じゆうちょうノート術(仮)④読書ノート
前回までの記事はこちら。
動じないために。
ちょっと前まで油性ボールペンを使っていたけれど、今はもう極細水性ペン(プロッキーなどの細い側)一択になっている。さらさらっと書けるのが良い。
あと「あかあおえんぴつ」をよく使っている。小学校の時に親が用意してくれたものがまだ思いきり余っている。特にあお(紺)の方は尖らせて筆記に使っている。あか(朱)はマーキングの方が多い。黄色の色鉛筆もよく使う。
鉛筆はインクやペン先の具合を気にしなくていいのが楽でいい。残量は明らかだし、手入れと言えば「芯を折らない」「時々削る」だけで済む。
難点はインクのようには筆跡がはっきりしないことと太さが安定しないこと。楽だが「やっぱりペンの方が…」という気持ちを度々抱くのは免れない。
今現在「憮然(ぶぜん)」は「むっとした様子」という意味で使われがちだが、本来「憮」は「心を無くす」と書くように「むなしい」「失望する」という意味合いの字。よって「憮然」は「失望・落胆してどうすることもできないでいるさま」ということになる。
それなのに「憮然」がしつこく使われるのは、「ぶぜん」という音のイメージが本来の意味と合っていないことと、「むっとした様子」を表す言葉が他に思いつかないことによるのだろう。
日本国語大辞典の用例として松本清張の一文が挙げられているが、松本清張がそのように使っていたということであれば、誤用がこうまで浸透したのも尤もなことだ。
私も「むっとした様子」をずばっと表す言葉になかなか思い至らなかったが、「気色ばむ」という言葉があることを思い出した(たまたま見かけて)。
しかしこっちはこっちで全然「むっとしている」感が想起されない。「けしきばむ」という音や「気色」という字面から何を思い浮かべればいいのかが自明ではない感じがする。そもそも「何かしらの顔色が現れる」的な意味しか示していない言葉だろうし、慣習として意味が狭められているとしても、見た目には怒りや面白くない感じに限定する必然性がない。「色を作す(なす)」も同様だ。
「憮然」については誤用と分かっていて使うのもなんだか嫌なので、辞書が揃って「転じて、~~」などと書くようになるまでは「むっとする」という意味では使わないつもりでいるものの、もはや本来の意味を表そうとして用いてもおそらく通じない。
早いうちに後世まで通じるうまい言葉を作れなかったせいで、後々に他の言葉が意味を乗っ取られアイデンティティを剥奪されている。
言葉は変わり続けるもので仕方のないことだが、その渦中にある言葉を見るとなんだか遣る瀬無いような気持ちになる。一方で私たちは「とうに乗っ取られた言葉」をしばしばさも伝統があるかのように使っている。それが全く「正しい日本語」でなかった時期があることを知りもしない。よって、言葉の軽々しい移り変わりを嘆いてみたところで、昔の人から言わせれば笑止千万もいいところだろう。
漢字が想像できない名前シリーズ。
ハバチの仲間の蜂。全身メタリックブルーで綺麗。写真だと光沢がわかりにくいけど、実物を見ると甲虫並にピカピカしている。針が無いので刺さないし、動きものろいので、蜂と言っても怖くないやつ。
漢字は「瑠璃鐫花娘子」。変換したら余計にわからない。瑠璃色のチュウレンジバチなのはいいけども、「鐫花娘子」とは。
(↓でかでかと虫の写真があるので苦手な人は開かない方が良いです。)
「鐫」は、「のみ」と読み、木材などをうがつ道具のことを意味しています。
ふむ、葉や茎に卵を埋め込むように産みつける様子からこういう名前のようだ。「鐫」は音読みでは「セン」のようだけど、じゃあ中国語読みなのかというとそれも違うような? 「鐫花娘子」がどうして「チュウレンジ」に…。
この記事ではネット上の記述を調べた結果が報告されているけれど、まあやはりよくわからない。
個人的な推測では、注連縄(しめなわ)の“注連(ちゅうれん)”から来ているというのもあり得るか…? とは思った。
これは気持ちとしては結構なるほどと思えた。葉の端に卵を産み付けていった時の様子が縄っぽい感じがなくもない。
レファレンス協同データベースも見てみたが、過去にチュウレンジについて質問した例は収録されていないようだ。今度図書館に行った時にでも調べてみようかと思う。
晩夏になると、気づいた時にはツツジが幼虫だらけになっていたりする。まあよっぽど大量発生しないとすっかり丸坊主とまではいかないと思うけども。
どうでもいいけど、チュウレンジバチ駆除について書いているとあるWebページで使われている写真が、幼虫も成虫もどう見てもチュウレンジバチではなかった(アメリカシロヒトリか何かの幼虫とクロウリハムシの成虫に見える)。専門家面して適当な情報をばら撒かないでほしい。
Dynalistにライフ・アウトラインを作ることにした。
ライフ・アウトラインとは、Tak.さんが著書およびnoteの連載にて提案なさっている、アウトライナーを用いてライフ(生活と人生)を把握したり練ったり前進させたりするメソッドである。
私は音楽が好きなのでは?
前に「音楽が好きというほど音楽が好きなわけでもない」と書いたけど(自分を作るもの)、その割に音楽の話をしようという気持ちが強い感がある。
好きであるということは専門性を有するかどうかとは全然関係がない。逆に何かの専門家もその対象を好きとは限らない。流れでその専門家になっちゃったからやってるだけです、という人も普通にいる。
でもなんとなく、好きと言ったら人より「詳しい」必要があるかのような気がしてしまう。これはなんなんだろう。
別に「好き」のゴールは「オタク」でも「マニア」でも「フェチ」でもないだろう。メジャーなものしか聞かなくても、トレンドを全て把握してなくても、音楽用語をきちんと知らなくても、その体験を気に入っていれば好きと言ってもいいような気がする。
湘南乃風の曲。2008年。
湘南乃風「黄金魂」MUSIC VIDEO - YouTube
単体で聴いて泣いてしまった経験をしたのはこの曲だけかもしれない。(挿入歌のようにシチュエーションが合わさって泣いたのはある。)
もう結構前のことになる。心が疲れきっていた帰り道、音楽を聞きながら歩いていたらシャッフル再生でこれがかかり、いつもは気にしない歌詞がちゃんと言葉として耳に入ってきた。
なんというか、生きなきゃ駄目だなと思った。踏ん張っていこうとか思えたわけではないけど、死ぬのはやめたほうがいいということは思った。この歌は上っ面の励ましじゃない感じがしたからだと思う。
この社会ってうまくいかないよね、という「あるある」的な共感じゃなくて、社会に押し潰されて人生を諦めて、そうしたら本当に何にもなくなっちゃうぞという、リアルで差し迫ったメッセージを感じた。誰かの人生がそうして何にもなくなっていってしまうことを、この人たちは本当に悲しんでいるのだろうと思った。「まあ頑張っていこうぜ」ではなく、「お願いだから頑張ってくれよ」という感じ。
実際のところどうかは知らないけれど、私の耳にはそういう叫びとして届いた。