noteを眺めていると、みんな日記が上手いなあ……と感じます。自分はこう感じましたよ、というのを自分で掴んで表現するのが巧み。
それにひきかえ、私はそういう日記的なものがとても苦手です。昔から下手くそで、学校の宿題などで日記を書かされると何を書いたらいいかわかりませんでした。他の子たちと同じような密度・濃度で日々を過ごしているはずなのに、みんなはそれらから何かを感じられて、私はいまいち感じられない、そういう感覚がずっとありました。
そして書き表せないばかりか、記憶の中でも思い出を大事にできず、たくさんのことをすっかり忘れ去ってしまいました。子どもの頃の楽しかったことを問われてもさっぱり出てきません。辛い生活を強いられたわけでもなかったのに、自分で自分の人生をつまらなくしてしまいました。
(果たして他の子たちが日記を鮮やかに書けていたかどうかはわかりません。今思えば、みんなが書けていたわけではないような気がします。)
しかもその感覚はつい最近まで続いており、未だに具体的なエピソードを文章化するのは困難です。ようやく「感じる」ことを覚えた赤ちゃんのようなもので、それを日々継続して自然と物事に敏感にアンテナを向けて過ごせるようになるにはもう少しかかりそうな気がしています。
なので、せめて「自分がなぜ日記を苦手としていたのか」を解明して言葉にしておこうと思いました。
解明にあたり、逆に何なら書けるのだろうか、ということを考えてみます。
noteを継続するために「自分に言えること」をせっせと書き出していますが、それを眺めてみてわかるのは、圧倒的にアドバイス調の内容が多いということです。特定の層を想定しているものもあれば、人類全部に向けたものもあります。一番多いのは、「昔の私」に向けた、「昔の私」こそが欲しかったアドバイスです。今まさに書いているこの記事もそうです。
つまり、何かの役に立つこと、生活をより快適にしそうなアイデア、「こうしたらうまくいくよ!」という助言、そして「なぜこれはこうなったか」という理由を解明するもの。
読んだことによって、読む前から何かが具体的にレベルアップすることを期待するような内容です。物事の「意味」や「理由」にばかり目が向いています。
それは、子どもの頃に周りにいた大人がそういうタイプだったとか、そういう論理の扱いを武器に学校生活を生き抜いてきたとか、複合的な要因があって形成されてしまった性格だと思っています。
そういった理屈で常に頭がいっぱいなのですが、頭の中はいっぱいなはずなのにものすごく空虚な感じがして、私はいつも自分が空っぽだという感覚を持ってきました。スラスラと理屈は口から出てくるけれど、だから何? みたいな。
それなら、何が頭に詰まっていたら良かったんだろう。
そう考えてみると、何かの意味とか理屈とか、つまりは勉強すればわかるようなことではなく、必要なのは「その時の自分にしか感じられなかったこと」なんじゃないかと思いました。感じた結果何かの結論を出さなければならないわけでもなく、ただ「私はこう感じた」ということ。
逆に毎度体験したことについて結論を出したり意味を見出そうとしたりすれば、そこに至らないふわっとした「気持ち」はまるごと無意味になってしまいます。なってしまいました。それが「空っぽ」ということです。
ただ何かをぼんやり感じる、ただ何かを楽しいと思う、それが身につかないまま人生を送ることのなんと虚しいことか。
自分にしか通用しないかもしれない気持ちを、自分だけのために自分の中に蓄えていくことこそが、人生の充実感とか幸福感とかいうものなんじゃないかと思っています。
(※この記事は一度noteに投稿したものの下書きに戻したものです。)