感じている。(これは本の執筆というより自分にほぼ完全な裁量があるブログなどを想定している。)
で、悪いことではないのだが、事実として「自分が書き上げたものと、そのために使っていたアウトラインの姿」が大きくかけ離れていることがある。脱線したせいで予定通りに書かずに没になった部分もあるだろう。それを眺めると、私の中に浮かぶのは「残骸」のイメージである。
さてこの「残骸」をどうするべきか?
今の私なら「そのまま残骸置き場に大事に保存する」と答えるのだが("残骸"を"大事に保存"というミスマッチな組み合わせは意図したものである)、前までの私はなかなかそう思えなかった。
途中無視して書いた過程も改めてきちんと残しておきたくなったし、最終的に出来上がった形がアウトラインからもわかるように整えたくなった。没になったメモや構造が変わってしまった箇所もそこに残されているにも関わらず。もちろん、それらも記録としてそこにあってほしい。
それらを整理することは可能だろうか? そしてそれは必要なことだろうか?
ここで思ったのは、アウトラインというものは「書き終える前」と「書き終えた後」の二段構えであろう、ということである。
書き終える前のアウトラインは構想やプロットの役割のものであり、書き終えた後のアウトラインは目次や概要を示すものであると言える。ここでは前者を「事前アウトライン」、後者を「事後アウトライン」と呼ぶことにする。(適切な用語が既に存在しているかもしれないが、ひとまずこの名称で記す。)
自分で文章を書いた際に私が混乱したのは、この二種類のアウトラインを最終的にひとつのファイルに作り上げようとしたからである。文章を書き終えた後に、事前アウトラインに手を加えて事後アウトラインを拵え、事前アウトラインに残っていた残骸的要素を事後アウトラインのどこかにぶら下げていくという作業をしようとしていたのだ。必然的に、その作業には相当な認知資源(=脳のリソース)を要することになる。もうアウトラインの目的であったアウトプットは済んでいるのに、である。
なんて無駄な作業だろうか。
事後アウトラインを作るのが無駄ということではない。それはむしろ必要なことで、著者がその作成を迫られる書籍はやはり全体像が整理されていると感じるし、自分が書きっぱなしにしたものは自分でも何の話だか忘れてしまってごちゃごちゃしてしまう。後のことを考えれば概要の整理は必須である。
ただし、それは残骸と混ぜなければの話である。残骸が混ざったアウトラインはその瞬間に「整理された感」から大きく遠ざかる感触がある。きちんと事後アウトラインは純粋な事後アウトラインとして作り直す必要があるのだ。残骸を混ぜ込むことは、認知資源を大量消費するくせに、その後の活用可能性を極めて乏しいものにする。
少し話を戻すが、事後アウトラインとはなんであるかをもう一歩踏み込むと、「読み手に全体像を説明するもの」と言える。
事後アウトラインを目次として公開するならば読み手は「私の文章を読んでくれる人」であるし、自分のためのまとめとして作るならば読み手は「未来の私」である。いずれにしても、今の私とは異なる存在に向けて「これはこういうものですよ」と教えるためのものである。読み手の存在を想定して、見てわかりやすいようにまとめていくことになる。今の自分だけが解ればいい事前アウトラインとは全く性質が違うものである。
事前アウトラインと事後アウトラインでは解像度も異なっている。
事前アウトラインは、最も解像度が高い状態であるべき「人に読ませる文章」を作り上げるためのものであるから、アウトラインにも解像度が高い項目がたくさん存在することになる。基本的に解像度に激しくムラがある状態で形成される。
一方事後アウトラインは、詳しいことは本体となる「文章」を読んでもらえばよいのであって、そこに大体どんなことが書いてあるのかが判ればいい。網羅的である必要があるが、解像度を上げる必要はあまりない。そして淡々と全体が均質になるように作られたほうがいいだろう。
そう考えると、明らかにこの二つの同居は非現実的である。どうしてそれらをまとめてしまおうと思ったのかと自分に首を傾げたくなるが、その考えには前回(アウトライナーの使い方ド下手問題④~オールインワンという幻想~)語ったオールインワン幻想が関係していることは間違いない。一箇所に、とにかく一箇所に、という強迫観念は情報を適切に分割するという判断を難しくさせる。
ところで、アウトラインというものは誰かが書いた文章を理解する上でも大いに役立つ。自分で文章を書いて発表する習慣がない人にとっては、むしろそちらの用途の方がメジャーかもしれない。
その形式の代表としてひとまず「読書メモ」を想定するが、私の中では読書メモは「広義の事後アウトライン」と呼べそうである。その骨格として本の目次(=著者が作った事後アウトライン)をそのまま使えるだろうし、そうでなくとも既に作られた文章についてあらましを整理することは、対象となる文章にとって事後的なものである。
読書メモを書いた後に再びその本を読み返すことを前提とするかどうかは、人それぞれ読んだ本それぞれかとは思うが、一応「読みたくなったら読み返せばいい」ものである。つまり、解像度が高い状態のものを全てメモしなくとも、原典にあたれば再び高解像度の文章に触れることができる。よって、読書メモは事前アウトラインのようには解像度を高くする試みが必須にはならない。自分に必要な部分だけやれば良い。
ただし読書メモはあくまで"広義の"事後アウトラインである。読んでいて着想を得たものを書き込むこともあるだろうし、本の引用からにょきにょきと枝分かれして自分の世界がそこに展開していくこともあるだろう。やがてそれを元にして何かを考え抜いたり文章を執筆したりする気になったら、そこが事前アウトラインの芽になる。
事前アウトラインと事後アウトラインをもうひとつ別のイメージで描写するならば、事前アウトラインは「未存在の地図」、事後アウトラインは「存在の地図」と言ってもいい。
「未存在」は今造語したものだが、要は「これから形作られる(かもしれない)世界」という意味である。まだ形作られていないのに地図があるとはどういうことかと言えば、つまり「言語化しきれていない、自分の中だけにある抽象世界」を、月の裏を念写したもののようにぼんやりと、時にはっきりと、断片を繋ぎ合わせるようにして描いていくということである。その世界のイメージは私の頭の中にしかなく、私が捕まえ損ねて、あるいは捕まえるのを億劫がって忘却してしまえば、再び私の元に姿を現すことなく永遠に失われかねない。この世界はどんなものなのですかと誰に尋ねることもできないし、多少のヒントを得ることはできるにしても、基本的に己だけを頼りに世界の像を描き出すほかない。
一方「存在の地図」というのは、自分の脳の外のどこかに実体があるものについての地図ということである。先程読書メモの話を出したのはここに繋げるためであるが、読書メモにしても自分の文章の目次にしても調べ物の結果のメモも、「既に存在するもの」の情報を整理するものだ。
それは物事を理解するために脳にとって必要な手続きであり、効果的に構造化することはもちろん十分に大変なことだが、確かめに行く先があるという意味で、「自分が描写していかなければこの世に生まれないし刻一刻と失われる」というなかなかに切羽詰まった状態の処理をしなければならない「未存在の地図」の作成よりは気楽である。「未存在の地図」を描くことは「存在の地図」を描くことより楽しい場合が多いかもしれないが、それは「楽」であることを意味するわけではない。
「未存在の地図」は、そこで思い描いた風景を自分で文章化して作り出すことで役目を終える。次に必要なのは自分が文章によって生み出した世界を描いた「存在の地図」である。直前まで使っていた「未存在の地図」は描写が不正確で不完全のまま残ることになるが、それはそれで良いのである。
冒頭の話に戻る。アウトライナーを使ってアウトラインを書けているし、アウトラインによって成したいことも成せているのに、何故かごちゃごちゃとして不快だ、という状態を私は感じていた。(これは主に、以前noteの更新を試みていた時の感触である。)
それは「役目は終えたが、美しく完成していない」アウトラインが後に残されていたからである。そのアウトラインをどうすべきかがわかっていなかったから、私はそこに手を加えてなんとかきちっとしようとしていた。何しろ、私は①(アウトライナーの使い方ド下手問題①~「きちんとしている感」との格闘~)で書いたように、アウトライナーというものは洗練されていくのが良いのだと思っていたのだ。
結論としては、完成していないアウトラインはそれでよいということ、そしてきちっとすべきは新たに目次として作るアウトラインだということである。二つのアウトラインの性質と目的を理解し、きちんと分けて認識することが必要だったのだ。
次回、まとめとしてもうひとつ記事を投稿して、この連載を閉じることに致します。
少し間があいてしまいました。
前回(アウトライナーの使い方ド下手問題③~「自分」はもはや「宇宙」である~)は、なぜ倉庫化するかという問いについて、主に情報を置いていく過程で発生する問題を考察した。主に扱う対象が広すぎること、アウトライナーを使った模索にケリがつかないことがゴミ屋敷化を招くという話をした。
今回はそれよりも基本的な、ツールとの向き合い方について考える。
①の最後に、「『アウトライナーの手前』の場を意識的に用意しておけば良かっただけの話でもあるのだが、すんなりそうできない理由がまた別にあったのである。」と書いたのだが、倉庫化について語った③でその振りに答えていなかったので、今回はそこに焦点を当てていこうと思う。
前回の話より根本的である一方、はまり込む人の割合はそこまで多くない気がするため、③では別の話を先にしてこちらは後回しになった。
さて、ツールとの向き合い方として根本的な問題とは何か。それはズバリ、「情報管理の全てをひとつのツールにやらせたくなった」ということである。
情報管理に強い関心を持つ人にはそこそこありがちで、そうではない人には全くかすりもしない話なのではないかと思うが、私は常にこの気持ちに振り回され悩まされてきた。
というのも、幼い頃から情報の散逸に悩んでいたからである。たくさんのものを体験し吸収したはずだが、そのほとんどを取り出すことができないという虚無感。「自分の内に蓄積しているはずだ」という思いがあるからこそ生じるのだろうが、それは同時に、自分というものは底が穴だらけで常に中身が空っぽであるような虚しさをもたらした。
詳しくは心理学の領域になってしまうのでこれ以上は語らないが、とにかくそういった恐ろしい虚しさと焦りで私は情報管理術という世界に取り込まれていったのである。
実際問題、情報があちこちにあると困るので、一箇所にまとめておいた方がいいということは普通の解決策として考えられることだろう。
かつて奥野宣之氏の『情報は1冊のノートにまとめなさい』が流行ったのもそれは一つの道理であるし、自分はそれを真似することができなかったにせよ、考え方として画期的で数多の人の悩みを救ったことだろうと思う。(私自身、このシリーズを読んで情報管理の前提を考え直すことになり、それ以前と比べれば随分と自由になった。)
しかしながら、アウトライナーを使っていて(あるいは他の情報管理ツールを使っていて)、私が直面したのは「どこに行ったかわからないから一箇所にまとめようとして、しかしどこに行ったかわからない」という事態である。
それは当然アナログのノートでも起こることで、奥野氏はパソコンに内容を記録して検索を可能にすることで解決していたが、最初から検索が有効なデジタルツールに於いて私は迷子になってしまったのである。
まず大きな原因として、私が扱おうとした内容というものが、抽象的で逐一言語化を試みなくてはならない領域にあったということがある。
③で「『自分』を対象にするというのは、もはや『宇宙』を対象にするも同然である。」と書いたこととも繋がるが、漠然と広くて未知過ぎるのである。インターネットで検索しても出てこないものを自分の中の宇宙で探しているのだから、その記録も検索しづらい形のものになるのは必然と言えそうだ。
検索という行為は、そのワードが既に何かしらの基準で定着しているからこそ成り立つものであろう。社会的に市民権を得た単語かもしれないし、自分が定義して自分にすっかり馴染んだ単語かもしれない。何であれ、「この概念はこのワードで言い表されるはずだ」という確信があるから検索が可能になるように思う。そういう認識が自分の中にないものは検索で的確に探すことができないのである。
もちろん、より一般的な単語で検索すれば多くの記述を掘り出してこれるが、それは「捜索」というより「発掘」であって、似て非なる別種の行為になってしまう。
アウトライナーについての連載なのでアウトライナーに焦点を当てるが、そもそもアウトライナーは「溜めておいて、検索で引き出してくる」というやり方が適切なものとは言えないだろう。②で書いたように、今今の思考を構築していくことに真価を発揮するものであって、動かしようがないものを蓄積していくことに役立つツールではない。(しかしそうすることが不可能であるとは言えない。)
そのことに気づかなかったわけではない。蓄積型の使い方をした時、不便とまでは思わずとも特別便利ではないなと感じてはいた。フラットに大量にノードを作ってしまうと開閉した時に扱いづらいし、階層化の必要がない記述の羅列には漠然と「これでやらなくてもいいよなあ」という気持ちを抱いた。
それなのになぜ無理してアウトライナーでアウトライナー的でない情報管理をしようとしてしまったかと言えば、最初に書いた通り「情報管理の全てをひとつのツールにやらせたくなった」からである。
そしてそのツールとしてアウトライナーを選択したのは、アウトライナー万能説を勝手に自分の中に作り出してしまったからにほかならない。
世の先駆者たちによるアウトライナーの使い方の紹介記事を見ていると、アウトライナーさえあれば何でもうまく管理できそうな気がしてくる。「あれとこれを管理できるよ」と言われたら、「あれもこれも管理できる」に見えてしまうのだ。
別に誰も、「何でも管理できるよ」とは言っていない。「できたらいいな」くらいは言っているかもしれないが、それを「何でも管理できるんだ!」と解釈するのはあまりにも思い込みが激しすぎる。
しかし実際、「アウトライナーでは不可能なこと」があるかというと、それはあまり思いつかない。どう見てもアウトライナーがベストとは言い難い領域はあるだろうが、それにしても不可能ではない気がする。つまり工夫次第でどうにかできそうな感じがする。オールインワンを達成するためならちょっとの我慢もなんのその――と、自分に言い聞かせて頑張るものの、やがて力尽きるのだ。この点についてはEvernoteやらNotionやら、あらゆる情報管理ツールについてある程度は同じことが言えるし、同じような失敗を繰り返した。
ただ、アウトライナーの方がそれらのツールよりも「自分次第」の幅が広いがゆえに、余計諦めきれずに何度もチャレンジしては挫折することになった。
挫折を繰り返す間、私は混乱し続けていた。情報を管理しなくてはと思い立つ前はもっと混乱していた。私が体験したこと、感じたこと、考えたこと、それらの一切を逃したくなかったし、全てを自由に取り出したかった。私の底に空いている穴を塞いでくれる手段を探していた。私の中を整然とした図書館にしてくれるものを探していた。アウトライナーならなんとかしてくれそう、という期待を抱いていた。
アウトライナーは私の脳が撒き散らす言葉たちを受け止めてはくれるが、もちろん私の心の問題を解決してくれることはない。自分の混乱は自分と向き合って解消するしかない。至極当たり前のことである。アウトライナーが様々なことを「やりやすい」ようにしてくれるのは確かだが、やるのは私以外にいない。
その思い違いを自覚して受け入れるのにもかなりの時間がかかった上、その自覚だけではアウトライナーをうまく使えるようにはならなかった、というのはこれまでの話を読んでいただいた通りである。
この連載の「はじめに(アウトライナーの使い方ド下手問題~はじめに~)」で、「どうして私はアウトライナーとともに情報管理の『系』を作り上げていくことができなかったのか?」と己に問うた。
その答えとしては、「アウトライナーの"中"に『系』を作り上げようとしたから」であると言えるかもしれない。
本当は、アウトライナーを含む、もっと大きな「系」を考えなくてはならなかった。
アウトライナーは身体で言えば手指のようなもので、その存在は極めて重要だが、身体全体ではない。足で踏ん張らなければならないものを手指に支えさせたら当然に無理が来る。手指はいつも自由に動かせるようにしておく必要がある。
このことにはすんなりと気がつけたわけではなかった。
しかしここ数年の間、ScrapboxやObsidianなどに於いてアウトラインというものを「ページの中の要素」として小さいサイズで扱い続けることにより、アウトライナーで作るアウトラインもサイズが適切なものに落ち着いてきた。
アウトライナーを「系」の外枠として捉えるのではなく、「系」の内部の運動担当(あるいは工作担当)部署として位置づけることを脳がようやく理解したのである。
正直に言うと、「アウトライン」の在り方はそこそこ前に掴んだものの、「アウトライナー」について決着がついたのはごく最近のことである。本当に決着がついているのか確証は持てていないのが実際のところだが、しかしながらこれまで私の周りを覆っていた霧はほとんど晴れた実感がある。晴れて辺りを見渡せるようになったからこそ、私は私にとってアウトライナーがどうであったかを言葉にすることができるようになったのだと思っている。
ところで、前回の最後に②と③はアウトラインを無視して書いたという話をしたが、今回はほぼアウトライン通りである。
ここまで私がアウトライナーを適切に使えなかった要因を書いてきたが、まとめ直すと以下の通り。
前回(アウトライナーの使い方ド下手問題②~アウトライナーは「今」のものである~)、「情報がエネルギーを失い静的になっている」という失敗体験に対し、アウトライナーは「動的」に保ってこそアウトライナーであり、つまり「今」作業するためのものとして使うのがよかろう、という話をした。
今回は「『倉庫』として使おうとしていた」問題の二つ目、「情報の種類が雑多で量が多い」ということについて考えていきたい。要するにゴミ屋敷化である。
そもそもの話だが、アウトライナーが倉庫的な見た目をしているだろうかと考えると、とてもそうは思えない。一方EvernoteやScrapboxなどは「ここに全部突っ込むぞ!」と思いたくなるし、それを実践することによって自分だけの宝物庫が出来上がっていくことにもなる。(とはいえ、EvernoteやScrapboxなら何でもかんでも突っ込めばいい、というわけではない。宝物庫にしたいなら集めるべきは「お宝」なのである。)
アウトライナーはどう見ても倉庫っぽくないのに、どうしてかたびたび倉庫化してしまったのだが、それは一体なぜか。
ひとつには、「網羅する場所」としてアウトライナーを選択してしまったことがあり得る。ごく短い文や単語の階層化は、リスト化や分類に使えるような気がするからだ。
例えば「いつか読みたい本」の情報をアウトライナーに収めようとしてしまったことがあるし、そしてそれは当然のごとく失敗に終わった。フォルダ管理でよく言われるように、何かの配下に何かを置くタイプの管理形態では複数属性に対応できず「こうもり問題」が発生するし、項目の順番を変えても何の化学反応も起こさないものをアウトライナーで扱う必然性はない。もちろん、どのツールでどう網羅していくかを検討する過程にならアウトライナーは力を発揮するだろう。(とはいえ、これについては「アウトライナーでは不可能」という話ではなく、諸々の工夫やツール愛によってどうにでもなるものではあるように思う。)
もうひとつの原因として、「一度使った情報をとりあえず目につくところに置いておく」ということの繰り返しで情報が塊魂(かたまりだましい)のごとくごちゃごちゃとくっついて溜まっていくパターンがある。作業台の上に物が溜まるのと同じである。
それが起こる理由は、まず適切な場所に収めにいくのが面倒ということがある。使ったハサミが机の上に置かれたままになるのは、そうしておきたいのではなくてただ面倒だからだ。しかしそれだけが作業台を塊魂にする要因ではない。
単に買い集めた物が開封もされずに部屋の隅に積み上がっていくのとは違って、自分が使った、見た、読んだ、思いついた、といった「体験」と結びついた情報は、自分の「今」と分かちがたいもののように私は感じている。よって即座に仕舞い込んでしまうことはせず、しばらく近くに置いておきたいのである。またすぐ使うかもしれない、見たくなるかもしれない、関連するアイデアが浮かぶかもしれない、そういった気分によって、視界の端に「待機」させてしまう。
何しろ、その体験は大概何かしら気分がよかったり刺激的だったり知見を得られたりしたわけで、さっさと「済んだもの」にしたくはないのである。それぞれの「正しい場所」に移動してしまうと、自分の今日や昨日がバラバラに分解されてしまったような気持ちにもなる。(バラバラにしないために必要なのが日記だが、その話はここでは割愛する。)
もう一歩踏み込んでみよう。使った情報を近くに置いておこうとすること自体が直ちにゴミ屋敷に繋がるわけではない気がする。情報はすぐさま「正しい場所」に配置できるものではないし、配置先を模索する過程を手助けしてくれるのがアウトライナーであり、その決着がつく前の状態がゴミ屋敷化の元ならばアウトライナー≒ゴミ屋敷になってしまう。ゴミ屋敷的でないアウトライナーは当然あり得るはずである。
ここで今日のテーマを確認するが、私が感じている問題は「情報の種類が雑多で量が多い」ことである。「量が多い」はともかくとして、どうして「種類が雑多」になってしまうのか。
端的に言って、アウトライナーに書き込む対象の範囲が広すぎるのだ。日記や日誌を兼ねてしまうなら、広く「自分」のことを書いている状態と言えるだろう。「自分」を対象にするというのは、もはや「宇宙」を対象にするも同然である。
しかしながら、それが誤りであるとは言えない。自分という存在と向き合って付き合って生きていきたいのなら、どこかで「自分」を対象にして思考を出力したり情報を集めたりしなければならないし、その場としてアウトライナーを使ってはならないわけはない。考え出せば無限に連想ゲームが続いていくような状態を記録するにあたって、アウトライナーの形はその思考の拡張性ととても相性が良いものに思える。
しかしそれをそのままにしておけば、自分の思索の集積が自分の認識可能範囲を超えたサイズになり、収拾がつかなくなる。どこに何があるのかが次第に曖昧になっていく。検索機能は便利だが、そのためにはワードがわからなければならない。兎角「自分」が対象の思考は抽象的になりがちで、同じことを言い表すにあたっても全く違う言葉で表現してしまうことは多々あるし、ずっと後になってから「これとこれは要するに同じことだった」と気づくようなこともある。
また、対象の範囲が広いということは、具体的な行動が絞られないことでもある。何かの行動を成すために考えるのではなく、知るためや把握するために考える場になっている。ゴールが無いのである。連想ゲームが無限であるのは、ここで終わりという区切りが存在しないからに他ならない。
行動を目的としない思考というものは、単発で大量に並ぶと手に負えないからと扱いやすいサイズにまとめていこうとした時、結局形式的に分類することになりがちである。形式的に分類された思考がそこから自由に膨らんでいくとはあまり思えない。
執筆にアウトライナーが有効に働くのは、「これを伝えるには」という具体的な目的が先にあり、そのための行動(=文章づくり)を考えることを補助するからだろう。そこには「文章の完成」という終わりがある。アウトライナーに書き込まれたアイデアたちがそこで命を失うわけではないが、きちんと区切りをつけた範囲に置かれているアイデアはそこにどっしりと腰を下ろしており、無限の連想ゲームで私を振り回すことはほぼなくなる。もちろん、別の場所に植え替えればそのアイデアが再び理不尽なほど生き生きと動き出すことはあり得るだろう。
アウトライナーで扱う対象の範囲が広すぎるという問題に対して、やれることはとりあえず二つある。まず範囲をひとつの目的に従って絞ることだ。このことを実現したい、この記事を書きたい、この物語を完成させたい、そういった願いに対して思索を広げ深めていくことに集中する。範囲を狭めることで、前回(アウトライナーの使い方ド下手問題②~アウトライナーは「今」のものである~)書いたように思考を「動的」に保つことも自然に達成されやすくなる。
もう一つは、そもそも特定の行動に繋げようとする目的が存在しないこと、例えば毎日のログを取るとか、自分とは何かを考えるとか、主に記録と分析のために使いたい場合である。そういうものについては、自分のためのレポートを作ったり仮説の検証という形にしたりといった仮のゴールを設けることが有効ではないかと考えている。自由に書き込む場とは別に、GTDで言う週次レビューのためのアウトラインや、「私にはこういう傾向があるのではないか」というような仮説を立てて答えを出すためのアウトラインを作るのである。ただ、イメージを共有するために例を挙げはしたが、大事なのはどんなアウトラインを作ればいいかではなく、「どこかで切り取って現時点でのケリをつける」ということを常に意識することである。
私は具体的にどうしたかと言えば、「自分」という対象についての思索はアウトライナーではなくObsidianに任せることにした。しかしObsidianの中でも箇条書きを多用していて、思考する上での基本的な流れとしてアウトラインを作っていることには変わりはない。違うのは、ツールの見た目と(これが実に大事なのである)、ページ間リンクの存在である。それについては別の機会に書くかもしれない。
そしてアウトライナーでやっていることは、主に「人に見せる文章」の構想である。そのようにひとまず明確に用途を絞ることが、私にとってアウトライナーと仲良くなる第一歩となった。
ところで、前回(②)と今回(③)の記事を書くにあたって、記事にするに足るだけのアウトラインを事前にアウトライナーに作った。が、ほとんど無視して全然違うことを書いてしまった。記事の中で表現したかった気持ちや本質的な結論は予定と実際で変わっていないが、それを表現するルートが全く違ってしまったのだ。(①は概ねアウトライン通りに書いた。)
「仲良くなる第一歩となった」などと書いておきながら、やはり私はまだアウトライナーの使い方がド下手なのだろうか――ということについて、次回書くかもしれない。(あるいは別の話になるかもしれないが、とりあえずもう少し続くはずである。)
アウトライナーを適切に使えない要因として自分の中に以下の二点の理由がある、という話の続き。
前回はアウトライナーの「きちんとしている感」、分解すると「箇条書きという形式の引力」と「ツールの洗練された見た目」から来る要因を書いた。
今回は理由の二つ目、「『倉庫』として使おうとしていた」ということについて考えていこうと思う。
「倉庫」という二文字には、これまた二つの意味合いが含まれている。一つは「大量に詰め込まれる物置き」、もう一つは「きちんと保管される場所」ということだ。つまり、「情報の種類が雑多で量が多い」、そして「情報がエネルギーを失い静的になっている」という二つの状態を示している。
こう書いた時点で、既にアウトライナーの使い方がド下手なニオイがぷんぷんしている。自分で書いていて「私はなんと愚かな!」という気分になってくるのだが、我慢して言葉にしていくことにする。
如何にもまずそうなのが「情報の種類が雑多で量が多い」という状態だが(要するにゴミ屋敷化である)、こちらは少し置いておいて先に「情報がエネルギーを失い静的になっている」という状態の方を考えていきたい。
結論から言えば、アウトライナーというのはあくまで「動的」でなくては固有の特性が有効に働かず、静的に落ち着いている情報は(アウトライナーでの管理が不可能ではないにしろ)他にもっと適したツールがあるのではないか、ということになる。
それはそうなのだが、ならば「動的」と「静的」の境界はどこにあるのだろうか。
アウトライナーにアイデアを書き溜めていくと、後から見返した時の思考の再現性に不安を感じることがある。書いた時にそこに込めたかったイメージを、自分自身が完全に思い起こすことができない事態が発生するのだ。無論それはアウトライナーというツールのせいではなく、全て思い起こせるように書いていない自分に問題がある。
なぜ再現性を保つように書けていないのか。それは文脈を示す情報を削ぎ落としてしまっているからである。
作家の構想が箇条書きのまま本になることはないように、人に情報を伝達するには必ず「肉付け」をしなくてはならない。たとえ、読者が作った読書メモが結果的に作家のアウトラインとほとんど似通った形になるとしても、作家と読者の間には周到に肉付けされた文章が必要である。肉付けとはつまり文脈である。もう一歩突っ込めば、文脈とは「他の解釈の可能性」を断って読み手に一本の道を確実に歩かせるものと言えるように思う。
作家と読者は明確に他人であるが、よく言われるように過去の自分と未来の自分ももはや別の人間だと思っておいた方が良いだろう。時が経てば過去の一点と未来の一点の思考の状態に連続性はなくなる。そうなると、アイデアを活用するのが未来の自分ならば、予め十分な肉付けをしておかなければならない気がする。
日記が面白いのは、そこに文脈が保存されているからである。むしろ文脈こそを保存したいと思って書くものだから、後から読んでもその時の状況と感情を鮮やかに再現して追体験することができる。一方日誌は、それだけでは文脈を持たないことが多い。事実は書いてあるが、それに対して当時何を感じたのか、今何を感じればよいのかが判らない。漠然としていて、つまり解釈の可能性が広すぎるのである。
それならば、アウトライナーに何かを書き連ねていった時、そこにあるのは日記的なものなのか、それとも日誌的なものなのか。
ところで日誌はなぜ文脈を欠きがちなのか。
それを書こうとすれば主観が混じらざるを得ず、客観的な資料にならなくなるからだろうか。内容によってはそれもあり得るだろう。しかし実際には、文脈を意識的に排除しているというよりも、文脈を記す必要を感じていないから書いていないだけではなかろうか。昨日も一昨日も明日も明後日もおおよそ同じ空気の中で生活するならば、わざわざ「今どういう状況か」を書き記そうとはしないだろう。
今ここにある文脈は言わずもがなのものであり、それを網羅的に言語化するのは億劫である。ひとつの環境に居続ければ、対比させるものがなく(ぱっと思いつかず)、絶対的な尺度で描写しようとして疲れ果てる。「一年前と比べてみよう!」「前の職場と比べてみよう!」「理想像と比べてみよう!」という問いを用意してもらえれば筆の動きも滑らかになるだろうが、そういう問いの必要性を認識していなければ自力では思いつきにくい。
さてアウトライナーである。
何かを思いついて書き込んだ時、それを思いついた土壌の説明はその場でいちいち書き添えない。そうしないことでスピード感を維持できるのであって、文脈の言語化に意識を割いてしまうとその分だけ「まさに今動かしたいもの」を動かすためのエネルギーを奪われることになる。そして「まさに今動かしたいもの」はアウトライナー上には常に存在していて、文脈の言語化に取り組むタイミングはなかなか来ない。
文脈を欠いた情報は、時が経てばそれを再解釈するという手間を生じさせる。すると、自由に動かして活用することが困難になる。つまり、その情報はもう「動的」ではなくなる。過去のいつかの情報をただ保存しただけの「静的」なものになってしまうのである。動かすことができない情報にはアウトライナーで扱う必然性はない。
しかしながら、文脈を明らかにするための情報をごちゃごちゃと添えた場合、それもまた動きを鈍らせる可能性がある。アイデアは異なる文脈にワープすることが少なくない。その時アイデアに添えられた文脈をどう扱うかで悩むことになる。書式の工夫などの解決策はあり得るが、ノイズはなるべく少ないほうが良いだろう。ルールでどうにかしようとすると、そのルールを忘れた時にまた困ることになる。動かし方に悩んだ時にはもう「静的」な情報に変わってしまっているのである。「動的」であるためにはアイデアたちは身軽な方が良い。
すなわち、文脈を欠いたままのアイデアはやがて「動的」でなくなっていくが、その一方で文脈がくっついたアイデアもまた「動的」でなくなる可能性がある。
そもそもなぜ文脈を書く必要を考えるのかと言えば、そのアイデアを活用する主体に「未来の自分」を想定しているからである。「今の自分」は頭の中に当然のものとして今の文脈を流れさせているが、「未来の自分」はそれを失っている。
なぜ「未来の自分」を想定するのか。それはアウトライナーのそのページを、未来の自分も使うものと考えているからである。糠床のように毎日手を加え、育て、味わい続けることをイメージしているのである。いつの間にかそうしようと指向していたが、それは当たり前のことなのだろうか。
決して、糠床的に使うことの是非をどうこう言いたいのではない。それが成り立つように使えたらそれが良いに違いない。しかし私はそう使えないらしいのに、何故かそう使おうとしていたから下手だったのである。
つまり、私はアウトライナーをもっと「今」のものとして捉えるべきだった。
アウトライナーは、まず第一に「今」考えているものを即座に捕捉して保存してくれるものなのである。「今」書かないと永久に失われかねない着想を、不意の強風に飛ばされる前にキャッチして目の前に固定してくれるものなのだ。
そうして可視化されたアイデアたちを、「今」の文脈が自分の頭の中に当然のものとして流れている間に――個々のアイデアに文脈を書き添える必要など生じないうちに――上下左右に動かして形を作っていく。「今」考えるべきことをアウトライナーで構成し、速やかに決着をつけてしまうのだ。
使い道が見いだされないまま「今」の範囲から漏れて置き去りになるアイデアは、文脈を失ってしまう前に書き添えてきちんと保管する。状態としては一度「静」になってしまうが、いつでも「動」に復帰できるようにセッティングするのである。保管用のファイルまたは区画をアウトライナー内に作っても良いだろうし、私は別の場所の方が感覚に合うので例えばObsidianに保存することになる。
以上のことを一言でまとめるならば、個々の情報を動的に保ち続ける工夫に労力を費やすのではなく、情報を扱う場であるアウトライナーをこそ動的に保つという意識を保つ必要があった、ということである。
さて、アウトライナーの使い方がド下手な理由その二、「『倉庫』として使おうとしていた」ということのうち、「情報がエネルギーを失い静的になっている」という状態について考えた。「情報の種類が雑多で量が多い」ことも一連の話ではあるのだが、これについてはまた次回書くことにする。
前回(アウトライナーの使い方ド下手問題~はじめに~)、アウトライナーを適切に使えない要因として自分の中に以下の二点の理由があると書いた。
今回はひとつめの要因、「『きちんとしている感』に負けている」ということについて詳しく考えていきたい。
ところで前回書いたようにアウトライナーの使い方はド下手なのだが、それならアウトラインを作らないでいるのかと言えば、そんなことはない。前回挙げたアプリまたはソフトウェアにその場限りのファイルを作ることもあるし、テキストベタ打ちで実質的なアウトラインを組み上げることもある。また小説を書く趣味があるので、プロットは作品ごとに何かしらの形で構成している。この記事はクラウド型アウトライナーのTransnoに作ったアウトラインを元に書いている。
出来はどうあれ、アウトラインを考えて順番を検討して文章にしていくという工程は習慣になっている。
さて、アウトライナーというものは、要素を全て箇条書きで入力することが基本である。
各行にノートを付け加えることは可能だが、全体をコピペしようとしたときの挙動なども含めて考えると、ノートを「文章を書く場所」として積極的に使うのはあまり現実的でない。そもそもそこに文章を書いてしまうと、アウトライナーの最大の特長である「項目の操作」が自由にできなくなってしまい、本末転倒な事態に陥る。
よって、アウトライナーに何かを書くならば箇条書きの形で書くことになるのだが、ツールの形式が箇条書きだと、「箇条書きにする」という意識が自分の中で強く働く実感がある。
つまり、「その要素を、そこに置く」という意識が生まれるのである。
私は先日書いたように(情報整理と執筆作業は「有機度」が異なるせいでひとつのツールに同居させられない)「場」の引力のようなものに強く引っ張られるようなので、余計に影響が大きいのかもしれない。(或いは、そういう影響は誰しもごく普通に生じるものかもしれない。)
それがプラスに働くことはもちろんあって、プラスに感じているうちはどんどん書いていくのだが、時々それが足枷になる場面にぶち当たる。
新たに思いついていることが、既にそこにある項目と何かしらの関係を作り上げられるとか、あるいは単体で新たな骨格を導く力を持っているとか、要は「そこに書く」ということにそれなりの納得感があるならば良いのだが、そうではない思いつきというのが必ず生まれる。
その時点でどこにも位置づけられないものを、しかし箇条書きである以上は「位置づけられないという項目or場所に位置づける」ことにせざるを得ないという事態が発生するのである。(これが違和感になるかどうかは個々人の性質によるものと思う。)
そしてこの「どこにも位置づけられない思いつきの集合」が比較的短い時間で解体されていくのならよいのだが、ある程度はどこかへ巣立っていかせられても全てに就職先を斡旋できるわけではないし、もしデイリーやウィークリーで区切るということをしないならばむしろ膨張していくばかりである。「位置づけられないという場所に位置づけられた情報」が、どこかに位置づけられたいというメッセージを放ちながら、ほとんど無秩序にごちゃっとまとめられたままになる。いつか使えるかもしれない原石の山、と大きく構える心は残念ながら持てずにいる。
これがもし、日記帳に書かれた一文やTwitterに放流された一言ならばこういう不本意さは生じないだろう。その文言に「より適切な居場所」を与えて活用を期待する気持ちが、自分の中にないからである。それを後から活用できたとき、それはあくまで「ラッキー」なことに感じるのだ。
次はアウトライナーの見た目について考えてみよう。
例えばTransnoはデザインがシンプルで洗練されていて、言葉を並べていくと如何にもピシッとスッキリしていくような実感がある。Workflowyもそうだろうし、Roam Researchもそうだし、Dynalistもそういうデザインを選べる。アウトライナーは総じてとても美しい見た目をしている。
つまりアウトライナーは、見た目からして「きちんとしている」感じがする。「きちんとさせていく」ためにある(と私は解釈している)ツールなのだから、それは当然とも言える。生活感溢れる雑然とした場所では思考の整理も難度がやや上がりそうである。
そして、きちんとしている場に、きちんとなることを目指して言葉を置くとすると、書き込む時点で少しでも洗練させた形にしたくなるかもしれない。キチッと、ズバッと、スパッと、良い感じのフレーズを置けたらアウトライナーを使いこなしている感じがする――
言うまでもなく、その感情はアウトライナーを使うにあたって本質的でも必然的でもないだろうし、その引力を意識的に利用するのは良いにしても、そういう「形」を第一にしてしまうと自由に使うことができなくなるのは必至だ。「良い感じのフレーズ」は、いきなり出てくることもあり得はするが、思考を捏ねて捏ねて捏ねた先にやっと形作られる一粒ということも多いだろう。ならば思考を深める場というのは、良い感じのフレーズも置けるしそうでないものも普通に並べて置ける、というようでなくてはならない。
何かを言葉にするとき、その「何か」は、言葉で言い表しきれるものではない場合がよくある。言葉にした瞬間に姿を表すタイプの概念もあるが、逆に言葉にしてしまったことで解釈の方向を絞ってしまい、あり得た可能性を削ぎ落としてしまうこともある。その感覚は量子力学の「重ね合わせ」と「観測」のイメージに少し似ている。頭の中のイメージをどんな言葉で表すかは、完全なランダムではないにしろ、その瞬間の脳の状態によってある程度左右されていて、書き表わそうとした瞬間の状態でそこに生まれる結果が多少変わるのである。(※私は完全なる文系人間で量子力学の知識はほぼない。)
しかしながら、イメージを少しでも削ぎ落としてしまうことを恐れて一切言語化を放棄すれば、何も生み出すことはできなくなってしまう。不完全な形であってもまず目の前に置いてみなければそこから次のイメージへと渡っていくことは難しい。言語化に限らず、絵や図やその他のあらゆる表現方法にしてもそれは同じである。頭の中を完璧に再現することは不可能でも、とりあえず何かは出力しなければ先に進めない。
妥協点としては、「少しは削ぎ落とされるが、なるべく削ぎ落とさない出力」または「特定の方向づけをせず、なるべく元の曖昧なイメージに立ち戻ることができる出力」が可能であれば良いだろう。「感じたそのままを書く」ということと近い。(感じたものを本当にそのまま書くということは、前述した通り恐らく不可能なのだが。)
具体的には、極端な例を挙げると「これがさ~なんかさ~なんかこうもやっとしてるんだけどさ~」というようなノイズっぽい情報である。これをそのままアウトライナーに書き込むことは、別に誰にも禁じられてはいないがどう見ても相応しくはない。この一文に含まれる情報量は多くないし、如何にも文字の無駄である。活用もしにくい。しかし、これを「未解決」「納得していない」などと書き換えた時、その場にあった気分の情報は失われている気がする。そのことについて、自分はそんなに合理性を追求する頭で思索していたわけではないのに、「未解決」「納得」というカタいワードが自分自身を合理性追求マンっぽく仕立てている感触があるのである。
ところで、半年以上前にごりゅごさんの記事(Roam Researchでデイリータスクリストを書き上げる流れ – ごりゅご.com)を通して、Tak.さんのデイリーアウトラインの考え方に触れ、「なるほど!」というか、「そうやって良いんだ!」というような気持ちになったのをはっきりと覚えている。(誰にも何も制限されていたわけではないのに。)
箇条書きにするんじゃなくて、まず最初に文章で自由にやることを書き出してみるという方法が、ものすごく自分の性質と相性がいい。
箇条書きで書こうとすると、どうしても「余計なことが書けない」んだけど、文章で自由に書いていいなら思いついたことならなんでも書ける。
ごりゅごさんがこう表現されていることに心底共感した。「箇条書き」という場のオーラに引きずられてしまうのである。
そしてTak.さんがnote(piece 11:思いと流れとシェイクとRe:vision|Tak. (Word Piece)|note)でお書きになっている、
図書館に行こうという「思い」は、もっとずっと複雑で曖昧だったはずだ。「思い」は具体的でもないし行動可能でもないしMECEでもない。
とか、
それに返却期限は明後日だから無理に今日行かなくていいとか、ついでにとんかつが食べたいという「思い」は、情報としてけっこう重要ではないだろうか。「タスク=実際に取れる具体的な行動」ではないからといって、切り落としてしまっていいのだろうか。
といったことに膝をばしばしと打った。自分が何かを整理しようとする過程で削ぎ落としてしまっていたそのような「思い」のことが、私はずっと気にかかっていたのである。そうだと気がついてはいなかったが、自分の脳はきっとそれをストレスに感じ続けていた。
そして「『思い』を流れのまま、リンクも含めて書き留めようと思えば文章になる」と書いていらっしゃる通り、これを表現するには文章にせざるを得ない。もしアウトライナーの「きちんとしている感」に負けてそれらをそのままアウトライナーに書けないならば、アウトライナー以外にそのための場を用意しなければならない。
逆に言うと、そうやって「アウトライナーの手前」の場を意識的に用意しておけば良かっただけの話でもあるのだが、すんなりそうできない理由がまた別にあったのである。
次はそのことについて書き記していきたいと思う。
Transnoについてちょっぴり補足。
Transnoは、ウェブブラウザで見るとフォントがいわゆる中華フォントで日本人としては気になるのだが、ブラウザのアドオン(Chromeなら例えば「Live editor for CSS, Less & Sass - Magic CSS」という拡張機能)で自分のブラウザ上で表示するCSSに手を加えて好みのフォントにして閲覧することで解消している。
アウトライナーというものは大変にスグレモノである。という確信のもと、何度も活用を試みては何故か挫折するということを繰り返してきた。
挫折というのはつまり「使い続けられなくなる」ということだが、情報を管理するタイプのツールに於いては、その理由として例えば「ツールの機能が不足している」「UIとの相性が悪い」「自分で集めた情報が自分の望まない形に複雑化している」といったことがあると思う。その中で、私がアウトライナーとこれまで幾度も格闘して繰り返したのは、最後の「自分で集めた情報が自分の望まない形に複雑化している」ということである。すなわち、「情報の集まりが自分のイメージ通りに育っていかない」、そして「結局どこに何を書いたのかよくわからない」という事態を引き起こしているのだ。
情報をスッキリ整理するためのツールなのに、何故か煩雑化している!
これは無論アウトライナーというツールの側に問題があるのではなく、その使い方が下手くそであるということに尽きるので、それを解決すべく、理由と解決策を考えていくことにする。
ちなみに、これまで使ってきたアウトライナーは、クラウド型の「Dynalist」「Transno」、Androidアプリ「Orgzly」、階層化テキストを用いたAndroidアプリ「ハルナアウトライン」「KLOA」、同じく階層化テキストを活用するテキストエディタ「Quartet Editor」、アウトライン機能のプラグインがあるテキストエディタ「Mery」、そしてWordのアウトライン機能である。一瞬試したものも含めれば他にも数多あるが、だいたいこのくらいのものをある程度の期間使い、やがてフェードアウトした。それぞれどのツールも何度もアタックしては徐々に砕けていっていつしか砂になってしまうという経緯を辿っている。
どうしてそんなにも下手なのか?
言い換えると、どうして私はアウトライナーとともに情報管理の「系」を作り上げていくことができなかったのか?
それには大きく分けて二つの理由があると考えられる。すなわち、
①「きちんとしている感」に負けている
②「倉庫」として使おうとしていた
ということである。
もしかしたら他にも理由が存在するかもしれないが、現時点で思い至るのはこの二つである。それぞれについて、詳しく述べていきたいと思う。