こちらを読みました。
自分の文章の書き方の話は後で何か書こうかと思いますが、その前にコウさんのお話についてちょっと考えたことを書いてみたいと思います。
共感するところが色々ありました。
おまおれ
僕は割と文章を書くのは苦にしないほうだが、すらすら書けるときとまったく書き進められないときのムラがありすぎるのがとてもつらい。
これは私もそうです。月単位で手が止まることもしょっちゅうでした。
書けなさを主観で測るとすれば、継続的に書いている人でも結構そういうことは多いのではないかと想像します。しかし書き進められなかったものは世に出ないので(そして世に出た時点で書き進み終えているので)、人の文章を読んでいるとみんなすらすら書けているような気がしてくるというのは一つの罠だなと思ったりします。
例えば月に一本しか書かない人がいたとして、読み手の方は「この人は仕事が忙しいのだろうからそういう頻度でしか時間が取れないのだろう」というふうに考えると思います。その限られた時間でさっと書いて投稿しているのだろうと。でも本当はたっぷり時間を取った上で「どうして自分はこれしか書けないんだ」と苦悩しているかもしれないなと思いました。
たとえば、今書いているこの文章を書き始めようとしたとき、僕の頭の中にあったのは、まぁ一回自分の文章の書き方を考えてみるか、ということだけだ。
つまり書き始めてから、何を書くか考えながら書いている。だから、このあとこの文章がどう展開するのか、どういうオチがつくのか、自分自身でわかっていないのである。
私は大体いつもそうです! なので私も基本的にはアウトラインを必要としません。後から「この話もするんだった」という後悔がなるべく生じないように「触れておきたいこと」をアウトライナー上に並べることはありますが、それで文章を構成しているかというと、特にしていません。
Dynalistで文章を書くことはあります。しかし、それはもっぱらアウトラインのためではなく、文の子項目にその文の補足情報をぶら下げたりするためです。前にDynalistの話をどこかに書いた時に、アウトラインを組み立てるならこう書く、というようなことを確か書いたことがあるのですが、そうする時はそういう形式でやるようにしたということで、実際に個々の記事でアウトラインを組むことはあんまりありません(その時点ではアウトラインを作って書くことを基本にするつもりでしたが、早々に諦めました)。長期連載を試みるなど大きなフレームが必要となる時にアウトライナーとしての力を発揮することはあるのですが、それは私の書く活動の中ではごく限られた機会です。
また、トンネルChannelやブログに投稿した時に見出しを付けることが時々あるものの、それは一通り書いてから「ここで話変わってるし見出しにしておこう」と思って区切っているもので、事前にはそういう構造は決まっていません。
そして、いま3時の休憩にまた続きを書こうとしてるのだけど、もう手が動かない。昼休みにすらすら書いていた僕が何を考え、どう書き連ねようとしていたのか、もうわからないからだ。
一度に書き切らない場合は、未来の私は過去の私が既に書いた部分を読んで新たに思いついたことを書いています。過去の私が書きたかったことを思い出すこともありますが、そうでないことの方が多い気がします。
どうしても書きたいことがあればメモしておいて未来の私に託しますが、そういう熱意に燃えているわけではない記事は、単に「記事の体を成すまで足す」ということで文章の形になっているに過ぎません。
コウさんがお書きになった内容だけ見たところではこのように私と同じだなと感じるわけですが、一昨日のうちあわせCastでTak.さんが仰っていたように、だからといって本当に同じかはわかりません。「そうは言うけど結構書いてるじゃないか!」という声が聞こえてきそうな気もします。
なので、私が勝手に似ていると思った自分の性質について書いてみることしかできませんが、それでも無意味ではないと思ってまず書いてみたいと思います。(無意味ではないだろう、というのは尻込みする自分に対してよく使うおまじないです。)
ずっとムラに苦しんでいた
私もずっとムラに苦しんでいて、比較的継続して書けるようになったのは「のらてつ」という名前を用意してからのことなのですが、つまりここ二、三年くらいの話です。具体的には、(自分の話になりすぎてすみませんが、)ブログで「ブログの書き方ド下手問題」というシリーズを書き始めてからです。
それ以前のことは誰も知らないわけなので、恰も昔から「このくらいなら書ける人間」であったかのようになってしまうかもしれませんが、実態は全然違います。
コウさんと(多分)同じように、私も「文章を書くのは苦にしないほう」です。書く流れに乗れる何かがあれば、乗っていれば書けるタイプです。
問題は「書く流れに乗れる何か」との出会いが運頼みだったことです。人が読むことが前提の投稿記事を作って公開するとなると、公開するに十分な記事を作れる確率というのが大変に低くなってしまって、そのことにずっと苦しんでいました。続けられなくて潰したブログがいくつもあります。今更新しているブログはかつてからすると奇跡的な継続具合です。
変わったことは今思いつく限り二点あります。ひとつは「まだ解決していない自分の問題について書き始めることを自分に許したこと」です。もうひとつは「自分のためと人のためを分離して考えるようにしたこと」です。
まだ解決していない自分の問題について書き始めた
私の転機というのは、Tak.さんと倉下さんに認知いただくきっかけになった「アウトライナーの使い方ド下手問題」という記事群もそうですが、書き始める時点で全然解決していない自分の問題について書きながら考えることを自分に許したことにありました。
それさえ許せば、私は問題だらけの人間なので、なんだかんだ書けることが絶えません。普通は例えばエリアを三分割した方眼ノートに現状と分析と解決策を整理して自己解決して済ませるものなのでしょうが、その過程を恥ずかしげもなく文章にして公開しています。自分の解像度を上げて問題を発見すれば記事が増えるので、自分に下手なことがあるということに喜んでいる節すらあります。
解決していない時点で書き始めてしまうので、書いた結果解決するかどうかは全然わかりません。ちょっと考えたくらいですんなり解決されても、じゃあこれまでのウン年の悩みはなんだったんじゃいという話なので、解決を試みはしますが解決が記事のゴールというわけではありません。今思いつくのはこれくらいだ、というのを言葉にできたらそれでいいと思っています。
人に見せられるような文章を書こうと思いながら書いているうちになんとなく良いアイデア・良い解釈を思いついて解決してしまった、ということはあるので、それは書くということがなせる業だと思っています。一応「現状の描写」だけではなく「解決を試みる」ということを念じてやっているので、思いのほか脳みそが頑張ってくれるのかもしれません。
自分のためと人のためを分離した
とはいえ、自分の問題だけをテーマにし続けられるわけではありません。他にも「書けそうなこと」はあるわけです。何かを見れば何かを思うので、それについて書けそうな感じがしてきます。できれば書きたいと思います。
そうなるとまた運頼みになってきてしまうのですが、それでは困るので、「書ける」「書けない」の境界はどこにあるのかというのを考えました。そして、ひとつの線を見つけました。それが「自分のため」と「人のため」のラインです。
これは事前にアウトラインを組めるかどうかとも関わるのですが、「自分のため」と「人のため」では「書く」という行為が持つ意味がおそらく全く異なります。
「自分のため」に書くという時は、大体「言語化されるべきものが言語化されていないこと」に自分の苦しみがあって、それを解消するために言語化を試みる、という動機になると思います。自分は何を感じているのかを解き明かしていかなければならないということです。
何かを理解するための文章もそうです。材料を集めて、そこから何が言えるのかを必死に言語化していく過程で、やっと自分自身がそれを解る、そのためにやるわけです。そこに何があるのかが事前にはわからないので、前もってアウトラインを作ることはできないでしょう。
箇条書きで言語化していくならアウトラインの見た目にはなりますし、それを操作すれば実際にアウトラインになるでしょうが、文章の形で吐き出した方がスムーズな人間にはその過程は要らなくなってしまいます。
一方、「人のため」の文章はそうではありません。「人のため」に書くという時は、他の人が知っていたら良いであろうことを既に自分は知っていて、それを伝達しようとして書きます。伝わるように逆算して文章を構成するのでアウトラインを作れるということになります。
「本を書く」ということも基本的には既に自分の中にある「伝えたいこと」を形にするためにやることのはずなので、構成するということが可能であり、必要なのだと思います。
となると、もしも「アウトラインを作ってそれに沿って書く」ということを「書く」ということの理想形とするならば(もしもの話です)、それはつまり「人に伝えるための文章を書く人間」になる必要があるような気がします。伝道師になるということです。
でも、アート的な、「自分の中にあるものを取り出して形にする」ことを「書く」ことの目的だとするならば、それはアウトラインの出る幕ではないかもと思います。文章を整える作業場としてアウトライナーの機能は十分役立つと思いますが、アウトラインを作るという工程はそもそも存在しないかもしれません。
こういう区別をするようになって、「文章を書く」と「アウトラインを作る」の結びつきは私の中で密接なものではなくなりました。
事前にアウトラインを作るという工程がほとんど関わらない領域というのがあって、しかも自分はそれをやりたい人間で、そうなるとアウトラインがどうこうとは全然別のもので自分を牽引する必要が生まれるように思います。例えば、どんな脱線をしてもひとつの記事としてまとめられるはずだと信じてフリーライティングをしてみる、というように。何かを自分の中から取り出すことにもエンジンが必要だからです。
こんなことを考えました。
ちなみにこの記事もアウトラインは作っていません。なので話のゴールは事前には全然わかっていません。書いてみたらこうなった次第です。
コウさんの記事を読まなければ明快に整理されてはいなかったことなので、ご投稿に感謝しています。