ブログを滑らかに書けるようになりたいという話の第十回。過去の記事はブログの書き方ド下手問題からどうぞ。
短文投稿サイトの重用を避けて諸々をブログに書くことにしようと思い始めたのだが(そう思って既に結構経つのだが)、なかなかそうはいかないでいる。
誰かが書いた記事を読んだ時に、「あっ、それわかる」「この文すごくいい」といった感想を持つことがあり、それを何らかの形で表現したいと思うのに、それを表現するのが思いの外難しくていつも困っている。自分の中にエネルギーがワッと湧いた気がするのに何も生まれないのである。
今実際に悩んでいるので、記事を書くことを通じて解決を試みたいと思う。
湧いてきたのがシンプルに「良いと思った」という気持ちだけなら、その記事のコメント欄に書くか、SNSで言及するのが手っ取り早いだろう。そして筆者の目に留まって、筆者もわーいと喜ぶかもしれないし、筆者にキャッチしてもらえたというので自分も嬉しいかもしれない。それで終わっていいことなら、それでいいと思う。
ただ、それだと自分の発信としては蓄積にならない。批評性も創造性もないし、コメント欄に書いてしまったら自分がそこに書いたということすら自分の履歴から離れてしまう。発信したい側の人間としては、どうにか自分の発信として意味のある形にしたい。
選択肢としては二つあるだろう。ひとつは、何かしら膨らませて自分の文章を綴ることだ。今私が目指そうとしているのもこれである。もうひとつは、例えば期間を区切って「今週の気になった記事」というようにパッケージにしてしまうという手だ。記事ひとつあたりにつけるコメントはごく短いとしても、それを複数まとめることで記事として意味を持つ。
あれこれたくさん読むよという人は、ひとつひとつを膨らませるより記事まとめを作ってキュレーターとして発信するのがいいのかもしれない。あれこれたくさん読むということそのものに十分な価値があるわけである。
私の場合はそんなにアンテナを張るタイプではなく、知的好奇心に溢れているたちでもないので、多分そういうのは向いていない。それよりも「あっ、これいい」と感じた時の自分の反応の解像度を上げて文章にした方が自分に合っているだろうと感じる。
そう思うものの捗っていないわけだが、何の苦労もなくするする書ける時も偶にはある。しかし大半は形にならないままになる。元の文章に対するテンションは変わらないような気がするのに、アウトプットには大きな差異が生じる。その違いはどこにあるのかを考えておこうと思う。
文章にできる形でワッと何かが溢れてくる時、それは一言で言えば「自分語り」になるだろうと思う。そもそも表現というのはある種の自分語りなので当たり前と言えば当たり前の話だ。自分の体験にもこんなことがあった、自分もこれまでにそれを考えたことがある、自分の専門分野とここの部分が重なる、自分の中で今こんなイメージが生まれた……といったことである。自分そのものを語るつもりはなくとも、自分を通さなくては自分なりの文章は出てこない。(するする書ける時というのには自分の知見を元に解説を書ける時というのもあるが、今回はそのパターンは除いて考える。)
で、テンションは上がったのにいまいち何も生み出せない時というのは、その対象を十分に自分に引き寄せられていないということなのだろう。漠然と「いい」「すごい」「面白い」と思うに留まり、それが如何に鮮やかな感動であっても、「自分語り」に接続できない以上は言葉になっていかない。
何かを読んでいて、「解釈」が生まれることがある。というか、常に自分の解釈を生みながら読み進めているはずだが、その中でも「これはきっとこういうことなんだ」と強く思うということがある。自分の中では電球がピカーッと光ったような感動がある。じゃあそれが文章になるかというと、案外そうならない。
よく、「これはこういうことなのだと思いました」という感想に終わってしまうことがあるだろうと思う。自分もそこに留まらざるを得ないこともあるし、人の記事のコメント欄やTwitterなんかでもしばしば見かける。そこには「人によってはその部分をそう解釈するらしい」「その部分がその人にとっては印象的だったらしい」という情報は含まれるが、その人の内側にあるはずの属人的な豊かさはほとんど表現されていない。放たれた言葉がその人の深部を通ってきていないから、その人のことが見えてこないのである。
別にそういうコメントが駄目という話をしているのではない。そもそも自分語りは義務でも善行でもないのだから、それ以上膨らませる必要を感じていないのならそれでいいのだ。
ここで言いたいのは、「これはこういうことなんだ」という感動だけでは、その感動の大きさの割に必ずしも表現には結びつかない、という悩みがあることである。人の文章についての咀嚼・解釈に個性はそんなに現れない。読解は筆者が意図する意味合いに迫る試みであって、そこに自分の創造性がやたらと反映されていてもおかしい。やはり咀嚼の次の一歩が必要である。筆者のフィールドの探索の後に自己のフィールドへと帰り、自分のフィールドで何かを芽吹かせることでやっと表現に至るように思う。
するする書ける時はするする自分語りをしているということになるが、そういう時に自分は一体何を書いていることになるのか、というのは思いの外わからないものではないかと思う。自分で書いているのだが、その書いたものが何なのか自分ではっきりしないのだ。個人的なことを言えば、そもそもはっきりしない領域――私という個人に於ける総合的な領域――を書こうとしているというのもその一因であろう(あるいはそれが唯一の原因なのかもしれない)。
しかし、もし自分の表現をコントロールしたいのなら、そう博打的なままでいるわけにはいかない。狙って出力できるようでなければと思う。その手がかりとして、今まで実際に自分が滑らかに書けた時のパターンを分析してみるのは有効な手だろう。
個々人でパターンは異なると思うのでこう書けばよいという話にはならないが、まず私自身について考えてみよう。私が一番饒舌になれるのは、誰かが書いた何かのテーマに関連付けて、自分の人生に実際にあったことを書くことだと思う。「そりゃそう」と思われるかもしれないが、言い換えると「自分の見解」を書くことではないということだ。「そりゃそう」度が少し減ったのではないかと期待するが、自分はこう考える、こう予想する、こう想像する、ということではなく「私の身にもこういうことが実際にあった」という体験を書くことでテーマに寄り添いたいという気持ちがある。そして自分の体験が伴わない想像はおそらくかなり不得手である(ということに今気がついた)。不得手だし多分あんまり興味がない。
しかし誰かの話に「これはこういうことか」と感動した時というのは、そのままその感動を膨らませるならば「自分の見解」を膨らませることになるだろう。それこそ得意なパターンだ、という人はたくさんいるように思うが、私の場合はどうもそこにうまくいかない原因がある。
私が開拓するべき道は二通りありそうだ。ひとつは「なんとしても自分の人生に繋げる」という道、もうひとつは「自分の人生に依存しない語りを身につける」という道だ。いずれにせよどちらも必要だと思うが、後者はかなりのトレーニングが要る気がしている。でも格闘しておかないと私にできる語りはそう遠くないうちに枯渇するおそれがある。
現状、面白いと思ってもらえるものは私自身の解像度を上げることに取り組んだ文章が多いので、前者の自由度を上げるのも私にとっては大事だろうと思う。豊かでユニークな人生経験などというものはないのだが、その代わりに自分の人生をできる限り細かく把握して自在に取り出せるようになりたいと思っている。そういうことにかなり強度の関心があることは確かだ。
他の手として、自分が活発に取り組める範囲で切り口にテーマを設けるという方法もあるだろう。読んだ記事について、例えば「メタファーを考えてみる」とか「川柳にしてみる」とか「似た話を含む本を取り上げる」とか、何でも良いのだがそういうシリーズを勝手に作って取り組むというのはひとつの取っ掛かりになると思う。
自分が得意で強い興味がある領域でないと続けられないのが難しいところだが、そういう何かが自分にあればいくらか面白いことができるだろう。
お読みくださっているみなさんの場合はどうだろうか。